日曜日, 9月 30, 2007



1998年3月発行、2000円、ゼスト社刊。訳者は、金子与止男農博。訳者略歴では、元国連環境計画勤務、とある。

マイケル・H・グランツ氏は、米国大気研究センター上席研究員。ちょっと、どちらも今となっては、過去の経歴で今はかなりちがうかもしれない。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=マイケル・H・グランツ&btnG=Google+検索&lr=

には、ここで私が下手な解説をするよりははるかに豊富な内容が検索できる、はずだ。

金子博士も、現在岩手県立大教授(2006〜)。

科学的知見は、どんどん変化していく部分があるので、今更細かいエルニーニョやこの冬は厳冬と予測されるラニャーニャなどの記事を拾うつもりはないが、米国が日本の外務省に当たる部分を、国務省というあたりの感じのにおいが紛々とする、国連内部の風景がかいま見える記述だと、今改めて思う。

地球全体が、アメリカの庭で、他国の金を使って、国連と言う名で世界中を、監視しているんだなあという色彩が強い。若いときは、金子氏と同じく、国連職員などと思ったことがあったが、・・・。

アメリカ幕府とでもいうような、世界把握、世界統御システム確立を目指しているような気が改めてした。

日本人の感性では、とてもそこまで行けまい。行く必要がないかもしれないが、そういう世界が厳然としてあり、地球レベルでの人類の行く末を監視することも必要であろうが、日本人にはその必要性に思いがいたらないだろうな、と思う。

自己の領域をあらかじめ限定して、そこをやたら細かくつつくことを得意としているので、レクサスなどは、もはや工芸品でなく、芸術品といわれるそうだが、北朝鮮や韓国すら、冷静に見据えて対処する姿勢が
乏しい国際政治感覚で、みずからアメリカ追随に陥っている日頃の姿が、なんだか居心地悪く感じ出す本といえるかもしれない。
芝生部分を含めた皇居前広場の総面積、465000平方メートルは集会用の広場としては世界最大といわれる天安門広場の440000万平方メートルをうわまわっている、と後書きの冒頭にある。

著者が、あまり関心を引かないこの広場に初めて関心を向けたのは、99年11月に天皇在位10周年記念の「国民祭典」を取材したときに始まる、という。(筆者は東京生まれ、という)

このとき、初めて広場の大きさに強い印象を受けるとともに、「その時代錯誤的な儀礼の内容」にも拘わらず、広場と二重橋があるかぎり、いつでも似たような儀礼が行えるという「不気味な」予感を持つと、とある。

その予感は、二年後の内親王誕生に際して的中することになる、と書いている。

また、本書『皇居前広場』で、引用された井上章一氏の『愛の空間』にも触発された、ともいう。この研究書は皇居前広場を対象としたものではなかったが、占領期や独立初期のさまざまな資料を駆使して「愛の空間」としての広場が浮き彫りにされており、皇居前広場に対する先入観を根本から覆された、という。

大学の先生も、敗戦後米兵らが、途中でジープから降ろした「女性」を寮に留めてやって、ついでに食べてしまった学生が、いましたよ、とも。もちろん、「わが輩はネコである」のように、殺して食べたわけではなく、部屋で一緒に寝てしまった、ということだろう。また、草や樹木が生い茂る構内は、時として、「愛の広場」ならぬ「愛の空間」と化し(この場合は、さすがに学生ではなく)、その目撃を聞きつけた学生も実験を放り出して駆け足で視察に赴くこともあった、という戦後の一時期があったように聞き及んでいる。

常習者だったのか、そのつどちがうカップルだったかは、さすがに聞きそびれた。今では、もっとよく整備されていても、そういう場所では無くなった。人の移動が、愛の密室と化すことが可能な車が主体となり、
駐車違反への取り締まりも厳しいので、必然的に郊外型のホテル群へ向かう、ということなのであろう。

皇居前広場でも、激しい運動を禁ず、などという立て札がたったこともあった、という。激しい運動ってどのへんまでをいうのかしら?とカップル達はいぶかしがった、という。

少子化が問題となっている昨今では、信じられないような時代気分があったのだろうな、という結論に帰着する。テレビはおろか、いわゆる家庭の三種の神器など出てくる以前の話し、活力はあっても、移動手段からして今では考えられない時代だったのであろう。

団塊世代ということで、高校に入学した時、校庭の一部に鉄筋校舎を建築中だった。ある朝ホームで見知らぬ二人組に声を掛けられた。学帽の校章をみて、俺達今〜高校の現場へ行っているんだ、ということだった。服装を見ると一人は背広の上下、もう一人はジャンパー姿だった。とても、現場作業員には見えなかった。貴重な社会勉強。体育の授業中、工事現場で、猫車を押している作業員が手を振っている、みるとあのホームでであったうちの声をかけてきた人だった。それから一、二年もすると、その鉄筋校舎(借金校舎といわれていた)のまわりは、教諭たちの色とりどりのマイカーで囲まれるようになった、過ぎし日の思い出が蘇る。同級生の中には、数年後の三島事件に参加した学友もいた。

福沢諭吉は、「封建制度は親の仇でござる」とか言ったとか言わなかったとか。養老孟司教授(バカの壁などの著者)は、明治以来日本はずっと、子は親のようにはならない、ということが当たり前でやってきて、それがいろいろな歴史認識問題まで、無意識に影響している、と苦言を呈している。

デュラン・れい子さんの『一度も植民地になったことがない日本』という本には、女史のダンナ様が、昔から頑として変わらない二つの主張がある、と書いている。

それは「日本は大きな失敗を二つしたと思うね。一つは220年もの間、鎖国をしたこと。もう一つは、アラスカを買わなかったことだよ」と。

アラスカ購入はともかく、鎖国は惜しいことをしたと、昔から思っていた。いまでは、そのプラスの面、地球全体が、当時の江戸の生活のような生活様式をしない限り、増え続ける人類の存続があやうい、ということが判明しだした、ということから評価が変わると言うか、単純な進歩思想にはなじめない。

エネルギー利用が、海水から水素をとって制限がなくなったとして、地球表面から宇宙空間へ放射で散逸していくエネルギーは限界があるので、温室効果ガス云々以前に、地表が熱でダウン、人類は生きていけなくなる。

渡部昇一教授は書いている。

ライフスタイルを身につける

 旧幕時代に学問をするということは、何かを急いで修得するというよりは、一つの生活様式や生活感情...ライフスタイル...を身につけることであった。(武士及びそれに準ずる階級->自由な立場の商人、富裕農階層)なるべく早く何かをマスタ−しようというあせりはなく、日々古典的文献を精読し、作詞・作文し、自己の生活の形態を、心の中からしだいに外形におよぶところまで徐々に形成していったのである。

知的達成から知的生活へ

 しかし開国当時の大学の雰囲気がわかるような気がする。「今、いちばん陸軍がよい国はどこか、また海軍がよい国は」と為政者たちも外人に問い、それに従って日本の陸軍も作り、海軍を作ろうとしていた時代であるから。... ...そして「文科大学(東大文学部)へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にする前に、まずフォン・ケ−ベルと答えるだろう」(夏目漱石全集第八巻)というような事態が生ずるにいたったのである、と。

月曜日, 9月 24, 2007



昔、ポール・ボネなるペンネームで「不思議の国・日本」とかいうタイトルの、このデュラン・れい子さんの本に似た、おそらく在日フランス人が書いただろうと思われる本を愛読したことがある。シリーズで数冊は出たようだったが、三冊までは買った覚えがある。

しかし、二冊目か三冊目あたりで、どうもマメに本が出てくるし、フランス人がこんなに熱心に書くだろうか!?という疑問に襲われ、急に熱がさめた。イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」は出てすぐに買ってよんだが、やはり日本人(山本七平氏)だとわかった。

そこでためしに、http://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・ボネ
で検索した結果をみると、題名は「不思議の国ニッポン」で、著者は作家・評論家の藤島泰輔氏だという。
う〜ん、やはりそうですか?

その点、デュランさんの本は、初めて書かれたものらしいが、中味の印象は全体として似ている、といえなくもない。

黒人にも偏見を持たなかった信長、という項目では、何度も体を洗わせてそういう色だとわかると、近習に取り立てた、という。本能寺で、信長とともに討ち死にしたらしい、とは前日テレビで紹介していた。

義務教育の開始も、フランスに続いて、日本が二番目に早いと言う。1881年のフランスに遅れることわずかに5年だそうである。それで、そのことを知らないヨーロッパ人にそのことを話すと、みな仰天するらしい。
そこで、フランスのモットーは、自由・平等・友愛だが、では日本は?と聞かれると言う。

現在の憲法にはないが、7世紀にはもう17条の聖徳太子憲法の話しをするらしい。そこでもまた驚かれるという。

自衛隊をめぐる禅問答

「な〜んだ、やはり日本には軍隊があるじゃないか」とある朝新聞を読んでいた夫(スエーデン人、オランダ生まれ)が突然大声を出した、という。

港湾エンジニヤである氏は、1974年に来日し、青函トンネルの工事現場を視察したり、関西国際空港予定を視察したりしていたそうだ。着物姿の女性が少ない、とがっかりしていたので、ある晩靖国神社の盆踊りへさそった、と言う。

翌日会社でこのことをまわりの日本人に話したら、なぜそんなところへ?といぶかしげに理由を聞かれた、と言う。

それで、まわりにいろいろなことを聞いて帰ってきて、「日本人は、軍備にお金をかけないから、こんなに発展できるんだ」と思っていたらしい。

それで、なんで、日本軍のかわりに自衛隊があるんだと教えてくれなかったんだ、ということになったらしい。

その頃、日本からきた人が、さらに自衛隊の戦車は方向指示器がついてて、燃料タンクが小さいので、途中で燃料切れになったら、スタンドで給油しないといけない、などと教えたらしいが、まともには信用されない、日本の事情らしい。

ドイツの憲法は日本の(アメリカ製)憲法とたいして制定後の年数はかわらないらしいが、40回以上改正をおこなった、という。日本は1回もないというと、馬鹿にするなと怒り出すという。今のドイツ憲法は侵略戦争はしない、という条項があり、国際法より優先するというので、ドイツは反対したそうだ。

そして、ドイツはヨーロッパと一体なのだと強調するらしいが、ドイツと戦った国々は、いまだにドイツを許さないそうだ。

日曜日, 9月 23, 2007



映画「東京物語」の存在は外国人に教えられた。マーク・ピーターセンという大学教授で、仲間の外人達もやはり小津監督の東京物語を推薦するものが多いとか。この先生、教材でオズの魔法使いやカサブランカなども使用されるらしく、どちらもタイトルしかしらないでいたので、DVDがでまわるようになって購入した。昭和18年製作のカサブランカのセリフが、大学の英語教材としていまだに有効、有用との指摘に、多いに関心をそそられた。

それで、モノクロの、現代の感覚からみれば単純に見える映画と最初は映ったが、繰り返し見るうちに、良くできた映画のように思えた。英語の勉強にもいいのかもしれない、と思うようになった。

東京物語は最近安いDVDがでまわり、目に付いたので早速購入してみました。登場人物がほとんど全員団扇を使って涼を得ている室内シーンの連続で、最初はなぜこのような映画が、と思ったが我慢して後半まで見ているとだんだん引き込まれていった。カメラアングルが低いな〜という印象。

杉村春子の役に注目したが、原節子も地味ながら光るな、と思ったし、昭和30年代の高度経済成長以前の、日本の平均よりやや上の階層を上手く描いているのだろう、と想像した。この頃は、たしか都心でもタクシー代が100円以下で、80円とかそういう時代しか私は知らない。原節子が、戦死した次男の未亡人役で、尾道から上京した老夫婦の、義母に、こっそり現金を渡すシーンがあったが、いかほどだったのだろうと、妙に気になった。三千円くらいか、あるいはもっと少ないのか。タクシー代が8倍かそれ以上、現代なら、やはり3万円ぐらいか、だとしたら3000円という想像は、大きくはずれないかも。

