月曜日, 1月 30, 2012


先日法事のついでに長い間訪れる事のなかった親戚の家に立ち寄った。子供の頃はその家でよく遊び家に上がり込んで勝手にアルバムなど開いて見たり、当時から購読していたオートバイ誌の古い号などを新鮮な気持ちで眺めていた記憶がある。今は農家も法事は皆会場で執り行うようになり、出会う人々はほとんど知らない人たちである。わずか数名の顔までしか知らないありさまである。それだけ世代交代は進んでいる。たまたま従兄弟の両親もそろっていたので、世間話が弾んだが、昔から気になっていたアルバムを正式に見せてもらいカメラ撮りさせてもらった。

父から聞いた話では、戦中は戦闘機パイロットであり中国上空で陸軍の輸送機の護衛をしていたから死なずに済んだんだと子供心に染み込んでいた。それで、たしか昔見た写真に輸送機の脇で隼らしい戦闘機の風防をずらし、僚機に向かって会釈しているような写真があったなあ〜、と思い出し再度見せてもらったが、たまたま見せられたアルバムは保存があまりよろしくなく、比較的きれいな写真は稀だったし、えっこれだったっけ!?と思う程の変わり様に感じた。まだ別のアルバムもあったはずだと思ったが、時間があまりなかったので別の機会にと思って、めぼしい写真をリストアップした。

今回初めて見た戦闘機飛燕。いきなり出て来たものだから驚いた。イメージとしては初期は97戦、後期は隼とばかり思い込んでいたからである。今回97戦は何枚も出て来たが隼と特定できる写真は一枚もなかった。やはりアルバムが違うのであろう。

飛燕は三式戦と呼ばれる。ここの主も三式戦は、〜と語っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三式戦闘機

スマートな機首のイメージとは違い結構重く、それまでの滑走路およそ2000メートルではよほどの向かい風でない限り離陸は難しく、滑走路を延長するほどだったという。
『愛称の飛燕はアスペクト比の大きい主翼と液冷エンジンゆえのスリムな容姿に因む。1945年1月以降、三式戦装備の本土防空飛行部隊の活躍を報じる新聞記事で使われはじめた。』などと解説にもあるように、終戦末期からの投入のようであり、おそらく最後のアルバムなのかもしれない。このエンジンは『所沢航空発祥記念館で展示されているハ40(上下逆)』などとも出ていた。機会があったら訪問したい。

所沢の航空記念公園の駅前には、YS-11の機体が展示されている。三式戦の機首がYS-11の両翼のエンジンの機首と似ていなくもないが、『参加したのは、零戦を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で隼を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で飛燕を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人たちでした。』とあるように、私の記憶では土井武夫氏のイメージが強い。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-YS11.htm

この搭乗機は97戦だという。この機体は、通常パイロットがいちおう習熟するのに約三月と言われていたらしいが、7ヶ月も訓練に使用されたらしく、97戦には嫌になるほど乗ったなどと
お盆などで戦前の軍医だった親戚などと話すのを何回か聞いている。するときまって、満州の奉天の駅前の‥などとう話しになって行くのだった。このアルバムにも一葉、キリル文字表記の繁華街の喫茶店らしき店が写ったものがあったが、たぶん奉天あたりだったのかも知れない。
『1937年(昭和12年、皇紀2597年)に九七式戦闘機として制式採用された』という。皇紀は2600年という歌が流行ったことは知っているが今の時代はピンとこないが、戦前に中学校を卒業した父の卒業アルバムは、表紙には皇紀が使われていた。各クラブの紹介写真などが今と変わらない感じであったが、時代故か射撃部だけは国防色が強いと感じた。使っていた銃は聞きそびれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/九七式戦闘機

隼やこの機体は、糸川英夫博士を思い出すが、上のwikipediaでは、プロペラ設計に元東大教授
の佐貫亦男博士の名前も出ており、初めて知った。
『本機で初採用された前縁直線翼は、新任技師だった糸川英夫の発案による。主翼前縁の後退角がゼロで後縁の前進のみでテーパーし、翼端部捻り下げのため主桁は軽い前進角を持つ。本形式はその後一式戦「隼」(キ43)・二式単戦「鍾馗」(キ44)・四式戦「疾風」(キ84)の、小山悌設計主務者による一連の中島製単座戦闘機に採用され続けた。プロペラも、糸川と同じく新任技師の佐貫亦男(日本楽器製造)が担当した。』などとある。

糸川博士の書かれた書物には、試作機の評価をパイロット達に聞くのだが、翼に蛸が張り付いた感じがする、というのを聞いてそれを理解して改善して行く苦労などが書かれていた。

糸川博士は、戦後のロケット開発のもちろん大御所だったのだが、経理の不備を指摘されたか何かで任期途中で東大を退官、それで、勲三等までしか行かなかったのは惜しい気がする。

その頃の、糸川教授の仕事の95%は、腰に鉈を下げて日本各地の津々浦々を歩き回りロケット発射基地の選定を行った、という記述は誇張ではないかもしれないと思っている。

当時、東大工学部に入学するのに苦学して5浪や6浪は珍しくなかったという記述も新鮮であった。糸川博士の書物は手元に残らなかったが、佐貫博士の『発送のモザイク』などは今でも残っており、時々眺める。

地方での学生が、都内在住の学生達が今でいう生協の飯など喰えないなどと本郷界隈の洋食屋などに出入りする姿に反発した、などというのを聞くと共感を覚える。

訓練用無線機の説明に東亜電波の名が見える。この名前も今回初めて見たものだが、大学で使った記録計にもこの名前が。その後狭山市郊外の県道沿いでこの会社の工場兼倉庫といった感じの場所を発見。所沢に近い事から戦前からあったのだろうと思った。今朝の朝刊で、富士通元会長の訃報を見た。会長の講演会に学士会館でお会いした。二列程後ろに位置していたため、司会者の会長の姿勢の良さも特筆ものという指摘に、改めて実際に観察できた。会長の講演要旨は手帳にメモした。最後に思い切って初対面の会長に自己紹介をしてしまった。会長は、家内の父と同期でその昔〜を励ます会などにも出席を頂いた折から注目していた。陸士海兵出は入学者の一割以内とす、などというGHQ方針にも関わらず日立の社長などになられた某氏などと一緒に東大を出られ戦後の日本の礎を築かれた。山本会長のご冥福をお祈りする。

陸軍航空兵として、中国大陸で特攻の訓練中、呼び集められ死なずに今後の日本のために生きて尽くすよう訓示を上官から受け、帰国されたという。兄君は実際に特攻に出撃されている。
戦闘機の照準が、エンジンから漏れる油滴などでよく曇り、使い物にならないことがあって、当時からこのままでは駄目だなどと思われた体験談なども話された。特攻に向かった兄君の出撃までの日記の記録だどにも言及された。万一討漏らすことのないよう、機器の整備には相当気を使われた様が記録されているという。このとき、いくぶん声が震えていたように思う。使用していた機種までは言及されなかった。



高校時代の数学の教官に右腕が肩下あたりから無い方がおられたが、当時からプロペラを回してエンジン起動の動作中、逃遅れて負傷された、と思い込んでいたが果たしてどうだったのかいまでも気になる。ノモンハン事変の頃では、当時のソ連機はセルモーターを組み込んでいて、上空からエンジンを停止して滑空しいよいよという時になってエンジンを起動し、日本軍の航空基地を急襲した例などがあったそうだが、ソ連側の戦闘機開発者は更迭されたという。それほど、97戦は格闘戦では優秀であって、翼の先端を何割か吹き飛ばされても、帰還した例なども紹介されていて、親戚の家にあった『丸』などで初めて知った。

固定脚方式は、子供心にも旧型に思われたが、当時描かれた航空画などにも見られるように草原に不時着した友軍機のパイロットを救出した事例は結構あったらしい。これは頑丈な固定脚だからできた技で、その後の主流となった引込み脚だと、折れてしまい不可能だという。戦線に置き去りにする機体は拳銃で着火してから逃げるのだという。そういった教育もされていたのだろうか。

『 ノモハン事変(歴史ではノモハン事件という)を通じての戦果は撃墜したソ連機は総計1,300機に対し我が方の損害は120機(爆撃機を含む)であり、九七戦は10対1の戦いを勝ち抜いてきた。また固定脚の恩恵も大きく大陸の滑走路に30cmも水が溜まる状況でも離着陸できたし、基地飛行場が使えなくなっても大陸の草原に着陸待機したり、不時着した僚機の側に着陸して、パイロットを胴体後部の空間に乗せて帰還するなど素晴らしい活躍であった。』
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/97Fighter.html
『 審査の結果、中島のキ-27が九七式戦闘機の名で制式採用となった。 しかしその後も増加試作10機を製作して各種の実用試験が行われ操縦性にさらに磨きがかけられ、単座軽戦闘機としては世界最高傑作と称された九七式戦闘機に育ったのである。 』などとあるが、この過程で糸川博士が仰られた、翼に蛸がはりついたようだという意味がわからないと操縦性の改良ができないわけで、かなりの試行錯誤もあったに違いない。
http://www.general-support.co.jp/column/columun10.html
父もよく新型戦闘機の発表会などには見物客として臨んでいたこともあるようであり、その様を語る口調は弾んでいたのを思い出す。






































http://www.youtube.com/watch?v=NcTOs9XVUqU

これはYoutube動画からお借りしたものだが、どうして敵機はかくも不格好なのか不思議なくらいである。日本人の美意識は、DNAに組み込まれているのか!?とおもうくらいである。

http://military.sakura.ne.jp/ac/nate.htm
ここにもある通り、一線を退いた後も教育訓練用として使われ続けたようであるから、事によるとかの山本会長も中国大陸で訓練していた頃は97戦を操縦されていたのではないか!?などと思う。それで思い出したが、当時の通信機は、基地では使えるのだが上空に行くと使えない(届かない)ようなシロモノでそういう点を含めて何とかしないと駄目だったようだが、一説によると富士通入社は教授の指導によるものらしい。

そして最後はコレ!!!
http://quasimoto.exblog.jp/16781241/






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火曜日, 1月 24, 2012


雑誌WILLの二月号から巨弾新連載シリーズとして、『誰が「南京大虐殺を」を捏造したか 1』
が掲載された。フリージャーナリスト古荘光一氏による作品で、おおきな世界史の流れの中で見なければこの"事件”の真相は分からない。中国共産党の嘘とデタラメを徹底検証!とあり、新資料続々発掘などというサブタイトル群が並んでいる。

著者は1940年の生まれだそうである。例の先の一川防衛大臣が1942年生まれで、ほぼ同世代ということに。私の誤解と偏見からこの時代の方々は、戦前の教育を刷り込まれかかったところに、終戦で教師たちの態度が180度変るという体験を目の当たりにして育った世代ゆえ、大半が
東京裁判史観に塗り固められ、さらに共産党が大きな顔をして皇居前広場などを練り歩いていた時代背景を背負っていて、まあ、戦後日本のゆがんだ時空を代表する、困った世代と信じていたが、それははやとちりだったかも知れない。

いまさら、南京大虐殺はなかった、といっても数年前まではかなずしもそういえる雰囲気ではなかったかもしれないが、今はこのデタラメ説のよってきたる背景を解き明かそう、という時代となった。まさに近代史は歴史科学であり、日々検証と考究がなされ続けている魅力的な分野ということになってきたのである。私のいた大学にも、その方面の猛者とも数え上げられていた教授がおったが、今ではまずお目にかかれない。東京裁判史観にそった言説をなしていた
例としての傍証程度の存在といったら、失礼ながら過言だろうか!?

