マクシム・コロミーエツ氏が書いた「ノモンハン戦車戦」という本の邦訳がアマゾンから届いた。題名のとおり、戦車戦を中心にまとめてあり、最終的には勝った、という立場だと断っており、大敗したとされる航空戦についてはノータッチ。最終的というのも、その頃日本戦車はもう引き上げていたのだよ。
なぜ、この戦いが起きたかという点もあいまいにし、満蒙国境が曖昧なこと、双方が話し合いを望まなかったことだと総括しているのみである。
邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、勝った、という側面を強調したいがための国力の誇示に見えるが、同規模で戦えば、間違いなくロシア側の負けだろう。
終戦まじか、北方の島を攻撃してきたソ連軍は、守備隊兵力を3000名と見込んで上陸したそうだが、日本側は御聖断を知り、たいして戦わずむかえたらしいが、後で三万名近い兵力がいたと知り、ソ連側は真っ青になったという。もとろん、それがなければ、追い返せたという。臆病な北のクマは、最低でも3倍以上の兵力がないと、自発的行動をとらないともいわれている。
ただ、停戦協定後、すぐさま西部戦線へ振り向けられた航空機は、「瑠璃の翼」によると航空機3000機前後と記述があったので、ノモンハン戦での損失を日本側は、1600機ほどと見積もった値とオーダー的には一致してくる。日本のサイトでは、明らかに過大な数字で、撃墜数がそんなに大きいはずがない、という書き込みもあるが、・・・。日米開戦後、ようやく安心して、兵力を西に回したらしい。
佐貫亦男博士が、ドイツから日本へ帰るとき、潜水艦経由だと生存確率25%だというので、シベリア鉄道経由で帰国したとき、西へ西へと戦車や兵員を満載した列車と何度もすれ違ったというが、あの時は、対独戦向けだとは知らなかったと書かれているが、私には疑問に思っている。
ノモンハンの撃墜王は三カ月で敵機58機を撃墜したという、栃木出身の篠原准尉。三カ月でこれだけという数は、まだ世界中で破られていない記録で、二十機以上という猛者もごろごろいたという。相手は、日本側兵力を少ないのを見抜き、夜間大音響のスピーカで、パイロットの安眠を妨げる戦術を使ったりしたという。しかも、鈍重な布張りだったり、複葉だったりという敵機だったらしい。
篠原准尉を撃墜した敵機は日ごろよく研究し、篠原機専門の狙撃機が後半登場したと、瑠璃の空には書かれている。軍医の所見として、尾翼が折れて墜落したとの話もある。篠原准尉の霊は、実家で無事を祈る母前にも現れて、戦死を伝えたという。
「ノモンハン事件の真相と成果」2002年では、国境線を勝手にハルハ河東岸に移し、日本側が国境侵犯をしているとして大軍を動かしたのが、スターリンの指令によるものとしている。この手口は、傀儡政権に梃子入れをする常套手段だったとも。張鼓峰事件も、尾崎ーゾルゲからの連絡による日本側の侵犯意志が無いことを確かめるための行動で、日本兵士の損害増加も尾崎らのスパイ行為にあった、と明確。
そして、双方の損害として以下の数字が上げられる。
兵員損害数: 日本 17405名、ソ連 25655名
航空機損害数: 日本 未帰還77機、大破 102機。 ソ連 1673機(うち、高射砲で180機、戦車で26機、歩兵が3機)となっている。戦車損害数は、日本が29両、ソ連が800両以上となっている。ソ連戦車の最大の敵は、日本軍の37ミリカノン砲だと、ロシア側も写真入りで説明している。最近羽田の工事現場で見つかったような高射砲も20ミリだが、対戦車用に使用されたと写真入りでロシア側が解説。
あと、ソ連は捕虜交換で帰国した兵士は全員処刑されたという。
多分現在も草原に残っている(裏表紙写真は平成12年)破壊された戦車や装甲車はすべてソ連製だという。あちらの表紙の戦車は捕獲された日本製で、たぶんこれがソ連の新聞にものったのだろう、日本でも問題になったそうだ。それ以外は日本が回収した。あちらの本にも破壊された日本戦車とあるが、破壊されたものを分解整備中の写真で、日本側の資料や、アルビン・クック氏の著作などもかなり使用。さすがに、半藤氏のはないようだ、^^;)。
http://tomomodel.blog1.fc2.com/blog-entry-452.html
徒然なるままにだよね、、、というサイトでは、「今日の読書、とんでも本」として、この日本側の書籍を上げている。自ら、左側の人間ですが、と断り書きが、。。。簡単に言うと、日本側が勝利した、といっているんですと。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/botu.html
一方、「日本海新聞(鳥取)ボツ投稿」では、載らなかったものをいくつかまとめて掲載してある。日本海新聞は、特定の側に立つ記事や意見しか載らない新聞に飽き飽きして、この新聞にした、というコメントが。