この本は、亡くなった笠智衆さんの息子さんがだされた本で、2007年5月30日発行。まだ、すべて読んだわけではないが、笠氏は、いつも監督を、小津先生と呼ばれるのが習わしだった、という。

しかも、笠氏は、長い間一番良い映画は、東京物語ではなく、筆者が子供の頃から、自分の代表作は「父ありき」だと言い続けていたのだが、小津作品がヨーロッパで評価され、東京物語が、世界のベストテンにランクされ、小津ブームの中心作品として有名になり、インタビューなどでも必然的に多く質問されるうちに、いつの間にか、ベストワンは東京物語と答えるようになっていった、と後書きに紹介されている。





「一度も植民地になったことがない日本」

デュラン・れい子さんは、1942年生まれで女性コピーライターとして博報堂に入社し、産経広告大賞などを三年連続受賞などの経歴のほかに、英国国際版画ビエンナーレでの入賞経験をもつ。スエーデン人と結婚され、南仏で、翻訳なども行われている。

この本は、ひととおりよんだが、やはり小津映画の話しが出てくる。

小津安二郎の国は責任感が強い、と題するエッセイ。

映画監督小津安二郎は、ヨーロッパ、特にフランスで人気がある、という。丁度、畳に座った位置でとるカメラアングルが、彼らには新鮮に映るらしい、と。

数年前の暮、日本で過ごそうと帰ったとき、小津ファンのフランス人たちと、小津ゆかりの神奈川県、茅ケ崎館で忘年会をしようということになったそうである。日本人とフランス人の6名で一晩小津作品を語ろうという趣向だったそうである。

映画狂の面々は部屋の火鉢をいとおしそうに撫でて、「ああ、これがここにあった。小津監督が自らすき焼きやら即席料理を作った火鉢だ」などととにかく詳しい、らしい。

集まったメンバーの中には、この部屋(8畳間)で小津監督と脚本家野田高悟が仕事をしている写真を日本の古い雑誌で見た、というフランス人も。ファンもここまでとなると、神話が生まれるのも無理はないと関心する、と書いている。タイトルの由来は、その旅館に指定時刻までに東京で注文しておいた忘年会用のワインやその他が届いてなくて、催促したら、電車で同じものを届けに来たが、直ぐ後、肝心の品も少し迷った後でちゃんと届き、ワインなどは量が二倍になっても余ることはなく、日本の宅配システムの責任感にも話題がおよんだとの由。


まあ、尾道から出てきた老夫婦が熱海へ追い払われるシーンがあったが、あのとき、設定では笠氏は70ぐらいの役だったそうだが、実際はなんと49歳だったそうだ。道理で、若い顔の爺さんだなあ、と思った。長女役の杉村春子の老けが逆に際立っていたことを、今になって思い出した。洋服では誤魔化せるが、和服では誤魔化せないそうで、老人の背中の感じを出すのに、笠氏自身のアイデアで、背中に座布団をいれて丸みを出し、年齢を演出したそうだ。

しかし、演技はすべて監督の思い通りにしないとダメだった、とも。

土曜日, 9月 22, 2007

空白の34年ー第IV期

52年五月以降、東京消防庁の出初式と皇太子の立太子礼、成年をいわう「奉祝都民都民大会」を除いて、当面儀礼や集会は開かれなくなった。

皇居前広場をメーデーに使用させるべきとした東京地裁判決は、東京高裁により、原判決を実効性なきとして取り消した。だが、国民公園管理規制にもとづいて厚生大臣が許可すれば、つまり政治的および宗教的と見做されない限り、禁止はされてはいなかったものの、広場はそのようには使われなかった、と指摘している。


その理由として、憲法をもたらしてくれた占領軍に対する義理が無くなったから、と指摘する人物も現れた、という。あるは、「左翼」がどんな暴力を振るうかわからない、という「先入観」が支配的になったことも一因としてあげられるとも。

昭和初期に確立され、占領期にも年に一度は現れたはずの「聖なる空間」はの面影はもはやどこにもなかった。占領期から受け継がれたのは、「愛の空間」としての役割だけだった。

朝日新聞54年7月8日の夕刊には、「いっそ都がアベック占用の公園をつくって、入場料をとれば、皇居前なども荒らされず、アベックも気兼ねなくて良かろう」という女性実業家の意見が掲載されている、という。

50年代なかば、箱根の芦ノ湖畔にあった箱根離宮あとの公園で、白昼堂々と性行為にふける男女を目撃した政治学者丸山眞男は、連れの人に向かって、「ここも人民広場になったね」と言ったそうだ。かっての人民とはまったく異なる意味で、人民広場が隠語として生き続けていた、という。

皇太子結婚

もっとも皇族の結婚式が行われた日だけは、皇居前広場は人並みで埋まったという。昭和天皇の三女、順宮
(よりのみや)厚子内親王と池田隆政が結婚した日には広場に3万4千の人があつまり、万歳を叫んだ、という。

皇太子と皇太子妃美智子さんがはじめて国民の前に姿を現した日、11万の人々が皇居前広場にあつまった、と言う。このあたりから、私にも瞼に残像が浮かぶ時代となっていく。

しかし、島倉千代子の「東京だよ、おっかさん」が大ヒットしたこともあり、連日1万人を超える観光客が押し寄せていた、という。

東京だよ、おっかさんーー作詞・野村俊夫、作曲・船村徹(「靖国神社の歌」中から引用)

久しぶりに 手をひいて
親子で歩ける うれしさよ
小さい頃が 浮かんできますよ
おっ母さん
ここが ここが 二重橋
記念の写真を とりましょね

やさしかった 兄さんが
田舎の話しを 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

さあさ着いた 着きました
達者で長生き するように
お参りしましょよ 観音様です
おっ母さん
ここが ここが浅草よ
お祭りみたいに 賑やかね

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深沢七郎と「風流夢譚」

作家の深沢七郎は、雑誌「中央公論」60年12月号に、小説「風流夢譚」を掲載した、という。

私は、これを読んで、戦後左翼の暴力性を感じ取り、かなり驚いた。そういえば、私は、ここで妻となる女性とデートというか散策した懐かしい場所でもあるのだが。結婚前の妻は、皇居前の新聞社に勤務していた関係で、・・・。

主人公の「私」は、ある晩都心で革命が起こった夢を見る。そして群衆とともにバスに乗り、皇室一家が処刑される現場を見に行くわけだが、その現場は何と皇居前広場なのである。

深沢は、夢の中という設定で、結婚したばかりの皇太子と皇太子妃とが処刑される場面をこう描いた。

『皇居前広場は、人の波で埋まっているのだが、私のバスはその中をスーと進んで行って誰も轢きもしないで人の中の真ん中で出たのであった。そこには、おでん屋や綿菓子屋や、お面屋の店が出ていて風車屋がバァーバァーと竹の管を吹いて風船を鳴らしている、その横で、皇太子殿下と皇太子妃殿下が寝かされていて、いま殺られるところなのである。(中略)そうして、マサカリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がしてずーっと向こうまで転がって行った』

この後に、「私」は、「背広姿の老紳士」の案内で天皇と皇后が殺された広場の一角に案内され、「そこでは交通整理のおまわりさんが立っていて天皇、皇后の首なし胴体のまわりを順に眺めながら、人ごみは秩序良く一方通行で動いているのだった」。広場ではさらに演芸会が始まるかと思うと、小太鼓や大ラッパ、トランペットを抱えた「軍隊の行進」があり、夕方には花火が頭上に舞った。

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ここには、占領期の皇居前広場のさまざまな記憶が踏まえられている。天皇制打倒を唱えた46年のメーデーや集会、お祭り色が加わった47年以降のメーデー、憲法関係の儀礼に現れた天皇と皇后、そして占領軍という「軍隊の行進」。そこに東京見物の観光バスや前年4月の皇太子と皇太子妃のパレードが加わった。独立から8年あまりを経て、それらが「一つの」フィクションとして結実したのである、と述べている。

だが(当然ながら)宮内庁は、この小説が実在の人物を登場させたばかりか、描写が露骨にすぎ、皇室の名誉や人権を侵害するのではないかと、法務省に検討を要請した、という。大日本愛国党など右翼の中央公論社に対する攻撃も盛んになった。翌年2月1日には同社社長宅が襲撃された、という。2月6日の新聞各紙には、社長名で、「掲載に不適切な作品であったにもかかわらず、・・・・」社告、お詫びが掲載されたと言う。現在では、考えられないことだが、一部左翼の夢は、いまだどこかに燻っていて、皇室をなきものにせんとする策動があるかに思える。

女系天皇推進運動なども、そうした一環で捉えると、いずれ皇室制度崩壊へ誘う伏線だと指摘する人々もかなりおり、それを推進しようとした小泉元首相、阻止しようとした安倍元首相と方向性の違いが際立つ。





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木曜日, 9月 20, 2007

3.占領軍、左翼勢力、天皇などの激突期 1945から1952(昭和27年)まで

占領軍は宮城前広場を単にプライベートな空間として利用しただけではない。日本人が「無抵抗」なことがはっきりした46年になると、彼らの存在を誇示するための空間としてこの広場が積極的にりようされるようになった、という。

最初のパレードは、第一騎兵師団に属する第七騎兵連帯のパレードが行われた、という。騎兵も来ていたとは、しらなかった。国内紙には掲載されなかったが、米軍紙には、こう書かれた、という。

戦勝国の力が東京の宮城外苑で誇示されるのは、第七騎兵連帯の戦車や装甲車が観閲台の前を通り過ぎるときである。・・・米軍による最初の整列行進は、連隊長の交代によるもの云々、とあるらしい。(3月3日)

3月8日にはさらに第七騎兵連隊による大規模なパレードがあり、このときは航空機も低空で飛行した、という。
この年、天皇は2月19日に、後に有名な戦後巡幸をはじめられた。これ以降、天皇は宮城前広場を空けたまま巡幸に全国各地を回られる。宮城前広場はもはや天皇のための広場ではなかった。そこは米軍によって占拠されたかに見えた。

GHQは「民主化」の一環として、労働政策を積極的に進めた。45年12月に制定された労働組合法で労働者の団結権を保障し、翌年から労働組合が続々誕生となった。

5月1日に第17回メーデーが11年ぶりに開催されることが決まると、606もの組合が参加を予定し、4月26日には、内務省警保局が、メーデー不干渉方針を発表。当日は30万名という予想を20万もしのぐ人出だったという。
関東大震災のときの30万名をも超える人出となった。

基本的に無言だった天皇にくらべて徳田球一は、「主食配給の不足、金持ちや投機師の隠匿米、労働者の困窮などをとりあげて演説し、「天皇を打倒しろ」とどなったときが、一番群集の長い歓呼が起こった、という。

天皇制を支える最大の政治的空間だったはずの広場が、反対に天皇制打倒を叫ぶ最大の政治的空間となりはてた。天皇制を温存し利用しようとしていた占領軍と、天皇制に敵対していた左翼が、同じ空間を利用していた。

天皇と皇后が戦後初めて宮城前広場に現れたのは、1946年11月3日日本国憲法が公布された日であった、という。

陛下は背広、中折れの姿でゆるゆると歩を運ばれる。楽隊が君が世(ママ)を演奏すると会者一同が唱和する。なぜか涙がこぼれて声が出ない。周囲の人々は皆そうらしい。吉田首相の発声で万歳三唱すると周囲は沸き立った。陛下が演壇から降りられると群集は波打って二重橋のほうに流れる。熱狂だ。涙を拭き拭き見送っている。・・・・何という感激であろう。私は生まれて初めてこんな様相を見た。(芦田均日記、1986、岩波書店)

しかし、この日集まったおよそ10万人は、メーデーなどの参加者よりはるかに少なく、万歳を三唱した10万人は誰一人、憲法のケンの字も口にだしていなかった、という。彼らは憲法の公布を祝うために広場にきたのではなく、天皇や皇后を見に来て泣いていたことがわかる。