過去にこの件に関しては、渡部昇一上智大名誉教授と昭和史研究家としての秦教授の論争を紹介したことがあったが、もちろん筆者は渡部説信奉者であり、渡部教授説を暴言呼ばわりするかに思えた秦教授は、渡部説の真の意味をまだ理解していないおかただな~と思っていたが、また偽本と分からずそれを高評価して自著にさんざん引用しまくった秦教授は、本来の文筆活動家なら、筆を折るべき、とまで追求されていたのがいまだに印象的である。果たして、今回のWILL記事や今後の新事実などの発掘解明にあたって、どのような対応をとられるのかたいへん興味が持たれる。まあ、ちらりと見た限りでは、過去の日本側研究者!?(肯定派)などは研究対象にも入っていないようなので、その点では皆さん安心であろう。

「南京大虐殺の」の捏造は、ルーズベルトを操るため、蒋介石がアメリカ国民に向けて繰り広げた一蓮のプロパガンダの一部である。
これが今号の一番大きな収穫でであると思う。

三悪人に操られた大統領という小節中にある。三悪人と名指しされたのはチャーチル、スターリン、蒋介石であり、中国人の嘘つき能力のすごさについてもかなりの紙数が費やされている。

特に蒋介石にだまされて、ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃の五ヶ月ほど前に中国基地からの米軍機による日本爆撃計画を承認しており、それを承認したとする陸軍長官と海軍長官の連名の手紙が、アラン・アームストロング著 『幻の日本爆撃計画』なる書物に写真として掲載されている、という。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1946_tokyo_saiban.html


昨年改めて出先での空き時間にスマートホンで調べたら、数年前までの常識を覆すようなことまで書かれていた。東大にいたことがある横田某なる教授のことである。この教授の孫が、小泉内閣時代の少子化担当大臣であった、某女史であだ名は姫〜だったという。横田氏は、軍関係の学校を受験して失敗し、しかたなく東大へ行って反軍、反日教官となりGHQに取り入り、東京裁判で無罪者も出そうで連合国としては開催への逡巡が有ったところへ、日本人自らが連合国側を勇気づけるような出版をして、喜ばせたという。

東京裁判は、上のサイトにも出ているように、
『現在、国際法学者の間では、この「裁判」は完全に否定され、不法なものであったということが定着している。裁判に加わった多くの判事も帰国後、裁判の不当性、違法性を証言している。現在、この茶番劇(東京裁判)の判決を信じている者は日本人くらいといわれている(自国の政権に捏造された歴史を強制的に学ばされている支那、朝鮮、ロシアなどはもちろん除く)。』

などと言われている。

南京大虐殺などということを宣伝し始めたのは昭和19年になって急に米軍(米国)が宣伝し始め、東京裁判風舞台仕立てで米軍が被害者の概数などを提出し、中国側の証言などは証拠とされなかった。たしかその数、19万人程度だった。米国のやり方の典型的悪例の見本だろう。

『その後、支那政府がアメリカで展開した「対日屑鉄輸出禁止」運動に関する文献を入手した。それによって、「南京大虐殺」をでっちあげた支那側の動機ないし直接の目的が「対日屑鉄輸出禁止」運動にあったことが判明した。』などとあり、ティンパーリが書いた「これが戦争だ」に南京YMCAの専務理事だっフィッチ宣教師夫妻が熱心な蒋介石の宣伝マンとして活躍し、ティンパーリに原稿を渡したと日記に書いている、ような所までわかってきているそうだ。

『そして、東京裁判が終わって2年経つか経たないかのうちに、朝鮮戦争が起こった。その前には蒋介石政権が崩壊している。あっという間に、支那もモンゴルも満洲もシベリアも東アジア全大陸が共産主義になった。
日本が言ったことが正しかったのだ。マッカーサーはそれに気づくのが2年遅かった。だから朝鮮戦争が2年半早く始まっていれば、東京裁判は日本を裁くことができなかっただろう。日本の一番の主張が証明されたわけだから。
朝鮮戦争が始まるや否や、アメリカもマッカーサーも日本の主張が正しかったことに気づいたので、即、サンフランシスコ講和条約を結んだのだ。  』などと上述のサイトには書かれている。

また、今見たと所ではこんな記述も見つけた。
『いわゆる「南京大虐殺」というものは、今では「南京大虐殺という概念は、朝日新聞社がねつ造して作った」ことが事実であったことも分かっている。1970年代当時、朝日の記者であった本多勝一社会党の田辺誠書記長が中国と仕組んでやったことが真相であると知られている。
靖国問題、南京大虐殺、従軍慰安婦、教科書問題 実は朝日新聞記者の捏造が発端
中国の政治的強行カードとして「南京大虐殺」と騒げば、日本政府をどうにでも動かせるという、「切り札作り」のために仕組まれたものであると考えられている。
(アジア人よ、目を覚ませ!:「握り拳と握手はできない」マハトマ・ガンジーの言葉)

事実、「ふぐ計画」という本を書いた、ユダヤ人ラビのM・トケイヤー氏は、中丸薫氏との対談で、当時日本政府が中国に多くのユダヤ人を呼び込んで発展させようしたという「ふぐ計画」の下で、中国南京にいた多くのユダヤ人たちの証言から、いわゆる「南京大虐殺」はなかったという話だと証言している。』
http://quasimoto.exblog.jp/15416412/
http://gamen.blog68.fc2.com/blog-entry-51.html

宮崎正弘氏の12月9日のメルマガから、読者の声の一部。
『~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  読者の声 どくしゃのこえ DOKUSHANOKOE 読者之声
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
(読者の声1)東京裁判で日本侵略者の判決を下してからわずか2年半後の1951年5月3日、その最高責任者であったマッカーサー元帥は、上院軍事外交委員会において、「彼らが戦争に飛び込んで行った動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだったのです」
と証言しました。日本の真珠湾攻撃は正当な「自衛権」の行使であることを認めたわけです。
実は、経済封鎖は戦争行為であることはパリ不戦条約作成者の一人であるケロッグ国務長官が上院軍事外交委員会で明確に認めていました。(何と真珠湾攻撃の丁度13年前の12月7日でした
即ち、アメリカの経済封鎖という「戦争行為」に対して日本は自衛権を行使したのです。
アメリカの日本に対する戦争行為は経済封鎖に限りませんでした。アメリカは中国を通じて日本の本土爆撃を行う計画を立てていました。大統領補佐官ロークリン・カリ―(べノナ文書でコミンテルン工作員であることが明らかとなっています)が推進者となって陸海軍合同委員会でまとめた日本本土爆撃計画JB355が大統領に提出されたのは、真珠湾攻撃の5か月前の7月18日でした。
ルーズベルトはこの日本攻撃計画にOKのサインを7月23日にしました。

「戦争を起こしたのはアメリカである」(茂木弘道)
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/THE-US.pdf
は、『伝統と革新』(たちばな出版)の最近号(第6号)に掲載されたものです。ここにルーズベルトがJB355計画に承認のサインをした文書のコピーが載っています。
アメリカは日本に対する先制攻撃の決定を日米交渉のさなかに行っていたのです。
本論文の英訳を発信する会のサイトにアップロードし、また Newsletter で下記の通り海外のマスコミ、学者等4000余にメール送信しました。
Summary: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/82_S2.pdf
Full text: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/82_S4.pdf
(発信する会 茂木弘道)


(宮崎正弘のコメント)本来なら国家がおこなう事業を展開されているご努力に脱帽します。ますますご活躍されますように



  ♪
(読者の声2)大東亜戦争開戦、真珠湾攻撃の日に一言述べさせていただきます。
東日本大震災で見せた日本人の「危機にあってなお節度ある行動」、「自らの難儀を顧みず周囲を思いやる心」、これが日本人の民族性の本質です。
自国の苦しみにあってなおアジア諸国の難渋を救おうと立ち上がった日本、決して他の国々を苦しめるために開戦したのではないことを止むに止まれぬ開戦であったことを誰よりも日本人自身に認識していただきたいと願っています。
ましてや30万人もの人を虐殺するなど日本人の民族性が許さないでしょう。改めて先祖たち、先輩達に感謝し、先人を辱めないことを肝に銘じるべきと思います。
  (HK生、大阪)



  ♪
(読者の声3)日米戦争の原因についてアメリカの中国市場や満洲に対する野心があったといわれます。アメリカは1930年代、日中の戦いが続いている間は蒋介石を支援し、上海事変など国民党のデマ宣伝に加担。蒋介石のスポークスマン宋美齢が訪米するや絶大なる人気で中国かわいそう、日本けしからん、の世論をつくりあげていく。ところがヤルタの密約で満洲の利権はソ連のものに、さらにアメリカの支援は国民党から共産党へと変化していく。
日本敗戦以前から共産党寄りの政策に舵を切る米国、ウェデマイヤーの報告では蒋介石を評価しているのに、マーシャルを中心とする国務省は徹底的に共産党寄りの政策を進める。
ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」を読むと第二次大戦期のアメリカ政府中枢・周辺にいかに「ソ連の友人」が多かったかがわかります。
中国大使が内定していたウェデマイヤーは中国共産党の反対で赴任できず、国民党軍はアメリカからの補給が途絶えトラックの修理もままならない。大連港はソ連に押さえられ国民党軍は満洲に上陸できない。
宋美齢が支援を訴え再度訪米するも冷たくあしらわれる。
国民党優勢時にはマーシャルに停戦を強要され、その間共産軍はソ連・旧日本軍将校による軍事訓練を受け、膨大な軍事物資を手に入れる。米軍艦艇が共産軍機に攻撃されても文句一つ言わない。それどころかアグネス・スメドレーオーエン・ラティモアなど、左寄り文化人を利用した共産党賛美の大合唱。
ウェデマイヤーの中国視察報告書が二年間も放置され、いよいよ国民党が劣勢になるとさすがに米国議会もおかしいと思い蒋介石への支援を議決するのですが、そこは国務省、徹底的に骨抜きにする。戦争が終わり余剰となった武器は格安で払い下げられていたのに、蒋介石への援助物資は通常の5倍から10倍以上の価格とされ、さらに業者選定などに制限が加わり、武器が輸出されるころには国民党は大陸から追い出されていた。
日米戦争の主因ともいえるハルノートも穏健な「ハル試案」から強硬な「ホワイト試案」に変えられ戦争は決定的となる。そのハリー・デクスター・ホワイトはソ連のスパイとされますが、そのホワイトを擁護するのがアチソン・マーシャルのライン。
アメリカは中国を失い、さらに朝鮮も失うところだったところマッカーサーが押しとどめる。
その極東米軍は補給がままならず、太平洋の島嶼部から遺棄兵器をかき集めたとまでいわれます。日本の補給能力がなければ朝鮮半島は赤化していたことでしょう。
マッカーサーはマーシャルに操られるトルーマンにより解任。1880年生れのマッカーサーはウェストポイントに主席で入学、抜群の成績で1930年、史上最年少で陸軍参謀総長就任。
一方、同年生れのマーシャルは出世もおぼつかなく、1933年パーシングに掛け合い、なんとか連隊の司令官に大佐で任命されるも、彼が指揮した一年間で最精鋭部隊であった第8連隊は最悪の部隊に転落したと査定されたことを受けたマッカーサーは、彼の昇任はないとパーシングに伝えた。これが後年、マッカーサーに対する彼の恨みとして残ることになる
http://chatky.iza.ne.jp/blog/entry/2232271/

