木曜日, 2月 09, 2012

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
      平成24(2012)年 2月8日(水曜日)
      通巻第3550号 に山本五十六の最近の映画をみてのいくつかの感想が載っているのでまとめて紹介したい。

  ♪
(読者の声2)映画『聯合艦隊司令長官山本五十六』を観て
 先週末出張先で少し時間があったので、上記映画を観た。以下その感想である。
率直な感想として、従来の多くの同種の映画と同様海軍善玉論、米内光政、山本五十六、井上成美の海軍トリオ賛美論に立脚していて正直つまらない筋書きであった。半藤一利の監修だからむべなるかな。これまでに大河内伝次郎、佐分利信、藤田進、三船敏郎、山村聡といったスター俳優が山本五十六を演じてきたが、役所広司の山本五十六はまあまあの出来。柳葉敏郎扮する井上成美はよく雰囲気が出ていたが、日独伊三国同盟に反対したことばかり強調してすこし美化しすぎ。
私の岳父は井上中将が大東亜戦緒戦で司令長官をつとめた第四艦隊の水雷戦隊(駆逐艦部隊)で戦ったが、ウェーキ島攻略戦や珊瑚海海戦で見せた井上長官の拙劣な指揮を痛烈に批判していた。井上成美提督は軍政家や教育家としては一流だっただろうが、指揮官としては全く駄目だった。
命を預ける部下将兵から見て指揮官が戦上手かどうか大問題である。

またこの映画では山本五十六の愛人であった河合千代子の存在がすっかり無視されている。映画では山本五十六が恩賜の銀時計を原田美枝子扮する妻に与える場面があるが、事実は河合千代子に与えたのである。別に愛人がいたからとて本人の価値が落ちるわけでもなし。またそこに山本五十六の人間性が感じられると思うのだが。

あと映画ではおかしな場面が沢山あった。日本の戦争映画は年々ひどくなってきているとの思いである。たとえば距離を言うのに「○○海里」という台詞がありますが、あれは昔も今も「海里」ではなくて「マイル」である。
ミッドウエー海戦で、南雲長官が魚雷への換装を命令する場面があるが、事実はミッドウェー攻撃部隊を出した後残りの飛行機には次に予想される米空母攻撃用に対艦徹甲爆弾と魚雷が搭載されていたのだが、「第二次攻撃の要あり」との第一次攻撃隊からの意見具申電に陸用爆弾に換装し、そこで「敵機動部隊発見」の報で再度換装を図って貴重な時間を失い大惨敗を招いた。
しかしこれは南雲中将の判断ではなく源田實航空参謀の意見具申によるもので、ミッドウェー敗北の最大の原因は源田参謀の判断ミスであった。因みに南雲機動部隊は当時別名「源田艦隊」とさえ揶揄されていた。映画ではここがすっかり抜け落ちている。あと時代考証の間違いだが、真珠湾攻撃のときの「赤城」艦橋における南雲司令部の幕僚達が白い二本線の入った第一種艦内帽を被っているが、当時はまだ士官、下士官、兵を区別する線は存在せず、昭和17年春以降に線入りの艦内帽が制定されたのである。この点はかつての東宝映画「ハワイ・マレー沖海戦」(昭和17年)や「太平洋の嵐」(昭和35年)の描写が正確である。

空母「飛龍」が沈むとき、阿部寛扮する山口多門二航戦司令官が艦と運命をともにする感動的な場面があるが、実際には「飛龍」艦長の加来止男大佐も一緒に運命をともにしている。加来艦長のご遺族が映画を観たらどう思われるだろうか。かなりいい加減な筋書き設定と感じた。
また終戦の玉音放送の場面だが、霞ヶ関の海軍省や江田島の海軍兵学校で将兵が純白の第二種軍装姿で整列していたが、当時は皆第三種軍装(褐青色、開襟ネクタイ着用)を着用していた。その他おかしな描写が多く目についたが、以下省略する。
戦後多くの作家、評論家が山本五十六を美化する作品を書いてきたが、そろそろもっと客観的な評価をすべきときではないか。
そうでないと歴史の本当の総括がなされぬまま、後世の人間は謝った歴史観を抱いてしまう。ちなみに小生は山本五十六をそれほど評価しない。ミッドウェーの敗北やその後のソロモン大消耗戦で航空兵力をすり潰した責任は山本にあると考える。
 (武蔵国杉並住人)


