土曜日, 6月 30, 2007
秦郁彦教授の「現代史の争点」は1998年5月に発行となった。後述する渡部昇一教授の「日本人の気概」も、購入時期はともかくとして、発行はやはり1998年5月で、前者が5月20日、後者は5月21日である。これは内容を読み比べてみて、改めて気がついたことである。
いぜん、牧野富太郎博士が、図鑑を発行するとその発行日より一日早く、内容を真似た廉価版が良く出ていたということを、その方面の人の著作で見た。図版は、簡略化して、中味もあまり素人からみてはかわらないよう図鑑をだされては、真面目な研究者としてはたまらないことだったろう。そして出版社は当然違うが、発行日をほぼ同じくすることは、競争の観点からも興味深い。
前述の、両教授の昭和史、なかでも「南京事件」に関する記述を読み比べると、いろいろと申し合わせたかのような、それぞれの見解に対する激しい追求が展開されていて、発行までに両先生のそれぞれの立場が伺える。私は、この論争以降、秦教授は、南京事件の犠牲者数そのものについては、口をつぐんでおられるように見受けられるのだが、どうだろうか?。
秦教授は、自他ともに許す南京問題の専門家であろう。それで、著作の中では、自説に対する批判についても、そうとう厳しく対応されている。
「南京大虐殺「ラーベ効果」を測定する」という巻頭からの部分では、南京大虐殺60年の1997年、プリンストンで行われたシンポジウムをとりあげ、そこで、秦教授がラーベの日記をどう位置づけるかを発表したのである、ということから始まる。
ラーベの日記では、犠牲者数を「5万から6万」としており、複雑な波紋を引き起こしたとある。とくに当惑したのは、「大虐殺派」と「まぼろし派」だった。
大虐殺派の代弁者を買って出たのは、参謀長格の笠原十九司宇都宮大教授だが、次に見るようにコメントは揺れている。該当の箇所には傍線を引いておいた、などとある。
犠牲者数の表現が、十数万以上だったり、十万以上、二十万人い近いかあるいはそれ以上などとなっていて、無理すればあちこちにほころびが出てくるのは避けられぬ、などと書かれている。
参考までに私の計算を紹介すると、台湾公式戦史の守兵10万をベースに内訳を脱出0.6万、戦死5.4万、捕虜の生存者1万、捕虜の虐殺3万としている、とある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「マボロシ派の当惑」としては、田中正明、阿羅健一、渡部昇一、中村粲などの諸氏だが、ゼロとは言いはっているわけではなく、いくらと問い詰めても口をつぐむ。シンポジウムの傍聴席から何人くらいかと聞かれ、解らないと答えて切り抜けた、などとある。
渡部昇一氏は、1997年9月9日の東幼会総会(おそらく、東京幼年学校の総会)における講演で次のように述べている、として
「・・・先日、ある編集者がラーベ日記のレジュメを持って感想を聞きに来た。読んでいるひまがないので、二点だけ確かめた。「何人殺したと言っているか」と聞くと3万人くらい、すべて兵士だとのことだった。戦争で兵士を殺すのは虐殺といわぬ。
ラーべ日記の現物をみれば大虐殺はなかったことが証明できる、右翼的と言われる学者でもきわめて危険な人がいる。たとえば林健太郎先生・・・・」
新羅万象何でもナデ切りにする渡部氏のことだから、少々のことは私も驚かないが、この放言ぶりには恐れ入った。・・・それに対して、中村粲氏は、ラーベを読んで、少し良心的に「一刀両断を本領としてきた中村氏が、歴史に書き残すべきは優れて常識的な事実でなければならぬ」との心境に達したのは、ラーベ効果の一端なのではないか、と満足げに記し、御自分の推定数を少し引き上げ、11年前の自著を引き合いに、4万(民間人殺害を1万とした)と推定している、とここでも繰り返す。・・・
第3章 「実証的現代史家」秦郁彦氏との論争
とあり、専門家の仕事を見かねる素人の立場についてーーー秦郁彦氏に与う
から始まる。
「やりたくないことを、最もやりたくない時期にやることになったなァ」という重い気分でこの原稿を書くことになった、とあり、「従軍慰安婦は戦場売春婦というべきだが、テレビでは売春婦は不可だというが」とあるが、最近は買春という言葉はテレビでも聞かれる。
秦氏とはだいぶ前に故・大井篤氏と三人で鼎談をした以外にお会いした記憶がない。大井氏は中学の先輩の海軍軍人で、・・・この前の戦争は日蓮宗に凝り固まった連中が起こしたようなものと実名をあげて批判しておられたのが印象的だった」などとある。やはり、海軍が始めたのか!?
秦氏に好意こそ抱け、何の反感も抱く訳はなかったのだが、秦氏が何年か前に「ドイツ参謀本部」を剽窃の書として批判していることを耳にした。・・不快には思ったが、おそらく戦史の専門家が、「ドイツ参謀本部」の様な近・現代史の超重要テーマを、英語学者に書かれた不快感によるものではあるまいか、と・・・
「ところが、文芸春秋の「昭和史の謎を追う」を本屋でぱらぱらと見ていたらそこに私の盗用の話が出ている。しかもこの本は菊池寛賞をうけたものだという。これはきちんと反駁しておかねばなるまいと思って、筆をとったしだいである」と、期待を抱かせるに十分な書き出しではある。
ここでは、参謀本部の話は省く。
「素人の「観」をどう見るべきか」
・・・近くは平山郁夫東京芸大学長が、「南京城壁を日本軍が10キロも破壊したのを修復するのに協力しよう」という呼びかけをなさったときに、「それは真っ赤な嘘だ」とテレビ番組で批判した。田舎の家には雑誌「キング」が創刊号からほぼそろってあったから、南京陥落前後のグラビアも沢山見ている。当時の写真集もある。わずかに少し崩したところに竹梯などをかけよじのぼって突入したイメージが頭にある。あの厚さ何メートルもある城壁を砲弾不足に悩む日本軍が何キロも根元から崩すはずがない、というイメージがつまり漢字の「観」がある。・・・それは史観といってもよいが、その専門家である秦氏はどのような「観」をおもちなのか、「南京事件ーーー「虐殺」の構造」中公新書1986について見てみよう」からはじまる。
この本の中で曽根一夫氏の『私記南京虐殺」を秦氏は極めて高く評価し、いたるところで引用している。その賛辞の中には「類書にない特色を持つ」とか「曽根氏の明快な指摘に頼って」とかいう表現がちりばめられている。
ところがこの曽根と言う人物は南京に突入した部隊にはいなかった。戦地での自分の体験も少しはあったろうが、戦場での噂話や、戦後の東京裁判以降の話しなどをこきまぜて、何と三巻の本を作り上げた。このインチキ本を南京事件の専門家であるはずの秦氏が、最大級の賛辞を用いてほめ、利用して、秦氏の専門の業績になる本に用いているのだ。この曽根一夫の正体を暴いたのは、ほかに本業を持つ南京問題の研究家の板倉由明氏である。(私もその後、偶然に曽根一夫氏の近親者に会い話しを聞いたことがあるし、また意外な場所で曽根氏と一緒になったことがある)。
つまり、秦氏は自分の専門の中で第1級の資料として使ったものがインチキであることを見抜けなかったのだ。これを専門家失格という。もし、これが学位請求論文にあったなら、学位褫奪(ちだつ)は確実である。・・・ところが、秦氏は全く反省ぜず、近著「昭和史の謎をおう」では逆に板倉氏を批判しているのだから恐れ入る。「曽根一夫という人物は南京突入部隊の中にはいなかった」という板倉氏の指摘が間違っているという証明でもあれば感心するが、そうではなく、盗人猛々しい言い草で板倉氏を揶揄しているのだ。学者の無恥厚顔もここまでくれば手のつけようが無い。南京虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件と言う表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。どこに弁解の余地があるというのだろうか。秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのである。
・・・板倉氏と私は本業は違うが、「見るに見かねた」という点で板倉氏に深い共感を持つ。秦氏も専門家ならば、御自身が虐殺されたと主張される4万人のうち、何人が兵士、何人が投降兵(これは正規の捕虜とはちがう)、何人がゲリラまたは便衣兵とまちがわれた市民、何人が市民として虐殺された一般市民かを区別する努力をしていただきたい。概数でも結構である。その努力こそが専門家に期待したいところだ。
虐殺が問題なのは、市民を市民として虐殺する意図をもってなされた虐殺の場合である。通州事件やナチスのホロコースト、それにアメリカの無差別絨毯爆撃や原爆は、市民を市民として虐殺する意図を以てなされた市民虐殺だから、本物の大虐殺なのである。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=通州事件&btnG=Google+検索&lr=
「専門家の「資格」を考える」
秦氏の拙著あるいは小生に対する批判の仕方から、私の立場、及び実証的現代史家と称する秦氏の史家としての資質、あるいは資格まで問題にしてみた。ただ私一人ではあまりにも個人的なと思われる読者も多いと思われるので、秦氏の資格、または個人としての人格を疑っているもう一人の方の書いたものを紹介しておきたい、と念が入っています。
1989年11月号及び1990年2月号において雑誌「諸君」で秦氏と中村粲氏との論争が行われた、そうだ。
問題は日清戦争時、乃木希典将軍の率いる旅団が旅順市民を虐殺したか否かであり、あちらの研究者の話を聞いた秦氏は、「虐殺の証拠がゾロゾロ出てきた」という。それで、「仁愛の将としての乃木は一変する」と書いたのだそうだ。
中村氏はこれに反論して、その時、乃木軍は旅順に入っていなかったことを実証して見せ、かつ虐殺の資料と言うのも、秦氏の資料の読み違い、あるいは読み飛ばしによるものであることを実証した、とある。
普通に日本語が読める人ならば、論争は中村氏の100%勝ちであることは明々白々であり、秦氏の実証史家としての資格に重大な疑念が生ずるものである、と。
その後でも、秦氏は反論し、人格を疑わしめるに十分であるとして、両者のその後のやりとりを紹介している。
1989年11月号 秦氏の中村氏への攻撃
1990年2月号 中村氏の秦氏への反論
1990年3・4月号 中村・秦氏の対談
この対談を原稿にするについての秦氏のやり口については、「自由」平成二年5月号に中村氏の詳しい記述がある。中村氏も余程腹に据えかねたようである。・・・
論争になった乃木旅団の虐殺行為などというのはも、当時の乃木という人物についての秦氏の「観」あるいは「像」が「市民を虐殺させる将軍」ということになっていたことを示す。専門家のくせに文献の扱いが不十分で粗末なのはそれと関係あるだろう、としている。
同じ文献を読んでいて、ある人には大仮説が建てられ、ある人は、事実関係の把握すらまともではない、などというのはいくらでもあることであり、岡潔博士は、大学教授なんていうのは、オウムの真似ができればだいたい勤まります、などとおっしゃっておられた。一人まともで優れた人がいれば後はオウムのごとくで
十分もつ。時代がそうだったから、迎合したという事例はかなり頻繁に起きているのかもしれない。
ウィンドウズ95が発売された直後、CDを媒体とするソフトが発売された。その中に、タイム誌の数年分を納めたものがあり、ウィンドウズ版、Mac版ともに発売された。それで当然、Macしか持っていなかったし、CDROMを搭載したパソコンはMacが最初だったし、Mac版を購入した。いくら薄いタイム誌といっても、何年分もとなると場所をとるし、検索も大変だがすべてパソコンに入ってしまうとかなり便利。その後1995年版も購入したが、その後はシリーズが終了してしまった。月日のたつのは速いものであれから10年以上経過してしまった。その中で、個々の記事とは別に1920年代、1930年代と10年を単位として時代の概括を書いた部分があり、いくつかの単語を記入するだけでその単語を含む記事へと、タイム誌の記事同様にアクセスできるようになっていた。
当時から、南京事件には関心をもっていたし、南京事件は、起こったとされる当時はほとんど問題にならなかったが、戦後アメリカによる東京裁判で問題となり、以後さんざん喧伝され、自虐史観の中心テーマとさえいえるほどの感があったので、どちらの言い分がより現実に近いのか、タイム誌は当時どう伝えていたか
興味があった。高校以降、現代史は教科書では教えられておらず、マスコミがあちらこちらでそれぞれの立場から伝えているだけだった。ある、あった派の教授などは、一人でも虐殺は虐殺であり、数えようによってはいくらでも数は膨らむものだ、と数十万人説をその著作で書いておられた。また渡部教授などは、なかった派に近く、もちろんどのくらいという数については述べておられないが、私の考えでは1万数千程度の戦争による中国側死者数はやむをえない数だろう、とは思っていた。当時から、渡部教授は、日本から林芙美子はじめ多くの作家が詰めかけて記事を書いており、米国や中国のいう20万〜30万という数字は全くのでたらめとは思っていた。
渡部教授のもとの中国人留学生に糾したら、相手は、あれはたくさんという意味以上のものではない、との答えだったという。白髪三千丈と同類らしいとも。
それで、戦後になって騒がれ出した南京事件、当時の記述がどうだったか、覗いてみることに。グローバルサーチから、日本、中国、南京の三項目を指定し、どれも引用している記事はたった9本しかみつからなかった。その中で、1930年代の日中関係を述べている記事をみると、南京事件の前後の記述が日付入りで記録されている。
南京事件が起こったとされる昭和12年12月の記事はなく、昭和12年9月と昭和13年2月しかない。昭和13年正月には事件は収まっていたはずなので、2月の記事をみると、書名入りで、犠牲者数は2万とはっきり推定して書いてある。基本的に渡部教授と同じオーダーの記事だと思った。それ以降、だいぶ数字の信憑性の議論は続いたが、私のイメージはぶれなかった。抵抗する捕虜を数千人処刑したことはあったとしても、無抵抗の市民を多数虐殺などあるはずはない、というごく当たり前の常識をもつにいたった。
雑誌WILLでも、スーパーの店員と名乗る民間研究家が、あった派が優勢だったが、最近はなかった派が主流になっていると書かれていた。特に学者と自他ともに認める人は、一度自説を活字にしてしまうと、なかなかあれは当時は本気でそう思った数字だが、今は本気でこれくらいとは言えない苦しい胸の内を想像したりした。もともと20万人説は、敗戦まじかに急に米国が耳楽音(ラジオ)放送で宣伝をはじめて、東京裁判でも中国のいう30万人は証拠不採用となり、米国が当初から主張した20万人で裁判は終わったらしい。
渡部教授は、原爆の犠牲者数への免罪符として米国が10倍ほど水増しして発表したのではないかと、している。だとすれば、投下前から、投下後の処理を画策していた、まあ、日露戦争後二年目から画策はしていたのだから当然なのだが、・・・。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
"(February 14, 1938)
With Japanese last week still forbidding foreign correspondents to go to captured Nanking, the Chicago Daily News received last week one of the best eyewitness accounts thus far of the "Nanking atrocities" from its Far East Ace Reporter A.T. Steele.