軍歴に乏しいマーシャルはニューディール政策での失業救済事業で頭角を現し、ルーズベルト夫人の知己を得るなど、末席の取締役が社長になるほどの大抜擢で陸軍参謀総長に就任。数十人の記者の質問を最初に全部聞き、次いで質問者の顔を見ながら、すべての質問に答えるというあたり、頭の回転が早く、議会や新聞記者の受けがよかったとされるところです。米ソの対立といえば欧州戦線のパットン将軍は大戦末期、ソ連の脅威に対しドイツ兵に武器を与えソ連と戦うべき、と主張しました。
「第六感」と「輪廻転生」を信じていたとされ、実際に死ぬ運命まで予知していたという。
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha811.html
『私が朝鮮半島でしたこと』(松尾茂著、草思社刊)
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~asakyu/a_jouhou/a0205_22.html

には昭和21年9月当時の朝鮮半島北部の様子が描かれています。
日本の敗戦から一年以上経っても日本円(朝鮮銀行券)が流通し、朝鮮人が中国人農民部落を襲う計画を中国人に伝えるや翌日には中国人農家に「晴天白日旗」が掲揚される。(戦前の朝鮮に中国人農民がいたという話はこの本ではじめて知りました)
その中国人が言うには、「今はアメリカやソ連などの白人が大手を振るっているが、いずれ東洋は東洋人が治める時がくる。だから日本人を決して粗末に扱ってはいけない」といった内容の演説を蒋介石がラジオでしていたという。蒋介石はヤルタにも呼ばれず、すでに梯子をはずされた状態、蒋介石の胸中や如何。息子がソ連の人質でなければ日本との早期講和もあったかもしれません。

マーシャルやアチソンがソ連寄りとも思える政策を実行した背景がソ連の工作によるものなのか、それとも当時のアメリカの政治状況で出世に有利だったからなのか、いろいろな見方ができると思います。
アメリカとソ連の繋がりについてはロシア系ユダヤ人で共産主義者でもあったアーマンド・ハマーが米・ソ要人の多くと個人的に親しく経済的にも大きな利益を得ていたことを思い起こさせます。ソ連崩壊後は米中の接近と対立が繰り返されるような展開ですが、中国の指導者の子弟はみな米国に留学しているし、海外に巨額の財産を逃避させている。米中対立は本当かもしれないし、対立に見せかけた出来レースなのかもしれません。
米中が結託しようが戦争になろうが、どちらもシナリオの一つとして日本が対応できればいいのですが、自民党も民主党もまったく心もとない。軍事オタクの石破茂はF2戦闘機のラインを止めてしまったし、民主党は国防政策などないに等しい。
中国でもバブルがはじけ鉄道建設がストップし、給与不払いにしびれを切らした鉄道作業員が、レールをひっぺがして“差し押さえ”。あるいは流民化した元鉄道作業員による犯罪など治安が悪化しているという。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111202-00000500-sspa-soci
2012年以降の世界は指導者の交代と経済の混乱、いつどこで内乱や戦争が起こってもおかしくない時代になりそうです。
  (PB生、千葉)
 
 ――読者の声欄は下段に続きますーー 』
‥‥

同12月12日 宮崎氏のメルマガより
『 読者の声 どくしゃのこえ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
(読者の声2)黒宮広昭・米インディアナ大教授(ソ連政治史)がロシア情報などを基に、関東軍第23師団の小松原道太郎師団長がソ連のスパイだった可能性が大きく、関東軍はスターリンの巧妙なわなに陥れられたとの新説を唱えたので、騒ぎになっています。
 そこで以下ご参考まで。
 張作霖暗殺事件の河本がソ連工作員の手先らしい、となってから、そこら中でスパイ警戒が叫ばれるようになったのは良いことです。
しかしこれはどうでしょうか。事件の動機や経過がソ連崩壊後に分かった史実と違うからです。黒岩教授がロシアや中共のスパイという可能性だった否定しにくいことにもなりかねません。

1.事件の動機論:ノモンハン事件はソ連が準備しソ連が挑発した事件であることはソ連資料で明らかです。いまさら日本の挑発は古すぎます。
 日本軍がソ連を攻撃したと言う説に対して、元ソ連の将軍は、「支那事変で苦しむ日本軍がソ連を攻撃すると等という主張は、よほどの馬鹿か間抜けしか思いつかない愚論である」と片づけています。また偶発で始まった戦争ではありません。近代戦は補給戦であり、小競り合いで始まる戦争などありません。勿、論指導者の冷厳な戦略があります。

 2.ソ連の準備:ソ連軍は1939年2月ごろからシベリヤ鉄道から一千キロも離れた、ノモンハンの原野に20万の大軍、数千輌の戦車、軍用車、一千機以上の飛行機を集めて、攻撃を準備していました。その上でモンゴル騎兵を使った越境挑発してきたのです。
日本軍は当然反撃しました。どこの国でも同じです。するとソ連は計画通り戦闘を拡大してきました。始めから計画的だったのです。

3.経過:ノモンハン事件は1939年の5月に発生し、9月に終わりました。日本は1937年の支那事変の終息に必死の努力をしていました。ソ連と戦う気などありませんでした。
支那では蒋介石は敗北を続け、ソ連は蒋介石が日本と講和することを恐れていました。満洲狙いで蒋介石を支援していた米国もそうです。
そこでスターリンは蒋介石を督戦するために1938年には張鼓峰事件で日本軍を挑発し、そしてノモンハン事件を起こしたのです。
それだけではなく、西部のナチスドイツとの9月のポーランド分割に備えた東部国境の牽制策でもありました。だからスターリンはノモンハンでは緒戦は敗北しましたが、分割の迫る8月下旬には日本軍の十倍の戦力で攻撃してきました。
このため日本軍は大打撃を受けたのです。しかしスターリンはポーランド分割が迫っているので、ヒトラーの仲介で講和しました。
予定通りだったのです。

4.小松原師団長スパイ説の疑問:もしスパイならソ連へ逃げていたでしょう。しかし自決に近い死去をしています。こうした馬鹿げたデマはソ連が得意とするところです。西安事件も日本がやったと報道しました。
そのうち東條首相はスパイだったなどと言い出す可能性もあります。謀略の世界では、スパイだといっているものが実はスパイということもあり、合理的な理由がない限り信用しないことです。そのために歴史の勉強が必要です。

5.ソ連スパイ:ただし日本にはゾルゲが既に侵入しており、当時世界の軍事筋では日本軍の軍事力はソ連が一番良く知っていると言われていました。
スパイが関東軍にも入っていたことはあり得ます。戦前の世界では共産主義の正体を知らず、ソ連にあこがれた人が多かったのです。

6.ソ連の資料の信憑性:ソ連の資料は謀略用の資料もあるので簡単には本気にできません。前後の歴史の合理性で確率的に把握することが必要です。

7.日本軍大損害説:日本は前半で圧勝しているので8月攻勢で打撃を受けても、ノモンハンは総計で見ると勝っています。これが勝った、負けたの誤解の理由です。
 スターリンはソ連軍の大敗に怒って、ジューコフを殺そうとしましたが、ジューコフは身代わりにシュテルン大将を差出し助かりました。ジューコフが一番恐ろしかった戦争はノモンハンといったのはそのためと思われます。
ソ連が、日本軍は兵士は優秀だが将校は無能だといったのは、日本軍の分裂を狙う定番の謀略ですから、騙されないこと。日本軍は上下ともに実に優秀であり勇敢でした。

8.ハニートラップ:ソ連の情報機関は工作に美女を使った。24時間フル・アテンドです。理由は費用安くて効果的だったからと言います。
これに英国の将軍が引っ掛かりました。ただしナチスの将軍には通じなかった。ある将軍はソ連視察旅行で散々アテンドを楽しみ、写真を撮られましたが、帰国後恐喝に乗らないので、ソ連諜報部がゲシュタボに流すと「元気でよい」ということでお咎めなし、だったそうです。
文化が違うのでしょうか。

9.特務機関: 英国のMI5です。米国のCIA,ソ連はkGBとGRUの2系統。国家必須の情報機関です。ノモンハン事件当時、日本はソ連とは戦争状態にはありませんでした。当時、満洲ではハルピンのソ連領事館の通信担当者が日本側に接触してきました。そして重要情報を漏らしたのです。これに対して日本側も何か与えたのでしょう。諜報の前線ではギブアンドテイク(えび鯛)が常識です。
ただ、菅沼光弘先生の講演によると、1939年8月20日のソ連の大反撃については、偽情報だったそうです。
したがって日本の満洲の特務機関の提供した資料があったとしても不思議ではありません。それだけではスパイではありません。なお、黒岩説は史実が全く誤っていますので、出鱈目です。

ウィキぺディアを正す必要があります。
特に太平洋戦争2年前と言いながら、支那事変中と言わないところが不自然です。支那事変中だと誰もがソ連を攻撃するわけがないと気づくからです。こうしたところも謀略誘導では非常に重大です。

参考:ウィキペディア情報:
「太平洋戦争勃発の2年前の1939年、当時の満州国西部国境で日本の関東軍がソ連軍と衝突、大損害を被ったノモンハン事件について、黒宮広昭・米インディアナ大教授(ソ連政治史)が日本とロシアの公文書などを基に、関東軍第23師団の小松原道太郎師団長がソ連のスパイだった可能性が大きく、関東軍はスターリンの巧妙なわなに陥れられたとの新説を唱えている。 
小松原師団長は陸軍大学校卒で、満州国が建国された32年から約2年間、ハルビン特務機関長を務めるなど主に情報畑を歩んだ。38年に第23師団長に任命され、満州北西部ハイラルに駐屯。39年5月にノモンハン付近で発生した小競り合いに独断で部隊を出動させ、大規模紛争のきっかけをつくった。ソ連は周到な準備で機械化部隊を投入、同師団に壊滅的打撃を与えた。
黒宮教授が米誌「スラブ軍事研究」12月号に発表した論文によると、小松原師団長は在モスクワ日本大使館付武官だった27年、ソ連情報機関による「ハニートラップ」(女性を使って弱みを握る工作活動)に引っ掛かり、ソ連の対日情報工作に協力するようになったとみられるという。
ハルビン特務機関長時代には多くの機密情報がソ連側に漏えいした形跡があり、ロシア国立軍事公文書館などにそれを裏付けるファイルが保管されている。小松原師団長に対するハニートラップ説はロシアの研究者が唱えていたが、黒宮教授は最近、この研究者にインタビューし、ソ連の元防ちょう機関員(故人)が情報源だったことを確かめた。
  (東海子)


