木曜日, 11月 29, 2007
sho様のCB1300SFの燃費がかなりいい。うらやましい限りだ。
http://www.geocities.jp/shonaka2001/
たしかに、CB1300SFは、CB1000SFに比べて、排気量は、アップしたものの、出力はさほど変えなかったので、燃費がいいことは、カタログ数値にも表れていて、60キロ走行時に、1000の値よりはリッターあたり2キロほど向上していた記憶がある。それで、タンク容量もCB1000SFの23リットルから、21リットルへと変更されたのだと思う。
リッター16キロの燃費だとして、23リットルでは368キロ走行できるが、18キロの燃費だと21リットルでも378キロ走行できるので、敢えて23リットルにこだわる理由はなかったはずだ。これは主として、ピストンのストロークアップによって達成された排気量変化で、ピストン直径は僅か1ミリの増加にとどめたため、ピストン重量がほとんど変化せず、ピストンの往復に拘わる力の変化を最小限に抑えたことも影響しているような気がする。
最初から、将来的には1300の商業版をだす心積もりは、設計陣にはあったはずだ。また、CB1000SFが世に出た頃、特にその設計を煮詰めていた時季はバブル崩壊前でギリギリの燃費向上への配慮も、今よりは希薄だっただろう。
ネットでCB1000SFの燃費を調べたら、リッター20キロ近い例から、最悪で12.1キロ、14キロ前後と16〜17キロ前後と大きく二手にわかれた報告があることに気付いた。私のCB1000SFは好くないほうの平均的な値に近い。マイクロロン処理をしてもホンダ車は変わらない、という報告もあるのだから、その効果云々をいまここで述べる気はしないが、二つの燃費グループの差は何に基づくのか、最近燃料代も高騰しているし、落ち着いて考えてみる気になった。
とくに夏以降、ツーリングに出かけても以前ほど好燃費はでず、15キロをわることも。とくに最近の通勤の燃費は13キロ台前半に集中してしまい、最初の頃の14キロ台前半はどうやっても出なかった。
運転方法も特に変えてもいないが、・・・・とずっと不満でもあり、どうやらバルブシート接触不良が原因かもしれないなどという仮説も、なかなか捨てきれなかった。また、4万キロを越えての、各部の摩耗も原因かもしれないと思ったりもした。しかし、ねぜか今一これといった燃費不良の原因が見えて来なかった。
半年近く考えていたが、sho様が、日の当たらない車庫に止めておられるせいもあるかもしれないが、出かける前に必ずある程度の暖機運転をされる、というのがずっと引っかかっていた。
買ってから、すぐマイクロロンを入れたせいもあり、ほとんど暖機なしで動くし、通勤で毎回暖機などしていれば燃費に響くのはあたりまえ、と妙なけち根性を発揮しつづけていたのだが、燃費不良の原因追求の最後の切り札として、ある程度の暖機運転を実行する、という風に変えてみた。まだ満タンから1回目の給油だが、寒くもなってきたし、毎日乗るわけでもなくなってきているので、タンクのガソリンがまだ暖かかった時季のガソリンでちょっと冷えると始動性も低下してしまっているので、暖機運転は丁度いい、ぐらいに思って励行した。
チョークを引いて暖めると、オイルの焼けるいい臭いが鼻をくすぐる。この臭いは、さあこれからビッグ1ではしりだすのだ、と言う合図みたいなもので、精神のどこかに緊張の糸を張るような気がする。マイクロロン処理はしてあるので、音は心配したほど大きくない。これなら、朝、家の前でも実行可能のようだ、と最初に思った。
時間にして2分前後くらいか。段々暖機運転が上手くなっていく気さえする。それから走り出すと、驚くほどスムーズで、エンストもほとんどない。今までは、ちょっとしたことで、シフトの途中でエンストしたりしたのだが、ある程度以上暖めてしまえば、けっこう低速でもトルクがあるな、と感じられた。
もちろん、トップで60キロもでればエンジンは二千回転強で、街路のまがりなどもゆっくり方向転換などすると回転は1000回転ぐらいまで落ちるが、比較的スムーズ。最初に重い車体を、冷えたピストンで、しかも荷重を掛けながら、走り出すよりも、ある程度通常の走行状態に近い状態まで、ピストン、シリンダ間のすき間を熱膨張で狭くしてから走りだしたほうが好いことは、理屈ではだれでもわかることだろう。
もう、こうなった以上、燃費が少々悪くなっても、エンジンのためにいいことをしようとして、それで燃費が悪くならなければもうけものとして始めてみたが、今日スタンドで、自分で店員からノズルを奪い取り、給油してみて、ガソリンのメーターに眼をやると、普段より入りがすくないのが直感的に分かった。それで何かピンと来た。
このところどうやっても、通勤燃費はリッター13キロ前半、最初の頃の14キロ前半はどうやってもでなかったのが、今日は、14.29キロともとに戻っている。暖機運転を毎回励行しているのにだ。暖機運転を励行するようになってから、トップなどで定速走行していると、ほとんどアクセルを開けないでも走っているなと感じていたので、もしかしたら、このことが、暖機でのロスを上回れば、燃費向上につながるわけだと考えたりもしていたのだが、予想は、今回は当たってくれた。
いずれまた報告したいと思っている。たった、リッター1キロの向上と笑うなかれ。これで、1回の給油で会社1往復を稼ぎ出すのである。この前のsho様のレポートのように、まんまツーリングでの燃費と、そうでない燃費とでは、リッター4キロ近い差がでているではないか。私はこの数値を前にして、ツーリング経験から、ピストンを走行状態にして走り出し、走ることを給油まで続ければ、ぜったい燃費は好くなる、という仮説を確信したのだった。ヒントを与えていただいた、sho様に感謝しています。
この仮説が正しければ、この夏やっと暖機の必要がなくなったと勘違いして、暖かいからエンストもしないしと、気楽に冷えたエンジンでアクセルを比較的低回転でも開けぎみにしていたのは、最悪であるという結論に・・・。夏以降燃費が落ちてきたのだった。ピストン温度を考慮すれば、今どきと夏との気温差20度Cなどという差は、意味がないことになる。夏でも最低でも1分半ぐらいはしたほうが良かったのだと・・・。
しかし、燃費が戻ったとなると、摩耗による低下説は怪しくなる。これがマイクロロンの効果なのかもしれない。経験から、最低一年は、そのバイクと付き合ってみないと特性はわからない、というのがこれまでの経験から言えると思う。
今では、エクセルの機能をつかって、行列(メイトリクス)演算もできる時代になったが、面倒くさく、数式処理ソフトがある以上、それを使えば便利この上ない。
それまで、BASICプログラムで、いろいろなサブルーチンを用意し、データを入力するプログラムと連動させて計算させていたような処理は一気に過去のものとなった。フロッピーも8インチから5インチ、3.5インチとなり、おもに5インチで使用したそうしたプログラムも、垣間見ることもできなくなった。
マックが最初から3.5インチフロッピーを装備しながら、途中からフロッピーレスとなりマック用のフォーマットに移したものも、たぶんウィンでは読めないだろう。まだ、プログラムリストはほこりをかぶって、探せばあるかもしれないが。
そんなわけで、行列の例題演習書などを買って、数式処理ソフトの結果と比較したり、毎晩苦労していた行列演算が、眼のあたりに展開されるのが「うれしくて」やたら演算させていたりした時代があった。それで、教科書のミスプリがかなりあることを知った。それを頼りに手計算で、どこかで違ったと思って落ち込んだりしていたら、学ぶべきその先の課題にアクセスすることは難しいだろう、よほど優秀でないかぎり・・・。
あるとき、知り合いの会社に行ったら、かなり金額の大きい仕事を某公団関連の事業から受注し、納品となったが、所長殿が、結果の精度があまりよくないことに難色を示し、かれこれ二ヶ月以上納品がストップしてしまい、困っているという話を偶然聞いた。
それで、測量ソフトにもミスがあるかもしれないので、それを使わないで再点検して、どうしてこんな結果でしかないのか、説明しなさいという注文を付けられ、担当者は過去4度説明に伺ったが、うち二度は、また君か、今日は疲れているので、またにしてくれなどと嫌味を言われたりしていたらしい。
なるほど、精度は褒められたものではなかった。しかし、測量プログラムは、ブラックボックスで、それを使わないで、別の計算をするとなるとどういうルーチンで計算をしているか知らなければ、手がだせない。
私は、通常の最小二乗法しかしらないし、どうしたものかと思った。それで、担当者の学生時代の、測量学校の教科書を持ってきてもらい、どういう教材か覗いてみたら、なんと測量結果の網平均(専門用語らしいが、要するに観測がみな同程度の誤差を含んでいると仮定されたときに、誤差を最小の配布で平均する方法らしい)にラグランジュの未定定数法、ここでは、未定係数法と書かれているが(最小二乗法の理論とその応用、小牧・田島共著、東洋書店)、
それをつかっているらしい。
通常の測量プログラムに対して、網観測が自由にでき、条件をつけなくても、データだけ指定してやれば厳密に計算する、厳密網平均プログラムは別途に100万近くするし、あまり普及していなかった。
それで、国交省指定の網に応じた平均方法のプログラムをみながら、3日ほどその会社にマックを持参し、たしかいろいろ表計算も使ったりしながら、商用ソフトに頼らない演算結果を得て、あたりまえだが、商用ソフトにミスはない結果をえた。CDROMを付けたパソコンはマックが
