月曜日, 1月 30, 2012


先日法事のついでに長い間訪れる事のなかった親戚の家に立ち寄った。子供の頃はその家でよく遊び家に上がり込んで勝手にアルバムなど開いて見たり、当時から購読していたオートバイ誌の古い号などを新鮮な気持ちで眺めていた記憶がある。今は農家も法事は皆会場で執り行うようになり、出会う人々はほとんど知らない人たちである。わずか数名の顔までしか知らないありさまである。それだけ世代交代は進んでいる。たまたま従兄弟の両親もそろっていたので、世間話が弾んだが、昔から気になっていたアルバムを正式に見せてもらいカメラ撮りさせてもらった。

父から聞いた話では、戦中は戦闘機パイロットであり中国上空で陸軍の輸送機の護衛をしていたから死なずに済んだんだと子供心に染み込んでいた。それで、たしか昔見た写真に輸送機の脇で隼らしい戦闘機の風防をずらし、僚機に向かって会釈しているような写真があったなあ〜、と思い出し再度見せてもらったが、たまたま見せられたアルバムは保存があまりよろしくなく、比較的きれいな写真は稀だったし、えっこれだったっけ!?と思う程の変わり様に感じた。まだ別のアルバムもあったはずだと思ったが、時間があまりなかったので別の機会にと思って、めぼしい写真をリストアップした。

今回初めて見た戦闘機飛燕。いきなり出て来たものだから驚いた。イメージとしては初期は97戦、後期は隼とばかり思い込んでいたからである。今回97戦は何枚も出て来たが隼と特定できる写真は一枚もなかった。やはりアルバムが違うのであろう。

飛燕は三式戦と呼ばれる。ここの主も三式戦は、〜と語っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三式戦闘機

スマートな機首のイメージとは違い結構重く、それまでの滑走路およそ2000メートルではよほどの向かい風でない限り離陸は難しく、滑走路を延長するほどだったという。
『愛称の飛燕はアスペクト比の大きい主翼と液冷エンジンゆえのスリムな容姿に因む。1945年1月以降、三式戦装備の本土防空飛行部隊の活躍を報じる新聞記事で使われはじめた。』などと解説にもあるように、終戦末期からの投入のようであり、おそらく最後のアルバムなのかもしれない。このエンジンは『所沢航空発祥記念館で展示されているハ40(上下逆)』などとも出ていた。機会があったら訪問したい。

所沢の航空記念公園の駅前には、YS-11の機体が展示されている。三式戦の機首がYS-11の両翼のエンジンの機首と似ていなくもないが、『参加したのは、零戦を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で隼を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で飛燕を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人たちでした。』とあるように、私の記憶では土井武夫氏のイメージが強い。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-YS11.htm

この搭乗機は97戦だという。この機体は、通常パイロットがいちおう習熟するのに約三月と言われていたらしいが、7ヶ月も訓練に使用されたらしく、97戦には嫌になるほど乗ったなどと
お盆などで戦前の軍医だった親戚などと話すのを何回か聞いている。するときまって、満州の奉天の駅前の‥などとう話しになって行くのだった。このアルバムにも一葉、キリル文字表記の繁華街の喫茶店らしき店が写ったものがあったが、たぶん奉天あたりだったのかも知れない。
『1937年(昭和12年、皇紀2597年)に九七式戦闘機として制式採用された』という。皇紀は2600年という歌が流行ったことは知っているが今の時代はピンとこないが、戦前に中学校を卒業した父の卒業アルバムは、表紙には皇紀が使われていた。各クラブの紹介写真などが今と変わらない感じであったが、時代故か射撃部だけは国防色が強いと感じた。使っていた銃は聞きそびれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/九七式戦闘機

隼やこの機体は、糸川英夫博士を思い出すが、上のwikipediaでは、プロペラ設計に元東大教授
の佐貫亦男博士の名前も出ており、初めて知った。
『本機で初採用された前縁直線翼は、新任技師だった糸川英夫の発案による。主翼前縁の後退角がゼロで後縁の前進のみでテーパーし、翼端部捻り下げのため主桁は軽い前進角を持つ。本形式はその後一式戦「隼」(キ43)・二式単戦「鍾馗」(キ44)・四式戦「疾風」(キ84)の、小山悌設計主務者による一連の中島製単座戦闘機に採用され続けた。プロペラも、糸川と同じく新任技師の佐貫亦男(日本楽器製造)が担当した。』などとある。

糸川博士の書かれた書物には、試作機の評価をパイロット達に聞くのだが、翼に蛸が張り付いた感じがする、というのを聞いてそれを理解して改善して行く苦労などが書かれていた。

糸川博士は、戦後のロケット開発のもちろん大御所だったのだが、経理の不備を指摘されたか何かで任期途中で東大を退官、それで、勲三等までしか行かなかったのは惜しい気がする。

その頃の、糸川教授の仕事の95%は、腰に鉈を下げて日本各地の津々浦々を歩き回りロケット発射基地の選定を行った、という記述は誇張ではないかもしれないと思っている。

当時、東大工学部に入学するのに苦学して5浪や6浪は珍しくなかったという記述も新鮮であった。糸川博士の書物は手元に残らなかったが、佐貫博士の『発送のモザイク』などは今でも残っており、時々眺める。