(宮崎正弘のコメント)とくにウィキペディアの歴史、政治、思想などの分野は、左翼が混入して書き殴っているので要注意。出鱈目な情報がたくさんあります。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 』
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月曜日, 1月 23, 2012

昨年12月8日の宮崎正弘氏のメルマガでは、とうとう西尾幹二氏の解説が載った。


『 真珠湾攻撃から70年 開戦記念日に読むべき格好の書籍はこれ!
  米国の反日ルーズベルト政権は、最初から日本をだまし討ちにする積もりだった

  ♪
西尾幹二『GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


 FDR(フランクリン・ルーズベルト大統領)を「日本を戦争に巻き込むという陰謀を図った狂気の男」とフーバー元大統領が辛辣に批判していた事実が、ようやく明らかになった。
この大統領のメモは米国内で、ながく禁書扱いを受けていたからだ(詳しくは産経12月8日付け紙面)。
 小誌読者の多くには、いまさら多くを語るのは必要がないかもしれないが、大東亜戦争は日本の自衛の戦争であり、米国との決戦は不可避的だった。直前に様々な和平工作がなされたが、それらは結果的に茶番であり、ルーズベルトその人がどんな謀略を行使しても、日本と戦争しなければならないという確固たる信念の持ち主であったから、戦争回避工作には限界が見えていた。

 開戦の報に接して太宰治は短篇「十二月八日」のなかに次のように書いた。
「早朝、布団の中で、朝の支度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞こえて来た。
 『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』
 しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の射し込むように鮮やかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いている裡に、私の人間は変わってしまった。強い光線と受けてからだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」

 ほとんどの国民がそういう爽快感を抱いた。後知恵で軍部に騙されたなどとする戦後進歩的文化人の史観は嘘でしかないのだ。

 それにしても、米国はなぜ対日戦争を不可避的と考えたのか。それはマニフェスト・デスティニィにあることを戦前のジャーナリスト、学者、知識人の多くが把握していた。この第六巻では、読売新聞の斎藤忠の著作などを西尾氏は引用されながら、こう総括される。
 「アメリカのこうした信仰は、裏返せば、ナチスとおなじではないでしょうか。アメリカはナチスを憎むといっているけれど、私たち日本人から見れば、ナチスそっくりです。ヒットラーといちばん似ているのは東条英機じゃなくてルーズベルトのほうではないでしょうか」
 その比喩を西尾氏は最近鑑賞された映画『アバター』と結びつける。
 「地球人が機械化部隊でもって宇宙にある星の自然を破壊する。地球人は飛行機で戦い、宇宙人(アバター)は弓矢で迎え撃つ。まさに西部劇そっくりです。西へ西へと向かいアジアを破壊しつづけたアメリカ人の根本の衝動には変わらぬものがあり、彼らの想像力もまたつねに同一です。大事なポイントはその星にすばらしい巨大な樹木があって、その一本の巨木を倒してしまえば宇宙人は全滅してしまうというのがモチーフの中心にあります。つまり、その星のすばらしい樹木はわが国の天皇のようなものなのです」


 ▲日本は最初から最後まで聖戦と貫いた

 西尾さんが本巻に引用された斎藤忠さんは、国際ジャーナリストとして戦後も活躍したが、昭和四十年代にジャパンタイムズの主筆をつとめておられた。背丈こそ低いが古武士のような風格、片方が義眼で伊達政宗風のひとだった。
というのも、じつは評者(宮崎)は品川駅裏にあった同社に氏をよく訪ねて国際情勢の解説を聞いたり、学生の勉強会にも数回、講師として講演をお願いした。その浪花節調の明確で朗々たる講演の素晴らしさに感銘を受けたものだった。あの論客の戦前の作品が復活したことは喜びに堪えない。

 そして西尾氏は、米国の壮大なる徒労をかくまとめられる。
 「アメリカはいったいなぜ、また何のために日本を叩く必要があったのでしょう。戦争が終わってみれば、シナ大陸は毛沢東のものになり、共産化してしまった。アメリカが何のために日本を叩いたのか、まったく分かりません。アメリカのやったことはバカとしかいいようがありません。あの広大なシナ大陸をみすみす敵側陣営(旧東側陣営)に渡す手助けをしたようなもの」で、まことにまことに「愚かだった」のである。

 しかし、この米国の病、まだ直る見込みはなく、ベトナムに介入して、けっきょくベトナムは全体主義政権が確定し、またイラクに介入して、イラクはまもなくシーア派の天下となり、アフガニスタンに介入し、やがてアフガニスタンはタリバンがおさめる「タリバニスタン」となるだろう。愚かである。』などとなっている。

そして、翌日の12月9日号では、こんな記述がある。

  ♪
(読者の声3)貴誌3504号の<読者の声1>の小生(GV2)の記載内容に若干の錯誤の内容がありましたので訂正とお詫びです。
12月4日封切りの映画(山本五十六)と書きましたが、翌日の産経新聞では12月下旬となっていました。
  (GV2)


(宮崎正弘のコメント)この映画、半藤一利原作ですね。用語も「太平洋戦争」。最初から史観が誤っていて、原作があのバカときたら、見る気力がおきませんが。。。。。』

どこかで昭和史関連の三馬鹿という噂を聞いたが、だいたい世人の評価は私の日ごろの感想と差がない。宮崎氏のいわれるあのバカは、もちろんその三馬鹿に入っております。東大出の悪い方の見本かも。
http://unkar.org/r/history2/1284302400

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この毎年恒例とも言える特集記事、昨年の12月8日(アメリカでは12月7日)に出たのだが準備不足で即日書込みを断念せざるを得なかった。1月になっても思うように時間が取れずズルズルと今日まで来てしまった。

宮崎正弘氏のメルマガを購読しているがこれを毎号読んで気になるところはメモを取り、系統的に整理する、というようなことをすればかなり歴史や現代の世界情勢を見通す力はつきそうにも思うが、何せそkまでの余力がない。

軍事評論家の鍛冶俊樹氏がはやくも昨年12月6日に彼のメルマガで民主主義の戦争を発表された。
鍛冶俊樹の軍事ジャーナル
第40号(12月5日)
*民主主義の戦争

その中で最後に『もし中国が台湾に侵攻すれば、米国は台湾の独立を守るために戦わなければならない。そう約束しているし、アメリカ合衆国建国の理念にも適う。つまり民主主義を守るための戦争である。だが民主主義が平和をもたらすというテーゼは崩れる。民主主義のジレンマである。』としている。

そして台湾選挙の行方は、米国の台湾での戦争を回避する結果となったが、
鍛冶俊樹の軍事ジャーナル
第49号(1月15日)
*台湾は併合されるのか?
では、
『 昨日の台湾総統選は独立派の女性候補が敗れ、親中派の現職の続投が決まった。昨年末においては独立派優位であったが、中国の露骨な選挙干渉が功を奏し逆転した。問題は、米国が民主主義の危機とも言える中国の干渉を黙認した点だ。
 実は米国の黙認は単なる気紛れや怠慢ではなく、巧妙に仕組まれた戦略に基づいている。昨年10月、米誌フォーリン・ポリシーにヒラリー・クリントン米国務長官の論文”America’s Pacific Century”が掲載された。日本の新聞ではこの題名を「米国のアジア太平洋戦略」と訳したりして紹介していたが、注目度は低くこの論文の持つ戦略的意味を正しく伝えていたとは言い難い。‥』などと書かれている。

そして結論は
『 かくして今回の台湾総統選の結果は、米国が台湾を中国に売り渡した事を立証した。今後、中国による台湾統一工作は着々と進み、数年後には併合されるかもしれない。もし中国が台湾を併合すれば、そこに海軍と空軍の基地を作る事は間違いない。
 米国としては、台湾と眼と鼻の先にある沖縄の米軍基地を維持するのに危険を感ずるようになるだろう。沖縄から撤退するとなれば、その他の在日米軍基地を維持し続ける利点が失われるから結局、在日米軍の撤退につながるだろう。
 今回の選挙の意味合いは日本にとっても大きいのである。』と結んでいる。

で、今日の政治ブログランキングで7位にランクしている『ねずきちの ひとりごと』の1月19日付けの記事では、動画とともに『上の写真は、市丸利之助(いちまるりのすけ)海軍中将のことを書いてみようと思います。
市丸中将といえば、「ルーズベルトニ与フル書」が有名です。』などと書かれている。
http://nezu621.blog7.fc2.com/
市丸中将は硫黄島でまともに闘える将兵を集めたところ196名しか残っておらず彼らとともに
最後の突撃を行って戦死された方とのことである。制服の階級章はすべて捨てての突撃であり、和文、英文の『ルーズベルトニ与フル書』を部下の二名にそれぞれ身につけさせ米側に必ず届くよう手配されての出撃であったという。

これを読むと米国に追い立てられて日本が止むに止まれず開戦の決断をした当時の背景が色濃くにじんでおり、和平努力をしていると見せかけていたルーズベルト政権の欺瞞が浮き彫りにされるのである。

