金曜日, 10月 31, 2008

以前にも何度も書いているように、司馬氏の小説は友人の下宿で手にとって数ページ読んだだけで、以後一冊の本も読まないし、買わない。面白いかも知れないが、時間をかけて読むほどのものかと、直後に内省したような記憶がある。

しかるに、いろいろな人が司馬氏を褒めたりしている。そんなものか?と思っている。大江氏がノーベル文学賞を(アメリカの口利きで!?)もらったからといって、これも読まない。

歴史に関心はあるが、半藤氏や保坂氏の昭和史に関する書も読まない。テレビで見聞きした限り、日本史の専門家という気がしないし、かなり狭く戦前を捉えて臆するところがない態度が大変見苦しく内心感じていた。どうもいけない、といつも危ぶんで眺めている状態である。

ところで、他の人は例えば半藤氏をどう見ておられるのか気になり少し覗いてみた。あまり悪口はないようで、変だな!?私がおかしいのかなどと思っていると、ありました。

『宮崎正弘の国際ニュース・早読み』というところに。

日本保守主義研究会などにも講師として出られることもある、また中国問題ウオッチャーでもかなり信頼に足ると思う視点での分析には、いつも胸のすく思いがする御仁のサイトである。そこで以下の本を紹介していた。

渡部昇一、松浦光修、八木秀次『日本を虐げる人々』(PHP研究所)
『 シリーズ四作目にあたる本書。こんかいのゲストは松浦光修氏(皇學館大學教授)。
 鼎談が書物になっても、冗漫な中味のものや、殆どすれ違いの議論が多いなかで、このシリーズは稀なほど緻密、鼎談者それぞれの息も合っている。
 それは歴史認識が同じだからであろう。
 とくに欺瞞、虚偽の歴史をつづって国民をまどわす輩を実名入りで次々と俎上にのせているが、冒頭が半藤一利、保坂正康のコンビ。つまりこの二人の“文春文化人”は「大東亜戦争」をサヨク的にぶったぎって平然としていたニセ歴史家の司馬遼太郎史観を受け継いで、いまも日本に害毒を垂れ流している。
 生前、三島由紀夫は司馬の「乱世史観」を偽物と断言していた。』

http://www.melma.com/backnumber_45206_3194570/

 『つぎに高橋哲也とかの哲学者が出鱈目な観念論を弄んだ「靖国」という書物をひねりつぶし、大江健三郎、二階俊博、加藤紘一、後藤田正晴、さらには官僚批判となって栗山尚二元駐米大使、田中均、野田英二郎、浅井基文の各氏が木っ端微塵に誌上で粉砕されている。
 これらの政治家、官僚が日本の名誉をいかに傷つけた犯罪者のごとき存在であるか、よくよく了解できる。
 特筆するべきは本書では、従来「保守」と思われていた人達の左翼化も鋭角的にとりあげて問題視しており、とくに女帝容認を急に説き始めた田中卓、所功、高森明勅の「三T」に容赦なき批判の矛先が向かう。』などとある。

『松浦氏いわく。(サヨクの敗北史観を批判したあとで)「このような歴史観をひっくるめて、拙著『夜の神々』のなかで“負けて良かった史観”と名付けた」。
 対して八木氏は、保坂、半藤の歴史観を「ネオ東京裁判史観」と呼んでいる。ついでに言えば八木氏は女帝容認で暴走したサヨクのあつまり「有識者会議」を「平成の弓削の道鏡」と銘々している。(わかりやすいなぁ)。』とは、宮崎氏の弁である。

昨日紹介した「坂の上の雲」に隠された歴史の真実にも、ノモンハン事件の誤ったイメージが日本人の心に形成される端緒となったのが、五味川純平の小説『ノモンハン』である。この小説は昭和48年に『週間文春』に連載が始まり2年間続いた後、昭和50年に文芸春秋から単行本として出版された、とある。エ〜ッ、!?文藝春秋社かよ〜、やはり副島氏が指摘したように
、??がたくさんつく会社である。

それ以来、私は、「疑惑の銃弾」さえも、週間文春から始まったことを思うと、アメリカから何らかの情報提供を受けて始めたキャンペーンではなかったか?と疑うようになってしまった。杞憂であれば幸いであるが、・・・・・・・・。

この五味川の見解をそのまま踏襲して『ノモンハンの夏』というベストセラー小説を書いたのが作家の半藤一利氏である。この作品は平成10年に文藝春秋から出版されるやいなや大評判となり、初版からわずか1年半の間に23刷を重ねるという驚異的な売り上げを記録した。山本七平賞を受賞したことによって、『ノモンハンの夏』の評価はさらに高まり、ノモンハン事件を昭和陸軍性悪説とみなす考え方の決定版となったかのように思えた、などとある。

ところが皮肉なことに、『ノモンハンの夏』が出る前後からであろうか、ソ連崩壊後の情報公開により、門外不出の秘密事項とされてきた極秘文書が、公文書として次々と公開発表されるようになった。その結果、五味川や半藤氏の唱える「ソ連の進んだ機械化部隊のために、日本軍が大敗した」という解釈は事実とまったく逆であり、実際のノモンハン事件は日本軍の大勝利であったことが明らかになり始めたのである、としている。

また、五味川・半藤両氏が主張した「ソ連軍の進んだ機械化部隊」などというのも史実に反する。当時ノモンハンに投入されたソ連軍の戦車は走行射撃も不確かな低レベルにあり、戦車戦では日本軍戦車に太刀打ちできなかった。事実ソ連の戦車は、日本軍の極めて高性能の速射砲・高射砲の標的となり800両が破壊されていた。日本側の戦車の損害は29両である。空中戦でもソ連の戦闘機は低性能(中には布はり機もあった、イー153チャイカやイ16など)で、日本機に比べて全く相手にならなかった。撃墜されたソ連軍機(破壊も含むと思う)1673機に対して、日本軍機は1/10の179機という事実がそれを裏付けている、と福井氏は書いている。中には歩兵に撃墜された機体もあった、という。

五味川の主張する「ノモンハン戦が失敗したのは、作戦指導の中枢神経となった辻正信と服部卓四郎のせいで・・・この二人が諸悪の根源であり、・・・その後の太平洋(大東亜)戦争においても作戦を指導した。その結果、・・・・日本の敗戦という、ノモンハン戦失敗などとは比較にならぬほどの悲劇を生んだ」という意見は、ほぼそのまま半藤氏の『ノモンハンの夏』に受け継がれている、という。

司馬氏と半藤氏とは肝胆相照らす仲であり、互いの作品をもっともよく理解しあい、評議しあっていた友人同士と聞く。司馬が果たしえなかった最後の夢を、半藤氏が代わってかなえたのであろうか、などと書いてある。

やはり、私が感じたとおり、半藤氏は司馬商店の筆頭番頭だったわけだ。しかも、作る会のメンバーたち一派(私もそれに近いかもしれないが)からは、『大東亜戦争を左翼的にぶったぎって平然としていたニセ歴史家の司馬史観を受け継いで、いまも日本に害悪を垂れ流してる』存在だと、いうことなんだろうな。

とここまで書いて、ようやく私は、大江氏のタネ本となった、鉄の暴風とかいう作品、沖縄タイムスが朝日に持ち込んだとき朝日は相手にしなかったが、1週間後にGHQの働きかけで、堂々と出すことが決まった、という話とおなじ背景が、ここにもあるのだな、と思う。まさに武器無き占領は続行中なわけだ。

なかのひと


「ノモンハン事件の真相と成果」ーソ連軍撃破の記録ー(小田洋太郎・田端 元 著)有朋書院、2002の後、2004年11月に発行された。

その頃すでに「ノモンハン事件の真相と成果」を2年前にあらかた読んでしまっていたので、こういう書籍が出てきた背景に、やはり2年前の衝撃的な著作の影響が大きかったのだろうと思った。それで、いままで、本棚の隅で眠っていた。まだ、あまり読んでおらず、今後の課題となっている。

一口にノモンハン事件といっても、簡単ではなく、今後折りにふれて、日本人を考える際にその都度、振り返る戦いだろうと、小室直樹博士の提言の意味を考えている。

司馬氏の著作を全面的に引用されていたある大学の先生は、この翌年の年賀状で、ノモンハン事件の通説は、かなり修正されるようですね、という意味の添え書きがあった。学者の良心を感じた。・・・ ・・・

『革命干渉で思い出すのは、ノモンハンにおける日ソ戦車隊の会戦である。日本軍の戦車は上品だが、花車(きゃしゃ)に出来ていて、打ち出す弾丸もほとんど命中するが、ソ連の戦車に対しては、ぼた餅を当てた程度の効果しかなかった。これに反し、ソ連の戦車は雑であるが、頑丈に出来ていて、撃ち出す弾丸はめったに当たらぬが、日本軍の戦車に当たったら最後、木っ端みじんにしてしまった。日本軍の戦車隊長は精神に異常を来したと伝えられている。日本軍の統帥者が、この第1線の犠牲を教訓とせずに、参謀共の空論に乗って、次第に戦争にのめりこんで行かれたのは残念である。』
とされていた。

コンピュータで、数値計算をする場合の基礎となっている、逐次近似法(反復法)の数理概念を説明する際の余談として紹介された。大砲の着弾点をそれまで、逐次近似的に修正していたのを、ナポレオンが旧法を破り、精密な弾道計算で砲撃し、フランス革命を英軍の干渉より守った・・・などとこの前に書かれている。

「ノモンハン事件の真相と成果」が出るまでは、おおかたの日本人のノモンハン事件に対する見解は、上に上げたような日本軍が無謀な戦いで大敗した・・・程度のものだったかもしれない。

特に戦車戦においては、圧倒的に敵戦車が優勢だったことを疑う根拠は皆無だった。ところが、この本によると、ソ連は装甲などの厚みも倍以上に膨らませて発表。著者らが、実際に戦場に残されたソ連戦車の残骸を実測すると、せいぜい最高でも25ミリ程度の装甲しかなかったそうである。戦車でないいわゆる装甲車といわれるものも、ブリキ缶同然で、信管が作動しないほど装甲がうすく、機関銃で簡単に貫通してしまうほどであった、という。その写真もあるが、あきれるほど、大小さまざまな穴があいている。

たしかに日本軍の戦車は小型で、砲身も小さいが、戦車戦を想定しない、歩兵援護の目的であったからやむを得ない側面もあるが、敵の砲弾があたっても、木っ端みじんなどということはなく、走行不能戦車は29両のみで、虎の子の戦車なので、皆牽引して本土で補修するために持って帰っていて、現地の破壊車両はソ連側のみという。

しかも日本軍には、37ミリの対戦車砲を多数擁しており、これは距離1キロでも55ミリほどの装甲を貫通できる能力があり、その半分ほどの装甲の厚みのソ連戦車は、射程1キロ以下ではめではない相手だった、という。ほぼ100発100中。トラックに後ろ向きに積んで、相手はトラックと思って油断すると、一発で戦車は炎上した、という。しかもソ連戦車は走行中の発砲は当時出来ずに、必ず止まってから砲撃したので、そこを狙われたという。(日本戦車は走行射撃もできた)。

最近読み返して見て、戦場で、日本軍の司令官たちが、フォードの高級車で戦場から離脱する際に、相手戦車に察知され、追走を受けた。草原といっても凹凸がけっこうあり、速度をだせないうちに、敵戦車が後ろから迫ってくる。それを見ていた、37ミリの速射砲をもつ日本軍が、下手をすると司令官を誤射しかねない、15メートルまで後ろにせまる戦車を狙ってうったら、命中し、戦車は炎上した、という。当然司令官は逃げ切れた。命中率がいかによかったか、これで相手が静止したら、100発95中ぐらいは確実だったろうと思った。

以下は、一部重複する部分もあるが、当時の読後メモである。

ノモンハン事件でソ連側は、ソ連の損害9284名、日本側の損害は52000—55000と発表したため、日本軍の大敗と信じられたが(当時の日本軍の参戦者は約3万以下で5万もの損害は出るわけはない。これはスターリンの粛正を恐れたソ連の将軍たちが、誇大の勝利と過小の損害を申告し、常に実数の2〜3倍の戦果を報告したからである、という。

最近のロシア側の資料によると、日本軍戦死8741名、負傷8664名、ソ連側はというと、戦死9703名、負傷15952名(モスクワ軍事出版社1998年)となるという。情報公開が進むと、ソ連側の死傷者数はさらにふえるだろう、とロシア側もみとめているそうな。日本軍の旁受電によると、ソ連の損害は甚大でバイカル湖以東の病院は負傷者の治療で忙殺され、西行きシベリア鉄道には、患者が満載というありさまだった、という。「患者は3万5千〜4万だったと考えられる」(「ノモンハンの真相」戦車第四連隊長玉田美郎氏」辻正信参謀も、傍受電で損害の甚大なことを中央部に訴えており・・・と書いている。戦死者をいれると5万名以上になる。

この損害に耐えかねて、8月15日にソ連はドイツ大使に仲介を打診し、ソ連が避けていた独ソ不可侵条約を提案した。8月23日、条約締結。日本を驚かせたが、スターリンはリッペントロップ(ドイツの外相)に対日関係を好転させたいから、ドイツの援助をたのみこんだという。(欧州情勢は複雑怪奇なり、とこの条約で、平沼内閣は総辞職しましたが、何のことはない、日本自身が主役だったわけで、この辺が幕末以来、西洋人に手玉にとられた国際情勢音痴の日本人の特質と小生は見ます。幕末、すでに外人によって、地球の裏側のささいなできごともまわりまわって、反対側にまで波及する、ということが日本人は理解できないと指摘されている)

関東軍は当然反撃の軍を用意したが、中央はソ連からの停戦申し込みであることを隠して交渉した。事情を知っていれば、関東軍は停戦に応じなかったといわれる。とにかく反対する関東軍(何故関東軍とよばれるか、ご存じですよね)を大命として強引に停戦させ、復讐を期した将兵は残念がった。ちゃんと、シビリアンコントロールされている。

ノモンハンでのソ連の越境に対して、当初外蒙兵1000名ほどと思った日本側は、小松原師団長の一師団で対処して(寄せ集め部隊だったそうです)いて、相手にこれだけの戦果をあげたことを、今まで完全に忘却していました。そして、本格的反抗として10個師団用意したところで、ソ連側は恐れて停戦。それを知らないから、たとえばネットでノモンハンを調べると、二番めに日本を思い切りののしることばが日本人によって、書かれている。

「生前、司馬遼太郎氏が「ノモンハンのことを考えると頭の血が沸騰し、逆流してとても平静ではいられなくなる」と語っていたのを私はテレビでみました」、というまじめそうな平均的現代人らしい人が述べています。

「ただし、事件というにはあまりに規模が巨大であり、現在のロシアやモンゴル側が「ハルハ河戦争」と呼んでいるように、それはまさしく本格的な近代戦でした」(宣戦布告なしなので、日本側は事件とよび、戦争よばわりは、不適切であるが向こうにしてみれば、まさに戦争だったわけで、現在あちらの集結した戦力は20万以上と見積もられている。)