地方での学生が、都内在住の学生達が今でいう生協の飯など喰えないなどと本郷界隈の洋食屋などに出入りする姿に反発した、などというのを聞くと共感を覚える。

訓練用無線機の説明に東亜電波の名が見える。この名前も今回初めて見たものだが、大学で使った記録計にもこの名前が。その後狭山市郊外の県道沿いでこの会社の工場兼倉庫といった感じの場所を発見。所沢に近い事から戦前からあったのだろうと思った。今朝の朝刊で、富士通元会長の訃報を見た。会長の講演会に学士会館でお会いした。二列程後ろに位置していたため、司会者の会長の姿勢の良さも特筆ものという指摘に、改めて実際に観察できた。会長の講演要旨は手帳にメモした。最後に思い切って初対面の会長に自己紹介をしてしまった。会長は、家内の父と同期でその昔〜を励ます会などにも出席を頂いた折から注目していた。陸士海兵出は入学者の一割以内とす、などというGHQ方針にも関わらず日立の社長などになられた某氏などと一緒に東大を出られ戦後の日本の礎を築かれた。山本会長のご冥福をお祈りする。

陸軍航空兵として、中国大陸で特攻の訓練中、呼び集められ死なずに今後の日本のために生きて尽くすよう訓示を上官から受け、帰国されたという。兄君は実際に特攻に出撃されている。
戦闘機の照準が、エンジンから漏れる油滴などでよく曇り、使い物にならないことがあって、当時からこのままでは駄目だなどと思われた体験談なども話された。特攻に向かった兄君の出撃までの日記の記録だどにも言及された。万一討漏らすことのないよう、機器の整備には相当気を使われた様が記録されているという。このとき、いくぶん声が震えていたように思う。使用していた機種までは言及されなかった。



高校時代の数学の教官に右腕が肩下あたりから無い方がおられたが、当時からプロペラを回してエンジン起動の動作中、逃遅れて負傷された、と思い込んでいたが果たしてどうだったのかいまでも気になる。ノモンハン事変の頃では、当時のソ連機はセルモーターを組み込んでいて、上空からエンジンを停止して滑空しいよいよという時になってエンジンを起動し、日本軍の航空基地を急襲した例などがあったそうだが、ソ連側の戦闘機開発者は更迭されたという。それほど、97戦は格闘戦では優秀であって、翼の先端を何割か吹き飛ばされても、帰還した例なども紹介されていて、親戚の家にあった『丸』などで初めて知った。

固定脚方式は、子供心にも旧型に思われたが、当時描かれた航空画などにも見られるように草原に不時着した友軍機のパイロットを救出した事例は結構あったらしい。これは頑丈な固定脚だからできた技で、その後の主流となった引込み脚だと、折れてしまい不可能だという。戦線に置き去りにする機体は拳銃で着火してから逃げるのだという。そういった教育もされていたのだろうか。

『 ノモハン事変(歴史ではノモハン事件という)を通じての戦果は撃墜したソ連機は総計1,300機に対し我が方の損害は120機(爆撃機を含む)であり、九七戦は10対1の戦いを勝ち抜いてきた。また固定脚の恩恵も大きく大陸の滑走路に30cmも水が溜まる状況でも離着陸できたし、基地飛行場が使えなくなっても大陸の草原に着陸待機したり、不時着した僚機の側に着陸して、パイロットを胴体後部の空間に乗せて帰還するなど素晴らしい活躍であった。』
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln6/97Fighter.html
『 審査の結果、中島のキ-27が九七式戦闘機の名で制式採用となった。 しかしその後も増加試作10機を製作して各種の実用試験が行われ操縦性にさらに磨きがかけられ、単座軽戦闘機としては世界最高傑作と称された九七式戦闘機に育ったのである。 』などとあるが、この過程で糸川博士が仰られた、翼に蛸がはりついたようだという意味がわからないと操縦性の改良ができないわけで、かなりの試行錯誤もあったに違いない。
http://www.general-support.co.jp/column/columun10.html
父もよく新型戦闘機の発表会などには見物客として臨んでいたこともあるようであり、その様を語る口調は弾んでいたのを思い出す。






































http://www.youtube.com/watch?v=NcTOs9XVUqU

これはYoutube動画からお借りしたものだが、どうして敵機はかくも不格好なのか不思議なくらいである。日本人の美意識は、DNAに組み込まれているのか!?とおもうくらいである。

http://military.sakura.ne.jp/ac/nate.htm
ここにもある通り、一線を退いた後も教育訓練用として使われ続けたようであるから、事によるとかの山本会長も中国大陸で訓練していた頃は97戦を操縦されていたのではないか!?などと思う。それで思い出したが、当時の通信機は、基地では使えるのだが上空に行くと使えない(届かない)ようなシロモノでそういう点を含めて何とかしないと駄目だったようだが、一説によると富士通入社は教授の指導によるものらしい。

そして最後はコレ!!!
http://quasimoto.exblog.jp/16781241/






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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして。
ネットの海を漂っていたらこのサイトにたどり着きました。

三式戦はとてもスマートで美しい戦闘機ですよね。
当時のドイツ空軍の主力戦闘機であるメッサーシュミットBf109にも劣らない印象的な外見をしてますよ。

今回、貴重な当時の写真とお話を拝見させていただき、感謝の極みです。

nature さんのコメント...

初めまして、匿名さん。コメントありがとうございます。

遅ればせながら、本日気づきお礼を申し上げます。

小生は5月に阿見町に最近建設された
平和記念館を見学して来ました。

予科練の記念館です。早く行ったので午後から混んで来た団体客のほうが説明や案内が行き届いていた記憶があります。まあ、ここは海軍の話しばかりで、その後陸軍の撃墜王を調べたら、B29を単独で12機も撃ち落とし今でもご存命の上坊氏の存在がわかりました。愛機は鍾馗だったようで、予科練とおなじ陸軍の飛行学校の出身のようです。

宣伝上手の海軍と質実剛健の陸軍の対比をそのまま見るような気がしました。