話しがまた昨年に戻って宮崎正弘氏のメルマガに戻る。
既に12月6日の記事に読者の声として
『   ♪
(読者の声6)貴誌通巻第3506号(読者の声1)でちゅん氏が「著名な漢字学者、白川静が日本の真珠湾攻撃を評した言葉(そのままではありません)がある『真珠湾だけで引かず、パナマ運河を破壊して大西洋から太平洋への通路 を塞ぎ、更に西海岸の都市を爆撃すれば緒戦の戦果はもっと上がった筈だ』> 漢字学者であってもこのような戦略を描けるのに山本五十六は何を考えていたのだろうか」と書かれましたが、まったく同感です。
ただし、歴史を含む過去に起こったことに「もし」とか「。。。ば」はむなしい議論になりがちです。それを知った上で敢えて、私が総理大臣であったどうするかを書かせていただきます。
まず、海軍は、陸海軍合意の大本営の既定戦略である南方作戦を反故にした真珠湾攻撃作戦を総理にも陸軍にも12月1日の御前会議まで秘密にしていました。御前会議の席上で驚きと怒りぐっとこらえて、以下の通り発言します。
ハルノートの内容は日本がのまないことを知った上での実質的な宣戦布告である。しかし、ルーズベルトは参戦しないことを公約にして当選したのであり、米国では宣戦布告は大統領ではなく議会が行なう。いたがって、内外の記者を集めて、ハルノートを公開した上で、日本政府の方針を以下のとおり発表する。
1.ハルノートの内容は日本がのまないことを知った上での実質的な宣戦布告である。
2.ルーズベルト大統領は参戦しないことを公約にして当選したのであり、米国では宣戦布告は大統領ではなく議会の権限なので、この宣戦布告は無効である。
3.大日本帝国は、米国議会がハルノートによる宣戦布告を承認するか否かの回答をいまから2ヶ月間待つ。
4.米国議会からの回答が昭和16年の立春までにない場合、米国議会がハルノートによる宣戦布告を決議したものと見なす。
そのうえで、12月13日戦艦大和の完成を期に呉で内外の記者を招待して、大和を公開します。さらに、翌昭和16年1月に戦艦武蔵が完成したときにも同様にします。そして、大和、武蔵をはじめ太平洋艦隊の総力でハワイを目指します。これで、米国海軍は大統領に対日戦は不可能であると報告して、開戦を避けられます。
万一、米国政府がハルノートを引っ込めない場合は、逃げたと国民に思われるわけにはいかないので、空母を隠すどころか、大西洋艦隊までもハワイに廻し、全て木っ端微塵となります。8000メートルからの大砲の命中率、日本海軍20%、米国海軍3%。この錬度の差と航空戦力の差で日米戦はおしまいです。
奇抜すぎると思われるかもしれませんが、山本五十六ではなく、黛治夫を太平洋艦隊司令長官として軍令部長を兼任させればこうなったことでしょう。
しかし、さらに上策がありました。それはソ連のノモンハン侵攻のとき、ソ連に宣戦布告して航空戦力を駆使して徹底的に撃破して、モンゴル開放まで行なうことです。そうすれば、当時ソ連の援助で成り立っていた国共合作政権は崩壊していました。米国が介入する余地もなくなります。
「たら、れば」の話は終わりにして、ここ一週間円の対ドル為替相場が安めになっています。これで、為替介入の効果があったと安住財務大臣が思っているのなら、相当のオタンチンです。ユーロから回避した投機資金が円に行く前に、まず米国財務省債権に向かっただけです。それが証拠に日本の長期国債の利率が上がって、米国財務省債権の金利が下がっています。所詮為替介入など殆ど効果がないのです。安住オタンチンのスタンドプレーの材料として以外には。
  (ST生、千葉)』と言うのが掲載されている。

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日曜日, 1月 22, 2012


久しぶりに長く望まれていた雨天があいにく土日に集中するというバイクファンにとっては恨みの週末となってしまった。しかも積雪は免れたもののダラダラと変化の見極めがつきにくい最悪のパターン、こういう週末は大人しくしていたほうが無難だろう。があいにくオイル交換時期と、タイヤ交換などが重なってしまい、天気のよい平日は休みが取れそうにないため、意を決して10時開店にあわせるつもりで出た。

家を出る時、シートを拭いて雨滴をとってカッパなしで出かけたが、昨日とは打って変わって
数分でカッパ無しではずぶ濡れになってしまう降りだと気づいた。あわててちかくのコンビニの大型駐車場の一部を借りてカッパを着ることにしたが、ブーツを履いたままでは、ズボン部分に足が通らないことを発見し、雨のなかで最初何とか通そうとしたが、どうにもならないとわかり脱ぐに抜けず結局ブーツから足を抜いて、ブーツとカッパを引き離して、とずいぶん時間を費やしてしまった。

昨夜のミラクルパワーの調子の良さに惹かれてそちらに注意が行ってしまい、客観状況への目配りを欠いてしまった。ようやく雨を気にせず走りだしてみると、昨夜あれほどいい〜と思っていたのに、大したことがないことが何となく感じられる状況になっている。一応、にんじん君のダブル装着で4本のミラクルパワーなのに、その恩恵とも言えるパワー感が極めてありきたりで新鮮みがまるでない。とにかく店までは行かないと、と何も考えずにバイパスを飛ばし最短ルートで11時前に到着。一般客は商談中の人と、見回りで来て車種の相談中の人の二人のみ。

すぐに作業にかかってもらえたが、ゆっくりiPhoneで自分の世界に浸ろうとして用意はしてきたものの、比較的寒く落ち着く場所も見つけにくく何となく店内をさまよって展示中の目玉商品を見て回った。以前からある中古群はほとんど変わらず、新車群だけが目立ったがCB系は一台もなく水平対向エンジンの大型が二台ある以外はめだったHONDA系はなく拍子抜け。

しかたなく、見ていると嫌でもカワサキのNinja系とスズキの隼系しかない、ということに気づいた。パールホワイトの隼は、前方から見ると投影面積が意外に小さくけっこう前傾姿勢になりそうで、shoさんの次期マシンとなっても今と変わらない感じの範疇と改めておもった。

値段は139万円ジャスト。フロント回りは魅力があるが、リヤの処理がださいと思っていたが
改めてみると、苦労したらしくこれもそれほど違和感なく処理されていてスズキの良心が感じられる出来かも!?と店外からも回り込んで見てチェックした。

並んでいるNinjaはブラックが最新で170万円+1000円。緑のほうはその前のモデルらしくもっと安かったがどちらもリヤビューは最近のヨーロピアン風に極めて細く軽く辛うじてストップランプとナンバープレートをつけるためだけにデザインされたような案配で、リヤから近づいてみても車種の判別が困難か!?と思うような共通したデザインだった。

別の場所に離れて展示されている隼は109万円と表示されていたが、新古車にちかい中古車らしい。ここで改めて隼のカタログ性能を知る。脇では相談に来た客候補の人が店員とリッター20以上行かないと、などと燃費の話しを経験を交えて交渉中。どんなタイプをお望みなのかは聞き漏らしたが。

性能で見るとわがCBのおよそ倍の出力である。すぐに置いていかれそうな段トツの性能差に改めて唖然、呆然。改めて後付け部品をつけて性能がど〜の、こ〜のなどと言っている我が身の状況が小さく思える。





他にヤマハのXT1200を発見、後ろにあるAprillaも目がいったが、ほとんど興味無し。
■ ヤマハ バイク   XT1200Z スーパーテネレ スペック
排気量 ------------  1199cc        
最高出力 ----------  110ps/7250rpm
最大トルク --------- 11.6kg-m/6000rpm
エンジン種類 -------  水冷4ストDOHC4バルブ並列2気筒
ミッション-----------  6段
乾燥重量----------  261kg
タンク容量---------- 23.0L
新車価格-----------  1.606.500円

これはシャフトドライブ車であるようだ。少量生産ゆえの価格であろうか。



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金曜日, 1月 20, 2012


前回、4輪用宣伝のみに『にんじん君』の関連商品が特化してしまっていることを紹介した。それで、いろいろネットで調べていると、にんじん君のアウトレット用として、現行の製品版(ツインGT)が何と4割ほど安く購入できることがわかって、これなら安いし自分のにんじん君は古いし試作品という5000円引きという値段で購入したものであり、現行販売品と差があるかどうかが疑問であったので、購入することにした。

http://www.carlifesupport.net/ninjinkun-twinGT_outlet2.html




上述のサイトからメールアドレスやあて先を記入し、送金方法やら個数などを書き込んで送信するとすぐに届いた。送付日まで記入されたメールも届いた。以前から何度も交信した見覚えのあるS氏からで、別に送ったなぜバイク用ではないとわざわざ断って販売しているかの疑問への回答もあった。

上の製品についていた注意書だけではよくわからない事情が書かれていた。それによると、某外国製の古いバイクにとりつけたところ、配線をいじった関係かなにかで、コード類が出火し、お宅の製品のせいだろう!とトラブルになった苦い経験から、使用場所と使用法がほぼ特定できる4輪用としてだけ販売しているようだった。もちろん、国産バイクでそんなトラブルはないし、製品の構造上、正常に使えば4輪、二輪も何の問題もない。

仕事の帰りに自宅近くを通ったので、家によると製品が届いていた。以前の試作品はただ真っ黒な箱だけであり、無骨なものだったが、アウトレットとはいえ、傷などなく、わずかな指紋が確認できただけの美品であった。
メールではなぜ、二代目を買うか理由を挙げなかったので、先方はさらにもう一台増設して使うつもりと判断したような返事だった。

それで、初めて同型二台は一台よりも効果があるんだ!?と分かった。私は製品のばらつきや
最近の製品と、旧試作品との違いなどがどの程度あるか?だったのだが、先方は売れ残った
初代にんじん君(一個の製品からコードが二本でたもの)とGTツインの両方をつけたところさらなる性能アップがあることがわかり、軽用の小型トルネードの発売に至ったようだから、いろいろ経験豊富だったわけである。

それで、さっそく二台つけて走ってみると!??..........
低速トルクが少しアップしている感じで基本は以前のツインGTと変らない感じであるが、より少ないアクセル開度で走れる感じで、アクセルを閉じたときのショックが少ない傾向だった。

毎晩さいたま市までの納品があり、バイク便で2往復+通勤などで207キロ走ったところで満タンにすると12リットル入った。自宅->会社までの一回だけは旧システムである。まあ、予想通り思ったほどの燃費アップはなされていないようである。ただ、慣らし効果とでもいうべき調子の良さは次第に現れてきている感じである。希望はあと0.5キロほど燃費アップの結果が出れば御の字である、と思っているのだが。


雪が降る、という予報で積もる前に会社に行っておこうと自宅を出ようとしたらすでに雨だか雪だか降っていたが、とりあえずポケットにあったミラクルパワーを左右のコードにつけて変化を探ってみた。すると、!?!?おや、と思った。まだエンジンは冷え切っていなかったせいもあるだろうが、あれほど取り付けて違和感のあったミラクルパワーが実に自然に効き目がジワーと感じられる。コッ、コレハ!?と思った。とりあえず2個であるが、以前からあえてつけるとすれば2個どまりだろうと漠然と思っていたのだが、にんじん君の特性を消すことなく、ミラクルパワーの悪い癖がまったく感じられず、パワーアップだけの結果が出ているようで、
よ~し、これだ!!と思うようなパワーフィーリングであった。

それで、内側2個は固定とし、外側2個はタンクを上げることなく取ったり外したりできるように翌朝取り付けを改めて行った。結果が出るまでは半月ほどはかかるだろう。


ついでにシーと下のごちゃごちゃしたコード類の整理も行わなくては。古いにんじんくんはコードを延長して前のバイクではリヤシートの後ろに設置していたのだが、今回のバイクでは
バッテリー後部に2リットルほどのスペースがあるので、4個とも収まるのだが、古いにんじん君のコードがとにかく邪魔である。これと、シガーソケットへの接続コードも長すぎる。

帰りは雨や雪もほとんど止んで、路面が一部乾きかけているところもあった。一応昨夜はミラクルパワーは二個だったが、四個のままで走ってみた。すると、ミラクルパワーを付けたあの特種ないままでの感じがまるでなく、ただただにんじん君がそのまま自然にパワーアップした感じである。これには改めて驚いた。

何のストレスもなく回転している感じがバイク全体に漂う。う〜ん、死んでもこのまま乗っていたい感じである。全然別の設計思想からうまれた後付け部品同士であるが、今回の試行でこんなにうまくマッチするとは、瓢箪から駒というかセレンディピティーのような感じさえする。!!!!!

