火曜日, 6月 19, 2007



そして「文科大学(東大文学部)へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にする前に、まずフォン・ケ−ベルと答えるだろう」(夏目漱石全集第八巻)というような事態が生ずるにいたったのである。(渡部昇一、知的生活の方法)

御雇外国人教授の、東大文学部の前身の第一号が、このケーベル先生。写真は、昭和13年ごろの岩波文庫版から借用した。当時の学生の無邪気で、無知な点をいろいろ記録している。ゾルゲもそうだったが、この先生も熱いご飯にマグロの刺し身は好物であったという。二人とも、ロシア系ドイツ人ということになろうか。独身で過ごされ、帰国を前に他界された。日本人の虚栄心の高さを問題視している。古いタイプの日本人を評価し、洋風の、当時のインテリ風の中身の無さを
嘆いている。

渡部教授は、江戸時代の学問は、修養の意味があって、日々本を読み、考え知識を単に吸収するというよりは、日々古典的文献を精読し、作詞・作文し、自己の生活の形態を、心の中からしだいに外形におよぶところまで徐々に形成していったのである、と指摘している。そういう修養を積んだ人士を、先生は、言葉は通じなくても好まれ評価された。

この先生の後、ラフカディオ・ハーンが担当し、三人目がロンドン帰りの夏目漱石だった。学生達は、外人ではないので、がっかりして、なんだ日本人か!?と聞こえるようにつぶやいたとか。いきおい、初期の漱石の授業は、学生達に厳しく臨む態度であったようだが、やがて厭になり、博士号なんかいらないとして、辞めてしまい、文筆活動に入る。



秦教授が、旧制高校の青春像を中心に、その博識をいかして一冊の本をかかれた。渡部教授と、秦教授は、南京事件の犠牲者数をめぐって、それぞれの著作で激しいバトルを演じておられるのだが、その紹介はまた後日。どちらの先生も、旧制高校時代の古き良き青春を愛されておられるように、私は感じているし、私自身、寮歌なども大好きだ。

それでは、秦教授の博識から少しお借りしてみよう。

「後から思えば、「鳴呼玉杯」の登場は明治の青年たちにとって一種の思想的分水
嶺だったのかもしれない。楠と藤村がともに一高キャンパスにいたのは明治三十
五年九月から翌年三月までの半年にすぎない。そして楠は静かに消えたが、二カ
月後の三十六年五月に起きた藤村操の自殺は天下を聳動した。」




楠とは、「鳴呼玉杯」の作曲者で、三浦環に恋して振られ、一高を退学し、北海
道で農林技官かなにかをして静かに死んでいった人物像らしい。


夏目漱石は、「英国留学から帰ってきたばかりの新任講師たったが 最初の授業で藤村操に
テキストの訳読を命じた。ところが「やっていません」「どうしてだ」「やりた くないか
らです」とやりとりする一幕となる。しかも次の授業で再度指名すると、次はやってこいと叱られ
ていたのに、藤村はまたも予習してこなかったので、短気な軟石は「勉強する気がないなら、
もう出てこなくてよい」と申し渡す。それは自殺決行の二日前だったという。」




「自殺のニュースを聞いて漱石が原因は自分の叱責のせいではあるまいかと悩んだのもむりか
らぬ。この間の事情を調べた宮坂広作氏は、事件の印象はのちのちまで軟石の胸中から消えな
かったと結論している。」

漱石先生は、真面目な良心的な先生だったんですね。

「教師が「優等生」の枠を外れた生徒に冷たくなってもやむをえない面はあるが同
世代友人たちは心情はおのずから別であろう。別に冷たくしたわけでもなかろうに。」

「井上哲次郎博士(東大の哲学科教授)が「巌頭之感」の一句に触れ「ホレーショの哲学など
は哲学史上にも価値のない哲学であって・・・」と評したことに、友人の安倍能成は「ハムレッ
卜の煩悶が友人ホレ-ショの空なる哲学的談議によって救われる由もないことを知って、この
言を成したもので、(評は)全くの的外れ」「君は偽れる世の人に真なれとの警告を与えんとす
る使命を果すべく、生まれ、死んだ」(安倍『我が生ひ立ち』1966)と反発した。