"I have seen jackrabbit drives in the West, in which a cordon of hunters closes in on the helpless rabbits and drives them into a pen, where they are clubbed or shot. The spectacle at Nanking after the Japanese captured the city was very much the same, with human beings as the victims...
"The Japanese were bent on butchery. They were not to be content until they had slaughtered every soldier or official they could lay hands on...One Japanese soldier stood over the growing pile of corpses with a rifle pouring bullets into any of the bodies which showed movement.
"This may be war to the Japanese, but it looked like murder to me." Best estimates are that the Japanese executed 20,000 at Nanking, slew 114,000 Chinese soldiers in the Shanghai-Nanking phase of the war, lost 11,200 Japanese in this phase. "
週間新調の7月5日号の広告「朝日が黙殺するしかなかった「南京虐殺否定会見」を見て、この号はぜひ見たいと思った。いつもはコンビニで買うのだが、きょうは本屋さんで山積みになっていたので、内容を確認して買った。
最近でも、「中学生にもわかる慰安婦・南京問題」(株式会社オークラ出版、西村幸佑責任編集)で、後半の南京事件を見ると、「南京大虐殺の殺人は27件だった」とか「アメリカで刊行された『虐殺否定本』を読む」なども出ており、私の基本認識に動揺はなかった。
ラーベ、ベイツ、ティンパーリetc「南京情報戦に加担した西欧人」などというくだりも。
それで、肝心の週間新潮によれば、当時朝日の記者が取材班が80名もの数で出入りし、電信柱が1.2本たおれても気がつくレベルの取材精度を維持していた、とある。それらの記事からは、虐殺を伺わせる不穏な内容は皆無なのだが、戦後GHQに抗議して発行停止処分を受けたか受けそうになっていらい、洗脳教育にまい進したのが、当の朝日だということらしい。ここまで、大局の判断が示されても、頑として認めないのは、どこかの党と同じ。一時、作家の阿川氏は、朝日新聞が購読を薦めにきたら、うちはアカハタは取らない主義だと言って断ってみたい、と書いておられた。かなり昔の話である。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
水曜日, 6月 27, 2007
昨夜も会社に泊まった。夜中にコピー、印刷機が内部故障して、ストップ。これにはやる気をそがれること夥しい。まあ、一番の仕事は大半済んでいたので、どうしてもコピーしたいものは、近くのコンビニで済ますしかない。印刷は別のカラープリンターもあるので、問題ない。
スキャナも使えないが、パソコン内部でなんとか、エクセルにでも貼り付けて印刷すればなんとかなりそう。そんなこんなで、夜明けが早い。
コンビニで新聞も買い、広げたら、あっと驚いた。先日紹介した日高義樹氏「アメリカの新国家戦略が日本を襲う」の全面広告がのっている。他紙はどうかと、この地域の朝日新聞を見ると、予想通り載っていない。広告を見て、なかなかうまくまとめているという印象をもった。
日高氏は、この著作に関連して、雑誌Voice7月号でも「友人としての日本はいらない」(おんぶにだっこの特別な関係が一変する日)と題して、同様な寄稿をされている。
この7月号のVoiceは、日米「甘え」の終焉として特集記事を組んでいる。
主だったものは、他に「中国の軍拡を助けるブッシュ」ジェームズ・マン氏
「アメリカ離れする日本経済」 三國陽夫氏
などがあるが、目玉は中西輝政京大院教授の「帝国の消滅、ローマとアメリカ」だろう。
まだどれも未読だが。
「共和党大逆転で日本の核武装化」片岡鉄哉氏もある。「民主党と中国が日本を共同管理」が消え去るシナリオ、となっている。
日高氏にいわせれば、アメリカ民主党というのは、かっての日本社会党とほぼ同じと思っていいそうで、次期大統領は、誰かはむずかしいが、まず共和党にきまるだろう、と著作で述べている。カーター大統領が、イラン米大使館占拠事件の救出に失敗したのは、状況をいちいち報告させ、途中で指示を状況に応じて二転、三転したためで、気がついたら、
夜があけてしまっていた、という。クリントンが北へ武力行使しようとした際にも妨害したのが、カーター元大統領だった、という。クリントンは民主党だが、政策は、対日バッシング以外はほとんど共和党寄りだったという。
ついに三日前、米民主党も、日本の核武装を認める姿勢に転じた、という記事もよんだような、あれはまったくの夢だったのだろうか?
以前紹介した副島隆彦氏などは、次期米国政権は民主党だろう、それで、安部政権は短命と考えられるから、ほぼ同時期に日本でも民主党政権が誕生していることになろうと予測されている。
安部政権は米国から監視されていて、非核三原則を遵守しますなどと国会で発言したのは、よほど強力な圧力がかかったのだろう、というようなことも。
阿部首相が米国訪問時に、祖父の岸元首相がアイゼンハワー大統領とゴルフをする写真を持っていったらしいが、心得違いをしていないか、と手厳しい。
因みに、お爺さんの岸元首相は、日米安保条約に日本側の自主性が反映されるよう苦労された
方で、今の首相の姿勢とは大違い、らしい。
副島氏は、アメリカが中国を援助して太らせるだけ太らせ、後で戦争で破壊し、復興でさらにまた儲けるというシナリオどおりにいずれ行くだろうと予測する。安部政権のままだと、日中開戦が数年はやまるのでは、と心配している。
月曜日, 6月 25, 2007
『昭和史からの警告』(戦争への道を阻め) 船井幸雄・副島隆彦著、ビジネス社、2006年、6月23日発行
ベストセラー「日本壊死」のコンビが放つ警告の書!とあるが、迂闊にもほぼ丸1年間、存じ上げなかった。
本当は、以前から「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」という徳間書店から出ている副島隆彦氏の本を読みたいと以前から思っていたのだったが、なかなかそこらへんの本屋さんには置いてあっても下巻だけだったり、他にもいろいろと目を引く本に目移りしたりして、買うチャンスに恵まれなかった。
それで、とりあえず、この本からでも読むかと手にしたのだった。
小室直樹氏は、昭和史関連で、日中問題は、日米問題だった、と過去に何度も繰り返された。西尾幹二氏は、どこで書いたか忘れたが、日米戦争こそがアメリカの最大の間違いだったと言っていた。その時はそうおもったのだが、ここに書かれている事実を見ると、いままでの歴史の見方からさらに数歩すすんだという感じがする。
「私も折にふれて副島さんの話を聞き、今回のテーマとなる「副島史観」にはほぼ全面的に賛成しています。日本が明治、大正から昭和20年までに歩いた大日本帝国の歴史が、大方は仕組まれたものだったということ。そして、世界にはそれを仕組んだ人たちと、その日本国内の手先を務めた者たちがいて、彼らが「内側から鍵を開けたんだと言うこと。まずはこの2点です。」(船井)
船井氏の弁にあるように、明治維新さえも仕組まれたものだった、ということ。週刊誌で以前取り上げられた記事は、そうか、この本の内容についての特集だったのか、と思い至った。司馬史観も批判されているが、司馬史観も、知っていてあえてアメリカの裏政府に迎合したのか、知らずに独断と偏見で、売れる本として仕立てあげたのかは定かではないが、私は司馬史観はどういうものか知らないし、司馬氏の著作は、数ページ読んだだけで、以後手にしていない。私の好みが遠ざけたといえば聞こえはいいかもしれないが、ロマンを感じなかった、といえば嘘ではないと思う。大学書林から出た島岡茂氏のロマンス語文法などという場合のロマンだが。怪奇性がないと、興味がわかない、という点はたしかにある。
9.11のアメリカのテロが自作自演のやらせらしい、ということは今や多くの著作が指摘していることで、アメリカで911は日本の119の電話番号で、こうした数字あそびはアメリカがよくやる手なので、テロリストたちはそこまでアメリカ化していたのかと、当時は思った。アメリカでは、犠牲者たちの400家族がブッシュ大統領を相手どって告訴したらしいが、日本でいう最高裁で裁判自体が却下されたという。
小泉元首相を戦前の首相、田中義一と似ていると指摘しています。いっぽう、スターリンの謀略説もありますが、合わせ鏡で見ると車の両輪で、共産主義を「製造して」対立王朝を滅ぼしたのも一部の米英の奥の院
ですから、なかなか一つ所だけを研究してみても分かりにくいようです。まだ、副島氏などは、張作霖事件も、KGBが日本軍が実行したと見せかけた、という最近の説を引用していませんが、KGBはモスクワ直属であるとしても、共産主義そのものが、アメリカの奥にそれを利用し、国民を欺くものとして、巧妙に超遠隔操作する道具立てとしてあるようなのです。
渡部氏などは、コミンテルンの数十年先を見通した計画にのせられて、と書いていますが本当はアメリカかもしれないし、また、積極的にコミットした日本の一部かもしれないし、事実は小説よりも奇なり、です。
真珠湾攻撃時、米政府高官は夫人同伴で「お茶会」をしていたという。公文書として開示され出したための判明らしいが、無線中継で、連合艦隊が近づき、真珠湾を攻撃するさまを実況で聞きながらのお茶会だったそうだ。
小室直樹氏も、最近そこまでは言っていないが、真珠湾の攻撃も、ミッドウェーの戦いも、山本長官が指導したのだが、どちらも行う必要のない作戦だった、と栗林大将本で指摘している。なにしろ、海軍首脳は大反対、それをやらせてくれなきゃ、辞めるとまでごねて、そこまでいうのならとやらせたらしい。東条英機首相などは、結果発表まで、知らされていなかった。
この前のNHKの番組でも、真珠湾攻撃の後、敵空母がいないので、探して戦いましょうと言う派遣軍の進言を
中止したのが、国内にいた山本長官だという報道があった。
外務省の情報畑一筋で、最後にミャンマー大使となられた岡崎久彦氏も、数ヶ月前、運命の片道切符を切ったふたり、として、日本を引き返せない戦いへと導いた者を強いてあげれば、日英同盟を進んで廃棄した幣原喜重郎、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六と、はっきり指摘した。
終戦時、切腹した阿南大将は、死の直前、米内を切れ!と側近に漏らした、という。気付くのが遅かった、
ということか。近衛首相の対中戦線拡大時に、共産主義者としては尾崎などが、軍関係としては、どういうわけか、海軍の米内海相が積極的に関与している、という。
児島壌氏の「東京裁判」を読むと、戦後の教科書裁判での家永教授などは、昭和20年の夏にはすでに米軍のリストに協力者として載せられていた、という。戦前は皇国史観で有名な東大の先生がだ。
「これに対して、1920年代に入ると多くの軍人および政治家が対日戦が発生する可能性が極めて高いと判断していた。この為オレンジ計画は重視され、幾度かの検討を繰り返した後に、真珠湾攻撃時にはレインボー計画と呼ばれる戦争計画に発展していた。」とネットにあるように、オレンジ計画は、日露戦争後二年後には将来を予想して、策定されている。まさに平和のときこそ、戦争をシュミレートして備えなくてはならないわけだが、隷属状態の現状では、一般に思いもよらない。コミンテルン計画も、ほぼ同時期にスタートして、日本をして対米戦争へと遠隔操作する機能を果たしたかの解説が保守系にはある。
いぜんNHKでも、大正時代にすでにアメリカは日本各地の都市模型をつくり、空爆の時間帯などの検討をビジュアルにしていたと報道していた。まあ、戦前は一般雑誌でも、日米戦のシュミレーション記事が山ほど載ったようだが。
いずれ、日中は戦争に誘導されるという予想も。安倍政権は、その実現を速めそうだという予想も。
日高氏は、ヒラリー政権になれば、アーミテージ氏が復活すると信じている安倍側近をきらって、安倍首相の訪米では、国賓待遇を外したというような可能性も指摘、最大の問題は、日本の政治家が国際政治、国際外交(だましの現場)を欧米圏の常識で捉えられないことを指摘しているのだが。
日曜日, 6月 24, 2007
『アメリカの新国歌戦略が日本を襲う』
この本で、日高元特派員は、長年米国にいる立場で、アメリカの識者たちからみた日本、および小泉元首相の後をついだ安倍首相とそのまわりの比較的若いスタッフたちを、どのように見ているかがが随所に顔をだす。
安倍首相をかなり批判しているともとれる。もちろん、励ましともとることは可能だが、望まれる政治改革の提言をみると、絶望的にも思えるほどだ。
「すでに述べたようにあらゆる点で、一流国である日本が尊敬されないのは、あまりにも遅れた政治の仕組みのせいである。アメリカをはじめ世界の民主主義国家では、政治家というのは国内のことだけではなく、世界のことを考えるべきだと思われている。」
「ところが日本は長い間日米安保条約に守られてきたために、世界の安全に責任を持つという考えが消えてしまった。」
「世界の安全に責任を持たなくなってしまった結果、日本の政治家の多くは権力と保身、そして金儲けのみを考える物質主義の人々になってしまった。昔は井戸塀政治家という言葉があった。自分の政治理念を実現するために自身の金を使い果たし、残ったのは井戸と塀だけになった政治家が大勢いたのである。」
この後に、富士山を望む別荘地に、資産家出身でない首相経験者親子の豪邸がたっていることなどをあげている。
汚職が横行する政治風土だと。