長生きはするもんだな〜、という感じ。過去数年間の日々の全努力が報われた(かどうかはまだ未定だが)ようなスッキリ感、充実感がある。
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月曜日, 1月 09, 2012

結局、この3連休出勤してしまった。今日は年末に出ていた仕事の取りまとめの最終章。明日からは、新年早々出た仕事のまとめに取りかかる。老化が進行して来ると油断大敵で、一週間程正月休み(本人は休んだ気がしないのだけれど)を取っただけでカンがすっかり鈍っていた。年明け仕事をして出来た、出来たと思っていたが、一カ所これでいいんだっけ!?と思う箇所があったが、昨日は正解が出て来ず、それで可としてしまっていたが、今日もっと簡単な図面をしあげていて、同一の箇所が出て来たとき、アレッと思って昨日引っかかった部分がミスしたまま完成品と勘違いしてきたことに気づいた。

昨年あれほどこれではもう絶対ミスしないぞと思っていた箇所なのに、おかしいな!?と思いつつも長く慣れた昔の方式に戻って仕舞っていた。う〜ん、桑原、桑原。

それでも、今日は簡単な部類だったので3時頃には終わっていた。これからどうするか、いろいろやる事があるが、様子見でこれといった計画は立てていなかったので、残された僅かな時間にちょこっと燃費テストに出てしまった。shoさんも今日は少し初乗りしている筈だし、こんどのバイクでは、にんじん君ツインGT単独でのテストは気がついてみれば6日が初めてだった。
(2日の時は、ミラクルパワーがついていた。)それで、ビッグワンの時は、ツインGTの効果があまり明確ではなかった(どちらかというと効果ありだが、それが何れくらい!?と聞かれるとわかんない、といった具合)ので、一般道で試す必要は十分にある。



というわけで、15時40分頃から出かけた。今度は正丸を超えて秩父経由で帰って来るコースを選んだ。しかし、この時間すでにかなりの渋滞である。そこで圏央道を使った。会社で入力した時は、熊谷方面から行けという事だったがあえてまぶしい方向を選んだ。



このシステムで高速走行は初。そのせいかあまりスピードが乗らない。115〜120以上はエンジンがまだ慣れずそれ以上を嫌がっているかのようだった。高速へ入ると、いつの間にかどこかへ消えてしまう黒ラブさんの事を思い出す。きっと、スキーの直下降でも思い出すのかもしれないと思った。それとも走行始めて間もないので本調子ではないのかも知れない。昨夜途中満タンで、燃料計のメモリがちょうど一個分かけた所で、満タンにしたらやく5リットル入った
。それで、燃費は16キロ後半と良くなく、やはり調子にのって飛ばしたら途端にリッターバイクは落ちることを痛感。今朝会社へ片道通勤で臨んだだけの走行距離からスタートし、昼休みも乗らずにいたので、これで長距離走ったらどういう燃費がでるか楽しみだったので、今回はアクセルは控えめである。そして、いつもの秩父方面への集合場所のコンビニでトイレタイム。もうそろそろ暗くなる時間帯である。ここから一気に299号を正丸峠方面へ抜ける。




















途中、天満橋のたもとが工事中で完全に一車線となっていて珍しく片側交互通行で渋滞となった。かなり寒くなって来た。後は渋滞はなく一気に正丸トンネルを目指す。暗くてハッキリとは分からないが、凍結防止剤を撒いたような路面の色を見ながら北上。

正丸トンネル内は、周囲と比べれば明るくあたたかい。真ん中あたりで、ちょうど燃料計のメモリが一個欠けたのを確認。昨夜の例から約5リットル消費したことから、現時点での燃費は
暗算ですぐ回答が出た。約95キロ走行していたので、ただちにリッター燃費は約19キロと分かった。よ〜し、これまで、幾度となくこの道を走ったが、こんな燃費は初めてだ。それで、本日のファイナルステージの燃費はリッター20は行かないだろうと判断できた。それはそれであまり面白くはないのだが。

正丸トンネルも下りに差し掛かると秩父側出口まであと僅かとなり、だんどん気温が低下していく。出口は真っ暗で路面も真っ黒なため、一瞬一部凍結もありかと思った程であったが、寒いだけだった。後は芦ケ久保の道の駅をめざすだけであった。




この時間帯なのに、店はすでに全て閉まっていて車が数台止まっているだけで、バイクすら一台も無かった。トイレ周辺のみ僅かに明るいだけのさびしい冬の夕暮れといったところ。自販機類のみ、明るく暖かく感じた。コーヒー、お茶類も遠慮し、仕方なくコーンポタージュを選んで喉を少し暖めたが、車内に戻れるわけはなく相変わらず寒い。ただ、手だけは暖かい。革手袋だけだったらそれだけ辛いかは、想像しても分からない状況であった。


秩父まであと僅か。例の悦楽園前で止まって位置を記録。積算計の距離から正丸トンネルの真ん中付近からちょうど10キロの位置だとわかった。店はまだ営業中で、カブが一台止まっていたが、私には配達バイクではなく、新聞配達か何かの客が立ち寄ったように見えた。あとは
この先を左折すれば秩父の市役所脇へ数分いや2〜3分で出る。珍達ラーメンもすその裏手であるが、今日は朝から内業ばかりだったので、全然腹がすかず見送りである。昼に食べたサバの塩焼きのゲップが正丸でも感じられたほどである。で、秩父市役所の角で右折し140号を熊谷方面へ。ホンの10分も経たないのに、正丸、芦ケ久保よりは大分暖かいことを実感。後は熊谷方面まで下るだけだから、峠で得たリッター19キロ代を維持するだけだとどこにも寄らずにスタート。







帰りも花園から高速を、とも思っていたが、この辺は時間帯といい、方向といい空いていたので玉淀で右折、いつもの燃費コースへ入ってしまった。途中、関越道を上越する場所で花園方向を見たら、上り車線は3列ともライトがびっしり点灯していて部分渋滞が起きていそうだった。ひょっとして暖かい車列の間を帰れたかもなどと想像した。

途中、燃料計をチェックすると意外に燃費が悪そう。概算だが、メモリが半分に減った時点で満タン21リットルから半分減った10リトルあまり消費したことになり、燃費はが良いときは通勤でも約200キロは走っていたが最近は全くそういうことはない。今日も180キロを超えたあたりで丁度半分となってしまった。ただ、それは会社へ寄った後でスタンドまでもそう遠くはないから、この時点でどれくらい残っているかも目安として知っておきたい所だった。

で一日でだいたい193キロ走行で消費は10以上は行くと思ったが、意外にも9.98リットルで済んだ。実は9.9丁度でやめよかな〜と思ったが、限界を見たくてたっぷり満タンまで入れてしまった。表示の燃費は9.95で計算。多めに出るであろう9.9リットルで計算すれば約19.5程度であり、いわゆる誤差の範囲である。

これで、当初からのにんじん君ツインGT単独での初走りの秩父コースのテストは短時間ながら
予想に沿った値で終わった。あとは、二日のような長距離での値がどう出るか。これも何回か走ってみないとわからない。バイク燃費は大波だから。二日はミラクルパワーがあったが、今回はそれも無し。ただ、これまでの反省からアクセル控えめがあくまで基本ということで朝から気を使ったが、暖まるまでに三度もエンストした。やはり暖まればトルク不足は感じないが、そうでないと少し不足するようだ。長距離でも20キロ程度ならばミラクルパワーを2個程追加するという手も残されている。ミニのにんじん君を追加する気は今はない。
後は、他の燃費アップの手段が残されている。トルマリンパワーというオカルト的にも感じる製品である。
http://zo-daikun.jugem.jp/?eid=100
にんじん君の発売元のブリッジカンパニーでもこれに似たエアクリーな周りに貼付けたりするテープを出したりしている。今後の情報収集の余地有りあというところ。

自宅近くのスタンドまであとわずかというところで、マンホールの縁にちょこんと乗り上げたところで、ナビがわりのアイホンが取り付けステーから外れてぶら下がった。電源ソケットに爪があり、落下を防いだが、途中で写真を撮ったりが出来にくいので、もう一台の3GSを固定して使った方が良さそう、と改めて思った。4Sだと側面が平で、固定しずらい。3GSだと側面が平でなく湾曲しているので、スポンジで押しつけ易いし、写真撮影も別の4Sで出来て長距離では使い易い。4Sだと、メールでも受信すると、そちらのモードに切り替わり、了解のボタンを押してその表示を消さないと、元のモードに自動的に戻らないので、けっこう不便と感じた。
3GSはもともと通話、メールは除外されていていつも圏外表示。落下したときの補助装置は付いて来たが、今いち使いたくないシロモノであるが、一台しか所持していなければ使った方がいいかもしれない。 





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日曜日, 1月 08, 2012

さて、1月3日に300キロほど遠出してあまり燃費の大幅な低下は確認できなかったものの、通勤を含めた短距離の繰り返しでは、かなりよくない状況が続いている。1月4日から仕事始めとなり、連休が多いため納期の関係で逆算すると余裕があったはずの納品が1月4日中に届ける必要が
あり、夜バイク便で届けた。さらに連休をふくめて4日間休暇を取る社員の存在があり、その彼の持ち分もこなさなくてはならなくなり、6〜9日の4連休のため再び5日の晩もバイク便納品となってしまった。通勤をふくめ両日燃費をみると、どちらも16キロ代と長距離の場合と全然違う結果になっていて、昨年秋以降出て来た低燃費化が依然として続いている。

これでは、一時期続いていた通勤でリッター19キロ代は実現せず18キロ代も無理である。その原因は何か!?と冷静に、真剣に考えた。とにかく短距離ではエンジンが固く、長距離の場合のようにスムーズに回らないことが一番の原因のようだ、といやでも認めざるを得ない。

確かに昨年暮れ、にんじん君の結線が一部緩み、それを直したら一時軽く回るようになった記憶があるが、その後すぐに4気筒ともミラクルパワーを付けていて、以前のようににんじん君だけ、という状態ではどうか!?という確認プロセスを省略していたことは事実である。

カーネルさんのところへよく訪問していた10月頃からどうやっても燃費が落ちだしてしまい、原因不明でいわゆる摩耗による変化でトルク低下を疑っていたため、パワーアップによる対策でどうだろうかという方向に流れていた。それで、効果のはっきりしないにんじん君のお復習いを始めた。

http://ninjinkun.com/
を何気なくみていると、

という所へ目がいった。

なになに、私が認識していたのと大分違う内容の広告である。いつの間にそんなに変化したんだろうと思うくらい当初の宣伝とは違う。さらに中程までページを追って行くと



というのも目についた。素直に読めば、私が使っているツインGTというのはバイクには向かないと読める。ジーゼルエンジンには、点火プラグがないから当然としてもバイクって、漠然としてどういう範疇を指すのか不明だが、最初今度ツインGTが出ますから、今ならモニター価格で5000円程安く買えますから、使用しませんかということで買ったのだった。

