土曜日, 6月 19, 2010

以前から、どこかへ行ってしまったと思われた忘れ難い文章が、ふとしたはずみにでてきた。ある本の扉の裏に手書きで書き写されていた。『科学英語論文の基礎作法』なる本であった。マイケルJ.カッツ著、桜井邦朋訳、朝倉書店、1989である。
この文章は、たしか月刊誌『現代化学』(東京化学同人)のある号の巻頭言か何かに載ったものだと記憶する。当時、論文の書き方や、文章修業の方面に精を出していた時期があって、待ってました!と反応した記憶がある。ただ、残念なことに、これを読んでも、書きたい気分にはならなかった。
書物の内容から、科学論文ではなく、化学論文であったと思うが、化学好きではあっても、生命科学系なので、化学を科学として書き写した記憶がある。

残念ながら書かれた先生のお名前は失念してしまった。現代化学系で検索したが、見つからなかった。
しかし、現代化学は、今もそうだと思うが、論文作成助けになるような、話題がよく提示されることが多く、一つの論文を良く読めば、そこから、論文テーマが二つか三つくらい見つけられるようでありたい、などというような励ましと言うか、やる気を起こさせるような記事もあったりした。研究室訪問などというような記事も当時は、門外漢ながら、知的刺激としては、適当であった。ただ、ここでかって紹介されたやり手の女性研究員の方が、某大学の教授になられた後、テレビニュースで、科研関連費用のプールの不適切さを指摘するニュースで、ふたたび白衣を着て容姿をさらしておられたのには、唖然とした。

それはともかく、この桜井先生の翻訳された論文の基礎作法に関する中味は、生命科学系そのものが扱われており、それ以前は、主として太陽系物理学に関する話題の著作に親しみすぎたせいか、このカッツ教授ご自身の投稿論文を分解して書かれた内容は、当時としては新鮮に感じはしたが、何かのヒント程度にはなったものと思われるものの、小生の一作目の拙著の執筆には、むしろ現代化学で励まされた影響のほうが、書き出しに関しては影響が大きかったように、思う。

勤めながら、その仕事に関係のない著作などを手がけるのには、それなりの努力と時間の余裕が、まず絶対的に必要条件となる。それが保証されないと、いくら手許に題材があっても、途切れ途切れのテンポラリーな努力だけでは、書きだすまでの一種の慣性効果の蓄積が得られない。そういうときに、時間がないとしても、まず書きたいと言う我が気分を取り戻すには、新たなに知的刺激を受けるような題材を求めるよりも、今までの蓄積の中を再吟味し、じぶんなりの触覚で、そうした気分を醸成する努力をしたほうが
まだ、少しは有効なのでは、と思っている。

徹夜での仕事などは、この年になると、とても若い時のようにはいかない、などという同年齢のクラスの先生方の述懐などを読むと、さもありなんなどと思い込んでしまっていたが、日頃研究の敵と思われた、人並み外れた会社の忙しさのせいで、1週間以上会社泊まりが続いた関係で、本当に追いつめられると
けっこうやれるものだという、妙な自信が沸いてきた。かっての、書き出しの方向が決まって、文章を書きだした後は、手紙を書くのもおっくうになり、それに専念したくてしょうがなくなった経験から、書き出しの方向がきまるように何らかの、直接あるいは間接的な集中的努力が必要という状況認識は、ここ10年、揺るがない。

ただ、そうした状況を誘起しようとすると、大抵は、直接関係のない知的分野への関心が往々にして起こりがちで、そられにかまけていると、再び仕事の忙しい波が襲いかかり、動き出しかけた機運は、ポシャッってしまいがちであった。最初に手がけたときは、バブル崩壊がすすみ、われらが業界の仕事量も
だんだん影響を受け、今では考えられないが、必然的に週休二日制か!?というような時期が続いてくれたおかげだった。ところが、その後業績が復活しだし、営業に来る方たちからも、お宅だけ異常に好況で、どこも皆暇だと言っていますよ、と言われるがとが半年も続いている。

なかのひと

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