『六カ国協議で拉致問題に同情が集まらないのもこの政治のせいである。』と書いている。
「六カ国協議でも、拉致問題にとらわれすぎて他の国々から疎外されてしまったのは、日本の指導者が安全保障や外交の問題をすべてアメリカの任せてきた結果、世界を自分のものとして考えるワールドレベルの政治家が日本にいないためである。」
「・・・歴史的に見れば第二次世界大戦後、国際的に重要な問題が二つある。一つは広島・長崎の悲劇をくりかえさないこと、もう一つはユダヤ人の抹殺を図ったヒトラーのホロコーストを二度と起こさないことである。」
「世界の指導者はこのふたつのタブーを大切な指標として行動してきているため、北朝鮮の核とキム・ジョンイルの存在が国際社会で最も危険だと見るのである。」
「だが、世界観と歴史感を持たない日本の指導者は、拉致問題以外はこれまで通りアメリカに任せておけばよいと考えている。自分たちは国内政治の立場から拉致問題のことだけを考えればよいと思っている。このため、日本は六カ国協議の中で孤立し、ワシントンからも見放されてしまったのである。」
「日米安保条約の枠がなくなろうとしているいま、日本が必要としているのは、これまでアメリカに頼ってきたもの、つまり日本の国際的な立場や利益を守る役目をいかにして自分たちの手に取り戻すかを考え、実施できる指導者である。」と。
「自らの利益を自らで守るためには犠牲を払わなければならない。
国家もまたおなじである。国家が国家利益を守るためには強くなる必要があれば、国民は犠牲を払わなければならない。指導者はその犠牲を国民にもとめなければならない。」
「安倍首相が強く美しい国家の建設をめざすならば、まず汚職政治家をすべて追放することである。少なくとも公の仕事で金銭をかせいだり、私利私欲をむさぼる政治家を追放しないことには国民に犠牲を要求できない。」
「今のままでは、日本は100年河清を待っても何もかわらない。」
そのために必要な提言を三つ提案して、本書を締しめくくっている。
与野党をとわず、先生方には全員読んでいただきたい本と思う。
幕末に日本に来たヨーロッパ人は、地球上のささいなことでもまわりまわって結局は自身に及ぶということを日本人は理解できない、と見たらしい。風がふけば桶屋がもうかる、という諺があってもだ。
小室直樹氏も、歴史に学ばない日本人ということを良く言う。すなわち、歴史観も育たないということになる。東洋的な、それは役に立つか!?という視点でしかものをみようとしない。
一例として、小室氏があげた例は以下のようであった。ある大学教授が、再就職を求めて面接を受けた。大学では、戦史を教えていました、というと、それがいったい、何の役にたつんだ!?、と言われて門前払いされたという。
この本で、日高元特派員は、長年米国にいる立場で、アメリカの識者たちからみた日本、および小泉元首相の後をついだ安倍首相とそのまわりの比較的若いスタッフたちを、どのように見ているかがが随所に顔をだす。
安倍首相をかなり批判しているともとれる。もちろん、励ましともとることは可能だが、望まれる政治改革の提言をみると、絶望的にも思えるほどだ。
「すでに述べたようにあらゆる点で、一流国である日本が尊敬されないのは、あまりにも遅れた政治の仕組みのせいである。アメリカをはじめ世界の民主主義国家では、政治家というのは国内のことだけではなく、世界のことを考えるべきだと思われている。」
「ところが日本は長い間日米安保条約に守られてきたために、世界の安全に責任を持つという考えが消えてしまった。」
「世界の安全に責任を持たなくなってしまった結果、日本の政治家の多くは権力と保身、そして金儲けのみを考える物質主義の人々になってしまった。昔は井戸塀政治家という言葉があった。自分の政治理念を実現するために自身の金を使い果たし、残ったのは井戸と塀だけになった政治家が大勢いたのである。」
この後に、富士山を望む別荘地に、資産家出身でない首相経験者親子の豪邸がたっていることなどをあげている。
汚職が横行する政治風土だと。
『六カ国協議で拉致問題に同情が集まらないのもこの政治のせいである。』と書いている。
「六カ国協議でも、拉致問題にとらわれすぎて他の国々から疎外されてしまったのは、日本の指導者が安全保障や外交の問題をすべてアメリカの任せてきた結果、世界を自分のものとして考えるワールドレベルの政治家が日本にいないためである。」
「・・・歴史的に見れば第二次世界大戦後、国際的に重要な問題が二つある。一つは広島・長崎の悲劇をくりかえさないこと、もう一つはユダヤ人の抹殺を図ったヒトラーのホロコーストを二度と起こさないことである。」
「世界の指導者はこのふたつのタブーを大切な指標として行動してきているため、北朝鮮の核とキム・ジョンイルの存在が国際社会で最も危険だと見るのである。」
「だが、世界観と歴史感を持たない日本の指導者は、拉致問題以外はこれまで通りアメリカに任せておけばよいと考えている。自分たちは国内政治の立場から拉致問題のことだけを考えればよいと思っている。このため、日本は六カ国協議の中で孤立し、ワシントンからも見放されてしまったのである。」
「日米安保条約の枠がなくなろうとしているいま、日本が必要としているのは、これまでアメリカに頼ってきたもの、つまり日本の国際的な立場や利益を守る役目をいかにして自分たちの手に取り戻すかを考え、実施できる指導者である。」と。
「自らの利益を自らで守るためには犠牲を払わなければならない。
国家もまたおなじである。国家が国家利益を守るためには強くなる必要があれば、国民は犠牲を払わなければならない。指導者はその犠牲を国民にもとめなければならない。」
「安倍首相が強く美しい国家の建設をめざすならば、まず汚職政治家をすべて追放することである。少なくとも公の仕事で金銭をかせいだり、私利私欲をむさぼる政治家を追放しないことには国民に犠牲を要求できない。」
「今のままでは、日本は100年河清を待っても何もかわらない。」
そのために必要な提言を三つ提案して、本書を締しめくくっている。
与野党をとわず、先生方には全員読んでいただきたい本と思う。
幕末に日本に来たヨーロッパ人は、地球上のささいなことでもまわりまわって結局は自身に及ぶということを日本人は理解できない、と見たらしい。風がふけば桶屋がもうかる、という諺があってもだ。
小室直樹氏も、歴史に学ばない日本人ということを良く言う。すなわち、歴史観も育たないということになる。東洋的な、それは役に立つか!?という視点でしかものをみようとしない。
一例として、小室氏があげた例は以下のようであった。ある大学教授が、再就職を求めて面接を受けた。大学では、戦史を教えていました、というと、それがいったい、何の役にたつんだ!?、と言われて門前払いされたという。
土曜日, 6月 23, 2007
購入後二度目のリヤブレーキシューというかブレーキパッド交換にバイク屋さんにいったら、BIG1(1000cc)の最終型が売り物として出ていた。お値段は50万弱らしい。sho様のビッグ1とほぼ同じ色。サイドカバーは両方とも黒。走行は三万弱。夜だし、なんだか自分のよりよく見える。夜目、遠目、笠のうちとはよく言ったものだと思った。タンクのゴムパッドがはがれている以外には、これといった難点はみつからない。CB750Fourが、約40万でずっと店頭に。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
私のほうは、発電機からオイル漏れがあり、交換したがやはり小さな穴から、時々漏れる。今日のような暑い日に、直射日光下に止めておいたら、滲む程度だったものが、穴から小さく油滴となって顔を出していた。最初はかなり気になっていたが、新品部品と交換しても、(部品代34000円程度)変わらなかったので、
今は諦めている。時々ティシューで拭いてやる程度。失くなれば止るだろうと、思っている。そもそもこの穴の存在自体、オイルを吹きこぼす穴ではないのか。直径1.5ミリ程度の穴なんだが。
1300系統では、こんな部品はとっくに解決ずみで探してもありませんね。まあ、これはこれで、何年も続いたモデルなので、まるきり欠陥というわけではないだろうが、・・・。
タンクの文字のデザインといい、スパークプラグのゴムキャップの色といい、sho様の以前のモデルと同型
らしい。これとほぼ同じ色をネットで見つけているので、借用する。
このモデルもタンクのゴムパッドがついていないようだ。バックミラーは丸形で、後方の視認性は良さそう。私もチャンスがあれば、このタイプに交換したいと思っている。
リヤの新品パッドは、ブレーキをしっかりかけた状態でようやくストップランプがつく。それで、フロントレバーを軽く当てて、早めに点灯させる必要があるときは、気をつけて行う。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
水温計の針は、適性レンジに二ミリほど入ったままだったが、斜め前方から風がきたら、足のズボンの裾あたりに熱風を感じた。水温計のTEMPという文字のPに針がかかると、ラジエーターファンが回転を始める。Mの文字の右の縦棒まで戻ると止る。もっとも今日は、夕方で風もあったので、そこまでは行かなかったが。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
『アメリカの新国家戦略が日本を襲う』日高義樹、徳間書店。6月30日発行となっている。
アメリカは実質的にアメリカ軍を日本列島から撤退させているが、日本にある米軍基地の土地や
施設を返すつもりは全く無い。
アメリカの当局者たちがそういった頑固な態度をとり続けているのは、アメリカ軍が1945年8月15日の終戦以来、日本を防衛するために駐留するためという建前のもと、実質的には占領を続けてきた結果である。
日米安保条約は日本の人々の常識とは全く異なり、日本独立のあともアメリカ軍が占領を続けるための条約だった。こう決めつけると異論のある人もいるだろうが、国際的な常識から見ても、軍事力を放棄した国家は独立国家とはいえない。
アメリカは日本が独立する前に憲法を作って日本に受け入れさせた(明確な国際法違反、小室直樹)。
その憲法は安保条約を前提としたもので、日本に自らの軍事力を放棄させるものだった。
この日米安保条約を日本の多くの人々は歓迎した。
(だが、一説には、サンフランシスコ講和条約のとき、
アメリカは慾を出し吉田茂一人を引っ張り出して日米安保条約を結んでしまう。これは一方的に日本国内に何も知らされないまま、結ばれてしまった。吉田茂は後々問題になることは解っていたので、一人でサインしてきた。うわさでは、憲兵に両腕を掴まれて運ばれ、銃剣を突きつけてサインさせられた、という話しまである。実態を象徴する「うわさ」であるが、政治評論家森田実氏は、吉田茂は総辞職すべきだったが、アメリカの要求を呑んでしまったという。)
過酷な戦争を体験した日本の人々には、軍隊を持たない「平和憲法」を持てば、二度と戦争をしなくてもすむという思いが強かったのである。したがってアメリカが無理やり日本を占領し続けたというにはあたらないかもしれない。(個人的には、明治の開国のときから、無理やりアメリカの思いどおりに行動させられてきた、というしかないと思っているが、・・・)
だが当時の事情を関係者に詳しく聞くと、まったくちがった構図が浮かび上がってくる。憲法改正の規定を著しく困難にするとともに、物理的にも日本政府と国会を監視し憲法を変えさせないように努力したのである。「日本が独立した後も国会に係官を置いて、国会が憲法を改正しないかどうか監視を続けた」と元アメリカ占領軍将校が、日高義樹氏のテレビ番組で証言した、という。
(アメリカ大使館は、日本の政治家のスキャンダル探しをしていて、細川首相当時、佐川の裏献金問題をあぶりだされて退陣に追い込んだのも、金丸信氏が失脚したのも、日本をコントロールするための方策の一環だという。ちなみに、安倍首相は、訪米しても「国賓待遇」を適用しないと、かなり前からアメリカから伝えられていた、ともいう。その理由を、よく考えて欲しい)。
アメリカの占領後政策の基本は、日米安保条約を背景にアメリカ軍が日本に駐留しつづけること、平和憲法によって日本人が軍事力を拡大しないようにすることだった。(小室直樹氏は、硫黄島の戦いぶりと、原爆の惨禍は、不幸なことだったが、戦後の大幸運を生み出す原動力ともなった、と栗林大将の戦いを研究して結論づけた。フルブライト留学生の一人であることを忘れないで欲しい。)
1951年に成立した日米安保条約には二度大きな変革が加えられている。最初は1960年に岸首相(当時)が行った。これによって無期限に続くと考えられた日米安保条約は、日本側が破棄すると決めれば破棄できることになった。(安倍首相が岸元首相の孫であり、政治思想の根幹をみれば、国賓待遇された、お客さんの歴代首相とは異なるとアメリカ側は十分承知していることかもしれない。)
しかし、アメリカ側は、破棄を申し出るような政権が日本にできるのを阻止するためあらゆる影響力を行使した。その結果日本の政党、とくに自民党は、アメリカの指導と協力をうけて日米安保条約を維持するための一大勢力となったのである。つまり、日本はみずから望んで被占領状態を続け、アメリカは軍事力で日本の安全を守るという形ができ上がった。だが、これも国際社会の常識と歴史から考えれば、全く別の解釈が成り立つ。
日米安保条約は、日本の安全のためというわけではなく、アメリカが占領している地域の安定を確保するためである、と日高元特派員は指摘する。(ハドソン研究所首席研究員)
「アメリカがただで日本を守っている」というのは間違いであり、アメリカは自らの占領地を自らの力で守っているのである。」
安保条約はどのような形でアメリカ軍が日本を守るかは一切決めていない。アメリカが占領を続けるためのもので、他のことは二義的であるのは明らか、と指摘。
二つ目の変革は、クリントン政権下で行われ、有事の際にアメリカ軍が日本の国土を自由に使っていい、と決めた。それまでの基本的な取り決めは、基地提供に限られていたが、それを道路や港、空港などの利用に押し広げ、占領軍としての行動を一挙に拡大した。アメリカは、日本が外国から攻められた場合は拘束されずに軍事行動を行うためであると発表した。(軍の行動は、警察とは異なり、禁じられていなければ、何をしてもよい、ということを忘れないで欲しい、目的のためには手段を選ぶのだが、その選び方はもっとも効率的な手段を選べる!)
