日曜日, 1月 28, 2007



二日続きの夜勤で、午前11時頃目覚める。昨夜は小雨が降ったが、明け方は星空で、今晩は暖かいねと皆が言っていたとおり、
暖かい、好天の土曜日。残業があるのだけれど、こういう日に動かないとしたらいつ動けるか解らないと、勝手に判断して、
これまでの逆コースで高速に入った。最初佐野あたりまでと漠然と考えていたが、一度どこかで高速を降りないことには帰れないので
栃木インターでおり、市内をしばらく走行。




そして、市の西部にある小高い丘のように見える大平山山頂へ寄って帰ろうと行動に移した。標識にそって登るときついカーブが連なり、エンジンは前回の秩父の峠で発したような排気音を奏でる。そういうときは決まって2000回転以下。登りは対向車にも出会わず頂上の駐車場へ。暖かいので、外の展望の良い場所に設置した縁台で家族連れで食事を楽しむ風景も。こちらもあまり空腹ではないが山菜蕎麦と、味噌田楽を食した。

仕事が待っているので、ゆっくりもできず写真を撮ってすぐ帰りの行動に。登ってくるハーレーと出くわす。高速は来るときは気がつかなかったが、以前から気になっていた90キロぐらいから先の回転の上がりがリニアーでなく、少し余計にスロットルを開ける必要があると思っていたことを再確認。なにしろ、高速道路の最高速度が80キロに規制されていた時代の設計だから、やむをえないな〜と思う。真ん中の車線は110〜120キロで流れているので、それに合わすとまた丁度よい。

会社に帰ってトルクカーブを見たら、4000前後にトルクの谷がある。3000前後か5000以上がトルクフルとなっていた。また、80キロ
3000回転、100キロ4000回転だが、120キロ5000回転ではなく、少し下であり、高速ほど回転の上がりが少ない傾向に気付いた。

振動はほとんど感じず、エンジン音も静かで長距離走行が可能だと感じたが、慣れないせいもあり緊張もした。降りようと左側の車線に戻ろうとしたら、追い越しをかけた4輪が開いている一番左を飛ばして来て、バックミラーで確認しなかったら、後から衝突される恐れがあった。高速道路は先ばかりではなく、後続もかなり後まで読む必要がありそうだと反省。

なお、大平山に関する情報の一つとして、
http://don-quijote.or.tv/domestic10/tochigi.html
がよくできていると思った。

木曜日, 1月 25, 2007


知らぬが仏

あれからもう10日、えっ、何の事かって!?いえね、あの、足が長くなったって〜か、サスが柔らかく
なって、両足の着地性がよくなったってこと書いたことありましたよね。

あの日は、そろそろETCをとりつけるかどうかで、二度ほどショップへ足を運び、新型トラなどをキャプチャー
したりしてた頃、いろいろなバイクファンが来ており、CB400でも両足のつま先しか同時に着かなくても跨がって、バイクを駐車群から器用に抜け出す人を見たりしたせいもあって、自分の体格を密かに親に感謝したりしてた時。

それはそれでいいのだけど、この頃、また急にサスがへたって、やたら足着きがよくなったと感じるようになり、安心できるのでそれほど気にはしていなかった。ところが、会社にバイクを置いて車で帰宅したりして二日
ほどのらずにいた昨夜、帰宅のために乗り出したら、ハンドリングが微妙に変。あれ、こんな感じではなかったな〜、と思いつつもそのまま走る。

例の信号の長い交差点で、初めてあまりにも着地性がいいのにさすがに異変を感じた。CB400やハーレーとかわらないじゃん、これでは、両足つけても膝が緩んで曲がっている。それでも、まだ原因はわからない。

翌朝、早出のため、自宅から近くのメイン道路まで押して出てエンジンをかけることに。すると押し、引きもやけに重い。ハーレーだって重かったけど、動き出すと比較的スムーズに動いたぞ、と思ったが、ガソリンタンクがでかいBIG1だからしかたないか、などと寝ぼけ頭で考えながら押して行き、エンジンをかけようと跨がろうにも息がゼイゼイ。まだ確定申告にはちとはやいぞい!