それでもボツになったものに、ノモンハン事件の真相と、ノモンハン事件の勝敗とが、まっさきに挙げられている。ノモンハン事件の真実という記事が載ったので、それに対する反論だそうだ。
秦郁彦教授は、実態は引き分けに近かったようですとしているという判断をあげ、双方が領有権を主張した地域を北半分がソ連、南半分を日本が確保したことを理由に、秦氏の判断が常識的な解釈だろうと、している。日本海新聞でさえ、そうではない記事がでたのだろう。
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「ノモンハン事件の勝敗」も、ノモンハン事件の真実としてのった(昨年3月29日らしい)記事への反論である。
画定した国境線である。新聞への投書記事では、「ソ連側主張の国境線まで押し出されて停戦した」とあるらしい。しかし、モンゴルでは500平方キロを失ったと悔しがる。この国境線は、停戦間際の9月8日から11日にかけて宮崎連隊や深野大隊などが激戦の末、ハルハ河近くの997高地やハルハ山を占領した成果なのだ。
9月5日から、モスクワで始まった東郷大使とモロトフ外相との会談で、モロトフのほうから停戦を持ちかけてきた。
・・・戦争が長引けば、ソ連に不利だからだ、とある。
(関東軍は、とむらい合戦として、ソ連側のつかんだ情報では、10個師団、実際には14個師団を用意して報復をけいかくしたらしい。ソ連は寄せ集めの小松原師団でもこのありさまで、凍りついたらしい。それで、ドイツを仲介して、独ソ不可侵条約までちらつかせ、日本側との停戦を仲介依頼した。日本の内閣は、停戦交渉を、関東軍には秘密にした。知ったら、ぜったい関東軍は応じなかっただろう、と言われている。停戦成立後、二日目には西への侵略に移行した。)
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ソ連軍は、負傷者が約16000名で日本軍の二倍、航空機や戦車は10倍ほども多く失った。”ノモンハン負け組”の作家・半藤一利氏ですら、今では、戦闘そのものは互角だった、と認めている、と。(どこが互角なんですかね。)
このブログの著者は引き分けと判定している、という立場らしい。福井雄三教授が、さいきん『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』で、日本軍の勝利だった、と書いていることを引用し、負けの証拠を大勢の歴史学者に示してもらいたいというようなことを書かれている。
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http://d.hatena.ne,jp/Apeman/20070512/p1
Apes!Not Monkeys!はてな別館では、戦争犯罪に関する話題に特化した別館です、とあるが
「大研究 昭和の陸軍 なぜ国家を破滅させたのか」を俎上にあげている。文芸春秋の6月号らしい。
その中に、最近はノモンハン事件に関して、「日本は負けていない」と言い出すひとも現れているので、情けなく思っていたのだが、ちゃんと釘が刺されている、とあり、例によって半藤氏の意見が載せてある。
「戦争というものは、殺した相手の数を競うものではなく、どちらが目的を達成したかによって勝敗がきまるわけです。ノモンハン事件はソ満国境の策定をめぐって争い、ソ連の主張したように通りに国境が定まった。このことを理解しないといけません。」
などと言っているらしい。 おい、おい、いいのか、そんなに自説に都合の良い解釈を固執して、・・・。
ま、しかし、自虐史観以前の精神的荒廃だね。もちろん、靖国参拝反対派です、半藤氏は。それに保坂正康氏も、・・・。
いまはどうかしらないが、防衛庁、おっと、失礼、防衛省戦史でも、ノモンハンは大敗だと教えていたらしいから、戦後精神はここに極まれり、といいたい。
ノーベル賞受賞者のドイツ人、オットー・ワールブルグは、当時のがん研究の傾向に関する論争で、こう書いた。
『学問上の新しい真理は、反対者を納得させ、降参と認めさせるような方法では達成しえないものである。そうではなくむしろ、反対者がだんだん死んで行って次に育つ世代が当初からその真理に慣れ親しんでいるような場合が多い。』
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これは、マックス・プランクの発言が元らしい。
吉川英治氏らとともに文化勲章を受章した数学者の岡潔博士は、特攻精神を見て、民族の地金は金です、と戦後書き、中国人の指摘として、日本民族の真の再生は、一世紀を要するだろうと指摘している、と紹介し教育が大事だとさかんに講演して回られた。
今時の若者は、祖国ソビエトなどと言っているのがいる、とは忘れられない博士の言葉のひとつである。
月曜日, 6月 11, 2007
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