まっさきに採用し、社員にデモンストレーションなどもしたので、うちもこういうのを買ってくださいと言い出す社員もいた。
それで、5回目の説明会には私も同席し説明することになった。例のごとく、担当責任者がぼそぼそと、つまりながら、言いよどみながら、事前に予想したとおりの冴えない説明を始める。数分で、何か、所長殿の逆襲を食らって頓挫してしまう。いじめと映ったので、すかさず割って入り、後半の説明を10分ほどし、質疑応答をしているうちに、別の説明を思いつき長々としゃべりだしたら、所長殿がすっと立ち上がり、もういいと。それで、納品オーケーとなった。同席した公団系の会計担当者なども皆ほっとした顔をされていた。
今から思うと赤面ものだが、日ごろマックでの計算トレーニングをしていた自信があふれていた時期だったから出来たのだと思う。今では、とても細部までは思い出せない。
昔は、みな手計算でこんなことをしていたのだと思うと、頭が下がる思いであるが、それだけに、国交省が例解として示した二色ズリの教材にも、最後のほうの誤差の推定で、手書きゆえか、ミスした手書きの数字がそのまま残されているのをみると、救われる思いがする。
今日のニュースでも、某建設会社が、船橋市で取り付ける基準点を誤ってしまい、あらぬ方向へ下水道を掘ってしまい、勝手に他人の土地の下に100メートル以上は下水管をいれてしまった、という。抜き取って埋めなおすというのだから、責任者は辛いだろうなと同情してしまう。
橋げたの位置が一メートルずれていた、などということもあるらしい。こういう場合は結果がすぐわかるが、外交の失敗とか、政策のまずさなどという問題はどうなっているのだろうかとふと思ったりもするが、これらを是正するのは至難の技だろうなと、考えないことにするで済まされる問題ではないのだが。逆に手順どおりやればよいというモデルがないので、それだけ評価も一筋縄ではいかないわけだし。
そこで、ふとこんなことを。科学者は、おれはこうおもう、と実験や調査の結果をだせばよく、間違っても、データ改ざんなどをしていなければ責められることはあまりないが、技術者やその免許で食べている者は、間違えば責任を問われる。大は戦争裁判から小は軽微な駐車違反にいたるまで、賞味期限改ざんもあるし、・・・責任者というのはつらい立場が多い。
左がかった連中のミスはところでどうなんだろう!?総理大臣、裁判官から、教室の現場まで・・・。
数学は裏切らないことを、梶原教授はどこかで力説していたような記憶があるが、・・・。決して欺くことのない、人生の伴侶とかなんとか、・・・。ただ、数学が本当に必要なときが何時来るかは、だれにもわからないとも。
それまで、BASICプログラムで、いろいろなサブルーチンを用意し、データを入力するプログラムと連動させて計算させていたような処理は一気に過去のものとなった。フロッピーも8インチから5インチ、3.5インチとなり、おもに5インチで使用したそうしたプログラムも、垣間見ることもできなくなった。
マックが最初から3.5インチフロッピーを装備しながら、途中からフロッピーレスとなりマック用のフォーマットに移したものも、たぶんウィンでは読めないだろう。まだ、プログラムリストはほこりをかぶって、探せばあるかもしれないが。
そんなわけで、行列の例題演習書などを買って、数式処理ソフトの結果と比較したり、毎晩苦労していた行列演算が、眼のあたりに展開されるのが「うれしくて」やたら演算させていたりした時代があった。それで、教科書のミスプリがかなりあることを知った。それを頼りに手計算で、どこかで違ったと思って落ち込んだりしていたら、学ぶべきその先の課題にアクセスすることは難しいだろう、よほど優秀でないかぎり・・・。
あるとき、知り合いの会社に行ったら、かなり金額の大きい仕事を某公団関連の事業から受注し、納品となったが、所長殿が、結果の精度があまりよくないことに難色を示し、かれこれ二ヶ月以上納品がストップしてしまい、困っているという話を偶然聞いた。
それで、測量ソフトにもミスがあるかもしれないので、それを使わないで再点検して、どうしてこんな結果でしかないのか、説明しなさいという注文を付けられ、担当者は過去4度説明に伺ったが、うち二度は、また君か、今日は疲れているので、またにしてくれなどと嫌味を言われたりしていたらしい。
なるほど、精度は褒められたものではなかった。しかし、測量プログラムは、ブラックボックスで、それを使わないで、別の計算をするとなるとどういうルーチンで計算をしているか知らなければ、手がだせない。
私は、通常の最小二乗法しかしらないし、どうしたものかと思った。それで、担当者の学生時代の、測量学校の教科書を持ってきてもらい、どういう教材か覗いてみたら、なんと測量結果の網平均(専門用語らしいが、要するに観測がみな同程度の誤差を含んでいると仮定されたときに、誤差を最小の配布で平均する方法らしい)にラグランジュの未定定数法、ここでは、未定係数法と書かれているが(最小二乗法の理論とその応用、小牧・田島共著、東洋書店)、
それをつかっているらしい。
通常の測量プログラムに対して、網観測が自由にでき、条件をつけなくても、データだけ指定してやれば厳密に計算する、厳密網平均プログラムは別途に100万近くするし、あまり普及していなかった。
それで、国交省指定の網に応じた平均方法のプログラムをみながら、3日ほどその会社にマックを持参し、たしかいろいろ表計算も使ったりしながら、商用ソフトに頼らない演算結果を得て、あたりまえだが、商用ソフトにミスはない結果をえた。CDROMを付けたパソコンはマックが
まっさきに採用し、社員にデモンストレーションなどもしたので、うちもこういうのを買ってくださいと言い出す社員もいた。
それで、5回目の説明会には私も同席し説明することになった。例のごとく、担当責任者がぼそぼそと、つまりながら、言いよどみながら、事前に予想したとおりの冴えない説明を始める。数分で、何か、所長殿の逆襲を食らって頓挫してしまう。いじめと映ったので、すかさず割って入り、後半の説明を10分ほどし、質疑応答をしているうちに、別の説明を思いつき長々としゃべりだしたら、所長殿がすっと立ち上がり、もういいと。それで、納品オーケーとなった。同席した公団系の会計担当者なども皆ほっとした顔をされていた。
今から思うと赤面ものだが、日ごろマックでの計算トレーニングをしていた自信があふれていた時期だったから出来たのだと思う。今では、とても細部までは思い出せない。
昔は、みな手計算でこんなことをしていたのだと思うと、頭が下がる思いであるが、それだけに、国交省が例解として示した二色ズリの教材にも、最後のほうの誤差の推定で、手書きゆえか、ミスした手書きの数字がそのまま残されているのをみると、救われる思いがする。
今日のニュースでも、某建設会社が、船橋市で取り付ける基準点を誤ってしまい、あらぬ方向へ下水道を掘ってしまい、勝手に他人の土地の下に100メートル以上は下水管をいれてしまった、という。抜き取って埋めなおすというのだから、責任者は辛いだろうなと同情してしまう。
橋げたの位置が一メートルずれていた、などということもあるらしい。こういう場合は結果がすぐわかるが、外交の失敗とか、政策のまずさなどという問題はどうなっているのだろうかとふと思ったりもするが、これらを是正するのは至難の技だろうなと、考えないことにするで済まされる問題ではないのだが。逆に手順どおりやればよいというモデルがないので、それだけ評価も一筋縄ではいかないわけだし。
そこで、ふとこんなことを。科学者は、おれはこうおもう、と実験や調査の結果をだせばよく、間違っても、データ改ざんなどをしていなければ責められることはあまりないが、技術者やその免許で食べている者は、間違えば責任を問われる。大は戦争裁判から小は軽微な駐車違反にいたるまで、賞味期限改ざんもあるし、・・・責任者というのはつらい立場が多い。
左がかった連中のミスはところでどうなんだろう!?総理大臣、裁判官から、教室の現場まで・・・。
数学は裏切らないことを、梶原教授はどこかで力説していたような記憶があるが、・・・。決して欺くことのない、人生の伴侶とかなんとか、・・・。ただ、数学が本当に必要なときが何時来るかは、だれにもわからないとも。
水曜日, 11月 28, 2007
人の一生と数学ー 大学を出てからも数学は必要であり、それが何時訪れるかはわからない、・・・九大教授のつぶやきから思い起こすあれこれ・・・
子供の頃といっても、小学生高学年、5年か6年の頃、父親から電子計算機なるものが出現し、一生かかかってもできないような類の計算をほとんど瞬時になしおえるような機械だと教えられた。しかも、計算は0と1だけの二進数で行われるなどという、余計に数学から遠ざかりたくなるような話も聞かされたが、そうなるとほとんどうわの空で聞いていたような気がする。
大学に入っても、卓上にでんと置かれたタイプライターより大き目の計算機があったが、われわれ学生はまだ、手回し式の計算機をあてがわれて使った。
卒業の頃、電池式のポケット計算機が数千円から一万弱で売り出され、爆発的にヒットして、答え一発カシオミニなどというCMが流行った。それでも買ったのは二、三年あとで、二千円以下ぐらいの手のひらに納まるようなせいぜいルート計算が出来る程度のものを仕方なく買った記憶がある。
