水曜日, 4月 29, 2009

CB1000SFと決めて届くまで三月ほど待った間ネットでインプレッションを探したとき印象に残っている第一号がこれである。

『CB1000SF・ツーリング
CB1000SFと共に旅した記録を紹介します。 何気ない景色が、自然の世界へCBを同化させる。 その時その瞬間を大切にした1枚の写真に思いを託す。 CB1000SF Trip. 2004年 5月 7日, 江ノ島方面、一人旅. 2004年 5月14日, SBC 秩父ツーリング ...
www.k4.dion.ne.jp/~nori-99/CB1000SFtrip.html - 6k - キャッシュ - 類似ページ』

SBC秩父ツーリングという中で、今は削除されて別の定峰峠の写真に、隼などと一緒に写っている写真に置き換えられているが、たしか狩場坂峠あたりに、赤白のCB1000SFのカッコいい写真がありました。タイヤに赤のストライプが入っているもの。また、小鹿野町のクアパレスへもでかけられている。

秩父の山々はどういう仕事だったかは言えないが、集中的に都市部、山中を問わず車で走り回った経験があり、峠の道に魅かれていた関係もあり、自分もBIG1手にしてからは、真っ先にまわったりもしたし、現在も折りがあれば出かけている。バイクで来るより、徒歩やバスで来る人のほうが層が深い感じもしている。

http://www.k4.dion.ne.jp/~nori-99/CB1000SFtrip.html

その小鹿野のクアパレスであるが、今日の埼玉新聞に、ここが改造されて「バイクの森おがの」が完成し、連休の5月2日からライダーの聖地としてオープンするという記事がでていたので、これは!?と注目した。

旧温泉施設「クアパレスおがの」をリニューアルし、民間施設としては国内屈指のバイク展示台数を誇る、というもの。その数、なんと驚くなかれ、約130台というからそのうち浅間ミーティングならぬ「おがのミーティング」も開催され、恒例になる可能性も有している。温泉施設はそのまま使用可能だと言う。こちらも楽しみだ。

http://www.town.ogano.lg.jp/kakuka/matidukuri/bike/biketop1.html
バイクは1950年代以降の日本製のほか、とうぜん外車も含まれ、世界に一台と言うラベルダの1000cc、1925年のBSA。アメリカスズキのゼロヨンマシン(1428cc)、昭和天皇のパレードで使われた陸王のサイドカーなどなど、・・・行ってみてのお楽しみだと言う。

展示場の入館料は大人1000円、小人500円、三歳以下は無料。開館時間は午前10時〜午後6時。木曜定休だという。問い合わせは5月2日から、バイクの森おがわとなっているが、バイクの森おがのの誤植と思われる。☎番号:0494・72・0819(オーバイク)。
http://www.bikenomori.jp/
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/ogano/ogano.htm
http://spa.s5.xrea.com/day/kyori1/oganod.htm

運営する指定管理者は、「バイクの森」(大河原敏男館長、大河原康社長)、大河原康社長は、都内で「トマトモータース」(二輪車輸入販売会社)を経営中、という。館長である社長の父親の敏男氏が、若いときから集めたバイクが中核になっている模様。2階と3階にわかれ、模型なども展示され、5月中旬からイタリアンレストランと温泉浴場も開業する予定となっている。小鹿野町は、旧両神町と合併しておがの町となったようだ。町は、バイクによる町おこしの核施設となってくれるよう、期待しているという。

また、ひとつ秩父へ行く楽しみが増えた。ちょっとまえ、秩父の山岳を中心に起こった『秩父事件』をあつかった映画、『草の乱』もクランクアップし、県内各地で上映会が開かれていたが、見る機会を失してしまったままだった。最近ビデオを借りてみることができた。その直後のことだけに、いっそう、遺跡の町、歴史の町、バイクマニアの集まる町としての思いが深まることに、歴史好き、バイク好きとしてはうれしい限りである。


なかのひと

日曜日, 4月 26, 2009


新年度から、タンクのハンダロイは除去し、スズロイのみを入れて様子を見ている。かれこれ投入後2000キロ近くなってきたが、最初入れすぎを警戒し、少なめに入れていたせいなのか、いっこうに効き目が薄く、これといった手ごたえがない。鉛臭さは薄れてきたが、まだ時折きつく感じることも。それで、二度にわたって、追加増量した。なんだか、追加量に比例して、滑らかになり、加速がよくなる感じもする。

それで多いと思って残したものも、手許にあったものは結局、ガツンとタンク内落とし込んでしまった。多すぎかな~?と思いつつも、以前入れていたハンダロイよりはだいぶ少ない。それで、まだ一回しか満タンにしていないが、高速で走ると、重い車体が浮き上がり気味に加速して音は静かで、なかなか良い。通勤燃費は、購入直後の値にほぼ戻っているようだ。また、飛ばしても12キロ以上はほぼ行くようだ。それで、すぐ定置燃費コースを走ったら、14.8より落ちて13.1となった。アレレ、やはり入れすぎたか!?と反省したが、後の祭りである。

雨の土曜日中、取り出すことをあれこれ考えてある程度道具立てとか決まった。明日は道具を買って来て、取り出すとするかと考えていたが、朝起きたら、また気が変わった。


sho様の例に倣って、国際特許をとっているというミラクルパワーを四個とも全部つけたままだった。
http://www.geocities.jp/shonaka2001/
昨年と今年とでは、イグナイターが純正とはいえ違い、ミラクルパワーをつけると、パワーは出るが、あまり燃費がよくないのだ。昨年は、古いイグナイターとにんじん君と不調の左一番シリンダーにのみミラクルパワーをつけると感じがよかったが、今年はそうでもない。しかも、漏電修理終了後、にんじん君の調子が良かった感じがまるでなくなっている。期待外れだった。これでは、製造元のブリッジカンパニーさんにレポートも書けない。

昨年も、ハンダロイを入れ過ぎた後、まずミラクルパワーを外したのだった。あまりにも定速でギスギスするようなので。それで少しは滑らかになったようだった。今度のイグナイターは、たぶん最終型なのかもしれない。ノーマルでずいぶんCBのエンジンの癖を知った火花特性のように、最初感じた。さらに、にんじん君が壊れたとおもって装着していなかったが、まず壊れない、半永久的ですとのメーカーさんのアドヴァイスで再度新規イグナイターに付けると、その時はまだ漏電修理は終わっていないにもかかわらず、え、本来こんなにいいものなのか、という感じだった。それが、修理後、さらなる期待をしたが、期待外れだった。今から思えば、修理時にはミラクルパワーをつけたままだった。


それで、ミラクルパワーなしでのスズロイの調子をチェックしてみてからでも、結論は遅くないと判断、雨が止んですぐ東北道での燃費スタートとなった。いきなりミラクルパワーを外したので、コールドスタートでは、なんか力不足の感じがする。しかし、回転とともに加速がますその上がり方は、私だけにわかるのだが、ミラクルパワーが一本調子なのに対して、回転比例型といった感じで、同一アクセルでも少し時間を置いてパワーが累加する感じである。

午前6時過ぎの東北道は、少しトラックが混じるが、ほとんど東京方面からの乗用車で三車線のうち右と中央は満車状態、左側は、ちらほらといった状態で、110キロ位で流れている。やはり、ETCを優遇する新制度のせいなのであろう。佐野インターあたりで、霧雨となり一応様子をみるために寄ってみる。あまり混んではいないが、バイクもけっこう集まっている。服装をどうするか悩むライダーも少なくない。雨の調子は変化しないので、そのまま北上したが、雨がだんだん強くなり、躊躇する。しかし、栃木辺りは大平山などの山が連なり雨雲が多いが、北のほうは幾分明るい。それで、宇都宮あたりへ行けば、きっと雲は切れるだろうと考え北上する。その考えは的中したとおもって喜んだのもつかの間、また降り出す。それで、日光道路の分岐点で引き返すことにした。割引料金で、950円だった。

佐野インターあたりまで来ると、晴れ間ものぞき路面は乾いてくる。何も知らないライダーたちが、相変わらず北を目指して対向車線を走り抜けていく。二人乗りも見かけた。国産バイクのシートは高く、リヤシートはさらに高いので、二人乗りスタイルは、車高が高く見るからに危なっかしく見えてしかたがない。特に高速ではしがみつく感じで、絵にならない。

山、北方面が雨雲で、南方面も雨雲、唯一晴れているのは西方面だったので、結局140号へ出てしまった。こうなったら、濡れた体を乾かす意味でも、陽光の輝く秩父方面へ回らざるをえない。高速道路150キロほど走った燃費は、14.8となり過去最高の部類に入った。これで、購入直後の値と同じかちょといいくらい。マイクロロン仕様時では、14.5だと、定置燃費コースで15キロから16キロ代は出ていた値。ハンダロイでは、高速で13キロ代前半しか出なかった。股、最近の、ミラクルパワーを付けての高速を含む燃費も13キロ代。この結果で、気をよくし、スズロイを取り去るプランはなくなってしまった。さらに色気を出して、不調の左一番プラグにまたまたミラクルパワーをつけてしまい、ホットスタートでの燃費測定。まだ時間はあるので、定置燃費コースへはいかず、陽光あふれる140号をさらに。途中牛丼店へよったら、新型ハーレーが一台止まっていた。中ではハーレースタイルのスーツを着た若いライダーが一人。
先に出ていったが、いつスタートしたのか、音が静かで気づかなかった。

途中、だんだん道が混み始めた。このところ、晴天日は連日秩父市内は渋滞との情報を得ていたので、定峰峠から狩場坂峠を抜けるプランに変更。大型観光バスもマナーがよく、ガードレールがあるところでは、私を視認すると5センチほどセンターライン側へ除けてくれる。観光慣れしているな、とお礼をいいつつ先へ。

定峰は眺望もよく、ライダーも少なくないが、サイクリングコースとしての利用者も多く、注意が必要。路面は大半乾き、空気は甘い。酸素がたっぷり供給されている感じ。あっというまに峠の茶屋で。ここから林道となり、比較的平坦になる。マラソンで走っている人もけっこう見かけた。ローリング族対策で、路面に凹凸仕様をしてあって、走りづらいといつも感じるコースである。車高の低い対向車がそれを除けて走ると、こちらが徐行しないと危ないときも。秩父事件では、この山道が伝令の迂回ルートだったようだ。今は、ハイキングで訪れる人たちの憩いの場だ。私は、仕事でよく訪れたのだが。わき水もあり、ポリタンク持参で持ち帰る人も多い。枯れ枝の間を縫って集まる水は、あまりきれいでないように見えるが、飲んでみても違和感はない。


正丸トンネルのほこり臭さもなく、あっというまに正丸出口の299号へ出る。こちらは、さらに暖かい。4輪の後に従って大人しく降りる。しかし、新緑が眩しく退屈しない。相変わらず対向バイクは、ハーレーが多い。1/3はハーレーかと思う。高速では、佐野で出会ったBMWの単気筒バイクとまた次のパーキングで出会い、話しかけようかと思っていたら、そこに1200の水平対向バイクが止まり、のんびりしていた筈の単気筒氏、急にそわそわして発車して行ってしまった。こちらのバイクを一瞥したライダー氏はいがぐり頭のおっちゃん風だったので、私も釣られて雨の中を出てしまった。

ミラクルパワーを付けると、振動が大きくなることも新発見。取り去ると振動自体は出ているものの、丸くなり振動感は半分ほどに減少する。(アイドリング時)ミラクルパワー一個でもこの現象は同じだった。それで、一般道で、山道を含んだ燃費は飛ばしたせいもあるが、13.1と振るわなかった。それで、ミラクルパワーとは、決別。それを取ると、エンジンはパワー感はなくなるが、素直で、一瞬のタイムラグはあるものの加速が悪い感じはない。振動も穏やかだ。また、スズロイの量も一昨日のミラクルパワー装着時と違い、多すぎる感じは皆無。むしろもう少しあってもいいかと思うほど。
それで、今後はこのまま経過を見ることに。まだ投入後2000キロを超えた程度。3000キロ以上は走らないと、効果の程はなんとも言えないが、ハンダロイよりはマシで、購入時の値に近いというのは、うれしい現象だ。クラッチ感が変わって来ているので、交換後はどうなるか楽しみだ。なお、交換代は、オイル交換込みで、2.5万円程度という。前輪、後輪のタイヤ交換費用の平均値なみということだというので、安心はした。

なかのひと

土曜日, 4月 25, 2009

マリア信仰の付帯的事実!?
暗示的なことは、90年代突入を目前にした1989年12月に、地中海に浮かぶマルタ島でブッシュとゴルバチョフの米ソ両首脳会談が行われたことである。

以下の記録は、昔メモしたもので、引用書や引用サイトなどのメモが記録されていないので、出所を明示できないし、何処までが引用かさえもはっきりしない。

分かっていて手元にある本は、コンノケンイチ氏による、「NASAアポロ計画の巨大真相」だけとなっていて、UFOと聖母マリア関連記事は、はるか以前の著作だと思うが、詳しい題名は失念してしまっている。15年ぐらい前のものだと思う。

あと一冊は、『エドガー・ケイシーのすべて』サンマーク出版、高橋明宏・鈴木七沖編集。1999年。

コンノケイイチ氏は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/コンノケンイチ
では、日本を代表する疑似科学者の一人で、高卒だという。一瞬、悪意に満ちた記述と錯覚してしまったが、どうもそうでもないようだ。似非科学者だというなら、悪意に満ちたといえるかもしれないが、疑似科学は蔑称ではない。以下には、フォトンベルトもそうした範疇にはいる、とされている。UFOもしかりであるが、賛否両論がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:疑似科学
キリストや聖母マリア円盤型雲に乗っているらしい絵は中世の宗教絵画にもある、という。
http://blog.livedoor.jp/fushigi7/archives/cat_977916.html

マリア信仰の付帯的事実!?