(宮崎正弘のコメント)当該映画を見ておりませんので、なんとも言えませんが、あの「正真正銘のバカ」の半藤一利が原作ですから、出来映えもさもありなん。
 ちなみにご投稿を掲載前に若手の軍事評論家三氏に見て貰って意見を聞いたところ、次の回答がありました。
甲氏曰く。
ご指摘のすべてについて同意です。終戦時、陸軍は3長官が会同して「今次敗戦の責任は陸軍が負おう」と合意したので陸軍は一切言い訳をしなかったのに対し、海軍は戦後「今次大戦、我が海軍はアメリカに負けてよかった、陸軍に負けなくてよかった」と放言したと伝わっています。また、阿川弘之らが礼賛論をまくしたててため海軍善玉、陸軍悪玉が定着したようです。歴史は真実を伝えなければなりません。私たちの世代で是正する義務があると思います」。

乙氏曰く。
「東京裁判をアメリカはニュルンベルク裁判のドサ回り公演と位置づけ、ドイツのナチスに相当するのは、陸軍だと決めたそうですね。陸軍悪玉論は、ここでも、でっち上げられたのです。ちなみに海軍軍令部の生き残り参謀たちも、山本を全く高く評価していません。ある参謀は不道徳なギャンブラーと評していました」。

 丙氏曰く。
 「我が国では、あまり知られていませんが、そもそもヒトラーが三国同盟で何を日本に期待したかというと、日本の海軍にアメリカを牽制して貰い、戦争に参戦して来ないようにすることでした。それが、真珠湾によって、アメリカに戦争に参戦する口実を与え、正反対の結果になってしまいました。三国同盟はお互い参戦義務はないのに、義理固いヒトラーは参戦に踏切ました。ヒトラーにとって、独ソ戦に参加しない時点で日本を利用するメリットは全く無くなったのです。しかし、ヒトラーは彼の政治的遺書にもある通り、最期まで、日本を高く評価しています。人種論で日本を馬鹿にしていたというのは、イギリス諜報部の日独離間謀略であって、最たるはヒトラーがシンガポール陥落時にドイツ軍を差し向け救出したいと言ったというデマです」。

       ◇◇ △△△ ○○

その次の号にも興味深い投稿が載った。私が同意した部分は強調表示に変更し、特筆部分は赤字にさせてもらった。以下同様。
  ♪
(読者の声2)映画『聯合艦隊司令長官山本五十六』を観ての投稿、書意見への感想です。
1.常に大局の歴史観を持つ:日米戦争は、日露戦争以来の米国の満洲狙いによる、無理難題の圧迫に耐えてきた、日本の自存自衛の戦いであった。海上戦闘はその中の挿話である。この背景が分からないと海軍の戦闘の意味も不明になり、奮戦した将兵、銃後国民の苦闘も正しく評価できない。

2.自衛戦争:昭和天皇以下、対米戦争に勝てると思った国民はいない。しかし戦った。
負ける戦争をするのが自由と独立を求める古今の国民の義務」だからである。

3.事例:1939年、ノモンハン事件直後、ヒトラーと共謀しポーランドを分割したスターリンは北欧フィンランドの領土割譲を求めて脅迫した。しかし人口350万のフィンランドは人口1億7千万のソ連に対して断固拒否したのでソ連軍が侵入した。フィンランドは冬戦争で善戦し、ソ連軍に20万壊滅の被害を与えたが、結局翌春負けた。しかし現代のフィンランド人は、対ソ戦で敗戦した指導者マンネハイムの銅像をヘルシンキ駅前に建立し、顕彰している。小国であるが立派だ。