なぜ、ソ連が外蒙兵といっしょにでてきたのかも、この本で了解。衛星国(といえばきこえはよいが、要するに植民地)としてのモンゴルが中国支配に苦しんだ後ソ連が手に入れたが、政権が親日的で、いろいろな反乱がおき、ソ連指導部が、ゾルゲの通報で知った日本軍の侵攻意図がないことを確かめるべく、日本軍がモンゴル国内に進入したという既成事実を捏造し、モンゴルに本格介入する口実つくりのため、暫定的に定められていた国境線を関東軍側に20キロほど移動しようとしたことが発端だという。こんなに明快なことが、戦後はわからなくなってしまった。昭和13年にはハルハ河をわたって、粛正におびえたソ連軍の大将のひとりが日本に亡命もしているし、ハルハ戦争を指揮したジューコフも粛正リストにあがっていた。

ゾルゲも使命を果たした後、モスクワに帰れば良いのに、元帥クラスまで6割も粛正されてしまったので、帰れなくて特高に逮捕されてしまった。ジューコフは、レニングラード、ベルリン侵攻と対独戦で勝利し、英雄になりましたが、戦後西側のインタビューで、もっとも苦しかった戦争はと訊かれて、ハルハと答え、周囲を唖然とさせたらしい。(著者たちが、アメリカのミシガン大学ハケット教授から聞いたいた話し)。当時のパイロットを祖父にもつ方が書かれた「瑠璃の翼」でも、だれいうとなく、ジューコフはハルハのスターリンとあだ名されていたらしい。日本軍との対戦がいやで、自損事故を申請した者は、銃殺、財産没収などしないと、後をたたないありさまであったようだ。辻参謀の記述も誇張ではないようだ。

ネットでの批判では、「歴史的な事実は、ソ連軍が周到な準備と速やかな兵站計画を展開下したのに対し、準備不足の上に場当たり的な行動を展開しつづけたのは日本軍であり、戦略上(書いた本人はわかっているのかね)の優勢をたもちながら機動力を駆使してたたかったソ連軍にたいし、防御力も攻撃力も劣る武器(数値情の性能比較ではその通りらしい、ただし航空機は圧倒的に日本が上。日本機は超超ジュラルミン、相手は、木製、布バリ機まであった。)を用い、当初はきわめて勇猛果敢に戦いながらも、ついに精神論に支えられた凄惨な白兵突撃と玉砕を重ねるしかなかったのは、日本軍のほうなのです」とまるで、東京裁判史観そのもの。

具体例をいくつか。
日本兵士は皆目的意識をもって戦ったが、ソ連運が戦車の天蓋に外から鍵をかけ、(モンゴル兵ののる戦車)操縦者を鎖で車内に繋いでいた。退却する者は、射殺したり焼き殺したり(火炎放射器がすでにあった)し、内務省軍が督戦隊としてモンゴル人民を隷属部隊とし、中京軍との戦いでは米国製の機関銃が焼けて使用不能になるほどであった。(父親の見聞談では、中国軍も、機関銃手がにげられないよう、鎖で足を繋がれていて、普通はこのくらいで向こうは退却するはずと言う場合は、皆そうであったそうだ)。

速やかな兵站計画とありますが、ソ連捕虜の話では蒸したジャガイモ数個が与えられただけだそうで、それもひどいときは3〜4日に一回だった。

劣性な武器 司馬さんは戦車兵だったから、戦車の戦力差は圧倒的だったというから皆だまされてしまった。それまで、日本軍の戦車は、歩兵の補助という観点から対戦車戦など想定しておらす、砲もわざと速度の遅い小さい砲を積んでいた。しかし、速射砲という対戦車専門の砲が多数あり、日本兵の練度は高いので、1000メートル以内であれば、百発百中でおもしろいようにソ連戦車は燃え上がったという。

日本軍はソ連戦車・装甲車を7月の左岸作戦で、430台以上を破壊した。(ソ連側は配備した数字を446台としているので、96%以上の破壊率である。トータルの戦果はソ連側800台以上。対する日本は、29台の損害。ソ連の装甲車にいたっては、フォード製で、機関銃でブスブス貫通した。今日でも小口径火器で穴のあいたソ連戦車や装甲車が放置されているが、朝日グラフ(H11)ではソ連製との断りがなく、日本軍戦車とデタラメなことを書いている。著者らが現地で確認。
ソ連には当時、近代装備がなかった。防弾綱板も自国製がなく、イギリスの造船所が軍縮で捨てた綱板を買って戦車にはったものである。

ソ連軍戦車は走行しながら射撃をする技術がなく、射撃するためには停止したので、そこを日本軍に砲撃されて破壊された。日本戦車は走行射撃ができるので、7月4日の戦車戦では、12台の敵戦車を破壊し、敵は退却した。このとき、日本側の損害0。ソ連戦車の大砲は砲身もながく、威力も大きいが、命中率が極端に悪く、偶然にあたる程度では数字上の性能の2割ぐらいと見積もられている。
 砲兵の技量も日本を100点として20点台ぐらい、大砲の着弾点をしらべる観測者も必ず赤い馬に乗っていたり、羊の皮をかぶって羊群にまぎれこんだりと、およそ近代的とはいえず、日本兵に笑われていたという。大砲弾も鋳鉄で不発弾が多く、爆発しても地上45度以上にしか被害を与えず、50〜60メートルも離れれば、破片が飛んできても棒で殴られた程度(破片が細かくならず、空気抵抗が大きいうえに、火薬の質もわるかったらしい)
で大助かりだった。日本の砲弾は、地上25度以上に被害を与え、鋼鉄製なので、細かな破片として散乱し、相手を苦しめた。

火炎ビンの発明も日本兵で、ガソリンを積んだトラックがソ連戦車に追走されたとき、荷台のガソリン缶がひとつころがり落ちた。それをソ連戦車が踏みつぶしたところ炎上してしまった。ソ連軍戦車は、火炎瓶攻撃がなぜかわからず、日本兵が近づくと炎上するので、新兵器出現とおびえたらしい。また、トラックに37ミリ速射砲を後ろ向きに積んで、逃げるとき近づいた戦車に発砲すると、内部で爆発する。この戦法は、スペイン内戦が最初らしいが。

「打ち合うとソ連兵は逃げますが、逃げないので、オーイ日本軍か?日本軍だ!といっているうちにソ連軍に分かったらしく、夜間なのに攻撃してきました。戦車もいましたが、夜は戦車はこわくありません。火炎瓶一本で燃えちゃうんですよ。我々は、薄暗いから隠れてずーといって、火炎瓶やっちゃパーと隠れるんです。何台かやりましたね。・・・・」(宮本孝太郎上等兵)

航空戦

NHKは日本機が多いので優勢だったと報道したが、間違いである。
戦果 ソ連機 1464機を撃墜、爆砕
   日本機 不明
しかし、緒戦の三日で5機撃墜、次の6日で175機を撃墜し、日本側の損害
は7機という記録はある。これに恐慌をきたしたソ連側は飛行禁止令をだしたそうな。日本側戦闘機は97式(皇紀2597年、1937年)で、東大出の糸川博士が開発したもの。高速ながら旋回性がすぐれ、旋回半径は78〜86メートル、これは英国やドイツ機の110〜140メートルより優秀である。(しかし、操縦席後ろに張る防御鉄板はなかった。通常50キロ前後という。他国の旋回性能は二人乗り相当のハンディがある数字だろう。)

19歳の日本側パイロットの話では1旋回半でソ連機の真後ろに追尾することができました、とある。全速で逃げる敵に向かって、攻撃側は機銃を打つ間は直線的に飛ばないと、弾丸は真っ直ぐ飛ばないそうで、旋回中に打つと、小便弾といって、放物線を描いてしまう。

撃墜王の誕生。このノモンハン航空戦で日本からは篠原少尉が57機撃墜の撃墜王となり、3ヶ月でのこの数字は第二次世界大戦でも破られていないと言う。ただし、少尉は戦死(一説に、尾翼が折れ、不時着時に死亡と軍医の所見ありとの説)二桁撃墜のパイロットがぞろぞろいたという。中には軽爆撃機で空中旋回して敵機を撃墜したものもおり、ソ連側はあわてて逃げたという。なお、満州国を英米は承認しなかったが、ソ連は承認したし、十数カ国が承認あるいは追認していたそうな。(その後、イギリスは満州国を国際認知させ、ユダヤ人入植も視野にいれていた、と最近知ったが、日本海軍の中国本土爆撃で、空気が変わってしまった、という。)

悲惨なソ連兵士

むしろ悲惨なのは赤軍兵士であった。畑にいたのを拉致されて、兵士にされ、彼らは全く戦意がなく、戦争目的もなく、格闘術も知らず、銃と手榴弾を渡され、演習と称して前線に連れてこられ、内務省軍の監視下、前進させられた。接近して手榴弾を投げるだけの歩兵で、反乱をおそれ、銃弾はもたされなかった。日ソ双方が接近して、手榴弾を投げ合っているとき、日本兵の少数が仁王立ちで軽機関銃を抱えて立ち上がり、撃ちまくったら皆殺されるか逃げたという。

銃剣術はしらず、日本兵が突撃すると、皆泣きながら逃げたという。あまり逃げすぎると内務省の軍に撃たれ、火炎放射器で焼かれた。戦車からも監視されていたので、戦車がやられると、皆逃げたという。8月20日以降、戦場にパン配給車が登場し、日本軍に捕獲されたりしているところをみると、それまで、欠配だったのだろうとしている。戦車は外側から鍵をかけられ、逃げられなかった。戦車内で自決したものも多かったそうである(たぶん、死の苦しみから逃れるため)。(「瑠璃の翼」にも出てくる。平行して進行してきた三台の戦車のうち中央の一台を撃ったら、炎上してまわりの2台も停止したまま動かない。そのうち両側の2台も少し揺れた。おかしいとおもって砲塔にのると外から鍵がかけられていて、中の三名は延焼して焼け死ぬのをおそれ、すでに手りゅう弾で自決していた、という。)

逃げ遅れた歩兵は戦場に放置されたまま、日本兵に刺殺された。戦場に放置された負傷した歩兵は大声で泣き、日本兵に不思議がられているが、拉致されいやいや戦場に連れてこられ、死にいたる痛い目にあったのでは、スターリンを恨むしかなく、泣くのは当然だった。

ソ連軍は人命を何とも思っていなかった。

国境の河をわたってきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却してくる味方の部隊を火炎放射器で焼き払ってしまった実見談がある(真説ノモンハン空戦記)

辻正信(ノモンハン秘史)や三田真弘(ノモンハンの死闘)その他の著書に、「破壊された装甲車を見ると、外蒙兵が足首を鎖で縛られ逃げられない状態だった。」
「外蒙兵は高い木の上に縛られ、葉のしげみから小銃を撃ってきた。」
「ソ連軍は戦車に鍵をかけ逃げられないようにしていた」
「蒙古ラマ僧侶にも銃を持たせていた」
「退却しても、5、6百メートル手前で止まった。督戦隊がいたのであろう。」
などとある。

スラブ民族はのスラブは、slave(奴隷)と似ているなと学生の頃思ったことがあるが、昔からスラブ民族は周辺から奴隷として使用されてきて、言語学的にも関連があるとのはなしをどこかで読んだ。

トルストイ氏はソ連の生産性の原点は囚人で、虐待から死亡者が多いので、常に供給が必要で、そのため国内はもちろん占領地からも多数を連行した。つまり、ソ連は奴隷制経済の段階であった。マルクス理論はもちろん破綻し、農奴制度から労働者という奴隷制度になっただけだった。

日本社会党は何故名前も消して消滅したか。資金援助を受けていたソ連が崩壊したからという(クレムリン秘密文書は語る、名越健郎、中公新書1205、に詳しい)

これは、今後の日本を考える上に重大な教訓です。著者らはノモンハンに関連した肉親はいないそうで、日本兵は優秀でも、指導部が概して淡泊、優柔不断で、日露戦争の時の旅順港作戦にはじまり、ノモンハン、真珠湾、レイテ戦などにおいて、途中で戦いを放棄して、勝機にとことん戦わない日本幹部たちをやり玉にあげています。

アメリカの艦隊も、日本軍は風のように来て、風のように去っていった、という印象を持つようです。米空母ヨークタウン(大破)に止めをさしていれば、以後の戦局はどれほど有利に展開したかと、小室直樹氏は憂えていますが、戦時には平時とは異なる常識が要求されるのですが、山本長官以下、平時の編成で押し通してしまい、命の惜しい司令官は回れ右をして帰ってきてしまった。

なかのひと

日曜日, 10月 26, 2008

かってこのブログで、真珠湾攻撃が事前にアメリカによって察知されており、米政府高官たちは夫妻でお茶会をしながら、真珠湾攻撃の実況中継を無線連絡で聞いていた、という副島氏の指摘を紹介した。

そして、米内海軍大臣、山本長官、井上成美海軍次官(いわゆる海軍三羽ガラス)が実は米国のスパイ(米内海軍大臣が米国のスパイ)で、井上海軍次官は、米内の意を受け、中国本土を爆撃、日米和平交渉を頓挫させ、山本は真珠湾を攻撃させてくれなきゃ辞任するとまでごねて、海軍上層部を説得、東条首相も知らない間に奇襲攻撃を敢行した、と紹介。それで、だまし討ちの汚名をあびた宣戦布告の文書翻訳が遅れた駐米大使館の二人の大使館員も、当然スパイだったのでは、と私は思ってしまった。ちなみに海軍の米内光政はフリーメーソン会員とする説も、昔聞いたことがある。そうなると、いくら金をもらってスパイとなった、などという次元ではない話しになる。世界国家樹立のための尖兵といったところか!?