「マリア信仰」というとピンと来ないかもしれないが日本ぐらい聖母マリアに庇護されている国も珍しい、という。

日本が真珠湾を攻撃した12月8日は、聖母マリアの「無原罪のやどり」の日だった。

終戦記念日8月15日は、聖母マリアの亡くなった「被昇天」の祝日だった。

原爆の2発目は、小倉に落とされるはずだったが、天候の都合で、長崎に変更され、浦上天主堂の真上で炸裂した。

サンフランシスコ講話条約は、聖母マリアの誕生日である9月8日であった。

(松本に本土決戦に備えた大本営を作る工事の起工式の発破は、11月11日11時11分11秒にセットされたという。いい月、いい日・・・日本独特の言霊信仰。イワシの頭も信心からともいいますが)
もっとも、真珠湾攻撃がアメリカの遠隔操作だというのなら、何となくわかるような気がしている。9.11だって、911は、アメリカの電話番号で、日本に当てはめると119。それで、11月9日とか1月19日を警戒してしまった。

暗示的なことは、90年代突入を目前にした1989年12月に、地中海に浮かぶマルタ島でブッシュとゴルバチョフの米ソ両首脳会談が行われたことである。

山内雅夫氏によればマルタ島とは世界三大宗教の原点となる場所で、先史時代には大地母神信仰の中心地であり、ローマ時代にはキリスト教設立の父、パウロの漂着した場所でもあり、中世ではアラブのモスリム教の霊場でもあった。
これがマルタ島が世界のオカルトの霊場とされる由縁でもあるという。
 それだけでなく、悪名高きフリーメーソン発祥の地こそ、このマルタ島なのである。

マルタ島が90年代の幕開け直前に米ソ首脳会談の場所に選ばれたのは、おそらく聖書に約束されているハルマゲドン(人類最終戦争)に入ったという時代の象徴という理由があってのことなのであろう。それを米ソ首脳が十分に知っているからこそ、このマルタ島が選ばれたと思う。

しかもマルタ島での首脳会談の直前にゴルバチョフがバチカンを訪問し、教皇と会談を行ったので、世界中が騒然となった。無神論の牙城である、共産主義国、ソ連の最高権力者がバチカンを訪れることなど従来であれば考えられないことだったからだ。いったい、何を話しあったのだろう。

マリア像の血の涙は何を伝えているか

聖母奇跡というと、多くの方は信用しないだろう。しかし、ケーシーも少年時代、マリアらしき女性を見た、と言われている。(林の中で)しかも、20世紀に入ってからだけでも、世界各地で300回以上も起きているという現実をどう思われますか。
 その最大スケールは何と言ってもファチマだが、聖母の出現場所は都会から離れた寒村や僻地に多く、全員が目撃できるケースと、特定の人にしか見えない場合に分けられる。後者の場合、幼い子供や、先天的に体の弱い女性に多いのが共通で、いずれの場合にもマリアは光とともに出現し、近く起こる人類大災厄への悲痛なメッセージを託している。(ケーシーの場合も、まばゆい光とともに女性が出現したという、その翌日から読んでもいない書物のページが居眠りの後、写真のように見えたという(この場合、成績の悪い科目の教科書だったが)超能力があることを自覚したという。
ここでまた、まじめな余談。
 ケーシーは、18歳のとき知り合った3歳年下のガートルード・エバンスと20歳のとき、婚約した。結婚は誰の人生にとっても重大な意味をもつが、ケイシーにとってはなおさらそうであった。彼の晩年のリーディングによれば、彼らは前世から深い縁で結ばれており、ひとりでいるよりも二人そろうことで人生の目的を達成する運命にあった。もし二人が結婚しなければ、彼女は26歳のときには結核で死ぬ運命にあり、またケーシーは37歳で胃腸の病気が原因で死ぬ運命であったことが判明したそうである。

 マリア像から、血の涙や汗が流れるという現象も多発している。主な場所は、アメリカのカリフォルニア、カナダのトロント、韓国のナジュ、ベルギーのモンテナン、イタリアのポルト・サン・ステファノ、日本では秋田市の湯沢台などが有名だが、その際にバラのような芳香がただようことも共通している。
大事なことはマリア奇跡はキリスト教国のみの現象ではなく、人種や宗教を問わず地球的規模で起こっていることである。

以前からあった「マリア奇跡」

記録によると、聖母奇跡は昔から小規模ながら実に頻繁に起きている。よく知られているものにグアダルーペの聖母事件がある。
 1531年にメキシコで57歳のホアン・ディエゴの前にマリアが出現。その場所には季節がずれの花が咲き、さらに彼のマントにマリアの絵姿が浮かびあがった。このマントはサボテンの繊維を編んだもので、本当ならとうにぼろぼろになってもおかしくないのに、今も聖母の姿を浮かびあがらせている。 
 1830年7月18日にはフランスのパリでゾエ・キャサリン・ラプレという若い尼僧志望者の前に聖母が出現してメッセージを与えている。
16年後の1846年にはフランスのラ・サレットという小さな山村でマキシアン・ジロー(11歳)とメラニー・マシュー(15歳)の前に聖母マリアが出現し、それぞれ秘密のメッセージを授けている。
1858年には有名なルルドの奇跡がおきている。もちろんフランスに限られたわけではない。1879年にはアイルランドのノックという小さな村にマリアが出現し、かなりの人数がその姿を目撃している。1888年には、イタリアのカステルペテロソにも同様の出現があり、500人ほどの人々がその姿を目撃している。

ファチマの伏線——「ルルドの聖泉」
こうした試験的ともいえる小規模の出現が続いた後に、クライマックスがファチマでの一大ページェントとして展開されたわけだが、その伏線ともいえるルルドの奇跡について、簡単にふれます。

事件の主役は、南フランスのピレネー山脈の麓に住む、ベルナディットという一少女だった。1858年2月11日、ベルナディットが妹と友達の三人で洞窟のある場所へ薪ひろいに行ったときのこと、突然轟音が響きわたり、驚いたベルナディットが振り向くと、洞窟の入り口の草が何か重いものがのったように押しつぶされていた。轟音がやむとそこにはこの世の人とは思えない高貴な女性が立っていた。
 女性はベルナディットにロザリオを唱えるようねつげ、ベルナディットはそれに従った。しかし、他の二人には、貴婦人の姿は見えなかった。
その後も」ベルナディットは何度も貴婦人の姿を見ることになるが、同行した人々には見えず、声も聞こえなかった。そのため、ベルナディットの幻覚とも考えられたが、その場所に(お告げにより)湧き出でた泉水によって、単なる幻覚ではないことが証明され、依頼この水の出るようになった洞窟が「ルルドの聖泉」と呼ばれ、世界中のカトリック信者の聖地となった。

 このようにして湧き出でた水が、多数の難病患者を奇跡的に治癒した無数の例が「ルルド国際医学協会」に記録されており、この現象は今も続いている。 
 この奇跡の水の信憑性は、ノーベル賞を受賞したアレキンス・カレン博士の調査でも確認されてより世界的に高まり、「ニューズウィーク」1971年8月9日号では、イギリスの3歳の幼女の末期ガンが盛衰で奇跡的に消滅した例が写真入りで紹介されている。

 以降のベルナディットは人々の好奇の目にさらされ、また人の心を惑わすなどの批判もあって、体も弱かったので、後半生はヌーベル・ツールドラサリア修道院で過ごすことになった。1879年4月16日、35歳の若さで薄幸の一生を終えた。そして、真の奇跡はベルナディットの死後に起こった。
30年後に彼女の墓を掘り返してみると、驚くべきことにベルナディットの遺体は少しの腐敗も死後硬直もなく、皮膚もバラ色に輝いて、まるで眠っているようだった。そして、今もその遺体はサン・ジルダール修道院に安置されている。

ネットで拾ったルルドやベルナディット
 
ルルドの名は、超常現象の世界では一流のブランドになっています。

1858年、この小さな村に住むベルナデット・スビルーという貧しい少女が、村を流れるガーブ河の脇にある洞窟で、聖母マリアとおぼしき女性の姿を目撃しました。そして、このベルナデットが聖母のお告げにしたがって地面を掘ったところ泉がわきだし、その水を飲んだ人の病気が次々といやされるという奇跡が起こりました。
今ではルルドは、年間500万人の巡礼者が訪れる、カトリック最大の聖地となっています。

関係書を読んでみると、ルルドはピレネー山脈の麓にあり、フランスでも相当へんぴな場所であるように書かれています。確かに田舎ではありますが、ルルドからトゥールーズまでは電車で2時間の、トゥールーズとパリの間は、フランスの誇るTGBが3時間半で連絡しています。つまりパリからルルドまで6時間以内で到着できるわけです。日帰りは少々苦しいでしょうが、駅から聖母の洞窟までは歩いて10分少々で、洞窟の隣で聖水をくむことができます。お水をくんで帰るだけなら、早朝パリを出て夜に帰り着くという荒技も不可能ではありません。
フランスとスペインの国境のピレネー山脈にルルドという人口1万人余の小さな村がある。
この村には、現在カソリック教会の大伽藍を中心に、高層ホテルが数百も建ち並んでいます。それは年間3百万人も超える病人が、世界中からこの村を訪れているからです。

以下は本当に合ったお話です。
 
 3歳になる少女が、腎臓の悪性腫瘍にかかった。1個は摘出したが、悪性腫瘍は、頭蓋骨に移転し、身体はやせ衰え、薬害のため、毛髪は抜け落ち、皮膚はまっ黄色に変わり、全身が腫瘍におかされて医者は手のほどこす術なしと完全にさじを投げたほどだった。

途方にくれた両親は、ワラをもつかむ気持ちで、なかば意識を失っている少女を寝椅子車に乗せてルルドを訪れた。そこで聖なる水に身体をひたし、水を飲ませた。しかし、その時は少しも良くなる兆しがないので、なかばあきらめて、死ぬなら我が家でと、イギリスのグラスゴーに帰った。

ところが、帰宅して3日後の朝、少女がベッドの上に座ってオレンジを食べ始めた。そして数日で腫瘍は消え去り、あとは健康な少女と何ら変わらぬ体になったのである。

この出来事は、スコットランドの医学界でも評判になり、ルルドの奇跡の水として有名になった。
この話は遠藤周作の名著『聖書のなかの女性たち』(講談社刊)の中でも”ルルドの聖母”というタイトルで詳しく書かれている。

こうした奇跡がなぜ起こるのか、いまだ大きな謎とされていますが、実はルルドの泉の水には、ゲルマニウムが豊富に含まれていることが、近年の調査で明らかにされています。
【日本の軌跡の水】            参考書籍 福島裕子 著 ガン・難病治療に有機ゲルマニウム
 実は日本国内にも、ゲルマニウムの豊富な水が湧き出ている場所があります。青森県東津軽郡の山間に湧き出ている『山吹の水』もその1つです。

地元では昔から、ガラスの容器に入れておくといつまでも腐らない水として珍重されてきました。そしてその水を飲んだ人の中には、ルルドの泉同様の”奇跡”を体験する例が見られています。
 
私自身、一般的な治療とあわせて、患者さんにその水をすすめて、驚くような結果をまのあたりにしたことが何度かあります。

2)少女ベルナデッタの証言:
 私が見たのは、年頃16、17の貴婦人です。私は、今までにあの方のような美しい婦人を見たことがありません。白い着物を着て、空色の帯を締め、右の腕にロザリオをかけていました。
 貴婦人は罪人の改心のため祈るよう勧められました。私は貴婦人に接した時、私のみにくい心がとても気になりました。私はそれを正直に貴婦人に申し上げました。
 最後の御出現の時、私は「あなたのお名前を教えて下さい。」とお願いしました。貴婦人は神に感謝するかのように天を仰いでから、「私は無原罪の御宿りです。」と仰せになり、合掌なさいました。
 聖母は私に、「この世ではなく後の世で幸せな者にしてあげます。」とお約束下さいました。洞窟に現れた優雅さ、美しさは、生涯忘れることができません。