4.山本提督批判の愚:(1)利敵行為の愚:日本人なら戦争の殉国者を批判する愚は無条件で止めなければならない。というのは、敵が嘲笑しているからだ。「戦争とは騙すことなり」は孫子の名言である。今も支那事変は続いている。常に敵国の目を意識することが必要だ。(2)後智恵の愚:明日の株価も分からない現代人が、当時の日本人の苦悩を知らずに、後世の立場で、高みの見物よろしく、ノーテンキに批判する恩知らず、愚かさにはウンザリである。自分が明日戦死するという立場に立ったらどう行動するか、他人ごとではなく考える。山本元帥以下将兵の奮闘ぶりを無条件で高く評価したい。(3)レバタラ論の愚:相手も変わるので、日本が別の戦術をとったらどうか、という発想は成り立たない。歴史にイフはない。
時間の無駄だ。

5.真珠湾攻撃:英国の軍事史家は、天才的な作戦であり、米国の不当な非難が忘れられたなら、世界の軍事史上の金字塔として輝くだろうとしている。

6.ネルソン提督:ネルソンは、愛人のハミルトン夫人との艶聞が有名だ。しかし私事に過ぎず戦果には関係ない。

7.真珠湾攻撃直後のヒトラーの対米宣戦布告:これは近代史の謎の一つであるが、私は当時ドイツ軍がモスクワ正面に引き込まれて寒波と補給不足で大打撃を受けていたので、ヒトラーが日本の対ソ参戦を望んだものか、と考えている。しかし支那事変で出血していた日本に対ソ戦争を起こす力などなく、ヒトラーの対ソ東西挟撃戦略は不発に終わった。
それでも戦後、スターリングラードの捕虜のドイツ兵は抑留されていた日本兵に、あの時日本がちょこっと手伝ってくれたら勝てたのにと異口同音に述べていたと言う。
大東亜戦争は独ソ戦に備えたスターリンの極東戦略(西安事件、支那事変)と米国の満洲狙いによる攻撃(日米戦争)を両面で受けた日本民族の苦難の戦争であった。
(東海子)



  ♪
(読者の声3)映画『聯合艦隊司令長官山本五十六』への感想を読み観にゆく気が失せました。東京裁判で絞首刑となったのは戦争指導者として文官一人、陸軍関係者6人だが、海軍関係者は一人もいない。海軍関係者の被告は終身刑だったし、彼らはその後釈放されている。
この事実、つまり東京裁判が海軍関係者に甘い判決を行ったのは何故かということが予てからの疑問である。以下にこの疑問への自問自答を記したい。
結論から言うと米海軍の日本海軍への密かな感謝の念の表れと解釈される。
米海軍が日本海軍に感謝したとしても不思議ではない事実を挙げると、まず第一に真珠湾攻撃である。人種主義者ルーズベルトの陰謀にまんまと乗せられ奇襲には成功したが本土攻撃の第二撃、第三撃もなく日本海軍が去ったこと。
本土攻撃も覚悟したであろう米国にとっても拍子抜けではなかつたか。
第二は米海軍が太平洋艦隊の立て直し中のこの半年間に日本海軍からの大規模な攻撃が無かったこと。真珠湾では米海軍の空母の被害はなく戦艦等は被弾したが約半年間で殆どが修復を終えた。あたかも日本が待っていてくれたかの如くに。
第三はミッドウェー海戦で日本艦隊が大敗してくれたこと。日本はこの大敗によりその後の国の敗戦を決定づけられ、米は安堵したことであろう。
第四は暗号筒抜けのまま、山本五十六を撃墜死させてくれたこと。司令塔を失った日本海軍はますます弱体化した。
つまり日本海軍は米海軍に翻弄されただけで本当にまともな戦闘を行ったのかと疑問を禁じえない。米海軍からすればこの日本海軍の戦争下手には感謝こそすれ憎悪の対象ですらなかつたのである。
確かに戦争末期には特攻攻撃という禁じ手により米海軍将兵に多大な恐怖感を与えたとしてもそのことが日本海軍への憎悪へ繋がり、東京裁判での海軍首脳への絞首刑に至る報復裁判とならなかったのである。
戦後35年が経過した昭和55年から11年間、海軍の中枢・『軍令部』のメンバーが中心となって秘密に集まっていた会合である「海軍反省会」の証言にもあるように第二復員省に移動した元軍令部の参謀たちの東京裁判対策活動にも多少の効果はあったのかも知れない。
(ちゅん)
       ◇◇ △△△ ○○ 