これまで日本に恩恵を与えていたアメリカ軍といえども。国際情勢が変わり、アメリカの世界戦略が変わればアメリカ本土へ引き上げる。そうであれば、基地を日本に返せという動きが出てくるのが当然である。ところがそうした動きが起きている気配はない。
アメリカの力が後退し、アメリカが新しい国家戦略を打ち出したために、日本を保護することも、日本を助けることもしなくなった。その結果、ブッシュ大統領は日本の存在を忘れ、新しいリーダーである安倍首相にも特に注目しようとはしていない。
日本はすでにあらゆる面で成熟している。足りないのは国民の努力と自己犠牲の精神である。第二次大戦後の日本は歴史的に見ても国際的に見ても問題はなかった。国際社会から尊敬されるべきものがあった。だが、それはアメリカのらによって保護され、アメリカの指導を得て動いてきただけという重大な欠点がある、と指摘している。
いまこそ、日本は自らの手で、これまでやってきたのと同じことを行うだけの「力」を持たなければ成らない。そして国民はそのための犠牲をいとわない環境を作ることだと、序論的に述べている。
安保条約はなくなりつつあり、アメリカが疎遠になりはじめた、という前提でアメリカ戦略の大転換を見据え、対応すべき問題点を指摘している。
アメリカは実質的にアメリカ軍を日本列島から撤退させているが、日本にある米軍基地の土地や
施設を返すつもりは全く無い。
アメリカの当局者たちがそういった頑固な態度をとり続けているのは、アメリカ軍が1945年8月15日の終戦以来、日本を防衛するために駐留するためという建前のもと、実質的には占領を続けてきた結果である。
日米安保条約は日本の人々の常識とは全く異なり、日本独立のあともアメリカ軍が占領を続けるための条約だった。こう決めつけると異論のある人もいるだろうが、国際的な常識から見ても、軍事力を放棄した国家は独立国家とはいえない。
アメリカは日本が独立する前に憲法を作って日本に受け入れさせた(明確な国際法違反、小室直樹)。
その憲法は安保条約を前提としたもので、日本に自らの軍事力を放棄させるものだった。
この日米安保条約を日本の多くの人々は歓迎した。
(だが、一説には、サンフランシスコ講和条約のとき、
アメリカは慾を出し吉田茂一人を引っ張り出して日米安保条約を結んでしまう。これは一方的に日本国内に何も知らされないまま、結ばれてしまった。吉田茂は後々問題になることは解っていたので、一人でサインしてきた。うわさでは、憲兵に両腕を掴まれて運ばれ、銃剣を突きつけてサインさせられた、という話しまである。実態を象徴する「うわさ」であるが、政治評論家森田実氏は、吉田茂は総辞職すべきだったが、アメリカの要求を呑んでしまったという。)
過酷な戦争を体験した日本の人々には、軍隊を持たない「平和憲法」を持てば、二度と戦争をしなくてもすむという思いが強かったのである。したがってアメリカが無理やり日本を占領し続けたというにはあたらないかもしれない。(個人的には、明治の開国のときから、無理やりアメリカの思いどおりに行動させられてきた、というしかないと思っているが、・・・)
だが当時の事情を関係者に詳しく聞くと、まったくちがった構図が浮かび上がってくる。憲法改正の規定を著しく困難にするとともに、物理的にも日本政府と国会を監視し憲法を変えさせないように努力したのである。「日本が独立した後も国会に係官を置いて、国会が憲法を改正しないかどうか監視を続けた」と元アメリカ占領軍将校が、日高義樹氏のテレビ番組で証言した、という。
(アメリカ大使館は、日本の政治家のスキャンダル探しをしていて、細川首相当時、佐川の裏献金問題をあぶりだされて退陣に追い込んだのも、金丸信氏が失脚したのも、日本をコントロールするための方策の一環だという。ちなみに、安倍首相は、訪米しても「国賓待遇」を適用しないと、かなり前からアメリカから伝えられていた、ともいう。その理由を、よく考えて欲しい)。
アメリカの占領後政策の基本は、日米安保条約を背景にアメリカ軍が日本に駐留しつづけること、平和憲法によって日本人が軍事力を拡大しないようにすることだった。(小室直樹氏は、硫黄島の戦いぶりと、原爆の惨禍は、不幸なことだったが、戦後の大幸運を生み出す原動力ともなった、と栗林大将の戦いを研究して結論づけた。フルブライト留学生の一人であることを忘れないで欲しい。)
1951年に成立した日米安保条約には二度大きな変革が加えられている。最初は1960年に岸首相(当時)が行った。これによって無期限に続くと考えられた日米安保条約は、日本側が破棄すると決めれば破棄できることになった。(安倍首相が岸元首相の孫であり、政治思想の根幹をみれば、国賓待遇された、お客さんの歴代首相とは異なるとアメリカ側は十分承知していることかもしれない。)
しかし、アメリカ側は、破棄を申し出るような政権が日本にできるのを阻止するためあらゆる影響力を行使した。その結果日本の政党、とくに自民党は、アメリカの指導と協力をうけて日米安保条約を維持するための一大勢力となったのである。つまり、日本はみずから望んで被占領状態を続け、アメリカは軍事力で日本の安全を守るという形ができ上がった。だが、これも国際社会の常識と歴史から考えれば、全く別の解釈が成り立つ。
日米安保条約は、日本の安全のためというわけではなく、アメリカが占領している地域の安定を確保するためである、と日高元特派員は指摘する。(ハドソン研究所首席研究員)
「アメリカがただで日本を守っている」というのは間違いであり、アメリカは自らの占領地を自らの力で守っているのである。」
安保条約はどのような形でアメリカ軍が日本を守るかは一切決めていない。アメリカが占領を続けるためのもので、他のことは二義的であるのは明らか、と指摘。
二つ目の変革は、クリントン政権下で行われ、有事の際にアメリカ軍が日本の国土を自由に使っていい、と決めた。それまでの基本的な取り決めは、基地提供に限られていたが、それを道路や港、空港などの利用に押し広げ、占領軍としての行動を一挙に拡大した。アメリカは、日本が外国から攻められた場合は拘束されずに軍事行動を行うためであると発表した。(軍の行動は、警察とは異なり、禁じられていなければ、何をしてもよい、ということを忘れないで欲しい、目的のためには手段を選ぶのだが、その選び方はもっとも効率的な手段を選べる!)
これまで日本に恩恵を与えていたアメリカ軍といえども。国際情勢が変わり、アメリカの世界戦略が変わればアメリカ本土へ引き上げる。そうであれば、基地を日本に返せという動きが出てくるのが当然である。ところがそうした動きが起きている気配はない。
アメリカの力が後退し、アメリカが新しい国家戦略を打ち出したために、日本を保護することも、日本を助けることもしなくなった。その結果、ブッシュ大統領は日本の存在を忘れ、新しいリーダーである安倍首相にも特に注目しようとはしていない。
日本はすでにあらゆる面で成熟している。足りないのは国民の努力と自己犠牲の精神である。第二次大戦後の日本は歴史的に見ても国際的に見ても問題はなかった。国際社会から尊敬されるべきものがあった。だが、それはアメリカのらによって保護され、アメリカの指導を得て動いてきただけという重大な欠点がある、と指摘している。
いまこそ、日本は自らの手で、これまでやってきたのと同じことを行うだけの「力」を持たなければ成らない。そして国民はそのための犠牲をいとわない環境を作ることだと、序論的に述べている。
安保条約はなくなりつつあり、アメリカが疎遠になりはじめた、という前提でアメリカ戦略の大転換を見据え、対応すべき問題点を指摘している。
金曜日, 6月 22, 2007
仕事で、役所へ行ったら、見慣れない大型バイクが他のスクーターなどの中に一台だけあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/画像:Yamaha_BT_1100_Bulldog.JPG/
BT 1100 (Bulldog)とかいうらしい。上記サイトでは、イギリスの田園風景らしい背景での写真が出ている。
「ヤマハイタリア(旧ベルガルダヤマハ)が設計、開発、生産を担当し、欧州のテイストで生み出したピュア・バイク。
豊かな造形タンク、Vツインエンジン、モーターサイクル本来のシンプルな姿を明確に表し、モダンだがハイテクではなく、すっきりとしているが簡素ではなく、パワフルだが威嚇的ではないその姿。
ヨーロッパの、そのワインディングロードで、石畳の美しいその街で、力むことなく肩から力を抜いた純粋な走りを愉しめる、新しいヨーロピアンモデルである。」
75°のVツインで馬力は不明。このタイプのエンジンのアメリカンなら、6000回転で60馬力程度であったはず。最近私が理想とするスペックだ。もっとも、Big1でも、6000回転なら、60馬力ちょっとぐらいか。
味わいがちがうけど。
先日紹介したMT-01とは別プロジェクトで開発されたという。
お値段は、CB1300とほぼ同じ価格帯。ドカオタには馬鹿にされるぞ、なんて言っている人もいる。アメリカンタイプと基本的には同じかも知れない。マタ〜リツーリング向け、とか言っている人もいる。
メーターだけは、逆輸入だから、220キロまで刻んであるけど、100キロでは3000回転ぐらいなのかどうか。ま、いずれにしてもめったにおめにかかれないモデルに出会えたわけだ。
リヤは17インチで、シャフトドライブ。チェーンで出したかったけど、金型壊してしまって、シャフトで出した、なんて言っている事情通の人もいる。
http://pita.paffy.ac/2chlog/test/read.cgi/bike/998320876/
別に撮影したヤマハの1100アメリカンと、ほぼ同じシャフトドライブと見える。通勤用はメインと割り切るには、雨天時のメンテナンスも楽で好ましいのだが、発進時に、リヤが盛り上がったり、シフトダウン時に
は逆に車体が下がったり、きついコーナーなどでは苦労することもある。BMWのシャフト方式はそういう挙動を防止するべく、多段シャフトになっているが。
ネットでも指摘されていたが、見た目は200Kgくらいの車重に見えたが、乾燥で230キロ弱だそうで、
http://bt1100.yme.com/flash.htm
馬力は65馬力/5500回転、トルクは9kg・m/4500回転であっても、なんだか鈍重な気がしてきた。しかし、いいにつけ、悪いにつけ、昔からのヤマハワールド的な中途な性能に徹したところが、タンク形状や音叉のエンブレムとならんで、古いBMWタイプライクと言えば言えるかも。どーして、モトグッチタイプの配置にして、車重を軽くしなかったのか疑問。やはり金型を新規に作るのはしんどいのかも。
タンク容量もいちおう20リッターを確保している、という。DOHCにして、馬力を少し挙げたようだ。吸・排気効率アップ対策だろう。1100では、VT250のような小気味の良い味わいは車重が200キロをきる(CB400Four)必要があるだろうが、無理か!?。
水曜日, 6月 20, 2007
「商売がら、英文法と名のつく本にはざっと目を通すように心がけている。1995年に出版された英文法の本で相当評判になったものがある。例によって、ざっと目を通したら、どきっ、どきっとするところが何箇所もある。大変面白い書きぶりで、著者の才気がなみなみではないことを示しているし、また英語の用法にもよく通じていることもわかる。しかし、この著者の学歴は存じ上げないが、英語を学問としてやったことがないことは確かである。たとえば、次のような記述がある。」
渡部教授のこういう書き出しで始まる「英文法を撫でる」という文庫本を読み出したとき、あれ、これはもしかして、「あの人」の著作のことではないか!?とすぐ思った。渡部教授のこの本は、1996年12月5日の初版本。その本は、1995年8月に出たのだが、私が買ったのはやはり1996年6月の12刷版だとわかった。
当時、ちょっと英文で発表予定の講演集に載せる仕事もあり、発表自体も英語で40分ほどしたのだが、記録には残らない。記録はやはり文章で残るので、自分なりに、どう見ても「ジャパニーズ」と思われる英文にはしたくないと思っていた。
マックを愛用しているのも、英語環境に親しむ意味も込めての選択だった、ともいえる。しかも、運良くハードカバーの本としてオランダから出る部類に入れてもらえた。通常なら、講演要旨集という、その他大勢の部類だ。手弁当でがんばるしかない。
それで、心当たりの本を半年ほど前の記憶をたぐり寄せながら、本棚を探したら難なく見つかり、内容の上からも一致した。副島隆彦氏の「英文法の謎を解く」となっている。私なら英文法の謎アラカルトぐらいで、すますつもりだが、さすがに早稲田の御出身、ちょっと大きく出たタイトルだと、思った。今は偏見はないが、当時は自分の狭い体験から、早稲田出身は、ちょっとカラーがはっきりしすぎる傾向がある、と思って見ていた。
学歴は、裏表紙に書いてあるじゃないか、と当時は考えていたが、世間一般では、〜大学〜学部卒で済まされる経歴も、卒業後、どういう仕事や勉強をしたかも学歴にはいる、と今は考えている。銀行員生活、海外勤務を経て、「現在」代々木ゼミナール講師、としか書いてないので、渡部教授は、学歴は存じ上げないが、と書かれたのであろう。今は、明治や大正時代ならともかく、学部を出ただけで、何の分野にしろ本を書いて出版できる、などという時代ではない。仕事の合間に、あるいは院で、相当本を読み、「教師」役の先輩や同僚たちとの切磋琢磨の過程で、訓練をつまないと、本は書けないだろう。
梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」1969年にもその辺の事情は当時から書かれている。ちなみに、先生もかなりのMac派だった。そんなわけで、著者の副島隆彦氏とはこのとき、初めて知ったわけだ。ざらに、「続・英文法の謎を解く」1997年4月が出たのでもちろん買った。渡部教授の指摘に対する反応にも興味があった。