(注)「無原罪の御宿り」は、1854年に教皇ピオ9世によって、カトリックの信仰箇条として宣言されたばかりであった。ベルナデッタは教会の教えをよく知らなかったので、この言葉を知らないし、意味を理解できなかった。このことは、この御出現が本物である証拠となり、貴婦人が聖母マリアであることが明らかになったと言えよう。

(3)教会の承認:

1862年1月18日に、約2年間に及ぶ司教区調査委員会による調査の結果、現地司教は、ルルドのマッサビエルの洞窟の聖母御出現を公的に認める教書を発布した。

(4)ベルナデッタの生涯:

1844年1月7日:ルルドにて生まれる。同年1月9日:受洗。  
1858年:2月11日より18回にわたり聖母の御出現の恵を受ける。
1866年7月7日:ヌベ−ル愛徳修道会の本部修道院に入会した。
1866年7月29日:着衣式。同年10月25日:初誓願。  
1878年9月22日:永久誓願。
1879年4月16日:帰天。(午後3時15分)
1933年12月8日:列聖。

 現在、ベルナデッタはヌベ−ルの修道院の聖堂に安置されていて、棺の中で眠り続けている。遺体は現在も腐敗しておらず、巡礼者は目のあたりにベルナデッタを見ることができます。1994年、私はルルド、ヌベ−ル、ファチマに巡礼に行き、その時ヌベ−ルでベルナデッタを見てきました。実物を拝見してみますと、やはり言葉に言い表せない感動がありました。機会があったらぜひ行ってみたほうがいいと思います。

(何年も前、日本のテレビでも紹介されましたが、ベルナディットの姿をレポートする若い女性リポーターが泣きじゃくってしまい、まともな放映にいたらなかったことが印象に残っています。その時はタイムの記事を読んで知っていましたから驚かなかったのですが、今こうしてまとめていると、ファチマもすごいがルルドも超一流のオカルトですね。貴婦人が「この世ではなく、後の世で幸せにしてあげます」というメッセージもすごい、本当の天才というか天力でしょう、これは。)

なかのひと

水曜日, 4月 22, 2009

In the stormy Mediterranean, George Bush gives Mikhail Gorbachev his proposals for changing from cold war to cooperation. But will events outstrip the two leaders' ability
嵐吹きすさぶ地中海でブッシュはゴルバチョフに冷戦を終結し、協調体制への移行を提案する。しかし、これは二人のリーダーの能力を超えているはずである。
By Richard Lacayo

By the time George Bush and Mikhail Gorbachev arrived in Malta, there was no longer any pretense that this was to be a meeting where they simply sat back and talked.
ブッシュとゴルバチョフがマルタ島に到着するまでに、この会談が単に二人が膝をつき合わせた会議であることになっていたからという口実は意味をなさなかった。
How do you put your feet up when the deck beneath you is trembling and the winds are howling, in Marsaxlokk Bay and throughout the tattered Soviet empire?
ソビエト帝国がぼろぼろになり、今このマルサォック湾で風がうなり、デッキがゆれているこの状態でどのような一歩をしるすのか。
This first Bush-Gorbachev summit, which the American President initially proposed as a way to restart the becalmed U.S.-Soviet relationship, was now also the first to take place in the uncertain new world ushered in by the upheavals shaking Eastern Europe.
この最初のブッシュ・ゴルバチョフサミットは東ヨーロッパをゆるがしている大変動の中での不確実性に対して、冷静な米ソ関係を構築するためにアメリカ側から最初に提案した。
And if this meeting was to be a step in shaping the future, there could be no more appropriate setting than at sea, even a sea as wild as the one last weekend around Malta.
そしてこの会談が将来を形成するステップになっているならば、この週末いらい嵐が猛っている海上のマルタ島以上に適切な場所はなかったにちがいない。
In a world that seemed to be dissolving, where better to meet than in a place with no boundary lines, no familiar landmarks--and no firm footing?
なぜなら、世界秩序が崩壊している現在、国境もなく、著名な場所でもなく、堅固な地盤さもないこの土地以上の場所はない。
For Bush, a man most comfortable with the prudent and predictable, the desire to give ballast to the wildly careening events of recent weeks may have been one reason he arrived in Malta with a long list of concrete proposals.
ブッシュはマルタ島に多くの具体的な提案のリストを携え、ここ数週ひどく傾きながら起こっているいちれんの出来事に適当な重みをつける意味で、賢明で思案可能な心地よい提案をしたいというところだった。
Bush also seemed determined to prove to public opinion in the U.S. and Europe that the American President was just as committed to building the peace as his popular Soviet counterpart.
ブッシュはまたアメリカの対抗相手であるソビエトに平和をもたらすアメリカ大統領としてアメリカ、ヨーロッパの世論に受け入れられるよう努力しているようだった。
At the Reykjavik summit in 1986, Gorbachev opened the encounter with a list of sweeping arms proposals that kept Ronald Reagan off balance for the rest of their time together.
1986年のレイキャビクサミットで、ゴルバチョフはレーガン大統領に対して、おたがいの残り時間を費やす予定の武器削減リストを提案していた。
This time it was Bush who produced the printed sheet of specifics almost as soon as he and Gorbachev sat down in the book-lined cardroom of the Soviet cruise liner Maxim Gorky. Putting before him 112 typed pages of items, the President started out nervously, his voice tight.
二人がソ連の巡洋艦マキシム・ゴーリキーの書架で仕切られたカードルームに座るやいなや、詳細に印刷されたリストを提出したのはブッシュであった。
彼の前に112ページにわたってタイプされた書類について、大統領はきつい声で神経質そうに説明はじめた。
Gorbachev, sitting across from him, listened intently. When Bush finished speaking, nearly one hour later, he had set out what one White House official called "a lot of meat."
ゴルバチョフは彼の向かいに座って、熱心に聞いた。ブッシュが約一時間かけて話終わったときに、彼はホワイトハウスのある職員が「多量の肉」と呼ぶところの出し物を披露した。

In fact much of it consisted of offerings that had been put forward elsewhere, but there were also some choicer cuts.
実際、それの多くはどこかほかで提唱されたものからなっていたが、幾つかの部分ではカットされていたものもあった。
The President reiterated his proposal that the two nations wrap up the Strategic Arms Reduction Talks in Geneva before the next summit--which he suggested be held in Washington in June--and sign an agreement to cut conventional forces in Europe by the end of 1990.
大統領は二大国が次ぎのジュネーブでの戦略兵器削減交渉に入る前に6月にワシントンでの予備交渉と1990年までにヨーロッパにおける通常兵力を削減する合意に署名することを繰り返し迫った。
Bush offered to end U.S. production of binary chemical weapons when other nations capable of producing chemical killers enter into an international convention banning them. That represents a change from the Administration's position that it would continue to produce a few binary weapons as a defense against outlaw states.
ブッシュは毒ガス生産国が、国際禁止条約会議に参加するようになれば、アメリカも生物・化学兵器の生産を止めると提案した。それは、管理体制上、アウトロー的国家がある以上、二三の生物化学兵器は所有するとしてきた姿勢の変化を示す。
To help the hard-pressed Soviet economy, Bush promised to waive the Jackson-Vanik Amendment, which restricts U.S.-Soviet trade, as soon as the Supreme Soviet concludes legislation permitting free emigration.
逼迫したソ連経済を助けるためにブッシュはジャクソン バニク修正条項(米国—ソ連の貿易制限)をソ連最高会議が移住の自由を保障する措置を執れば解除すると約束した。
For the interim, he proposed that the two nations negotiate a new trade treaty in time for the June summit. He also vowed to support observer status for the Soviet Union at the GATT (General Agreement on Tariffs and Trade) talks, a move long sought by the Soviets to help integrate the U.S.S.R. into the world economic system.
彼は臨時的な、6月の予備交渉までに二国間の新しい通商条約を取り決めようと提案した。またガットの話し合いでソ連が世界経済に組み込まれるよう長らく求められていた状態を支持すると誓った。
The toughest part of the President's message concerned Central America. Bush told Gorbachev: If the Nicaraguan Sandinistas have told you they are not supplying weapons to El Salvador's rebels, they are misleading you. He warned the Soviet leader not to miscalculate how seriously Washington regarded the escalating violence in Latin America.
大統領のメッセージの最もきびしい部分は、中央アメリカに関わることだった。ブッシュはゴルバチョフに以下のように述べた。もし、ニカラグアのSandinis-
tasがエルサルバドルの反乱軍に武器を供給していないとあなたに話しているとすれば、彼らはあなたを誤解させている。大統領は、ソビエトリーダーにワシントンがラテンアメリカで拡大しつつある武力衝突にどの位、警戒感を持っているか誤算しないで欲しいと警告した。
Gorbachev seemed a bit stunned that Bush's overall proposals were so detailed and specific, not to mention numerous. After sitting silent during most of the lengthy presentation, the Soviet leader looked the President in the eye and told him, "I have heard you say that you want perestroika to succeed, but frankly I didn't know this. Now I know. Now I have something tangible."
ゴルバチョフはブッシュの非常に多い記載リストではなく、全体的提案について細かい部分までキチンと説明されたことに少しビックリした様子だった。長い発表の間中沈黙して聞いていたゴルバチョフはブッシュの目を見据えて言った。「私はあなたがペレストロイカ(建て直し)が成功することを望むと言うのを聞いたが、率直に言って、そこまでとは知らなかった。今、よくわかった。
今、生の声に触れてよくわかった。」
For weeks before the Malta meeting, White House aides--and Bush himself--had been putting a damper on expectations. But the President was determined all the while to arrive with proposals that would interest the Soviets and encourage the success of their reforms without turning the meeting into a wholesale renegotiation of the postwar order. Such a deal would be futile in any case. At Yalta in 1945 the victorious Allies could draw lines at will upon war-ravaged Europe. Now the ability of both superpowers to dictate events has been sharply circumscribed.
マルタ会談に先立つ幾週間、ブッシュ自身を含めホワイトハウス側近たちは予想に水をさしていた。しかし大統領はソビエトに興味を起こさせる提案とともに到着して、会議を冷戦後の秩序のための話しあいではなく、ソビエトの改革の成功を助長するためのものにする決断だった。今までの取引方式はいずれにしろ無駄である。1945年のヤルタで、勝利を得た連合国は、戦争で荒らされたヨーロッパに自由に線が引けた。現在、両超大国のリーダーによる取り決め能力のまわりに自由に線が引けることになった。

The pell-mell surge of events in Eastern Europe left Moscow to make a virtue of necessity, giving its blessing to an erosion of Communist power that it could do little to reverse in any case. Meanwhile, the U.S. is in no better position to impose its will on its robust NATO allies, especially a West Germany that has become the engine of change on the Continent, pouring the deutsche mark into Eastern Europe the way the dollar once flowed to the Western nations under the Marshall Plan. All through the summit the German question hung in the air, although the two leaders agreed to keep their public remarks on Eastern Europe to a minimum.
東ヨーロッパで続発する乱雑なうねりは、どの場合でもモスクワが殆ど逆戻りさせることができず、共産主義のパワーの浸食を祝福することについて、必要なことと潔く認めざるをえなくさせた。一方、アメリカはその意志を結束の強いNATO同盟国、とりわけヨーロッパ大陸の変化の牽引約となった西ドイツに強い影響力をもつ立場にない。西ドイツはドルが戦後のマーシャルプランのもとで西欧諸国に注ぎ込まれたように、強いマルクを東欧に注ぎ込む。サミット中、ドイツ問題は決着しなかったが、しかし二人のリーダーたちは最低限、東欧については、彼らの間で公開可能な所見の一致を見たのであった。

On Sunday, in the kind of head-spinning turn of events that is now the norm in the Soviet bloc, East Germany's Egon Krenz resigned as Communist Party leader--while retaining his post as leader of the state--and his entire Politburo and Central Committee stepped down as well. Asked about German unification at Sunday's press conference, Gorbachev said some questions must be left for "history" to decide and cautioned against doing "anything to accelerate these changes artificially." That call for prudence seemed ironic coming from the statesman who had done more than any other in this half of the century to speed up the process of history, including the transformation of Germany.
日曜日に、現在ソビエト・ブロックにおける基準どおりのリーダー交代劇において東独のエゴン・クレンツは共産党の党首を辞任し、政府のリーダーとしての地位の保全が可能でもあるにかかわらず、全政治局と中央委員会からも退いた。日曜日の記者会見でドイツの統一について尋ねられたゴルバチョフはいくらか疑問な点があるものの、「歴史」の流れにまかせるべきで、人工的にこれらの流れを加速しようとすることには、警告をした、と語った。ドイツの改革を含む今世紀後半の歴史の変化のスピード以上の努力をした政治家の言葉は皮肉に聞こえた。