そしてモニター購入だから手書きのインプレッションなどを送ったりしていて、さらに忘れた頃(二年後!?)軽自動車用に小型のトルネードシリーズが出ましたが、これをツインGTと併用するとさらに効果がでますよ、と宣伝されてこれも買ったのだったが、今回の広告では
どうも4輪専用のキャンペーンらしく、今使っている一番右のシステムは排気量が2000cc以上に適し昔から使っているツインGTは2000cc以下用ですよと読める。

まあ、排気量からいえば私のバイクはヴィッツやマーチ並みなのでツインGTだろう!?ということで、そういえば、昔の宣伝を思い出して最初から2000cc以上用のシステムとしてSC54に付けたのだった。今急にこんなこと言われも、と思い直し普通でも二個づつ付けるのはスペースが足りないくらいなので、軽用とされているトルネードは外すことに躊躇はなかった。当時はツインGTしかなく、メーカーの説明ではより高回転で使用するCB400ではもっと効果がでていますよ、というS氏の説明であった。

で外そうとして結線部のショート防止用のビニールテープを剥がしてみるとマイナス側はすっかり緩んでテープのカバーだけで繋がっている状態であった。それで、プラス、マイナスとも
小型のトルネードを外し、ボルトで締め直しまたテープを巻いた。これでGTツイン各一個だけとなり、シート下の小物スペースには余裕ができた。試しにエンジンを掛けてみるとスルッと起動した。

今の機種では、バッテリー位置が前のビッグワンの時よりかなり下の方にあるため、にんじん君は本来バッテリー直結なのだが、当初付けたり外したりの手間がバッテリー位置の関係で不便で、以前のアース線をバッテリの各端子に付け(各15センチくらい)、その反対側にそれぞれにんじん君と同じようなY端子をハンダ付けし、そこをバッテリーの端子として合計4個の
にんじん君の各二個のU端子をバッテリー締め付け用のボルトで締めてビニールテープで巻いていた。他の小物を入れる関係でバッテリーからの線とにんじん君からの二線は鋭角で結び邪魔にならないようににんじん君の間に逃げ込めるように配置していたが、カッパを押し込んだり、ネコ用の缶詰を幾つも詰め込んだりと便利な小部屋として使っているうちにいつしか緩んでいたらしい。それで、悪燃費の頃はにんじん君無しと同じ状態だったらしい。

ただ、以前のビッグワンではあまりにんじん君の効果がはっきりせず、あらたに追加したトルネードの時もメーカーに問い合わせしたとき、車種によってはそれぞれ単独のほうが良い場合もありますからいろいろ組み合わせて試してください、などと売りつける時の宣伝とはまるで
違う対応だった。それぞれ単独だとどっちがいいかわからなくて、ただ特性がそれぞれ違うようで、軽専用開発というトルネードのほうが高回転向きかな、と思う程度の違いしか分からなかったが両方付けていた。メーカーの説明で唯一変わらなかったのは、踏みつぶしたりさえしなければ効果は半永久で、乗り換えた場合でも継続して使えてお得ですよ、だけであった。

要するに以前のバイクではあまり燃費改善効果はそれほど意識されなかった。電気をきれいにする効果はあるだろうと言う事で付け続けていた。ボーリングしてシリンダー、ピストンを変えてみても、特に燃費の向上など期待できず見切りをつけた。
まあ、今年の段階ではすでにトルネードはみのさんに譲ってしまい、その後結び直してもあまり期待しなかっただけに、ミラクルパワーに目が行き過ぎて、にんじん君単独のテストは全然していなかったが、新年そうそうからこんなに燃費が悪いと、いやでもテストせざるをえないし、ミラクルパワーは、昨年3月の装着時に一回で使用を諦めたぐらいだから、テストする前から良くはないだろうなとは思っていたが、トルクはアップすることは分かっていて、そこに期待したのだったが、エンジンは固くなり、それを打ち破るにはやはりアクセルを多く開ける必要から燃費は悪くなってしまった。最初からSC54には向いていないと思った製品である。もともとRBの埼玉北店がバイク雑誌に宣伝していて知ったのだが、現店長さんは知らないそうだ。

この製品も車種によって効果は違うので、効果がなかったら返金に応じていたように思うが、shoさんの場合を除き良いと言う話しは宣伝以外では聞かない。そうですよねえ!、‥さん。

今となってはにんじん君の初の再テストしか手段は残っておらず5日の晩に決断して6日の朝にミラクルパワーを外したが、このとき、右サイドカバーを破損してしまった。寒かった早朝に作業をしたからだと思う。一個13500円だという。昔のビッグワンと全く同じ値段だ。カーネルさんの話しでは、今の部品が高いのは在庫料が加味されているからだそうだ。

それで朝走り出してみたら、低速でのトルクの少なさには改めてビックリ。しかし、今日はテストだからと恐るおそる走り出す。エンジンが暖まって来ると、どうやらそうでもないし、さらに進んでいくと、不安は消えもしかすると、これでやはり正解かなと思い出す。会社へ着く頃には夕方のテストが楽しみとなっていた。絶対、こちらのほうが燃費がいいはずだと。

それで、夕方昨年末以来の定置燃費テストコースへと向かう。行きがけはかなり飛ばして様子をみた。昔はビッグワンで14.5程度であったな〜などと思い出した。着いてみて満タンにする
とすでに昨日の16.1より1キロほどいい、17.05と出た。やはりそうだよね。あとは昨年暮れのミラクルパワーのテスト時と同じ飛ばさない走りでテストだ。その時は18.5だった。昨年春の
最初の時は約19キロだった。何もない買った当時のテストでは20.5程度だったから果たしてどのくらいか!?

ビッグワンで44キロだった表示は43.1キロでセルフに給油。消費ガソリンが2リットルだったら、燃費は21.5程度となる。2リットルで一回止め様子を見てまだ少し入ると力をいれて握ったら吹きこぼれる直前まで一気に行ってしまった。その時点で2.19リトル入ってしまった。単純計算で19.68となり暮れのミラクルパワー時よりも1キロ以上良い。

実は最初から予想できた手応えであり、途中結構飛ばしたりもしてしまった。今までで寒い夜とは言え、最短で着いてしまった感じ。スルスルと走った感じ。最初の満タンレベルは予測は難しいが2.15だと20をわずかに超える。2.1リットルだと20.52となる。いくら静かで走ったところで21.5などという数字は出て来ない、こんな短距離では!。エンジンの調子をチェックするだけのコースである。

当初、何も付けなくても買った時はおそるおそるトライして20.5位だとわかったがそれと同じレベルまで戻ったわけだ。21キロ台としたのはビッグワン表示が44きろだったのでそれを使ったのだが、SC54は43〜43.1だったので、それを補正すると20キロ半ばとなった。

こうみると、にんじん君は燃費向上効果はあまりないと思うがそう事は簡単ではない。

通勤燃費は5月頃は18.3〜4あたりだったが、その後さらにスズロイの溶かしたものではなくインゴットから切り出したものをさらに2個程追加したら19.2前後まで向上した。しばらくして燃費効果の限界を見るためにさらに一粒切り出して追加した。すると明らかにスムーズさはより確保されたが、燃費は低下傾向。一時的なものかどうか夏の終わりに房総一週で燃費は21.5を確保していた。5月から長距離は一貫して21.5以上であった。

現行のSC54は、さらに燃費は向上して25キロから25.5となっているが、それも250キロほどの高速と下道のトータルで20.43という数字を某雑誌が発表してて400との燃費差は意外と小さいとしていた。21.5以上は何の効果か判定が難しい。ただ、スズロイは音が静かでスムーズ、オイルを汚さないなど。今度の単独のにんじん君のツインGTは、アクセルをあま開けなくても回転がスムーズであり、それが好燃費に影響しているとすればにんじん君でいいのだが、スズロイのスムーズさの利点も捨てがたい。

暖かくなたら、またテストを兼ねた長距離に行き続けるしか当分結論は出ない。しかし、私のSC54にはミラクルパワーは向かない。これはたぶん真実だろう。スズロイは有鉛効果だと言う
意見もあるし、たぶんあの静かなエンジン音はエンジン保護には効果有るだろうと思っている。同様な意見をくださったかってのモータロイ愛好者の方もあった。
今回のテストでもすっかりスムーズになったエンジンは、ほぼ同じ燃費ながら、より早くよりスムーズに走れたように実感したので、その辺の効果も燃費には出ているだろう。ただ、にんじん君が外れたら燃費は落ちたからまずにんじん君の効果はハッキリしている。時間を稼いで徐々にというスズロイ系とは明確に一線を画している。リード線が継ぎはぎだらけとなったにんじん君ではあるが、メーカーのうたい文句を半分程は実証していると言うのは言い過ぎだろうか。中を分解してこんなもので効果がある筈がない、などと賛否両論であるが、各車種の特性が会えば、効果があるというのも可だし、効果なしというのも可であるだろう。shoさまのご指摘どおり、バイクの燃費は大波というのはこれも真実。

読み返してみて、ミラクルパワーについて反省すると、にんじん君を着けた状態であくまで私のバイクの場合で、という条件下での結論であり、トルクアップは確実のようだから、にんじん君無しや他の同様な機種では全く結論は不明で、あくまで各自の自己判断にお任せである。

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月曜日, 1月 02, 2012


1月4日から、自主的に仕事始めとなり、3日は娘夫婦が顔を出すというので、自由になる日は今日の一日だけ。幸い、天気はもっとも良く、熊谷地方の最高気温は10℃と予想されている。

今回の走行目的は、冷却水漏れ修理の確認、ハンドルヒーターの実用度、および最近燃費がおおきく落ちた原因の探求の三つであり、どれも長距離走行しないと、結果が見極めにくい項目であり、往復で300キロ程で混んでいないコースとならざるを得ない。

たまたま最近の法事で出会った同齢の従兄弟から、袋田の滝に行ったんだけど、そのグーグルで福島県まで袋田からだとどれくらい!?と聞かれたが即答も、正解も出ずじまいだったことから、袋田の滝を選んでしまった。彼は、家の農業を就いでおり、法事などでは知らない人ばかりという状況が二人とも同様で勢い今後のこともあり、急速に接近したのだが、やはり昔なじみの親戚は、しっくり来るところがある。パソコンなどは持っていないという。かわりに新聞はじっくりみるほうだ、という。もちろん、彼の娘は所有しているが‥。

iPadで前の晩、走行ルートを模擬走行したら国道4号をずっと北上して、氏家あたりで90度右折し、国道293号(足利市〜日立市、これとは別に県道293号線(栃木県足尾町の国道122号から銀山平を経由して庚申山荘まで続いている道です。)もあるらしい、しかも国道では号だけで線はいれないらしい。最初のナビのハードコピーでも国道16号とだけ出ている)を東へ行けばだいたい用が足りるという事がわかり、それなら下の旧国道4号より、4号バイパスを北上した方が信号も少なく飛ばせることから、かって知ったるバイパスを行く事にした。春日部の下柳から150弱だから往復で300キロちょっとというのも丁度良い時間と距離だ。8時を目安にそっと家を抜け出した。いちおう寒さ対策に朝飯を一人済ませていたら、家内が起きて来て、ちょっと、どうやったらそんなに太れるのか!?なんとか痩せて頂戴、などと小言を言って来たが、逆らうと厄介なので黙って食べてそっと出た。一日一食制でないと私は痩せない事は昨年実証済み。ただ、水分だけは控え目にした。

