木曜日, 2月 01, 2007

ハイオクガソリンを入れてみて、スカイラインなどが暴走した後、ただようかほりが、オイルの焼けた匂いだと漠然と思っていて、しかも悪くないかほりだとは常日ごろ感じていたが、暖機運転開始直後から、同様なかほりが、漂うことから、ハイオクガソリンの未燃焼成分が原因だと、初めてわかった。

以前のセローではまったく記憶にないことから、やはり1000cc、車並の燃費だけのことはある、と妙な感心をしてしまった。

この前、雨が降った翌日以前バイクでいった志賀坂峠へ行ってみた。そこで、以前の帰りにとおった寄居〜皆野有料道路を間違えて途中でおりてしまい、山中で道に迷ったことがあったので、最初から寄居側から進入してみたら、好天のせいもあり、思いのほかの景色に出会えた。

あのsho様のレポートに出てくるつり橋に似た橋も、秩父市内で同日撮影。さらに奥のダム造成地付近には、眼の回るようなカーブを伴う高架橋があるが、今回は行けなかった。

昔は、そのあたりは、一部有料の林道があって、路線バスもトンネルを通過するために屋根の角を落とした、正面からみると5角形だったこともあるというような難所もあったそうだ。今は彩甲斐街道などといって、山梨県とつながり、大滝村なども秩父市となって、往時の話は記憶から薄れつつあるようだ。

旧大滝村などは、江戸時代にはあの平賀源内が秩父山中で石綿を発見し、明和元年(1764年)にこれを布にしたものを中国にならい火浣布と名付けて幕府に献上したといわれていたが、滞在記録があるそうだ。 この源内の火浣布は京都大学の図書館に保存されている。日本では竹取物語に登場する、火にくべても燃えない「火鼠の皮衣」も、当時そういうものが実在したとすれば、正体はこの石綿であったろうと言われている。

まだ、140号を通って甲府までは行ったことはないが、いずれ体験してみたい。秩父は峠で囲まれていて、あの秩父事件の際には、峠同士の連絡道が蜂起グループのネットワークに活用されたという。事件の遠因も、秩父の絹織物を、東北線へ運び出すルート開削のための地元への負担が増加したことも原因の一つといわれている。そうして苦労したいまの本庄児玉へのルートも、長瀞の難所に秩父鉄道が開通されたことで急速に廃れた。しかし、江戸時代に十辺舎一九が滞在した三峰神社などは、昔からかなりにぎわい、米などの生活物資は長野県側から峠を越えて運ばれていた、という。

本来の峠道は廃道になってしまって、解りづらいものが多いらしいが、車で通れる道はキャンプ場があったり、未舗装路もあって、飛ばすだけではない楽しみ方が、たくさんあるようだ。

和銅の時代から、もっとそれ以前、皆野ー寄居有料道路建設でも、遺跡が出て、工事中断など
したらしいが、ゆったりとした歴史の流れの中にある「海無し県、彩の国」の山の部を代表するエリアであり、歴史同様奥が深い山里がたくさんあるようだ。江戸から近い霊場としても、
根強い信仰の対象とされたことも、いろいろと人文的理由があると感じている。

秩父おまかせマップ
秩父の観光ガイドおまかせサイト
http:www.bsmap.jp/

1 件のコメント:

nature さんのコメント...

こんばんわ、
毎度オオキニ、感謝カムサ!sho様、ほんとうはSho様と書かなくてはいけないのかも。
今のところ、仕事が忙しく、また今度の日曜は、都内の講演会にも会費2000円の講義を聴きに良く予定で、燃費レポートは週開けになりそうです。

雪がふりそうもないので、また今度のツーリングレポート、楽しみです。ご無理をなされないように、マイペースが最善かもしれませんね。あんまりグループツーリングは向いていないほうの人間かもしれません、私めは!