逆にいえば左翼が集まらなかったことが、メーデーなどの人出を下回った、と記している。「天皇制を残存させ、資本主義を擁護する新憲法は、共産党にとって容認できないものだった」という。

この広場は、左翼が多く集会を行い、米軍も独立記念日に壮大なパレードを行い、マッカーサーが日本の支配者であることを見せ付けたりしたという。通常の昼間、サラリーマンたちは白球を追いかけ、日曜日には凧揚げ大会や模型飛行機コンテストなども行われた、という。しかし、夜になると、日本人男女による愛の空間ともなったようで、朝日の記事にも指摘されたし、漫画家横山泰三は「雑誌ホープ」50年9月号で、広場で性行為にふける男女のイラストを載せた為、この雑誌は摘発を受けた、という。

逆コースの始まり

48年10月、芦田内閣から吉田内閣に代わり、翌年一月、民主自由党が総選挙で絶対多数を獲得したことでマッカーサーと吉田の提携体制が成立して行く。

中国共産党による大陸席巻の動きもあって、政治的反動化現象が次々とあらわれるようになった、とされる。

50年になると、GHQによる赤狩り「レッドパージ」が本格化する。49年暮れから50年6月25日の朝鮮戦争勃発までに11000名の労組の活動家が、公共部門から解雇されている、という。この年、メーデーには最高の60万人がさんかしたとされる。迫り来る赤狩りへの対抗の意味もあったらしいが、すでに皇居前広場での警察パレードも復活させた警視庁推定では40万という数字だった。という。5月3日、憲法施行三周年記念が平からたが、陛下のもとに広場に集まったのは一万五千名ほどだった、という。しかし、同日、マッカーサーは、日本共産党に対して断固たる措置をとることを発表している。

5月30日には、米軍が第八軍戦死者追悼式典を開いたが、「共産党防衛・平和擁護祖国統一戦線人民決起大会」も開かれ、200団体、一万五千人が参加、追悼式典は、共産党のデモによって、中断された。参加者の一部は、占領軍に暴行を働いた、という。それは46年以来、占領軍と共産党が棲み分けて利用してきた広場で、真っ向から対立した日で、朝鮮人も混じっていた、という。

朝鮮戦争が勃発し、米軍が国連軍となると、皇居前広場では、国連軍のパレードも行われたが、共産党系などに広場を使用させない方針は政府内では揺るがなかった、という。51年12月24日の国連軍パレードを最後に、広場は再びなにもない空間へ戻っていった、という。

52年、独立後初のメーデーが、神宮外苑で行われ、皇居前広場をメーデーに使用させない方針への反対決議が、満場一致で採択され、人民広場へ行こうという叫びがあちこちで聞こえるようになったという。占領軍がいなくなった以上、皇居前広場は人民広場になった、という思いが広範囲に共有されていた、という。


それで、午後の各方面への行進で、6000人が日比谷公園を経て使用禁止になっていた皇居前広場へ結集し、デモ隊と、警戒に当たっていた警官隊約5000名が衝突した、という。永六輔は、このとき、自衛隊(警察予備隊)の戦車も偽装して隠されていた、ともラジオで指摘していた。それで、自衛隊関係者に尋ねたら、それは本当のことだった、と答えた。

デモ隊は死者二名、負傷者1200名、警官隊は負傷者800名を出す血のメーデー事件(皇居前広場事件)がおきた。

警官隊は、一部においては拳銃使用のやむなきにいたった、という。100発はくだらない音を聞いたとも。モ隊は8000名とも資料にある、という。群集に紛れ込んでいたものがやく千名、脇をついたからともいう。

この事件に、主催した総評は強く批判声明を出したが、皇居前広場での左翼勢力の完全な自滅を意味した、と記されている。









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月曜日, 9月 17, 2007

岡 博士も日本人の中にある、状況次第でどうにもというより180度態度を変えてしまう人々に苦言を呈している。手を翻せば、すなわち雨というようなことばを使われていた、と思う。今から15年以上前に、右翼的だが、もう影響力はない、などと言論人紹介欄に書かれていたが、本来学者中の学者なので、そんなことはどうでも良い感じ。

新聞記者は、1週間ぐらい社会から遮断した環境で座禅でもしないと、まともなことはかけないはずだ、とも言っておられた。それはよいとして、数学教育には、水道方式を批判しておられたが、遠山先生の著作を読んでも、数学門外漢の私には、具体的にどこが悪いかは納得できなかった。

数学がわからなくても数学教育はできる、などというあたりが批判を呼んだのかも知れない。単なる技術でうまくやる、というような姿勢を批判されたのかもしれない。

さて、戦後の皇居前広場である。悲しいと言うか、当然と言うか戦後最初の集会は、何だったと思われますか。それは、1945年8月16日だというのである。

特殊慰安施設協会(RAA)の結成式だそうだ。広場では、「『昭和のお吉』幾千名の人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を100年の彼方に護持培養するとともに、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」という声明が読み上げられた、と言う。(川島高峰『敗戦』読売新聞社、1998年)

戦時中に鬼畜米英をさかんに流していた政府は、まだ見ぬ占領軍を男性とみなし、日本女性の純潔を守るべく、占領軍専用の(占用!?)国家売春組織を作ることを真っ先に考えた。

占領軍は進駐当初(45年10月)、約40万人おり、46年には半分の20万人に減ったが、主力は米軍であった。初めて東京を訪れた米軍兵士にとって、GHQ本部(広場に面した日比谷の第一生命相互ビル)の前に広がる空間は、「聖なる空間」どころか、公務の合間に欲望をはらす絶好の場所と映ったようだ。日本女性もまた、「純潔」を守ろうとした政府の思惑とは裏腹に。米軍兵士との愛の行為を広場で公然と楽しむようになる、と書いている。これでは、「性なる空間」ではないか?作者はそこまで書いていないが?

昔、渥美清主演の映画「拝啓、天皇陛下様」というのがあり、私の中学時代の場所も撮影場所として使われた。後で、完成品を見たとき、好く遊んだ原っぱが、出征兵士たちが見送りの恋人や若妻とおよそ10メートル間隔で、ススキかなにかの茂みで、愛の交換をおこなう場所としてエキストラの女性達が、手を引かれて笑いながら兵士達と茂みに屈みこむシーンが10秒ほどだと思うが映されていて、そこだけは子供心にショックを受けた。女性が着物の身繕いをして立ち上がるシーンもあり、私の誤解でないことはたしかである。

作家、高見順(1907〜1965)の日記でも、広場の情景が書かれている、という。10月18日づけ。

『濠の前の大きなビルにはいずれも進駐軍が入っている。ジープが濠端に並び、歩道を闊歩するアメリカ兵、濠端の草に腰を降して新聞や雑誌を読むアメリカ兵、日本人よりもアメリカ兵のほうが多いようだった。

日本人は、年若い娘の多いのが眼を惹いた。濠端で、 アメリカ兵を掴んだり、アメリカ兵に囲まれたり、・・・さらに、アメリカ兵にいかにも声をかけられたそうな様子で、でもまだ一人歩きの勇気はなく、二人三人と連れ立って、アメリカ兵のいる前を歩いている娘達。いずれも二十前の、事務員らしい服装だ。』(高見順日記、第5巻勁草書房、1965年)

戦前(1930年)も、日比谷署は、納涼がてらに広場で風紀を紊すものが多いので、7月27日夜、一斉取り締まりを行ったことはある、程度が昼間から日常となった。

政府の思惑は完全にはずれた。「鬼畜米英」だったはずの占領軍を、米軍兵士と会っていた日本女性のみならず、多くの日本人は喜んで迎え入れた。

それを象徴するのが46年3月1日に宮城前広場で開かれた「終戦感謝国民集会」である、という。平和日本建国記念祭制定国民委員会主催、とあり、主体が判然としないが、戦前に社会主義弁護士として活躍した布施辰治(1880〜1953)が企画したのだという。

そんなわけで、この集会は勝利ではなく敗戦を祝賀し、開放をもたらしてくれた占領軍に感謝することを目的としたそうである。

政治学者の袖井林二郎は、長男の柑二が著した辰治の評伝を引用しながら「『終戦感謝国民集会』は、みぞれの降る寒空の下で行われ多くもない参加者に向かって『布施氏は冷たい雨に打たれて”万歳”を三唱した』という。天皇に対してであったろうか、それともマッカーサーのための万歳で それはあったのだろうか」と。『拝啓マッカーサー元帥様』(大月書店、1985年)

両方に向かって、という意味も可能であり、日本語(二本語)だけでは解決しない問題だ。




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日曜日, 9月 16, 2007



BIG1の前後タイヤを交換したら、かなりコーナーリングが改善された。通常タイヤでいいと言ったのに、前回より高いブチジストン、タイヤ代も予想より1万は高い。ダンロップでいいと思っていたのだが。
会社でも、4輪タイヤは、ブリジストンはどこでも高いから、仕方ないんじゃないか、と慰められた。

リムのエア注入口にあるバルブも劣化している、といわれ前後とも交換した影響もあるかもしれない。交換に先立ち久しぶりに、チェーンオイルで汚れた後輪リムも、洗剤をつけて洗った。車軸付近は以前のまま。メインスタンドが以前から気付いていたのだが、塗装がはげかかって傷んでみえるので、スプレー塗装した。場所が場所だけに、塗装ムラができたが、ちょっと見には見栄えはよくなった。



春日部から国道4号バイパスに乗り北上。朝からいろいろなナンバーのバイクが色とりどり。途中から二車線、三車線となり、かなり皆飛ばす。交通量が少なく、道もほぼまっすぐで、思ったより早く宇都宮へ。119号へ入り途中から高速へ。

やはり秋。清滝へでると至る所バイクの集団がコンビ二などで見かける。いろは坂で飛ばし屋さんのバイクが二台、あっというまに抜いて行った。やはり前回よりコーナーは楽。4輪を抜くこともさほど苦ではない。しかし、無理しても意味がないので、4輪とバスを抜いた意外は前の4輪についてのぼり湖畔を巡って場ヶ原も抜けて、金精峠まで。戦場ヶ原にはハイカーたちもたくさん歩道に。駐車場は朝からほぼいっぱい、バイクもかた待って駐車しているので、寄らずに上に。

数十年ぶりの湯本、沼田方面へ抜ける山越え道路。カーブはいろは坂とちがって緩やかで走りやすい。久しぶりに硫黄臭を嗅ぐ。自然の硫黄臭もまったく久しぶり。草津に教授の退官旅行に参加して以来、二十数年ぶり。




トンネルを抜けると群馬県で、休憩所には片品村の観光案内が。ここもかなり観光客が来ている。バイクなども、沼田方面へと走り去っていく。道は、下の方の杉臭さとは違い、コメツガなどが朽ちていく感じのヤニ臭さが漂う。亜高山帯独特の匂いだ。森林浴も、ここまで来たら本物だろう。

それにしても今日はバイクが多い。大半がビッグバイクだ。沼田までは、まだ数十キロはある。トンネル手前の日光側は眺望が開けて湯ノ湖や裏手まで観察できる男体山が望める。くだりに入って戦場ヶ原を目指すと、温度はハーレーやBMW軍団が一斉に登ってくる。あきれるくらいバイクの車列と行き違った。広葉樹帯でも、針葉樹のリター(落下堆積物)の匂いが鼻をくすぐる。林床はクマザサで明るく見通しが利く。もう少し秋が深まり、広葉樹が落葉したらまたそうとうちがった風景だろうなと思いつつ下る。



中禅寺湖畔は、駐車場へはいる4輪で渋滞中。貸しボート(白鳥タイプ)も結構沖まで漕ぎだしている。しかし、一人でのんびりもいいが、時間が惜しくて、下りのいろは坂へ。ここでも4輪を抜いたが、変なコーナーリングをする車がいたので、抜かずに下へ。途中後ろから1300クラスが追いついてきて抜こうとしたが、コーナーで、ギアミスを二度立て続けにして、ぐらついていた。下りだから、惰性で進行するが、のぼりだったら、もっと焦るだろう。叩き付けるようにして入れて、加速したら、やはり1300、ちょっとは早い感じがした。前の4輪が車線妨害をしたが、あっさりかわして前へ出て行った。しかし、もういろは坂は終わっていた。
日光口のサービスエリアに寄ったら、これから登っていくマナーのよくないうるさい数十台のバイク集団がのぼり側の休憩所で騒いでいて、出発らしく、まったくうるさい。半分暴走族っぽい集団のようで、排気量も中途半端だが、吹かす音だけは特大。