さすがに、大型は少なく、マイカーばかりだが皆結構飛ばす。特に利根川を渡り茨城県、栃木県と北上してくると地元の車も加わり、さらに3車線となると、準高速道並みとなる。

この時期の大型は一匹狼的な運転をする車も有り、無謀な蛇行をしたりする物もいたが、逆らわずにやり過ごす。二時間ほど走ると手は冷たくないが、体全体が朝の寒気の中を走ったので
冷えて来て、丁度コンビニがタイミング良くあらわれたので休憩する。何をするにしても手がかじかんでいないので、動作の移行がスムーズである。最初、弱で走っていたが、スピードが出だすと、風防が布制なので、全体的に風が一定の割合で抜けて行くようで暖かさを感じなくなり止むなく強にした。前日川越市内まで往復したとき、手のひらばかり熱くなるので、半回転させて手のひらには1センチほど開いたヒーターの合わせ目が来るようにセットしておいた。

エンジンはまだ固く感じられ、まだまだ、ミラクルパワーになじんでいない感じがした。修理した結果は問題ないようで、何の心配もいらないようであった。コンビニでは甘酒を選んで体を温めた。コーヒ類はすぐにトイレに行きたくなるので。出発しようと空を見ると、朝曇っていた空が明るくなり、これから行こうとする方向は快晴のようなかんじであるが、とにかくまだ寒い。手の冷たさがまるでない分、体が冷えているというのがはっきり分かった。

しばらく走ると陽があたりだし、特に足の部分が暖かく感じだした。これなら、この先たいした苦労は無さそうと少し安心した。コンビニを出て間もなく右折のサインが。後で振り返ったら4号バイパスと鬼怒通りの交差点だった。県道64号線だと言う。曲がってしばらく行くと昔見覚えのある道だと分かったが、ある程度先からはナビの指示にしたがう。日もどんどん高くなり暖かさが増えた。手も(指も)熱く感じるようになりまた弱に戻す。以後ずっと弱のままだったが、帰ったとき、指先が少し赤くなり低温火傷を負ったように痛んだ。ちゃんとした革手袋の方がよさそうだ。


天気はやはり予報通りとなって来た。熊谷で10℃といっても大田原では6℃であったから、微妙だが、朝寒かったし6℃でも昼間だったからけっこう寒さは意識せず目的地に着いてしまった。
ヒーターがなかったら、とは想像すらできない。朝の寒さの中を車と一緒に一台だけで駆け抜けられた。夜の今でも手や指は暖かい。肘のあたりが走行中一番温度が低かったようだから、肘ヒーターかカイロを工夫すれば、寒さは大分和らいだかも知れない。腕までは体温で、手首まではヒーターで暖められても、その真ん中の肘だけは周囲程体温を維持できなかった感じがした。


4号バイパスを平出というところで右折すると、表示は旧4号がやがて出て来た。そこからナビの指示通り行くと目的地に到着する。後ろに後続車が殆どいないようなエリアで気持ちよくは知っていると、いつの間にか後続車がピタリと付いていたりするのの繰り返しだった。
またたく間に袋田に到着。最初、高速を使う予定でナビは12時10分頃と表示していたが、その後高速を使わずにバイパスとなったが、宇都宮以降が快調だったため、当初の予定度おりの時間に着いてしまった。白河まではまだ60キロ程度あることが分かった。予想より距離はある感じとなった。

袋田は目的地ではなく経由地。日が短く早めに帰りたいし、昼間の暖かい時間帯に距離を稼いでおきたい。それで直ぐに自宅を目的地としてリターン開始。今度は水戸へ行けと言っている。それで118号線をただちな南下。今度は南向きとなり薄日が顔の正面にあたり暖かい。このナビは途中の細かい地点までの距離は表示するくせに、例えば水戸まで何キロというのはかなり近づかないと表示しない。水戸まで12キロとなってようやく道路標示が表示したので、安心した。

水戸市内を流しているとき、240キロほど走行していたが、その頃ようやく連続走行でエンジンの調子が絶好調と感じだした。固かったエンジンの調子がほどけてきた感じ。これはもう数回慣らしで長距離を行う必要が有りそうだと感じた。水戸市内は正月だというのにかなり混んでいた。車の間を通り抜けるとき初めて回転計をみたら、1200回転あたりで走行していてギクシャクせずスムーズであり、ミラクルパワーの低速トルクの増加を感じた。

途中の燃料計メモリが一個欠ける間に、60キロは走った。これで、燃費は21.5は行くだろうと確信した。そうした燃費のとき、さらにもう一個欠けるまでに270キロ走行はしていたが、今回は266キロ程走ったから、まあ、21キロは固いだろうとなどと思っていた。

それで、50号線以降、調子に乗って飛ばした。リヤカーの後輪のようなパターンのタイヤを履いた、古いタイプのハーレーが出だしで何回か加速を挑んで来た。もちろん、こちらはそれに比べれば無音に近い音で加速。相手はかなう筈がないのに、ちょっとさきへ出ると、どれ程離したかと振り返る。面倒なので、シフトミスをして空ぶかしの音を威勢良く放っている間に一気に後方に追いやると、さすがに諦めたようである。それ以降、渋滞が解消してきて笠間あたりは常にトップをまっしぐら。郊外に外資のショッピングセンターが出来てそこへ向かう車列が水戸市内から片側一車線を塞いでいたようだった。


それでも、50号線はかなり長い。最近の車は軽でも加速がよいから80〜100位は平気で出して先頭を行ったりする事が多く、面倒な時は直ちに追い抜いて先頭へ。3リッター車でも、並走してスタートした時など加速競争になったりすると追い越そうとしたりするので、距離を見て追い越させるか、離すかの加減をする。4000以上回すとついて来ない。

やっと小山市内まで帰ってきたが、今度は旧4号線を南下となったが、それからが長い。夕日がまぶしく、けっこう前が見えずらく相当神経を使った。今日の食事は小山手前の結城市で済ませていて、そこでトイレ休憩。手が冷たくないと、トイレ休憩の回数が減るだろうとつくづく思ったものだった。ただ、防寒グラブは今日は勝手にホーンを鳴らす事は一度も無かったが、
パッシングが使えないし、ハザードも使えない、素早いウィンカー操作はなかなか出来ない、手探りでスイッチを親指で探して確認して、などとやっているとタイミングがたいていずれて
しまった。

夕日がまぶしい間は早く陽が落ちろと思っていたが、落ちてみると4時半を回った頃から旧に寒くなり、冬の日の太陽のありがたみを知る事に。利根川をわたり佐間のあたりから渋滞が続く。この位置での渋滞では久喜市内なども同じ込みが予想されるから、今日の燃費テストは失敗だろうと直ぐに気づいた。迂回したいが結構遠回り。それで諦めて大人しく車列をやり過ごしたりしていたが、あまり派手には出来にくい。やはり小山市内で4号バイパスへ迂回すべきだったと思った。そうしておけば春日部市内の渋滞区間だけで済ませられた。

しかも、自宅近くのスタンドは年末に一回いったきりだったので、行ったら休業だった。しかたなくその先のセルフへ行き給油する。15.9リットルも入った。走行トータルは324キロ。再計算したら、20.37あたり。手がかじかんでなくてもインプットミスをしたらしい。通常だったら、15.3〜4辺りを想像してたのであるが、渋滞と後半の飛ばしでその影響が出ているようだ。
15.4だと何とかリッター21が確保されるわけだが。

実は、RBの帰りに、久しぶりに例の定置燃費コースを夕方走っている。その時は18.49だった。三月の初め頃、ミラクルパワーを付けて走ったときは、ほぼ19キロの燃費だったので、やはり少し落ちた気がしたが、まだエンジンが固く例のスズロイ過剰!?投入への疑問も消えていないので、夏場同様長距離してチェックしないと、と思っていた。

夏場の最後の長距離で(房総一週)、いちおう長距離を走ると過剰投入の影響は無さそうな結論に達したのだし、今回も途中の燃料消費傾向からあまり関係ないようだと実感はしていたが、渋滞や加速競争が加わると途端に落ちる。しかし、最近の通勤時の低燃費(18.5〜17.5〜16.5)などはにんじん君のマイナス回路が接触不良であったためと分かって結線し直したら感触が良くなって、そのせいかと思ったりもした。

しかし、今日行きがけに満タンにした際、120キロで燃費は16.5位だったことと比べれば、長距離と短距離ではかなり結果に差がでる。以前はそれくらいの走行(150キロ)だと18.5位であり、長距離で燃費が伸びるのは、それ以降濃くなったスズロイが効いて来るからと思っていたが、今は最初からかなり濃いはずだから、その推論も少し問題がありそう。冬場は燃費が落ち気味なのは、いろいろと聞くのであるが、そのせいとばかりも言えない事も最近多い。

Shoさんがバイクの燃費は大波で、とはかってよく使われていたが、最近私もそれを強く意識するようになって来た。

ただ、今日の走行でミラクルパワーを付けた効果らしきものは200キロ以上走行して初めて感じられた事は、夏場での40キロ以上走行辺りからエンジンの調子が良くなって、というのと明らかに違い、今はミラクルパワーの本来の調子が出て来る移行期なのかも知れない、と思えたことが収穫といえば収穫。夏場以来、スズロイは一切変化無しでそのままであるが、今日はちょっとしたゴーストップでタンク内でカタリカタリと転がる音が何度も聞こえた。以前は聞こえなかったのに。出来れば一個か二個、取り外したい所であるが、今日の長距離でそれほど問題にする必要は無さそうという一応の結論であるから、もうこの問題は触らないことにする。

今日の長距離で、回転がスムーズになりだし、その時の音も絹のように繊細な音がし、十分エンジン保護効果は効いているような感じはした。変わったのは点火系だけで、ミラクルパワーを援用しだし、にんじん君を整理し、本来のツインGTだけにした。走行は3万キロちょっと。

理想を言えば、shoさんのように毎回長距離を!ということになる結果となった。まだ通勤だけではエンジンの感じはは固いままである。長距離を走って初めて本来の調子がなんとなく分かる、というような状況である。昔から、遠乗り燃費と、その辺の街中燃費と分けておられる例が多いのも考えて見なくても当然の事でありますね。


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