仕事の都合で、統計や最小二乗法の基礎を少しわずかの数値でしかなかったが、手計算では埒があかないので、入手した。しかし、入力が間違うと再度最初からやり直しで、あまり好きになれなかった。そのうち、横河電気だか製作所から、プログラム電卓がでたが、数万円はしていたようだが、まだ実感がわかなかった。
それからまもなくマイコンブームが起きて、初期のものが回りにも少しづつ導入されだしたが、まだ距離感がありとっつきにくかった。
5年以上下の後輩のほうが、教養課程でコンピュータ教育を受けてきているせいか、抵抗無く
接しているようだったが、使いこなしてはいないようだった。しかし、仲間のひとりが百万近くするパソコンを買って、フォートランを入れて何やらシュミレーションするなどという話が出てくると、そういう時代なんだな、と改めて思い、勉強する気になってきた。
まだ、近くの喫茶店などでは、インベーダーゲームが流行っていた頃である。ディスプレーもカラーはあったが、多くはモノクロで、黒い画面に緑色で文字が表示されるものが多かった。
マイコン雑誌もいろいろ出るようになり、折に触れて買ってはみたが、機械語のオンパレードで、とても親しめる類ではなかった。
それでも、各社各様のマイコンを見ていると、いろいろと特徴があるらしいことはわかった。
東芝のパソピア、シャープのMZシリーズ、NECのPC8000とかPC8800シリーズ、富士通のFM7、ニュー7などなど。ワープロも、専用機が登場し、ほぼ同時にパソコン版も。マイコンからパソコンへと呼び名も変わって行く。そして、8ビット機から16ビット機へというトレンド。
そして、BASICというプログラム言語も、MSDOSベースで動作するようになり、プログラムの移植性が向上。フロッピーディスクの容量も320キロ、640キロ、1280キロバイトと増加していくが、世界標準の1.44MBとは違う基準で、外国産とは、互換性が無かった。初めて買ったPC8800の三代めシリーズで、豊富に出回っていたプログラムをあれこれ参考にして、最小二乗法のプログラムを作っては、打ち込んで使い勝手を試す日々。
ところで、京都の現代数学社から、当時「BASIC数学」という月刊誌が刊行されていて、BASICプログラムで、乱数を発生させ、πの近似値を求めるプログラムなども紹介されたりして、数学的問題への展望も期待されていた。それで、ときどきこの雑誌を読んでいると、数学史や統計に関する実用問題の解説やら、九大の梶原教授による、大学院や公務員試験に見る数学入試問題への解説、単に解くだけでなく、人生論も踏まえての、数学的な対応レベルで解法が堂変わるかなどの解説が面白く、毎号読むようになった。
しかも、梶原教授は、なんと岡潔博士のお弟子筋ということで、岡博士の研究の紹介や、いろいろなエピソードの紹介もあって、梶原教授の著作も、単行本として何種類かあるものを皆購入して、数学にうとく弱かった時代から、な~んだ、そうなのかと比較的数学につよいというか、数学好きな面がだんだん目覚めてきた。
しかも、どちらかというと左翼の先生でありながら、突然毎号掲載されていた記事を、ある時期から、すべてアップル社の32ビットパソコン、マッキントッシュ上で、アメリカの数学ソフト、というより、数式処理ソフト、Mathematicaを用いての解説に切り替わり、米帝反対の路線から決別されたことは、十分にそれまでの先生を知る周囲の人々を驚かせたらしい。
私も、プログラムで苦しんだ経験から、数式処理ソフトのすごさ、すばらしさに、すっかり参ってしまった。とくに、微分、積分、偏微分はいうにおよばず、厄介な行列計算が、数値はもちろん、文字で行列の各要素を入れても、処理してくれてまるで夢のような時代が、強力な師匠とともに現れてきた、と心から思った。
マッキントッシュと入力して漢字変換すると、魔金取手と変換されるなどという話をどこかで読んでまさにその通りだと思ったが、それでも数式処理ソフトを使いたさに、三年ローンを組んで、マック貧乏となったが、毎日が幸せだった。バブル期だったこともあって、他のソフト類や、周辺機器も次第にそろえて行けた。
当時は、Mathematicaが使えるパソコンはマックだけで、私が苦労してMathematicaを買って半年から一年ほどして、ようやくIBM系パソコン版も出てくるようになって、次第に広まっていったが、Theoristという数式処理ソフトもあり、このソフトだけは、IBM系への移植はなされず、
マック版だけであり、今でも貴重なソフトだと思っている。このソフト、今では数式入力ソフトとして、生き残っているようである。TheoristもMathematicaもふくめて、古い漢字トークから、MacOS8.1までの動作ソフトはウィンドウズ上で、BASILISKIIというエミュレータを使えば、まるまる動作するので、重宝している。ただし、このエミュレータ、マックOSの一部を書き込んだ起動用のROMを持っていないと動作しない。かって、マックを購入したものでないと、ライセンス上使用できないことになっているが、アメリカでは一時ネットで流通していたし、今でも探せばあるかもしれない。
子供の頃といっても、小学生高学年、5年か6年の頃、父親から電子計算機なるものが出現し、一生かかかってもできないような類の計算をほとんど瞬時になしおえるような機械だと教えられた。しかも、計算は0と1だけの二進数で行われるなどという、余計に数学から遠ざかりたくなるような話も聞かされたが、そうなるとほとんどうわの空で聞いていたような気がする。
大学に入っても、卓上にでんと置かれたタイプライターより大き目の計算機があったが、われわれ学生はまだ、手回し式の計算機をあてがわれて使った。
卒業の頃、電池式のポケット計算機が数千円から一万弱で売り出され、爆発的にヒットして、答え一発カシオミニなどというCMが流行った。それでも買ったのは二、三年あとで、二千円以下ぐらいの手のひらに納まるようなせいぜいルート計算が出来る程度のものを仕方なく買った記憶がある。
仕事の都合で、統計や最小二乗法の基礎を少しわずかの数値でしかなかったが、手計算では埒があかないので、入手した。しかし、入力が間違うと再度最初からやり直しで、あまり好きになれなかった。そのうち、横河電気だか製作所から、プログラム電卓がでたが、数万円はしていたようだが、まだ実感がわかなかった。
それからまもなくマイコンブームが起きて、初期のものが回りにも少しづつ導入されだしたが、まだ距離感がありとっつきにくかった。
5年以上下の後輩のほうが、教養課程でコンピュータ教育を受けてきているせいか、抵抗無く
接しているようだったが、使いこなしてはいないようだった。しかし、仲間のひとりが百万近くするパソコンを買って、フォートランを入れて何やらシュミレーションするなどという話が出てくると、そういう時代なんだな、と改めて思い、勉強する気になってきた。
まだ、近くの喫茶店などでは、インベーダーゲームが流行っていた頃である。ディスプレーもカラーはあったが、多くはモノクロで、黒い画面に緑色で文字が表示されるものが多かった。
マイコン雑誌もいろいろ出るようになり、折に触れて買ってはみたが、機械語のオンパレードで、とても親しめる類ではなかった。
それでも、各社各様のマイコンを見ていると、いろいろと特徴があるらしいことはわかった。
東芝のパソピア、シャープのMZシリーズ、NECのPC8000とかPC8800シリーズ、富士通のFM7、ニュー7などなど。ワープロも、専用機が登場し、ほぼ同時にパソコン版も。マイコンからパソコンへと呼び名も変わって行く。そして、8ビット機から16ビット機へというトレンド。
そして、BASICというプログラム言語も、MSDOSベースで動作するようになり、プログラムの移植性が向上。フロッピーディスクの容量も320キロ、640キロ、1280キロバイトと増加していくが、世界標準の1.44MBとは違う基準で、外国産とは、互換性が無かった。初めて買ったPC8800の三代めシリーズで、豊富に出回っていたプログラムをあれこれ参考にして、最小二乗法のプログラムを作っては、打ち込んで使い勝手を試す日々。
ところで、京都の現代数学社から、当時「BASIC数学」という月刊誌が刊行されていて、BASICプログラムで、乱数を発生させ、πの近似値を求めるプログラムなども紹介されたりして、数学的問題への展望も期待されていた。それで、ときどきこの雑誌を読んでいると、数学史や統計に関する実用問題の解説やら、九大の梶原教授による、大学院や公務員試験に見る数学入試問題への解説、単に解くだけでなく、人生論も踏まえての、数学的な対応レベルで解法が堂変わるかなどの解説が面白く、毎号読むようになった。
しかも、梶原教授は、なんと岡潔博士のお弟子筋ということで、岡博士の研究の紹介や、いろいろなエピソードの紹介もあって、梶原教授の著作も、単行本として何種類かあるものを皆購入して、数学にうとく弱かった時代から、な~んだ、そうなのかと比較的数学につよいというか、数学好きな面がだんだん目覚めてきた。
しかも、どちらかというと左翼の先生でありながら、突然毎号掲載されていた記事を、ある時期から、すべてアップル社の32ビットパソコン、マッキントッシュ上で、アメリカの数学ソフト、というより、数式処理ソフト、Mathematicaを用いての解説に切り替わり、米帝反対の路線から決別されたことは、十分にそれまでの先生を知る周囲の人々を驚かせたらしい。