The evidence that Gorbachev's drive for democracy and openness is serious seemed to grow even as the problems of the Communist world worsened. En route to Malta, Gorbachev stopped in Rome to visit John Paul II. His momentous meeting with the Pope marked the beginning of the end of more than 70 years of antagonism between the Kremlin and the Russian Orthodox Church. The first Soviet Communist Party boss to set foot on Vatican soil, Gorbachev conferred with the Pope for an unexpectedly long 75 minutes in the library of the 16th century Apostolic Palace. Addressing John Paul II as "Your Holiness"--no small gesture for the leader of a nation and party formally pledged to atheism--Gorbachev promised that the Supreme Soviet would "shortly" pass a law guaranteeing religious freedom for all believers.
共産主義世界の状況悪化が加速する中で民主主義と解放政治へとゴルバチョフが指向していることは、明らかになりつつあるようである。マルタへくる途中、ゴルバチョフはローマにジョン・ポールIIを訪ねた。彼の法王謁見の動機は、クレムリンとロシア東方正教会の70年以上におよぶ敵対関係に終止符を打つ序奏といえるものだ。バチカン領内に始めて足を踏み入れることになったソビエト共産党の首領は、16世紀のローマ教皇の図書宮殿で、予想外に長い75分にもおよぶ協議をおこなった。ヨハネ・パウロ二世に宛ててゴルバチョフは一国のまた、無神論を正式に誓った党のリーダーとしてのそぶりはこれっぽっちも示さずに「法王閣下、ソビエト最高会議はまもなくすべての信者のために宗教の自由を保障する法律を可決する見通しです」と奏上した。
Gorbachev also agreed to reopen diplomatic relations with the Vatican and discussed a possible papal visit to the Soviet Union sometime in the future. John Paul hedged on that, making his acceptance conditional upon some evidence of real improvement in the situation of Soviet Catholics. But the Pope did offer his endorsement of perestroika, all the while pressing home his "expectation" that Ukrainian Catholics would be allowed to exercise their faith fully and openly. The Ukrainian Church, which follows the Eastern liturgy but claims the Pope as its spiritual leader, was banned and driven underground by Stalin in 1946.
ゴルバチョフはまた、バチカンとの外交関係を再開することに同意し、将来のある時点で、法王のソ連への訪問の可能性について議論した。法王は確約をさけ、ソビエトカトリックの状況がほんものであるか否かによるとした。しかし、法王はペレストロイカにより、ウクライナのカトリック教徒が完全にそして公然と彼らの信仰を土台にした運動が可能となることに期待を寄せ、ぺレストロイカに賛意した。ウクライナの教会は東方正教会の典礼に属するが、その精神的リーダーはローマ法王を要求するので、1946年にスターリンによって禁止され、地下活動を余儀なくされた。
When the Holy Roman Emperor Henry IV decided to seek the pardon of Pope Gregory VII in 1077, he stood barefoot for three days in the snow outside the papal quarters in Canossa, Italy. Gorbachev's concordat with the church was no less significant in its way. But there was a crucial difference: as is so often the case with Gorbachev, he achieved his reconciliation without humiliation. As he had done before, the Soviet leader let the ongoing crisis of the Communist system serve as an opportunity to push his nation toward a broader vision of the future. "We need spiritual values," Gorbachev declared the day before the Vatican meeting. "We need a revolution of the mind."
神聖ローマ皇帝のヘンリー4世が1077年に法王グレゴリー7世の恩赦を求めることを決めたとき、彼はカノッサ(イタリア)の、法王のいる区画の外で雪の中裸足で三日間たち続けた(高校世界史で、カノッサの屈辱として習いましたが、いきさつなどは忘れましたね。)ゴルバチョフにとって法王との公式協定は、彼自身にとって、ヘンリー4世と同様重要なことだった。しかし重要な違いはあった。それは、ゴルバチョフの場合しばしば起こったことだが、彼は屈辱なしの和解を成し遂げたのである。彼が、以前に成したように、ソビエトリーダーは共産主義システムの進行中の危機を将来のより広い展望へと押し進めるために公式協定が供される必要があった。「我々は、霊的な価値を必要とする」ゴルバチョフはバチカンの会議の前に言った「我々は心の革命を必要とする」

Gorbachev made those remarks in Rome's city hall, where the Treaty of Rome establishing the European Community was signed in 1957. Although 32 years late to the party, he once again proclaimed his support of a European "commonwealth of sovereign democratic states" and urged that a 35-nation Helsinki conference be convened next year to find solutions to "common European problems."
ゴルバチョフはこうした発言をローマの公会堂でおこなった。そこは1957年に欧州共同体の調印式が行われた場所であった。32年間も遅れたとはいえ、彼はすでに一般のヨーロッパ問題の解決を見いだすために翌年開催される35ヶ国ヘルシンキ会議への支持を表明していた。

Before departing from Italy on Friday afternoon, Gorbachev also offered a revisionist view of the 1968 Warsaw Pact invasion of Czechoslovakia that crushed the reforms of the Prague Spring. Earlier that day, the new Politburo of the Czechoslovak Communist Party branded the invasion as wrong. Asked at a Milan press conference what he thought about that, Gorbachev tiptoed toward an apology, though without going all the way. The Prague Spring was "an acceptable movement for democracy, renewal and humanization of society," he said. "It was right then and is right now."
イタリアを去る直前の金曜日の午後、ゴルバチョフもプラハの春の改革を押しつぶしたチェコスロバキアの1968年(小生が大学へ入った年で、これ一色で大騒ぎでしたね)のワルシャワ条約軍侵攻について修正主義の立場の見解を述べた。その日以前に、チェコスロバキアの共産党の新しい政治局は、侵攻は誤りだったとの汚名を着せていた。ミラノでの記者会見でゴルバチョフはそれについてどう思うか尋ねられて、あれこれいうことなく謝罪の面だけを述べた。プラハの春は「民主主義運動であり、社会の革新と人間性に価値をおく社会へと向かう運動だった」と述べた。「それは正しいことだったし、今もってただしい」

George Bush arrived in the Maltese capital of Valletta on Friday morning, looking tired after an all-night flight during which he was regularly kept apprised of the progress of the attempted coup in the Philippines. It was the President's brother William who first suggested the rocky island some 200 miles north of Libya as a site for the meeting, having visited last September. The idea for a shipboard summit, away from the mobs of reporters and aides, came from the President himself, a former Navy flyer who still likes to slam his speedboat through the water around his summer home in Kennebunkport, Me. The President may have regretted the lack of back-up sites soon after his arrival, when he met with Maltese Prime Minister Edward French Adami and President Vincent Tabone. Emerging from the meeting, Bush glanced through a window at what was by that time a lashing storm outside. "I believe it will clear up," he declared.
ジョージ・ブッシュはマルタの首都バレッタに、金曜日の朝に上陸した。そして、フィリッピンで試みられたクーデターの進捗状況を、規則正しく送るようにしたことにより、オールナイトの飛行で疲れているようだった。このリビアから200マイル北に離れた岩の多い島を会議の場所として提案したのは昨年9月に訪問した大統領の兄弟ウイリアムだった。側近や記者たちの「暴徒」から隔離される場所として船上サミットのアイデアは大統領からだった。元海軍飛行士(父島上空で、撃墜されて落下傘降下して一命をとりとめた)は、夏休みに彼の高速モーターボートをメイン州のケンネバンク港で波打たせるのが好きである。大統領はマルタの大臣と大統領に会ってすぐに、代替場所を用意しておかなかったことを悔やんだようだった。会議から出てきて大統領は、嵐が外で吹き荒れている様子を窓越しにちらりと見た。「私は晴れると思う」と断言した。

Bush later flew by helicopter to the U.S.S. Belknap, his headquarters for the summit and the planned site of Sunday's meetings. The 547-ft. guided-missile cruiser was anchored about 1,000 yds. offshore in Marsaxlokk Bay, an industrial basin on the southeast coast of Malta. U.S. Navy and Maltese patrol boats trying to circle the ship bounced crazily on waves that were already cresting at a wind-whipped 5 ft. to 7 ft. About 500 yds. away was the larger Soviet cruiser Slava, anchored nearer to the mouth of the harbor. At dockside was the Maxim Gorky, the 25,000-ton Soviet cruise ship housing the Soviet delegation.
ブッシュは米国艦艇ベルクナットにヘリで飛んだ。そこは日曜日の会議のための彼の計画的な本部があった。全長547フィートの誘導ミサイル巡洋艦はマルタ島の産業コンビナートのあるマルサロック湾沖合1000ヤードに投錨していた。警備のための米国海軍とマルタの警備艇は、狂ったように吹き付ける風で波頭をたてている5—7フィートも上下する洋上で円形に囲んでいた。およそ500ヤード離れてより大きいソビエト巡洋艦スラバが港の入り口に精密に停泊した。ソビエト代表派遣団を載せた25000トンのソビエト巡洋艦はドックに停泊した。


Overnight the weather turned worse. A gale with winds of up to 60 m.p.h. slashed down the narrow alleys of the ancient port town. Pedestrians had to lean into the wind to avoid being blown over, and waves lashing the quay exploded into plumes of spray that flew 30 ft. into the air. Two tugboats were called out to keep the Slava from slipping its main anchor.
一夜明けると天気は一層悪くなった。最高風速28メートル/秒の強風で古代からの港町の幅の狭い路地を走り抜けた。歩行者たちは吹き飛ばされることを防ぐために体を折り曲げねばならなかった。そして波止場を襲っている波は空気中に30フィートもしぶきを上げた。二隻のタグボートがスラバのメインの碇がすべらないように防護するため急遽呼ばれた。