これだけバイクが多い日は、まあ、一割ぐらいこういうグループがいるのは仕方がないかも知れないが、早出に限ると思った。下り側は、ビッグバイクが三台、のんびりベンチで昼食をとり、終わっても出発する気配もなく、休んでいる。年齢は、中年グル−プのようだった。関心がないようでも、いやでも観察されているのを感じる。後は、地方の県道をゆっくりまわって帰ろうと徳次郎でおりて、氏家方面へ。



本当は、福島県と栃木県の境あたりの八溝山系で、コーナーの練習をしようと最初思ったのだが、今からでは少し遅いから、どう帰ろうかと考えていると、鬼怒川へ出た。橋をわたってすぐに観光梁が営業中なのが見えた。橋をわたって、ガソリン給油。そこでスタンドのお兄さんから、あそこで鮎が食えますか?と聞いたらOKだと言う。そこで、じゃあ戻って寄ってみますというと、川を超えたら、逆にまがって河原へ降りた方が近い、と教えてくれた。

それで、そのとおり行くと、看板が出ていて、そこで河原へおりて左折して上流ののんびりしたお店へ行く。程よい人出で、ゆっくりするにはちょうど良い。橋の下で、バーベキューの地元組も居る。

水はまだやっと濁りが取れかかった程度で、半透明。鬼怒の清流を連想しがちなだけに、ちょっと残念だが、下流の利根川より、水辺はよけいなものがなくきれい。久しぶりにオフロード走行をしてしまった。
タイヤが新しいせいか、しきりに砂利が鳴く音がする。静かに行ったつもりでも、回りからは驚いて一斉に振り向かれてしまった。



昔懐かしい、海の家的な風景で、皆のんびりとひとときを楽しんでおられるご様子。満席のシーズンもあるのだろうが、今日はちょうどよい混み具合の感じがした。あたりは、鮎を焼く香ばしい香りが。サザエのつぼ焼き風の匂いに感じた。

鮎の塩焼き定食を頼んだのだが、今は養殖鮎は品切れで、落ち鮎だけしかなく、一匹大きさに寄って、1100円くらいから100円づつ増してくという。それで、馬鹿だから、つい、欲につられて特大を頼み、後で後悔した。

炭火で焼いている。続けて二組注文が入ったので、あわてて団扇で煽ぎ、新しい串刺しも追加して焼き専門の人が二人掛かりで焼いている。

ビールを飲んでいる人もいたが、半分は焼き待ちで、自分の分が来るまで30分ほど待たされた。



仕方なく、客を物色したり、持っていった本を読んだり。やはりここは栃木。顔つきが違う。平安の昔から変わっていないような(失礼)、烏帽子が似合いそうな、絵物語でよくみるような顔もけっこうおりました。

気がつくと、美人が一人。五歳と三歳ぐらいのふたりの子供を連れて、ご主人と来ている。昔、片思いの栃木県は二宮町出身の校長の娘さんとそっくりではないか?

もちろん、その女性も彼女の子供ぐらいの年格好なので別人なのだが、こういう雰囲気の特産場所なのか、この地方はと、密かに思って、時々観察させていただいた。

それにしても、髪型といい、横顔といい、よく似ている。また、高速の休憩所で見た、誘拐されて殺されてしまった女児の情報提供を呼びかけるちらしの写真とそっくりの小5くらいの子もいて、こんなに似ている子がそこらかしこにいたのでは、情報も集まりにくいかもしれないと、内心思ってしまった。彼女は食後無心に池のほとりに集まる赤トンボなどを捕まえて遊んでいたが。

この事件は衝撃が大きかったが、発見場所は茨城県内で、しかもそこはご両親の出身地に近いらしく、その辺の農民は軒並み警察の事情聴取を受け、しばらく仕事にならなかった、とも聞いた。ぜひ、解決してもらいたい事件の一つで、犠牲者のご冥福を祈るばかりである。



さて、出された鮎は、もの凄く太くて、相当脂がのっているのかなと思ったら、子持ちで太っていたので、肉そのものはどちらかというとぱさぱさしていて、それほどおいしくなかった。とくにごはんのおかずとしては。やはり、ビールか日本酒でしょう。私はほとんど飲まないタイプだが、その位は見当がつくつもり。

たらこ大の子持ちで、少し食したけれど、食べきれなかった。匂いはそれほど悪くはなく、生グサさも少しはあるが、小振りの子持ちでないほうがよかったかもと思った。塩焼きとフライとが選べるのだが。

それで、今日行った終点(のつもり)の金精峠さきの休憩所でも、やまめやいわななどをここと同様に串刺しにして炭火で焼いていたので、そちらはどうかと急に気になった。来年もその仕事があるか知らないが、はじめて鮎の遡上調査をした関係で、鮎の塩焼きにご執心ということだったのだが、川魚は似たり寄ったりか?渓流の魚のほうが、臭みが薄くておいしいのでは?と思い出してしまった。しかし、自然の恵みに感謝の一日だった。思わぬうちに、似た人にも会えたし、感性は変わらないものだ。

最後に寄ったロプノールで、雑誌を見ていたら、岡潔博士も、晩年講演を頼みに来た同志社大グループの一団に、昔金星の少女として、脳病院さわぎがあった頃、マリアのように現れたという幻想の少女に似た一人を発見し、生まれ変わりか?と恋してしまった、などという記事もあった。創造と狂気とは紙ひとえということか?

そういえば、鮎茶屋で読んだ私のメモにも、物書きは犯罪者に似ている、書くという犯行を企てる者は、大事を秘密のうちに用意しなければならない、などと記してあった。

ゲーテは書くために生まれ、書きながら死んだ、という一句も。

岡博士は芥川や漱石ファンで、ジャイアンツファン。博士はあるとき、小説家佐藤春夫の「田園の憂鬱」
が、創作の苦労と言うか、生み出す過程がよく描かれているというので、玄人筋では定評があると指摘されたので、さっそく昔入手して読んでみた。今では、なかなか入手困難だとは思う。

物書きを志す青年が、愛人と田舎の一軒家を借りて住み、傍目には、あまり作家らしくないような日常に振り回され、創作を目指しつつ、精神は一部病むような状態になっていく過程を描いてるのだと思う。

薔薇病めり、とは何だったのだろうか!?  ゲーテにも野中の薔薇があるのだが。

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土曜日, 9月 15, 2007

8月16日の皇居前広場

侍従の入江相政は8月16日の日記にこう記した。

「午後から、〜君と一緒に宮城前に行く。 慎んでお詫びを申し上げる。泣けて泣けて仕様がない。お詫びを申し上げているのは、8〜9割は青少年で頼もしい限りである。・・・」

23日には船員団体の明朗会に属する日比和一ほか12名が広場で自決した。・・・

皇后陛下が皇太子あてにだした手紙には、「二重橋には毎日 大勢の人が お礼やらおわびやら 涙を流しては もうしあげています」としたためられていた、という。

だが、16日の日記に入江はこうも書いていた「大泣きに泣いて帰ってきたら、すっかり気持ちも浄化されたような気がした。」と。
ここには「大泣きに泣く」ことで、一日前に受けた敗戦のショックをいとも簡単に水に流してしまう日本人の一典型がある、と書いている。

敗戦の翌日には早くも人々の心には、天皇とは別の勢力が主役の座を占める「戦後」を受け入れる準備が出来ていた、と書いている。

「菊と刀」を書いたルース・ベネディクトは、一夜にして日本を代表する新聞が、それまでの鬼畜米英、徹底抗戦路線から決別して、平然と今後の平和の指針を堂々と掲げていることを、特書している。ころりとなんのけじめもなく状況次第で生きる態度を変えてしまう、日本人へのおどろきであると理解する。

たとえば、ドイツで戦前、ナチス党員であったとしたなら、戦後も、自ら宣言して決別しないかぎり、まわりも彼をナチス党員として意識するという。状況次第で、どうにでもなるという態度は、論外なのであろう。しかし、大新聞でさえ、状況に巧みに取り入るやり方に、欧米人はやはりカルチャーショック以上のものを感じるのだろう。

麻生氏が、外務大臣を努めた高村氏の事務所に挨拶に行ったら、氏は不在であったが、のこされたものは、現在の状況がこうである以上、福田支持しかありえない、と言ったと言う。丸山真男氏がいう、「永遠の現在」がここにある。

神奈川大学長で、宇宙物理学者の桜井邦朋博士は、NASAでの研究員時代が長く、欧米人のスタイルに理解があり、帰国後「考え方の風土」を講談社現代新書に書いた。当時話題になり、ある高校では副読本あつかいを受けたこともあったらしいが、現在では絶版。私も処分してしまい、古本屋で偶然見つけて手許においている。

虹の色や太陽の色さえも国によって認識に差が出る、と言うあたりからあちらでのカルチャーショックが語られる。英語ができることも大事だが、あちらの頭の中が理解できなければ、また同じ失敗を繰り返すおそれがあり、あちらの常識が基本的にどうであるかが、興味があるわけである。

桜井博士は、インド人の学者が、あちらで科学はひとつといって、べつの学会に聴きにいくというスタイルにもおどろいた、という。また、発明も発見もロジックだということを強調された。ロジックによって緻密に詰めることができるから、発明や発見も可能なのだと、いう。

日本人は意見を否定するとき、おまえの言うことは一面的だといって、否定することを対立的に描いている。これでは、建設的な議論の展開ができないだろうと、・・・。





岡博士は、発見はいのちのよろこびといい、日本的情緒が大切ということを強調された。欧米人の発明、発見方式とちがうやりかたのように思える。

岡氏の論文が、戦後フランスで評価され、それにつれて日本でも評価が高まり、奈良女子大教授になられた。フランスの先生方は、ブルバキのチームのように、幾人もの数学者がOkaというペンネームで共同して論文を発表していると勘違いしていたらしい、それで、講師をやめて浪人中の岡氏が独力で切り開いた境地の結果だと知った時の驚きは大変なものだっという。フランスの数学者達が二度ほど来日し、岡博士のもとを訪れている。フランス語で論文を書いていても、通訳をかねた若手達は、岡先生はフランス語を忘れてしまったのでは、と思うほどの対応もあったらしい。

フランス流の形式の整いというスタイルで記述されて、並の日本の数学者でも理解できるようになった、ともいわれている。しかし、そうしたやり方では、自分を越えない、という意味をこめてコヘランだよ、と弟子筋の九大名誉教授梶原先生に語ったという。 coherentの語感とかけての述懐だったと。

「数学の本質は禅師とおなじであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると、客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を表してくるのである。姿を表してしまえばもはや法界の法ではない。」

「道元禅師はこう言っている。『心身を挙して色を看取し、心身を挙して音を聴取するに、親しく会取すれども、鏡にかげを映すが如くには非ず。一方を明らめれば、一方は暗し。』親しく会取するまでが法界のことであって、鏡の映像をよく見ることは自然界のことである。」

「法が法に関心を集め続けてやめないのは情緒の中心の働きだと思う。そうすれば、終には客体の法が主体の衆生(このときはもはや法ではない)の「心窓の中に入る」のであるが、これは大脳前頭葉の「創造」の働きである。」

「数学の研究の場合は、私の場合を例にとっていうと、大体2年間くらい関心を集めつづけるのであって、そうすると一つの論文が書けるのである。長期にわたって関心を集めつづけると、情緒の中心は大変疲れるらしい。こういうことをした後は少なくとも2ヶ月くらいは休まなければいけないのであって、漱石がはやく死んでしまったのは、これをしなかったためだろうと思われる。」・・・岡先生も、自然界と法界の区別を述べているように思いますが、法界は生前あるいは死後の世界で、その世界にいることを仏(人にあらず)、という意味)だと、永六輔氏がラジオで発言していたことがある。