戦後この二人は昇進し、渡部教授は名前をあげて、この昇進はおかしいと早くから指摘していた。他人のせいにするわけではないが、この重大局面時にあまりにも日本にとって不都合な事実が多すぎた真珠湾奇襲攻撃であったので、極めて怪しいとにらんでいた。

ただ事実は小説よりも奇なり、当時から、この館員のひとり、井口貞夫参事官の息子さんが、父親の汚名をそそごうと、同じ外務省にありながら史学会会員となって、勉強し当時の外交文書の手交を遅らせた原因は、現地の参事官たちの(前日に送別パーティがあって、皆翌日飲み過ぎの二日酔いで電文解読を行っていた!)怠慢ではないということを立証しようと努力していることは、ある筋から存じ上げていた。

雑誌「WILL}12月号には、書評欄で(148〜149)で、元文芸春秋編集長だった堤堯(つつみぎょう)氏が、この当時の在米日本大使館員井口貞夫氏の息子さんである井口武夫氏が父親らの汚名をそそごうと書き上げた『開戦神話ーーー対米通告はなぜおくれたのか』(新潮社、2100円)を取り上げている。

文芸春秋社出身、新潮社発行と、副島氏がアメリカの代弁と指摘したことが気掛かりではあるが、・・・・・。

以下はその著書の内容概略である。

『本書は種々の資料を駆使して軍部と本省の作為・工作が通告の遅れを招いたことを立証する。』などとある。

『だいたい、駐米大使野村吉三郎自身が、この文書を開戦通知と受けとらず、遅れて持参して
ハル長官に面罵される。』

『通告文の原文には、「将来起こる一切の事態の責任は、挙げてアメリカ政府にある。」とあり、通常これは開戦を意味する外交用語であるが、これを軍部と本省(外務省)は削った。』

『加えて、これを手交する時間を攻撃のぎりぎり直前とした。さらには通告文のうち、最後の第14部の発信を15時間遅らせた。おまけに本来なら「大至急」の指定を「至急」だけとした。
「大至急」ならアメリカの通信会社は夜中でも即刻大使館に届ける』という。

『つまりは事後通告となるよう画策したとしか思われない。』

『軍部と本省は、野村をはじめとする在米大使館をまったくのツンボ桟敷に置いた。なのに口を拭って在米大使館だけに罪をかぶせるとは何事か。その痛憤が本書を書かせた。』と、ある。

『奇襲の前日正午、ルーズベルトから天皇宛ての親書が中央電信局に届いた。これを10時間にわたって留めたのが陸軍参謀本部通信課の少佐・戸村盛雄でもとより上層部の指示なくしてはできない。』

『参謀本部の中核は作戦課で課長・服部卓四郎、班長・辻正信、班長補佐・瀬島隆三の三人が仕切る。防衛研修所に殘る戸村の証言は、瀬島の関与を明らかにしている。第14部にからむ工作も、瀬島の指示・圧力を示す状況証拠がある。親電の解読しだいでは、第14部に補筆・訂正を生じるかもしれない。これを口実に発信を15時間も遅らせた。親電差し止めと第14部の発信差し止めとはリンケージしていた。』

http://ja.wikipedia.org/wiki/服部卓四郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/辻政信

http://ja.wikipedia.org/wiki/瀬島龍三

http://ja.wikipedia.org/wiki/井口貞夫

『戦後、在米大使館員は誰一人責任を問われなかった。井口貞夫と奥村勝蔵は外務次官に栄達した。宰相・吉田茂の措置とされる。これについて吉田は非難されたが、その間の事情をよくよく知ってのことだったのかもしれない。』とある。

ちなみにアメリカは米西戦争でも、近くはイラク戦争でも無通告の攻撃に出ている。日本だけに「汚名」を着せる資格はない、と書評は結んでいる。


なかのひと
この前、映画「カーツーム」を例にして、明治維新期の列国(主にイギリス)の動きの結果としての日本の国内政治を解説している副島隆彦氏の「時代を見通す力」の一部を、自分なりに紹介した。

実話カーツームで出てくるゴードン将軍の像を紹介しながら、戦後のマッカーサー将軍の運命にも言及している。

『1950年6月に朝鮮戦争が勃発した頃からトルーマン大統領との角逐が起きていた。だから、1951年にトルーマンに首を切られて即刻本国へ召還されたのである。MPに両側をがっちり押さえられて解任され、強制帰国させられたのである。こういう世界史規模の事実を日本人は知識人層を含めて今も知らない』というが、たしかにカーツームの時代と同じ構図だったは知らないだろうが、・・・そんなこともあるまいとは思う。

阿部内閣での教育基本法の改正の思想的基盤を提出したとされる杉原誠四郎のテーマの中に、東京裁判後の日本自身の責任を指摘している部分がある、という(ウィキペディアより)。

『杉原の広範な研究活動を縦貫する大きな柱は、敗戦後の占領政策の下で日本政府、日本人がどのように対応し行動したかを明らかにする、という点にあるといえる。敗戦直前の外務省幹部による公文書の隠蔽、占領期における共同謀議的な口裏合わせや揉み消しにより、歴史の真相が巧妙に隠されたと考える杉原は、公開された限られた資料を深く読み込むことによって、隠蔽された事実をあぶり出すという独特の研究スタイルを確立した。』

最近の歴史関係文書(主に雑誌)を読むと、戦前からいかに多くのスパイやら、左翼などの反日分子が政権中枢部に紛れ込んでいたか、想像以上の規模で想定されていると書かれる時代になった。戦後に流布されたステレオタイプの刷り込みのままというのは、裁判官や弁護士たい、朝日系、NHK、および外務省、福田元首相など絶対数は減少しているはずである。今では絶滅危惧種というべきか?河野洋平氏や田中真紀子氏の世代が一番戦後の占領政策とその後のマスコミなどの影響を色濃く刷り込まれた(あるいはサブリミナルコントロール)世代が消えていく時期に、追い討ちをかけるように次々と明らかにされる戦前からの新(真!?)事実の暴露は、何を意図したものなのだろうか?

張作霖爆死事件も、真偽は不明ながら、KGBがシナリオを書いたような情報も出てきて、藤原正彦お茶大教授も、どう考えていいか理解不能の意味の言葉を、公開日記に記しておられた。

副島氏の一連の著作も、外交文書の肝心な部分は大半が未公開で、その割には見てきたようなアメリカ側の裏事情などが大半であるから、アメリカによる対日世論誘導の役割を負っていると私は考えている。

特に天皇制は良くない、このままではグローバルスタンダードに近づけないなどと書いてある下りを見ると、どこの国の回し者かといつも思う。知りたい情報提供者としては、今のところ便利であるが、植草教授の裏情報なども確信にみちて書いておられるので、当然、彼の著作から借りればロックフェラー系の文筆業者ということがいちばん座りがいいように思う。

それで、文芸春秋などは、アメリカの影響を受けていてなどと言われても、今では面食らっている。


なかのひと

土曜日, 10月 25, 2008

以前渡部昇一上智大名誉教授と、副島隆彦氏の英語の用法論争があって、以来両者の接点はないようであったが、今回副島氏の新刊『時代を見通す力』を読んで、南京大虐殺はあった(282ページ)を見て、急にまた接点が出てきた、と感じている。

副島氏は、『私はずっと秦郁彦氏の説を支持し続けている。『虐殺はあった』のである』と簡潔に言い切っているが、なぜ秦教授の説を信ずるに至ったかの理由については一行たりとも触れていない。時代的状況証拠からして、当然あったはずだ、20万はオーバーにしても、現代史家の第一人者の一人が著作で述べているからには、まずそれなりの根拠があるのだろう、という思い込みぐらいにしか私には思えない。

ところが、その秦氏は、約4万人とかいう推定の根拠が、渡部教授その他の諸氏の調べでは、根拠となったもっとも秦氏が賞賛した引用本が、まったくの、でたらめで、書いた本人は南京の戦いに参加さえしていなかった、と暴露され、渡部教授から4万というなら、兵士がいくら、市民がいくらぐらいかの具体的な根拠のある数値をといわれ、以来本は絶版にしていないようだが、テレビなどではあまり4万という数字を控えておられるように、私は感じている。

この前、半藤氏とテレビに出たときに、数字は言わないが、二人で虐殺はあったに決まっているというようなことをいい、二人でうなずきあっているのを見て、渡部教授の指摘も少しは応えているのかな、と思った。

秦氏が、渡部氏の『ドイツ参謀本部』を盗作と決めつけ、ラーベの日記が出た後(約5万前後の数字)だったので、自説の元がトンデモ本であったとしても、その数字に近い資料が出てきたというので、喜び勇んで渡部教授を罵倒に近い取り上げ方をしたので、渡部教授から秦氏の資料のいんちき性や、秦氏の問題点などを反論として取り上げた書籍両方を比較、引用したことがあった。
http://yhsvtex.blogspot.com/2007/06/blog-post_7294.html
そこで書いたように、秦氏が第一級の資料とした本がいんちき本であったことは、いかに戦後我々が、GHQなどによって、宣伝され洗脳され続けていたかを、逆に浮き彫りにする。

副島氏は、ほかの勉強がお忙しいのであろう、以後、渡部教授の説は、引用すらしないところをみると敬遠されているのか、忙しくてかまっていられないかと疑ってしまう。二人の、相互批判の文章をじっくり読んでいただきたい。

私は、半藤氏は?と見ていたが、秦教授も!?と思っている。東大を出て、東条英機氏なども、東大生が、われわれに関心をもってくれていてありがたい、などと被告という身分のときに、学生の秦氏を見て言ったとされるが、それでもなお、灯台もと暗しということもありえる実例として、衝撃的である。

当時の秦氏の著作に関する渡部教授の反論を再びここに掲載する。

『・・・つまり、秦氏は自分の専門の中で第1級の資料として使ったものがインチキであることを見抜けなかったのだ。これを専門家失格という。もし、これが学位請求論文にあったなら、学位褫奪(ちだつ)は確実である。・・・ところが、秦氏は全く反省ぜず、近著「昭和史の謎をおう」では逆に板倉氏を批判しているのだから恐れ入る。「曽根一夫という人物は南京突入部隊の中にはいなかった」という板倉氏の指摘が間違っているという証明でもあれば感心するが、そうではなく、盗人猛々しい言い草で板倉氏を揶揄しているのだ。学者の無恥厚顔もここまでくれば手のつけようが無い。南京虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件と言う表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。どこに弁解の余地があるというのだろうか。秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのである。

・・・板倉氏と私は本業は違うが、「見るに見かねた」という点で板倉氏に深い共感を持つ。秦氏も専門家ならば、御自身が虐殺されたと主張される4万人のうち、何人が兵士、何人が投降兵(これは正規の捕虜とはちがう)、何人がゲリラまたは便衣兵とまちがわれた市民、何人が市民として虐殺された一般市民かを区別する努力をしていただきたい。概数でも結構である。その努力こそが専門家に期待したいところだ。

虐殺が問題なのは、市民を市民として虐殺する意図をもってなされた虐殺の場合である。通州事件やナチスのホロコースト、それにアメリカの無差別絨毯爆撃や原爆は、市民を市民として虐殺する意図を以てなされた市民虐殺だから、本物の大虐殺なのである。・・・・』


最近の富田メモでも、チャンネル桜の座談会で、秦教授は自説を展開するも、キャスターに仕切られて不満そうな顔をされている。
http://jp.youtube.com/watch?v=BJ-8j5OR9RA&feature=related
富田メモを検証した秦の論拠は彼の推測・心証のみ#2

http://jp.youtube.com/watch?v=aIWA2GrTz0Y&feature=related
富田メモで日経or半藤が嘘を付いた可能性!

副島氏も、東京裁判ショーで海軍側に刑死者が出なかった理由として、海軍がアメリカの意向にそって参戦したからというプロットを出しながら、南京事件については、秦氏の旧著のみを信じる、とする姿勢にはおかしさを感じてしまう。

満州国はイギリスが将来ユダヤ人も入植させるつもりで、陰でサポートしていたなどと語るのに、そこの責任者でもあり、杉原千畝が6000名ものユダヤ人を極東に送ったとき、時の東条氏その人が異論を唱えれば無事アメリカへいけなかった、という陰の功績者が、アメリカらA級戦犯などという事後法による分類で、海軍と対比させて世界征服の陰謀の中核を担ったような勝手な筋書きで、戦争責任を負わされた。

週間新潮の終わりの部分では、高山教授のコラムが掲載されているが、ちょっとまえ、ルーズベルトが南京事件を戦後裁くために、蒋介石にできるだけ日本軍に手向かうように指示し、オーストラリアの新聞記者を忍び込ませ、南京大虐殺の本を書かせたようなことが、書いてあった。毎日の英文紙に、でたらめな与太記事を書きなぐっていた男もオーストラリア人だった、という記事の関連であったと思う。

昭和19年になってから、突如米軍が宣伝戦で、南京大虐殺を海外で放送し始めたのであった。
それで20万にという数字は、アメリカ側が言い出した数で、裁判ショーで中国は30万以上と言い出したが、二度にわたる「証拠」提出も、採用されなかった数字である。アメリカが言い出した数字で終わっている。中国はその後江沢民一派などが30万という数字を水増ししている。

最近のめだった動きとしては、『The Politics of Nanjing ~ An Impartial Investigation』(南京の政治学~偏向のない調査)という本が英語のペーパーバックとして出版された。

学術書であり、秦氏の中公文庫のような類ではない。

内容は、1937年末から1938年にかけて南京に進駐した日本軍による虐殺があったかどうか、これをつぶさに検証したもので、秦教授の本ようなインチキ資料を漁らないためにも、日本人の証言、日本人の調査によってもたらされた証拠を一切使用していない、という。

戦争犯罪人裁判で提示されたアメリカ人、中国人、欧州人の証言や証拠のみで、その判決内容を構成したものだけに限った、という。

著者は立命館大学教授、北村稔氏であり、それをアメリカのハル・ゴールド氏が英訳された、という。

著者は集めた証言・証拠を分類し、それらひとつひとつが生み出されるにいたった、由来・背景・事情をコモンセンスでもって鑑定し、その信頼度を確認していく。また各証言が証人によって実際に目撃されたものかについても詳細に調べ上げていく。・・・そして最終的に、虐殺と呼べるような事実はなかったと結論付けた、という。(激論ムック146:中学生にもわかる慰安婦・南京問題 西村幸祐責任編集、オークラ出版、2007年7月)

北村教授の本の内容を、日本外国特派員協会で著者をゲストスピーカーとして招き、各国の特派員たちの前で発表した、ことは新聞記事でも紹介された。そのころまでに、私も、いろいろなソースからほぼ確信できる状態まで、情報を集めていた。

うち一例を紹介しよう。神田の学士会館での講演内容の一部である。講師は、もと東大教授で、現拓殖大教授の藤岡信勝氏である。時期は、やはり昨年の6月ごろであったかと記憶する。

先生は記憶すべき数字として、0、20、26、143、300を南京事件の真実を描く際のポイントになるとした。
0とは、中国共産党の毛沢東は、何回南京大虐殺について抗議したか!?  0回というもの。

20とは、いわゆる20万人という意味の20。南京の安全区の15人の委員が20万人の市民がいるから食料をくれ、と何度も日本軍に手紙を出している。12月17日から27日まで20万人と手紙で言っている。そして翌年1月14日には25万人に増えている、という。

この間、殺人事件は26件という記録が。うち一件のみ、日本軍が止まれ、と言ったの聞かずに逃げ出したので、後ろから撃ったのを見た、という東京裁判でも証言したマギー神父の証言だけが目撃談としてある。目撃はこれだけ。渡部教授も以前から指摘され、それ以上は言わなかったが、それ一件だけの目撃だったら、どうやって大虐殺などできるのと、裁判のいい加減さをまず昔、直観したものの、秦教授同様、疑惑はずっと残っていた。

私が自分で調べた(といいてもネットで)資料で、ほぼなかったろうというふうに傾いたのは、皇族が司令官におられるので、もし盗みや狼藉をした将兵がおれば、盗品は返せるものは皆返し、謝るべきは謝るようにというようなお達しが、占領後2週間ほどした暮れあたりに、松井大将名か何かで出された、という文書の存在。

143というのはレイプオブ南京などで使われる証拠としての写真。これがすべて偽モノと東中野修道氏などの調査で判明。一枚もないとなると、・・・・・。

レイプオブ南京もたくさん売れたことになっているが、北村教授の本を英訳したハル氏の調査では、アメリカ人はほとんど買っていない、という。どこかの団体が大量購入した側面が強いようだ。

最後に、300。1937年12月1日から1938年の10月24日まで国民党政府は漢口で300回の記者会見を開いている、という。この記録が台湾に眠っていて調べたら、ただの一度も南京大虐殺についての抗議が残っていない、という。毎回平均35名の外国人記者や外交官たちがいたので、きそって日本非難の宣伝をやったのに、その内容は、一行たりとも虐殺の抗議はなかった。

その中には、しかし、「日本軍の12月13日に入城してからの姦淫、放火、略奪など、要するに極悪非道、人間性の堕落した状況を宣伝できて、うまくいったと書いてあるそうである。

南京安全区の記録には、多数の姦淫、放火、略奪があったと記録されているが、それらの2/3は夜間に起きたものだという。当時、南京は31日まで停電で、日本軍は午後9時以降夜間外出禁止令が出ていた、という。
ある国民党の軍人は、夜間に外出する勇気のある日本人はいない、と書いているそうである。


なかのひと

ゼロとはいえないが、大半は敗残中国兵ではないのか???