私も、プログラムで苦しんだ経験から、数式処理ソフトのすごさ、すばらしさに、すっかり参ってしまった。とくに、微分、積分、偏微分はいうにおよばず、厄介な行列計算が、数値はもちろん、文字で行列の各要素を入れても、処理してくれてまるで夢のような時代が、強力な師匠とともに現れてきた、と心から思った。
マッキントッシュと入力して漢字変換すると、魔金取手と変換されるなどという話をどこかで読んでまさにその通りだと思ったが、それでも数式処理ソフトを使いたさに、三年ローンを組んで、マック貧乏となったが、毎日が幸せだった。バブル期だったこともあって、他のソフト類や、周辺機器も次第にそろえて行けた。
当時は、Mathematicaが使えるパソコンはマックだけで、私が苦労してMathematicaを買って半年から一年ほどして、ようやくIBM系パソコン版も出てくるようになって、次第に広まっていったが、Theoristという数式処理ソフトもあり、このソフトだけは、IBM系への移植はなされず、
マック版だけであり、今でも貴重なソフトだと思っている。このソフト、今では数式入力ソフトとして、生き残っているようである。TheoristもMathematicaもふくめて、古い漢字トークから、MacOS8.1までの動作ソフトはウィンドウズ上で、BASILISKIIというエミュレータを使えば、まるまる動作するので、重宝している。ただし、このエミュレータ、マックOSの一部を書き込んだ起動用のROMを持っていないと動作しない。かって、マックを購入したものでないと、ライセンス上使用できないことになっているが、アメリカでは一時ネットで流通していたし、今でも探せばあるかもしれない。
日曜日, 11月 25, 2007
今朝、唐突にウィンドウズマシンが起動しなくなった。テレビを見ていて、音声が流れているので気にしないで、マックのほうでインターネットなどしていたら、画面が最後に見たままになっていて、カーソルも張り付いたままで画面がフリーズ。仕方なく強制終了してスイッチを入れたが、二度と起動しなかった。アクセスランプは点きっぱなしで、定期的にカタン、カタンと音がするだけ。
ほぼ丸三年近い寿命で、歴代のパソコンでは、一番の若死にだ。これで、家ではウィンドウズは、マックのブートキャンプで起動するXPだけになってしまった。それで、常時テレビが見られなくなったが、なければないで
たいしたことではない。
それで、机のまわりをかたすとかなりスペースがとれることがわかった。それで、寒くもなって来たので、別室のMacBookを持ち込んで並べた。今度はケーブルでインターネット接続とした。気のせいか無線方式より早い気がする。
このところ、仕事が多忙でマックのレパードにしてから触る機会が滅多になく、解説だけで知っていて使ったことのない新機能を試してみた。タイムマシンしか体験していなかったが、これは今朝のような突発的な場合に頼りになる、ということで、日常的に意識して使う機能ではない。
まず第一の機能、カバーフロー。
フォルダを選択して、表示メニューからカバーフローを選択するだけで、中身の各ファイルをプレビューできる。これは単なるサムネイルの拡大表示というのと似ているが、ソフトを起動してそのファイルを開かねば見られなかった内容を起動せずに、ダイレクトに中身を覗ける、仕掛けで、ページを繰ることも可能という、目から鱗の目玉機能。
タイトルだけで中身を忘れてしまった場合などは、便利この上ない。今までのいちいち開いて確認して、という作業から解放されるのだ。ファイルが少なければ差があまり感じられないが、似たフォルダ、似たファイル名が何百もたまってしまうと、整理する気も起きなくなってしまうほど、いちいち開いて確認という作業は大変なものだ。
ここまでは、買ってすぐわかっていたが、次にクイックルックとなると、それらしいメニュー項目もなく、
どうするかまったくわからずにいた。
今夜も帰って少しゆとりをもってトライしたのだが、わからない。拡大表示らしく、フルスクリーン表示までファイルを開かずに、閲覧可能と言われていた。本当に使うファイルは意外と少なく、大半は中を見て放置してしまうファイルが多いので、これも大変便利な機能で、カバーフローとならんでなくてはならない新機能だろう。
仕方なく、マックの解説特集が出ている雑誌を開いてみたら、これまた目から鱗。カバーフローで開いている画面にカーソルを当て、スペースバーを一回押すだけで、拡大表示され、さらに拡大表示するときには、
画面下の斜め矢印をクリックするだけで画面が切り替わる。ファイルを開いているのと全く変わらない
画面が見られるので、目の疲れ、時間のロスなどがかなり軽減されると思う。使ってなんぼの新機能。
ここでは、紹介をかねて、自分ではわかっているファイルを使ったので、中身の確認だけなら、探しているファイルかどうかは、カバーフローだけで事足りてしまうのだが、ついつい拡大表示のクイックビューも、指一本でできるので、何気なくトライしてしまう場合も多いかもしれない。
PDFファイルも、最近のリーダーも肥大したので、ちょっと中味を確認するために見るだけでも起動に時間がかかり、起動すればしたで、メモリーを食う。アクロバット本体をインストールしてあればさらに時間がかかる。これは、ヘビーデューティユーザーには朗報の機能だと思う。HDの寿命にも影響を与えるのかどうかまではわからないが。
ほぼ丸三年近い寿命で、歴代のパソコンでは、一番の若死にだ。これで、家ではウィンドウズは、マックのブートキャンプで起動するXPだけになってしまった。それで、常時テレビが見られなくなったが、なければないで
たいしたことではない。
それで、机のまわりをかたすとかなりスペースがとれることがわかった。それで、寒くもなって来たので、別室のMacBookを持ち込んで並べた。今度はケーブルでインターネット接続とした。気のせいか無線方式より早い気がする。
このところ、仕事が多忙でマックのレパードにしてから触る機会が滅多になく、解説だけで知っていて使ったことのない新機能を試してみた。タイムマシンしか体験していなかったが、これは今朝のような突発的な場合に頼りになる、ということで、日常的に意識して使う機能ではない。
まず第一の機能、カバーフロー。
フォルダを選択して、表示メニューからカバーフローを選択するだけで、中身の各ファイルをプレビューできる。これは単なるサムネイルの拡大表示というのと似ているが、ソフトを起動してそのファイルを開かねば見られなかった内容を起動せずに、ダイレクトに中身を覗ける、仕掛けで、ページを繰ることも可能という、目から鱗の目玉機能。
タイトルだけで中身を忘れてしまった場合などは、便利この上ない。今までのいちいち開いて確認して、という作業から解放されるのだ。ファイルが少なければ差があまり感じられないが、似たフォルダ、似たファイル名が何百もたまってしまうと、整理する気も起きなくなってしまうほど、いちいち開いて確認という作業は大変なものだ。
ここまでは、買ってすぐわかっていたが、次にクイックルックとなると、それらしいメニュー項目もなく、
どうするかまったくわからずにいた。
今夜も帰って少しゆとりをもってトライしたのだが、わからない。拡大表示らしく、フルスクリーン表示までファイルを開かずに、閲覧可能と言われていた。本当に使うファイルは意外と少なく、大半は中を見て放置してしまうファイルが多いので、これも大変便利な機能で、カバーフローとならんでなくてはならない新機能だろう。
仕方なく、マックの解説特集が出ている雑誌を開いてみたら、これまた目から鱗。カバーフローで開いている画面にカーソルを当て、スペースバーを一回押すだけで、拡大表示され、さらに拡大表示するときには、
画面下の斜め矢印をクリックするだけで画面が切り替わる。ファイルを開いているのと全く変わらない
画面が見られるので、目の疲れ、時間のロスなどがかなり軽減されると思う。使ってなんぼの新機能。
ここでは、紹介をかねて、自分ではわかっているファイルを使ったので、中身の確認だけなら、探しているファイルかどうかは、カバーフローだけで事足りてしまうのだが、ついつい拡大表示のクイックビューも、指一本でできるので、何気なくトライしてしまう場合も多いかもしれない。
PDFファイルも、最近のリーダーも肥大したので、ちょっと中味を確認するために見るだけでも起動に時間がかかり、起動すればしたで、メモリーを食う。アクロバット本体をインストールしてあればさらに時間がかかる。これは、ヘビーデューティユーザーには朗報の機能だと思う。HDの寿命にも影響を与えるのかどうかまではわからないが。
金曜日, 11月 23, 2007
『大阪地裁における第三回証人尋問で大江健三郎氏は、被告代理人による『沖縄ノート』のテーマについての問いかけに「日本人が世界とアジアに対して普遍的な人間であるにはどうすればいいかを考えた」と答えている。「普遍的な人間」この言葉は『沖縄ノート』に相応しいのであろうか。』
2007年11月22日の正論談話室への投稿で、菱海孫氏が問いかけている。
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200711-001&kiji_id=00074
もともと、自民、民主による「大連立の是非」についての投稿がいろいろならんでいるのであるが、こういう意見が出てきた背景には、民主党は左翼の巻き返し、などという意見がさかんに投稿され出したことと無関係ではないような気がする。
