土曜日, 2月 21, 2009

前回、キルスイッチ(切る!?)スイッチ関連で、第二次大戦の海軍の航空兵でエースとしての名を不動にした、坂井三郎氏のバイク事故の件について触れた。

もう少し、詳しく紹介しようとあちこち探したが、見つからなかったが、ちょっとした合間に開いたページに見つかった。

東大の航空宇宙工学の加藤寛一郎教授の(もう退官されたかもしれない)著書中に書いてある。46ページから47ページに出てくる。明晰なる頭脳、常に緻密な男と感心しているあたりである。

最近改めてふとしたきっかけで、手に取り、大いに参考になりうる話が満載と改めて思った。人は書斎で思索にふけるだけでは、何事か人生の大事までは思い至らないのでは、と思う。視力を鍛える話などは特におもしろいが、訓練効果がでるまで、半年はかかった、と言う。

試しに、朝、緑の葉を眺め、遠くの送電線の本数などを数えたりしてみるが、今はブルーベリー錠剤などを飲んでいるせいか、よく見える。しかし、ふだんの運転中での目とこうして意識してみるとでは、見える範囲がこうも違うかと愕然とした。坂井氏が撃墜王として生き残ったのは、危ないときは逃げて逃げて逃げまくったのではという懐疑をこの加藤先生も心中ひそかに抱いていたらしい。もちろん、ご専門の航空機がいかに究極の飛びを可能にできるかの秘術を聞いて、実際の課題に役立てるためが、本来の興味なのであるが。

大学院の優秀な学生に、その飛びをコンピュータで解析して、バーチャルな世界での再現にいたるまで、一年半はかかった、とも言う。あの優秀な彼にして、と教授はつぶやいている。
名人の飛びは、設計技師の試算を超えた飛びを可能にするものらしい。

教授は戦争が終わったとき、小学校の4年生だった。(おそらく校庭の)さつま芋畑の草取りをやらされ、いやいや行っていたが、B29が飛来して機関砲の射撃音が断続して聞こえると興奮した、と言う。戦闘機は見えなかったが、時たま白い落下傘が見えたという。あのとき、坂井氏は29歳だった、と書いている。

戦争が終わって、坂井氏が35、6歳の頃、かれはバイクで人形町を走っていた。前方にタクシーが止まった。右側を通り抜けようとした。運転席側のドアが開いた。坂井氏はバイクごと右側に転倒した。すぐ後ろをトラックが来ていた。坂井氏は轢かれる運命にあった。坂井氏は右手でドラックのバンパーを叩いた。トラックの車輪の左側に逃れた、・・・とある。
坂井氏はッ死なない。常に生き延びる。っそれは我々の確率の概念を超えた世界であるように思えると書かれている。

坂井氏は頑張りやで、霞ヶ浦海軍航空隊を恩賜の銀時計で卒業しているのも驚き。受験者8000名、合格者80名中、適性検査まで合格したものが50名、さらに操縦練習生卒業マーク(とんびのマーク)を手にした者たちはさらに半数の25名であった、という超難関をトップで出たのだ。とはいえ、坂井氏は、小学校当時の体格が、丙で、今でいえば、栄養失調レベルだったせいもあり、胸囲と肺活量で、厳格には身体検査に合格しないはずであったというが、軍医中尉どのの温情で、合格を勝ち得ている。本人の気迫に打たれたのかも知れない。

そして、占い師に、各自面談させて、当局はその後の参考資料とした、らしい。なんでも、今後の訓練中、真っ先に事故死など起こしそうな人物を指摘し、それがよくあたった、というのだから驚き。戦後も、酒井氏は、当時の占い師のもとを訪れ、小さな印刷会社を経営するために、名前の候補を三点用意し、選んでもらったと言う。自分でこっそり決めていたのと、一致したと言う。ここでも、教授の著作でも、坂井氏は死なない、とかいているが、その占い師からも、あなたはなかなか死なないのです、ということを改めて、戦後も聞くことになった、と言う。

戦前は、台湾にいた民間人の奥さんからも、あなたは戦争から生きて帰る、と言われていたらしい。仲間たちと、彼女の家でトランプなどして、ついでのこっくりさんまでやっていたらしい(ウジャ盤!?)。科学では切り捨ててしまうが、占いとか予言とか、不思議で妖しい魅力があるのも事実。日本海海戦のときも、秋山参謀は、バルティック艦隊が通過する海峡を事前に夢でみたそうで、あとで、それが偶然だったかもしれないが、同じ海峡を通った、といわれている。なお、秋山参謀は、関東大震災も、予言めいたことを記録しているそうだ。

なかのひと

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