水曜日, 6月 06, 2007
ノモンハン事件は、最近急速に見直しがすすんでいるが、まだ、新刊書の中には、旧態依然とした書名のみ
が変わったような記述内容の本も多い。それほど、戦前から戦後、ノモンハンといえば日本軍の無謀さと悲惨な消耗戦で、ソ連軍に大敗した戦い、と刷り込まれている。
サンケイ新聞の正論談話室に投稿するリー将軍という方の歴史認識も、68歳というお年からすれば当然なのだが、同様な論調で論議している。さらに戦車兵だったという、司馬遼太郎の、戦前の日本を狂気が支配していたとする基本認識がいたるところに顔をだす著作や講演なども、まず間違いなくそういうコンセンサスを広めるシンナーのような役割を果たしたことだろう。かく申す筆者も、週間朝日などでの司馬遼太郎の講演録などをみて、それをコピーして何度も読んだ。だめな日本軍、負けて当然の日本軍、断罪されるべき日本軍等々。私が私淑する九大名誉教授、梶原先生の数学関連著作でも、ノモンハンにふれて、コラム記事として、このような記述が・・・。日本軍の戦車の大砲は命中率は高いが当たっても跳ね返された。ソ連の戦車の大砲はなかなか当たらないが、当たったら最後、木っ端微塵に粉砕した。日本軍戦車隊長は、精神に異常を来した、と伝えられる。記憶を頼りに書いたので、厳密にはいっちしないかもしれないが、だいたいそんな感じ。
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そんな状態でいたのだが、こういう本がでて、いままでの話しは、あるシナリオにそった、あるいは迎合した拡大解釈された話しではないのかと思う記述で満載なのが、この両名が2002年7月に書いたこの本で、一読して目から鱗ということばで表現しても足らないほどの衝撃と感動を覚えた。また、前後して「瑠璃の翼」という小説スタイルながら、参戦者の御遺族が脱サラして書いた本も出て、記述内容でも、矛盾はないと思えた。まだ、ソ連側資料の公開が序の口で、それでこれだけのソ連側の大消耗戦だったのだと解った。
瑠璃の翼では、こんな記述も。
「日々の戦況報告より、それとともにかならず何件か上がってくる別種の報告のほうが、よりジューコフの苛立ちをかきたてた。軍の士気についての報告である。後送を狙って銃やナイフで自分を傷つける者、日本兵との白兵戦を恐れて陣地や戦車を捨てて逃亡するもの、指揮官が日本のスパイだとデマまで流して暴動を起こした連隊さえあった。すでに新たな増援を要請しているが、その到着までは、なんとしても今の兵力で(ハルハ川)東岸の日本軍を阻止するしかなかった。・・・実は、関東軍司令部がさしたる成功と考えていなかった7月の西岸進攻と、いま続いているじれったい夜襲攻撃こそが、ソ連側にとっての最大の危機だったのである。」
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その結果、ジューコフ将軍は、ライフルで自分の手足を打ち抜き、この草の生えた地獄から逃げ出そうとした若い兵士ふたりについては、全財産没収のうえ、銃殺の決定を下した。その書類には「この軽蔑すべき憶病者、祖国の裏切り者に対して、・・・兵士諸君に勇気と大胆さをもち、英雄的行為を行うよう告げる。軽蔑すべき憶病者、裏切り者に死を!。わが偉大なる労農赤軍兵士達、万歳。この命令はすべて末端の兵士まで届くようにすべし。」
学者であられる梶原先生も、最近の発表をごらんになられたようで、どうもノモンハンの記述は・・・と賀状の中にわざわざ断りが入っていた。しかし、大半は無視、無言で『ノモンハンの夏』でも最後にちょこっと触れただけで、根本的見直しなどについては触れられていない。
ソ連時代、東独の一センチに対して、ロシア側は10センチだったという。何の事かといえば、個人情報ファイルの厚さのことで、これがまだ、ほとんどでてこない状態で、エリツィン時代になってようやくすこしずつでてきた。その結果、死傷者数は、ロシア側のほうが多い。数倍の戦力であっても。しかも、ソ連側の意図が見抜けなかった関東軍は、虎の子の戦車と砲兵部隊を途中から撤退させた。破壊された戦車もすべて、貴重な物資として、引いて帰ったという。その後のソ連側の増援による総攻撃で、いわゆる大敗を食らったようだが、ジューコフは戦後、ミシガン大の研究グループに対して、いちばん苦しい戦いは、とスターリングラードあたりを想定した質問に対して、ハルハと答え、質問者らを仰天させたらしい。情報公開をちゃんとやれば、もっとあちらの損害は大きくなるという。
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このブログを書くにあたって、もういちど関連本を調べたら、ソ連側からも最近ノモンハンの記録本らしいものが出たので、さっそく注文した。いずれまた読後報告したい。題名のハルヒン・ゴルとは、ノモンハン地区のことだろう。ハルハの岸辺などとしたら、血なまぐさいニュアンスは消えてしまうが。