・・・『沖縄ノート』で大江氏はハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン』を引用している。そこでイスラエルがアイヒマンを拉致して法廷に引き出したのに比較して、沖縄の人々が「旧守備隊長」の拉致をなし得なかったこと、その上でエルサレム法廷におけるアイヒマンに対比して架空の沖縄法廷における「旧守備隊長」を想像して「旧守備隊長」がアイヒマンよろしく「青年の心から罪責の重みを取り除くのに応分の責務を果たしたかった」と、異様に倒錯した使命感のうちに語るであろう、そのような光景を我々は「へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力の苦い自由をもつ」と述べている・・・
と続き、最後に
『私はアーレントに賛成するため「日本人/沖縄人」という共同性に固執している姿勢からは「普遍的な人間」が浮かび上がってくることはなく、したがって「普遍的な人間」という言葉が『沖縄ノート』に相応しいとは思えないのである。そして私はこの点が大江氏の思想の根本的矛盾であろうということを「へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力の苦い自由をもつ」のである。』と大江氏の言い方を踏襲しつつ結んでいる。
出典:『沖縄ノート/大江健三郎著』『イェルサレムのアイヒマン/ハンナ・アーレント著』『敗戦後論/加藤典洋著』沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会HP
とある。
大江氏の作品にはほとんど無縁のものであるが、あるときの座談で、彼がまだ若い頃、防衛大の学生だか、出身者が、血色好く意気軒昂なようでは「戦後」日本はだめだ、というような意見を述べているのを見て、
この作家の原点と言うか、本質をすべて悟ったような気がした記憶がある。
なんだ、よーするに左翼にひとからげされる人種なんだと。いろいろ理屈を述べられても、基本路線がそれでは、お里が知れている。社会主義革命が起きて、ソ連側政権が日本に起きたとき、それがこわくて迎合する発言をしておこう、というのと変わらないと私は思っていた。その頃、私淑していたある東大出の教授は、オレは、進歩的文化人なんて大嫌いなんだと、よく発言されていた。戦中は、インドで陸軍将校を体験された方である。軍を批判しつつも、批判だけしてすむ問題ではないことを、体験談から教えられた。
ノーベル賞が出たとき、アメリカの関与を皮肉った論説が出たときも、この人間にしてこそこういう批判がでるのは当然と思った。故伊丹十三監督の著作から、妹さんが大江夫人だということが控えめに述べられているのを発見し、驚いたことがある。彼の作品については、伊丹氏は一言も触れていないが、触れたくても微妙すぎる立場だと思う。
伊丹監督のエッセイは大好きなのであるが。伊丹監督の著作「女たちよ!」で、スポーツカーの運転方を教えてもらった。・・・
今、ネットで調べると、
『1993年3月、自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、伊丹はさらに日本社会に鋭く切り込む映画を製作していく。襲撃事件により身辺警護を受けた経験は、1997年に『マルタイの女』で映画化された。『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。1993年『大病人』以後の作品は批評家の評価も厳しいものとなり、また『マルサの女』『マルサの女2』において、主人公(権藤)やソープ嬢を障害者とする設定を行ったことに対して、倫理的観点から厳しい社会的批判を受けた。しかし女シリーズに代表される「社会派コメディ」のジャンルを確立した事は大いなる功績といえよう。伊丹に続く社会派作品はほとんど出現していないというのが今の邦画界の現状である。』・・・
などとある。改めて彼の深い苦悩の一端をかいま見るような気がしている。合掌。
2007年11月22日の正論談話室への投稿で、菱海孫氏が問いかけている。
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200711-001&kiji_id=00074
もともと、自民、民主による「大連立の是非」についての投稿がいろいろならんでいるのであるが、こういう意見が出てきた背景には、民主党は左翼の巻き返し、などという意見がさかんに投稿され出したことと無関係ではないような気がする。
・・・『沖縄ノート』で大江氏はハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン』を引用している。そこでイスラエルがアイヒマンを拉致して法廷に引き出したのに比較して、沖縄の人々が「旧守備隊長」の拉致をなし得なかったこと、その上でエルサレム法廷におけるアイヒマンに対比して架空の沖縄法廷における「旧守備隊長」を想像して「旧守備隊長」がアイヒマンよろしく「青年の心から罪責の重みを取り除くのに応分の責務を果たしたかった」と、異様に倒錯した使命感のうちに語るであろう、そのような光景を我々は「へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力の苦い自由をもつ」と述べている・・・
と続き、最後に
『私はアーレントに賛成するため「日本人/沖縄人」という共同性に固執している姿勢からは「普遍的な人間」が浮かび上がってくることはなく、したがって「普遍的な人間」という言葉が『沖縄ノート』に相応しいとは思えないのである。そして私はこの点が大江氏の思想の根本的矛盾であろうということを「へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力の苦い自由をもつ」のである。』と大江氏の言い方を踏襲しつつ結んでいる。
出典:『沖縄ノート/大江健三郎著』『イェルサレムのアイヒマン/ハンナ・アーレント著』『敗戦後論/加藤典洋著』沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会HP
とある。
大江氏の作品にはほとんど無縁のものであるが、あるときの座談で、彼がまだ若い頃、防衛大の学生だか、出身者が、血色好く意気軒昂なようでは「戦後」日本はだめだ、というような意見を述べているのを見て、
この作家の原点と言うか、本質をすべて悟ったような気がした記憶がある。
なんだ、よーするに左翼にひとからげされる人種なんだと。いろいろ理屈を述べられても、基本路線がそれでは、お里が知れている。社会主義革命が起きて、ソ連側政権が日本に起きたとき、それがこわくて迎合する発言をしておこう、というのと変わらないと私は思っていた。その頃、私淑していたある東大出の教授は、オレは、進歩的文化人なんて大嫌いなんだと、よく発言されていた。戦中は、インドで陸軍将校を体験された方である。軍を批判しつつも、批判だけしてすむ問題ではないことを、体験談から教えられた。
ノーベル賞が出たとき、アメリカの関与を皮肉った論説が出たときも、この人間にしてこそこういう批判がでるのは当然と思った。故伊丹十三監督の著作から、妹さんが大江夫人だということが控えめに述べられているのを発見し、驚いたことがある。彼の作品については、伊丹氏は一言も触れていないが、触れたくても微妙すぎる立場だと思う。
伊丹監督のエッセイは大好きなのであるが。伊丹監督の著作「女たちよ!」で、スポーツカーの運転方を教えてもらった。・・・
今、ネットで調べると、
『1993年3月、自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、伊丹はさらに日本社会に鋭く切り込む映画を製作していく。襲撃事件により身辺警護を受けた経験は、1997年に『マルタイの女』で映画化された。『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。1993年『大病人』以後の作品は批評家の評価も厳しいものとなり、また『マルサの女』『マルサの女2』において、主人公(権藤)やソープ嬢を障害者とする設定を行ったことに対して、倫理的観点から厳しい社会的批判を受けた。しかし女シリーズに代表される「社会派コメディ」のジャンルを確立した事は大いなる功績といえよう。伊丹に続く社会派作品はほとんど出現していないというのが今の邦画界の現状である。』・・・
などとある。改めて彼の深い苦悩の一端をかいま見るような気がしている。合掌。
日曜日, 11月 18, 2007
戦後レジームとは、アメリカという他者の存在を隠蔽するところにこそ、その本質がある。したがって、その骨格は6年半にわたる被占領期に作られた。「憲法」、「東京裁判史観」そして、占領期における「検閲」こそが、戦後日本を呪縛しつづけている、と早稲田の岩田氏は末尾にこう書いている。
この戦後レジームを体現し、その延命を図っている存在こそがマスコミに他ならない。そこにこそ、マスコミの執拗なまでの「戦後レジーム」からの脱却に対する非難の動機がある、と指摘しているが、まさに同感である。
この認識は、私のような政治思想というか保守主義を任じていつ者でさえ、ごく最近に至って確信に変わってきたもので、岩田氏は、まずマスコミは真実を伝える存在である、という偏見から自由にならなければならない、と指摘しているが、正論ではあるが一般人には至難の業となろう。
