土曜日, 6月 04, 2011

宮崎正弘の国際ニュース・早読み(張作霖爆殺事件、やはり河本は真犯人ではなかった)
が今届いた。一読して再掲を決めた。
以下はその中味である。4:42着信である。

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
       平成23年(2011)6月4日(土曜日)
         通巻第3340号   
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 カナダ上場の「チャイナ・フォレスト」{シナ森林資源企業}暴落
   最大出資者は「ポールソン・ファンド」だった
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 カナダの森林資源開発のベンチャー「シノ・フォーレスト」なる企業はカナダで上場している。
3日、当該企業の株価が暴落を演じた。

 英紙「フィナンシャルタイムズ」(6月4日付け)によれば、最大の出資者は「ポールソン財団」という。
 現時点で確証はとれていないが、おそらくポールソン前米国財務長官。元ゴールドマンサックスCEOが率いる投機ファンドだろう。
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  ◎書評 ブックレビュー しょひょう BOOKREVIEW 書評◎
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河本大作は利用されたのであり、背後にはコミンテルンの謀略
 張学良は父親殺しがばれないよう爆破実行犯を闇に葬っていた

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加藤康男『謎解き 張作霖爆殺事件』(PHP新書)
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 待望された本がでた。
 張作霖暗殺の真犯人は誰か? ミステリー仕立ての歴史クイズのような題名だが、中身は資料の検証と徹底研究。この著作の出現で張作霖暗殺のこれまでの解釈が大きな間違いであることを読書人は知らされる。
 とくに『歴史探偵』を自称する無知暴走の半藤一利とか、ミクロにこだわって大局観のない秦某、保坂某らはグーの音も出なくなるだろう。いや、かれらはこの本を無視して黙(だんま)りを決め込むだろう。
 それほど決定的なのである。
 河本大作が張作霖爆殺の『真犯人』というのは、本人が拡声器のように吹聴し、手柄にしたからで、戦後もそれが一人歩きした。事件後、河本はひそかに英雄視され、軍法会議にもかけられず、遺族も信じ切った。かつ河本は山西省に石炭企業の幹部として戦後も居残り、ついにはシナの捕虜となったが東京裁判への出廷はなかった。供述調書には曖昧な点が多く、また矛盾しているため連合国側もまずい、と判断したからだろう。
 戦後しばらくして『文藝春秋』に掲載された河本の手記なるものは、本人がしゃべったとされるシロモノ、信憑性に問題がある。
 従来の「定説」を革命的に突き破ったのはユン・チアンの『マオ』(講談社)だった。
あれはソ連がやったと断定したのだ。
突破口となったのは冷戦終焉とともにソ連が崩壊し、飛び出したKGBの秘密書類だった。
すなわち張作霖爆殺はコミンテルンの謀略の一環であり『日本軍の犯行に見せかける』様々な偽装工作と政治宣伝とが、同時に仕組まれていた。
 その謀略に踊らされたのが河本一派であり、さらに言えば河本の仕業と誤認した関東軍であり、いや、もうひとりコミンテルンに結局は手の上で踊りをすることになった張学良である。

 黄文雄さんがおもしろい指摘をしている。
「中国の歴代皇帝206人のうち、じつに63人が親兄弟従兄弟縁戚によって殺されている。だから張作霖という中国東北地方の『皇帝』が謀殺されたと聞けば、真っ先に疑うのは家族身内眷属であり、したがって張学良が一番怪しいのです」。

 本書は、その張学良への疑惑が基調となっている。断定はしていないが読後感では強く、この独裁者の息子の存在、前後の不振な行動に大きな疑惑が残るのである。
 ざっとおさらいをしておこう。
 瀋陽駅の手前一キロの地点、満鉄と交差する要衝で、張作霖の乗った特別列車は爆破され、貴賓室、食堂車装備の車両の天井が大破したが、河本らがしかけたと主張する線路脇の壁であるとすれば、レール路に大穴があいたはずである。
残された現場写真は、無惨に天井が吹き飛んだ張作霖の乗った列車がさらされているが、レール路に穴はあいておらず、ちょうど満鉄とクロスする満鉄側のレールが下へおちている。
 だから現場を精密に観察し、見取り図をのこした日本領事館の内田五郎領事は次の報告書をまとめていた。
「爆薬は橋上地下または地面に装置したものとは思われず、結局爆薬は第八十号展望車後方部ないし食堂車前部付近の車内上部か、または橋脚と石崖との間の空隙箇所に装置せるものと認めたり」(昭和三年六月二十一日付け)。
 
つまり、河本らの仕掛けた爆弾は破壊力が散漫で、かつ誘発爆発だった可能性がある、と著者は示唆する。
しかも列車は意図的に速度10キロに落とされていた。
このことを当時の日本領事館が克明に報告書にしていた。にもかかわらず半藤某、秦某、保坂某は、この「都合の悪い歴史的資料」を一切無視した。
 本書の強みはロシア語からの新資料、ブルガリア語の書籍による傍証に加えて、もう一点の決定打がある。
それは加藤氏がロンドンのアーカイブへ一週間かよいつめ、ついに見つけ出した資料だ。MI6が日本側の分析した資料を入手していたのだが、現場地図解説の資料の発見により、河本単独説は潰える。
 関東軍の犯行説は『コミンテルンにうまく利用されて犯人に仕立て上げられた』のであり、真犯人は蒋介石のエージェント、ソ連、そして張学良に絞り込まれるが、事件から半年後、張学良は(犯行を実践した疑いが最も濃厚な)楊宇挺と、常蔭塊のふたりを「新年会だ。麻雀をしよう」と偽って呼び出し、「反乱容疑」をでっち上げて暗殺した。その秘密保全のための事後処理ぶりからも、もっとも疑わしいことが分かる。
 こうして疑惑の張作霖爆殺の真相は、事件から83年目に露呈した

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