日曜日, 7月 24, 2011

宮崎正弘の国際ニュース・早読み(はやくも中国新幹線の頓挫)

と題して、今朝6:02分着信。パソコントラブルで起動作業に追われていて、ようやく復旧。急遽、皆さんにアップさせていただきます。宮崎先生の中国での同一路線の実車体験コメントも
予測と現実との乖離が少ない先生の視点に驚かされます!!!。

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
      平成23年(2011)7月24日(日曜日)
          通巻第3375号
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 ついに起きた中国新幹線、大事故。浙江省温州付近の鉄橋から落下
  死傷者多数。「世界一安全」って豪語した直後、この事故が持つ意味は?
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 2011年7月23日午後八時半ごろ、浙江省温州から福建省福州へ向かっていた「和諧号」(いわゆる中国新幹線)が豪雨と落雷の中、先行する列車に追突。高架橋から列車が30メートルほど下へ落下して多数の死傷者がでた。

 報道に依れば、落下した列車はD3155.杭州発福州行き。
 手元の中国鉄道時刻表で調べたら、D3115は杭州を1640に発車、福建省の福州南着が2145となっている。
 筆者はこの列車に乗った記憶があるので(それも今年の3月ごろ)、保管してある切符を調べた。
 
 筆者の乗ったのは3月9日、杭州を午前7時2分にでたD5587で、一度、温州で降りた。温州で取材後、つぎに温州南発14時57分のD3107に乗っていたことが分かった。
時刻こそは違うとはいえ、同じルート。身震いがする。

 中国新幹線はチケットの種類で時速が異なり、北京―上海間の超特急新幹線は{G}で示される。また城際新幹線というのは短距離を疾駆する新幹線で(C)で表示される(たとえば北京―天津)。
 事故を起こした新幹線は{D}で示されているように「動車」を意味する。一般的には従来線のレールに時速250キロ前後の車両を奔らせる区間も多い。こんかいの事故の列車は新しく敷設したルートと推測される。

 しかし予測されたとはいえ、はやくも中国新幹線の頓挫を示唆している。安全を無視したスピード第一主義と手抜き工事。地盤改良工事をそこそこにしての繰り上げ開業、インフラの未整備。まるで中国経済のいびつな構造そのものを新幹線事故は象徴してはいまいか。
 
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 頼昌星、カナダから送還。裁判にはカナダから外交官の傍聴を認めるが
  この裁判は国家機密に属するとして非公開の可能性、判決は死刑が有力視
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 ヘラルドトリビューン(7月23日付け)によれば、カナダから北京へ強制送還される頼昌星は、拷問も死刑もないという中国側の約束はすぐに反故にされるだろうとする弁護士の見通しを伝えた。

 頼の弁護士であるマタス氏によれば「彼の弟と経理担当者は、中国の監獄で謎の死を遂げ、今日に至るまで説明がなされていない」。
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  読者の声 どくしゃのこえ DOKUSHANOKOE 読者の声
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(読者の声1)中国版新幹線の事故、情報が錯綜しているようです。2両が脱線転落と書かれた記事がほとんどですが、写真を見る限り横倒しが数両、高架橋と地面に垂直の1両、さらに先頭車両は完全にひっくり返っています。
新しい情報では、追突したのは、D301列車で、D301列車先頭の1-4号車、追突されたD3115列車の後尾の15、16号車が脱線したようです。
http://ww2.sinaimg.cn/large/6397c24cgw1djfz1z4kwij.jpg
http://ww1.sinaimg.cn/large/51db861egw1djfz6t78ohj.jpg
http://ww4.sinaimg.cn/large/6397c24cgw1djfyzyjs55j.jpg
左に停車していたのはボンバルディアのCRH1、追突したのは日本のはやて型CRH2を独自改良で寝台型にしたCRH2Eですね。
日本は車両の製造技術は供与しましたが、中国の信号・保安方式は欧州型ですから日本に責任はまったくない。雷で信号故障というのは先日の北京~上海線でもあったばかりですから、手抜きで雷防護の保安器を設置していなかったのでしょうか。
さらにATSなどもまともに作動しなかったようですね。通常であれば停電などがあれば停止信号で追突など考えられません。
一月ほど前の香港紙に中国の技術者が怖くて乗れない、と語ったのは本当だったのですね。
  (PB生)


(宮崎正弘のコメント)実は昨日の講演会で、「そのうち大事故が起きるでしょうから、小生は開業したと聞くとすぐに乗りに行っているのです」と話したばかりでした。ちょっとふるえがきましたね。この事故のニュースを聞いて。
 ご指摘のD301は北京南駅発、上海行きの夜行寝台車のようです。