この疑問は小生も数年前からあり、山本一派は米国と内通しあった仲ではないかと疑っており、今でも釈然としない。アメリカは、どうして、ジャップは必ず来る!と事前に断言できたのか!?

さらに本日の号、平成24(2012)年 2月9日(木曜日)貳
     通巻第3552号にも。まとまって読むとこれだけでも大層視野が広がる感じがする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 読者の声 どくしゃのこえ 読者之声 READER‘S OPINIONS
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
(読者の声1)山本五十六元帥の映画は半藤一利の監修という事で、どうせくだらぬ内容であろうと思いまして見ておりません。
山本五十六元帥が名将であるか凡将であるか、については歴史の後知恵でどうこう決め付けるのは小生にはできかねます。ですが指揮官としての統率力、プロジェクトを成功させるマネジメント能力など当時の将星の中では秀逸だったと思います。しかし成功したのは真珠湾攻撃の一撃のみで、ミッドウエイやガダルカナル・ソロモン方面の作戦では全てが裏目にでました。
もしもブインで撃墜されず生きていれば、必ず東京裁判に引っ張り出され、死刑を宣告されたでしょう。
戦死された故に今日の神話のような山本五十六伝説になったと思います。
聯合艦隊司令長官について少し述べます。
昭和14年8月、独ソ不可侵条約の締結により、平沼内閣が「欧州の天地は複雑怪奇云々」 で倒れます。この時、海軍次官だった山本五十六は聯合艦隊司令長官に親補されますが、艦隊司令長官の経験は皆無でした(右翼の暗殺から逃れる為、海上勤務に出したと言われる)。山本は米国駐在武官やロンドン軍縮会議次席委員、海軍航空本部長など長く軍政にかかわってきました。またハーバード大に留学するなど国際知識も豊富と思われます。
米内光政は昭和11年12月聯合艦隊司令長官に親補されますが翌12年2月林銑十郎内閣のとき海軍大臣に推されわずか3ヶ月でその職を去りました。米内光政は第三艦隊司令長官、第二艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任した部隊指揮の練達した将官でした。
聯合艦隊司令長官の任期は通常1~2年程度であり、山本五十六は開戦の時点で2年4ヶ月の長きに渡っていました。
もしも慣例どおり開戦前に聯合艦隊司令長官の人事異動がなされたらどうなったでしょうか。私は山本五十六は海軍大臣になって開戦をズルズルと引き延ばし、(北朝鮮のように)したたかに米国と渡りあってほしかったと思います。
海軍には先任承行令があり無理かと思いますが聯合艦隊司令長官は米内光政の返り咲きが適任かと思います。
   (MT生、大手町)


(宮崎正弘のコメント)小生も二十年ほど前に長岡市に講演のおり、市内にぽつんと設置された「山本公園」をみて、標識だけに唖然。地元でもまったく評価されていないんだと思っていたのですが、数年前にブーゲンビリアから墜落機の翼を運び込んで長岡市には山本五十六記念館が開館。これも数年ほど前にやっぱり長岡へ講演旅行の折、見に行きました。
 地元の評価? 河井継之助と同様に賛否両論、多彩です。河井記念館とて市内に設置されたのは数年前ですから。長岡はかの田中真紀子の地盤でもあります。