しかし先を急ぐので適当に暖機してスタート。あたりは暗い。途中で街灯のある信号でふと後輪をみると、接地した部分の脇が膨らんでいる。それにやけにタイヤが扁平だ。しかし、乗り味にはさほど変化は感じなかったので、まさかパンクではなく、自然に空気があまくなったんだろうと思った。それでも不安が広がり、もっと明るい酒屋さんの自販機群の前に止めて、メインスタンドをかけ、丁寧にタイヤを点検。

ところどころ、タイヤの溝にそってゴムのバリが出ていて紛らわしいが、どこにも釘らしきものはない。
しかし、ひとつ大きめのバリがあるので、指でさわったら、ヒラヒラではなく、固い。それで、これがささった釘だとわかった。溝にうまく入ってしまい、接地していないので、黒いままで、以前から見過ごし
てきたものだった。すると、相当前から刺さっていた、ということに。

高速道路の2回目も、どうも速度はでても加速が変というかまだるっこさを感じたが、あのころ足つき性抜群だったことを思うと、かなり圧は減っていたと初めて判明。ゆうがた、バイク屋さんで修理、お値段2000円でした。

そこで、跨がると、ガ〜ン、最初とちっとも変わらない。踵が両足とも受いたまんま。バイク屋さんは笑っていた。というおそまつで、ふたたびここで、前回のブログは誤解と偏見に充ち満ちていたことを訂正し、お詫び申し上げます。

でもチューブレスタイヤはいいですね。何日もまともに走れたのだから。

火曜日, 1月 23, 2007



久しぶりに、モーターサイクリスト2月号を買って読んでいる最中。

ちょっと前にとりあげたスズキのT500やCB450,ヤマハの350などとトライアンフの対比特集が組まれていたからだ。
今でも現役のクジラタンクのCB450などは、気がつけば30年も所有していたとか、車検15回に相当する長期にわたる所有だ。
そうそう、思い出した。走行キロ数が縦に並ぶようにできていて、タコメーター、スピードメーターが大判型のメーター内に仲良く
同居、それでもいまのBIG1を眺めるような視線で見ていたバイクだ。

日常的な感覚から一歩別な世界に属するバイクとして捉えていたんだった。250cc2気筒の2サイクル以上の2サイクルエンジンを体験
していない自分には、ヤマハの350cc2気筒バイクなどはいまだに永遠の高みとして、心のどこかに存在している。学生時代は、車体寸法や主要諸元を諳んじていて、女子学生に驚かれた記憶がある。自分には当然のことと思っていたことが驚かれるなんて意外だった。
よく、イラストっぽい絵も描いていたな〜、と貧乏学生時代を懐かしむと、歳を忘れる。

ところで気掛かりなこととしては、排ガス規制や騒音規制の強化にともない、かなりのバイクが姿を消したり設計変更を迫られているという事実。スズキの油冷式エンジンもその影響で水冷に変わり、ゼファーもいずれ水冷に変わるとト則されているが、XJ1300はいまのところフューエルインジェクションと触媒採用で対処ずみらしい。古いバイクが、必ずしも好ましいことではないとしても、大事にされうる環境も整い出すというわけだ。パソコンなどは新しいほど快適でいいだろうが、バイクや車もそういう面は多としながらも、
その時代にそった感性で完成しえているところがあり、必要な手を入れてやれば、当時の感動そのままに実用化されえる特徴を備えている。

ただそのためにはある程度以上の排気量が必要で、車検制度のお世話になるぐらいの排気量はやむをえない。新車のほうもいろいろな規制が課せられるので、性能を下げるわけにはいかず、ほとんどオーバー1リッターになってしまった。慣れてしまえば、1リッタークラスは、全方位的な装備のバイクとしてみれば、必要最小限のパワーユニットと感じている。昔、だれかが、バイクで旅行などするには、最低900cc以上はないと怖い、という人の話を聞いて、随分ぜいたくなことをいうと思ったが、その気持ちは今はよくわかるような気がする。

日曜日, 1月 21, 2007



1月20日、再発行を申し込んだETCカードで、前回と同様のコースでテストラン。時間的には、早朝しか
余裕がなかったので、前回並に寒い最悪のコンディションだが、あっけなくかなり手前でバーが上がった。

降りるとき、ひとつ置きに、ETC専用と、通常ゲートと計4ゲートだけしか青ではなく、用心して後続のない一番左へ侵入。すると、もう一個のETCゲートへ進むと思われた4輪が急に方向を変えて、こちらの後続についた。他車はいないのにである。おそらく、監視か、注視かいずれにしても無事ひらくか興味が涌いたのではないか?

テスト終了して家に帰ったら、もう一社申し込んだETC専用カードが届いてた。なんとそれはまた、番号が型押しされた凹凸つきだった。それでも、車の車載器では、認識された。それで、もう一度バイクで試すと、やはり認識された。エラーなしだった。一体型カードの発行はしていない、という向こうの説明どおりの結果だったが、マイレージサービスの申し込みがあるので、その適用が終了するまで使用しないことに。

ところで、会社のカードをみたら、やはり凹凸のあるタイプだった。過去2年以上を使用していて、気付かず迂闊だった。それで、接触部分を見ると、やはり縦に見た場合上3段には激しく接点とこすれた跡が歴然だが、文字に近い最後の段は、新品同様接触跡がほとんどない。やはり、IC部分が正常であれば、認識には問題がないことがはっきりしました。お詫びして訂正いたします。