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(読者の声2)菅総理の在日朝鮮人からの違法献金問題と北朝鮮との繋がりが指摘されている政治団体への政治献金問題、国会中継では放送されていますが、メディアは産経新聞と関西テレビを除いてまったく報道しない異常さです。
以前、戦前の日本は韓国で良いこともした、と発言しただけで辞任に追い込まれた大臣がいました。日本の朝鮮統治の実態はどうだったのか。
「日本帝国の申し子」 カーター・J・エッカート 草思社 2004(原著 1991) は、日本が戦前の朝鮮半島でいかに「収奪的植民地支配をしなかったか」、それどころか産業発展のために朝鮮総督府が果たした役割の大きさを、朝鮮史上初の「朝鮮資本かつ朝鮮人経営の京城紡織」という企業の発展を通して、現代韓国の発展の基礎が日本統治時代にあったことを「帝国主義」「植民地支配」といった価値判断を避けて実証的に論じた好著です。
序文ではネットでは有名な「朝鮮紀行」を引用し、『イザベラ・バードはソウルのあまりの「みすぼらしさ」にたじろぎ、それを「描写するのは、はばかられる」と述べた』と朝鮮がいかに立ち遅れていたかを説明。朝鮮の王権についても有力門閥の筆頭程度の権力しかなかったとしています。
清の使者を迎えるのに「三跪九叩頭の礼」を行ったのが、琉球の守礼門であり、李氏朝鮮の迎恩門です。
同書によると、日本統治時代初期は朝鮮を農業国にとどめる方針で、工業といっても精米機など農業関連のものしか認められなかった。当時の工業では繊維産業が花形、1905年には日本の棉花栽培協会が優良な陸地棉の種子を無料で朝鮮の小作農に配布し、収穫を増やす高度な栽培技術を伝えた、というあたり現代日本がタイで自動車部品産業に無償で技術支援しているのに重なります。
日本の朝鮮政策が変わった要因は第一次大戦(1914-1918)と三・一独立運動(1919)。まず第一次大戦による海上輸送の不安、船舶の逼迫で欧州が独占していたスエズ以東の綿市場への商品供給が滞り、日本が中国・インド・中東・アフリカまで進出する契機となった。
戦争にともない日本は未曾有の好景気で債務国から債権国へ、米価高により朝鮮の地主階層に余剰資金が生まれる。日本の工業製品の需要が一気に高まり、日本の設備増だけでは追いつかず朝鮮の製造業を発展させる必要に迫られた。また独立運動を機に武断政治からの転換がなされ、日本留学で近代知識を身につけ企業家精神を持った地主階層を資本家として育成することで、資本家の利益=日本の利益、となるようにした。すでに1917年には朝鮮銀行券が関東州での唯一の法定貨幣とされるなど、朝鮮と中国北東部の結びつきが深まっていた。
日本の綿工業はすべてイギリスが手本であり、1909年になっても日本の全紡錘数のほぼ90%がイギリスのオールダムにあるプラット兄弟会社から輸入されていた。
しかし戦争で部品供給がとだえ国産化が進む。1926年、「豊田式自動織機」の発明が国際繊維業界に一種のセンセーションを巻き起こす。一人の労働者が操作できる織機の数が6台から60台へ、という画期的な大発明で日本の繊維業の水準は欧米を追い抜いた。
1929年、プラット兄弟会社にイギリス(アジア・アフリカ領含む)と欧州大陸での独占製造・販売権を付与、イギリス人の指導を受けた繊維産業で今度は日本人がイギリス人を指導することになった。欧米からの視察団は豊田の工場がかなりの規模で自動化されており、しかも独自技術の機械が多いことに驚いています。
このとき得られた莫大な資金がトヨタ自動車の元になり、戦後トヨタの躍進に繋がるのですが「カイゼン」のDNAは豊田佐吉から受け継がれているのですね。
さて、朝鮮資本の京城紡織とはいっても、機械のネジ一本から原料の綿糸まですべてが日本製、しかも布地の品質では日本製にかなわない。そのため朝鮮南部での競争はあきらめ朝鮮北部から満州市場へ活路を見出す。
とくに満州では日本では低級品とされる布地が大いに受け入れられる。朝鮮総督府は朝鮮企業に補助金を与え保護育成を図り、日本の繊維業界も紡績会社から問屋・商社にいたるまで京城紡織への支援を惜しまず、どちらにも利益のある持ちつ持たれつの関係。本国と植民地で産業が競合した場合、通常であれば大きな問題となるが、繊維産業の場合は日本は高級品、朝鮮は中・低級品の棲み分けができていた。
このあたり現在でも部品産業が育たず日本頼りの韓国と同じです。労働者の待遇では、日本では女子と14歳未満の深夜労働が禁止されていたのに対し、朝鮮では規制なしの12時間勤務で休憩45分という過酷さ。それでも当時はアメリカでも年少労働があたりまえ、現代中国の闇工場での奴隷労働などよりはよほどマシかもしれません。

1936年には日本は綿糸・布の生産で英国を抜き米国に次ぐ地位にたつという、戦後の日米繊維摩擦は1930年代からの継続だったのですね。1930年代以降は中国・満州各地に日本・朝鮮資本の工場が数多く建てられ、後にはストや日貨排斥などの舞台となりますが、これも現代とよく似ています。
京城紡織の経営者は「東亜日報」の社主でもあり、日系の工場のストライキは報道しても朝鮮系の工場のストライキは報じない。それどころかスト排除のため警察に頼るのも厭わない。傘下に数多くの企業を持ち、借入れ資金は企業から企業へと複雑な流れでよくわからない。このあたりもある日突然財閥がつぶれる韓国と同じです。
著者の指摘で興味深かったのが、日本は朝鮮の工業化を推進したが、京城帝国大学に工学部ができたのが1938年だった(台湾ではさらに遅い)ことなど、人材育成の点では高度技術を扱うのはあくまで日本人主体であったとしています。
原料の生産・加工の例として、朝鮮産のタングステンは日本に送られフィラメントに加工、それを朝鮮で電球にするとあります。
中国のレアアースが日本で高度な部品に加工され、中国では製品を組み立てるだけ、といった事例につながりますね。
  (PB生、千葉)

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 樋泉克夫のコラム  樋泉克夫のコラム  樋泉克夫のコラム
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以下略。
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