友人たちの目には藤村は最後まで「性快活、よく談じ、よく興ず。スポーツマンでもある無
邪気な秀才」に映っていたようである。教師と生徒の視線の差からくる落差は埋めようがない
のかもしれない。
ともあれ、彼の「哲学的自死」は日露戦争の時代であるにもかかわらず,国家の要請よりも
自我の主張を重しとする風潮を呼びさました。一高を終えると東京帝大,少しおくれて京都帝
大の哲学科へ進学する生徒がふえ、哲学は旧制高校文化の中軸的位置を占めるようになる。藤村と同じ世代からは石原謙、阿部次郎、田辺元、魚住影雄、安倍能成、高橋里美,岩波茂雄のような人材が輩出する。」

文化と関わりの深い夏目漱石の文学に少し触れてみたい。




減石も愛した高校生活

 「藤村操の死をめぐって、教師の菊池寿人と夏目漱石が似たような体験を持った
ことはすでに
書いた通りだが、一高の同期生だったのに二人の仲は良い方ではなかったらしい。
 菊池は一高に教鞭をとること三十数年、教授、教頭、校長を歴任、独身の生涯
を母校に献げ
た有徳の人だったが、漱石とは肌合いがちがった。二人が同僚だったのは、明治
三十六年四月から四年ばかり、漱石は一高兼東京帝人英文科の講師という身分
だった。留学前に五高の教授、教頭心得までやったのに、一高で教授になれな
かったのは、帰朝と同時に五高を辞めてしまったわがままのゆえか。
 宋冒的に東京帝大英文科の卒業生第一号だった漱石としては、その教授職のほ
うを本命と考えていたのだろうが、前任者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の
文学的講義が人気を博し、
留任運動まで起きたのに対し、英語学を重んじ格式ばった漱石の授業は学生には
好評とは言いがたかったようである。その反動もあってか、彼は大学を嫌い高等
学校の空気を愛した。就職から間もない三十六年六月十四日には、親友の菅光雄
に宛て「高等学校ハスキダ。大学ハヤメル積リダ」と書き送っている。」
   


「藤村操が日光華厳滝の崖上から投身する直前、楢の大木の幹を削って墨書した「巌頑
之感」の全文を次ぎに掲げよう。

『悠々たるかな天壌、喨々たるかな古今
五尺の小躯をもって此の大をはからむとす。

ホレーショーの哲学訖になんらのオーソリチィーを有するものぞ、
万有の真相は唯だ一言にして悉くす。日 く「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。

始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。』



少年が書いたものとしては格調の高い見事な文章だが、恵まれた家庭に育ち、最
年少で一高入学を果した前途洋々の青年かなぜ死を択んだのか、友人たちも世間
も当惑したにちがいない。

さまざまば聴測が飛びかった。東京朝日新聞は「深く哲理の研究を好みて熱心の
余り不可能の原理考究に煩悶し遂に一種の厭世家となり・・・・」と報じ、「万
朝報」(よろずちょうほう)は、黒岩涙香社長みずからが筆をとって「少年哲学
者を弔す --彼は時代に殉じたのだ」と大けさに讃美し、高山樗牛も「ニーチェ
の創造的芸術に通じる」と述べ同調した。

このあたりで「本邦最初の哲学的自死」というイメージが固定したらし く、華
厳の滝壷に身を投じる学生や青年の後追い自殺が続発した。1説には200人近くに
達したという。何しろ漱石の『吾輩は猫である』(1905〜1906)に「打ちゃって置
くと華厳滝から飛び込むかもしれないとか、あの様子じゃ華厳の滝に出かけます
よと出てくるくらいだから。

そうなると、当然のことだが批判の声も出てくる。一高当局は公式反応を見せな
かったが国文担当の菊池教授は、藤村の教室での態度、成績が悪く、図書館で読
んだ本を調べてみたが、まじめなる哲学書などは更になく、大方は軽浮なる文学
美学の書のみで、課題の文章もこましゃくれたる嫌味の言多く幼稚と決めつけて
いる。名文とされた「厳頭の感」の前半は某文学雑誌に出たものそのままだとい
う噂もある、と日記に書いた。

教育者の立場からすると、藤村の死が美談、流行になっては困るとの思いもあっ
たろうが、
「彼は病的早熟なり 」、「神経衰弱なるべし」、「文学中毒」と断じるのは、
いささか酷にすきよう。」と述べておられる。

まさに、自殺の原因は、「遺書」となった「巌頑之感」にあるとおり、不可解ではあるが、青年の美学願望
が亢進した結果ではなかったろうか。私も、若い頃、この自殺事件を聞いて衝撃を受けたひとりである。


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