今回はいずれにしてもETC専用型で、元のクレジットカードとは番号は似ても似つかないものだった。

最初は7000とか7800とか、2番目は0100とか、0130とか、3番目と4番目は携帯の番号のように個人識別らしい。
車専用のクオかーどでは最初が写真のとおり7804となっているし、2番目もかなり番号が変わっているが、・・・。

高速では手が冷たい以外、快調であった。早くシーズンが来ないか、待ち遠しい。これだと、後ろにもう一人、乗せても、安全運転の範囲内であれば問題なく走行できようというものだ。車でもETCを初めて使用したときは、ある種の感動があったが、バイクではそれ以上なことは断言できる。今までためらっていた利用範囲が拡大するし、結局後で払うことには違いはないものの、まるで無料通行のフリーパスのお墨付きを得られたような錯覚がつきまとう。

金曜日, 1月 19, 2007


北海道へツーリングに行ったときは、ミノルタの一眼レフだったが、フィルムを二重撮りするという最悪の失敗をフィルム2本ほどに起こしてしまい、記念になるスナップはほとんどない。
その後もミノルタを3〜4台愛用してきた。幸い、登山派はオリンパスのOM1もあったが、先輩が同じミノルタだった、二人とも。

ただ報道写真や、プロが愛用するカメラはニコン、キャノン、ペンタックスなどで、篠山紀信氏を除けばミノルタはマイナーだった。それでも、アマチュア向けにはROKKORレンズには一定の評価があったと思う。植物図鑑などにもたまにミノルタレンズが使われていると、うれしかったが、10年程前の海外旅行を機にメイン機の座をおり、キャノンのEOSとなった。なぜ、キャノンか?それは、ライカのレンズ群が、アダプターを介して利用できる唯一の一眼レフだったし、ミノルタ時代、いつもニコンよりキャノンを意識していたから。

家内と、競馬場にある事情があって招待券をいただき、貴賓席とやらで生ガキなどいただきながら、下をみていると報道関係はキャノンの望遠レンズが 大半だった。グラビア雑誌でも発色や画面の粒子状態などで、レンズがキャノンとわかる場合が多かったりもした。

いちど、ロバートキャパ展で、ライカによる写真展を見たが、ライカのレンズがそれほどすごいものとは今となっては思わない。ただ、ニコンが解像度重視だったのに対し、ライカやツアイスレンズなどは、コントラスト重視で、暗い諧調部分も忠実に表現するかのように解説されているのを見た記憶がある。

朝鮮戦争で、ニコンレンズの優秀さがアメリカで評価されたという。
しかし、昭和16年ごろ、戦闘機は零戦、潜水艦は伊号、写真機は観音、皆世界一と宣伝したそうだが、キャノンの前身が観音だった。

ミノルタは稔田あるいは実田だが、大正時代には日独カメラ商会とかいう名前でスタートし、宇宙で活躍した第一号カメラもミノルタ製と聞いたことがある。

そのせいかどうかミノルタとライカは提携関係もあり、ライツミノルタという結構なお値段もするカメラもあったし、ライカが一眼レフを出したとき、ボディ原形はミノルタXEだといわれたものだ。私も、XEの後、大金をだして、X1を買ったが、途中から、ボディだけ良くても写真はダメだと思い、SRTスーパーと言う、古い初期型の一眼レフに交換してしまった。いくらかの差額はでたが。

また、ちょっとまえのカメラ雑誌で、ライカ一眼レフ用のレンズ群をミノルタが供給し、コーティングをライカ本社で行っているので、といって、ミノルタ一眼レフレンズとライカ一眼レフレンズを同一被写体に向けて撮り比べた写真がのったが、当然、空の色などが微妙にちがうくらいしかわからなかった。

しかし、ライカは写真を考える道具なんだというプロのご意見も考慮し、デジカメは最初松下のLumixにした。レンズがライカだというので。しかし、これもコーティングだけライカの技術らしい。それも数年たち、sho様の投稿写真がキャノンのデジタルカメラだと聞き、2台目のデジカメは昨年暮れにようやくキャノンIXYになった。ただ、手ぶれ防止がまだついていなくて、未熟な腕前が、すぐ結果にでるので、腕を磨くにはいいかもしれない。

本日は、臨時フレックスタイム制となったので、昼過ぎから遠回りして、個人的な用をたしてから、いつもの喫茶店にも寄り、夕方出社。暖かい日と予報されていたとおり、快適なライディングが楽しめた。後で、12℃だったことを知ったが、予報通り14℃だとばかり思っていた。いずれにしても、過去の経験から、空冷、水冷を問わず、15℃あたりにエンジン回転の最適レンジがあるような 結論を再確認したような日だった。