By Saturday morning the Soviets had decided to shift the day's opening meeting from the Slava to the heavier and more stable Gorky, where Gorbachev had spent the night. Traveling from the Belknap in a small launch, the President brought with him a group including Secretary of State James Baker, chief of staff John Sununu, National Security Adviser Brent Scowcroft and top Baker aide Robert Zoellick. Among those with Gorbachev were Foreign Minister Eduard Shevardnadze, former Soviet Ambassador to the U.S. Anatoly Dobrynin and international-affairs adviser Alexander Yakovlev. As they entered the cardroom where the session would be held, an effervescent Bush swore that he had enjoyed a good night's sleep on the bouncing Belknap. "Piece of cake," he announced. (Later both he and Baker were spotted wearing medical seasickness patches behind their ears.) While Gorbachev joked about the rough weather, Bush nodded to the seas and said, "Calming down--it's a good sign." Then he said, "Let's go to work."
日曜日の朝までに、ソビエト側は当日のオープニングミーティングの会場を巡洋艦スラバからよりトン数が多く安定していて、ゴルバチョフが一夜を過ごしたゴーリキー号(強力!?実際の意味は苦い、辛いあるいは固有名詞都市名ゴーリキー:ゴーリカヤ ゼムリヤといえば苦土、酸化マグネシウム)へと変更していた。ベルクナップ号から小さいランチに乗って、大統領はジエームズ・ベーカー国務長官、参謀長ジョン・スヌーヌ、国家安全保障担当補佐官ブレント・スコウクラフトおよびベーカーを補佐する最高顧問のロバート・ゼーリックを伴ってきた。対するゴルバチョフの陣営は、エデュアルド・シュワルナゼ外務大臣、前駐米大使アナトリー・ドブルイニン、それに国際情勢アドバイザーである、アレキサンダー・ヤコブレフの面々であった。全員がセッションが開かれる予定のカードルームに入るとき、活気に満ちたブッシュ大統領は、昨夜は揺れる船の中でも良く眠れましたと宣誓して入った。「たやすく眠れましたよ。」(後に、彼とべーカーは彼らの耳の後ろに船酔い防止用の特効薬を
貼り付けてもらった)ゴルバチョフが悪天候をジョークに喩えるのに対して、ブッシュはうなずきながら海を見て鎮まりつつある、良い兆候だと応じた。それから「さあ、仕事に着きましょう」と言った。
As he ran down his inventory of offers, the President at first seemed nervous but began to sound more confident and relaxed, as he promoted everything from an international conference next year on global warming to an increased exchange of college students and a joint endorsement of the idea of holding the 2004 Summer Olympic Games in Berlin. Echoing a long-standing U.S. complaint about the Soviets, he urged them to publish information on their military-force structure, budget and weapons production. He handed Gorbachev a list of possibilities for cooperation between the two nations, including advice on such classically capitalist institutions as banking systems and a stock market. "We're happy to pursue any of these issues with you," Bush said, beaming.
ブッシュが提案する目録を探して見つけているあいだ、最初は神経質そうであったが来年の地球温暖化に取り組む国際会議から、交換大学生の受け入れ枠の拡大や2004年の夏期オリンピックをベルリンで行うアイディアなどを支持することを告げていくうちに、自信を取り戻し、緊張がほぐれていった。ソビエトに対する長年のアメリカ側の不満を繰り返して、彼はソビエト側の軍隊構造、予算ならびに武器生産に関わる情報の公開を求めた。彼は、銀行業務システムのような古典的資本主義構造と株式市場についてのアドバイスを含んだ、2国間で協力が可能となるようなリストを手渡した。「我々は、あなたとこれらの問題のどれでも、検討できて満足です。晴れやかな気持ちです。」と言った。
Bush also gave Gorbachev a list of about 20 names of Soviet citizens who were seeking to emigrate. On Sunday Baker was to give Shevardnadze a list of 95 more names. At summits throughout the 1970s and much of the '80s, the U.S. regularly presented such lists to the Soviet side, commonly to no avail. This time Bush recognized that the Soviet Union has made "great strides" in resolving individual cases. "Let's set a goal," Bush suggested, "that by next year's summit we won't have another list to give you."
ブッシュはまたゴルバチョフに、移住しようとしていたソビエト市民およそ20名のリストも渡した。日曜日中にベーカーはシュワルナゼにさらに95名のリストを渡すことになっていた。サミットのたびにアメリカは1970年代からまた80年代は特に毎回そうしたリストを渡し続けたのだが、それまでは何の甲斐もなかった。今度はブッシュはソ連が個々の訴訟を解決する際に大きな歩幅を踏み出したことを認めた。「目標を決めましょう」「来年のサミットまでには我々がすでにあなたに手渡すリストがもう必要ないように」とブッシュは提案した。
Bush's earnest presentation of his overall proposals had a weight to it that the Soviets acknowledged. Said an American aide who was at the table: "The President wanted to get the message across that he didn't just support perestroika; he wanted to back up his support." Gorbachev listened closely, nodding vigorously at times. His reply to the President's offers was warm, though mostly general. "Gorbachev completely caught the spirit," said a U.S. official. "There was nothing from which he dissented."
ブッシュの包括的提案はソビエトが認めうる真面目な重みを持っていた。テーブルにいた彼の側近が言った。「彼は、彼がただ単にペレストロイカを支持しなかったというイメージを越える、メッセージを得たがっていた。彼は、彼の支持をバックアップしたかった。」(この辺、政治にうといので、適訳できません)ゴルバチョフは熱心に聞き、時々活発にうなずいた。大統領の提案に対するゴルバチョフの答えは暖かいものだった。大部分は一般的なものだったが。「ゴルバチョフは完全に精神を極めた」と米政府当局者は言った。「彼が異義を唱えた問題は、なーんにもなかった。」
Amid the 16-ft. seas and gale-force winds that had pounded the island all day, Bush and his party returned to the Belknap Saturday afternoon, their launch rolling so heavily that it had to make several passes before it connected successfully with the American warship. Eventually the weather forced cancellation of the afternoon session and the joint dinner planned for that night. Bush was left stranded on the Belknap, looking helplessly over the short distance of rough water that separated him from Gorbachev, the man he had traveled thousands of miles to see.
高さ5メートル近い波と強風(気象学では秒速13.9—28.4メートルの風をいうらしい)で丸一日中荒れる中、土曜日の午後ブッシュとその一行は、ベルクナップに戻った。それは酷く揺れ、彼らのランチがアメリカ軍艦にうまく接続するまでに多くの手間がかかった。結局、天候の悪化で午後のセッションとその後の晩餐会は中止を余儀なくされた。ブッシュはベルクナップの上で足止めされ、荒れた海のすぐ向こうに彼があうために何千マイルも旅してきた男ゴルバチョフを引き離していることに沈んでいた。
Yet the smiles on Sunday--and Gorbachev's thanks for the state of Soviet-American "joint enterprise"--proved that Bush had achieved the basic purpose of his get-acquainted meeting. "He dumped it all on the table and made his point," said one of his aides. After months of taking criticism for dithering, the U.S. President had made it clear that he too intends to do business with Mikhail Gorbachev.
それでも、日曜日(ゴルバチョフはソビエトーアメリカ合弁企業の国に対して感謝していた)の両首脳の微笑は、ブッシュがみずからあらかじめ提案していた会議の基本的目的が達成されたことを示していた。彼の側近のひとりは「彼はテーブルの上にすべての課題を広げ、問題を設定した」と述べた。会議の評価の行方が定まるまでのどっちつかずの数ヶ月の後、米国大統領は、彼も又ゴルバチョフとビジネスをするつもりであったことをうち明けた。

-- Cathy Booth/Rome and Michael Duffy, Dan Goodgame and Christopher Ogden/Valletta

なかのひと

日曜日, 4月 19, 2009



異常がありそうな領域を避けて分割した後半部分にインストールしたシステムからは、いちおう起動した。ただ、ディスクアイコンの並び方が不自然で、壁紙が同一なせいもあるが、一瞬内蔵HDから起動したのかと思ったが、まちがいなく外付けから起動しているのは、外付けHDのアクセスランプの動作からも確認できた。

これも新システム上で書いている。動作も遅い感じは一切ない。すべてを試したわけではないが。ところで、メールなどのデータがそのまま引き継がれたので、ついシステムも引き継いでいるものと、錯覚していたが、本体のシステムから起動したら、外付けHDとおなじ10.5のままだった。そりゃそうだよね。しかたなくまず本体側からアップデート。

いきなり、10.5.6統合アップデートを実施する勇気はなく、アップルのサイトからまず10.5.2のアップデートを探して実行。ついで、10.5.4を探して実行。どちらのアップデートファイルも外付けに保存しておく。ダウンロードの時間も馬鹿にならないからだ。ここで、VMware Fusionを試したが、Fusionの再起動だけで無事終了した。
さらに10.5.6にも挑戦して無事終了。本体の内蔵HDには問題はなさそうである。


ここで、一回本体に戻って書きかけ、今また外付けから起動したシステムで書いている。正常に起動したように見えた外付けシステムだが、何もしないでも、ディスクへのアクセスランプ点灯が止まらず、What are you doing!?と不安になった。試しに、本体内蔵システムに戻した状態で、Spotlightをオンにしたところ、今まで見たこともない表示があらわれたが、外付けHDのアクセスランプ点灯の意味をはからずも伝えていた。

外付けシステムはその後、アップデートを実行しても問題なく、試したアプリも、VMware Fiusionなどは初期起動に本体とは違う、よりていねいなメッセージ群を表示しながらも正常起動したようで、動きも問題なかった。XPがまんま高速で動いてくれる。

最初はいったいどうなることかと不安であったし、ロクに使用しないうちに粗大ごみになりかけた外付けHDであったが、今のところ復活を果たしたようである。ただ、起動ディスクがデスクトップ最上段にこない点がきになるが、デスクの最初の部分のパーティションが起動姓のない一般アップルのフォーマットなので、自動的にデスクトップに来ないのだろう。最初の85GBほどは、ちょとしたアップデータなどの格納庫として充分機能してくれている。

こうなると壁紙を変えたぐらいでは、どちらのシステムで起動しているのかまるでわからない。唯一、起動ディスクを表示させることで判明する。名称未設定2だった外付けHDは、メーカーさんに敬意を表してIO DATA HDに変更した。いろいろ起動させて各種アプリを試したが、今のところ特に問題はない。Windows自作派の子に話したら、ずいぶんMacを変則的に苛めて使っているんですね、と言われた。速度が落ちませんか!?とも言われはしたが、その実感は特にない。計測したわけではないが。

内蔵が調子が悪いとき、外付けで十二分に対応できそうだ。もっとも、今は内蔵HDを交換してまで使う、というひとは少ないかも知れないが。特にWin系は劇安タイプが目白押しなので、
その傾向は強まっているだろう。

マックは、そういうわけで、故障しても何とかなるだろうと思っているが、Win系となると、経験不足でまるっきり自信がない。この前会社のDELL機で起きた初期不良の際のSE氏よれば、ご自身も自宅にマックを一台所有されているとのことで、マックと同じでHD交換ぐらいなら、未経験の私でもWinの修理は出来るはずだと言われたが、食わず嫌いで自信なし。この前、立ち寄った秩父の知り合いは、市役所勤務の奥さん共々、ノートパソコンのHDなど新品に交換してXPを入れ替えたりしているようだ。自作派の子も、もうパーツのアドバイスはしますから、ご自分で組み立てて見てください、そのほうが安上がりで、寿命も一般に長いようです、などと言っていた。近くにも、自作パソコンを組み立ててくれるお店もあるし、・・・。



なかのひと

土曜日, 4月 18, 2009



iMacが、昨年9月以来問題なく使用できていたが、スリープ状態で一晩おくとスリープ解除ができなくなった。再起動せざるをえない。

ネットでは、PPC機での解決法の例があったが、インテル機での具体例はアーカイブして再インストールが主流のようなので、タイムマシンでバックアップをとって実行した。

これといって問題なくする終了した。旧くなったシステムも残っているが、消去してしまった。あとは、一日おいて復帰テストをするだけだが、難なく復帰した。

次に遊ばしていた250GBの外付けHDを、USB接続で起動システムを転送させようと、試みたが失敗。後でわかったことだが、パーティションをきるとき、GUID仕様の項目をオンにしないと、認識してもインストールできない。ディスクユーティリティの中で、オプションボタンからパーティションの種類を選択する。

そしてインストールを実行したが、残り4分でインストールエラーで修了。残念。もともと10.5ではなく、10.4.11が外付けにインストールしてあって、使えたのだが、ひさしぶりに起動して問題なく、次に再起動したらドックのアイコンの6割ぐらいに?マークが並んでいておかしいので、再フォーマットしたばかり。アップルのフォーマッタでは力不足と思い、もともとFAT32仕様で売られていたので、ウィンドウズにつなぎ、工場出荷時状態まで、付属ユーティリティCDを使用して戻す。次にまた、iMacで起動用パーティションを設定しなおし、再度インストール。

これはうまく最後まで行き、フィニシュ。外付けから起動したが、バージョンが旧い。

アップデートをかけたら、かなりの量のアップデータがあつまり時間をかけてインストール。
これも終了し、再起動いたら、こんどは起動途中で、外付けHDのアクセスランプが消えてしまって、起動を再開しない。困りましたね。この時点で、どうやらHDのどこかにアクセス不能の傷かなにか、HDに問題がありそうと推測できた。

しかたなく再起動させたら、こんどは、個人情報を入力する初回だけの入力画面が表示される。おかしいな?と思いつつも所定の情報を入力した。

次のステップに行くかと思ったら、再び初期入力画面にかわり、エンドレスだとわかた。やはり、HDのマップに異常があるか、物理的損傷かなにかで、起動プロセスがつながらないのだろう。縦置きで使っていたが、猫が倒した時の邀撃で、傷ができたのかもしれない。

ただ、比較的大容量で、捨てるには『もったいない』ので、容量からして50GBあたりに問題箇所がありそうで、こんどは2パーティションとし、最初を少なくし、後半を大きくしてそこにインストールすることにした。果たして、結果や如何に!!!??????