戦後レジームの脱却とは実に遠大な道程を経た後に実現されるべきものであり、国家観、歴史観における幾多の変更を強いられるものなのだ、と指摘している。それを一内閣で成し遂げるというのは、あまりにも難しい。安倍元首相の挫折とは、我々にその方向性の誤りを示すものではない。戦後レジームの強靭さとその脱却の困難さを示唆したものにほかならないと。
今、教科書検定問題があるが、作家の大江氏は、いまだに軍命令がないとわかっても、軍の雰囲気と、手りゅう弾などの自決材料が軍から来た以上、基本認識に誤りはない、というすり替えで居直っている。
大江にノーベル賞を推薦したのは、アメリカだという。沖縄は、いまだに占領期間と同じ米軍向け姿勢をとっていて、日本に返還されたあとも、気分は占領期間中のままだそうだ。あちらの新聞は赤旗まがいのものしかなく、まさに皇居前広場で、共産党が大手を振ってパレードしていた昭和23年までのままであるらしい。
そして、新聞は、日本軍を非難して、米軍を救世軍のように褒め称える報道をしてきた。戦後の早い時期に著名な大江氏が、米軍のプロパガンダに沿った、日本軍を悪魔のごとく捉える著作を発表したのは、信念なのかアメリカの政策に協力したためかわからないが、おそらく後者
だろう。それで、ノーベル賞後、アメリカの大学で一年ほど客員教授の待遇を得た。
マスコミが、戦後レジームに染まっている、とすれば、いまだに米国の占領政策の継続が働きかけていることは想像に難くない。金丸失脚、田中元首相失脚、小沢党首の大連立構想など、アメリカの陰の手なくしては、考えられない。細川政権の、佐川献金での失脚もアメリカの手が動いていた、とされる。
今回の小沢氏は、山田洋行からの600万円は返還したというが、実はその10倍ほどの金が動いていたのを、暴露してもいいのかという脅しに屈したため、ともいううわさもある。
靖国神社の第二次世界大戦での、日本の立場を述べる部分が昨年書き換えられた、というのも記憶に新しい。拉致問題を忘れない、といいながら反対のことをしているのが、世界の現実だ。そういえば、Occupation without troops (Glenn Davis, John G. Roberts)という本が出ているが、戦後政治はずっとアメリカのコントロールのもとで動いてきた、ということを示す本だ。
この戦後レジームを体現し、その延命を図っている存在こそがマスコミに他ならない。そこにこそ、マスコミの執拗なまでの「戦後レジーム」からの脱却に対する非難の動機がある、と指摘しているが、まさに同感である。
この認識は、私のような政治思想というか保守主義を任じていつ者でさえ、ごく最近に至って確信に変わってきたもので、岩田氏は、まずマスコミは真実を伝える存在である、という偏見から自由にならなければならない、と指摘しているが、正論ではあるが一般人には至難の業となろう。
戦後レジームの脱却とは実に遠大な道程を経た後に実現されるべきものであり、国家観、歴史観における幾多の変更を強いられるものなのだ、と指摘している。それを一内閣で成し遂げるというのは、あまりにも難しい。安倍元首相の挫折とは、我々にその方向性の誤りを示すものではない。戦後レジームの強靭さとその脱却の困難さを示唆したものにほかならないと。
今、教科書検定問題があるが、作家の大江氏は、いまだに軍命令がないとわかっても、軍の雰囲気と、手りゅう弾などの自決材料が軍から来た以上、基本認識に誤りはない、というすり替えで居直っている。
大江にノーベル賞を推薦したのは、アメリカだという。沖縄は、いまだに占領期間と同じ米軍向け姿勢をとっていて、日本に返還されたあとも、気分は占領期間中のままだそうだ。あちらの新聞は赤旗まがいのものしかなく、まさに皇居前広場で、共産党が大手を振ってパレードしていた昭和23年までのままであるらしい。
そして、新聞は、日本軍を非難して、米軍を救世軍のように褒め称える報道をしてきた。戦後の早い時期に著名な大江氏が、米軍のプロパガンダに沿った、日本軍を悪魔のごとく捉える著作を発表したのは、信念なのかアメリカの政策に協力したためかわからないが、おそらく後者
だろう。それで、ノーベル賞後、アメリカの大学で一年ほど客員教授の待遇を得た。
マスコミが、戦後レジームに染まっている、とすれば、いまだに米国の占領政策の継続が働きかけていることは想像に難くない。金丸失脚、田中元首相失脚、小沢党首の大連立構想など、アメリカの陰の手なくしては、考えられない。細川政権の、佐川献金での失脚もアメリカの手が動いていた、とされる。
今回の小沢氏は、山田洋行からの600万円は返還したというが、実はその10倍ほどの金が動いていたのを、暴露してもいいのかという脅しに屈したため、ともいううわさもある。
靖国神社の第二次世界大戦での、日本の立場を述べる部分が昨年書き換えられた、というのも記憶に新しい。拉致問題を忘れない、といいながら反対のことをしているのが、世界の現実だ。そういえば、Occupation without troops (Glenn Davis, John G. Roberts)という本が出ているが、戦後政治はずっとアメリカのコントロールのもとで動いてきた、ということを示す本だ。
土曜日, 11月 10, 2007
「政治的無能」本書を一読した読書の誰もが抱く感想ではなかろうか!?
日本保守主義研究会代表の、岩田氏の述懐である。ここでの本書とは、上杉隆『官邸崩壊』(新潮社、207〜209)のくだりである。
安倍総理の退陣から読み解くーーー戦後レジームと政治家と題する「澪標」44・45号の巻頭言である。
政治的無能とは安倍総理以下の側近達の行動を、上杉氏の著作からかいま見た感想である。岩田氏は、マスコミが安倍氏の理念への国民の拒絶にあると報道した、と指摘している。しかし、岩田氏は国民の中で安倍不信が広がったのは、その理念や達成した業績に対する反感ではなかったはずと見る。
上杉氏の『官邸崩壊』を見ると、『この本はまさにジャーナリストの作品と呼ぶにふさわしい著作であり、随所にその逸脱は見られるものの、基本的に著者自身の価値判断にきわめて禁欲的である。』とされていて、取捨選択された事実をつなぐことによって、著者自身の安倍内閣への評価が現れてくる、という。
そして、冒頭の記述へと続く。政治的無能!?
『美しい国、日本』というタイトルを見たとき、ドキッとした。あのドキッは、やはり今回の辞任へとつながる何かを予感してのドキッ、だったと今にして思う。あの本は、三名の代作といううわさもある。うち一人は、京都大学大学院教授の中西輝政氏だという指摘もどこかで読んだ。中西教授の論議のスタンスは、私からみれば妥当だが、学会ではまだ少数派らしい。
それでも、参院選で大敗するまでは、それほど政治的に無能だとは、ほとんど認識しなかった。ただ、真っ先に訪米しないことには、不審感を持っていた。
参院選前に、いろいろと閣僚の事務所経費などの不祥事が出たり、政治的未熟を揶揄するかのような、少年官邸団などという造語も聞いていた。若手、側近だけでの官邸政治は、最初から躓いていて、反安倍の官僚たちも、情報を遮断したままだったらしい。
赤城農水大臣の事務所経費の問題が出たとき、日曜日にテレビをつけていたら、光熱費800円でど~の、こ~のという安倍首相の姿が、たしか、ニュースのフラッシュで流されたのを見たのだと思うが、責任を周囲に押し付けたとしても、ご本人の見識が疑われる。演説原稿も、選りによって、なとあの海部元首相の演説スタイルが手本だというから、正直あきれてしまった。
だったら、だれを手本にすべきかを指摘するほど選択肢が豊富というわけではないが、インパクトに欠けることはたしか。それで、事務所経費の弁明では、ものすごくマイナスのインパクトを残してしまった。
『安倍晋三首相の突然の辞任は、首相自身の考え方や思惑とはまったく別に、首相の目指した戦後体制からの脱却を頓挫させ、日本を一時的に古い日本に逆戻りさせる可能性がある。喫緊の課題であるテロ対策特別措置法の延長問題も、なお混乱させる可能性がある。
首相就任以降の足跡の特徴は、これが自らの信念だと主張してきた内容と現実の行動が、非常に重要な、少なからぬ点において大きくかけ離れていることだ。』
桜井よし子氏のブログからも、こういう書き出しが見られる。結果的に戦後レジームからの脱却を標榜しながら、それに埋没してしまった、とも。
政治家は、少なからず綱渡りをしなければならない局面に立たされるが、それをうまく切り抜けるには、運というか、それを可能にする周囲の態勢こそがものをいうはずであるが、それらを味方に引込む才覚が、惜しむらくは少なかったのでは!?・・・・・。
水曜日, 11月 07, 2007
Leopard (Mac OSX 10.5)の紹介ビデオでも、他のマックとの連携はラ〜クラクと言っていて、あっというまに画面を共有さえできる、とされている。
毎日30分づつでも勉強を続ける本によれば、勉強に飽きたら、場所を変える、あるいは別の勉強をする、などとあって、部屋を変えたりするのも効果的などとあり、別の部屋にMacBOOKを置き、そこで活用するようにしている。
Tiger(10.4)の時から、前のマックにアクセスできたら便利と思っていたが、ウィンドウズとの共有はできるのに、マック同士の共有は、どういうわけかできなかった。今回もOSをバージョンアップしたのに、簡単にできると言われていながら、一週間ほどできないでいた。
それでもだんだん繋がりそうな予感がして来た。ネットで調べても、ウィンドウズXPとのやり取りはあるが、マック同士、はほとんど見つからず、自分でやるしかなかった。