岡博士は、数学者によっても、人間的評価が異なる部分もあり、たいへん興味の深い方で、一般日本人とはやはりだいぶ異なる、と申し上げてよいのだろう。しかし、基本的には、右翼的な言動もされた方である。

例えば矢野健太郎博士は、こういう故事をのべられている。

先生は奈良の近く、つまり京都や大阪で学会があるというと、たいへん興奮して学会に出席されようとなさるが、余りに興奮されると先生のお体にさわるというので、家族の方は先生に隠していたそうである。(実は長女のすがねさんが奈良女子大の先生でもあった)。

あるとき私(矢野)は、京都か大阪か忘れてしまったが、学会で先生をお見かけしたことが有る。その時先生は大変興奮しておられ、何かブツブツ言っておられた。

その会場は、関数論の会場で、私の専門(微分幾何)とはちがうので中へ入ることは遠慮したが、岡先生が興奮なさるはずである。次の講演の演題は、「岡の定理について」であった。

この講演を行った若い学者は、講演の後で、真ん中に変なおじちゃんが座っていて一人でブツブツ何か言っていたので、とても講演がやり難かった、と言っていたが、後でその人が岡先生であると聞かされてビックリしていた、とある。

大学へいかれる途中、お地蔵さんへ石つぶてをなげて、当たらないと大学へは行かずじまいだったというような逸話も矢野先生の著作にあったような気がする、・・・。

引用した記事写真は、梶原譲治著、「大学院入試問題解説」(理学・工学への数学の応用、現代数学社、1991年)による。

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金曜日, 9月 14, 2007



2003年4月発行。
東京の中心にありながら、めったに行かない場所。・・・まるで、だれもいないことが初めから予定されていたかのような静けさが、常に広がっている。

日本で最大の政治空間から忘却された空間へ、・・・・世界でも類をみない「何もない空間」から見える近代天皇制と日本のかたち。と表紙のうらの見開きにある。

皇居前ひろばのある場所は、もともと江戸城の西丸下(西の御丸下)と呼ばれ、老中や若年寄の約屋敷や。会津藩や忍藩(おし藩、現行田市。天領であった秩父は忍藩から代官が駐在していたらしい)の両松平家の屋敷などが置かれていた。

明治初期には旧西丸下は官有地となり、これらの屋敷がてっきょされるかわりに、近衛騎兵営や元老院、家族会館、岩倉具視邸、東京衛戍主衛、内務省図書館など、公家関係と軍・警察関係の施設に使われていた。

当時の地図には、馬を飼う施設が皇居周辺にもかなりあった。

(東京に出て学生生活を体験していたとき、勉強出来ない夜は都内を歩き、地形を体験し、江戸の歴史に思いを馳せた。おもいがけぬ一画で出会う夜の屋台ラーメンも捨てがたい味があった。東京はかなり坂が多く、地理学の教科書も、そのことだけで一冊の本ができるほどであり、漱石などが愛した本郷界隈や学習院大のあたり、神田や白山のあたりもよく散歩した。家から通っていたが、下宿するようになってから、東京音痴も手伝って、夜の散歩は移動を通行人に邪魔されず、独特の味わいがあった。)

1883年に岩倉公が死去すると、これらの施設は順次撤去され広場が出来て行く。88年10月には皇城から宮城となり、宮城前広場が出来て行く。初めてマツが植えられたのは、1889年4月のことであり、ほぼ同じ頃に芝生を張る工事も行われたと言う。

著者は、皇居前広場の時代区分を5段階にわけて

1.準備期1888(明治21年)から1924(大正13年)まで

2.天皇制儀礼確立期 1924から1945(昭和20年)まで

3.占領軍、左翼勢力、天皇などの激突期 1945から1952(昭和27年)まで

4.空白期 1952から86(昭和61年)まで

5.天皇制儀礼再興期 1986から現在まで

のように分類している。

・・・ ・・・・

(皇居前)広場にいる人々にとって、二重橋にいる天皇はただでさえ見揚げる対象であったが、戦争の勝利は天皇をますます神に仕立て上げて行った。君が代の斉唱が感涙を伴わずにいられなかったのは、「神」であるはずの天皇が「人間」として「優雅なる御挙手の礼」をもって応えたからである。たとえ天皇が何も言わなくとも、ただ白馬に乗って挙手をするだけで、それをみる人々は「あまりのかたじけなさに感極まる」のである。

そして「感極まる嗚咽」は、入江の日記にあきらかなように、15分後に皇后や皇太子が二重橋に現れることで倍加される。皇室の主要メンバーが勢ぞろいし、天皇は大元帥の、皇后は「国母」の役割を見事に果たしている。武漢占領の時以上に、人々は大東亜戦争の勝利を確信したにちがいない、とある。

国母ということばは、この本で出会うまでは、故ダイアナ妃の事故死(他殺!?)まで生きている人の具体例として聞いたことがなかった。イギリスの国母が、異人種との間にできた「王子?王女?」を宿している、ということに耐えられない、という主張が書かれていたことを思い出す。

まあ、ダイアナ妃も、そのこと以外に少々政治的に動き過ぎた感じもしているが、・・・・。

戦局の悪化とともに、広場には高射砲陣地が設けられたが、依然として聖なる空間は保たれていた。たとえいくら家が焼けようが、関東大震災の時のように、罹災者が広場を埋め尽くすことはなかった、という。
(震災時は、上野に50万人、皇居前に30万人という被災者があつまり、今で言うテント村ができ、最後でも3000人ほどが、ながらく広場に住んでいた、という。)

焼け野原が広がり、罹災民が国民学校の校庭や、寺の境内などにあふれる中にあって、この広場だけは敗戦のその日まで、「無傷」を保ち続けた。


8月15日の皇居前広場

『玉砂利に額を押し付けて。きのふまでの輝かしき民族の歴史、けふは悲しき民族の歴史の日を慟哭する赤子(せきし)われ、大東亜戦争は終わったのだ、さあれ一億国民は、戦争終わる日の宮城前に、どのやうな光景を眼にせんことを思ひ、苦しき一日一日を、この楽しい夢を追ひ、希望に胸を膨らませて戦ってきたことか、・・・・・・・提灯行列、・・・旗行列、・・・歓声、・・・笑顔、・・・ああ聖上の白馬に召させられて二重橋上に出で立たせ給へば、百雷の万歳天地に響きわたる・・・・・夢寐(むび)にも描きし栄光の勝利のその日は、我も我が子も遂に見んとして見得ざることとはなった。』(朝日新聞、8月15日)

勝利の幻想は、8月15日正午の玉音放送によって完全に打ち砕かれた。1942年2月の第一次祝賀式で天皇が白馬に乗って二重橋正門鉄橋に現れ、十万を超える人々が万歳を叫び、君が代を斉唱した「聖なる空間」はその三年半後には「民草」が同じ二重橋に向かって「不忠」を詫びる「慟哭の空間」と化していた。



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水曜日, 9月 12, 2007

『ビートに刻む先祖への感謝 2』  昔の名曲を若者に伝える

子供ももう大学を出て久しく、学校教育がどうなっているのか、あまり関心がない状態になってしまい、ゆとり教育推進はまずいんでは、πを3と教えるような教育は、絶対におかしいとぐらいにしか認識していなかった。しかし、事態はやはりそこまで進行していたのだった。

日野市の公立小学校へ、つのだ氏が息子を通わせていたとき、何気なく小学5年生の音楽の副読本を見て、大変驚いた、という。

わけのわからない流行歌のような歌が幅をきかせていて、文部省唱歌の故郷のような歌や北原白秋のような日本を代表するような方の作詞した歌が歌い継がれていないことに気付いた、という。

実は、わたしも国語で鴎外や漱石の文章が、難しいからという理由で削られると言う話しを数年前聞いて、ゆとり推進のつけかなあ、と思っていた。

つのだ氏は、直接先生に問いかけたところ、「昔の歌は、歌詞がむずかしくて生徒にはわからないんです」と答えた、と言う。

むずかしいことを教えるのがきょうしではないか、とたいへん驚いた、という。それいらい、どうしたら昔の優れた名曲を若者に伝えられるか考え始めた、という。

小学校の卒業式にも出席したが、蛍の光は歌われなかった、という。君が代では、つのだ夫妻以外だれも起立せず声もださなかった、という。むかし祭日と言えば、折り畳んだ跡がくっきりの大小さまざまな日の丸が各家にかかげられていた時代がまぶたに浮かぶのだが、・・・・・。昭和は遠くなりにけり。

御起立くださいというアナウンスで謳われた曲は、「翼をください」(全然知らない!)だった、という。この曲はフォークソングだそうで、つのだ氏からみれば歌謡曲としか思えない曲だそうだ。

帰宅して、国歌を歌わなかった息子を怒鳴りつけたところ、教えられていないから歌いようがないんだもん、だったので、これまた仰天!。
日本の国民なのに国歌を教えないとは!これが当時の実態だったそうだ。

平成9年に国立競技場で行われたFIFAワールドカップの対ウズベキスタン戦では、国歌を独唱された。
つのだ氏が歌い始めると観衆がダアアーンと立ったんです。立った風圧を感じました。そして皆で歌ったんです。うれしかった、という。

つのだ氏は、勇敢にフィールドに飛び込んで行く若者への激励と「祖先への感謝」の気持ちを込めて歌いました、と述べておられる。

吉川英治氏とならんで文化勲章を受章した数学者、岡潔博士はこの国では、古来から善行と言ったら「犠牲的行為」だと説いた。戦争中、死なば諸共と言っていた国民が、戦後食糧の奪いあいをするさまを見るに耐えず、宗教の門を叩き、念仏を唱えていたら、難問のうちの一つが自然に解けた、という。終戦までにすでに多変数関数解析の難問を、いくつか解き論文も書かれていたが、残った難問だったという。

最初のとりかかりに夢中になり、某大講師も辞め戦争中は、農民にわけてもらった芋の蔓なども煮てたべたこともあったらしい。死なば諸共の声に励まされ、数学研究に閉じこもったのだと言う。奇行も報じられているが、主体と客体とが一致し、心身脱落の境地を説いた正法眼蔵なども物すごく深く研究されていたように思える。数学の難問が、日本人である私に解けないのならば、フランス人なんかに解けるはずがない、という姿勢で臨んだらしい。

本当は、ドイツ留学すればよかったらしいが、フランスに留学、無冠で帰国したので、評価は最低。ドイツで出た「問題の難問」へのハンドブックを手がかりに、その本がぼろぼろになるまで読み込んで考えては寝て、寝ては考えてを繰り返した、という。

つのだ氏は、先祖への感謝ということばを使うが、岡潔博士は、非自非他ということばを好く使われた。
いまの学校で教えている、自己と言うか自分は本当の自分ではない、ということである、わりきってしまえば。普遍的無意識の中にこそ、本当の自己があり、それを見出す努力が教育ということではないだろうか、というのが只今の私の解釈であるが。

教師の能力がないという人数が、数百人というニュースをやっているが、首相としての自覚から辞任する決意をした安倍首相に、今後の再出発のチャンス再来があるかどうか見守っていきたい。戦後政治の大転換が後世どのように評価されるか?