そのせいか、タンクのガソリン残量が減った場合と、満タン時では通常20キロ近く車重が違うことを今日は実感。
しかも車体上部に位置するので、この差は大きい。

フロントタイヤを古い絶品のパターンから現行パターンのタイヤへと変えたので、コーナーが楽になった気がする。
高速コーナーリングではなく、通常の場合の話しだが。

以前メッツラーのタイヤをリヤにつけたらコーナー感覚が驚くほど安定し、舌を捲いたことがあった。20年前で2万7000円ぐらいだったか?ネットによると、ミシュランの18インチタイヤも生産中止だそうである。18インチタイヤを17インチに変えるとそれだけで制動距離が縮むのが体感できるようであるが、スタイル的には18インチのほうがさまになっていると思えるのだが。話しは変わるが、スズキの2サイクル空冷2気筒500が出たとき、スタイル的にはずいぶんスイングアームが長いと思われたが、後で、プロトたいぷのままだと、フロントがすぐに浮いてしまうので、それを抑えるために長くした、という解説を読んで納得した。海外では、タイタンと呼ばれていて、ベストセラーとなったGT380より以前のモデルであった。

それで、思い出したが、以前キャノンボールという映画では、1台エントリーしたバイクはカワサキ3気筒の400だった。これもコーナーで宙を飛び、大木の樹冠に飛び込んでしまうシーンが印象的。たしか命はとりとめたようだが、目的地の渋滞路で、ドアを開けた車のドア
に激突するお決まりのシーンもあった。2作目は、今度はハーレーで、常時フロントアップで
走っていたが、事故るシーンはなかったような気がする。

http://www.geocities.jp/shonaka2001/

では今年からBig1の紹介以外に、他の趣味のコラムも掲載されるようになった。もともと楽器やアマチュア無線とかもあったのだったが、今回はアガサ・クリスティーの推理小説に関する思い入れや考察だ。今後も注目したい。

アガサというネームで思い出すのは、せいろん談話室だ。
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/top_display.cgi

ここは産経新聞系の政治談義が中心だが、阿笠 力というハンドルネームの方がときどき、
まとめて投稿されるのだが、文面から中国人らしく、しかし、珍しく日本側にたって主張
を展開。そのため、厳しい当局の監視網から、どうやって引っかからずに投稿できるのか
疑問視もされたが、最近は間違いなく中国人らしい、と思われているようだ。

てにおはの微妙なちがいなどから、(日本の大学で講師経験もあったようだ)ちょっと面白い日本語となっている。今は投稿がないが、昨年秋にはかなりまとまって出ていた。また、台湾の方もいらしたが、こちらの日本語もちとちぐはぐな感じだが、意識は、李登輝氏同様、戦前の日本人のようだと、感じた。今は、日本防衛考というテーマで投稿募集中。といっても、テーマにそっていなくても、よほどのことが無い限り掲載され、前回や前々回などからの論争を引きずっていたり、個人同士の言い争いみたいなものまであり、少し内容が重い感は
あるものの、面白く過去には数回投稿したこともある。ついていけない議論もあるが、年齢が表示されるので、団塊の世代としては、他年代の方の時代感覚の動向もある程度だが、推察
される。

ちなみに、前回は年末から松の内まで、「団塊の世代」を考えるだった。

水曜日, 1月 17, 2007



何の計画もなく、とりあえず情報交換ということで始めたブログだが、毎日更新はやはりきつい。

手持ちの写真もそう多くはないし、話題だってどうしても限られてくるし、何処辺で止まってしまうかの興味で続けているような面もある。sho様も、メモを とったりする必要があるかもしれないようなことを心配されていたが、私とて、例外ではない。そのメモに書き込むこともない、そういうタイミングもある。つ くづく、連載マンガとか、毎日書いているプロの方のご苦労が偲ばれる。

昔のバイク仲間で、新田次郎氏宅まで原稿を取りに行ったという話を聞いた。かれこれ30年前の話。いまは、数学者でお茶の水大教授のご子息が、やはり「国 家の品格」を書かれて、230万部とかいうベストセラーだという。最近、どうも議員にしても医者にしても先生と呼ばれる職業で二代目、三代目が多く目に付 くようになったが、何らかのメリットはあるだろうが、やはり親の存在、知名度などの重圧に耐えて、頭角をあらわすのは、並たいていではないだろうと、新聞 記事などを読んでも感じさせられる。