そして、マックブックが無線で、前のマックが有線で、何か仕様の違いが影響しているかもしれない、と思いMacBookも有線につないで、ファイル共有を試みた。それで、両方の画面を見ていて、初めて、アクセスされるマック側で、このアクセスを拒否するか、許可するか聞いてくる画面が出ていて、許可をクリックすれば画面共有ができて、別のマックを操れることがわかった。
それで、仮説があたった、と思って爆睡。4時間ほどで目覚め、もう一度トライしてみたら、今度は一度繋がると、あれこれしなくても、すぐ許可するかどうか画面が出る。それで、また、いままで繋がらなかったのは、別室で許可するかどうか聞いてくる画面に気付かなかったのでは!?と思い出した。有線LANと無線LANの規格の違いなどではないのでは、と思いまた別室で無線でアクセスしたら、あっさりつながることがわかった。まったく単純な誤解で、ずっと不便な思いをしていた訳だ。自己の愚かさにびっくり、^^;)。
こんどのマックは、Boot Campでウィンドウズで起動すれば、無線LANは繋がらないが、マックOSであれば、線の届かない場所は、ルーターに無線LAN機能があるので、Air Macの機能が自動で作動してメールやインターネット、そして他機とのやりとりができるし、プリンタ共有もできる。これで、必要なファイルをメールで送ったり、ウィンドウズを介してのファイル交換などしないですむようになった。一つの画面で、二台を操れるのだから。
ただ、他機がスリープモードだとできない。その辺は、設定を変えるしかない。できるはずのことができない、というときは、案外原因は意外なところにあったりするものだと、再認識。
ところで、がんばれ!!ゲイツ君 http://www.asahi-net.or.jp/~FV6N-TNSK/gates/というサイトでは、
さいきんマックの話題がないか探したら、なかったが面白い指摘を見つけた。
最新版では、こんなことも『さて、また三週間のご無沙汰でしたが皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。Mac OS XのLeopardが先日リリースされ、こちらの方はVistaとは違って非常に売れているようなのですが(これはあまり劇的に変わっていない所が売れている理由かもしれませんが)、それにしても変わるといえばまぁ例のオザワ君には参りましたね(^^;。•••』などと。
この前の版では、200710/26 叩かれることのない会社、というタイトルで、トヨタの例を挙げていた。
『ま、こんな感じでソフトバンクについてもゲイツ君についても話題は尽きないのですが、まぁ彼らは今風の言葉で言えばIT業界の諸悪の根源ということになるかもしれません(^^;。
ただ、今日話す会社に比べると、彼らもちょっと可愛いと思えてしまうのが不思議です。
先日、F1の日本グランプリが富士スピードウェイで行われた件をご記憶の方も多いと思うのですが、あれはもうレベルが違いますね。MSもユーザを大事にしないというのは一緒ですが、さすがに肉体的に一般人を直接追いつめるようなことはあまり無いのに対し(間接的にはいくらでもありますが(^^;)、日本の誇る大企業のトヨタ様ともなるとスケールが違います。なんかこう、トヨタがいつもやっている下請け虐めを一般人にそのまま適用したようなすさまじい阿鼻叫喚の地獄絵が現地では展開されていたようなのですね。ちょっと一例を上げると、
駐車場や道路が未舗装で、雨でぬかるみ、道路陥没で立ち往生する車が続出
帰りのバスが雨の中最長6時間待ち。病人続出。が休憩所は早々と閉鎖。
トイレも無く、雨+冷気で野外での脱糞が続出。当然のようの暴動発生。
しかしバイトに謝らせただけで責任者は全く姿を見せず。
そんな中トヨタ関係者やVIPだけ優先的にスムーズに退出。
一部観客席からレースが全く見えず(こんなことがなんで当日分かる?)
他社や観客には横断幕を禁止させ、自社の巨大横断幕だけは堂々と掲示。
それを指摘されると、禁止したのが間違いでしたと開き直り。
現地飲食のぼったくり価格。中には一万円弁当も、•••』
とか、
『ちなみに、先日FRIDAYが突然発売中止になったのをご記憶の方多いかと思います。どうも出版社が言うには「時津風部屋の兄弟子の写真が間違っていたから急遽中止した」とのことですが、あの雑誌がその程度のことで前代未聞の発売中止なんて措置を取るのもうどうもおかしい話だと思っていたら、今回のトヨタの醜態を大特集したために電通とトヨタが圧力をかけたのだ、という情報もあるようですね。まぁ確かに相手が10兆円企業と世界の電通だとなると相撲協会なんかとは比べ物にならないほど圧力があるでしょうから分からない話でもありません。
例のリコール隠しの問題も、三菱の場合は会社が傾くほどマスコミは叩きまくったにも関わらず、トヨタも場合はほとんど報道されませんでしたしね(^^;。まぁ、日本一広告に金をかけている会社ですから(年間800億円で10年連続日本一)、これでは確かに広告で成り立っているマスコミは取り上げるわけにはいきません(:-P。
ま、FRIDAYの件は本当の所はわかりませんが、しかしまぁ講談社も一号分の売り上げを丸々損失計上したわけですから(コストだけはいつも通りかかってますから丸損ですね)、何かやはりよほどの事情があったのでしょう。•••』
などと久々の他企業に関するうわさ話ではあるものの、面白かった。
Leopardはあまり劇的に変わっていない、というのも納得、変な差別化などをしないで、どの段階を買うべきかなどと悩む必要もないし、•••、しかし、今回はやはりトライしてみて初めてわかった。わかりやすいOS
なのかもしれないが、奥は深いようだ。
日曜日, 11月 04, 2007
平成4年11月4日、旧郵政省は、文化人切手の第一号として、関孝和と与謝野晶子の切手を発行した、という。(平山諦著、「和算の誕生」、1993年、恒星社厚生閣)。
『我が国の学術・文化の発展に顕著な功績を残された方の偉業をたたえ、今後の我が国の学術・文化の発展に資するため、文化人切手を発行する』と郵政省機関誌にはある、という。
発行の対象者は1年間に原則二名とし、とある。
与謝野晶子は、歌人としてすでに著名であるが、関孝和とならんでだされた背景には彼女が、昭和4年秋までに与謝野寛、正宗淳夫、与謝野晶子編集校訂になる「日本古典全集」全50冊を出版し、その中の二冊は古典数学集と題して、割り算書、塵劫記、諸勘分物、堅玄録、因帰算歌が納められている、というから、発行理由がわかろう、というものだ。
塵劫記は江戸時代の数学書で、名前を聞いた方も多いだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/塵劫記
には、『1627年(寛永4年)に吉田光由が明の程大位の著書、『算法統宗』からヒントを得て執筆したもので、数の桁の名称や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を日常生活に身近な話題をもとに解説しており、一冊で当時の生活に必要な算術全般をほぼ網羅できるような内容となっている。』・・・
『明治時代に至るまで、実に3~400種類の「塵劫記」が出版されたといわれている。』・・・
『同書はまた江戸時代の多くの学者に影響を与えたことでも知られており、後に和算の大家となった関孝和や儒学者の貝原益軒なども若いころ『塵劫記』を用いて数学を独習していたことがわかっている。』
『なお、『塵劫記』という書名は法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。』とある。
『法華経の「化城喩品」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められている。』と解説されており、大げさにいええば、明治維新後も、西洋数学を吸収発展させた基礎学力を養った源流に位置づけられる、数学書と言えるかもしれない。
それにしても、晶子さん、歌も凄いが文化的影響力も歌だけにとどまらなかった点は初耳で、いまでもその一族が、国会議員にいて、税制の大家というあたり、数大系の影響を与え続けているわけだ。
さて、平山博士の「和算の誕生」であるが、家康が江戸に幕府を開いた頃、イタリアから宣教師スピノラが来日し、慶長9年から同16年までの7年間に京都の天主堂で布教の傍ら、数学を教えたという。
このことが我が国数学の誕生のきっかけの一つであると思う、として研究した生まれた本である。
『塵劫記以下の初期の書物には、出典の不明なものがある、として平山博士は仮説を設けた。
天文18年(1549)にはじめてスペインの宣教師ザビエルが来日してから、慶長16年(1611)の禁教まで約60年間布教が続けられた。慶長7年にはスピノラが来日した。彼は本国イタリアでクラヴィウスの教えを受け、38歳で来日し、日本の若き学徒たちに数学を教え、長崎で火刑によって殉教したのである。
このとき、門下の書き集めた切支丹学習録といったものが寛永の後まで伝わって和算家の利用するところとなったのではないか』、というものでる。
スピノラのアカデミアは、当時北京にいたマテオ・リッチと深い関係にあったと思われるから、中国算書の輸入にも便宜を得たであろう、とも。
カルロ・スピノラについての文献は「カルロ・スピノラ伝」宮崎賢太郎著、昭和60年があるというが、版元は不明。
彼の乗った船が海賊に襲われ、用意したノートや書籍がすべて失われたとということから、平山博士は我が国の和算の起こりは、西洋の書籍には関係ないことがわかる、と記述している。