副島氏は、この三巻目の後書きで、多くの読者(英語教育にかかわる方々がメインだったらしい)に感謝をのべていて、今自分は「アメリカ政治思想研究と国家戦略研究」のほうがいそがしく、日本人をここまで世界から孤立させてしまった諸元凶を探索し、病原菌を発見することに熱中している旨書かれていて、大いに期待するところだった。
それ以降、しばらく副島氏のことは忘れていたが、ネットで「植草事件」を官製捏造事件と指摘しているのをみて、また勉強や研究の結果が知りたくなって来ている。
http://www.amazon.co.jp/植草事件の真実-植草一秀事件を検証する会/dp/4931569161
火曜日, 6月 19, 2007
そして「文科大学(東大文学部)へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にする前に、まずフォン・ケ−ベルと答えるだろう」(夏目漱石全集第八巻)というような事態が生ずるにいたったのである。(渡部昇一、知的生活の方法)
御雇外国人教授の、東大文学部の前身の第一号が、このケーベル先生。写真は、昭和13年ごろの岩波文庫版から借用した。当時の学生の無邪気で、無知な点をいろいろ記録している。ゾルゲもそうだったが、この先生も熱いご飯にマグロの刺し身は好物であったという。二人とも、ロシア系ドイツ人ということになろうか。独身で過ごされ、帰国を前に他界された。日本人の虚栄心の高さを問題視している。古いタイプの日本人を評価し、洋風の、当時のインテリ風の中身の無さを
嘆いている。
渡部教授は、江戸時代の学問は、修養の意味があって、日々本を読み、考え知識を単に吸収するというよりは、日々古典的文献を精読し、作詞・作文し、自己の生活の形態を、心の中からしだいに外形におよぶところまで徐々に形成していったのである、と指摘している。そういう修養を積んだ人士を、先生は、言葉は通じなくても好まれ評価された。
この先生の後、ラフカディオ・ハーンが担当し、三人目がロンドン帰りの夏目漱石だった。学生達は、外人ではないので、がっかりして、なんだ日本人か!?と聞こえるようにつぶやいたとか。いきおい、初期の漱石の授業は、学生達に厳しく臨む態度であったようだが、やがて厭になり、博士号なんかいらないとして、辞めてしまい、文筆活動に入る。
秦教授が、旧制高校の青春像を中心に、その博識をいかして一冊の本をかかれた。渡部教授と、秦教授は、南京事件の犠牲者数をめぐって、それぞれの著作で激しいバトルを演じておられるのだが、その紹介はまた後日。どちらの先生も、旧制高校時代の古き良き青春を愛されておられるように、私は感じているし、私自身、寮歌なども大好きだ。
それでは、秦教授の博識から少しお借りしてみよう。
「後から思えば、「鳴呼玉杯」の登場は明治の青年たちにとって一種の思想的分水
嶺だったのかもしれない。楠と藤村がともに一高キャンパスにいたのは明治三十
五年九月から翌年三月までの半年にすぎない。そして楠は静かに消えたが、二カ
月後の三十六年五月に起きた藤村操の自殺は天下を聳動した。」
楠とは、「鳴呼玉杯」の作曲者で、三浦環に恋して振られ、一高を退学し、北海
道で農林技官かなにかをして静かに死んでいった人物像らしい。
夏目漱石は、「英国留学から帰ってきたばかりの新任講師たったが 最初の授業で藤村操に
テキストの訳読を命じた。ところが「やっていません」「どうしてだ」「やりた くないか
らです」とやりとりする一幕となる。しかも次の授業で再度指名すると、次はやってこいと叱られ
ていたのに、藤村はまたも予習してこなかったので、短気な軟石は「勉強する気がないなら、
もう出てこなくてよい」と申し渡す。それは自殺決行の二日前だったという。」
「自殺のニュースを聞いて漱石が原因は自分の叱責のせいではあるまいかと悩んだのもむりか
らぬ。この間の事情を調べた宮坂広作氏は、事件の印象はのちのちまで軟石の胸中から消えな
かったと結論している。」
漱石先生は、真面目な良心的な先生だったんですね。
「教師が「優等生」の枠を外れた生徒に冷たくなってもやむをえない面はあるが同
世代友人たちは心情はおのずから別であろう。別に冷たくしたわけでもなかろうに。」
「井上哲次郎博士(東大の哲学科教授)が「巌頭之感」の一句に触れ「ホレーショの哲学など
は哲学史上にも価値のない哲学であって・・・」と評したことに、友人の安倍能成は「ハムレッ
卜の煩悶が友人ホレ-ショの空なる哲学的談議によって救われる由もないことを知って、この
言を成したもので、(評は)全くの的外れ」「君は偽れる世の人に真なれとの警告を与えんとす
る使命を果すべく、生まれ、死んだ」(安倍『我が生ひ立ち』1966)と反発した。
友人たちの目には藤村は最後まで「性快活、よく談じ、よく興ず。スポーツマンでもある無
邪気な秀才」に映っていたようである。教師と生徒の視線の差からくる落差は埋めようがない
のかもしれない。
ともあれ、彼の「哲学的自死」は日露戦争の時代であるにもかかわらず,国家の要請よりも
自我の主張を重しとする風潮を呼びさました。一高を終えると東京帝大,少しおくれて京都帝
大の哲学科へ進学する生徒がふえ、哲学は旧制高校文化の中軸的位置を占めるようになる。藤村と同じ世代からは石原謙、阿部次郎、田辺元、魚住影雄、安倍能成、高橋里美,岩波茂雄のような人材が輩出する。」
文化と関わりの深い夏目漱石の文学に少し触れてみたい。
減石も愛した高校生活
「藤村操の死をめぐって、教師の菊池寿人と夏目漱石が似たような体験を持った
ことはすでに
書いた通りだが、一高の同期生だったのに二人の仲は良い方ではなかったらしい。
菊池は一高に教鞭をとること三十数年、教授、教頭、校長を歴任、独身の生涯
を母校に献げ
た有徳の人だったが、漱石とは肌合いがちがった。二人が同僚だったのは、明治
三十六年四月から四年ばかり、漱石は一高兼東京帝人英文科の講師という身分
だった。留学前に五高の教授、教頭心得までやったのに、一高で教授になれな
かったのは、帰朝と同時に五高を辞めてしまったわがままのゆえか。
宋冒的に東京帝大英文科の卒業生第一号だった漱石としては、その教授職のほ
うを本命と考えていたのだろうが、前任者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の
文学的講義が人気を博し、
留任運動まで起きたのに対し、英語学を重んじ格式ばった漱石の授業は学生には
好評とは言いがたかったようである。その反動もあってか、彼は大学を嫌い高等
学校の空気を愛した。就職から間もない三十六年六月十四日には、親友の菅光雄
に宛て「高等学校ハスキダ。大学ハヤメル積リダ」と書き送っている。」
「藤村操が日光華厳滝の崖上から投身する直前、楢の大木の幹を削って墨書した「巌頑
之感」の全文を次ぎに掲げよう。
『悠々たるかな天壌、喨々たるかな古今
五尺の小躯をもって此の大をはからむとす。
ホレーショーの哲学訖になんらのオーソリチィーを有するものぞ、
万有の真相は唯だ一言にして悉くす。日 く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。』
少年が書いたものとしては格調の高い見事な文章だが、恵まれた家庭に育ち、最
年少で一高入学を果した前途洋々の青年かなぜ死を択んだのか、友人たちも世間
も当惑したにちがいない。
さまざまば聴測が飛びかった。東京朝日新聞は「深く哲理の研究を好みて熱心の
余り不可能の原理考究に煩悶し遂に一種の厭世家となり・・・・」と報じ、「万
朝報」(よろずちょうほう)は、黒岩涙香社長みずからが筆をとって「少年哲学
者を弔す --彼は時代に殉じたのだ」と大けさに讃美し、高山樗牛も「ニーチェ
の創造的芸術に通じる」と述べ同調した。
このあたりで「本邦最初の哲学的自死」というイメージが固定したらし く、華
厳の滝壷に身を投じる学生や青年の後追い自殺が続発した。1説には200人近くに
達したという。何しろ漱石の『吾輩は猫である』(1905〜1906)に「打ちゃって置
くと華厳滝から飛び込むかもしれないとか、あの様子じゃ華厳の滝に出かけます
よと出てくるくらいだから。
そうなると、当然のことだが批判の声も出てくる。一高当局は公式反応を見せな
かったが国文担当の菊池教授は、藤村の教室での態度、成績が悪く、図書館で読
んだ本を調べてみたが、まじめなる哲学書などは更になく、大方は軽浮なる文学
美学の書のみで、課題の文章もこましゃくれたる嫌味の言多く幼稚と決めつけて
いる。名文とされた「厳頭の感」の前半は某文学雑誌に出たものそのままだとい
う噂もある、と日記に書いた。
教育者の立場からすると、藤村の死が美談、流行になっては困るとの思いもあっ
たろうが、
「彼は病的早熟なり 」、「神経衰弱なるべし」、「文学中毒」と断じるのは、
いささか酷にすきよう。」と述べておられる。
まさに、自殺の原因は、「遺書」となった「巌頑之感」にあるとおり、不可解ではあるが、青年の美学願望
が亢進した結果ではなかったろうか。私も、若い頃、この自殺事件を聞いて衝撃を受けたひとりである。
日曜日, 6月 17, 2007
先週雨の中で絶対燃費向上しているはずと思っていたのに悪くてショックだった。それで快晴の今日、再トライ。それで、まず、セルフスタンドで満タンに。ここで、前回は、サイドスタンドのまま満タン。計測時は談合坂のお兄さんに給油してもらったので、垂直にして満タン。そこでどの位ちがうか試したら、大したことないと思った予想とはちがって、一リットル以上ちがった。それで計算し直すと、16.4キロぐらいとなり、予想は当たった!?ことになる。16.1が過去最高だったからだ。
いつものように朝から飲まず食わずで来たので佐野で休憩。さすがに今度はバイクだらけ。しかし、ETCを付けているバイクは見た限りでは見かけなかった。日本無線しか生産していないので、どこか特殊部位に付けているはずもなく、無線とかナビはあるのだけど、・・・。
日曜で、行楽日和のせいか、4輪も多く、皆飛ばしている。バイクも120キロ以上で抜いて行く4気筒250もいた。ヘルメットから、長い髪が風にそよぐ。こちらはマイペースを心がけているし、燃費チャレンジもあるので、控えめ。といっても、前回良い結果とわかったので、ついアクセルを開けぎみ。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
佐野は少し曇っていて、先ほど抜いて行った女性が、駐輪場で、雨さえふらなければいいわ、私今日は持ってきてないの、などと連れの男性とツーリングバッグを外しながら話しているのが聞こえた。
佐野を出て19℃で、しばらくいくと晴れ間がのぞき、以後ずっと快晴。宇都宮インターで降りて、日光道路へ入る。先ほどの連れは、料金所で止ったまま。日光道路はすいていたので、4輪、2輪とも飛ばす。最初の料金所手前二キロ程で、バイク3台がやはり120キロ以上で抜いて行く。料金所へつくと、三台とも20台くらい並んだ4輪の後に止って順番待ち。ETCレーンは料金所のど真ん中で、バイクが一台、ほとんど一瞬で通り過ぎる。以後、日光まで抜かれることはなかった。まあ、こちらも少し、車と同じかそれ以上アクセルを開けてしまったのだが。
いろは坂は20年ぶり。登り専用は第二いろはというらしい。栃木ナンバーはみな、他県ナンバーを追い越して登って行ってしまう。これから勤務につくのかもしれない。距離自体はたいしたことがないので、まもなく中禅寺湖畔に。今まで行ったことのない、中禅寺湖を見下ろせるという展望台へまず回ってみた。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
道は結局足尾町に入ったところで行き止まりなのだが、車が少なく、勾配が緩やかで走りやすいので、気持ちがよかった。富士山もきれいに見えた。展望台で写真を撮ったりしていると、黒のワゴンRかなにかで、夫婦連れで来ていた方から声をかけられる。展望台には、そのとき私のバイクしかなく、その御主人も一人の時はバイクライダーなのだという。どちらから?と聞いたら千葉の私の本籍の近くの人だった。いろいろコースを教えてもらってわかれた。土曜日は奥さんが勤務なのでバイク、日曜は4輪で二人でドライブが定番らしい。何となく、sho様の事情を思い起こしてしまった。
その後、30数年ぶりに華厳の滝を訪れてみた。小学生の修学旅行や若いとき見たときより、以外に小振りに見えて迫力不足だった。駐車場のバイク料金は100円。車は300円。私の後に何台か駐輪したが、みな長岡ナンバーだった。このあたりは海抜1200メートルほどあり、ツガやモミの匂いが、杉並木のスギの匂いとちがって鼻につく。サルを一匹見かけたが、警戒する様子はなく、すっかり共存共栄しているようだった。
このあと、第一いろはを降りて、修学旅行でバスが何度も切り返していたことを思い出して降りた。当時は対面通行だった。展望台で会った人はむかし有料だったこの辺の道路はみんな無料になっていると教えてくれた。いろは坂も昔は料金をとられたものだった。高速主体で、飛ばしたので15.75キロだった。少し、がっかり。下におりて飛ばしていたら、70〜80キロでちょっと、ガス欠っぽくなったが、すぐ直った。軽い焼き付きっぽい現象のようで、この後、アイドリングが800から900にかなり近くなった。余計なテフロン処理が取れれば、アイドリングが上がるとは予想していたが。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
土曜日, 6月 16, 2007
敵撃摧(げきさい)と 舞い降る 舞い降る