新田次郎氏は気象庁の役人で、親戚には気象庁長官も勤められた、藤原博士もすでに先行しておられた。奥さんが、旧満州あたりから、乳飲み子と幼児2名を連れて一年かけて命からがら引上げられて
きた記録を、本にまとめたところ、時代背景も幸いしたのか、ベストセラーになった、という。ご主人があのくらいでベストセラーになるならと、二足のわらじを志して、文筆もはじめられた。仲間からは藤原てい夫と名乗ったらどうか、などと冷やかされた、という。

息子さんの正彦先生も、あとで、新田次郎氏が書いても書いても突っ返される日々が続いたことを明かしている。息子さんのアメリカ留学記が、賞をうけたことをことのほか喜ばれたという。

アメリカ留学記、イギリス留学記、などは皆私は面白く、失礼ながら、新田文学にはなじみがないのだが、引上げてきた家族が身近にいるせいもあってか、戦前 の家庭教育の雰囲気を知るわたしにとっては、藤原先生の著作はみな面白い。しかし、最初ほどインパクトはなくなってきたが、自分の年齢を考えると、私の感 受性が衰えたというのが、正確な評価かもしれない。

それで、すぐ少年の心に戻れるバイク生活、今日もまた楽しんでおり、若さ(ばかさ!?あるいは苦しさ!?)を少しでも長く維持しようと心がけている。これも何時まで続くことやら。

火曜日, 1月 16, 2007



カード会社と連絡をとり、ETC専用カードの分離を申し込む。すると、なんと、すでに専用カードは送付ずみで、クレジットカードは共用の一体型ではない、と否定された。な、なんということか、どうりでエラーコード03が出るわけだ。接触不良や、ETCでないカードの時などに出る
エラーコードらしい。それで、手数料1200円ほどを払って再発行を申し込んだ。1週間ほどで来るという。クレジットカードの番号を潰さないで、良かった。それにしても、送付された専用カードはどこへ消えたのか?

まだ、マイレージサービスを申し込んでいないので、再発行は手軽らしい受け答えだった。しかもクレジットカードとは別番号らしい。同僚がたまに使用しているというカードも分離された専用カードだった。あの金色の、かっての
デジカメの記憶素子(フロッピーに似たケースに差し込み、フロッピー装置で読み書きするアレ)みたいな金色のマークは、電子入札用カードにも付いていた。そして、いまのクレジットカードにもついているが、使えないのになぜついているのか、これまた不思議。

あとは寝てまつしかない。しかし、肝心のカードを入れるホルダーを兼ねた電子機器は、収納スペースを確保するため、シート下右側に縦に両面テープで貼り付けて固定してあり、通常サイドスタンドで駐車中に、強い雨がふると、シートのすき間から雨が入ることがある。バッテリー充電時には水がたまり、L型の六角のボルトレンチが錆びていた。カバーには、合い口にゴムパッキンがついているので、一応余程のことがない限り、大丈夫なのだろうが、これもテストするしかない。因に携帯電話は、1気圧30分の防水タイプだが、まわりは水につけてテストしてみようぜというが、その気にはなれない。走行中雨が降り、どうなるかの行き当たりばったりのテストとなるだろう。

月曜日, 1月 15, 2007


自宅への帰り道、信号の長い交差点で、今日はじめて意識したのだが、両足かかとがほぼぺたりと着くようになっていることに気づいた。シートに腰を降ろすだけで3センチほど沈み込んでくれる。

買っ たばかりのときは、5ミリも変化せず、堅いリヤサスだと思った。完全に車体負けしていた。前回車検時から、新規に名義変更した2年間に、たった 1600キロしか走行していないことが分かっていた。ほとんど車庫で眠っていたわけだ。それで、サスが堅いのはいたしかたないと思っていたが、ほぼ3ヶ月 で、5千キロ以上走行した現在での話である。ここのところの1000キロぐらいはかなりサスが柔らかくというか追随性がよくなってきたなと思っていたが、 車高が下がるという、BIG1乗りにはありがたいおまけも着いてきた。fff。

この状態だと、昔乗っていたGX750とほとんど変わらないのだと思った。車重だって、少しは重いけれど、GX750は一度甲州街道で、Uターンしようと急発進した乗用車を避けようとして急停止した弾みで
こけた。相手はすみません、大丈夫ですか?と声をかけたただけで、東京方面へ一目散。ウィンカーレンズが砕けて散っていたが、自分ひとりで起して帰った記憶がある。

写真はETC装着を扱っているNAP’Sさんの屋内駐車場。日曜日とあってバイクファンたちが結構着ており、トライアンフもこの型いがいにも塗色がちがう、ブラック中心のもう一台があった。

国 産とちがい、エキゾーストパイプが青く焼けるタイプが外車には多いが国産はわざわざそうならないよう、パイプが二重構造に加工してある、という話を聞いた ことがあるが、個人的には焼け色がついたほうが好きなタイプだ。昔、CB450に二人乗りで高速走行(たぶん田舎道)したあと、焼けたエキパイでタバコに 火がつけられたものだ、という話を聞いた思い出がある。