  ♪
(読者の声2)貴誌前号の「東海子様」へ。
「大東亜戦争は独ソ戦に備えたスターリンの極東戦略(西安事件、支那事変)と米国の満洲狙いによる攻撃(日米戦争)を両面で受けた日本民族の苦難の戦争であった。」ことも「将兵の奮闘ぶりを無条件で高く評価したい」のも全く同意です。
そのことと敗戦の原因を探ることは別のことです。また、戦争を指導した者と戦争を戦ったものは同列には扱えません。
一国の命運を左右する人間の一挙手一投足や判断は、責任重大です。
山本五十六は海軍大将として、連合艦隊司令長官として祖国の命運を左右する立場にいたのです。
仰言るように歴史イフはないのですから、彼がもたらした結果によって判断すべきでしょう。

一、大東亜初戦を戦った高級将校は異口同音に「緒戦は勝って当たり前。なぜならそれだけの準備を周到にしてきたから。問題は開戦後の作戦指導である」と言っています。
これは真珠湾にも当てはまることです。

二、指揮官は先頭に立つことで作戦の効率を高め、勝機を得られるということはご了解いただけると思いますが、山本司令長官は真珠湾の時は出撃していませんでした。
 三、山本長官に対する批判は、後知恵の愚ではなく、戦時中から澎湃と批判がありました。当時の大本営に勤務していた人たちから直接聞いた話です。むしろ後知恵で、戦後しばらくたってから海軍礼賛が始まるのです。
歴史は正しく評価しなければならないというのが私の基本姿勢です。
  (軍事評論家 佐々木俊夫)



  ♪
(読者の声3)『聯合艦隊司令長官山本五十六』は昨年12月、公開直後に観てきました。家庭人など、山本の人間性を豊に描いており、歴史考証のいい加減さは別として、ストーリーとしては面白かったと思います。
考証面で言うと、作戦会議などのシーンで黒板に書かれた「作戦」という時が旧字体ではなく新字体になっていたり、というのが数カ所ありました。
また冒頭で陸軍部隊が海軍省前で整列して銃を構えるシーンがありましたが、実際にそんな出来事はなかったはずです。
伊武雅刀さん演じる永野軍令部総長の演技が軽薄に見えますし、ミッドウェー作戦では南雲忠一中将が優柔不断で草鹿龍之介参謀長の判断に一辺倒であったという描き方は誇張過ぎると思いました。配役で言うと、役所広司さんと山本五十六、柄本明さんと米内光政は風格も含めて実際の両人物と対応していません。
 私自身は山本五十六には親近感を持っています。寡黙すぎて作戦指導上の意思疎通を欠き、信賞必罰の原則に不徹底であったという批判があるのは承知していますが、山本関連の出版物が書店であると、つい手に取ってしまいます。
2年前、長岡市内にある山本関連の史跡や資料館など全て観てきました。
山本の生家跡や関連する展示を全て見ておきたいと思っていたからです。国際的な視野の広さ、石油資源・航空兵力の重要性への着目、日米両国の指導層から得ていた評価の高さ、部下への教育観など、評価すべき点はいくつかあると思っています。山本五十六記念館に行った際、案内員の方が「山本さんは郷土の誇りです。ここには近所の小学生が社会科見学で来るんですよ」と言っていました。今回の映画も半藤さんではなく、別の方が監修や考証に関わっていれば、もっといいものになったのではないかと思います。
 (YS生、多摩市)