火曜日, 9月 11, 2007

行進曲 「愛馬進軍歌」

国を出てから幾月ぞ              昨日陥したトーチカで
ともに死ぬ気でこの馬と            今日は仮寝の高いびき
攻めて進んだ山や河              馬よぐっすり眠れたか
とった手綱に血がかよう            明日の敵は手強いぞ
              
弾丸の雨降る濁流を              慰問袋のお守りを
お前たよりに乗り切って            かけて戦うこの栗毛
任務果たしたあの時は             ちりにまみれたヒゲ面に
泣いて秣を食わしたぞ             なんでなつくか顔よせて

・・・                    ・・・

と6番まで紹介されている。

戦火がとだえ、麦畑をいくと、傷ついて歩けない馬が、首をもたげ、悲しげにいななくと言う。手当てをしても無理な馬は、長く苦しませないために、拳銃で眉間を撃って絶命させるしか手がなかった、という。

どんな気持ちで引き金に指をかけたことだろうか。

東北地方を中心に軍馬として大陸に送られた頭数は、子供のころの記憶で8万余頭という。父の部下にも、東大の獣医学部出の士官が二名いたというが、馬にまつわる多くの話しを子供心にしみ込ませた。一頭たりとも戻ってこなかったらしい。わずかに生き残った馬は、中国の農民のもとで、使役されたわけだが、この歌にあるように主人が変わったからといって、兵隊になつくように中国人にはなつかなかった、ともいわれている。

西洋の犬は、主人がかわっても、同じように忠実だともいわれ、その点日本の犬は、二君にまみえずというタイプが多いらしい、とテレビでいわれていたが、馬でもそうなのかどうか。

行軍中、馬がピタリと止った。前方に地雷があるのを察知したのだという。そうとはしらぬ兵隊たちは三人がかりで無理やり引っ張り歩かせようとして、数歩進んで馬もろとも三名は爆死した、という話しも聞いた。


靖国神社は、馬や軍用犬、伝書バトまで祀っていると言う。さらに今年の毎日新聞では、終戦記念日頃に掲載されたが、戦争末期、内地で毒ガスの解毒用血清製造とか言う名目で、太らせた馬から血液を抜く勤労奉仕をさせられたという中学生だった人の回顧録があった。

可愛がってそだてた馬が、いついつ処理をすると知らされると1週間前から、中学生達の食欲は落ちたと言う。暴れる馬の足をしばり、血を抜く。ほとんどの血を取られた馬は開放されて、やっとの思いで立ち上がり、一声鳴いて絶命したという。もちろん、肉としても利用されたのだろう。

この曲の演奏を聞いて、昔の(昭和20年代、東京物語の頃の時代)運動会でも流れていたような記憶が。もちろん軍艦行進曲は定番であった。テレビなんかない時代。学校給食もはじまっていない、占領からやっと復帰したかどうかというような時代。うかつにもそうした社会の情勢の変化には気がつかなかったが。ただ、町中から米兵たちの姿が消えるのは早かった。その頃のバスは大半軍用車両の改装で、スポークに木製の馬車の車輪のようなバスもけっこう見かけた。馬のいななきのような感じがする部分が感慨ひとしおの曲。

ノモンハンの戦いでも、演習では脱落する馬が実戦となると必死に遅れまいと付いてきて、脱落する馬はいなかった、という。追いついてきて、味方の列に加わると、ヒヒーンと武者震いのように嘶いたという。

血を見るのが厭で、植物系へ進んだわけだが、そういう動機で進路を決めるのは案外多いのでは。もちろん、獣医学部や医学部へ行く人を特殊な人とは思わないが。動物愛、人間愛から発する進学熱が正当なものであるのは当然なのだが、高校の解剖でヒヨコを一羽手にしてからは、どうも苦手感が先行してしまう。


馬は人類の長い友達で、農耕、運搬、軍事で重要な役割を負ってきた。
昭和13年10月、日本競馬会から陸軍省と農林省に対して、国民の馬事思想普及のため「一般国民の心情に切実にアピールするにたる行進曲または俚謡の類い」の制作依頼が提出されたという。


戦時と平時を通じて常に愛唱する歌詞をつくることを目的として馬政課(陸軍省)と馬政局(農林省)が募集して集まった4万通の応募からえらばれた、という。

この「愛馬進軍歌」の歌詞募集を実施した当時の陸軍省馬政課長、栗林忠道大佐は、後の昭和15年の松竹映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』で使用された軍歌「暁にいのる」の企画にもかかわった、という。

彼は、昭和20年3月に硫黄島総指揮官(最後は陸軍大将)として戦死を遂げるのであるが、その硫黄島の守備隊には、栗林大将と同じく騎兵科出身で、ロスアンゼルスオリンピックの馬術競技グランプリ障害飛越競技において金メダルを獲得した西竹一中佐(戦死で大佐に昇進)が、戦車第26連隊長として参加している。

米軍は、バロン西に投降をビラやマイクで執拗に呼びかけたらしいが、バロン西はとうとう味方に背を向けることはなく、戦死して「英霊」となった。

騎兵科出身のなかでも特に馬と縁の深いこの二人が太平洋の孤島に散ったことには不思議な巡り合わせを感じる、と結ばれている。

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『ビートに刻む先祖への感謝 1』より

話の肖像画と題して、ミュージシャン•つのだ ひろさんが産経朝刊の二面にとりあげられた。つのだひろさんは、くわしくは知らないが、98もマックも使用するミュージシャンということは、以前マック雑誌でとりあげられて存じ上げていた。バブル崩壊の頃、かれこれ10年以上前の話。

それが突然全国紙の二面に。本当は最近朝刊もあまり見ないのだが、どういう訳か、今朝は何気なく開いて見つけてしまった。

何事がとりあげられているのか? 見出しに『英霊に感謝をささげたい』とある。この見出しが、私をしてよびつけたのかも知れない。

出だしを読んでみると、「靖国神社で平成14年から毎夏、奉納コンサートを開催している。今年は7月14日に行われ台風14号の影響による大雨の中、多くの聴衆が集まった。」と始まる。意外な気がした。

掲載された写真は、平成の松岡子規か?という感じで写っている。きっかけは、ゴーマニズム宣言の漫画家、小林よしのり氏らと格闘家の試合で知りあい、著作を読んだり、海外体験から日本を見つめ直したりして、さまざまな要素がまざりあい、命がけで子孫のために戦ってくれた「英霊」に感謝を捧げたいと思うようになられた、とのこと。

コンサートの初めに、「奉納させていただきます」、終わりには「お楽しみいただけましたか?」と言う気持ちをこめて、聴衆の方ではなく、本殿に向かい礼をされるという。その姿が印象的でした、とインタビュアーは水を向けている。

ーーー文部省唱歌『故郷(ふるさと)』や『この道』など8曲を熱唱されました(聞き手)。
つのだ 『故郷』をコンサートで歌うようになったのは、9年ほど前に教育現場で驚くべきことが起こっていると気がついたときからです・・・。

続きが楽しみな企画だ。

文部省唱歌というと古めかしく聞こえるかもしれないが、不思議と今聞いてみて、やはり相当によい。クラシックと同じ。軍歌の中にも、そういう類いのものがあるような気がしている。つのだ ひろ氏は私と同年代で、若い頃は、まず確実に、そういう心境ではなかったはずだ。平成14年というと小泉内閣発足の翌年で、靖国参拝を公約に掲げた首相の登場と言うことで、何かと話題になりだした。また、中国のしつこい
靖国参拝反対が注目をあびた。もっとも、この中国の反対、日本のマスコミ、特に朝日新聞が煽ったものだとは、テレビ朝日で三宅氏が指摘したとおり。

昨日紹介した日本人と軍歌、いや「軍歌と日本人」にも、朝日の関与が掲載されていた。

「大ヒットはしたが、前線の兵士達からは総スカン」というタイトル、朝日新聞が掴んだヒット曲とある。

「父よあなたは強かった」は昭和14年に朝日新聞がつくった軍歌だそうである。

毎日新聞にいつもヒット軍歌をさらわれていた朝日は、昭和13年になって歌詞を読者から募集。25753通の応募から選んだのがその曲で、レコード発売後40万枚もうれたのだそうだが、マスコミが下心丸出しで作った商売音楽は、前線では総スカンだった、という。

「こんな歌を作ったヤツはたたき殺してやりたい」

ある兵士がジャングルの中で、この歌を歌った。すると他の兵士が「ヤメロッ」と怒鳴ってやめさせた。そして言ったという。「こんな歌を作った奴はたたき殺してやりたい」と。山本(七平)も他の兵士もほとんどがもっともだと感じた、という。その理由を山本は長々と書いている(山本七平、「私の中の日本軍」)

山本はこの歌について、「自分たちの死体を踏み台にしている」とまで言っている、という。本当の苦労を見た人達にとってはマスコミの商売ソングなど何の助けにもならなかったのである、と書かれている。

しかし、毎日新聞は、爆弾三勇士をはじめいくつも手がけてもそういう反発があったという話しは載っていない。「露営の歌」、「日の丸行進曲」も毎日が手がけたらしい。

軍歌の王様として取り上げられている「軍艦マーチ」も学ぶところ多いポピュラーな曲だ。



「昭和28年に作られた小津安二郎の代表作に『東京物語』がある。戦争で傷ついた日本と日本人の姿を描いた映画である。その中で戦争で息子を失った老人たちが居酒屋で愚痴を言い合うシーンがある。その居酒屋で流れている音楽が『軍艦行進曲』なのだ」と紹介されている。

ああ、あのシーンか!。もう一度見直すと、確かにバックに静かに流れている。居酒屋で流した、という感じではない。いなければ、いてくれたらとおもい、いればいたで、いろいろと対立がある、というようなことを言い合って、残った息子達をお互いが褒めあうというか慰めあう。その戦死した次男の嫁が、原節子という役どころ、こっそり両親にお小遣いを渡し、はとバスでの都内見物も会社を休んでかってでる戦前の妻の姿。

「軍艦行進曲」はその老人たちに謝っているのである。軍艦行進曲だからできることであろう。ほかの軍歌であれば、シーンが台無しになりかねない、と紹介している。

作曲者瀬戸口藤吉は33歳の時に完成させたそうであるが、「軍艦行進曲」を作るとき、第二の国歌を作るつもりで挑んだのだという。

それは成就されたのではないか、と書いている。この一曲をもっていえるだろう、軍歌とは軍国主義とは関係がないということを。

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月曜日, 9月 10, 2007



最近、事情があってできるだけ本屋さんで本を買わないようにしているが、この一冊はつい中身を見て購入してしまった。

軍歌のCDはいろいろあるようだが、解説が今一だったり、入手しずらかったり、不満もある。時代背景もあるし、靖国参拝もあいまいのまま。

それで、CDつきで解説が豊富で、文章もよく練れていると思い、期待をもって購入してしまった。買って一週間ほどになるが、昨晩見直していたら、表紙には12曲収録とあるのに、曲のリストを開いてみたら、何度数えても11曲しか入っていない。裏表紙についているリストも結局11曲だけであり、「勇敢なる水兵」の曲が入っていなかったが、歌詞や解説などはしっかりはいっている。

当時の原音再現にこだわったとあるように、若干ノイズが目立つがリメイクでない当時の新鮮さが売りで、最初に収録されている「抜刀隊」などの歌詞を聞くのも初めてで、明治か大正かしらないが、戦前の歌声の奇妙な現代に通じる一致点を見出して感慨にふけった。少しも古くないのである。

歌の内容は、西南の役で、警視庁の巡査たちも、サーベルで西郷軍の士族たちと田原坂で死闘を繰り広げた故実を題材に、新体詩運動の谷田部良吉、井上哲次郎らと並んで知られる東大教授の外山正一氏が作詞し、曲が付く前から、全国で思い思いの節で歌われていた、というもの。

数年後、おやとい外国人教師が、作曲し、以後連綿として現代まで受け継がれてきている。

記録フィルムに残る、あの学徒出陣の神宮外苑での分列行進時に、演奏されていた必修曲目のひとつ。

私には、曲としては耳に親しんできたが、歌詞はやはり始めてみたような気がするが、日本的精神をよく表したものと感じる。若い人たちにどのように映るのか、人様々だとは思うものの。

初めて識った歌詞とは!?