なかのひと

日曜日, 4月 12, 2009



今日も、日曜出勤。しかし、定時出勤でないので、朝のうちに私用を足してから会社に行くことに。先日から、仕事の関係で、早朝出勤にも慣れてきたところ。ネコが、朝飯をせがんで私の顔を軽くかくので、それを潮時と起きてコンビニでネコまんまを買って与えてから、動き出す。日曜早朝でも、エンジン音は低めなので、以前のように遠くまで押して行ってかける、などということは最近なくなった。ボロボロと低音の鼓動が目覚める。ハーレーでは、こうは行かない。しkし、この日は、ずっとハーレー音とのお付き合いになろうとは、考えもしなかった。

16号を通って先週は飯能へ行ったが、今日は、昼間出勤なので、圏央道を通っていくことに。
圏央道入り口から降りるまで、前方をゴールドウィングっぽい白いバイクが先行してくれた。
高速に入っても、飛ばすかと思いもしたが、ずと100キロ前後の巡航。こちらもそれにあわせて走った。4輪たちが、ゆっくり時間をかけて、追い越し車線を通り過ぎていく。少し気温が低いので、飛ばさないでちょうどよいぐらいだった。


高速では、少しエンジンが重い感じがした。下の道の快調さとはうってかわって重い。スズでも入れすぎると、ハンダロイと同じか!?と思ったが、単に高速初走行のせいもあるような感じがした。それで、降りると、昨日までの快調さとはあきらかにちがう、別の快調さに変わっていた。てんでピストンが軽く回る感じで、125ccエンジンのようだ。高速の重い感じの反動もあるかも知れない。その快調さで、飯能市へ。

以前仕事で来たことのある公園で、休憩。東飯能駅は、タクシーがずらりと並んでいたので、敬遠してここに来た。桜は、今日あたりが見ごろの最終日、といった様で、散った桜がまるで、吹雪いたように芝生を埋め尽くしていた。あちこちで、自宅前の道路に散った桜を箒で掃き清めていた。

休憩後、走り出すが、にんじん君をつけた後や、ミラクルパワーをつけた後のようなパワフル感は陰をひそめ、いかにもホンダのエンジンといった感じの、回転があがるにつれてトルクが出てくる感じに変わってしまっている。もちろん、1000回転からでもスタートするのだが、この前のように、4速でもスタートした調子良さとは異質のものだ。

このまま走っていたら、220キロあたりで、ブスブス。手探りで、サイドカバーにあるガソリンコックを回す。リザーブ位置に入れるかいれないかというあたりで、エンジンが急加速で、のけぞってしまったが、今まで作動しなかったコックが、新しいものに変えたので、きちんと作動してくれていることを確認できた。

そのまま国道299号をあがっていく。昨日までに比べて温度は低いが、寒くはない。こちらは飛ばす気はないので、4輪の後を付いていくだけだが、勇ましいバイクたちが、黄色のセンターラインでも、対向車が来なければ抜いていく。抜き際に、4輪のすぐ後ろで、私しかいないので、わたし相手だと思うが、左手を左下方に下げてお先に失礼のつもりだろうか?続けて来るバイクも同様な動作をして抜いていった。追い越し禁止で堂々と抜く手合いがほとんだだと言ってよい。後は、右折帯を走っていき、停止線の先で停止して追い抜いていく。何の躊躇もない人が多い。新聞配達のバイクが、堂々と歩道を走ったりするのは、致し方ないかもしれないが、・・・・・。

そして、そういう走りは国産車が多い。今日は一例だけ単独で来たハーレーがやっていた。また、250の単気筒にミニサイドカーをつけて愛犬を乗せてのんびり走っているひとも見かけた。

正丸峠で右折して、苅場坂峠まで行ってみた。バイクが二台、スポーツカーが一台対抗してきた。峠は、車が一台だけで、あとはだれもいなかった。さらに、昨年暮れまであった、無人茶屋が取り壊されて跡形もなくなくなっていた。

数年ままでは、ここで、休憩できたものだったのだが。今は、ここから定峰峠へ抜けないと、茶屋はないことになる。ガソリンが乏しいので、一旦降りて飯能側で給油し、正丸を抜けた。
トンネル内は、もう寒くなく秩父側と飯能側の中間の温度と言ったところ。ただ、前回より、ほこりやゴムタイヤの匂いがひどく、何度もくしゃみが出た。走行台数が急増しているのだろう。


また、秩父の知人宅で休憩。今度は音だけで、玄関から出てきてくれた。前回久しぶりに話したので、今回は、前回の時の補足程度の話題交換で早めに140号へ戻った。番場町で仕事が出ているので、場所を確認してから帰る。お花茶屋駅近くで、熟年のコンビ二人がどちらも黒の革ジャンで、メグロの単気筒(350くらいにみえた)を二台おそろいで前後して走っていた。英国車の雰囲気が漂う。塗装も、クランクケースの輝きも、往年の古さを感じさせない程度のよいバイクだった。

140号で寄居方面へ。白バイが前方のバイク集団を狙っている、と思って付いていった。大宮ナンバーの新車の白バイで、停止時に空ぶかしをすると、バイクらしからぬ音がする。燃料噴射方式で、典型的なマルチっぽい音をだすが、排気音はほとんどなく、モーターのような音を発するだけ。前方の集団も299号とはことなり、大変おとなしい。それで、途中で右折して市内方向へ戻ったようだ。

白バイがいなくなったので、注意して、車の脇をすり抜けて先へ。すると、車の間に数台づつ固まって走っているバイクは、大半がハーレーで、みな静かに走っている。抜けども抜けどもハーレーで、対抗斜線も、やはりハーレーが多くて、今更ながら、140号はハーレー街道だと思った。昨日見たようなスポーツスタータイプはほとんど見かけなかった。寄居から、140号をさけたので、ハーレーたちとはお別れ。途中、ミニストップで昼食をとって、小休憩をしてすぐ会社へ戻った。坂ののぼり下りを含めたツーリング燃費は、14.1でハンダロイよりは少し良い程度。これでは、まるで、ノーマル車そのもの。やはり、2000キロほどは走らないと、効果は出てこないのだろうか!?もっとも、通常の遠乗りで15キロ台が出るようになれば、特に不調とはいえないだろうし、その位の伸びは期待できるかも。

ただ、きょう山道へ入ったら、アクセルを回さないと、登攀力がスローダウンしているように感じた。やはり7万キロともなれば、ピストン周りの磨耗も、バカにならないかもしれない。
もっとも、まだ、毎日調子が変わる状態なので、ほとんど何も言えないのだが。感覚で、いい、悪いを言ってみても、こと燃費に関しては、ことごとく裏切られてきている。



なかのひと

土曜日, 4月 11, 2009


新年度に入ったが、仕事は減らない!!。しかも今年から国交省管轄の河川区域をメインとする新しい仕様の仕事が出ると言うので、これまで三社体制だったものを、準大手をさらに三社参入させ、6社体制でいくということを通告された。さらに、その仕事が出る前から、これまでの仕事も、6社体制で進める方針らしいから、これからは減るかもしれない!?という淡い期待?もあるにはあったが。現在担当している親会社の3支社エリアからいずれ2支社エリアだけしか来ないかも知れない、と営業サイドは話していた。しかも、2次下請けは、原則として仕様書受け取りや納品も、1次下請けが行い、直接親会社へは、呼ばれない限り出入りできないような大本の埼玉支店からのお達しまでついて来た。これが、どこまで守れるか!?。
このままだと、納期が二日ほど短縮されることになり兼ねないし、・・・。

というわけで、今日も仕事。時間30分前に、指定された現地で待機しても、だれも来ない。だいたい土曜日の午後に、大手の社員が直接現地に来る、というのは、これまで前代未聞なので、もしかしたら、来ないままかも知れないと思い、直接指定された顧客宅に挨拶をいれたら、さらに30分先の指定時間ときいております、という返事だった。こちらは、30分はやく指定されたので、途中移動の時間が土曜日で読めないので、昼食もとらずに駆けつけたのに、・・・。

待っている間に、一件隣の庭で洗車の終わったハーレーバイクのエンジンをかけて、ここにハーレーあり、といわんばかりに空吹かしする音がこだまする。本人にはいいかもしれないが、午後の時間帯でも住宅地ではけっこうどころか、かなりうるさい。ハーレーの883だ。メーターも一個だけという、シンプルなタイプ。1200までは、シリンダーヘッドは共用らしく、1200ではダブルスパーク方式なのだが、883では、シングルのままで、シリンダーヘッド頭部のスパークプラグ用の凹みは、ゴムカバーがついている。

CB1000などとちがい、シリンダーのストロークも883と1200とでは違うので、シリンダーフィン枚数も1枚か2枚、1200より少ない。この音からすると、純正のマフラーではなく、高音用の改造マフラーらしい。他人様の庭なので、立ち入りは遠慮したが、国産マフラーのような排気口ののついた黒いマフラーがシングルでついていた。

わが家には、まだ、純正の1200用のセパレーツマフラーが、押し入れにしまったまま残っている。私が、慣らし運転中、うるさいので、この純正マフラーにして乗っていたのだが、後大学通学に使うために取りにきた娘はお冠で、すぐさま高音用に変えてしまった。ハーレーはこの音なんだ、ということらしいが、これだけは受け入れがたい点だ。

ネジがインチ系だったので、セパレーツのマフラーのうち一本は自在レンチで元に戻せたが、もう一本は、ソケットレンチを使わないと交換できず、近くのハーレー代理店まで、一本だけノーマルマフラーで出かけたが、ノーマルは音が静かで音質も良く、殘る一本がかん高い音を上げ続け、単気筒エンジンのような音をあげていたのを思い出した。

あの頃は、883もベルトドライブでないチェーンのクラシック仕様っぽいタイプも、90万円台で店頭にあり、いっそ私もローンを組んでしまおうか、という誘惑に打ち勝つのにはかなりの時間が必要だった。

その頃から、埼玉の田舎でもハーレーをよく見かけるようになり、現在にいたる。当時はニュータイプのカワサキ6502気筒なみの音のノーマルで乗っている人もいたが、大半は大きい音用にマフラーを交換していて、うるさい手合が大半だった。顔にうれしい色がみなぎっているような人もけっこうおりましたね。ハーレー乗りのニューカマーたちだ。

今日は、幹線道路でも、けっこう単独のハーレー乗りを見かけたが、静かなタイプがめだった。こういうハーレー乗りたちは、大抵1500にちかい、本物ハーレーのりたちだ。スポーツスター系とは、リヤのディスクブレーキ、ベルトドライブが左右逆についていて、大排気量にもかかわらず、リヤビューはかなりせまい。唯一左右のブレーキとドライブのレイアウトの違いだけが識別ポイントである。クラシックタイプは、フェンダーなどでも識別できるが、スポーツ系はリヤからだけではそこだけのようだ。

昔からハーレーは飛ばすバイクではない、とはバイクに乗らないような人でも車好きなら知っているように感じる。そういう走りはやはり1450ccの大人のタイプのハーレーにつきるようにこの頃は感じている。会社の関係者でも、従兄弟がこんどハーレーを買った、というので聞いたら、883だった。けっこう小さいんだね、という感想であったが、借りて乗ってみるという気はさらさらない、というひとだった。

また、ここ1〜2年、ハーレーもニューモデルがかなり出て、識別についていけない感じがしている。ハーレー文化が、すそ野が広がることは歓迎するが、883系のうるさいものが、増えることには抵抗がある。パワー的には、みるべきものがないし、あれに乗って何がいいんだろう!?とつい思ってしまうのは、貧乏人のひがみだろうか?こんなバイクで急ぎの納品などに行ったら、即出入り禁止になりかねないような気がする、といえば大げさか!?


なかのひと

木曜日, 4月 09, 2009

正論には、NHKウオッチングという独協大学の中村粲教授によるNHK報道の偏向ぶりを指摘する記事が毎号載る。前からおかしいとは思っていたが、これほどとは、という思いがする指摘がほとんどだ。

以前、受信料不払い運動が起きたときも、中村教授はもちろん、集金人と押し問答となり、あちらが避けるようになった、とか。うちの会社にもアンテナがある、というので来たがNHKを見るために置いたのではない、と言って返ってもらった。それでもまた様子をみて来たので、お断りした。その後も時々覗いていたらしい。不払い運動などが起きる前の話である。捨てるのがもったいないようなテレビをたまたま空き部屋に置いただけで、しつこくからむ集金人と渡り合うのは好きではないので、思い切ってテレビは処分した。そのとき、NHKだけ映らないテレビがあればいいのにと思った。それがなければ、リモートの1と3を接着剤で固定してしまい、映らないように仕様とさえ思ったが、結局テレビは置かないことに。

ところが、最近NHKだけ映らないテレビが出来たそうである。中村教授は、放送法第32条の性質から、見ないから払わないという理屈は成立しないことになっているが、もし、映らないテレビができれば、その規定の適用外となる、とされている。
『NHK報道を考える会』(代表・中村教授)の会員である電子機器開発技術者の一人が開発したそうで、地上アナログ、地上デジタル、BSの全NHKテレビ放送波のみを全国何処でも遮断できるそうだから、これまた痛快な話ではないだろうか?私は篤姫などは一回も見たことがなく、その点では歴史に疎くなってしまったが、・・・見たからと言っどれだけのメリットがあったのだろうか?あの一種独特の臭みのある番組から自由になれる幸せは、計り知れない。

『NHK報道を考える会』FAX 03-5203-2226のY・Sさんに相談すれば支援がえられる、と言う。

この記事ではさらにY染色体の嘘を、科学番組で放送した、などという指摘も出ていた。

また、http://www.melma.com/backnumber_45206/
では、『NHKが「JAPANデビュー」で台湾の「反日」強調の偏向番組
   今夜0時45分から総合TVで再放送』
として、4月7日に配信があり、
『 下記に、この番組の詳細を記して問題点をあぶりだしたメールマガジン「台湾の声」のレポートを転載して紹介したい。今日の深夜、再放送される。見逃した方はぜひ見て下さ
い。                   (日本李登輝友の会編集部)