まなじり高く つわものの
いずくか見ゆる おさな顔
ああ純白の 花負いて
ああ青雲に 花負いて
ああ 青雲に 花負いて
これが三番目の歌詞であるが、「敵撃摧(げきさい)と 舞い降る 舞い降る」のことばに、多少、抵抗感
を抱いたのである。「敵をやっつけろ」とか「勝ちたい」といった激しい戦闘意欲をあらわすような軍歌のことばを僕は嫌っていた。・・・三行目の「いずくか見ゆる おさな顔」というのはぼくのお気に入りであったが。
とP144〜145で書かれている(高木 東六著、「愛のラプソディー」)。
ちなみに、いぜん紹介した思い出の軍歌、http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/
でも、メイン曲はこの曲で、橘かおるさんの独唱になる三番は、好きだ。昭和の軍歌をクリックすると、
海ゆかばになる。愛国の花の歌詞のそばに添えられている、当時の日本女子大学の、鉄かぶとを脇においての授業風景写真に見られる、女学生たちの顔つきが、好きで感銘をうける。
岡潔博士は、戦後顔つきがまるきり変わってしまった、と嘆いたが、戦後生まれのわたしにはピンと来ないが、ここでの写真はそのヒントになるかもしれないと、思っている。
「空の神兵」は、2番も好きで、こういう内容だったのか、と初めて知った。
世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣
さて、作曲は15分程度で終わったそうだ。
「その夜は空襲警報がよく鳴った。ぼくはピアノの前にそわって先ほど上山君が置いてい帰った『空の神兵』の作曲を始めた。全く苦しむことなく、頭の中のイメージをまとめあげただけである。そして、音符を
書き込む15分ぐらいの間にこの曲はできあがった。
でき上がったとき、ぼく自身もうれしかった。さっそく感動した気持ちを隣の部屋でつくろいものをしていた母に伝えに行った。・・・ぼくはいましがた作った『空の神兵』を母の前で歌って聞かせた。」とある。
「どうかねえ、お前、その歌ははやらないよ」と眼鏡をずらして目をしょぼつかせながら言い、また、縫い物に戻られたそうだ。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
「自分のことで恐縮だが、『空の神兵』のレコードは、飛ぶように売れ、そしてあちらこちらで称賛を受けた。今でも出版されている音楽関係の本には、例えば、
『歌詞もよいが、クラシック派の作曲者高木東六の曲が素晴らしかったので大反響をよび、・・・美しさと拡張の高さでは、日本軍歌白眉であろう』とか、
『単純に見える歌詞の行間にひらめく歌意の高さを、みごとにキャッチし、それ以上に歌の理念を盛り上げ、引きずってゆくが如き清潔な高い律調、さすがは芸術派のすぐれた作曲家の優れた手腕と敬服できる曲である。まさしく、空に咲き開く白バラの大群の美しさ、勇壮さを、音に描いた名曲といえよう」とか書いて、評価してくださっている。」(ともに、「日本の流行歌史」社会思想社)
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
さらに團伊玖麿氏からもほめられたとか、NHKの人から聞いた話しとして、戦争のさなかにドイツが日本の国の状況を調べた報告書には、軍歌の中にある「空の神兵」はレベルが非常に高い、こんな素晴らしい曲を作る国だから、きっと国そのもののレベルも高いだろう、としてるとか。・・・
きりがないほど、思い出はつきないようだが、以下の思い出にも私は注目する。
「この曲のヒット中に高野山にある墓地で、夜中に幽霊が出るといううわさを聞いたことも忘れられない。深夜になると墓の周囲を白装束の何かがクルクルと回っていたそうだ。そこはちょうど、落下傘部隊の戦没者の墓であった。現場を目撃した人が何人もいて、場所と時刻はそれぞれの証言と一致していたという。」
http://yauti01.at.webry.info/200706/article_1.html
このブログには、昭和17年の情勢が簡単にスケッチされている。
ところで、高野山関連であるが、数年前硫黄島へ慰霊に出かけたグループ、高野山のお坊さんを連れて行くことになっていたが、身内の危篤で来られなくなって、しかたなく僧侶なしで出かけたところ、撮影者も、被撮影者も気付かなかったが、あとで現像したら、一枚にだけ大きな火の玉様の物体に包まれる写真が写っていたという。
撮影者は、硫黄島には特に関係のない一行の一人の主治医だったひとで、カメラが趣味。場所は、地下洞窟で、野戦病院として使われた場所を訪れて、そこを後に地上へ出るべく戻ってくるところを撮ったという。
そのお医者さんは、半年ほどその存在を伏せていたらしいが、その後特に異変も起きないので、一行の先頭を歩いていた人に明かして、公開してくれたという。見れば見るほど、人の顔に見えてくるものですね、と
コメントが添えてあったという。当事者は、幼年学校時代の教官もこの地で戦没していて、別に驚くことではないという。
かなり前だが,地方新聞にも自衛隊と米軍が硫黄島で共同訓練をしている内容と写真(米軍パイロットの食事風景)が掲載されたことがあった。自衛隊関係者の弁として、いまでも旧軍兵士の幽霊がでるそうです、霊感の強い隊員はよく見かけるようです、と取材記者へのコメントを冒頭に挙げていた。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
墓参は、それ以後のことらしい。
まなじり高く つわものの
いずくか見ゆる おさな顔
ああ純白の 花負いて
ああ青雲に 花負いて
ああ 青雲に 花負いて
これが三番目の歌詞であるが、「敵撃摧(げきさい)と 舞い降る 舞い降る」のことばに、多少、抵抗感
を抱いたのである。「敵をやっつけろ」とか「勝ちたい」といった激しい戦闘意欲をあらわすような軍歌のことばを僕は嫌っていた。・・・三行目の「いずくか見ゆる おさな顔」というのはぼくのお気に入りであったが。
とP144〜145で書かれている(高木 東六著、「愛のラプソディー」)。
ちなみに、いぜん紹介した思い出の軍歌、http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/
でも、メイン曲はこの曲で、橘かおるさんの独唱になる三番は、好きだ。昭和の軍歌をクリックすると、
海ゆかばになる。愛国の花の歌詞のそばに添えられている、当時の日本女子大学の、鉄かぶとを脇においての授業風景写真に見られる、女学生たちの顔つきが、好きで感銘をうける。
岡潔博士は、戦後顔つきがまるきり変わってしまった、と嘆いたが、戦後生まれのわたしにはピンと来ないが、ここでの写真はそのヒントになるかもしれないと、思っている。
「空の神兵」は、2番も好きで、こういう内容だったのか、と初めて知った。
世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣
さて、作曲は15分程度で終わったそうだ。
「その夜は空襲警報がよく鳴った。ぼくはピアノの前にそわって先ほど上山君が置いてい帰った『空の神兵』の作曲を始めた。全く苦しむことなく、頭の中のイメージをまとめあげただけである。そして、音符を
書き込む15分ぐらいの間にこの曲はできあがった。
でき上がったとき、ぼく自身もうれしかった。さっそく感動した気持ちを隣の部屋でつくろいものをしていた母に伝えに行った。・・・ぼくはいましがた作った『空の神兵』を母の前で歌って聞かせた。」とある。
「どうかねえ、お前、その歌ははやらないよ」と眼鏡をずらして目をしょぼつかせながら言い、また、縫い物に戻られたそうだ。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
「自分のことで恐縮だが、『空の神兵』のレコードは、飛ぶように売れ、そしてあちらこちらで称賛を受けた。今でも出版されている音楽関係の本には、例えば、
『歌詞もよいが、クラシック派の作曲者高木東六の曲が素晴らしかったので大反響をよび、・・・美しさと拡張の高さでは、日本軍歌白眉であろう』とか、
『単純に見える歌詞の行間にひらめく歌意の高さを、みごとにキャッチし、それ以上に歌の理念を盛り上げ、引きずってゆくが如き清潔な高い律調、さすがは芸術派のすぐれた作曲家の優れた手腕と敬服できる曲である。まさしく、空に咲き開く白バラの大群の美しさ、勇壮さを、音に描いた名曲といえよう」とか書いて、評価してくださっている。」(ともに、「日本の流行歌史」社会思想社)
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
さらに團伊玖麿氏からもほめられたとか、NHKの人から聞いた話しとして、戦争のさなかにドイツが日本の国の状況を調べた報告書には、軍歌の中にある「空の神兵」はレベルが非常に高い、こんな素晴らしい曲を作る国だから、きっと国そのもののレベルも高いだろう、としてるとか。・・・
きりがないほど、思い出はつきないようだが、以下の思い出にも私は注目する。
「この曲のヒット中に高野山にある墓地で、夜中に幽霊が出るといううわさを聞いたことも忘れられない。深夜になると墓の周囲を白装束の何かがクルクルと回っていたそうだ。そこはちょうど、落下傘部隊の戦没者の墓であった。現場を目撃した人が何人もいて、場所と時刻はそれぞれの証言と一致していたという。」
http://yauti01.at.webry.info/200706/article_1.html
このブログには、昭和17年の情勢が簡単にスケッチされている。
ところで、高野山関連であるが、数年前硫黄島へ慰霊に出かけたグループ、高野山のお坊さんを連れて行くことになっていたが、身内の危篤で来られなくなって、しかたなく僧侶なしで出かけたところ、撮影者も、被撮影者も気付かなかったが、あとで現像したら、一枚にだけ大きな火の玉様の物体に包まれる写真が写っていたという。
撮影者は、硫黄島には特に関係のない一行の一人の主治医だったひとで、カメラが趣味。場所は、地下洞窟で、野戦病院として使われた場所を訪れて、そこを後に地上へ出るべく戻ってくるところを撮ったという。
そのお医者さんは、半年ほどその存在を伏せていたらしいが、その後特に異変も起きないので、一行の先頭を歩いていた人に明かして、公開してくれたという。見れば見るほど、人の顔に見えてくるものですね、と
コメントが添えてあったという。当事者は、幼年学校時代の教官もこの地で戦没していて、別に驚くことではないという。
かなり前だが,地方新聞にも自衛隊と米軍が硫黄島で共同訓練をしている内容と写真(米軍パイロットの食事風景)が掲載されたことがあった。自衛隊関係者の弁として、いまでも旧軍兵士の幽霊がでるそうです、霊感の強い隊員はよく見かけるようです、と取材記者へのコメントを冒頭に挙げていた。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
墓参は、それ以後のことらしい。
木曜日, 6月 14, 2007
国際派日本人養成講座というのがある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog355.html
さいきん、ここでも『地球史探訪:ノモンハン ~ 大平原での日ソ激戦』というのが紹介されており、主要文献は、ノモンハンの夏とソ連軍撃破の記録がメイン。平成16年にあっぷされたらしい。
日本軍は侵入してきた数倍のソ連軍を痛撃して、
スターリンの野望を打ち砕いた。
■■■■ H16.08.01 ■■ 33,204 Copies ■■ 1,250,485 Views■
とある。
やはり、半藤氏の見解とは、拮抗する内容で終わっている。
「惨敗」したのはどちらの方か、これらの数字が雄弁に物語っ
ている。特に航空機や戦車の損害を比較すれば、ソ連軍の近代
兵器のレベルがどの程度かは、言わずもがなであろう。日本軍
は少数ながら、優れた近代兵器と旺盛な戦闘精神で、数倍のソ
連軍を敵に回してよく国境を守ったのである。
ノモンハン事件はソ連側の侵略によって始まり、これを日本
軍が痛撃したことで停戦となった。この国境の平和が再び破ら
れるのは、ドイツが降伏して欧州戦線が片づいた後、ソ連軍が
日ソ中立条約を破って、再び満洲になだれ込んできた時であっ
た。[a]
(文責:伊勢雅臣)
伊勢氏は、半藤氏の著作をまっさきにあげながら、わざわざこうコメントをつけている。
『(読みやすいノンフィクションだが、関東軍を激しく批判する一方、
そもそも侵略を始めたソ連側については冷静なのはいかにもバラン
スを欠く)』
ほんとうにノンフィクションといえるのかどうか。半藤氏の方針はNHKの鎌倉氏とおなじスタンスと映る。
左翼の人がそもそも文芸春秋は、産経新聞などと同じグループのはずなのに、・・・と書き込んでいたが、
文芸春秋でも、半藤氏は別らしい。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
もっとも、作る会でも、方針が対立して分裂状態らしいが、しかし、この場合の乖離は、半藤氏と文芸春秋ほどではないように、私的には感じている。
また、内容とはぼ同量以上の南十字星となのる読者からの投稿があって目を引いた。
そして、こう結んであった。
限が無いので止めて置きますが、陸幼-航空士官學校ご出身
で戦後自衛隊の将官に累進されたM将軍は戦後夙に現地を踏み、
ノモンハン戦こそ日本陸軍の精華、と断言せられました。極東
蘇聯(ソ連)軍が満蒙國境で壊滅しなかったのは、我國が不拡大方針を
堅持したからに過ぎません。仮にそれを戦略的過失と呼び得る
としても、父祖が戦場で敵に遅れを取った訳ではありませんか
ら御間違無きやう。赤い謀略宣傳にご用心!