セローでも、CB360でも、暗いところで2000回転以上停止したままエンジンを回しつづけるとエキパイが赤く焼けてくるのがはっきりわかることを体験 したが、他車でも4サイクルは同様だろう。娘もイモラの後部座席から降りた時、半ズボンだったので、マフラー後部でも結構火傷を負っていた。あれは完全に 私の不注意だったのだが、・・・。

昨日より、予報通り気温が低く、風が冷たい。でも今日はCB1000SFにつけたETCのテスト走行も夕方するんだと、決めていた。

それで、昼食もそこそこにして、ノルマを達成し、少しでも早くバイクを受け取りにいく体制に拍車がかかる。作業は、昨日夕方完了した旨連絡をもらっていた。

そのせいか、予告時間帯内に受け取りに行けたが、いろいろ注意事項を列挙された。ハンドルバーに取り付けたミニアンテナの角度を変えないこととか、配線の取り回しの変更はノーグッドだとか、・・・。さらにもしバーが上がらなくても、追突/死亡事故の恐れがあるので、そのまま進行してくださいと、繰り返し注意を受けた。一抹の不安が、はじめて顔をのぞかせる。

受け取って、会社にもどり、用意しておいたカードを挿入する。スイッチがないので、カードがないと、常時レッドのパイロットランプはオン。カードを認識すると、 グリーンと交互に5回点滅を繰り返しグリーンが常時オンになれば、機器がカードを認識する仕組み。警告音の類いは一切なし。

それで、明日の準備をすますと、さっそく会社から10キロほど離れたインターへと向かう。はじめてなので、後から来た乗用車を1台やり過ごし、それに続いて専用レーンへ。前の車で勢い好くバーが上がる。上がったままではわからないので、少し離れてバーが降りてからと思ったら、レレッ!!?バーは上がらず、さがったまま、パイロットランプは赤に変わっていた。やばい!。

車が他にいなかったので、Uターンして出てしまい、もう一度カードを再挿入。ちゃんとグリーンに変わる。今度上手くいったとしても、信頼性に難があって、不安だな〜と思いつつ、もう一度トライ。やはりバーの手前でレッドに変わってしまい、バーは上がらず。バーの長さは、道路の幅の半分以下で、片側しか上下しないので、ぶつかる心配はほとんどない。それで言われたとおり、本線に進入し、受けた注意通り連絡を入れる。後で再調整しますから、料金所はお金を払ってでてください、と指示をうける。

しかたなく、1区間だけ(300円)走行して出ることに。無賃通行も可能だが、一応路肩に止めていると、係員が行きますから、下手に動かないでください、と指示を受ける。いろいろとやりとりした結果、カードの期限切れとわかりあっけなく解決。だいぶ手前でレッドに変わったが、その時点までに交信完了だったのだ。

カード期限切れの月に申し込んだので、てっきり次の延長カードだと勘違いしたミスだった。その直ぐ後に、本来の更新カードも届いたので、なおさらチェックしなかった。それで、頭を冷やしながら、新たに来たクレジットカードに、ETCと同じ金色のマークがついていたのを思い出し、更新カードは1体型だと初めて気付いた。

それで、そのカードが、会社においてあることを思い出し、取りにもどり、つけて見て、もう一度寒いけれど、確認走行しようと決意。しかし、すぐにそれも無理と判明。ETC専用カードは全くの平たいカード。しかし、新規の共用カードでは、名前やカード番号が裏から打ち出しで0.3〜0.4ミリほど盛り上がっており、そのそばに金色の接触面があるので、バイク用の機器(日本無線一社のみ)では、そこに接触する縦4段の接点のうち、3段分だけは接触した跡がついていたが、盛り上がった番号に最も近い部分の4段目の接点は接触痕跡がついていない!!!。

それで、点滅2回だけで、何度やってもレッドランプが点灯。が〜ん、完璧だ。4輪用装置ではどうだか知らないが、(確かめずに帰ってきてしまったので)二輪では、専用の平たいカードでないと認識しない、という問題点が、文字通り「浮き彫り」となった冬の夕方のおそまつではあった。

日曜日, 1月 14, 2007


トライアンフの話しは高1で映画の関連で知ったのだが、実際に実物を意識したのは二十歳前後。バス停で、いろいろな国産バイクの音が入り交じるのを聞いていたら、はっとした。ほれぼれする音が響き、目の前を日光方面から水戸方面へと流れていった。