『我が国の学術・文化の発展に顕著な功績を残された方の偉業をたたえ、今後の我が国の学術・文化の発展に資するため、文化人切手を発行する』と郵政省機関誌にはある、という。
発行の対象者は1年間に原則二名とし、とある。
与謝野晶子は、歌人としてすでに著名であるが、関孝和とならんでだされた背景には彼女が、昭和4年秋までに与謝野寛、正宗淳夫、与謝野晶子編集校訂になる「日本古典全集」全50冊を出版し、その中の二冊は古典数学集と題して、割り算書、塵劫記、諸勘分物、堅玄録、因帰算歌が納められている、というから、発行理由がわかろう、というものだ。
塵劫記は江戸時代の数学書で、名前を聞いた方も多いだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/塵劫記
には、『1627年(寛永4年)に吉田光由が明の程大位の著書、『算法統宗』からヒントを得て執筆したもので、数の桁の名称や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を日常生活に身近な話題をもとに解説しており、一冊で当時の生活に必要な算術全般をほぼ網羅できるような内容となっている。』・・・
『明治時代に至るまで、実に3~400種類の「塵劫記」が出版されたといわれている。』・・・
『同書はまた江戸時代の多くの学者に影響を与えたことでも知られており、後に和算の大家となった関孝和や儒学者の貝原益軒なども若いころ『塵劫記』を用いて数学を独習していたことがわかっている。』
『なお、『塵劫記』という書名は法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。』とある。
『法華経の「化城喩品」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められている。』と解説されており、大げさにいええば、明治維新後も、西洋数学を吸収発展させた基礎学力を養った源流に位置づけられる、数学書と言えるかもしれない。
それにしても、晶子さん、歌も凄いが文化的影響力も歌だけにとどまらなかった点は初耳で、いまでもその一族が、国会議員にいて、税制の大家というあたり、数大系の影響を与え続けているわけだ。
さて、平山博士の「和算の誕生」であるが、家康が江戸に幕府を開いた頃、イタリアから宣教師スピノラが来日し、慶長9年から同16年までの7年間に京都の天主堂で布教の傍ら、数学を教えたという。
このことが我が国数学の誕生のきっかけの一つであると思う、として研究した生まれた本である。
『塵劫記以下の初期の書物には、出典の不明なものがある、として平山博士は仮説を設けた。
天文18年(1549)にはじめてスペインの宣教師ザビエルが来日してから、慶長16年(1611)の禁教まで約60年間布教が続けられた。慶長7年にはスピノラが来日した。彼は本国イタリアでクラヴィウスの教えを受け、38歳で来日し、日本の若き学徒たちに数学を教え、長崎で火刑によって殉教したのである。
このとき、門下の書き集めた切支丹学習録といったものが寛永の後まで伝わって和算家の利用するところとなったのではないか』、というものでる。
スピノラのアカデミアは、当時北京にいたマテオ・リッチと深い関係にあったと思われるから、中国算書の輸入にも便宜を得たであろう、とも。
カルロ・スピノラについての文献は「カルロ・スピノラ伝」宮崎賢太郎著、昭和60年があるというが、版元は不明。
彼の乗った船が海賊に襲われ、用意したノートや書籍がすべて失われたとということから、平山博士は我が国の和算の起こりは、西洋の書籍には関係ないことがわかる、と記述している。
木曜日, 11月 01, 2007
レパード(MacOSX10.5)にしてみて、まだ1日目。MacPeopleという雑誌を買って、別冊付録の
Leopardコンプリートブックという、95ページにおよぶ解説本を参考に、中味を一部トライしてみた。外付けHDを前の晩つないで、バックアップもかねる設定に、タイムマシンというアイコンで設定しておいた。
もちろん、マックのよさの一つとして、簡単に外付けHDを起動ディスクに指定できるので、そちらにも、インストールして外付けからのシステム起動も可能にした。接続はUSBでOK。
こうすると、内臓HDの修復などが、いちいちDVDのシステムディスクを入れて、そちらから立ち上げ、実行しなくても、外付けから立ち上げれば、内臓HDは従属ディスクになるので、簡単にデフラグや修復などができる。
しかも、今回の変更では、中味を保持したまま、パーティション分割なども行える、というからおどろきだ。
さて、タイムマシン、1日たって起動したら、ごらんのように復元ポイントが立体的に表示される。ブラウズして復元ファイルを見つけたら、右下の復元ボタンを押すだけで復活できる、というがまだそこまでは試していない。
解説本では、小学館の国語、英和、和英辞典が入っている、と書いてあったが、大辞林は三省堂版、英和、和英のみ、小学館のプログレッシブ辞典だった。従来ついていた、Oxford Dictionaryも入っていて、チェックマークを入れたら使用できた。New Oxford American Dictionary。
と書いてしまったが、よく見ると大辞泉。yahooの辞書として使われている小学館の大国語辞典でした。
英々辞典ではしんどければ、クリック一つで、英和の解説が出るので、微妙なニュアンスの差などを詳しく調べるのにはうってつけ。大辞林は、会社で聞いた話しでは、Vistaにも搭載されていたようだ、という情報も。英和、和英は?と聞いたら、無かったようだ、とも。
EGBridgeという日本語入力ソフトで、以前のタイガーでは、英和、和英辞書機能を持たせていたのだが、最初からついているので、6000円ほど出してバージョンアップする必要がなくなってしまった。今のところ、期待を裏切らないできばえのように感じた。
システムのある部分の脆弱性は、Vistaよりも劣るという報告も出たが、トータルではどうなんだろう?まだ詳しく見ていないが、いろいろと対策は施されているようで、最近ようやくマックを標的にしたトロイの木馬が出現したというが、まだ、何もアンチウイルス処置はしないで、今日までやって来た。ウィン専用の~.exeのウイルスらしきものが来ても、すいません、入るところを間違えましたとかコメントを出して消えて行くことも過去何度かあったが、マックも今年9月のデスクトップパソコンの売り上げナンバーワンとか言っているので、いずれウイルス対策も必要な時代が来る、あるいは来ているのかもしれない。
フォルダ内のエクセルや文書ファイルをいちいち開かなくても中味が把握できるプレビュー機能のQuick Lookという機能にも期待している。エクセルはではシートもめくれるというから
おどろきだ。
先日、ブートキャンプも正式対応し、ウィンドウズからマックに戻るのに、起動ディスクのアイコンが見つからず、と書いたが、以前のそれに相当するのが、ブートキャンプそれ自体のアイコンで、コントロールパネルの最初のほうに並んでいました。マックライクのアイコンから、ウィンドウズライクのアイコン(4っつ窓デザイン)に変更になっていました。
家のeMacは、インストールできない速度となっている。もうちょっと早いとパワーPCマックでも可能ということになっているらしい。あるいは、アクセルレーターというCPU加速装置を買い足せば可能とも言うが、タイガーで十分。ふるいOS9.2までがブート可能マシンなので、これはこれで大事に使いたい、と思っている。
それが壊れたら、最後はウィンドウズ上で動くBASILISKIIというフリーソフトで、旧OSでしか動かないソフト群を立ち上げるしかない。最初から、ウィンドウズ対応なので、インテルマックでもOK。
苦労して、ようやく二代目の、最初よりは幾分早いマックを買ったら、すぐにパワーPCのアナウンスがあって、1997年ごろまでにすべてのマックが、パワーPCになるといわれた。パワーPC世代になってからは、中古機でしのいできた。
それで、21世紀になれば、ウィンドウズとマックの間の壁はますます低くなり、両者は互いに長所を学び取り、かなり似てくるはずで、その時期は早ければ2010年以前であろう、などと予測されていた。
パワーPCは当初のロードマップでは、インテルをしのぐ性能を発揮するはずだったが、IBMが売り上げのパイが小さいので、動機づけが弱く、一方インテルは負けまいと必死に研究開発を行い、CPUの優位性、と供給能力を十分に示してきた。
それで、アップルもインテルマック機へとOSを変更したのだが、そのおかげでウィンとマックは一台に融合してしまった。ただ、まだはっきりしないが、ウィンドウズは、外付けHDからの起動をサポートしていないので、ブートキャンプが、正式にOSの一部となっても、外漬けのシステムのブートキャンプからウィンドウズを立ち上げることはできないようだ。それはマックのせいではなく、ウインドウズの素性のなせるせいのように思う。
http://www.apple.com/jp/macosx/guidedtour/?cid=AOS-JP-114193-C40000085256
http://www.apple.com/jp/macosx/guidedtour/large.html
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