*昨日から日本李登輝友の会本部事務局には番組をご覧になった感想がどしどし寄せられ
 ています。メルマガ「日台共栄」で掲載しますので、ご意見ご感想をお寄せ下さい。』
などとあり、NHKの反日姿勢は改まるどころか、度を越して相変わらずの左翼姿勢のまんまだということを窺わせた。

そして、また、今日夕方今度は
『台湾の親日を歪曲して特集したNHK
【転載転送歓迎】NHKの「反日」番組による「反日台湾宣伝」には、とんでもない台湾人の証言への操作があることが明らかになりました。
このレポートを転載、転送して中国を喜ばすだけのNHKの宣伝打破にご協力ください。
また一番下に抗議呼びかけの訴えもあります。これにもご協力ください。

                        台湾の声編集部
』というのが配信された。

そこで、まんまその主張を転載させていただくことにした。

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証言の「断片」のみ放映
台湾の被取材者が怒る反日番組
「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」


ブログ「台湾は日本の生命線!」より ↓ブログでは関連写真も
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-716.html 

■取り上げられた一枚の中学生の集合写真 

NHKの「被害者」としか思えないのが柯徳三氏。八十七歳になる台湾のお爺さんだ。

四月五日に放映された「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」の第一回「アジアの“一等国”」は、日本の台湾統治と言う異民族支配の不条理をこれでもか、これでもかと強調する内容だったが、その不条理さを証言するため登場させられたのが老世代の台湾人。そしてその中心的人物として位置付けられていた一人がこの人だった。

番組では旧制台北第一中学校の生徒の集合写真が「台湾統治を象徴する一枚の写真」としてクローズアップされる。「台湾人日本文化を叩き込み、民族性までも奪った歴史が秘められている」からだと言う。視聴者は「何事か」と注目したことだろう。これは台湾人に対する同化政策(日本人化政策)への批判である。

先ず画面には映し出されるのは同校の台湾人卒業生の同窓会。「クラスメート五十人の内、台湾人は二人だけ。同化政策の実態は、台湾人には制限つきの厳しいものだった」とのアナウンスが流れる。

そこでカメラを向けられるのが卒業生の一人である柯徳三氏だった。同氏は先ず「小さいころは日本人になりたい、どうして台湾人に生まれたのかと考えた」と述懐する。

■日本統治への憎しみ証言だったのか

「狭き門を潜り抜け、中学校へ入学した台湾の生徒たち。しかし日本人が大多数を占める中で、より多くの差別と偏見を受けることになる」とアナウンスは続く。

柯徳三氏はそれを受ける形で、

———台湾人の豚の角煮を弁当に持って行くと、日本人に笑われる。母に弁当は日本式にしてくれと頼んだ。日本式にして始めて堂々と蓋を開けられる。

と話す。

次いで「社会に出るとさらに露骨な差別を受けることになる」と強調するアナウンス。ここでも柯徳三氏の次の証言が用いられる。

———いとこの姉さんが日本人の嫁になって日本行ったが、戸籍に入れない。こう言うのが差別でしょう。最後の最後まで、台湾人であることを隠さないといけない。

場面が変わって、「皇民化政策によって台湾人は台湾人であるとの意識を大きく変えられて行く」とアナウンスされると、再び柯徳三氏が登場。

———酒を飲むのも日本酒。こういう人間に誰がしたの。日本だ。

———喋るのも日本語。台湾語でこう言う演説はできない。

———頭のコンピューターはすでに日本化されてしまっているから、あの二十数年間の教育は実に恐ろしい。頭が全部ブレーンウォッシュ(洗脳)されているからね。だから日本式に物を考えたり、日本式に日本語を喋ったりする。

そのように語る柯徳三氏だが、決して怒りや憎悪に満ちた表情ではない。実直そうな雰囲気の中に笑顔もあればユーモアもある。しかし多くの視聴者はアナウンスに導かれ、日本を痛烈に批判していると受け取ったはずだ。

■柯徳三氏に「真意」を尋ねて見えたもの

ところが柯徳三氏を直接知る私の知人たちは番組を見て、「怨み言ばかりを言う人ではない。もっと別のことも言っているはず」と口を揃えた。

私は同氏とは面識がないが、やはり違和感を覚えた。台湾人が受けた差別待遇への「怨み言」はよく理解できるが、しかしそれだけで、かつての激動の時代を総括するものだろうかと、これまで台湾であの世代から多くの話を聞かされてきた経験から、そう直感したのだ。台湾通の友人の中でも、私と同じように直感した者は何人かいた。

そして案の定、知人から「もっと重要な発言がカットされ、悩んでいるようだ」と聞かされたのだ。私はそれを詳しく知りたいと思った。そこで八日、柯徳三氏に国際電話を掛けた。

受話器の向こうの同氏は、番組で拝見したとおりの矍鑠とした方だった。私が「番組が意に沿わなかったと窺いました。そのことを話していただけますか」と聞くと、一気に話をしてくれた。

それによって同氏が、カメラの前で日本に対する「台湾人の思い」をさまざま話していたことがわかった。

聞けばどれもが、良くも悪くも日本人の心に強く訴え来るものばかりだ。アナウンスにもあったように、この番組のテーマは「過去と向き合う中から見えて来る未来」「未来を見通す鍵は歴史の中にある」だが、同氏の語ったとされる話は、まさに日本人に対し、今後持つべき心の在り方を問いかけるものだった。

しかし番組は、その立派なテーマの前提として「親日的とも言われる台湾で、今も残る日本統治の深い傷」を暴くことを置いていた。そこで採られたのが、そのために都合のいい話の断片だけを繋ぎ合わせる手口だったのだ。

以下は柯徳三氏から聞いた話のメモである。

■心外だ!台湾人が排日と誤解される!

———私は日本による五十年間の台湾統治はプラス面が五〇%でマイナス面が五〇%と考える。NHKの取材を受け、インフラや教育のよさを語ったのだが、番組は全然取り上げなかった。

———日本による差別待遇など、欠点への怨み事ばかりを取り上げ、あたかも台湾人が朝鮮人と同じく排日だとの印象を植え付けようとしているらしいが、これは心外だ。

———烏山頭ダムを造った八田与一技師の話もした。いかに農民にいいことをしたかなど。八田技師の長男とは同級生だったことも話したが、怨み言を並べる場面ばかりが映された。

———怨み言は、あのころの日本政府に対するものではない。私たちを健やかに育ててくれた日本政府には感謝している。

———「日本に捨てられた台湾人の怨み言」であると解釈してほしい。黙って国民政府(蒋介石政府)に引き渡したときの怨みだ。

———国民政府は日本政府の倍悪かった。(四七年の)二・二八事件では台湾人エリートが犠牲になったが、そのことをたくさん話したのに、まったく取り上げていない。

———同窓会では怨み言がたくさん出たが、あれはみんなが押さえつけられていた感情をさらけ出したものだった。しかし私たちは日本に対し、一定の評価をしている。

———敗戦で日本は台湾を投げ出した。切り離した。しかし償いがなかった。物質的な償いではなく、精神的な償いがだ。マッカーサーの命令により、やむをえなかったことは、台湾人はわかっている。しかし「捨ててすまなかった」とちゃんと言ってくれれば、台湾人は慰められたのだ。

———「捨てられた怨みを並べた」と解釈して欲しい。

———私は親日でも反日でもない。私にとって日本は養母なのだ。中国から切り離され、日本に養子として拾われたのだから。日本人に差別はされたが、私が今日一人前の医者として活躍できるのは(もう引退はしているが)、日本のおかげだ。

———NHKには利用された、騙されたという気もしている。日本に対するネガティブな印象のところだけ取り上げられた。

———台湾と日本との仲を引き裂こうとしているのだろうか。どうしてもそう見える。台湾へ来たことのない人が番組を見たらどう思うか。

———NHKのバックには中共がいるのだろうか。NHKは中共にブレーンウォッシュされているのだろうか。それとも遠慮しているのか。

———私は記者に対して「怪しからん」と話した。「北京総局を置いているが、その下に台北支局を置いている。それなら台湾総局とするべきだ。日本が本部なら、北京も支局とするべきだ。台湾は中国に属していない」と。だがそれは消された。

———私は番組の中で「喋るのも日本語。台湾語でこう言う演説はできない」と怨み言を言ったが、それは中国語が話せないと言うこと。台湾語はもともと文章は書けない言葉。若い人から見ると、私たちは日本語ばかりを話す「かたわ」となってしまう。「かたわ」と言うのは「捨てられた人間」と言うことだ。

———私は話の最後で「都合の悪いところがあればちょん切って」と頼んだ。それは「日本人が不愉快に思うような悪口の部分を切って」と言う意味だったが、逆にそれらばかりを取り上げられた。

私は以上の話を聞き、「広く日本人に伝えたい」と話したら、「そうして欲しい」と言われた。

■台湾の「親日」イメージ破壊としか思えない

戦後、台湾人に何の相談もなく突然彼らを他国へ譲り渡した日本に対し、「仕方がなかった。すまなかった」と一言言えばよかったのだと話す柯徳三氏

そう言えば番組では、元日本兵だった台湾人も、「(台湾人は)みなしごになって捨てられた見たいだ。人をバカにしているんだ、日本は」と語っていた。番組は「日本統治の深い傷」を暴くとの文脈から、巧妙にもこの発言すら「日本統治」への怨み言として扱っていたようだが、怨みは明らかに台湾人の存在を顧みようとしない戦後日本に向けられていた。

柯徳三氏はそのような戦後日本の「未来」のため、日本人に「過去と向き合わせよう」(台湾人と向き合わせよう)と話をしたのだが、NHKはそれを操作して、逆に台湾の「反日」イメージを強調したのわけだ。まさに同氏が言うように「中共に洗脳された」がごとく、「台湾と日本との仲を引き裂こう」とするかのように。

これが視聴者への背信ではなくて何か、台湾人への侮辱的な利用ではなくて何か、そして柯徳三氏ら被取材者への裏切り、冒涜でなくて何かと言うことだ。

番組が「親日的とも言われる台湾で、今も残る日本統治の深い傷」と強調したところに、私は国内の反日メディア、さらには中国が警戒する台湾の「親日」(日本への深い理解)イメージを低下させようとの意図を感じないではいられない。柯徳三氏もまた「中共による洗脳」「中共への遠慮」があるのではないかとNHKを疑っている。

■台湾人の心の蹂躙をも厭わない強烈な反日番組

実は柯徳三氏は日本で『母国は日本、祖国は台湾』(桜の花出版)と言う本を出版されているが、そこにはこうある。

「今も日本の学校では、台湾のことがきちんと教えられていません。台湾が日本領だったということも、歴史の教科書に書いてはあるけれども、戦争のこともあって、近代史はきちんと教えられていません。教えられるとしたら、日本が悪いことをしたということばかりなわけです。だから、日本人は正しい歴史を直視していないと思います」

「大東亜戦争で、日本人が悪いことをした、悪いことをしたと、一生懸命、何十年も経っても謝っていますが、日本が戦争に突入していかざるを得なかった当時の状況を、日本人はきちんと学ぶ必要があるのです」

日本人のために、ここまで親身に心配してくれている柯徳三氏に対し、NHKはよくも裏切りに出たものだ。それどころかこの番組で、同氏が懸念する近代史の歪曲をやってのけた。そしてそのために同氏を利用した。

柯徳三氏はこうも書いている。

「台湾で育ったことのない日本内地人は、台湾という所に対して別に親しみも何も感じていません。それは無理もないことかもしれません。『台湾は中国の一部じゃないか』と考えている。NHKなどは地図でも台湾と中国を同じ色に塗っています」

中国の台湾併呑の主張にはっきりと従うNHKに、台湾人の人権を尊重するような顔で日本の台湾統治を糾弾する資格などあるのだろうか。

「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」は始まったばかりだが、早くもその第一回で、台湾人の心を踏み躙ることすら厭わない強烈な反日宣伝の意図を鮮明にした格好だ。


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台湾の取材協力者をも侮辱!
国民の受信料で作られた反日洗脳番組に抗議を!