なぜそれがトライアンフとわかったのか、今考えてみるとタンクの文字を見たのだろう。黒いタンクにメッキのカバーがついたようなデザインの国産バイクのタンクしか見なれていない眼には、音もいいがデザインというか配色の妙というか、しっとりと落ち着いた渋い色合いもはっきり外車としての存在感を誇示していた記憶が蘇る。

排気量もハーレーについでナナハンが出るまでは、2番目。バイクで650ccで、スポーティという組み合わせは、当時としては文句なしに最高に感じていた。

当時のバイク雑誌に、BMWやトライアンフのオーナー氏が愛車自慢をする記事があり、各車の特徴を好く捕らえているとおもったが、バイクの醍醐味は英車に尽きる、といいきるオーナー氏の締めくくりが妙に印象に残った。たしかに、バーチカルツインは80キロ以上も出すと振動で手が痺れるということが、最大の欠点だと思っていた。シャフト駆動のBMWの高速性能の好さと静粛性は捨てがたい魅力。

しかし、英国人の趣味としての要素が色濃く反映している精神的要素の魅力というか魔力にも気付いていて、あの歯切れのいい排気音は、真似ができないと思った。最初にのったバイクがヤマハの125ということもあるが、排気音をホンダよりも重視した姿勢のヤマハに魅かれたこともこの音質の魔力の影響があると思っている。

卒業の頃、家にはヤマハのピアノ、ヤマハのステレオセットがあり、無いのはヤマハの650ccの2気筒だけ、と言っていた。いずれトライアンフを真似たヤマハ650が所有できれば、というのが当面の、時代に逆行したような私の将来のバイク像だった。

カワサキのW1も英国車のコピーとしてメグロのバイクから発展したようだが、左ブレーキ、右シフトのスタイルまで踏襲していた。やがて、リンクを介して右ブレーキ、左シフトへの変更されて行くのだが。

土曜日, 1月 13, 2007


ハーレーが、家に来て私が慣らしをしていた頃、最初季節は初夏だったが、30分も市内走行をするとかなりエンジンが熱くなり、タンクがスリムなので、まともに乗ると足が熱くてかなわず、20センチ以上膝を放して乗らなければならないほどだった。

ハーレー乗りが足を広げて跨がるのは、そういう理由もあったのかと思いもしたが、あくまでも個人的な体験だし、慣らし中だったせいもあるかもしれない。冬に20キロ程通勤に使うと、暖まるのはシリンダーだけで、クランクケースは暖かいだけ、オイルタンクはもっと温度が低かった。

今のCBもシリンダーは少し熱いが、クラッチケースカバーはあまり熱くない。400のときは夏では、少なくとも右足はハーレー並に放さないと熱かったので、1000だと夏場はどうなるか、いまから心配というか楽しみでもある。きっと、ラジエーターファンが、がんがん回るのだろう。

しかし、暖冬とはいえ、冬場はいくら走っても、エンジン熱を足が感じることはほとんどない。少しは期待した1000ccだが、期待はずれ。昔は、水冷の2サイクルエンジンでも、水温計が動かないからといって、ラジエーターに半分ほどカバーをつけて風通しを悪くして走っている人もまま見受けた。

ネイキッドでない、エンジンがほとんどカバーされたバイクでは、どうなんだろう。冬場は少しは暖かいのだろうか?ホンダのウィングのようなエンジンが車並のバイクでは、車で採用されているような、暖房ファンがついているのだろうか?ついていればその点だけはうらやましい。

金曜日, 1月 12, 2007


やっと、昔北海道へツーリングに出かけたときのバイクの車種判別ができる写真が出てきた。

隣の市にスズキの部品センターがあり、ボーリングなども請け負ってくれて重宝した。2サイクルだし、シリンダヘッドを外し、シリンダだけを2個新聞紙で包み鞄にいれて運んだ。もうボーリングはしない方針だったので、最大のオーバーサイズピストンが入るように頼んだ。

計算では251~252ccぐらいになったはずだった。大学時代CB72で頼んだときは、後で判明したのだが、シリンダーは2気筒でも一体型で、どちらか忘れたが、シリンダのボアアップが少し斜めに処理されて、後で分解したとき、ピストンのスカート部が半円部分だけすり減って厚みが半減していた。どうりで、下手な慣らしのせいもあったが、調子よく走っていても軽い焼き付きでエンストしたわけだ。

そんな心配をしていたが、今度はうまくいったようだった。ついでに、吸、排気ポートのバリ取りも出来る範囲でほどほどにやり、慣らしも適当にやった。シリンダヘッドのガスケットの厚みを調節して圧縮比をいじることは、この時代にはもうしなかった。モータロイは当然入れていた。モータロイの宣伝は、当時バイク雑誌の後半にはかならずといっていいほど載せてあった。

