木曜日, 5月 03, 2012

現代日本と江戸時代 いわゆる円周率あたりから

連休中大雨で家に籠りがちとなり、日頃忙しくてみない政治ブログランキングを見たりして、一月ぶりくらいにねずきちの独り言で和算家、関孝和のエピソードを紹介していたの除いてみた。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1496.html#more

どちらかというと数学に直接関わってきた経歴は無さそうに思える方が、どんな関孝和論を
展開しているかも興味の対象となった(失礼な言い方かもしれないが)。
『「産医師異国に向かう 産後厄なく 産婦みやしろに 虫散々闇に鳴く・・・」

ご存知円周率の暗記法です。
学生時代に一生懸命暗記しようとした方もおいでかもしれません。
ここまでで、
3.141592653589793238462643383279
で、小数点以下30桁までの暗記文になります。

長いものですと、次のようなものもあります。』
などと出だしからある種の予想めいた感覚で読み出した。

しかし、古代バビロニアの粘土版の記録から当時の円周率は3.125だったとか、
『世界では、この円周率の計算式を求めて、18世紀から19世紀にかけて大激論が交されていました。』などとなり、
『ところが日本では、江戸初期の寛文3(1663)年には、村松茂清が小数点以下7桁までの正しい値を求め、日常的に使用する円周率を3.14と決めています。
つまり、私たちが学校で習う3.14は、日本国内で350年もの長きにわたって使われてきたものです。』
となり、
『ちなみに寛文3年といえば、関ヶ原の戦いから63年目の年です。
また村松茂清は、播州赤穂藩の人です。
赤穂といえば、赤穂浪士ですが、討入りした村松喜兵衛、三太夫の親子は、村松茂清の息子の孫にあたります。

要するに日本では円周率について、赤穂浪士討入り前から「3.14」が使われていたのであって、それを日教組は、ゆとり教育だのとほざいて円周率をただの「3」にしちゃったわけです。』となって、日教組批判の矛先が一寸出るが、あとはテーマの和算家 関孝和
の業績へ移る。

最後に
『関孝和の時代のすこし後に、伊能忠敬が全国行脚して、日本全地図を正確な測量のもとで作っていますが、これだけの地図を、伊能忠敬が短期間に作ることができた背景には、彼が測量に歩いた全国各地に、彼の用いた和讃による測量技術がすでに普及していて、測量に協力する者がいたということであり、関の影響力の大きさが知れるものとなっています。』などとなっていて、書いてはいないが江戸時代、豪農や町人たちの一部で、俳諧の師匠をもてなしたりしたのと同様に、和算家たちに師事してカルチャー教室が盛んに行われていた背景を思い出したりして楽しんでしまった。
そして、数学的に物足りないと感じてしまう方向けに動画も入れてあり、直接的には元お茶の水女子大教授の藤原正彦先生の解説による三部作の関 孝和の徳川家との関係とその業績の系譜などが簡潔に紹介されている。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=e-7phsUzERM
これは最初1/3となってスタートするが、次々に連続して自動再生されて、WiFi環境でも一度も途切れず詳しく落ち着いて見られた。藤原教授のお顔を講義室で聴講している気持ちで見ていたが、行列式の説明などのところで、ちょっと先生が面倒臭いなというような表情がチラッと感じられたり(因みに先生の行列や行列式に関するテキストは難解で有名!)関孝和の、例えば二次の行列式、換二式などにも口にせず、西洋数学の発表より10年程早く独自に展開したことだけをさらりと喋っておられた。
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