吾は官軍吾が敵は〜
天地容れざる朝敵ぞ〜
敵の大将たるものは〜
古今無双の英雄で〜
これにしたがうつわものは〜
共に標悍(ひょうかん)決死の士
鬼神に恥じぬ勇あるも
天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より
栄しためしあらざるぞ〜

(繰り返し)
敵の滅ぶるそれまでは
進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて
死する覚悟で進むべし〜

http://ja.wikipedia.org/wiki/外山正一

には、『これは外山が米国留学時に親しんだ南北戦争の軍歌の形を踏襲している。のち、陸軍軍楽隊教官のフランス人シャルル・ルルーによって曲が作られ、日本で最初の軍歌として爆発的にヒットした。この曲は「扶桑歌」「分列行進曲」とも呼ばれ、旧陸軍から現在の自衛隊にまで受け継がれている名曲である。』
などと解説されている。(繰り返しの部分を指す)。

「ラスト・サムライ」、西郷隆盛の死からうまれた近代以前のサムライ魂を歌った日本初の流行軍歌と紹介され、後に陸軍を代表する軍歌となったのだ。近代の日本陸軍とその軍歌は、前近代への敬意の中から立ち上がったのである、と結んで紹介されている。歌詞は6番まである。

実は外山正一は、徳川家康がまだ、弱小戦国大名だった頃から仕えてた旗本の名門の家系の出だった。維新以降、意味を失った刀、没落した武士階級、しかし田原坂で、刀は華々しく復活している。外山にとって、自分を励ます意味も込めた歌ではなかったか!?と指摘している。

演奏は、陸軍外山学校軍楽隊とある。指揮は大沼哲氏。iTunesには、こうした情報は表示されず、Windouws Media Player形式にしてはじめて判明。なんか不満、アップルに対して。


皇国(みくに)の風(ふう)とつわものは
維新このかた廃れたる
日本刀(やまとがたな)の今更に (にっぽんとうの、と歌っているが!)
また世にいずる身のほまれ
敵も味方も諸共に
刃の下に死すべきに
大和魂あるものの
死すべきときは今なるぞ
人に遅れて恥じかくな〜

繰り返し


前を望めば剣なり
右も左もみな剣
剣の山に登るのは
未来のことと聞きつるに
この世において目のあたり
剣の山に登るのは
我が身のなせる罪業を
滅ぼすために非ずして
賊を征伐するがため
剣のやまも何のその

繰り返し







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日曜日, 9月 09, 2007



日曜日、午前3時50分に目覚める。昨晩最後に、http://www.geocities.jp/shonaka2001/
を見てそのまま眠ったせいか、『夕日を見ながら帰途に就く。さあ、今日は早めに寝て、明日早起きしようかなぁ~♪』の最後のセンテンスが頭のどこかに残っていたのかもしれない。

マリアンヌ・フェイスフル主演の映画でも、周りが眠っているうちに、ハーレーで国境を越えるべく走り出すのが冒頭のシーンの一つ。日が短くなったせいか、まだこの時間、あたりは真っ暗。

いつものように、どうしようかとおもっているうちに、4時15分になると、少し明るくなった気が、・・・。それで、こっそり家を抜け出し、街道へ出てからエンジンスタートし、走り出す。

直ぐ後から、数台の4輪が抜いて行く。ダンプや、トラックは今朝はいないようだ。



4輪を先頭に後から付いて行くが、そのうち赤信号で止るのが面倒くさくなったらしく、見通しのよい交差点で信号無視してどんどん行ってしまった。まあ、この時間、この場所なら事故の心配はないものの、・・・。

熊谷あたりで夜はあけ、さすがに皆信号は守るようだが、速度は規制外時間帯らしく、節度を守る車と、お構いなしの車と入り乱れて走る。いつもの川本のセルフのスタンドも閉まったままだった。

以前甲府に抜けるとき通る滝沢ダムのループ橋の写真を撮ろうと奥秩父へ入る。途中尾張小牧ナンバーのトラックの後をだいぶ長く付いていったが、その車がいなくなると、奥秩父まではマイペースであっというまに着いてしまった。



大滝から奥では、雨台風の影響で、道路脇から沁み出した雨水が舗装路上を波打ってミニ小川となり、場所によっては50メートルもぬれていて、水しぶきをあげて走る。メインスタンドがまだらに濡れているのはそのためだ。林道をあがって、ループ橋が見渡せるあたりは、滝沢ダムの管理道路の工事中で、この先行き止まりの看板があった。何年か前は完全に橋が見渡せたが、今は沢グルミや雑潅木が急斜面の下から伸びてしまい、眺望を妨げている。



この道の奥が昔、有料の林道もあったとかいう道ではないか。バスも屋根の隅の角を落として走っていたという狭い道が続く難所だったようだ。今は、140号バイパスが開通して、今では地元の車も通らず工事関係車両だけのようだった。山側の法面下は幅の広いU字側溝を工事中でここまでくると、高いせいもあり、水の湧き出しはない。

行き止まりなので、栃本方面へと戻りまた140号へ大滝支所の近くで合流した。まだ7時前だ。台風の影響で、スギが何本か落石フェンスを壊して倒れかかり、車の通行を妨げない程度に、チェーンソーで、枝や幹の上部を落としてあるが、幹はそのままフェンスにかかったままだ。

三峰口まで行くが人っ子ひとりいない。自販機も暖かいものが欲しいと思ったが、みな冷えた飲み物ばかり。しかたなく降りることに。

途中、メインの140号に合流する少し手前でキャンプ場を見かけた。みな朝食中かその準備中らしく、色とりどりのテントの周りは人だかりが。

テントの脇にバイクも止めてあるものもあったが、門はしまり気楽に寄れそうもなく、遠巻きに写真を撮って離れた。


キャンプ場の直ぐ下は荒川の濁流。長瀞あたりでは、140号のレベルまで、水面はもやが、というより霧が立ちこめていたが、水温が気温に比べて高いせいだったらしい。それで、濁流の色はみえずじまいだが、野上の駅近くでみたときは、コーヒー牛乳そっくりの色。奥秩父でみたときは、カフェオレ的色で、すこし薄まった感じだった。



http://www.woodroof.jp/annai/index.html

には、このキャンプ場の総合案内がある。平日は概ねクローズド。主に連休や金〜月ぐらいのようだ。

このルートは静かで、飛ばすバイクもいないようだ。バイパスは水が流れていても、朝6時代からどちらの方向からも、腕試しみたいに傾斜させたバイクの「雄姿!?」に接することができた。むかし、雪が降って溶けてまた凍って、昼間は道路センター付近だけ溶けて濡れている、というような状態のとき、地元の飛ばし屋高校生がコーナーを勢い好く回って消えたとおもったら、転倒音が聞こえた。

心配して見にいくと、ダンプの脇に案の定転んでいた。ダンプの運転手は、地元で飛ばすので有名な男が二人ほどいるので、気を付けて運転しているんだ、と行っていた。コーナーを勢い好く回ったところで、ダンプに出会い、バランスをくずしたらしい。膝から血を流していたが、大した怪我ではなかった。バイクのステップとペダルがまがり、足を引きずりながら、押して帰っていったが、後輪はもう溝がなくツルツルだった。

帰りの長瀞では、霧がはれ、水面はやはりカフェオレ色。対岸の水際までくっきり見通せる。いつもの瑠璃色あるいは硫酸銅っぽい色とはほど遠い光景だ。元に戻るには最低数日はかかりそう。

本日の燃費、15.7キロ。STPを入れても、秩父からの長い下りを低回転で走っていたら、またエンジンがおかしくなった。それで、今度はロー、セコでも回転を3000以上回すことにしたら、調子が戻ってきた。

1500〜2500常用では却って好くないことが実証されてしまった。少々振動が出ても、ホンダのエンジンらしく高回転ぎみでまわしてちょうどいい、ショートストロークエンジンだということを実感した。そういう運転なら、5速はいらず、4速までで十分。高速道路だけか、5速にいれるのは。
5速でアクセルを開けても1000とは思えない加速だが、4速だと、アクセルを少し捻るだけで面白いように加速し、通勤にはやはり向かないな、と改めて思う。



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木曜日, 9月 06, 2007

昨日からの続きーーー>

『次の経済開発は天津だ』

胡錦涛は、上述したように、嫌われるという上海の生まれだと言う。生まれも育ちも上海なのに、600年も前の先祖が住んでいたという安徽省に戸籍を移して、そこの人間だと言っているという。安徽省のイメージは、薬売りで有名な富山の行商のようなイメージがあって、安徽省の人間だというと信用がある、というのが中国での現状らしい。

上海は昔の浙江財閥の流れで、中国におけるユダヤ人と言われていて商売はうまいけど、仕入れ値の数倍の値段を平気で付けたりするという事例も話されている。

胡錦涛は上海人なのに、安徽省出身と言うことで、上海人であることを見事に隠し、それが成功していると言う。

そして、天津開発を決め、天津を第二の上海にする計画というか、そう決めてしまった。整備も中国政府が責任をもってやるから外国企業は来てください、投資してください、という段階だという。

そうなると、いつまでも靖国参拝はだめだとか、言っていられない事情もあるらしい。反日運動はやめて(やればやるほど、政府にとって危険だとわかってしまったし)新しいアプローチ、天津に日本の技術と金が来てくれないとこまる事情が出現したというのである。

『人民元切り上げを求めるアメリカ』

アメリカからみて、中国は癪にさわってしょうがない相手らしい。今一番アメリカが望んでいるのは、人民元の切り上げだという。対中制裁法案を議会が言い出したので、胡錦涛がボーイングを150機注文したりしたらしいが、貿易不均衡は縮まらない。海賊版などの公開の翌日には100円で売られるという状況を、アメリカは許したくないらしい。あたりまえのことだけど、この当たり前が通用しない世界が、すぐ目の前に厳然としてあるわけだ。

『中国の銀行に投資する欧米銀行』

アメリカは、それなのに実に不思議なことをやった。中国の国有銀行は四つあって、中国銀行、中国建設銀行、中国農業銀行、中国工商銀行と4つ。この合計4銀行の不良債権総額が日本円で110兆円ほどある。しかし、アメリカは上場させた。宮崎氏は、アメリカのポールソン財務長官とゴールドマンサックスの会長がまとめたことから、何を考えてそうしたか、わからない、とおっしゃる。中国の国有銀行が立ち居かなくなるのは目に見えている、という。

『宗教問題』

法輪功とおいう気功をやっている集団が7000万人ほどおり、プロテスタント人口も同数程度居るらしい。地区の司教の任命権を中国政府が独占し、バチカンの専任事項を侵しているので、偽司教としてもめているが、中国は法輪功へのような弾圧はできないでいる。地下のプロテスタントといい、公安の目をかいくぐって礼拝する施設があって、マリア像が隠されていて、そこで信者は礼拝するという。モルモン教も北京に行って事務所を開設しているという。

日本からは、600万とか言われる宗教団体トップが北京詣でを繰り返している。宗教マーケットとなりうるからだという。


『経済の行き詰まり』

工業団地を作って、いらっしゃい、いらっしゃいをやったもではよかったが、オーバーキャパシティになってきた。台湾企業6万社、日本企業二万社が工業団地7700と、非公式の2000ほどの団地にはいっているが、そろそろいろいろ問題が、・・・。

王子製紙は上海の北の南通というところに総額2300億円の一貫した洋紙工場を作ろうとして、江蘇省政府は許可したが、中央政府が許可しなかったので、宙に浮いている。

3億5千万トンの鉄鋼生産だが、役に立たない鉄をつくっている、という。しかしそういうわけで、日本から自動車鋼板をいれないと、650万台もある自動車の完成品ができないのだという。

中国はそのうち、橋げたがおちたり、高速道路が陥没したりというような事故が多発するだろうと、予測している。

『深刻な水問題』

工業化とともに、水不足が深刻になっているという。日本のような公害防止対策などまだないそうである。化学薬品、化学飼料、毒素の成分も川に流すから、黄河の魚は半分は死に絶えた、という。黄河はもはや川ではない、とまで言う。

長江は黄河の17倍の水量があるというので、長江から黄河まで、三本の運河を引く計画であるという。パナマ運河のように高低をなんとか水門で調節して天津までもって行く計画だという。天津は工業開発するといいながら、水の問題は解決していないという。今、おそらく8億5千万人が汚い川の水しか飲めない状況らしい。毎年、富山県に相当する面積が砂漠化してるという現実もある。