『もしも、日本軍の飛行機がシベリア鉄道の駅を一つか二つ爆撃していたら、モンゴルの私たちの軍隊には燃料も武器弾薬も無くなっていたろう。バイカル・アムール幹線鉄道の建設に、どれだけ大きな軍事的意味があったかを指摘しておきたい。・・・
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しかし、ジューコフ将軍率いる第一軍司令部の行動は満足できるものではなかった。より正確にいえば、私たちが日本人に勝ったのは兵力と武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力で勝利したのではない。「楽勝だと大言を吐いた」がゆえに全く正当化されない巨大な損失が生じたのだ。』
これは、平成16年9月2日のサンケイに載った、故ノボブラネツ大佐の手記で、この手記はロシアの歴史専門雑誌「戦史公文書第5巻」にのったものの訳文の一部。ジューコフ将軍が報告書を隠ぺいし、戦史を大きくねじまげたとも批判しているともいう。
ハルハのスターリンと陰でいわれたジューコフ、兵士の命をなんとも思わなかった将軍なので、老後の評判というか人気もよくなく、本人は気にしていた、というがそれは当然の結果だった。どこかの国もそうだが、大嘘を平気でつくし、文書化するので、富士通の山本会長は、講演会で、悪友ばかりに取り巻かれた日本は、心してかからねばならないというような意味の事を話された。ロシア側は当時の戦車の性能を二倍以上水増して公表していた、という。戦後、みなそれを信じて、結果から判断して、日本軍の大敗を責めたようにも思うのだが。
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ソ連側の戦車や装甲車は、ブスブスと穴が無数に開いている実写写真がのっているが、信管が作動しないくらい薄い装甲が多かったらしい。
戦場で捕獲したソ連軍のマキシム水冷機関銃の列が写っているが、戦場では砂を噛むので、絨毯をひいてその上で使用したらしい。もちろん、兵士達はまとめて逃げたのだろう。当時、銃剣をソ連側はもっておらず、兵士達は反乱を恐れて、弾丸は渡されておらず、味方の戦車がやられると皆逃げたという。戦車からも監視されていた。しかもその戦車も、砲塔に南京錠で施錠したり、内部で鎖につながれていたというから、何とも当時の士気を想像しがたい。あまり逃げると、火炎放射器で焼かれたというから、文字通り、兵士の生命を何とも思っていなかったのだろう。銃剣に追われた大男達は泣きながら逃げたという。戦後の統制下でも、大男というとアメリカ兵の犯罪報道に使われた言葉だ。
無事逃げて、火炎放射器で焼かれなかった兵士は、結果を仲間に伝えたとしたら、士気粗相するのは目に見えている。モンゴルをソ連植民地にするために、親日的なモンゴル人民を虐殺した割合は実に人口17人に一人という所まで行ったという。
『戦後の作家たちはソ連が大損害を受けたことと、ソ連のコミンテルン設置に始まる世界赤化第一歩である外蒙侵略を隠ぺいするため、故意に日本軍の損失や状況の悲惨さを強調し、日本軍部の侵略主義とした。そして、ソ連側の誇張した記録をそのまま引用して日本の惨敗としたが、損害はソ連軍のほうが甚大であった。
当時、日本軍は外蒙軍の侵犯と考え、ソ連軍が出てくるとは考えていなかったから、一個師団で様子を見て、国境(ハルハ川)外へ追えばよいと考えたのは、平和主義を示すものであり、妥当な思考である。ソ連軍が出てくる異常さを追求する必要がある』、と筆者らは冒頭に書いている。
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2 件のコメント:
私の祖父はノモンハンの戦いに出ておりました。
私はノモンハン事件について全く無知なのですが、
祖父が残したメモ書きなどを読んで、ノモンハンが
大変な戦いだったことを知りました。
こちらの記事も大変勉強になりました。
とろ様へ、
コメントありがとうございます。
メモ類が残されておられるのは、すごいことで、もし、内地でお亡くなりになられていたのなら、取材対象になられたこともあるかと、・・・・。
ソ連側が、装備は誇大広告、戦果は兵力比の逆数のような発表をしていたため、長い間日本軍の無謀な戦いの結果としての惨敗のモデルケースのような取り扱いを受けてきました。
いまだに左翼は、戦後の司馬史観のままのようですが、すんでしまったこととして見過ごすことは、日本人としてもまた、歴史のためにも良くないことと考えています。
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