当時としては珍しく6速のミッションで、シフトタッチが気に入っていた。上野のバイク街で、昔、変なCB72を掴まされた店へ再び行って買ってきたもので、今度はまずまずの中古だろうと思っていた。タンクは自分で勝手に塗り替えた。庭が狭かったので、確か屋根に上がり、新聞紙をたくさん敷いて数度塗りをしたので、私のバイク狂ぶりがすぐ近所に広まったらしい。

パンク修理も、自分でやっていたが、最初は、修理してもはめ込むときにまた自分でチューブを傷つけ、一個の修理のはずが、穴数個の修理になったことがあった。いろいろな都合で乗れないときに、キック始動(それも左キック)でもいちおうバッテリー点火だったので、回路を
すこしいじり、ライト点灯モードでも、別スイッチをランプハウスにもうけ、ライトだけOFFにできるようにして、充電量を増やす工夫をしておいた。それで、冬に二月ほど乗らず完全に上がってしまったような状態でも何回かのキックで始動し、ちょっと走るとウィンカーなどもまともにつくようになった。

シリンダーは多分ボーリングしたときに発熱量が大きくなるだろうからと、ブラックの放熱促進塗料を塗ったためにそこだけ色が変わっているが、ヤマハのDX,RXなどの影響を受けたこともあると思う。

この写真ではまだ変わっていないが、リヤサスをGT380用に変えたら、だいぶよくなった。
最初東京を夕方出発し、宇都宮の後輩の下宿に一泊し、早朝4号線を北上し夜になって、フェリーに乗り込み、真夜中に出発、翌朝4時頃函館に降りて、一気に札幌まで走った。この両日の走行が後にも先にも一番よく走った記録だろう。

水曜日, 1月 10, 2007




映画「アラビアのロレンス」

この映画は、出だしからバイクを磨くところから始まる。そして、ロレンスの事故死と盛大な葬儀・・・そこから彼のアラビアでの活躍が描かれ、最後に任務を終了し、軍用のオープンカーで砂漠から港に向かう途中、後から来た伝令のオートバイに抜かれてその行く末をじっとロレンスがみつめているところで終わる。まるで、帰国したら
バイクに乗るぞ、とこのとき決めたかのように描かれていると、思った。このシーンの伝令用オートバイはよくわからなかったが、単気筒の500ccかなと思っているが、ご存知の方はご教示ください。ステレオサウンドで実に排気音が効果的に使われていた、という印象だ。テレビで放送されたそのちょっと前、
トライアンフなどの排気音を納めたレコードが発売され、トラのサウンドに痺れたことがあるので、余計に印象に残ったような気がする。

いつだったか、だいぶ後で、ロレンスのバイク事故は、単なる事故死ではなく、謀略による間接的な暗殺だという記事を見た記憶がある。故ダイアナ妃の事故死でもいろいろ取り沙汰されたが、理由はロレンスが英国政府にとって、邪魔な存在と化したからだという。アラブ側にたって、アラブ独立を支援する形でアラブに肩入れしたロレンスからすれば、英国政府が列強と取引した内容は、アラブを裏切る結果となり、その事でロレンスに秘密を暴露されるのを恐れた結果だというような印象を受けた。

第一次大戦中、科学が進歩し、砂漠がかならずしも軍事的な防衛線として安心というわけではなくなり、フランスがシリアを要求する以上、スエズ運河は、今のパレスチナに緩衝地帯を設けない限り、安心というわけには行かなくなった事実があった。バルフォア宣言といわれる、パレスチナにシオニストの民俗的郷土としての緩衝地帯を置く約束をかわしてしまっていた。

戦後まもなく、まだ英国の占領軍もいた時代、都内某所の坂道で、英国の伝令バイクと米軍の伝令バイクが、自然と競争になり、英国のバイクが負けて転倒し、半ズボン姿の英国兵は足から血を流していた、という記述も読んだことがある。英国車は単気筒のBSAかなにか、米国車は言わずとしれたハーレー。いくらテクニックを駆使しても、無理だったのかどうかまではわからないが、ヨーロッパの軍用は、500ccぐらいのものが多いのでは。

モトグッチを買った頃、500のVツインの軍用モデルが何台も渋谷の代理店には置かれていた。NATO軍ご用達というふれこみだった。また、側車としては、ソ連製のドニエプルの中古が1台置いてあった。若いご夫婦が注文したが、いざ乗ってみると、車と違い寒くてしかもシャツの襟がホコリで汚れてたまらない、と返品されたとか。ファッションだけで選んだ御両人はもともとバイクに乗る資格はないというような感想を主人はぽろりとこぼしたような記憶がある。このドニエプルは、モスクワ近郊まで攻めたドイツのBMWをコピーしたもので、そのコピーがまた、中国で長江とかいって生産されたという記事は当時バイク雑誌で知っていた。