日中国交回復後、5000人の日本人が万里の長城付近で植林をしたそうだが、今頃は伐採され焚き木にでもなっているだろうと、推測している。


『民族大移動の危機』

水不足の結果、次に起こる危機は民族大移動だろうと、氏は予測する。過去10年の近代化によって、1億4000万人が沿岸部へ移りすんできたが、次の十年は水不足で人が住めなくなる恐れがあるという。中国国内の民族移動もすごいことになりそうだという。共産党の命運はそういうことで尽きるのでは、・・・。

一番短かった王朝はモンゴル帝国で93年。中国共産党が、今年で57年。一番短い王朝と比較しても後25年もつかどうか?、明日つぶれてもおかしくない、と結んでいる。


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水曜日, 9月 05, 2007

宮崎先生の講演会報告抜粋

「安倍政権に求められる対中外交の姿勢とは」後編

『中共内の権力闘争』

一党独裁の共産党は、トップがすべてを決めてしまう。胡錦涛、呉邦国、温家宝、賈慶林、會慶紅、黄菊、呉官正、李長春、羅干の9名だそうだ。しかもこのうちなんと6名が江沢民の残党、すなわち上海派だったという。

何を決めようにも、江沢民が院政を敷いていた。もっとも、江沢民もかっての上位をスキャンダルで失脚させたことがあり、今回は胡錦涛が序列5位の會慶紅を使って(裏切り者)上海のボス失脚の仕掛け人として使ったらしい。

中国は市場経済でも何でもなく、権力の市場化であり、許認可権一つで市場を作り出し、健全な発展前に金を稼いで海外にもっていってしまう、という。そうして海外に逃げ出した人数は、公式で4200人、1000億ドルとされているらしいが、宮崎氏の推定ではその10倍くらいあるのではないか、という。

江沢民は、通信革命と金融革命がおきたとき権力の座にいたので、相当の力をつけた。息子の江綿恒というのは、肩書きは社会科学院副院長だが、人々は通信大王と呼んでいる。通信産業は全部彼が握っているからだという。

金融革命がおき、生保・損保も日本から行ったが、嘱託殺人と保険金詐欺のメッカみたいなところによく行ったものだという。この許認可権は前の総理大臣の一派、上海組が握っている、という。朱鎔起一派ということだ。上海派はそうしてえた金で、他派を追い払い江沢民派をつくったのだという。


『嫌われる上海人』

香港では広東人は上海人と同テーブルにはつかないそうだ。貴州省の山奥でも、観光客が上海からきたというと、レストランを閉めて追い返す、という。

うそつきが多い中国人の中でも、飛び抜けて嘘がうまい連中が集まっていて、頭がいい、という定評。頭がよくて、金持ちで、スマートで国際人が多い。外国語がうまい。条件がみなそろったところだという。中国のGDPの3割強を独占している。今101階建ての金融センターを作っていると言う。

嘘をつかないときにくらべて嘘をつくとき、脳の活動はその倍レベルくらい活発になることが科学的にわかってきたので、嘘がうまくて金儲けがうまいということは、かなりその手の頭の好さがきわだっているのであろう。ただ、金儲けの才と、科学的な能力とは、両立しないことも昔から知られてはいるのだが、・・・。


『したたかな胡錦涛の政治謀略』

四年前に権力の座についたときはまだ飾りだった、という。それで、徐々に地方都市の省長、書記、副書記、副市長などを自派閥で固めて足場をつくってきたのだという。身内が固まってきたところで、スキャンダルを仕掛けるのだと言う。常日頃スキャンダルだらけの国だから、証拠はいくらでもあるのだという。

江沢民がやったとき、当の北京書記は愛人17人とされたらしいが、65歳だっというから宮崎氏はそれは絶対ないだろうとおもったらしいが、そうやってスキャンダルをでっちあげて失脚させていくのだという。

胡錦涛は上海のボスを失脚させるとき、北京からGメン100名ほどを潜り込ませたが、地元警察に見つかったら命も危ういというので、人民武装警察のトップを、自派閥の侠西省からもってきてすげ替えた、という。

政治状況が変わると裏切り者が出る。それが序列5位の會慶紅だったという。江沢民は、彼を完全に自分の片腕と思っていたら、胡錦涛側についてしまったのだそうだ。

次に狙われているのは、現書記の劉淇だという。北京オリンピックを利権とした汚職のためだと言う。オリンピック予算は総額予算が380億ドル規模だと言う。





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火曜日, 9月 04, 2007



土曜の夜、ちと用もあって、秩父市まで行ってみた。昼間も仲間と仕事に来たのだが、日曜は家でやることがあり、しかし、少し乗ってみたくなり、暗くなってから会社を出た。すぐに夜は寒くて乗れない日が近づいていることを実感。さすがに、市街地から離れると暗い。人通りも少なく、バイクを止めたらすぐに近所の家から、不審者扱いの視線を浴びた。辛うじて白線と側溝のわきにあるカラーコーンが写っているが、かなり処理してもこれくらいが限度。途中で最後の客として飛び込んだ店のラーメンが大変おいしく感じた。
最近発掘したお店で、念のため定休日を聞いたら、火曜日だとの答え。




月曜日は、飯能•日高方面から秩父市内へ入る。土曜日の昼間、高速で行った秩父の帰りに299号を通ったらかなりのバイク、バイク軍団に出会った。カメラを助手席から向けても、うまく撮礼奈買った。この日は一人で、運転席で携帯のカメラで撮った。平日だが、意外とバイク乗りも少なくなかった。しかし、携帯では速写性がないので、大半はシャッターチャンスを逸してしまった。家内の親たちもそうだが、観光地、行楽地は平日が空いていて、ゆっくり回れておすすめだとつくづく感じた。市内へ入っても、単身テント生活をしているような雰囲気のひげライダー氏も至り、皆マイペースで去り行く夏を惜しんでいるかのようだった。



299号の正丸トンネルを出ると、後は下り。今度は抜いていくバイクが撮れるぞと意気込んだが、来るのをまって路肩にいたので、あっというまに通り過ぎていってしまう。品川ナンバーの軽車両のスクーター。
車もまばらな平日は、スクーターも捨てがたい機動力を発揮するな、と思う。このスクーター、品川ナンバーなのに、芦ケ久保駅付近までくると、観光農園のある林道方向へターンして行ってしまった。土地勘が
あるようだった。今なら、さしずめ、ぶどう狩りか、•••。

140号と299号の交差点で、信号待ちしていたら、大きな二人乗りのバイクが、正丸方向へ曲がって進行してきた。軽やかな音がする。どうやら、フルカウルのついたヤマハの1300、それも220キロで高速走行ができるとかいう、160万前後のレアものバイクのようだった。やはり平日に機動性を思う存分楽しんでいるらしい。まあ、会社や仕事を休んでも、この時期、走ってみる価値はあるようだ。





仕事が三時半には終わったので、市役所から10キロ離れた阿左美冷蔵へ寄って、この前断られた悔しさもあり、またトライしようと今度は140号を皆野方面へと下る。10キロという表示がうそのように12分で着いてしまった。数台の車が、待っている。土日に解放される駐車場は鎖で閉鎖され、無断駐車は一万円なり、などと書いてあり、土日バイクが止まれる店横の駐車場は、車が三台ほどでいっぱい。

するとそこへ、機動服をつけた県警隊員が現れ、ここは駐車禁止ですよ、駐車場のある宝登山店へ行ってそっちで召し上がれと、指示を出し、皆Uターンして長瀞方向へ行く。私は、一度行ってみてきたので、ピンときたけど、不案内なお嬢さんなどなにやら顔が不安そう。案の定、駐車場には居なかったようだ。

しかし、案内されて正解。半分以上空席があり、待たずに一人でも入れてもらえた。今回は、おすすめの黒蜜を試そうと思ったが、直前に抹茶黒蜜に変更してしまった。二つの味が楽しめる、と思って。さすがにこの時期、2杯はちょっと気が引けます。





しばらくしていると若いサークル仲間か何かの女性たちが7名一度に入ってきて、店内は急ににぎやかに。

銘々がちがう品を注文したらしく、ひとつづつ運ばれるたびに歓声が上がる。この時期クーラーは切ってあって、部屋は適温。彼女たちは皆の分がそろうまで、お互いの氷を見つめながら、おしゃべりに夢中。

それで気がついたのだが、スペリングが独特だが、画廊喫茶店形式だったんだと気付いた。前回展示してあったのは長瀞の地形や風景だったが、今回は抽象画様変わりしていた。ただ、前回と違う席で、冬に池から氷を切り出すシーンの写真は、たぶん年間展示されて居るのだと、勝手に想像して見入った。

天然氷が切れた、なんて噂もあったが、だされた品は、前回と同じく天然風。口にいれるとフワっと一瞬氷ではないものが口中に入った感じ。やわらかい冷たさ。この口当たりなら、冬でも行けるかも。

店内に入ると、蜜のミックスした甘い香りが漂っている。また、店内で各種蜜の瓶詰めも販売していた。
夏でも平日ならこの程度の込み具合なのだろうか?

通勤半分、秩父往復半分でも燃費が14.1しか出ず、このごろ何か変だと思っていた。少しローギアなどで吹かすと、高回転でかなり振動が出る。以前とは別物になっている気がした。いろいろ考えて、STPという昔からあるオイルトリートメントを試しに入れてみた。1缶500円以下だ。ねっとりした透明の水飴状のそれ自身オイルの様だが、入れてみてすぐアイドリングで吹かしてみて音が違うことに気付いた。

走り出すと、マイクロンを入れたときのように軽くスムーズに回る。しかしいつもの通勤ペースで走って居たので、少しいいぐらいの感じ。昔も使ったことがあったが、500キロも走ると体感の向上感が消えたような記憶がある。まあ、取りあえず、最近のSTPはどんなものかと、値段も安いしと軽い気持ちでテストというか入れてみた。

途中家の近くで、3ナンバー車の後ろに止まった。信号が変わると、その車はあきらかに意識したような加速を始める。ちょっと軽く吹かして附いていくと、後続車ははるか後方。それで、一速では特に感じなかったが、ニ速でオヤと思うほど加速する。三速に入れてアクセルをひねったら、あっというまに追い越してしまい、普段より20キロは上の速度になっていた。

しばらく忘れていた感動が蘇った。これだよ、これ。なんという胸のすく加速。押し出されるように、車重を忘れたかのようにスムーズに回転があがり、しかも変な振動が皆無ではないけれど、抑制されている。

まだ、軽々しく結論は出せないが、マイクロロン効果の変化とオイルの相性がうまく行っていなかった感じ。あるいは、もっと直接的には、オイル性能が高くないのでは?という不安が前からしていたのだが、最近オイル交換もフィルターごと変えても、6000キロも乗ったオイルと差はなく、その辺から、なにか異常を
感じていたのだが。異常な夏だったし、そういうものかと思い込んでいたが、•••。

今日みたオイル添加剤でも、4サイクルバイクには使わないでくださいという但し書きがついているものが目立った。バイクのオイルと、車のオイルは、今では少し性能が違うのかもしれないと思ったが、何もしないでいるのもどうかと思って、STPオイルトリートメントを使ってみての話である。

299号でヤマハの650と出会った。いい音がしていたがその倍は1300で、4気筒となる。650で53PS、1300だと100PSちょっと。現状の値にほぼ一致。トルクも倍と何の変哲もない。しかし、TOYOTAの2000GTのチューンを手がけた技術で、初めてバイク用650を作ったら、18馬力ぐらいしか出なかった、という。それから、研究して7000回転で53PSのエンジンを完成させた。カタログには、当時7000回転のエクスタシーと書かれていた記憶が鮮明。

夜10時頃上野駅前を二人乗りのヤマハ650が、走り回っているとき、ものすごく感動的な音に聞こえた経験がある。あの頃は、今と違って騒音規制もまるで次元が違うものだったのだろう。そういう味付けはヤマハが昔からうまいような気がする。個人の好みと言えばそれまでだが。

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