月曜日, 10月 20, 2008

自作モータロイを投入してようやく1300キロほど走行した。

ここ数日めまぐるしく状況が変化したので、自作してトライする人たちのためにも、記録を残しておきたい。

取り扱い説明書や、他の使用例報告にも有るとおり、正規のモータロイでも、投入後だんだん効き目が出てくるが、燃費は走行二千キロ未満ぐらいではむしろ低下する、とされている。

それ以降は、じわじわと効き目が出てくる、と取れる。私の場合は、自作で投入量の加減が自由に出来るので、経験と今度のバイクのタンク容量を考慮して、けっこう多量に入れた。(規定の数倍くらい)。それも大きさもまちまちで、転がり方や振動の受け方にも多様性を持たせた。幸い、タンク基部の形状から、左右どちらかの底にたまった自作モータロイは、一箇所に集中してとどまっているようであり、3000回転も回せば、タンク振動と、相互干渉も加わり、
成分がガソリン中に溶け出しているようであった。

そんな場合、投入後、約200キロほど走ったら、すでに効き目らしい効果が出てきた。回転のあがり方がスムーズで、スピードも出やすく燃費もよさそうだった。

その後、ガソリンが減ってからのほうが、効き目がはっきり出た過去の経験から、リザーブになるまで給油せず、比較的ラフな運転(振動がよく出るように)をしていた。

すると、ガソリンが減ってくると、(満タン後150キロ走行ぐらい、240キロほどでリザーブとなる)、たしかに走行感覚がどんどん変化してくる。

エンジンもこの自作モータロイは初体験なので、渋滞で発熱すると、今までにないような音まで発したりしていたが、冷めてくると収まっていた。とにかくよく回る(アクセルを開けていた)ので、乗るのが楽しかったが、燃費自体は普段と変わらずか、むしろ悪化した。これは納得できる結果だ。

満タン給油を二回ほどして、そろそろ投入後千キロを越えて、エンジンもだいぶなじんだかんじなので、燃費テストをしたくなるのは人情。ここへ来る途中、二度目の満タンへ移行途中、
調子良かったエンジンがふと気づくと、重く回るように感じ出した。それで、無意識に、これは成分がいままで、シリンダー、ピストン系へまず供給されていたのが、オイル内の成分も高まってきたので、終にクランク軸回りにも浸入しだしたためと考えた。

ただ、ガソリンからの供給なので、オイルを通して効き目が出てくるまではまだだいぶ時間がかかるだろうと考えていた。

それでも一通り、成分が一巡したし、と燃費テストをやってみた。ところが、何の間違いか、14.8あたりの値しか出ない。これは時間がなく、決めてあったコースでは無い。それで、気を取り直し、いつものコースを翌日テスト。しかし、結果はにたようなもので、15.0しか出なかった。

一瞬、結果の悪さに愕然とした。やはり、自作は失敗だったのでは!?という思いが盛んに起こる。それで、過去の例を調べていたら、いったん燃費は落ちる。2000キロほど走らないと効果はでない(燃費自体に関して)とあった。それで、もう一回、しつこくトライすると今度は15.3であった、大差はなかった。少し、落ち込む。この調子だと、何時になったら回復するやら!?

15.3という数字のあと、交通量の少ない場所でゆっくり走ると、なんと、今まで感じたことのないようなゴツゴツした感じが出ている。調子がいいが振動がでる、と自分で書いていた原因はこれらしい。

それで、1日置いて、今度は高速を使ってスタート地点へ行き、テストしながら帰る、という手を使ってみた。今まで、投入後一回も高速走行はしていなかった。高速走行すれば、常時3000~4000回転で、タンクの振動も申し分なく、普段使わない領域も使うので、エンジンになじみやすいだろう、という判断である。

しかし、高速を降りたときの燃費は、普段は14.5~15.5だが、今回は13.9ぐらいであった。やはり、2000キロ走行はしてみないと、と思ったが、自作製品ゆえ、心もとない。

給油して、走り出すと、今度は昨日感じたゴツゴツ感が消えている。おっ、これなら以前の感じに近い、と思った。それで、昨日と同様、静かに走っていく。途中、坂道発進の信号があって、たいていここでは止まるのだが、ゆっくり走っていた(60)ので、抜きたくてうずうずしてた4輪が後ろに止まっていた。先に行かせるつもりでゆっくり発進したつもりでも、意外と回転はあがり、後ろも無理に抜こうとせず、次の信号までは先頭をペースを上げて走ってしまった。

その後は、惰性で走る感じで、この感じは今までとはちがい、クランク系もなじんできている感じ。これなら、少し、昨日より回復するだろうと感じていた。音も静かで、新聞配達のバイクがノンストップで県道へ出ようとして、こちらも急ブレーキをかけ出したら、あちらが急停止して、難なきを得た。ライトが下向きで、静かだったので多寡をくくっていたらしい。

ライトだけはもう少し何とかならないか、と思っているが、飛ばさない限り特に問題はない。

一般道から国道へと移り、ペースが上がるが、アクセルを開かなくても、スピードは結構でるが、抑えて70以下ぐらいで走る。あっというまに目的のセルフへ。ここは149円だが、昨日は少し距離を伸ばして145円へ入った。今日は、結果だけが目的なので、いつものコース。

タンクを開けて、オヤ!?と思った。意外とヘリが少ない感じ。それでも昨日よりいいだろうくらいで給油すると、距離は決まっているし、給油量をみただけで、リッター17.0をマークしてしまったことがすぐに分かった。これで、自作モータロイへの心配は吹き飛んだ。いままで、超えようとして一度も超えたことことのないリッター17を超えてはいないが、達成したのだ。まだ、投入後1300㌔を少し超えたあたりだ。濃い目の投入が功を奏しているらしい。

実に高速走行以外、何もしないで、たった一日でリッター1.7キロも回復してしまった。こうなると、一度高速を含めた遠出を計画したくなるが、今のところ時間が許さない。ガソリン価格がどんどん下がりだして、やはり出費が制限されだしたのもうれしい。


なかのひと

土曜日, 10月 18, 2008

5年前、弟の車にモータロイを入れました。
年に2度くらいしか会わないのですが、その度に明らかにエンジンが静かで滑らかになっているのがわかります。
またノッキングが減りました。
燃費も10%弱良くなってい・・・・
http://bluebird-nenpi.seesaa.net/article/101103594.html
車では、あまり効果がないという報告が多いが、1968年式 日産 ブルーバードSSS 1600ccではおよそ10%の燃費向上がみられた、という。おそらくこの時代のガ疎林タンクは金属製だったためだろうと思われる。

1000cc CB1000SF /96年 15 18 奈良県 メインスタンド取り外し、ノジママフラー取り付けのみ。
1000cc CB1000SF /92年 17 20 愛知県 ノジママフラーのみ
http://www.blogger.com/post-edit.g?blogID=37999473&postID=4938577028277360070
では上のように、CB1000SFの2例のデータも出ているが、これはBMWR100RSとほぼ同じで
あり、このくらいが標準だとすると、私のははっきりいって悪燃費。燃費の15 18とあるのは街乗りで15、遠出で18ということだろいう。私もそれに近いレベルまで「回復」!?させようと悪戦苦闘中。どれも街乗りよりも3キロほど遠乗りで伸びるのは共通だ。

車では、まだ効果があった、という報告が・・・
『2 中古車店店員さん UID:51DF0******
2008/01/04 7:50:00 ID:283****

仕事柄、複数の同業者、関連業者、お客とネットワークがあり、添加剤の体験談なども良く聞きますが、マイクロロン(これはヤナセでも扱いしているよね)は、はっきり言って効果無しという結論の意見が、今まで聞いた何十例に於いて100パーセントに近い位でした。

私自身、添加剤の類は信用していないが、15年程前、東急ハンズと数店の代理店で売っていたモータロイ(オートメカニックを読んでいた方ならページ隅にあった広告が記憶にあるでしょう)に興味を持ち(価格も比較的安かったからね)私のファミリアターボ(四駆)・3rdカマロ・シティーカブリオレ(今も3台共に所有)に燃料添加(金属系固体・溶けて燃料と共に運ばれ長年に渡り燃焼時にエンジン内部をコーティングする効果があるとか)していた時には、3台共に変化が現れた距離は異なるものの1000~2000キロ走行後に於いてのフィーリングが全く異なり恐ろしく滑らかに吹け上がる様になり、モータロイが溶けて無くなってしまった一昨年までは確実に効果を発揮していましたね。
今は製造中止に付き手に入らないそうだ。』
http://www.carview.co.jp/bbs/120/?bd=100&pgcs=1000&th=2832801&act=th


ツーサイクルバイクの場合、モータロイが効きだすと排気口からのオイルに湯の花のような色をした浮遊物が浮き出すことが多かった。それで、まだやっと1000キロほど走行しただけであるが、4サイクルでもそんな気配があらわれていないかと排気口の写真をとった。これをマイクロロンだけだった、まだニンジン君などをつけていないノーマルの時にもそんな画像があったっけ、と思い出し、投稿写真を探したらありました。

色をみると、はっきりしないが、今の方がカーボンの色が明らかに薄く堆積しているようにみえないだろうか?同じ携帯カメラでの撮影で光は夏と秋の違いはあるが、・・・。

シリンダーアースなどしない状態では、どのプラグにもカーボンが真っ黒に付着していた。今はどうか知らないが・・・・。マフラー内にもススが凄かった、とは車検を担当された方の弁。混合機が濃すぎるか、それとも・・・・。今はパワーはある、という乗車感はありますね、と言ってましたが、シリンダーアースをすると、吹けはよい感じはしているものの、今一の感はつきまとっている・・。

モータロイ入れてます
同じバイクの人に聞いたら燃費は16~18ぐらいってみんな言ってるけど
俺のは20は確実にいく だいたい22から23くらい
モータロイが効いてるのか 乗り方の問題か
http://ton.2ch.net/bike/kako/1010/10109/1010932763.html

モータロイの代わりに釣り用の重りを入れていたという話が、雑誌クラブマンの昔の号に載ってました。
半永久的。オカルト。安い。全て兼ね備えています。
回答者:noname#45918
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
07/06/18 20:11
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この回答への補足 なんと、燃費が5%向上しました!!
どうも、有難うございました。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3095836.html
似たようなことを考える人はいるものですね。鉛だけかどうか知りませんが。電柱標識まわりにも、柔らかい金属が巻き付けてあるのが外れたりしていて、これも使えるかな!?と思ったりしたものですが。

1995年式 カワサキ ZXR400 400cc オートバイ
[商品名] モータロイ
[メーカー] 不二貿易
[購入方法] ディスカウントショップで購入
[燃費向上率] 平均20km/Lが20km/Lに向上。0%燃費が向上。
[満足度] 0点
入れる前 入れた後効果なしお金の無駄だった。
http://kawasakbike-nenpi.seesaa.net/index-3.html
カワサキ車には効くようだ、と前に書いてしまったが、探せば効果のない例もやはりあった。
400でリッター20なら普通だと思うが、マイクロロンを入れたときも、つい吹けがよくなったとおもい回していまうので、同じか下がり気味のことがあって、比較の条件しだいの面もあることはある。

なかのひと

金曜日, 10月 17, 2008

その根性と気位見事なり

という見出しで「アメリカで日本人学生が奨学金をもらえるのにそれを断ったという話を書いてみよう」という一文が、サンケイ新聞に載った。君に伝えたい、日本。となっている。筆者は、評論家、社会貢献支援財団会長の、日下公人(きみんど)氏。

「慶応義塾ができたばかりの頃、池田成彬という学生がいて、ある宣教師がハーバード大学への留学をすすめた。奨学金の話はつけてあるというので、喜んで行ってみたところ。『いきなりあげる奨学金はない。まず1年間勉強して良い成績をとってからだ』というので苦学生になった。」

「学生食堂で友人たちが食事をしているあいだに給仕をしたり、先生のために図書館に行って本を取ってきたりで、私の知っている坂井徳太郎という方もその約10年前、教室の窓ガラスを拭きながら授業を聞き、夜自室に帰ってから記憶でノートを作ったそうで、スクール・ボーイというのだと教えてくれた。」とある。

「日本に帰る金もなく、貧乏のどん底の生活をしていると、見るに見かねて、援助しようというアメリカ人が現れた。
 喜んで飛びついただろうと思ってはいけない。明治時代の日本人には根性があった。
 『なぜ自分に金くれるのか』
 『貧乏で見ていられないからだ』
 『それでは困る。頭がよいからだ、と言ってくれ』
 『それはまだわからない。1年経って試験の成績を見なくては言えない』
 『貧乏が理由で他人から金をもらっては物乞いになる。自分は米沢藩の家老の息子で、もとはといえば武士出ある』と言って奨学金をことわり何とか借金して日本へ帰ってきた。」という。

福沢諭吉塾長にその旨を報告すると、奨学金をあげるからここの卒業生になりなさい、と言われたそうだ。

 この池田成彬は、卒業後、三井銀行にはいって常務になり、・・・昭和12年には日銀総裁、13年には大蔵大臣にもなった。
今の日本は貧乏なら金をやる、というODAを世界に配っている。まるで品がない、日本も相手も。こういうお金だけで物事を考える人が上にいる国はいつかは崩壊する。・・・などとかいている。

本欄でことしの10月5日でとりあげた副島隆彦氏の『時代を見通す力』(副題:歴史に学ぶ知恵恵)には、この池田成彬について、ある疑惑を取り上げている。

それは昭和5年の金解禁に関するもので、浜口雄幸首相と蔵相井上準之助が金解禁を断行したのだったが、池田成彬は、戦後そのことに無関係だったかのような、井上の三井内部では上司だった池田が、政界に移った井上の変節を驚いてみせているというが、・・・・。

1930年(昭和5年)の時の金解禁は1998年から日本に布かれた外国資本の日本国内流入の自由化政策である「金融侵入自由化政策」(金融ビッグバン)とそっくりであるという。

あの時浜口雄幸ら日本の政治指導者たちは、その後の世界が「世界大不況」から大戦争に向かうことを予測できていない。大国同士が植民地の天然資源の争奪戦を行い、不可避に世界戦争へと向かうという冷静な判断が出来なかった、という。・・・全く同じことを最近の小泉内閣が行った。小泉純一郎と竹中平蔵はアメリカ政府と、それを背後から動かすニューヨークの金融財界からの厳しい要求をうけて、これに忠実にしたがって大切な日本国民の資産をアメリカにどんどん差し出した。・・・などという。