■ 編集長・伊勢雅臣より
ノモンハン事件の臨場感あるお話し、まことにありがとうご
ざいました。
私も、伊勢氏、南十字星様にお礼を申し上げる。
以下は、伊勢雅臣氏紹介ページ。海外留学時に、日本を見つめなおした、とある。
http://www13.ocn.ne.jp/~fly/ise.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog355.html
さいきん、ここでも『地球史探訪:ノモンハン ~ 大平原での日ソ激戦』というのが紹介されており、主要文献は、ノモンハンの夏とソ連軍撃破の記録がメイン。平成16年にあっぷされたらしい。
日本軍は侵入してきた数倍のソ連軍を痛撃して、
スターリンの野望を打ち砕いた。
■■■■ H16.08.01 ■■ 33,204 Copies ■■ 1,250,485 Views■
とある。
やはり、半藤氏の見解とは、拮抗する内容で終わっている。
「惨敗」したのはどちらの方か、これらの数字が雄弁に物語っ
ている。特に航空機や戦車の損害を比較すれば、ソ連軍の近代
兵器のレベルがどの程度かは、言わずもがなであろう。日本軍
は少数ながら、優れた近代兵器と旺盛な戦闘精神で、数倍のソ
連軍を敵に回してよく国境を守ったのである。
ノモンハン事件はソ連側の侵略によって始まり、これを日本
軍が痛撃したことで停戦となった。この国境の平和が再び破ら
れるのは、ドイツが降伏して欧州戦線が片づいた後、ソ連軍が
日ソ中立条約を破って、再び満洲になだれ込んできた時であっ
た。[a]
(文責:伊勢雅臣)
伊勢氏は、半藤氏の著作をまっさきにあげながら、わざわざこうコメントをつけている。
『(読みやすいノンフィクションだが、関東軍を激しく批判する一方、
そもそも侵略を始めたソ連側については冷静なのはいかにもバラン
スを欠く)』
ほんとうにノンフィクションといえるのかどうか。半藤氏の方針はNHKの鎌倉氏とおなじスタンスと映る。
左翼の人がそもそも文芸春秋は、産経新聞などと同じグループのはずなのに、・・・と書き込んでいたが、
文芸春秋でも、半藤氏は別らしい。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
もっとも、作る会でも、方針が対立して分裂状態らしいが、しかし、この場合の乖離は、半藤氏と文芸春秋ほどではないように、私的には感じている。
また、内容とはぼ同量以上の南十字星となのる読者からの投稿があって目を引いた。
そして、こう結んであった。
限が無いので止めて置きますが、陸幼-航空士官學校ご出身
で戦後自衛隊の将官に累進されたM将軍は戦後夙に現地を踏み、
ノモンハン戦こそ日本陸軍の精華、と断言せられました。極東
蘇聯(ソ連)軍が満蒙國境で壊滅しなかったのは、我國が不拡大方針を
堅持したからに過ぎません。仮にそれを戦略的過失と呼び得る
としても、父祖が戦場で敵に遅れを取った訳ではありませんか
ら御間違無きやう。赤い謀略宣傳にご用心!
■ 編集長・伊勢雅臣より
ノモンハン事件の臨場感あるお話し、まことにありがとうご
ざいました。
私も、伊勢氏、南十字星様にお礼を申し上げる。
以下は、伊勢雅臣氏紹介ページ。海外留学時に、日本を見つめなおした、とある。
http://www13.ocn.ne.jp/~fly/ise.html
水曜日, 6月 13, 2007
家の裏には、隼1300が、道路をはさんだ畑の先に作業場兼事務所のような建物があり、最近ずっと止っていた4輪がなくなり、シルエットから大型バイクとわかるものが一台置かれるようになった。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
近寄ると今まで見たことも無いヤマハのMT01とかいう逆輸入バイク。ゆっくり見せてもらい、話しを伺うことができた。生憎夜8時前で暗かったので、写真のできは今一。
2000回転で、90キロ出てしまうそうだ。振動とトルク感がたまらない、という。100万以上はしましたね、と
さらりと言っておりました。
最初、ハーレーの新型と思ったくらい、Vツインは48度とか、Lツインではなく、コンパクトなVツインで、昔からXV750あたりからいいなあ、ただしロードクリアランスがないので、こすりそうだなといつも思っていたものの発展型だとおもった。Vマックスからの乗り換えだという。30台半ばと思われる方だった。また、お寄りください、と言われてしまった。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
ネットでカタログを探したらありました。いままで、1000ccというとかなり大きな排気量と思っていたが、いざ乗ってみると、想像したよりも非力。それで、回さずにパワー感を堪能するには、これくらいの排気量と、V型ツインとが必要ということらしい。
タコメーターは6000回転ほど表示の丸形アナログ。最初、マイル表示のスピードメーターかと勘違いしてしまった。スピードはデジタル表示だという。それで、メーターは大型が一個。最近のトライアンフなどもそういったモデルがある。ヨーロッパを意識した造りなのかもしれない。これからは、エコを追求したモデル
が流行って行くのかどうか。排気量が大きくとも回さなければ、必ずしも不必要な排気量アップというわけではない。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
BIG1でも、2000〜3000回転が大半、高速道以外は。それで、マルチだから、パワー感がないのも当然か。
400では、軽く4、5000回転は回るので、排気量の数字からくる差ほどの差は通常思うよりはないものだ。
あちらは、400ccよりも600ccくらいの感じで走り、こちらは1000ccではなく500ccくらいの感じで走っていると、軽く400に抜かれてしまっても不思議はないわけだ。
月曜日, 6月 11, 2007
マクシム・コロミーエツ氏が書いた「ノモンハン戦車戦」という本の邦訳がアマゾンから届いた。題名のとおり、戦車戦を中心にまとめてあり、最終的には勝った、という立場だと断っており、大敗したとされる航空戦についてはノータッチ。最終的というのも、その頃日本戦車はもう引き上げていたのだよ。
なぜ、この戦いが起きたかという点もあいまいにし、満蒙国境が曖昧なこと、双方が話し合いを望まなかったことだと総括しているのみである。
邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、勝った、という側面を強調したいがための国力の誇示に見えるが、同規模で戦えば、間違いなくロシア側の負けだろう。
終戦まじか、北方の島を攻撃してきたソ連軍は、守備隊兵力を3000名と見込んで上陸したそうだが、日本側は御聖断を知り、たいして戦わずむかえたらしいが、後で三万名近い兵力がいたと知り、ソ連側は真っ青になったという。もとろん、それがなければ、追い返せたという。臆病な北のクマは、最低でも3倍以上の兵力がないと、自発的行動をとらないともいわれている。
ただ、停戦協定後、すぐさま西部戦線へ振り向けられた航空機は、「瑠璃の翼」によると航空機3000機前後と記述があったので、ノモンハン戦での損失を日本側は、1600機ほどと見積もった値とオーダー的には一致してくる。日本のサイトでは、明らかに過大な数字で、撃墜数がそんなに大きいはずがない、という書き込みもあるが、・・・。日米開戦後、ようやく安心して、兵力を西に回したらしい。
佐貫亦男博士が、ドイツから日本へ帰るとき、潜水艦経由だと生存確率25%だというので、シベリア鉄道経由で帰国したとき、西へ西へと戦車や兵員を満載した列車と何度もすれ違ったというが、あの時は、対独戦向けだとは知らなかったと書かれているが、私には疑問に思っている。
ノモンハンの撃墜王は三カ月で敵機58機を撃墜したという、栃木出身の篠原准尉。三カ月でこれだけという数は、まだ世界中で破られていない記録で、二十機以上という猛者もごろごろいたという。相手は、日本側兵力を少ないのを見抜き、夜間大音響のスピーカで、パイロットの安眠を妨げる戦術を使ったりしたという。しかも、鈍重な布張りだったり、複葉だったりという敵機だったらしい。
篠原准尉を撃墜した敵機は日ごろよく研究し、篠原機専門の狙撃機が後半登場したと、瑠璃の空には書かれている。軍医の所見として、尾翼が折れて墜落したとの話もある。篠原准尉の霊は、実家で無事を祈る母前にも現れて、戦死を伝えたという。
「ノモンハン事件の真相と成果」2002年では、国境線を勝手にハルハ河東岸に移し、日本側が国境侵犯をしているとして大軍を動かしたのが、スターリンの指令によるものとしている。この手口は、傀儡政権に梃子入れをする常套手段だったとも。張鼓峰事件も、尾崎ーゾルゲからの連絡による日本側の侵犯意志が無いことを確かめるための行動で、日本兵士の損害増加も尾崎らのスパイ行為にあった、と明確。
そして、双方の損害として以下の数字が上げられる。
兵員損害数: 日本 17405名、ソ連 25655名
航空機損害数: 日本 未帰還77機、大破 102機。 ソ連 1673機(うち、高射砲で180機、戦車で26機、歩兵が3機)となっている。戦車損害数は、日本が29両、ソ連が800両以上となっている。ソ連戦車の最大の敵は、日本軍の37ミリカノン砲だと、ロシア側も写真入りで説明している。最近羽田の工事現場で見つかったような高射砲も20ミリだが、対戦車用に使用されたと写真入りでロシア側が解説。
あと、ソ連は捕虜交換で帰国した兵士は全員処刑されたという。
多分現在も草原に残っている(裏表紙写真は平成12年)破壊された戦車や装甲車はすべてソ連製だという。あちらの表紙の戦車は捕獲された日本製で、たぶんこれがソ連の新聞にものったのだろう、日本でも問題になったそうだ。それ以外は日本が回収した。あちらの本にも破壊された日本戦車とあるが、破壊されたものを分解整備中の写真で、日本側の資料や、アルビン・クック氏の著作などもかなり使用。さすがに、半藤氏のはないようだ、^^;)。
http://tomomodel.blog1.fc2.com/blog-entry-452.html
徒然なるままにだよね、、、というサイトでは、「今日の読書、とんでも本」として、この日本側の書籍を上げている。自ら、左側の人間ですが、と断り書きが、。。。簡単に言うと、日本側が勝利した、といっているんですと。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/botu.html
一方、「日本海新聞(鳥取)ボツ投稿」では、載らなかったものをいくつかまとめて掲載してある。日本海新聞は、特定の側に立つ記事や意見しか載らない新聞に飽き飽きして、この新聞にした、というコメントが。
それでもボツになったものに、ノモンハン事件の真相と、ノモンハン事件の勝敗とが、まっさきに挙げられている。ノモンハン事件の真実という記事が載ったので、それに対する反論だそうだ。
秦郁彦教授は、実態は引き分けに近かったようですとしているという判断をあげ、双方が領有権を主張した地域を北半分がソ連、南半分を日本が確保したことを理由に、秦氏の判断が常識的な解釈だろうと、している。日本海新聞でさえ、そうではない記事がでたのだろう。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
「ノモンハン事件の勝敗」も、ノモンハン事件の真実としてのった(昨年3月29日らしい)記事への反論である。
画定した国境線である。新聞への投書記事では、「ソ連側主張の国境線まで押し出されて停戦した」とあるらしい。しかし、モンゴルでは500平方キロを失ったと悔しがる。この国境線は、停戦間際の9月8日から11日にかけて宮崎連隊や深野大隊などが激戦の末、ハルハ河近くの997高地やハルハ山を占領した成果なのだ。
9月5日から、モスクワで始まった東郷大使とモロトフ外相との会談で、モロトフのほうから停戦を持ちかけてきた。
・・・戦争が長引けば、ソ連に不利だからだ、とある。
(関東軍は、とむらい合戦として、ソ連側のつかんだ情報では、10個師団、実際には14個師団を用意して報復をけいかくしたらしい。ソ連は寄せ集めの小松原師団でもこのありさまで、凍りついたらしい。それで、ドイツを仲介して、独ソ不可侵条約までちらつかせ、日本側との停戦を仲介依頼した。日本の内閣は、停戦交渉を、関東軍には秘密にした。知ったら、ぜったい関東軍は応じなかっただろう、と言われている。停戦成立後、二日目には西への侵略に移行した。)
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
ソ連軍は、負傷者が約16000名で日本軍の二倍、航空機や戦車は10倍ほども多く失った。”ノモンハン負け組”の作家・半藤一利氏ですら、今では、戦闘そのものは互角だった、と認めている、と。(どこが互角なんですかね。)
このブログの著者は引き分けと判定している、という立場らしい。福井雄三教授が、さいきん『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』で、日本軍の勝利だった、と書いていることを引用し、負けの証拠を大勢の歴史学者に示してもらいたいというようなことを書かれている。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
http://d.hatena.ne,jp/Apeman/20070512/p1
Apes!Not Monkeys!はてな別館では、戦争犯罪に関する話題に特化した別館です、とあるが
「大研究 昭和の陸軍 なぜ国家を破滅させたのか」を俎上にあげている。文芸春秋の6月号らしい。
その中に、最近はノモンハン事件に関して、「日本は負けていない」と言い出すひとも現れているので、情けなく思っていたのだが、ちゃんと釘が刺されている、とあり、例によって半藤氏の意見が載せてある。
「戦争というものは、殺した相手の数を競うものではなく、どちらが目的を達成したかによって勝敗がきまるわけです。ノモンハン事件はソ満国境の策定をめぐって争い、ソ連の主張したように通りに国境が定まった。このことを理解しないといけません。」
などと言っているらしい。 おい、おい、いいのか、そんなに自説に都合の良い解釈を固執して、・・・。
ま、しかし、自虐史観以前の精神的荒廃だね。もちろん、靖国参拝反対派です、半藤氏は。それに保坂正康氏も、・・・。
いまはどうかしらないが、防衛庁、おっと、失礼、防衛省戦史でも、ノモンハンは大敗だと教えていたらしいから、戦後精神はここに極まれり、といいたい。
ノーベル賞受賞者のドイツ人、オットー・ワールブルグは、当時のがん研究の傾向に関する論争で、こう書いた。