抗議先 NHK視聴者コールセンター  0570-066066
NHKスペシャル「感想・問い合わせ」 http://www.nhk.or.jp/special/

放送倫理・番組向上機構(通称BPO)ご意見送信フォーム
https://www.bpo.gr.jp/audience/send/form.html
総務省・ご意見ご提案の受付
https://www.soumu.go.jp/common/opinions.html



『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html
『日本之声』 http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe (Big5漢文)

なかのひと

日曜日, 4月 05, 2009


正真正名に言って、4月1日の晩にタンクに適量と思われるスズの粒を数個投入した。だめもとでも取り出せることがわかったので、また危険覚悟の実験である。

それからも、結構忙しく、燃費測定までには至らなかったが、日曜の朝遠出をするつもりで、近所のGSに寄ったら、入ったところでエンジンがブスブス言い出した。ガソリンコックはノーマル位置で、満タンにしたら、約18リットル入った。どうやら、フューエルコックも正常に戻っていると、一安心。

それから半日ほど走って見ることにし、16号を使って川越、飯能、正丸峠、秩父と回ってきた。桜と新自作モータロイの調子を見るのが本日の二大メインである。

金曜日に、この辺の桜はほぼ満開になったと思われ仕事の途中で一枚写した。桜のトンネルができたような国道407号であった(鶴ヶ島市内)。

それからは大した風も雨も降らず、開花状態に期待が持てた。走ってみると暖かく、一気に冬から春真っ盛りの感じであった。


満タンでスタートすると、モータロイの数を正規品の規定量にあわせて少なめにしてあるので、効き出した感にあった効果が一旦とぎれた感じがするが、これは経験から見て正常で、投入量が多すぎない証しである。

今朝、寝起きに近くのコンビニで記録用DVDを買いにいったら、RAMしかなく仕方なく買ったが、我が家のパソコンでは書き込めないことがわかり、今度はバイクでもう一軒遠くのコンビニまで往復して4枚単位のものを買った。このときは、暖機なしでも静かでスムーズにまわり
たいへん気持ちが良かった。帰って左右シリンダーの温まり具合を手のひらで触って確かめると、やはりプラグが黒かったと指摘された左シリンダーが右より気持ちぬるめであった。

さて、川越あたりまでは、投入直後のような効果の感じられない走りであったが、飯能を過ぎて山道にさしかかると効果が出て来たような感じ。東飯能駅で休憩し、近くの天覧山とかいう桜の名所にも寄ってみたが、先日の異常な突風で桜は荒らされたようで、例年の感じからすれば今一のようだった。後は、秩父まで見るべきほどの桜には出くわさず、いささか拍子抜けであった。

いつもなら、気温ががくんと落ちるあたりを通過しても、暖かい日和で快調に299号を昇った。さまざまなバイク族があちこちで見かけられたが、下りはまだ時間が早いせいかあまり出会わなかった。
 バイクは快調で音がどんどん静かになっていくように感じられた。ただ、最近になって現れたアイドリング時の左右のハンドルの振動は、今日もかわりがないが、走り出すとほとんど消え(たように感じられ)、肘から下の手が丸い振動で気持ちが良い。この静かさ、おとなしさも正規品モータロイに近い!!、と久々に感じた。
 ほどなく正丸トンネルへ。途中県営のあじさい館とかいう施設で、桜をチェックしたが、ここは完成してからまだ10年もたっておらず、桜は列状に植わっているものの、木がまだ小さく周囲の風景に負けてしまっている。

 トンネルの中は寒く、季節が三月に逆戻りした感じであった。反対側の横瀬あたりも、南の飯能市とトンネルの温度を平均したような感じで少し冷たい感じであった。坂を下りだしたあたりから、エンブレで使っている3000回転あたりで、けっこう振動が出だした。いままで以上に大き目の振動で、ちょっと異常を感じたが、無視して走らざるを得ない。

11時過ぎに秩父の知人宅へ寄り、「飛行物体」の発射の有無などの情報を教えてもらう。そして日本本土に物体の影響がなさそうと判断して、昼過ぎに辞す。私が来たことは、バイクの音質ですぐにわかったそうである。静かなようでいて、けっこう響くことは確か。


秩父から寄居あたりまでは、ほとんど下り坂で、秩父市内を抜けるあたりから、モータロイが実際に効き出しているという実感がする走りになっていく。ローで軽く出て、セカンドに入れたとたん、ガツンと押し出されるような出だしを感じる。ゆるい下りを考慮にいれても、以前の鉛系の悪作用と思われた、あのいやらしい水あめをまとったような粘りはあまり感じないが、排気に混ざる匂いは、まだまだ鉛系の匂いである。
花園インターあたりのGSで給油し、ツーリング燃費を見ると、13キロ弱でなにも変わっていない。それでも、定置燃費を測るべく、いつものコースを目指す。国道にでると、油が切れたように、いままでのモータロイ感がぬぐい去られ、エンジンがガラガラ回る感じにびっくり。

エンブレでなく加速時でも、かなり振動が出るので、2500回転まででやめて走行した。しかし、今日はやたらエンジンの変化が激しいなあ、と思って我慢してスピード控えめで走る。
そうはいっても15キロを過ぎ20キロぐらいはしるとなんだかいつの間にか振動はだいぶ収まり、エンジンがすっと重荷がとれたように軽く回りだした。なんだ、これ!?である。この前はにんじん君を久しぶりに装着したときにも感じたアレである。

アクセルを開けなくても、比較的楽に加速する感じがしだし、3000ぐらい回しても振動はあるのだが、振動らしく感じないスムーズさである。この頃になると久しぶりに長距離を走ったので、首の周りの筋というか筋肉がいたむので、信号で止まるたびに首や肩の運動をしたりして、ふと回転計をみると、長らくいくら温まっても、1100を超えなかった針が1200を指しているではないか。もちろん、メーター真上でみれば、1100ぐらいなのだろうが、ライダーシートからの目線で読むと、確かに一時間もしないうちにアイドリング回転が100回転ほど上昇した。

いくら気温最高の時間帯といえども、風が少し出だして、水温計は午前中より下がっている、というのに。つまり、アイドリング調整をしないのに、回転があがったのは、エンジンの内部抵抗が明らかに減少した、としか考えられないではないか?

それ以降は、ハンダロイを入れる前は、確かこんな感じだったのでは!?と思えるような加速をして、いつもの目的地のGSで燃費を計測したら、ずっと14.15ぐらいだったのが、数日で14.8まで上昇。たぶん、ハンダからくる鉛の悪影響は除去されつつあるようだ。

以前、ハンダロイがあるままで、スズロイを投入したら、だんだんよくなり、14.15から14.8、ついで15.xぐらいまで急上昇したことがあった。手元の記録で見ると、入れた直後は却って悪く、13.6、次に14.0、そして14.8となっていた。そして15.Xあたりで、投入後1000キロを越したらまた、常に溶け出してくる鉛ロイに負けて低下を始めたのだった。スズロイの効果が顕著に出たときは、オイル交換直後でもあった。今回も、鉛ロイ除去後、オイル交換済みである。

まだ新規投入後500キロほどしか走行していない。不思議なスズの力に改めて感心させられた。

なお、CB1300SFに乗っておられる、sho様が、最近リヤスプロケットの歯数を2駒ほど減らしたら、高速走行時、回転があがりすぎず、快調だとのこと。しかし、その後の燃費があまりよろしくない様子だったので、多分スプロケットの歯数をへらしたので、今までどおりの運転を続けると、幾分余計にアクセルを開けていて、それで、すこし燃費が下がり気味なのでは、と余計な心配をしているところである。
http://www.geocities.jp/shonaka2001/

なかのひと

木曜日, 4月 02, 2009



さいきん、八重洲書店に行った折り、福岡伸一氏の最新刊を見たが、買わないでしまった。そのせいか、最寄りの書店で偶然この本がたった一冊売れ残っているのを見たら即買いだ!とレジへ直行してしまった。

福岡氏の書いたものの一部は、拙ブログで昨年の5月に言及した。以来、ずっと頭の片隅に残っていた名前だ。最近なにかと話題に上るようにもなり、テレビでも自説をのべられていた。初版は昨年の10月だから、私が話題にした頃は、この本は書き終わる頃だったのかもしれない。

エピローグで著者は言う。『生物の基本仕様としての女性をカスタマイズしたものが男であり、そこにはカスタマイズにつきものの不整合や不具合がある。つまり、生物学的には男は女のできそこないといってよい』と。

昔、私が20代の頃、テレビなどで中ピ連とかいう女性への種々の束縛解放を叫ぶ女活動家たちがいた時代があった。その代表、榎美佐子氏とか言う、この福岡教授と同じ京大出の活動家は、女性は男子より高等な生き物だというようなことを申されていた。
http://www.youtube.com/watch?v=DyZ_SaaeFFE

女性は尿道は尿道として独立しているが、男性は鳥の総排泄孔のごとく、尿道は尿道としてのみ独立していない、劣った生物だと言うようなことだったような気がしている。福岡教授も同様な指摘をしている。

Y染色体という貧乏くじを引いたばかりに、基本仕様である女性の路線からはずれ、遺伝子の使い走り役にカスタマイズされた男達。このプロセスで負荷がかかり、急場しのぎの変更が男性の生物学的仕様に不整合を生じさせたのである、という。弱きもの、汝の名は男なりで、ボーボアール女史の言い方に沿えば、人は男に生まれるのではない、男になるのだ、とも。

生命が出現してから10億年、大気には酸素が徐々に増え、反応性に富む酸素は、いろいろな元素を酸化するようになり、地球環境に大きな転機が訪れた。気候と気温の変化もよりダイナミックなものになる。(種の)多様性と変化が求められた。

メスはこのとき初めてオスを必要とすることになったのだ、と書かれている。本来、すべての生物はまずメスとして発生する、という。

生物学的な発生経路から言えば、まず割れ目を作り、そこに入り口(出口)をもつ二つの管、ミュラー管とウォルフ管を用意する、という。発生生物学で習った用語だった。もし、発生プログラムがデフォルトのままだったら、ミュラー管が成長し、膣・子宮・卵管などになるという。しかし、発生途中で、男性としてカスタマイズされる因子が挿入されると(本書では、この発見競争のプロセスでのアメリカと英国の先陣争いの経過の描写が見事であるが、・・・)
ウォルフ管が成長を始め射精管、精嚢、輸精管、精巣上体などができる、という。そして、いまやいらなくなった割れ目を閉じるのだという。

尿道が合流したウォルフ管の出口、女性ではここが割れ目になって外界に通じる、という。男性化のカスタマイズは、この割れ目を肛門の側から縫い合わせて膣口を閉じ、左右の大陰唇を閉じて玉袋(陰嚢)を作り、さらに作業を進めるにあたり、小陰唇部分をうまく使って、尿と精子が通過できる空洞を残しながら、割れ目を閉じていく、というのである。

ここで、著者は、男性諸君に各自の持ち物を観察するよう勧めている。棹にあたる部分は、あたかも「たらこ」のような紡錘形の海綿組織を、左右から寄せ合わせたようになっている。私も子供の頃、裏側に手術したような後があることにびっくりしたことがあった。・・・この不可思議にも精妙な形状はすべて女から男へのカスタマイズの過程の明々白々な軌跡そのものなのである、と。

このようにしてみると、著者は例のフェミニズム仮設、女性は尿の排泄のための管と、生殖のための管とが明確に分かれていて、女性のほうが分化が進んでおり、つまりより高等である、という説はあながち間違ってはいないことが分かると。

この本に寄せられた共感の声をみると、いろいろな意味において面白いという。各読者それぞれの環境で、この本の話題を、いろいろ反芻されているようだ。

私もざっと読んだときは、読み飛ばしてしまったが、すると男子のみの皇統を守ってきた天皇の世継ぎ問題も触れて欲しいものだという気がしたが、直接的ではなく、寓話的に言及されていることに、たいへん興味を持った。なお、戦前には天皇制などという言葉はなく、それは戦後の左翼の造語だという説も最近になって知った。

「お世継ぎの価値」という小節は、Yの旅路と題した第9章に書かれている。

『皇統が男系によって永遠に維持してきたもの、・・・その本質は実に今を去ること2700年前、この国をつくりたもうた大王の始祖のY染色体に他ならない。始祖のY染色体に記された刻印こそ、われらの男子皇統によって守るべきものなのである。

もし、女王が大王位を継ぎ、そこへ外部から男がやってくれば?

連綿と護持してきた大王の刻印を持つY染色体はそこで途絶え、代わりにその男がもたらした文字通りどこの馬の骨かわからぬY染色体に皇統がのっとられてしまうことである。それは断じて避けねばならないことである。

むろん、上代の人々はこの尊きY染色体などは知る由もなかった。しかし、伝統とは本来そのようなものである。私たちのたましいは、しらずしらずのうちに最も大切なものを守り通してきたのである。

その言やよし。』

しかし、Y染色体自身は、上述したように男性へとカスタマイズするための指令遺伝子でしかないという。男の本質は、使い走りであり、母の遺伝子を別の娘のもとに運び混ぜ合わせることであったと、書いている。Y染色体自身に神器としての価値はなく、ナノスケールの屋号だ、とも書いている。

なお、津田梅子が留学したブリンマーカレッジは、ネッティという女性研究者がチャイロコメノゴミムシダマシという名の甲虫を実験材料として、性決定の遺伝メカニズムを見たカレッジで、梅子自身もカエルの発生学を研究した、ということが、第二章「男の秘密を覗いた女」という意味深げなタイトルの末尾に記されていた。




なかのひと