『1929年、ニューヨーク発の世界恐慌の起こったまさしく同年に、日本は「金解禁」という世界の嵐を国内に呼び込むことを指導者たちはしてしまった。為替が激しく変動しているので日本企業は輸出の計画が立てられないで困っている。世界の一流国は皆金解禁をしているのだから、というのが表面の理由であった。』

『この「金解禁即時断行の建議書」は、1928年10月(昭和3年)に三井財閥の大番頭で東京手形交換所理事長をしていた池田成彬(しげあき)が提出している。このあたりから日本の金融のかじ取りが怪しくなっている。・・・その頃の日本は慢性的な借金国家であって借金の返済で首が回らなかった(今の日本は大黒字国家なのである。それなのに!)。だから借換債を発行して引き受けてもらう必要があった。・・・なぜなら日本が金解禁した翌年にはイギリスがついに金本位制の停止宣言をおこない、その10月には日本も金輸出の再禁止という赤っ恥ものの緊急な政策転換を迫られた。』という。

・・・・『金解禁に反対していたはずの井上準之助蔵相が、なぜ金解禁断行に転じたか?』
日本の歴史、ファシズムへの道、中公文庫ー187には、『かれはもともと高橋是清の子分であり政友会に近かったといってよく、田中内閣ができるとき、外相に白羽の矢を立てられたことさえあったはどだった。その井上が突然民政党に入り、しかも蔵相となるや、これまでの主張をがらりと変えて金解禁にのりだしたのだから、世間はあっと驚いたものだった___大内力(つとむ)の文

民政党ーロックフェラー系 三菱系 :  政友会 ロスチャイルド系、三井系という図式が随所にあらわれるのもこの本の特徴。幣原喜重郎の奥さんも岩崎家の4女だった、という。日英同盟廃棄推進者だった。何となく、臭いますね。

『私(副島)は今では井上よりも池田を深く疑っている。1932年殺された同じ三井の大番頭の団琢磨よりも池田成彬のほうが格が上だったはずなのだ。団琢磨は死んで、どうして池田のほうは暗殺されないで戦後もずっと生きて「資源派財界人」になったのか?その謎解きは以下のとおりだ。・・・・・(秘密)・・・・・にしておこう。詳しく知りたい方は、本書275ページをどうぞ。

浜口と井上が人が変わったようになって強引に実施した金解禁は、やがて右翼の攻撃を受け二人は次々にテロで倒れる。おそらく口封じである。そしてそのわずか三ヶ月後の5・15事件で犬養首相(政友会)も殺されたのである、と。幣原も、真珠湾攻撃時の背信の外務官僚も戦後勲一等を受けている。坂井三郎氏の上司だった海兵出の笹井中尉機を撃墜した米軍パイロットも同様である。こちらは、空自育成の功績で。

金解禁は平成の「金融ビッグバン」によく似ているという。歴史は繰り返さないが、繰り返しているように見えるだけなのか?それとも・・・・・国立公文書館は日本にあるのか!?

なかのひと





 

木曜日, 10月 16, 2008

また、ネットで拾った話題について。

地球温暖化の原因にCO2が取り上げられて久しいが、最初から、この説にはもう三十年以上も前から懐疑説があって、私が若い頃には、寒冷化へ向かうという説のほうが有力だったような気がする。気象庁勤務の根元順吉氏が、『三陸に逃げる』などという著作をだされたころの話である。

氷河期が近づいているという話題もここで取り上げたが、単なる説の紹介以上の域を脱してはいなかった。しかし、さいきん日本の科学者でもそういう考えを表明してることがわかった。
http://blogs.dion.ne.jp/fujun/archives/7498278.html

「異説、地球温暖化」 ― 生命と地球の進化論 ― というのを唱えている学者がおられて、
以下のサイトでは、その講演要旨がPDFとしてダウンロードできる。
http://www.hondafoundation.jp/library/pdfs/hofrep116_j.pdf

これは30ページにも及ぶ内容なので、てっとり早く中身を知るのには、幸い、いろいろと解説してくれている方々がおられる。
http://blogs.yahoo.co.jp/mutsukarilab/44838173.html

http://hanafarm.blog84.fc2.com/blog-entry-73.html

http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/420e724c37986505354a89a4a1699410

丸山教授の講演の一部を見ると、面白いたとえ話がでている。空気中のCO2の量について、今一万個の空気中の分子を考えたとき、二酸化炭素は4個しかない、という。これが6個になろうが温暖化に効くはずはなかろう、というのは直感的に普通の科学者が思うことです、とある。

温度があがると二酸化炭素も水中から抜け出て多くなる、まさに原因ではなく、結果なのだという。いままで、私は、戦後始めて、学校のビニール温室というものが、冬でもいかに暖かいか、ということの強烈な記憶があり、後年、二酸化炭素の温室効果というのを学んだが、どうも冷静に考えずに感覚的に捉えすぎていたようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/温室効果
分かっているように錯覚していただけで、実はちっとわかっていなかった。「地球が寒かったとき」を翻訳した桜井邦朋教授も、海水から自由に水素を取り出してエネルギー源にして、無尽蔵に使えるとしても、発生した熱を放射で宇宙に逃がす地球の能力は、限界があるので、地球温暖化になってしまう、ということを以前言っていた。CO2が増えたことは確かだが、すると、車で出されるCO2よりも、車で排出される無駄な廃熱のほうが温暖化に貢献しているだろう。

ハワイは広い太平洋の中にぽつんと観測点があるので、地球の平均を代表する可能性が非常に高い、という。
講演の図10に過去数十年の気温とCO2の季節変化を示しているが、気温のピークが当然ながら、CO2より二月ほどはやい。全体としてみて、常に気温の上昇が先でCO2が結果だということを示している。二酸化炭素の増加とは、温暖化の結果であって原因ではない、と書いている。温暖化の原因は太陽の活動が効いていてさらに磁場とかもっと別の要素もあり得るとうことです、としている。

図11には、桜井教授が紹介したように、過去400年の気温変化が太陽の活動度の変化だけで説明出来るとしている。

太陽と地球との距離は一定ではなく、地球軌道の外側に木星や土星のような大きな惑星がくると太陽から遠ざかったりするし、地軸自体がある周期でコマ振り運動をしているので、北半球が非常に効果的に暖められる時代とそうでない時代が周期的に現れ、10万年周期とか、もうすこし程度の小さい二万年周期なども出てくるという。

蛇足だが、ペンローズ会議という国際会議で、ドイツから来たバイザーさんという方が、過去6億年の気候データをもとに地球温暖化に対するCO2犯人説はまったくナンセンスだと断定したそうである。
しかし、彼は丸山教授に、自分は引退したから好きなことがいえるが、君はまだ若いから用心しなさい、と忠告されたと。

反捕鯨とか、タバコ害悪説などの裏には必ず仕掛け人がいる、というのは養老教授であるが、
噂では、自動車業界用語のための煙幕キャンペーンの疑いもあるという説も。

なかのひと

水曜日, 10月 15, 2008

ネットブラウジングをしていて偶然見つけました。

杉原誠四郎氏の講演を聞いた、という感想ブログ。杉原誠四郎とは、ウィキペディアでは、概略
『外交史研究では、日中戦争・対米英戦争に関わる外務省及び外務官僚の無責任体質に問題があると主張し、外務省の戦争責任が隠蔽されたことによる戦後の日本の歪みを指摘している。
杉原の広範な研究活動を縦貫する大きな柱は、敗戦後の占領政策の下で日本政府、日本人がどのように対応し行動したかを明らかにする、という点にあるといえる。敗戦直前の外務省幹部による公文書の隠蔽、占領期における共同謀議的な口裏合わせや揉み消しにより、歴史の真相が巧妙に隠されたと考える杉原は、公開された限られた資料を深く読み込むことによって、隠蔽された事実をあぶり出すという独特の研究スタイルを確立した。』などとなっている。

講演とは、真珠湾攻撃に関するもので、ルーズベルトは事前に知っていたとするものだ、という。
http://yamakarashi.iza.ne.jp/blog/entry/750999/
私は、すでにブッシュ大統領が、9.11テロを事前に知っていたとする立場だし、であるなら真珠湾攻撃はなおさらそうであったはずだと固く信じている。東条英樹首相は、真珠湾攻撃を事前に知らなかった、と最近知った。海軍が独自に極秘に行ったもので、それなのに絞首刑。海軍軍人に、一人も刑死者がいないことに不思議に思っていた矢先、海軍内にアメリカの意向に沿ったそったスパイが何名かおって、ルーズベルトが望んでいた日本側からの『最初の一撃』を行ってしまった、というのだから、さらに驚いた。そのことは、二度にわたってここでも触れた。

今回の指摘で、私にとって目新しいのは、いわゆるハル・ノートはアメリカ国民には一切しらされていなかった、という点。アメリカ国民は参戦を望まないのが大勢であったから当然のことだ、としている。また、アメリカが日本の暗号を解読していたのみならず、日本でもアメリカの暗号を解読しており、そのことをある日本人が漏らした、という。これは決定的なミスである。
ルーズベルトはこれを利用して、アメリカの暗号を日本の通信に利用して、アメリカは更なる交渉を考えていない、これが最後通牒であると思わせた、という。

海軍が(山本長官たちが)真珠湾攻撃に際し、外務省の出先が宣戦布告の暗号電報の翻訳に手間取り、開戦後の1時間半ほど後にようやくアメリカ側に手渡し、これをもって日本側のだまし討ちによる先制攻撃ということになって、禍根を残した、ということになっていたが、私は、山本長官がスパイなら、この大使館員もスパイだった、とすぐに思った。渡部昇一上智大名誉教授は、この館員たちが戦後何のおとがめもなく、昇進し勲一等を得ていることを批判されていて、またNHKの反日姿勢批判として、NHKでマッカーサーが解任後、米上院軍事委員会で大東亜戦争の目的は9割方自存自衛のためのものであった、と証言したことを放送しないなら、NHKの視聴料は払いたくない、などとおっしゃっていたが、先生はまさか海軍までもがアメリカの手先とまではその時点ではご存知なかったはずだ。

伊藤四郎氏も、ラジオ番組の中で、アメリカが日本の真珠湾攻撃を事前に予知していて、攻撃させたなら、あの日米戦争の意味は全く異なった文脈になる、とこのルーズベルトが事前に知っていた説に、数年前に触れていた。

宣戦布告直後に、真珠湾攻撃があったというのと、宣戦布告前にあったというのでは天と地ほどの開きがある。ルーズベルトはアメリカは参戦しないという『公約』で大統領になったのだから、アメリカ自らは決して自発的に参戦できない。日本側と偶発的武力衝突の恐れがあっても、決して手出しをするなという厳命が下っていたという。

副島氏の先の著作によれば、米高官たちは、真珠湾攻撃の最中、夫人同伴でお茶会をしていて無線中継で模様を聞いていた、という。(外交文書でも一部出ているそうだ)。本当に日本軍が来るの!?という問いに、大丈夫、ジャップたちは必ず来ます、と言っていた。

この本は、ことしの8月に購入した本で、著者たちの大半が、私が好ましからずる研究家たちと目する何名かが中心になって書いているが、全く目を通さずというわけにはいかんだろうというわけで、買った本でまだ全部は読んでいない。副島氏が文芸春秋社というのは、アメリカの代弁をする社だからという指摘で、初めてこれまでの何かうさんくさい、と思っていた霧がはれた気がする。

読んで見ると、対談も各個人の物の見方が反映されていてわりによく出来た本といえるかもしれないが、いかんせん文春文庫ではアメリカの戦争誘導だどおくびにも出てこない。中西輝政氏だけは、連合国側の公文書がほとんど未公開な現状で、限界を述べるとともに、多数の工作活動を解明して後の昭和戦争史の座談会を心から希望する、としている。近年の「神風特攻」への若い世代の関心の大きな高まりは「鎮魂」としてより「覚醒」の営み
なのである、と書いている。・・・あまりにも健気な、あの庶民兵士の自己犠牲の精神は、戦争をどう意味付けたとしても文字通り日本民族史の精華として、千年たっても遺る「文明史的偉業」と言うしかないだろう、と結んでいる。

今日見たパンフレットにも、東大から学徒出陣した先生が書いていたが、沖縄戦で高専以上の学徒兵が(特攻を含んで)四百数十名戦死し、うち東大だけでも1割以上を占めていた、というようなことが書かれていた。

サンケイ新聞社では、かって英文で書かれたマッカーサー将軍の米上院外交委員会の写しを、有志に送り、それをテキストに変える作業を依頼していて、私もやったことがあった。それを
ネットで公開し、だれでもアクセスできるようにとの目論見であった。サンケイ新聞もMacを使っていることがわかり、うれしかった。メーラーが何で送っているかが、判別できるからである。日本の戦いは、大部分が侵略というより自衛のためだった、とマッカーサーも朝鮮戦争を体験して身にしみて分かったのだ、とは渡部教授の見解であるし、私もそう思う。マッカーサー親子は、観戦武官として日露戦争を見学していたからそのくらいわかりそうなものだと思うが、アメリカがしくんだ戦争であってみれば、そこまでいうのはよくよくのことであると思う。

日本海海戦も、イギリス武官たちが指揮をした海賊戦法であったという。世界三大海戦の一つとして戦史に殘る戦いも、そうであってみれば当然のことか!?

さて、『あの戦争になぜ負けたのか』には半藤氏が、他の著者たちと同様、一文を書いている。彼のタイトルは『むなしかった首脳会議』とある。私はこの人はアメリカの回し者ではないかと疑念をもっているのであるが、開戦直前の日米のやりとりについてこう書いている。

・・・米駐日大使ジョセフ・グルーも戦争がはじまり交換船で帰国したのち、「この会談(近衛・ルーズベルト和平会談)が実現し、合意に達していたならば日本の真珠湾攻撃はおそらく起こらなかったであろう」と米国務省のとったやりかたについての不満をルーズベルトに訴えている。・・・

・・・グルーはさっそくワシントンに報告し、進言する。近衛は日独伊三国同盟締結の誤りに気づき、離脱への勇気ある努力をしつつある。米政府はこれを認め、・・・首脳会談の提案を承知すべきである。・・・

しかし、マルス(戦いの神)は意地悪くできているらしい。日本が提案を行うのにこれ以上不運な時期はなかったのである。米海軍が日本の暗号解読に成功して以来、日本の国策方針や行動のことごとくが、コーデル・ハル国務長官以下外交筋の高官たちからは、単に南方への侵略政策をごまかすためのものとみれれていた、とある。

とくに提案直前の7月28日の日本軍の南部仏印進駐は致命的であり、最高に不信感をもったときに、首脳会談の提案がもたらされたのである、という。

・・・近衛の崖っぷちにたった絶対絶命のせっかくの熟慮と決意もはじめからアメリカに通じていなかったとみるべきか、と書いている。

とはいえ、チャーチルとあっていたルーズベルトは、アラスカのジュノーで近衛とあってもよい、という回答を野村大使にむけてだす。それ日本側は厳重な極秘のうちに会談の準備をすすめたが、いざというときになって、近衛書簡の内容の概ねがもれて(日本に日米のスパイがいないかぎりできないことだろうが、筆者注)アメリカの新聞に発表されてしまう。日本政府はアメリカに泣きをいれた!ということで、対米強硬・親ドイツ派の右翼や少壮軍人や軽躁な言論人たちが、この報に激高した、とある。

百年戦争というあたり、相手の外交文書が出てくるのも最低1世紀はかかるだろうから、まだしばらくはNHKの天下が続くことかもしれない。小室直樹氏はフルブライト留学生であるので、かなり大胆なことを書いたりしても、ある種のバイアスがアメリカについてはかかっている感じを、硫黄島の戦いの牛島大将の書で、読後半年ほどして感じ出している。要するに、いまだどれを読んでも疑問だらけ、すべてを疑いながら、読書を続けるしか手がない。

この時、日米和平が実現してはたまらない左翼日本人もアメリカから蒋介石へ首脳会談の噂を流す。蒋介石は、アメリカ宛に、日本軍の横暴ぶりをいっそう激しくアメリカに向けて打電し続けたという。週間新潮では、ルーズベルトが蒋介石に、アメリカが参戦しやすいように、アメリカのいいなりに、日本軍が行動しやすいように、日本軍を挑発することをもちかけれていて、最後は裏切られた、と言っている。南京事件なども、アメリカが言い出したことで、当時の蒋介石側記録には一切無く、最近そのことも判明している。

渡部教授は、日露戦争の講和後、南満州鉄道の共同経営を持ちかけられ、一人元勲たちとはちがって、その必要はないと反対して潰した小村寿太郎は正規の東大出ということで、みな不承不承従ったことが、日米開戦にいたる伏線であったと一時述べておられたが、ハーバード留学もしていたことは、今回初めて知った。副島氏によると、鉄道経営を申し込んだ鉄道王ハリマンはロスチャイルド系で、小村はロックフェラー系なのだそうである。それでは反対するはずだ、と合点した。コカコーラはロックフェラー系、ペプシはロスチャイルド系、ビールは・・・とみなそうなっているというのである。日銀人事もロックフェラー系とロスチャイルド系とが棲み分けていて、・・・・。なにしろ、ご維新いらいの外国勢力の両横綱がイギリスとアメリカ。ハーバード留学組の竹中教授と小泉首相は、戦前の金解禁当時の内閣の不思議とうり二つだという。

評論家の江藤淳氏(門人に福田和也、兵頭二十八がいる、という。福田氏も前出の本の筆者の一人で、私は買える方だと思ったら、そういう系譜の人だった、ということか。)
が、かって、関ヶ原の戦い以後、文芸は60年ほど途絶えてしまい、しかる後に新しい時代の作品として残るものが出だした、という意味のことを書いておられたというが、戦後60年を経過して、ようやくぽつりぽつりと新事実が顔を覗かせ、NHK的な戦後、戦中、戦前解釈(要するにGHQ史観)に穴があきだした、とでも言える時代に入ってきたのだろうか!?

まことに、技芸は永く、人生は短い。アメリカ、イギリスはそういうことまで操作して人を、歴史をねつ造して騙そうとするが、日本人は特に留意すべきである。根が性善説であまり疑わないから。

なかのひと

月曜日, 10月 13, 2008

ネットで拾ったモータロイの話題、かなり面白いと思ったので、引用させていただく。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/9094/kem03.html
『■モータロイ:

しかし、真打ちは、まだ他にいた。しかも、もっと、うさんくさいやつが(^_^;)
前々から、雑誌の後ろのほうの、しかも白黒ページで広告はよく見かけていたのだが、試す勇気が無く(それくらい、うさんくさいんだよね、広告が)保留にしていたのですが、何の気まぐれか、ある日衝動買いしてしまいました。
まあ、こいつは、今までと違ってオイルではなく、燃料に投入するという物で、オイルが行きにくいところもコーティングしてくれるというので、いいかなあと。
で、効果の方なんですが、上の2つの添加剤同様エンジン滑らか。回転スムースも多少は体感できましたが、何といっても始動性が格段に向上した。の一言に尽きます。
これに関しては、感覚や、先入観などではなく、事実として、はっきり確認出来たのです。例えば、今まで、冬の寒い日の朝にZZ-Rのエンジンをかけようとすると、チョークは必ずひいてました。そして、エンジンがかかったら、少しチョークを戻し、アイドリングより高めの回転で、しばらく暖機して、完全にチョークを戻して、アクセルを何回か、あおってから走り出すという、”儀式” が必要でした。ところが、モータロイを投入後は、真冬の雪が降りそうな日の朝でも、チョークをひかずアクセルもひねらず、ただセルボタンをちょんと押すだけで、あっさりとエンジンは目覚めるのです。しかも、その後アイドリングの回転数で問題なく暖機が出来て、すぐに走り出せたのです。
そして、こいつは、一回投入したら半永久的に効果が持続するというのです。すばらしいですね。というわけで現在アドレス君とヴィヴィちゃんにも入れてます。(2台とも新車時に入れたのでモータロイ自体の効果のほどは不明ですが調子は良いです』

などとなって、他の添加剤の体験記中に載っていた。
始動性がきわめて良くなった、という指摘に関心が、・・・・。私の場合、始動性は問題ないが、かけてすぐ、ジーゼル車のように走り出せて、変な冷機時のモタツキ感なく走り出せるところが、最近わかってきた。私のは、自作のモータロイもどきであるが、昔は、一個だけでは少ないと思い、自作したものも入れていた時期があり、自作でも問題ないようである。

また、このような回顧談も。
『過去に、ひとつだけ効果を確認できた商品がありました、"モータロイ"。 学生のころ自動車雑誌にも広告がたくさん出ていました。 米国の商品で錫の合金みたいなものでドロップくらいの大きさ。 燃料タンクに入れるだけで燃焼室のカーボン堆積がとれると。 スクーター、バイクに入れましたが本当にシリンダーヘッド、バルブ周りきれいになっていました。 ジャンク屋でポンコツ車を買うとよく燃料タンクに入っていたものです。 排ガス規制が始まって触媒コンバーターが一般化されるとともに消えました。・・・・』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=TR&action=m&board=1834969&tid=40bap0jbeea4nbcv9a5a4adbd8a4dea4la1aa&sid=1834969&mid=4156
ジャンク屋さんで、中古を買うとよく燃料タンクに入っていた、ということは、当時としては、地味ながらも隠れた名品だったのかもしれない。ベトナムなどでは、100cc前後のバイクに三人乗りなどして使用して、かれこれ10万キロ近く走る場合も多いというが、やはりかの地でも愛用者はいるのだろうか!?と思う。

http://kawasakiw1s.blog121.fc2.com/?q=%A5%E2%A1%BC%A5%BF%A5%ED%A5%A4
では『70・80年代の二輪四輪の真実

70・80年代の二輪四輪の真実。 良き時代と言われるこの頃の情けない事実。 不出来な!時代の 二輪四輪の、トホホな思い出です。』
と題し、昔の軽やバイクの思い出を多方面から回顧されている。

いまだに愛用し続けておられるのが、マイクロロンとモータロイだという、私にとってもうれしい話しも出ている。併用して、まったく問題ないということで、ここでもモータロイの密かな流行を感じ取ることができた。W3を愛車にされているらしい。

『こんばんは。キズを埋めるかあ。絶対にありえないと思う(笑)。まあ、私が使っているモータロイも似たようなことを謳っていたなあ(笑)。』という投稿も載っている某テストライダー氏のページでは、
『私はオイル添加剤の類は一切信用していない。当然2輪・4輪メーカーだって信用していない。どのエンジニアに聞いても鼻で笑っている。

Mr.Gripman同様、広告通りの効果が得られるのなら、オイルメーカーは黙っていない。また、OEで採用されているはずだし、きちんと最初から製品化しているはずなのである。実際、「NASA公認」とか「米軍公認」なんて謳っている商品があるが、本国アメリカなどではNASAや軍はそのような商品を全て否定しているのだ。ちゃんと公表もしている。

また、テレビ通販などで爆発的に売れた某商品などは、アメリカでは実験の様子のインチキぶりを暴露されていたり、他社製品などもアメリカ軍が公式にその使用を禁止しているし、日本で売られているアメリカ製の某製品などは、アメリカ政府から発売禁止命令を受けたものが、名前を変えて入ってきていたりするのだ。知らないのはユーザーだけで、本当にひどい話である。恐らく輸入元も知らないのであろう。』などという書き出しであるが、途中から、2サイクルオイルで、使用してもマフラーからオイルが垂れてこない、広島高潤のオイルはいい、とご自分のZX-10用の4サイクルオイル添加剤をテスト中とか!?。残念ながら、結果は次回にね、となっている。
http://blogs.yahoo.co.jp/pitts_driver/50712083.html

新しモノ好きの何でも紹介するブログ
http://atarashimono.seesaa.net/article/95612061.html

では、ー燃費を劇的に変える方法ー
なんてのはほとんど詐欺です、という書き出しで全くの詐欺は別として、ある種の個人的場合にしか効果がないようなものもある、としている。

そして、占いと一緒、当たるも八卦・・・なんて言葉も。それでもガンスパーク、モータロイ、アイオノン忍者?、ペックス、マニュアル車限定?(シフトで1、3、5速のみ使う方法)
およびブルーガスパワーをスバルレガシーで試して評価していて、面白かった。

結果的にお勧めは、モータロイ、と最後のブルーガスパワーでブルーガスパワーが最高ということだが、点火時期をいじる必要があって、車検を取ったらパーになっていたとか。その点モータロイは、レガシーで0.5〜1.0キロ燃費が伸びたという。4輪の場合、タンクの材質や、添加量などの選定が難しくバイクの場合よりも効果が薄い?ような気がしているが、如何だろうか?。ジーゼル車の大型車のように、むき出しの金属タンクのようであれば、バイク同様に近い効果も期待できようというものだと思っている。

ガンスパークはほとんど効果がなかった、としているがアクセルが軽くなった、としている。私もセローで一時使用したが、爆発タイミングが若干早くなるような気がした。レギュラーでいいのに、ハイオクを入れたときのような固い感じになって、結局戻して、50ccのミニバイク通勤のバイト君に譲ったが、ずっと使用していた。

4輪の例でも、こちらはランドローバーの場合、マイクロロンとモーターロイを中心に使用していて、10%の燃費向上だという。4万キロ台でいれて、現在8万キロオーバーでも黒煙皆無で低速のトルクアップはすばらしいとか、ふむふむ、うなずけますね。ただし、かけた金額からすれば、もう少しアップして欲しい、というのも正直な希望でしょうね。
http://landrover-nenpi.seesaa.net/article/101340568.html

テストライダーという仕事
というのをふたたび見つけ、モータロイの効果を確認した。
http://blogs.yahoo.co.jp/pitts_driver/archive/2007/8/7
では、上で紹介したカワサキZX-10での例だ。
『モータロイを投入して3000キロぐらい走行したのだが、経過報告を。

今まで走ってみて、「やっぱり効果があった」と言わざるを得ないぐらい、その効果を実感できている。

まず顕著なのは3500rpmでのエンジンの回り方。もともとのZX-10の特性と集合管のため、この回転域では若干落ち着かない傾向にあったのだが、結構スムーズに回るようになったのには驚き。今まではこの3500rpmをはずして乗るようにしていたのだが、気にせずして乗れるようになったのは大きな収穫。m・mさんのバイクは3500rpmは大丈夫ですか?

後は燃費。これは確実に上がっている。このところセルフで給油していなかったので、正確には計測できていなかったが、350キロ走っても5リットルもガソリンが残っている時が2回あったが、今までではありえなかったこと。峠でガンガン走っているのにだ。次回は自分で給油して正確に測ってみるつもり。・・・・』などとなって明らかな効果を確認しているもよう。

どうも、マイクロロンといい、モータロイといい、カワサキ車ではよく効果が確認できるようだ。バイク屋さんで、マイクロロンはどうですか?と効かれホンダ車は燃費改善効果は薄いというのが定評です、と答えざるをえなかったが、『やはり、ホンダ車はそういうものを使わなくても言いように良くできているんですね!』といわれ面食らった。

剛のホンダ、柔のヤマハとか昔からいわれていたが、たとえばコンロッドひとつをカワサキとホンダで比べると、カワサキ車は大型ハンマーで叩いても曲がらず、キーンと跳ね返されるが、ホンダ車では柔らかく変形してしまう、とかいう記事をバイク雑誌で見たことがある。
昔のZII時代でも、発売直後のカワサキ車の音は独特の凄みがあって、そういう記事を納得してしまう要素があって、伝統は今も基本的に変わっていないのかもしれない。それで、金属同士にのタッチを和らげる添加剤を使うと、効果が出やすいのでは!?とも思えてしかたがない。

後は、この自作モータロイ(この名称が適当かもしれない。検索中、自作モータロイは可能ですか!?というのも見かけた。)でもホンダ車にも効果があるかどうか、だけなのだが、今のところ効果ありそうではある。テストライダー氏も3000キロは走行しての結果だったようだ。まだ1000キロも走っていないが、自作ゆえ大量に入れたので、速く効果が現れることを期待している・・・・。

なかのひと

日曜日, 10月 12, 2008

車検が終わって、オイル交換もされていて、エンジン音が全然違う状態で返って来た。購入当初のような排気音。

抜いたオイルごと、テフロン系添加剤は消えてしまった。しかし、一万キロオーバーのオイルなので、そっくり抜けてしまっても悔いはもちろんない。

今はそれより、通常オイルの状態で、モータロイもどきがどういう反応を見せるか興味深々。
モータロイをプラスチックタンクのプジョーで試したという例を見つけた。
http://www9.plala.or.jp/j_pyramid/peugeot4.html
事前に、鉄板でこすり、粉を作って入れたというから、執念は、私以上。もちろん、効果はあった、としている。
さらに皆さん、私と同じような工夫を、それぞれの状況に応じて対応策を見つけてがんばっていらっしゃる。
http://page.freett.com/triumph_tiger/cla.html
さいたま市での会議に出て、いろいろ資料を受け取り、肝心のかばんを机の下に置き忘れたので、あわててバイクで取りに行った。往復60キロ程度。

暖機なしでスタートして、行きは比較的スムーズだったが、帰りは渋滞に見事にはまりエンジンは高温に。のろのろで止まっていると、エンジンからいろいろな音が出てくる。最初、違和感のある音は、後ろの軽自動車の音かと思っていた。そのうち、ふと気づくとなんと自分のエンジン音で、左右で音が違う。

いつもとちがうその音は、エンジンの左側から出ていた。1番か2番かまではわからないが、
ガラスを磨くような、キュッ、キュッというようにも聞こえる。テフロン系潤滑成分が落ちて、わずかに皮膜として残っている成分同士が、こすれているかのようだ。

以前なら、プラグに4個、ミラクルパワーをつけると、明らかに過熱でエンジンが重くなり、燃費が落ちた。試行錯誤の末、左側1番と右側4番の2個だけなら、かえって燃費が良いことがわかり、三月ほどそれで乗った。しだいに、もっとトルクがほしくなり、真ん中二つにも結局つけたが、わずかな向上にとどまったので、やはり悪影響が出ていた、シリンダーアースも復活させたが、テフロン系添加剤の再処理のためか、過熱はなくなり、調子がよい状態であった。

その後、欲は際限がなく、こんどは昔良かった思い出のモータロイのことを思い出し、だめもとで、スズ含量の多い糸ハンダを溶解・再固結させ、モータロイもどきとして、タンクに適量(複数個)投入してある。まだ、数百キロで、効果が出るか出初めか?というところ。

それで、車検でオイルが一新し、また、テフロン系潤滑材でカバーされて気づかなかった部分で、やはりまだ過熱抵抗が部分的に残存しているらしい、と思った。もっとも、以前の走行状態ではっきり感じた熱抵抗と違い、走行中は気づかなかった。(実際には、ある程度あった、と思うが、・・・・)。

こんどは、渋滞での異常なほどの過熱時にのみ、偶発的に出たもので、今後こういう現象が解消されていけば、スズ・鉛合金の金属表面での潤滑作用の効果も、ある程度推察が行くだろうと、大して気に止めなかった。走り出すと、水温計はすぐに下がるが、それはセンサー部分での話で、エンジン全体でみれば、すぐには下がらず、両足が熱い。忘れた頃になって、ようやくいつもの水温に落ち着いた。

それで、また、時間の余裕を見て、冷機スタートで燃費コースを走ってみたら、15.8で、それまでは大体15.5前後が普通だったから、オイル変更による影響はなさそう。ホットスタートの帰りが本命のコースなのだが、前回と同じ16.2であった。このときは、少し寝坊して、通勤始めの時間帯と重なり、飛ばす車が多くて、ついついつられて飛ばしてしまい、前回の回転があがるに任せて吹かしたときと、同じ状態で、値も同じ、という結果で、オイル変更、テフロン系潤滑材除去の影響は、特に感じない結果となった。

この通勤だけでない比較的まとまった距離を走行したので、翌日あたりから、何か効き目が出てきた感じである。12日の日曜の朝、天気は快晴で、温度も気持ち涼しいくらいで、通勤以外の用もあり、走って見たが、調子よさそう。

モータロイもどきは、入れて200キロ走行当たりから、なにか前とちがう感じが出てきたが、今回も車検でオイル交換後、200キロちょっとすでに走りこんでいる。

そして、まず感じる変化の一つとして、まだ、寒い時期ではないものの、朝などは夏とちがい、それなりに涼しいが、暖機なしでスタートしてもたつかないことに気づいている。今朝も日曜日でもあるので、始動直後にスタートして何の問題もなく、静かに走れた。

日が高くなり、エンジンも通勤距離を越えて20キロ以上にもなると、本領がはっきりと出てくる。何か乗っていて安心感があって、定速走行しているつもりでも加速しているという状態。ストレスがなく、如何様なアクセル状態でも、それに反応した音の変化やレスポンスの挙動がダイレクトに感じられて、コーナーなども、いっそう楽しい。このまま、どこか遠くへツーリングに行きたい誘惑に、しきりに駆られる。

途中、十数台のツーリンググループに追いつき、追い抜いたが、音は明らかに静かだ!!!。
軽くすっと前に出られる。ただ、交差点のアイドリングでは、結構ハンドルに振動が出る。音も、規則正しい音と、排気管の内部で、爆発に強弱があるような状態を反映するかのように、リズムをとった合成音らしい響きもする。ゴロン、ゴロンと4気筒がリズムをつけて回っている感じだ。

そのせいか、軽く加速中も、エンブレをかけたときにハンドルに来る振動のような感じが手に伝わる。エンブレをかければ、減速に決まっているが、この場合、エンブレをかけたら、加速してしまった、というような感じ。

あるいは、アクセル一定で、セカンドギヤなどで加速していると、ガソリン供給に制限があるので、ある回転数まであがると加速に頭打ちが来て、ピストンがばらつくような感じになるものだが、そんな感じの振動で、かえって加速している。そういう走りをしていると、ますますエンジンが滑らかになっていくような気がしてくる。振動の洗礼を受けたあとだけに、静かさが進行していくと、はっきりと、快調さが実感できる。

昔のモータロイでの感覚とかなり似ている。そして、タンクのガソリン量が減ってくると、よりタンクは微細に振動するし、より残量ガソリン内の、スズ系の有効成分濃度は高まるので、より滑らかさは増してくるということで、これまでのように、セルフのスタンドで、満タン法で小刻みに燃費を計る、というような走りはしたくなくなって、あと1000キロほど走った後で、そうした燃費テストはしていみたいと思っている。

空いた一般道を、マイペースで坦々と走る。アクセルを絞れば絞るほど音は静かで、振動も収まるし、振動しても、エンジン自体は滑らかさや、ある種の柔らかさも感じるので、マイクロロン系の滑らかさとは、一味ちがう気持ちよさである。やはり金属同士が擦れ合う場所では、金属系の潤滑材が適しているのでは???と思ったしだい。
BMWバイクのCMで、『走る喜び」(Mit Freude am Fahren!?)というのがあるが、操縦する喜びが出てくるインスタントなモータロイ・カムバック・アゲインのような気がしている。

シリンダーでの擦道摩擦が減って、明らかに2000回転以下で気持ちよく走れる。その気持ちよさとは、昔CB72で、ワイドな4速ギアで、シフトアップすると、フライホイールマスの効果で、回転が低くとも、またアクセルをあまり開けなくても、後ろから押し出されるようなラクチンさを味わったものだが、そんな感じである。これは、本格的に走りこんだら、きっと燃費節減につながるはずだと思ってしまう。今がこのバイクの最上の燃費だとしても、この気持ちよさは明らかにプラスで、磨耗防止にも好結果だろう。

結局、電気系、潤滑系の両方がうまくかみ合わないと、好燃費というのは生まれないだろう。

ずっと、悪燃費で来て、プラグ交換したら、プラグのネジ溝あたりは、カーボンで真っ黒だったが、後で、sho様のプラグ交換レポートを拝見してみてびっくり、大変きれいだ。マフラー内も黒いすすだらけだったと、車検時に店長の弁。そうした面での改善も、効能書きには書いてあった。また、モータロイを使用したカワサキ車のレポートでも、プラグは大変きれいで、電極が解け気味とか。要するに、電気系は問題なく良いのだろう。私は、シリンダーアースも最近ようやくまともな方式にして、電気系の改善を図ったつもりだが、まだ一ヶ月ちょっとしか経っていない。


なかのひと

金曜日, 10月 10, 2008



月曜日の晩に預けて、木曜の夕方にバイクが返ってきた。ナンバーを変更するとETC登録情報も、もう一度セットアップしなければならないというので、旧住所のままという簡易版で、お願いしておいた。

そのせいか、あたらしい住民票も必要でなく、覚悟していた額よりも安く、数年間にいわれていた一般相場の1割増しの値段で済んだ。リヤタイヤは二万キロを越したが、交換しないでも済んだ。エアークリーナー、ブレーキパッド、ブレーキ液、エンジンオイルの交換ぐらい・・・。

ライトが暗く、光軸もあわないというので、車検場でライトを掃除して調整し、ようやくパスしたとかで、受け取ったときはかなりロービームが下向きなままだった。少し上向きに調整したら、今度はアッパーがかなり上向きでなにかチグハグな感じが、・・・・。

アイドリング回転数を900にしてあったが、止まりそうだというので1000回転にしました、という。オイルを交換して、マイクロロン成分は抜けてしまったせいもあるし、完全にあたたまった状態での900回転だったので、整備状態での1000回転は、暖まると1050回転ぐらいのようで、
排気音も変わっていた。

モータロイもどき投入後ようやく500キロ走行で、オイルも通常版に一新したので、例の感覚はほとんどない。アイドリングも違うし。車検場まで運転して行ってもらったので、乗った感じから、エンジンの調子をどう思うか尋ねたが、回転の吹けあがりはいいようだ、との回答、体重も私よりも軽いし、CB1100Fに乗っておられるので、タンクが馬鹿でかく感じて、やはり大きすぎる、ということだった。


最後は磨き上げてくれていて、夜目にもきれいに見えた。ブラックのシリンダーも最近白っぽくなっていたが、なにかつや出し剤でもぬったらしく、再び購入時のような黒光りに戻った。左側にもシリンダーアースが見える。

そういえば、車検に出す前、あまり暖まらない状態でアイドリングを続けてバイクから離れると、よくプスンと止まった。まだ、4気筒すべてにミラクルパワーをつけた場合の熱抵抗が残っているのかもしれない。モータロイもどきを入れ出してからの変化だった。今回は、すぐ乗り出してしまったし、アイドリング回転数もあげたので、わからないが、冷機時すぐにかかって、そのままにしておくと、回転がだんだん落ちるということは確認していた。800回転が、600回転に。その状態で走り出していた。バイク屋さんには、これでは低くてダメだと思わせただろうことはわかる。5キロほど走ると800回転ぐらいにもどり10キロも行くとほぼ900回転
ぐらいになっていたように思う。

冷機状態のまま、発進してもほとんど問題なくスムーズに走ることは感じ出してはいたが、これがいいのかどうかわからないので、一定の暖機運転はするつもりだが、モーターロイもどきの効き目を感じたくなると、また、時間がないと、そのまま走り出してしまう。今のところ、
マイクロロン類が抜け落ちた感じだけははっきり実感できた、というだけであるが、一端会社へもどり、数分止めて走り出した後、乗用車に迫られたので、抜かせまいと少し加速したが、
調子はいいようだった。まあ、投入後、効き出すのまでに最低2000キロは走行しないと、という製品だったので、効果うんぬんはまだずっと先の話とはなるのだが。


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なかのひと

日曜日, 10月 05, 2008



8月に、年輪で紹介した副島隆彦氏(http://yhsvtex.blogspot.com/2008/08/blog-post_31.html)の最新刊に類する著作を先日購入した。内容は、前回紹介した劇画本を半分に以上踏襲した部分はあるものの、裏表紙でも書いているように、江戸時代の国学や朱子学関連の学者たちの、今日に及ぼす影響が、完全にあたらしい部分となっている。

副島氏については、学問道場というのを以下のサイトで開いておられるので、改めて紹介する。
http://soejima.to/

昭和史については、劇画もけっこうだが、文章化されたことで、より理解が深まる気がしたが、同じ内容だから当たり前であろう。

目次の中に、映画「カーツーム」でイスラム原理主義を解読する、というのがあるが、この映画、ハルツームともいう。コメイニ師とかホメイニ師とか新聞でも表記がゆれたことがあったが、同じこと。アラビア語やペルシャ語には。khではじまる名詞が多い。イラン石化事業華やかなりしころ、ビジネスマンの家族もペルシャ語講座を受講していたが、ホメイニ師登場で結局撤退を余儀なくされた。

大英帝国が絶頂期を極めていたころ、1880年代から90年代にかけての北アフリカでのイスラム原理主義指導者マハディがイギリス軍と衝突し、なんと大勝利をおさめたのだという。この事実と薩英戦争とが似通っている、と著者は指摘する。

反乱軍を鎮圧するために、ゴードン将軍が選ばれたが、彼は長く中国に派遣されていて、太平天国の乱を鎮圧した実績があった、という。

太平天国の乱を利用して、ゴードン将軍を始めとするイギリス軍軍事顧問団は、清朝政府に猫なで声で、「自分たち文明国の力を借りないと、清朝は滅亡しますよ」と外交交渉をした。
この太平天国の乱の最中の様子を、イギリスの対日戦略に従って、上海まで連れてこられて目撃していたのが、高杉晋作や五大友厚たちだった、と筆者は指摘している。

目次の第5章を見てもらえば、その辺の事情は察せられるだろう。司馬遼太郎の書いた歴史なんて大嘘だというの、筆者の見解。私は、司馬作品は数ページ読んで、二度と書棚に置かなかったが、あとで、サンケイ記者出身と知ってびっくり。アメリカのある一派の勢力のまわしものだった、と今は疑っている。前回紹介した「日本人の思考法」では司馬の「三文小説」を読んでどんな規則が施されているか、などという演習問題があったっけ。他に藤沢周平、池波正太郎氏もあったが、・・・。そういえば、アカデミズムでも、ポツダムドクターとかポツダム出世派などと分類された先生方がいたような・・・・。

グラバーらイギリス人商人、アーネスト・サトウのような戦略的外交官によって導かれ育てられた人々がのちに明治維新元勲と呼ばれるようになった、という。日本は確実にイギリスの世界戦略に組み込まれていた、という。

中国の愛国運動であった、太平天国の乱と幕末の尊王攘夷運動はまったく同じ性質のものであると、副島氏は見ている。

だから、表面上は尊王攘夷を唱えて必死で闘った日本の指導者たちにの中に、すでにイギリスの手先となるべく密かに育てられていた若者たちがいた。彼らは真の現実的政治家たち(ワル)であり、本物の真からの誠実な攘夷論者たちはすべて殺されていった、と記述している。

映画の中では、ゴードン将軍は破れ、非業の死を遂げるが、もちろん史実でもある。イギリス帝国の世界支配の構図が透けてみえる映画だという。



第6章で目新しいのは、浜口・井上「金解禁」=小泉・竹中「郵政民営化」
とい小節。
浜口雄幸首相と井上準之助蔵相は、金解禁という失政の責めを受けて、やがてあいついで右翼の凶弾に倒れていったが、ここでも昭和史の謎があるという。

あのとき、浜口雄幸ら日本の政治指導者は、その後の世界が「世界大不況」から大戦争に向かうことを予測できていない。

まったく同じことを最近の小泉政権がやった。小泉純一郎と竹中平蔵はアメリカ政府と、それを背後から動かすニューヨークの金融財界からの厳しい要求を受けて、これに忠実に従った。大切な日本国民の資産をアメリカにどんどん差し入れた。・・・

ところが、昨年八月のサブプライムローン崩れの金融危機がおきてしまって、世界の様相はすっかり一変した。ここで神風が吹いたのかもしれない、と副島氏は書いている。

アメリカは、日本の大銀行・大企業を更に乗っ取るどころの騒ぎではなくなった。アメリカの本丸(ニューヨーク金融城)が急に燃え出したようにも見える。日本はすんでのところで命拾いをしたのかもしれない。まだわからないが、どうもそのようである、とも書いている。

この新たなる世界恐慌の嵐が吹きあれるのが数年は続き、その後の世界経済体制へ移行するだろう、という。
従来の金と石油だけではなく、天然ガスを始めとする天然資源や非鉄金属、貴金属、更には食糧・穀物類までを担保とする通貨体制へと、世界は移行するだろうと予測している。

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なかのひと

土曜日, 10月 04, 2008

 『自動車メーカーでは、Macユーザーには本田技研工業が、Windowsユーザーにはトヨタ自動車が1番人気。BMWやポルシェ、フェラーリなど海外の自動車メーカーが好きと答えた人の割合は、WindowsよりMacユーザーの方が多かった。』
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/apple/
にはこんな調査結果が出ていた。

昔ほど、WindowsユーザーとMacユーザーとの差はないと思っていたが、犬派と猫派の間に共通点も多いが依然としてある種の壁はあるんだろうな、と思わせられる結果だ。だいぶ前だが、ある企業の社内LAN構築を推進した理工系出身で将来の社長候補と目されていた方はMac派で、ご自身の分を含めて、社内にMacを少数ながら、一定の割合で配置し、Windows派との共存をはかられた。Macの国内占有率よりは多かったと思った。その頃から、Mac派にとっては、Windowsとのネットワーク共存は常識となりつつあったが、Windows派の大多数にとっては、想定外の出来事だったような気がする。Mac雑誌の読者欄には、私の兄は、Windowsのインストラクターですが、私が家でMacを使ってインターネットをしているのをみて、えっ、Macでもインターネットができるのか!?と驚いていた、などと嘘か誠か判断しようのない投稿もあったりした。

Windows95が出て破竹の勢いでシェアを伸ばして、双方の雑誌で、相手の非難合戦がまん延したことも一時的にはあったりした。私も、当時今後どちらをメインに使うか、経済的、趣味的観点から、悩んだこともあったりした。しかし、Macは無くなりはしない確信があったので、少数派として生きる道を選んでしまった。21世紀初頭あたりに、両派は限りなく近づいていくという予想も援護射撃として、力があった。
前世紀末、21世紀すべてのパソコンはMacになる、という雑誌がでてテリー伊藤氏なども表紙を飾っていたが、その後、アップルは互換機路線を締め出し、シェアはさらに低下して、どうなるか気を揉んだことも。今日もバイトのWindows派の人は、会社ではいやになるほど、さわっているからといって、新DELLを試してみては!?と勧めても見向きもしなかった。


何の器械にしろ、人の伴侶となれば、使っていていろいろと苦労があるにせよ、できるだけ使い続けていきたいものである。「息子と私とオートバイ」という本のことを、水曜日, 2月 28, 2007にこのブログでも取り上げたが、私の分身に近いキャラクターを、この本の主人公に感じた。この本を読んだのは、疑惑の銃弾報道が出る少し前のころ。

後輩の学生がバイクに目覚め、教えてくれたような気がする。彼は50ccでスタートし、しばらくして250ccツインモデルに変えて、うれしくてしょっちゅう磨いているようなことも、話題となった。Mr.Bike誌がコストパフォーマンスで最高だ、とも断言していた。今はどうしているだろうか?


「息子と私とオートバイ」には、ハーレーの積算計が三万キロを超えていたりするのを見ると、したたかなバイク乗りの所有だ、などと言った記述があったように思う。現代のテクノロジーでは、バイクでも10万キロ以上は問題なく持つと考えられる。

モータロイの説明書にも、20万キロまでとかいう記述があるし、当時から、その位の寿命を前提に考えられていたと思う。ヨーロッパ車(バイク)の場合でも、スイングアームとステアリングは、50万キロの耐久性をまず、設計指針として考慮されるようなことを、読んだ記憶がある。

日本のバイク誌で確認したという、長距離使用例は、CB400Fでの13500キロというもの。さらに昔の例では、初代カブ号で8万キロほどというもの。モータロイ使用例でも以前紹介したヤマハの650ツインで、やはり13万キロ以上・・・。バイク便などでも8〜9万キロなどというのもけっこう見かけられている。

いまはまだ燃費効果はあらわれていないが、スムーズに回る感じが強まり、バイクがとにかく軽く感じる回り方だ。交差点を右折してすぐ左折するような逆S字コーナーでは、あまり吹かせない状態であるが、前へ押し出される感じが強まり、低速トルクがアップしているのをはっきり実感。あれっ!?という2000回転以下でのすばやい回転の意外な上がり方がとにかく頼もしく、コーナーリングに鋭さが加わり、バネで押し出されるような走りを楽しめる。

暖機なしでも、低速でギクシャクしないで、スムーズに走ることも新発見。こういう場合、回転の上がりを待つことなく、1500回転でシフトアップしていくと、どんどんスムーズに加速していく。1000回転ではさすがにギクシャクだが、すぐ1200あたりで回復し、もたつきを感じない。渋滞でも苦にならない、取り回しの良さを感じ、飛ばすことよりも、トコトコ走っての楽しさ、充実感がアップ。これは意外な贈り物だと、気持ちが和む。



車検はぎりぎりに持ち込むより、ゆとりをもって持ち込んでもらったほうが、却って速く終了するようなことを言われたので、明日(月曜)には持ち込むつもり。水曜日あたりに車検場へ往き、木曜か金曜には受け取れるはずだ。

とにかく、毎回、走りに新発見があるので、今日も遠出しないまでも、街中のプチクルーズを楽しんでおこう、と少しワクワクしている。もっと速く試すべきだった、と悔やまれる。ホンダ車にはマイクロロンの燃費改善効果はなかった、という情報は、いまでは真実と思っているが、モータロイもどきではどうなのか!?答えが出るのは、まだ数千キロ先だが、マイクロロンとはあきらかに違うスムーズさをどう評価したらよいのか。

マイクロロンは、オイル交換するまでは、とにかくヌルヌル感がつきまとっていて、吹かせばかなり回転の上がりは早いが、オイル交換後はそれがなくなる。効果があった、というカワサキ車などに比べて、付着効果が薄い材質特性なのかもしれない、と思う。

金属系のモータロイ系列では、スムーズさの感じが、ヌルヌル感ではなく、ピストンがとにかく軽く回る。排気量ダウンしたような、ピストンが小さくなったような感じで、エンジン内部の遊びもゆとりがあるので、回転の上がりがストレスなく、アクセルをあてただけで加速していく感じで、低速トルクの向上をマイクロロンより幾分顕著に感じた。同一条件で0.5キロでものびてくれれば、確実に17キロを超せて、過去最高になるのだが、果たして・・・・・・。


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なかのひと
UP (University Press:東京大学出版会の出版案内用冊子)の2008年10月号を見ていたら、No.94の生物学のアンサング・ヒーローたちという福岡伸一氏のシリーズで、ダーク・レディというのがあった。

生命科学の分野での、過去最大の発見は、ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の解明である(1953)、ではじまる。

そして、1968年に出た発見にいたるまでの内幕を描いた『二重らせん』は科学読み物として大ベストセラーとなった、という。かくいう私も、遅まきながら読むべき本として不承不承、買って読んだが、後味がよくないので、今はどこにあるかわからない。

そして、多くの読者が気づかなかった事実がある。内容が『フェア』ではない、というのである。著者ワトソンだけが無邪気で天衣無縫、傍若無人な天才という安全地帯にいて、他の登場人物は彩りを添えるため、戯画化されすぎていた。後味がわるい、というのはそういうことである。

共同研究者の一人である、あえていうとユダヤ人女性ロザリンド・フランクリン嬢は気位が高く、時に(かなり)ヒステリックで自分のデータの重要性にも気づかなかった
独身女性研究者(ダーク・レディ)として描かれているが、彼女はそれに気づかなかったわけではない、というのである。

DNAは二重らせんにちがいないという結論への飛躍を、つまり『演繹』の”誘惑”を自らに禁じて『帰納的』アプローチに徹していたのだ、という。

同僚たちがノーベル賞に輝いたことを知らぬまま、ガンでこの世を去った彼女のために、二重らせんは、ワトソン・クリック・フランクリンのモデルと呼ばれるべきである、と結んでいる。

桜井邦朋氏の、科学史の中の女性たち、という某雑誌に掲載されたシリーズでも、イギリスの若い女性研究者の功績(地味な大量の写真データを肉眼でスキャン)がなければ、ノーベル賞の糸口にならなかったとして、受賞後、名前が加えられた例を紹介していた。

今手許に届いている、『日本人の思考作法』(時には論理的に考えよう)大野侚郎(としろう)、日科技連、2001を開いて、端的な演繹法、帰納法の解説を読むと、面白い。

ここでの多様な説明がなされているが、特に私の趣味にあった、帰納法の説明として、
『因果推論は、帰納推論であり、状況や関係者に相対的であり、中数の法則が支配する世界の話である』とか出ていて、間違えやすい帰納推論、演繹推論、確率的統計推論の話をまとめておこうというページもある。

演繹推論には、二つの隠された前提がある、という。

1)結論にいたる前提は真
2)前提から結論にいたる過程が妥当
この世界はごくごく狭い世界である。真偽を問える世界である、という。

AならばBである。Aが成り立つ。よってBである。(前件肯定)
AならばBである。Bではない。よってAではない。(後件肯定)
AならばBである。Aでない。よってBでない。(前件否定の錯誤)
AならばBである。Bである。よってAである。(後件肯定の錯誤)

正しいのは上の最初のふたつだけである、としている。このあたりは、高校数学でたしか高二あたりで習った。先生の口調が思い出される。

さて、問題の帰納推論。

1を聞いて10わかったつもりになり、2から9(?)(のいくつか)を間違ってしまうような推論を、帰納的推論という、とある。

例1
韓国の柳先生は礼儀正しかった。
韓国の金先生もれ議正しかった。
よって韓国人は皆礼儀ただしいのだ。

演繹推論ではこうなる。
例2
すべての韓国人は礼儀正しい。
朴さんは韓国人である。
よって朴さんは礼儀正しい。

帰納推論の一種で仮説的推論(abduction)というのもある、という。
例3
すべての韓国人は礼儀正しい。
スベンソンさんは礼儀正しい。
よって、スベンソンさんは、韓国人ではないか?

例1も例3も前提が含意する以上のことを結論づけている、と指摘。

そして、帰納的推論の善し悪しを判断するばあい、普通に強調される3条件として以下の3つをあげているが、解説が長いので、条件だけあげる。

1)前提の容認可能性
2)前提と結論の妥当な関連性
3)結論のための十分な根拠

とあり、条件が多いし、限界がはっきりしない。先ほどの真偽が問える演繹法とはかなり趣がちがうのである。

他に確率的統計推論があるというが、割愛する。

帰納的推論に関する誤った議論として、身近ないくつかをあげている。

人身攻撃法 「アインシュタインはユダヤ人だ・・・」
先回り論法 「賛成しないと右翼(左翼)になるが・・・」
二者択一強制論法「アカかアカでないか、どちらかだ・・・」
・・・・・・・
転嫁論法 「UFOがいないとは、証明できまい・・・」
等々。

今回のアメリカの共謀罪、日本の同名の共謀罪とかなり中身が違うので、私は、春先からこれだけは通るはずと社内で広言してきた。Van Shicklen判事の判断も、けっきょく周囲の策動がいろいろあって遅れたが、そうなった。
http://news.yahoo.com/nphotos/slideshow/photo//080926/480/666bf80da7394f55ac741c1b76f3c5ac/

どういう裁判結果になるにしろ、私は、子供が産まれたときから、M氏が犯行の中心人物と信じ込まされてきた一人なのかもしれない。当時の報道は各局とも凄かった。保育園へつれていく時間がくるまで、テレビはこの事件一色だったような気がする。あと白石千鶴子さん事件の各種証言報道も連日続いた。禍福はあざなえる縄のごとしとか。人生万事塞翁が馬という、中国の故事は、永久に不滅です。昨日開いた埼玉新聞にも、自民党が、選挙のための、勝利の方程式見いだせず、というようなことが書いてあったが、恒等式よりは言い得て妙、と改めて思った。ちなみに、昨日再び
http://www.0823.org/
を見たら、すでに4500万回以上、訪問回数がカウントしてあった。裁判費用などはどうされているかも気になるところである。有能な弁護士がうまく審理を運んで、釈放になったとしても、冤罪であったとは、どういう方が口にするか気になる。

この場合の例えとしては適当ではいが、論文でも決定的な証拠がないとき、I believe that~
と書くと、あちらの世界では尊敬されるらしいが、日本では、このアホ!となりかねない。精神の土壌基盤がかなりちがう。アメリカでも、日本のO.J. シンプソン扱いの記事は出ていた。


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なかのひと

木曜日, 10月 02, 2008

会社で、DELLのプレシジョンT3400をキャンペーン価格ということで、定価の半額で入れた。

いちおうワークステーションということで、ECCメモリーが2GB、250GBの内蔵HD、モニターは19インチであった。インテルコアデュオ2.66GHzである。メモリーアクセス速度は家のiMacより若干遅いが、CPUは同タイプながら、現行iMac同様、家のより0.5GHzで、それなりに早い。

19インチモニターサイズを測り、家の横長の20インチとkらべたら、縦サイズは3センチ19インチが長く、横サイズは5センチ短かった。19インチの液晶サイズはおよそ、38センチ×30センチでる。どちらもドット抜けはなく、いい感じである。

家ではあまりウィンドウズは使わないのだが、時折必要になる。今日も、Mac上でXPを起動し、ウィンドウズソフトを新規インストールした。


再起動しなくても、ウィンゾフトがストレスなく使えて、ファイルのやり取りが窓から窓へと
マウス一つで移動できる。これはたいへんすばらしい。インテルCPUは同一なのだから、早さもほとんど変わらないはずだ。改めて時代の変化を感ずる。

ところで、DELLであるが、納入翌日、マイクロソフトのサイトから、アップデート用の最適ファイル群を検索中、いきなりメモリーエラーが起きた。再起動したら、真っ黒な画面に、白い文字が現れ、
Alert! Uncorrectable memory error previously detected in 60000C5h on slot 01. Strike the F1 key to continue, ・・・・などと出ていた。F5キーを押して、システムチェックをかけると、特に異常はアナログ音源意外にはないようで、再起動するといちおう正常に起動したが、インターネット中にまた、同一の症状が、・・・。

納入業者に連絡したら、範囲外なので、DELLと直接話して欲しい、とのこと。仕方なくフリーダイヤルでDELLに連絡、あちらのいうとおりにマシンの操作をして、症状を確認したらしく、部品を用意して修理にあたってくれるという。

しばらくすると、県内の***データ社から連絡があり、夕方までに内部部品一式が届けられ、午後8時頃にはサービスマンが伺う予定ですと、連絡が入り、一年前とは対応スピードが一段と迅速化されたことに驚いた。部品は予定どおり届いたが、予定の1時間前あたりに、別の社での対応に時間が取られ、1時間ほど到着が遅れるが、待てるかと電話がきたのでおKを出しておいた。ほどなく50分遅れで来てくれて、スロット1にエラーがあるといっていても、両方のスロットのメモリーを差し替え、テスト起動したら、それだけで問題はなくなった。

納入業者は、いままで多くのDELLを納入したが、翌日に故障したのはこれまで4件しかないのに、うち2件がそちらとは!?といわれた。昨年は、翌日ではなく、3日ほどして、フロッピーが作動しないことに気付き、電話したら、数種類のテストをやらされ、今回と同じ対応をしてもらったが、これって、使用法とは関係ない。

2回目も、メモリーエラーでDELLも電話で確認しているので、使用法とも関係なさそう。サービスマン氏も、Macを一台所有しているそうだが、最近は機械の性能があがり、部品の一部に負担がかかりやすく、大半が中国製なので、となにやらあいまいな返事。このくらいの故障なら、メモリーをスロットから抜き差しし直すだけで、直ることも多いんですが、気持ち悪いでしょうから、新品と交換しておきます、と言って手早く交換。

まあ、一年半後にまた納入直後に起動しなくなったわけだが、対応の良さを思うと、一定の故障は覚悟して製品を出荷しているのかもしれない。会社への到着が遅れたのは、そちらはリカバリー後にインストールCDを読むのに手間取り、CD装置の入れ替えもしていたようなことを言っていた。

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