『学問上の新しい真理は、反対者を納得させ、降参と認めさせるような方法では達成しえないものである。そうではなくむしろ、反対者がだんだん死んで行って次に育つ世代が当初からその真理に慣れ親しんでいるような場合が多い。』
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
これは、マックス・プランクの発言が元らしい。
吉川英治氏らとともに文化勲章を受章した数学者の岡潔博士は、特攻精神を見て、民族の地金は金です、と戦後書き、中国人の指摘として、日本民族の真の再生は、一世紀を要するだろうと指摘している、と紹介し教育が大事だとさかんに講演して回られた。
今時の若者は、祖国ソビエトなどと言っているのがいる、とは忘れられない博士の言葉のひとつである。
なぜ、この戦いが起きたかという点もあいまいにし、満蒙国境が曖昧なこと、双方が話し合いを望まなかったことだと総括しているのみである。
邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、勝った、という側面を強調したいがための国力の誇示に見えるが、同規模で戦えば、間違いなくロシア側の負けだろう。
終戦まじか、北方の島を攻撃してきたソ連軍は、守備隊兵力を3000名と見込んで上陸したそうだが、日本側は御聖断を知り、たいして戦わずむかえたらしいが、後で三万名近い兵力がいたと知り、ソ連側は真っ青になったという。もとろん、それがなければ、追い返せたという。臆病な北のクマは、最低でも3倍以上の兵力がないと、自発的行動をとらないともいわれている。
ただ、停戦協定後、すぐさま西部戦線へ振り向けられた航空機は、「瑠璃の翼」によると航空機3000機前後と記述があったので、ノモンハン戦での損失を日本側は、1600機ほどと見積もった値とオーダー的には一致してくる。日本のサイトでは、明らかに過大な数字で、撃墜数がそんなに大きいはずがない、という書き込みもあるが、・・・。日米開戦後、ようやく安心して、兵力を西に回したらしい。
佐貫亦男博士が、ドイツから日本へ帰るとき、潜水艦経由だと生存確率25%だというので、シベリア鉄道経由で帰国したとき、西へ西へと戦車や兵員を満載した列車と何度もすれ違ったというが、あの時は、対独戦向けだとは知らなかったと書かれているが、私には疑問に思っている。
ノモンハンの撃墜王は三カ月で敵機58機を撃墜したという、栃木出身の篠原准尉。三カ月でこれだけという数は、まだ世界中で破られていない記録で、二十機以上という猛者もごろごろいたという。相手は、日本側兵力を少ないのを見抜き、夜間大音響のスピーカで、パイロットの安眠を妨げる戦術を使ったりしたという。しかも、鈍重な布張りだったり、複葉だったりという敵機だったらしい。
篠原准尉を撃墜した敵機は日ごろよく研究し、篠原機専門の狙撃機が後半登場したと、瑠璃の空には書かれている。軍医の所見として、尾翼が折れて墜落したとの話もある。篠原准尉の霊は、実家で無事を祈る母前にも現れて、戦死を伝えたという。
「ノモンハン事件の真相と成果」2002年では、国境線を勝手にハルハ河東岸に移し、日本側が国境侵犯をしているとして大軍を動かしたのが、スターリンの指令によるものとしている。この手口は、傀儡政権に梃子入れをする常套手段だったとも。張鼓峰事件も、尾崎ーゾルゲからの連絡による日本側の侵犯意志が無いことを確かめるための行動で、日本兵士の損害増加も尾崎らのスパイ行為にあった、と明確。
そして、双方の損害として以下の数字が上げられる。
兵員損害数: 日本 17405名、ソ連 25655名
航空機損害数: 日本 未帰還77機、大破 102機。 ソ連 1673機(うち、高射砲で180機、戦車で26機、歩兵が3機)となっている。戦車損害数は、日本が29両、ソ連が800両以上となっている。ソ連戦車の最大の敵は、日本軍の37ミリカノン砲だと、ロシア側も写真入りで説明している。最近羽田の工事現場で見つかったような高射砲も20ミリだが、対戦車用に使用されたと写真入りでロシア側が解説。
あと、ソ連は捕虜交換で帰国した兵士は全員処刑されたという。
多分現在も草原に残っている(裏表紙写真は平成12年)破壊された戦車や装甲車はすべてソ連製だという。あちらの表紙の戦車は捕獲された日本製で、たぶんこれがソ連の新聞にものったのだろう、日本でも問題になったそうだ。それ以外は日本が回収した。あちらの本にも破壊された日本戦車とあるが、破壊されたものを分解整備中の写真で、日本側の資料や、アルビン・クック氏の著作などもかなり使用。さすがに、半藤氏のはないようだ、^^;)。
http://tomomodel.blog1.fc2.com/blog-entry-452.html
徒然なるままにだよね、、、というサイトでは、「今日の読書、とんでも本」として、この日本側の書籍を上げている。自ら、左側の人間ですが、と断り書きが、。。。簡単に言うと、日本側が勝利した、といっているんですと。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/botu.html
一方、「日本海新聞(鳥取)ボツ投稿」では、載らなかったものをいくつかまとめて掲載してある。日本海新聞は、特定の側に立つ記事や意見しか載らない新聞に飽き飽きして、この新聞にした、というコメントが。
それでもボツになったものに、ノモンハン事件の真相と、ノモンハン事件の勝敗とが、まっさきに挙げられている。ノモンハン事件の真実という記事が載ったので、それに対する反論だそうだ。
秦郁彦教授は、実態は引き分けに近かったようですとしているという判断をあげ、双方が領有権を主張した地域を北半分がソ連、南半分を日本が確保したことを理由に、秦氏の判断が常識的な解釈だろうと、している。日本海新聞でさえ、そうではない記事がでたのだろう。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
「ノモンハン事件の勝敗」も、ノモンハン事件の真実としてのった(昨年3月29日らしい)記事への反論である。
画定した国境線である。新聞への投書記事では、「ソ連側主張の国境線まで押し出されて停戦した」とあるらしい。しかし、モンゴルでは500平方キロを失ったと悔しがる。この国境線は、停戦間際の9月8日から11日にかけて宮崎連隊や深野大隊などが激戦の末、ハルハ河近くの997高地やハルハ山を占領した成果なのだ。
9月5日から、モスクワで始まった東郷大使とモロトフ外相との会談で、モロトフのほうから停戦を持ちかけてきた。
・・・戦争が長引けば、ソ連に不利だからだ、とある。
(関東軍は、とむらい合戦として、ソ連側のつかんだ情報では、10個師団、実際には14個師団を用意して報復をけいかくしたらしい。ソ連は寄せ集めの小松原師団でもこのありさまで、凍りついたらしい。それで、ドイツを仲介して、独ソ不可侵条約までちらつかせ、日本側との停戦を仲介依頼した。日本の内閣は、停戦交渉を、関東軍には秘密にした。知ったら、ぜったい関東軍は応じなかっただろう、と言われている。停戦成立後、二日目には西への侵略に移行した。)
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
ソ連軍は、負傷者が約16000名で日本軍の二倍、航空機や戦車は10倍ほども多く失った。”ノモンハン負け組”の作家・半藤一利氏ですら、今では、戦闘そのものは互角だった、と認めている、と。(どこが互角なんですかね。)
このブログの著者は引き分けと判定している、という立場らしい。福井雄三教授が、さいきん『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』で、日本軍の勝利だった、と書いていることを引用し、負けの証拠を大勢の歴史学者に示してもらいたいというようなことを書かれている。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
http://d.hatena.ne,jp/Apeman/20070512/p1
Apes!Not Monkeys!はてな別館では、戦争犯罪に関する話題に特化した別館です、とあるが
「大研究 昭和の陸軍 なぜ国家を破滅させたのか」を俎上にあげている。文芸春秋の6月号らしい。
その中に、最近はノモンハン事件に関して、「日本は負けていない」と言い出すひとも現れているので、情けなく思っていたのだが、ちゃんと釘が刺されている、とあり、例によって半藤氏の意見が載せてある。
「戦争というものは、殺した相手の数を競うものではなく、どちらが目的を達成したかによって勝敗がきまるわけです。ノモンハン事件はソ満国境の策定をめぐって争い、ソ連の主張したように通りに国境が定まった。このことを理解しないといけません。」
などと言っているらしい。 おい、おい、いいのか、そんなに自説に都合の良い解釈を固執して、・・・。
ま、しかし、自虐史観以前の精神的荒廃だね。もちろん、靖国参拝反対派です、半藤氏は。それに保坂正康氏も、・・・。
いまはどうかしらないが、防衛庁、おっと、失礼、防衛省戦史でも、ノモンハンは大敗だと教えていたらしいから、戦後精神はここに極まれり、といいたい。
ノーベル賞受賞者のドイツ人、オットー・ワールブルグは、当時のがん研究の傾向に関する論争で、こう書いた。
『学問上の新しい真理は、反対者を納得させ、降参と認めさせるような方法では達成しえないものである。そうではなくむしろ、反対者がだんだん死んで行って次に育つ世代が当初からその真理に慣れ親しんでいるような場合が多い。』
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
これは、マックス・プランクの発言が元らしい。
吉川英治氏らとともに文化勲章を受章した数学者の岡潔博士は、特攻精神を見て、民族の地金は金です、と戦後書き、中国人の指摘として、日本民族の真の再生は、一世紀を要するだろうと指摘している、と紹介し教育が大事だとさかんに講演して回られた。
今時の若者は、祖国ソビエトなどと言っているのがいる、とは忘れられない博士の言葉のひとつである。
日曜日, 6月 10, 2007
天気が思わしくないが、梅雨も間近。秩父が午前9時に曇りで後は雨、甲府はあやしいが、曇りマーク。それで目覚めると、もういちどチェーンにオイルを塗り、午前7時に家を出る。雨はほとんど止んでいる。
しかし、熊谷あたりで激しい雷雨。道路は洪水のようで、あっというまに防水ブーツの中まで水浸し。歩道をこいでいる自転車のペダルが水没するくらい。覚悟の上とはいえ、これには参る。しかし、雷雨なので深谷あたりで小降りになり、花園あたりでほぼやむ。秩父が9時頃曇りという予報は当たりそうな予感。
空腹感も増してくるが、我慢して秩父市役所裏まで行き、公共施設でブーツや手袋を洗わせてもらう。警察署前を9時5分に通過し、雨はほとんど降っていない。このまま甲府まで曇りならいいのだが。
Mr.Bikeの7月号のページ131〜135に『秩父行き、硫黄臭温泉の旅』というレポートがのり、やはり珍達そばの店を紹介していたので、写真を撮った。秩父市役所の真裏で、私はこれ一軒だけかと思ったら、本店に相当するお店がもう一軒あるらしい。空腹だが、まだやっていない。旧荒川村へ入ったあたりのコンビニで空腹を満たす。この辺ではもう小雨模様。辛うじて道路センター部分が半乾き程度の場所が多い。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
スリップを警戒して比較的ゆっくり走っているつもりだが、かなり凹凸がある国道だと思った。途中そばの花が一面に広がっている畑を見て、思わず写真撮影。出ようとするところへ、後からBMWツインの二人乗りが追い抜いていった。しまった、携帯をしまってしまった。それで、後を付いて行くことに。大滝地区なので、急カーブが多く、二人乗りのバイクの軌跡を真似ようとするのだが、外へはらみそうになり怖い。あちらは、ハンドル幅が広いのかもしれないし、左右に張り出したシリンダーが低いので低重心で操縦しやすいのかもしれない。
そのうち、左ウィンカーを出したので、追い抜いて先へ行く。男性は45歳前後、後部座席はカッパを着た連れの女性らしい。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
滝沢ダムのループ橋の休憩所で、一休み。必ず奥地を目指してこの道をさっきのBMWが来るはずと、脇のトイレも我慢して待つこと約10分、ゆっくりと走ってきました。それでさっきとり損なった一枚をここでゲット。対向車線は、オフローダーグループ、ハーレーグループなどが秩父方面へ下ってくる。
雁坂トンネル付近は15度程度。あちこち豪雨で服が濡れたので、少し寒い。トンネル入り口手前で小雨。出たらやはり小雨。それから止むことなく高速まで小雨。高速に入ったところで降りが激しくなり、釈迦堂のサービスエリアで食事をし、体を暖める。燃料も昨日朝入れたままなので、そろそろリザーブに。32キロ先の談合坂に唯一の給油スポットがあるだけだと、掲示板に書いてあった。
一休みしていたら、ほとんど止んだので、直ぐ出るが、また直ぐ降ってきた。ったく、もう。一心に走っているとすぐに談合坂へ到着。給油はバイクや観光バスが三列になって並んでいる。ここで、燃費を計測したら15.3キロ。昨日70キロ走行で、今日はほとんど雨。それで、チェーンのパワーロスがあって悪いのか、昨日の市街地走行で、気持ちよく飛ばしたせいもあるのか、前回より少し悪かった。雨の中を走り出して40キロぐらいすると、快調になってくるが、トンネルを走っていると、水がかからないので、またエンジンの調子が変わる。それで、また雨にあって、エンジンに水がかかって、という繰り返し。高速で休憩したときみたら、ラジエーターにつまった雨がジタジタ水滴となって落ちてきた。水温計は冬並だった。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
八王子で降りて、圏央道を初めて走って、東松山まで来た。圏央道は空いていて、しかもずっと本降り。前の車についていき、110〜120くらいまで出してみたが、問題なし。ETCも含めて、電装のトラブルは一切なかった。それが唯一の収穫かもしれない。タフなバイクという感じがした。八王子の出口のランプで混んでいると思ったら、ハーレー三台が前部を中破して湯気の出ている乗用車の周りに止まっていて、事故処理待ちの現場だった。徐行した際、雨だし、坂だし、ブーツがアスファルト面でツルリとすべって、そのまま事故車両にぶつかりそうになった。
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
/>
登録:
投稿 (Atom)