  ♪
(読者の声4)以前の投稿で紹介した「米欧回覧実記」では宗教についても触れています。
ビスマルクは普仏戦争の勝利の後、カトリック教会が旧教国をそそのかし戦争を煽ったとして、イエズス会士をドイツ国内から追放した。この処置に対する非難やそれを覆そうとする謀略はますます激しくなり、やむなく宰相の座を降りるまでに至った。
いまもなおこの紛糾は終わらず、カトリック派はビスマルクを狙撃する機会を常に狙っているのである、とあります。
幕末から明治にかけて来日した西洋人の記録を読むと、キリスト教徒ではないという一点のみで日本人を見下す人物がいる反面、戦国時代から徳川時代にかけての伴天連追放令や禁教令を当然のことと評価する人物も少なからずいます。
プロテスタントのカトリック嫌いなのだろうと思っていましたが、幕末から明治にかけての欧州ではイエズス会に代表されるカトリックは現実の脅威だったのですね。
フィンランドの教会で、北欧では長年イエズス会を禁止していました、と説明されたことを忘れていました。
スイスでは1848年の憲法でイエズス会を禁止、解除されたのは1973年。イエズス会は世俗の権威を認めないバチカン(教皇)至上主義ですから、旧教国でも目障りな存在で18世紀末には一度解散されられています。
それが復活するやまたもや新教国の転覆を企てる。現代で言えば、世俗国家を目指すエジプトがムスリム同胞団を非合法化したのに似ています。
普仏戦争のさなか1870年にナポレオン3世の軍隊が守っていたローマ教皇領がイタリア王国に併合されるのですが、フランスでも第三共和政でフランス革命以来の政教分離が確立。フランスの歴史はローマ教皇との権力争いの歴史でもありますからカトリック教会排除は徹底しています。
1880年代には公教育から宗教教育の排除、十字架やマリア像などの撤去、大学の神学部の廃止(ストラスブールだけは当時ドイツ領のため神学部が残った)、教職からの聖職者の排除、1902年以降はカトリック系の学校約12500校を閉鎖。こうした流れがイスラム教徒の女生徒のスカーフ禁止につながるのでしょう。
ドイツでは公教育で宗教教育の時間があり、大学の神学部が重視される。
フランス革命で廃止された十分の一税の代わりに教会税(8~9%)を源泉徴収ですから教会の国家管理といえなくもないようです。岩倉使節団が訪欧した当時の宗教心の国別比較はおもしろい。安息日の日曜日、アメリカ人は教会に行き、イギリス人は家に閉じこもり、フランス人は公園で散策を楽しむ。ベルリン市民も宗教心は薄いとしています。
「米欧回覧実記」の著者にしてみれば日本では300年も前に延暦寺の焼打ち・本願寺攻め・バテレン追放と政治から宗教勢力を排除していますから、カトリック教会に対する見方は批判的。教会の周りには多くの乞食がいて、恵んでもらったお金の半分は教会へ、乞食は感謝ひとつすることがない。大聖堂をみても規模の大きさには驚きながら、民を無知蒙昧のままにし膏血を絞り取る象徴のように感じ、ロシアは祭政一致で、民衆のロシア皇帝を見る目は本願寺の門徒のようだと記しています。
ローマの教皇領など日本で言えば近畿一円から北陸にかけて本願寺領のようなものですから違和感を感じるのも無理はありませんね。
  (PB生、千葉)


(宮崎正弘のコメント)ご意見を伺いながら、80年代初頭、米国政府の招待でクレアモント研究所に一ヶ月、滞在したことを思い出しました。ロスアンジェルスから二時間のクレアモントはドラッカーも住んでいた学園都市ですが、六つ大学があり、しかも大半の大学の「売り」が神学部でした。

       ◇◇ △△△ ○○

呉に愛人を囲い、実戦に出ず、パフォーマンスをしていたと日下公人氏が指摘して以来、どこでアメリカと繋がっていたのかご今後の課題になると信ずる。
ビンラーデン容疑者を射殺した米軍が、山本長官の例を挙げた、と知ったとき早めの口封じと言う言葉が脳裏を過った。だいたい、海軍首脳が当初大反対した真珠湾攻撃を、やらせてくれなきゃ辞めるとまで言ってだだをこねたという評価も一部にはある。東條首相は聾桟敷であった。事前に練り上げられていたプロットとしたら‥‥。
無料アクセス解析

0 件のコメント: