最近、新田次郎の息子さんでお茶の水大学の数学教授で藤原正彦氏が書いた「古風堂々数学者」で、氏は初等教育での国語の重要性を唱えていますが、岡博士の論はさらに徹底して面白いものです。
「数学だって、国語だけで十分というのではありません。少し付け加えなければならないものもある。しかし、大部分国語ですよ。・・・自分の心を見つめて、描写することのできない者に数学を教えることは出来ません。」
「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」
「私は学生をABCの3級に大別した。上程よいのであるが、Cは数学を記号だと思っているもの、Bは数学を言葉だと思っているものである。寺田寅彦先生は、先生御自身の言うところによると、正にこのクラスである。それからAは数学は姿の見えないxであって、だから口では言えないが、このxが言葉をあやつっているのであると、無自覚裡にでも良いから知っているものである。」
ガウスの計算好きが導いた近世の数学の輪郭は、やはりこのxが彼の嗜好をさらに加速させたのであろうか?
「いまこの国の小学校の先生たちは、数学は知らなくても数学教育はできる、数学の研究はできても、数学教育を知らなければ教えられないといっている。」
http://www2.blogger.com/img/gl.link.gif
「数学教育で一番むずかしいのは小学校の、それも低学年の数学教育である。数学というものを明きらめ尽くしているのでなければ、ここはこうすればよいのだ等と言い切れるものではないからである。」
そのためかと今では思われるのだが、岡先生は、遠山先生の「水道方式」という数学教育ノウハウをあちこちで批判されていた。遠山先生のコメントは特に覚えていない。水道方式って、帰納的に教えると同義ではないですよね。
http://
では、私の懸念、あるいは想像とは逆で、
『 遠山啓さんは、水道方式を基に教育を行った人物である。水道方式とは、素過程と言われている一般的なの計算(ex.36+42)から複合過程と言われている特殊的なの計算(ex.32+6 30+40)へと発展させることである。子ども(初心者)は、一般的なことから学びを進めていくほうが覚えることも少ないのではかどるのである。また遠山啓は、暗算主義から筆算主義へ、数え主義から量体系へと考えを膨らませた。この水道方式から、子どもが分からないのは教える中身と方法が間違っていている可能性もあり、それを研究しようという方向に進んだら、いくらでも改善や発展の道が明けてくるということを学ぶことができる。』
などと出てくる。過去にも遠山先生の水道方式関連を読んだが、どこが批判されているのか、素人の私にはわからなかった。・・・一般から特殊へ、ならば演繹的な、かつ合理的な方法なのであろうが、側頭葉的すぎる、とでも岡先生はかんがえたのだろうか?
欧米の一流の数学者でも、没頭すると、計算はできなくなり、足の指までいれて、ようやく計算したり、という例もあると聞く。計算や論理は数学の本体ではない、という仏教学者でもあられる岡先生の言葉は、大変に意味深長なので、多くの方々が、いまだによくわからん、と述懐なさる。
「数学の実体は法界(正確に言えば事々無礙法界。四法界中最高)であって、数学するとは、主体の法が客体の法に関心を持ち続けて、後者が前者の上に表現せられる直前までやめないことであって、表現は数体系によってするのである。」
岡先生と生前直接コンタクトがあった、梶原先生は、フランスでは高校の先生は、日本の大学の教授クラスなのが普通で、ルベーグ積分を創始したルベーグは、ナンシー高校の先生時代だった、という。ポンピドー大統領も、高校の先生だったが、日本ではちょっと考えられない。
岡先生の数学教育に関する嘆きを知って、梶原教授の提言を見ると、うなづけさせられる。
我が国の算数・数学教育の現代化は亡国的愚挙であった。・・・中学や高校の教員採用試験における数学専門試験問題は大学入試より易しく、大学の数学教育の内容はほとんど反映していない。教育大学の先生が嘆いておられたが、大学に通わず、塾や家庭教師をしている者のほうが、教育大学で真面目に数学を学ぶ者より合格するのである。たとえば、前記の私の解答では確実に不合格である。かくして、中学や高校で公理論的方法を展開するのであれば、教員採用試験の問題をフランスと同じく、本書(新修解析学、現代数学社 1980)の水準にすべきである。その為には教育委員会を、それに即応して、フランス同様、学者でもって構成しなければならぬ、とある。
岡先生と『正法眼蔵』と私
上のタイトルで、西野先生(九大名誉教授、多変数函数論)が、UP(東大出版会の案内冊子)に書かれた回顧録を見てみよう。私も高校時代、岡先生の著作を幾つか読み、大学に入るとすぐ正法眼蔵を買って、何度も読んだ。そこで、出あったいくつかの感動したフレーズを西野先生も岡先生の思い出に重ねて語られている。
自己を習う
『正法眼蔵』はもちろん仏教の教義を説いたものでる。しかし、実際には教義そのものよりも、その教義をいかにして体得すればよいのかということの解説により多くを労力が費やされている、という。
『しかし私が岡先生に師事してはじめて最初に受けた叱責は、・・・、身振り手振りを交えた奇妙な説明の仕方であったが、後年の先生の言葉に直せば、「数学をするには、言葉や記号を論理的に繋ぎ合わせるような、いわゆる『側頭葉的』な頭の使い方ではなく、数学的像を明確に描き出すような、いわゆる『前頭葉的』な頭の使い方でなければならない」ということであった。』
数学の中のある命題が正しい命題であることは、外界で確かめるものではなく、本質的には自分の心で分かるのである。・・・「数学」がそういうものであるため、「数学の仕方」は、「本来自分の持っている能力を自覚し、それを使えるようにすること」と言われる「禅の修業」に似ている、という。
『正法眼蔵現成公案』仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に證せらるるなり。万法に證せらるるといふは、自己の心身、および巳陀の心身をして脱落せしむるなり。
『いつか新たにセミナーに参加された人に、先生の論文一揃いを持ってこられた時、「出離の道を求むるにあらずんば、一行たりとも読むな」と言って手渡されたことが思い出される。」とある。西野先生は、かって奈良女子大で、岡先生と数学教室で、机を並べていた時代があったそうである。(1957年から7年ほど)
『先生はよく、「見る目と見える目」ということを言われた。すなわち「本当に分かるのは見る目で見ているときではなく、見える目でみているときである。」というのである。さらに先生は「問題がとけるときは、数学の方から分かってもらいにやってくるようだ」と言っておられる。数学の研究で「自分である予想ををたてて、本当にそうかどうかを確かめ、そうでないと分かれば、又別の予想を立ててそれを調べる・・・・・」というのは「自己をはこびて万法を修證」していることである。実際、そのようなことをしている間はまだまだ問題は解決しない。しかし、そのようなことを思いつくかぎりやって、先生の言葉を借りれば、「もはやどんな荒唐無稽な試みも考えられなく(「春宵十話」)なった後に、あるとき数学はふと分かってもらいにやってくる。それが「万法すすみて自己を修證する」ときであろう。』
仏道をならふといふは・・・・というあたり、岡先生の著作で、事前にある程度どこを読むべきか道案内されてはいたのだが、一番読んでいてすっとわかったような気がした。大学一〜二年の頃の思い出である。
大学を出てからも数学は必要であり、それが何時訪れるかわからない。と書かれている梶原教授の「独習微分積分学」には、
「テイラー展開を用いた計算の方が、陰関数の微分法やライプニッツの公式を用いた計算より楽である事がわかる。くどくなるが、高級な理論を用いれば用いるほど、数学の計算は易しくなる。・・・
本文に即していえば、陰関数の微分法で失敗し、テイラー展開で成功した人は、テイラー展開の真価を悟るであろう。人生とは失敗の総括であり、挫折なき人に成功はない。岡潔先生は生前、論文の原稿には、1000に一つしか vérité(真実)が無いと、おっしゃった。」とある。(175ページ)
後に岡先生が自身の研究について述べておられたところでは、毎日2ないし3ページの研究の試行メモを作る。それがたまって二年ほどすると、だいたい数学の論文一報が出来上がってくる、という。365×2.8=1022という側頭葉的計算では、ほぼ毎日3ページ近い研究メモをとっていないと、二年で1000ページを超えない。これはこれで恐るべき努力ではある。
新しい数学は、その1000ページ余の結果から「帰納的」には産まれるものではあるが、その帰納が機能するためには、膨大な演繹をされたことであろう。
一時、ある雑誌に、親戚の学者が岡先生を訪ねられたときのスナップ写真が載っていた。そこには、庭先(菜園があった)で革靴をはいて腕組みをしたどてら姿の岡先生の前で、笑い転げている学者さんが写っていた。粗末な家には雨戸が写っていた様な気もするが、定かでない。
雨戸を少しあけて、そこから差し込む光の中で研究を続けられた、という話が焼きついてしまっているためかもしれない。
日曜日, 3月 30, 2008
土曜日, 3月 29, 2008
水曜日に都合で、県北のレッドバロン埼玉北店へ帰路寄ってみたら、あいにく定休日だった。翌日連絡したら、来店しないと、電話での注文は受け付けないとのこと。それで、発売もとのルートシックスさんへ電話で注文してしまった。おそらく6号線沿いにあるのだろう。
(03-3690-0600)電話で住所と電話番号と必要個数を言うと、翌日には郵便で届いていた。
一ヶ月以内で、効果がなかったら、返品も可で、郵送の場合、後払い。アメリカ、イギリス、ドイツなどで特許取得だそうだが、製品自体は国産だという。前々回紹介した「ミラクルパワーMC」という省エネグッズ。
以前にも、プラグキャップを交換して、同様の効果をうたう製品があった。ただ、目だってしまい、簡単に盗まれる危険もあった。ヤマハのセローにつけたら、ハイオク使用したような感じで、スパーク自体は強いようだったが、スパーク持続時間は却って短いような気がしたので、50の原付でくるバイト君にあげてしまった。
実は朝の朝刊を取るとき、郵便物が届いているのに気づき、それから、タンクをはずし、プラグコードにかぶせた。落ちないように、パソコン内部の配線を束ねるタグのようなクランプが各二個、8本ついていたが、かなりきつく取り付けられたので、使用はしないでとりあえず乗り出してみた。トルクアップということを最初の効能にあげており、結果として燃費がよくなる、という。その効果は車種によりまちまちらしい。
トルクアップはあるような感じだった。高速も走ってみたが、落ち着いていて感じが良かった。ただ、出だしは、コールドスタートで、ごつごつした感じがあって、数百メートルもはしり、交差点でエンスト。まだピストンが慣れていないようで、それなりに変化はあるようだった。
パーキングエリアで、朝食。ここの下り線の天ぷらそばは、反対側の上り線の天ぷらそばより安いと思ったら、反対車線の天ぷらには、子供の小指ほどの剥きえびが3尾入っており、それなりにおいしいのだが、こちらは単なる掻き揚げ風天ぷらで、駅そば風。ただ、一個150円の手作り風おにぎりのお米は上等なものらしく、たいへんおいしいと思った。
まだ、8時ちょっとすぎで、バイクの移動は少ない。ただ、土曜の朝で、花見シーズン到来とあって、行楽へ向かう人たちは多く、駐車スペースは無いほどだった。
この辺は、少し寒いらしく、木々の花々も、市街地のものより、数日遅れている感じ。その写真を撮っていたら、スズキの隼らしく黒塗り、カウルつきバイクがやっと一台入ってきた。
音がぜんぜん違う。材質なども違うようだ。荒々しい少々金属的な音だった。まだ、慣らしがおわった程度に見えた。降りてきたライダー君もなんだかうれしそうな笑みを見せていた。
まもなく高速を降りて、前回のセルフで給油。コールドスタートを7回ほどした通勤使用の跡では、以前と変わらない燃費。ここで、50円引きのコーヒーをのんでから、前回16.2前後出たコースをたどって燃費をみたら、16.0だった。土曜日で混んでいて渋滞気味だったことも影響しているかもしれない。逆に言えば、にんじん君の効果が一番はっきりしていて、ミラクルパワーMCの効果は、トルク感だけにとどまったのかもしれない。
にんじん君をはずして走れば、効果の程度は知れるかもしれないが、その気はあいにくない。以前のエコボックスとにんじん君をダブルでつけたような感じがするのも面白い。また、慣らし運転も必要な気がする。燃費を気にせず、遠出してどのくらいの燃費向上が期待できるのか、5%もアップしていれば、この種の製品としては上々ではないだろうか?その値は15.5程度となるのだが、果たして・・・。
と、ここまで書いて、仕事を一段落して帰ることに。エンジンをかける。かかりがよい。チョークを調整して回転が上がり過ぎないように調節をする。ふと、ライトの明かりがかなり明るいことに気付く。いつもと同じ場所で、特に暗いわけではなく、明らかに、ライトの寿命が心配になるほど明るい。にんじん君も明るくなったが、それを上回る感じだ。乗り出すと、かなり加速がよい感じがする。トルク増大という宣伝文句が嘘ではないようだ。一応、欧米各国で特許を取った、というのはだてではないないようだ。かなり走りが太い感じ。
家に帰ったら、にんじん君の発売元であるブリッジカンパニーさんから、私宛にメールが。
効果はどうですか?という問いと、他のユーザーの感想を二三紹介していただいた。さらに、古い車は、カプラーなどの接点の電気抵抗が大きくなっているので、それを取り換えると、さらに効果が増すと。しかし、全部取り換えるのは生産的ではないので、そこを浄化するだけでも、かなり効果があるという。
『この接点復活剤は、オートバックスなどカー用品店でいろいろ
出ていますが、中でもお勧めなのは、CRCで有名なKURE
が出している「コンタクトスプレー」という製品です。
「コンタクトスプレー」は、ブランドもしっかりしており、
価格も900円弱という安価な上に、効果もしっかり望める
優れものです。』
などとくわしく解説され、しかもカラー写真での説明マニュアルがPDFで付いてきた。さっそく明日以降試して見ようと思う。エコボックスは、会社の軽に付けているが、バッテリーの接点周りも、マニュアルの写真のように、かなり汚れていた。そちらも、余ったスプレーで掃除してみよう、ともおもった。
車での燃費改善レポートは、良いほうの例に決まっているだろうが、シエンタという車の例では、15キロから、17.1キロまで延びたと言う。接点清浄で、私のバイクもさらに延びると良いのだが。
日曜は雨だというので、午前中にもういちど再テスト。こんどは、飛ばせるだけ飛ばして燃費を計り、帰りはいつものコースを省エネ運転。あきらかに加速はよいし、アクセルとチェーンが直結しているようなタイムラグのない加速フィーリング。バトルの際も、気づいたらレッドゾーンへ入るところ。音や振動ではそうは思えないのだが。相手は、どこかへ入ってしまったらしく、ついてこなかった。それで、14.1。帰りは、良くまわしたおかげで、60キロでもきわめてスムーズにエンジンがまわる。昨日とはちがって、渋滞も無く、つい遠回りをして、タンクを空けたら、リッター20キロはいったかと錯覚するほど、燃料が残っている。しかし、まあ、妥当な16.83キロとなった。これで、電装系のチューンをしたら、どうなるのだろうか?
単純に考えて、アーシングと原理は同じことかどうか?。こちらでは820円で購入できた。無臭、揮発性。まっさきにバッテリーまわりと、電子点火調節ボックスとに散布。バイクは、古コードの長さがギリギリで、かなりてこずる。ランプハウス内もたくさんコネクターが。ちょっと回すとあっさり軌道。冷えているのに安定した回転。
昨夕から、ピストン運動の際にヒュルヒュルといった音が混じる。ピストンの慣らしが必要なようで、それなりに爆発の内容が以前とは少し異なるようだ。低速は、音は心もとないが、セカンド発進も、気づかず行ってしまう。1000~1200でクラッチミートしても止まらない。以前はプスン、と止まり転んだこともあったっけ。私の場合では、通勤メインで、条件にもよるが、ツーリング燃費より2.5~3.3ぐらい落ちる。
sho様の以前のモデルで15.7、通勤に使えば13前後か?今日の運転でも分かったが、通勤のクセがついてしまうと、燃費は伸びにくいようだ。プチツー、ツーリング専用に使えば、もう少し
それだけで伸びるかもしれない、と日ごろ何気なく思っているところである。
金曜日, 3月 28, 2008
仮説を立てて粘り強く論証
これまで定説となっていた日本論を覆すような説をたてられる。先生(梅原猛)の研究の基本姿勢とはいったいどのようなものなのか。?(記者の問い)
『科学というものは、まず仮説を立てることなんですね。つまり、ある現象を今までの学説、旧説で説明しようとすると、たくさんのアポリア(論理的難点)や矛盾にぶつかる。そして全く説明できない。だから、そういう旧説を懐疑して、新しい直感によって、新しい原理をたてる。そして、それを粘り強く実証的に論証していくというのが私の方法です。それは学問というものの態度だと考える。それを教えられたのはデカルトです。』
『つまり、学問の方法というのは、懐疑と直感,そして演繹、実証です。特に、演繹、実証などは一番面倒くさい仕事です。しかし、それをやらないと学問にならないのです。』
などと応えている。ある新聞の学芸欄に出ていた、と思う。
さて、そのデカルトであるが、中川鶴太郎著「ラボアジェ」(清水書院、人と思想シリーズ10、1991年)によれば、
錬金術の遺産は何か、の節で
『「理性の時代」17世紀がきたとき、明証と分析を武器にしてスコラ哲学に戦いをいどんだデカルトは『精神指導の規則』第4則でこんなことを言った。「人間は盲目的な好奇心に捉われている。すべての化学者が幸運だけをたよりにしている。こういう無秩序な研究や不明瞭な省察によって、精神が盲になるに決まっている。暗闇になれた眼は明るみに堪えられなくなる。」
こうして近世の新しい気質の中で、錬金術は次第に衰えていったのである。
ここで、最後のまとめをせねばならない。序章の序章で、「中世は科学をみごもっていた」と言った。では、錬金術は何を残したのか。
それは無数、膨大な実験結果(経験と観察)の集積である。妖術者が実行しようと、科学者が実験しようと、そこに生起した事実は、事実である。千数百年にわたる錬金術の実践の中でランダムに、あるいは系統的に蓄積された諸物質の知見、諸化学反応の知見は近代化学の発展にとって必要不可欠な栄養となったのである。いな、あえていうならば錬金術の諸経験を整理し、体系化したものが、近代化学である。・・・ようやくラボアジェの登場する18世紀となった。』
と。ここでは、近代化学が成立する過程は、膨大な先験的事実を帰納したかのように見えもするが、まず、錬金術的前世紀までの実験も、こうではないか?こうなるはずだという一種の仮説演繹的諸事実の蓄積があってこそのことである。また、それらを整理して、体系化したとはいっても帰納ばかりではなく、天才ラボアジェほぼ一人といってもいい、彼の演繹的推論で、近代化学は誕生したのだということができる。
さらに、『ラボアジェ』を見て行くと、1 アンシャン・レジーム末期、ラボアジェ誕生の章では、
『そして、思想、哲学界ではイギリスのフランシス・ベーコンが帰納法を唱えてイギリス経験論哲学の祖となり、フランスではデカルトが演繹に基づいて理性を導く『方法の序説』を書く。彼らの説く「帰納」と「演繹」は、近代科学の基本原理となって今日にいたるのである。・・・』
『ラボアジェが従来の燃焼論の元となったフロジストン説を論破するせんとする彼の弁証はあくまでも冴え、その気魄は『ソクラテスの弁明』を書いたプラトンを思わせる。・・・・「私がおおきな満足をもって眺めることができるのは、偏見なしに科学を学び始めた若い人々、そして新しい頭脳で化学の真実を追う数学者や物質学者である。彼らはもはやシュタール流のフロジストン説を信じないし、化学というサイエンスを構築するのに、フロジストンの教義は邪魔になる足場だと考えている。」
上記化学を数学者に期待するのは、一見奇妙であるが、哲学者コンディヤックに傾倒していたラボアジェは、常々化学を「数学のような」学問にしたいといっていた。彼が期待した若い物質学者とはラプラスのことであろうか。この論文を書いたとき、ラボアジェは40歳の初め、そして優れた協力者ラプラスは6歳若かった。』
『デカルトは『方法序説』の中で「明確な思想は明確な言葉のなかにある。」と説いたが、同じくコンディヤックも「正しい論証は正しい言葉使いに帰着する。」といった。彼は主著『論理学』(1780)のなかで「怪しい言葉が過ちのもと」ともいった。...記号としての言語は観念の分析に不可欠であるが、さらに進んで科学の体系化を考える場合には、よく整備された明解な言葉は科学の本質ですらある。』
『よい言葉は科学の本質とまで言いきり、「数学のような哲学」を期待したコンディヤックの思想はロックよりも徹底している。18世紀でもっとも進んだ「科学の哲学」ともいえるコンディヤックをラボアジェが如何に高く評価していたか・・・』
そして、コンディヤックはラボアジェに乗り移って「科学革命」を進行させた、と書いている。
化学原論
『自分はいままでコンディヤック神父の著書『論理学』に提起されている諸原理を十分に実現してこなかったと思う。神父によれば、我々は、言葉によって思索している。言葉こそ、分析の真の道具である。神父によれば、最も単純、正確、かつあらゆる表現目的に最もよく適合している代数学こそが一つの言葉であると同時に解析の手段なのである。結局神父によれば、論証の術はよく整備された言葉に帰着する。(l'art de raisonner se réduit une langue bien faite.)』
コンディヤックの最後の著述「論理学」の発行は1780年であり、ラボアジェが化学原論を1789年に
出すまでに10年近く彼の愛読書であった由。
アメリカの研究風土を体験してきた土金氏は、ブルーバックスの中で、こう書かれていた。
研究開発の究極は独創性
1)現象を調べて、
2)仮説を構築し、
3)実験や、
4)観察によって仮説を実証し、
5)結論を出す
つまり、ものごとを客観的にとらえて、論理的に結論を出せる個人が
「PHEOC」人間なのである。この客観性と論理性が、独創力には欠かせないのである。
「自然現象に対して、素直で忠実になることが、創造の基礎である」
ガウスの無類の計算好きが、高木氏もおどろくような種々の計算規則を見いだしていろいろと先へ先へと特殊な計算を検証していたらしい。その結果からある種の帰納で新しい数学の基礎を形成していったから帰納的、と書かれているのであろう(『近世数学史談』、岩波文庫)が、私には、やはり仮説演繹的なある種の好みと勘によって、膨大な数関係の規則を内察していたからこそできた帰納であり、本質は、仮説演繹的ではなかったか。と映るのである。
これまで定説となっていた日本論を覆すような説をたてられる。先生(梅原猛)の研究の基本姿勢とはいったいどのようなものなのか。?(記者の問い)
『科学というものは、まず仮説を立てることなんですね。つまり、ある現象を今までの学説、旧説で説明しようとすると、たくさんのアポリア(論理的難点)や矛盾にぶつかる。そして全く説明できない。だから、そういう旧説を懐疑して、新しい直感によって、新しい原理をたてる。そして、それを粘り強く実証的に論証していくというのが私の方法です。それは学問というものの態度だと考える。それを教えられたのはデカルトです。』
『つまり、学問の方法というのは、懐疑と直感,そして演繹、実証です。特に、演繹、実証などは一番面倒くさい仕事です。しかし、それをやらないと学問にならないのです。』
などと応えている。ある新聞の学芸欄に出ていた、と思う。
さて、そのデカルトであるが、中川鶴太郎著「ラボアジェ」(清水書院、人と思想シリーズ10、1991年)によれば、
錬金術の遺産は何か、の節で
『「理性の時代」17世紀がきたとき、明証と分析を武器にしてスコラ哲学に戦いをいどんだデカルトは『精神指導の規則』第4則でこんなことを言った。「人間は盲目的な好奇心に捉われている。すべての化学者が幸運だけをたよりにしている。こういう無秩序な研究や不明瞭な省察によって、精神が盲になるに決まっている。暗闇になれた眼は明るみに堪えられなくなる。」
こうして近世の新しい気質の中で、錬金術は次第に衰えていったのである。
ここで、最後のまとめをせねばならない。序章の序章で、「中世は科学をみごもっていた」と言った。では、錬金術は何を残したのか。
それは無数、膨大な実験結果(経験と観察)の集積である。妖術者が実行しようと、科学者が実験しようと、そこに生起した事実は、事実である。千数百年にわたる錬金術の実践の中でランダムに、あるいは系統的に蓄積された諸物質の知見、諸化学反応の知見は近代化学の発展にとって必要不可欠な栄養となったのである。いな、あえていうならば錬金術の諸経験を整理し、体系化したものが、近代化学である。・・・ようやくラボアジェの登場する18世紀となった。』
と。ここでは、近代化学が成立する過程は、膨大な先験的事実を帰納したかのように見えもするが、まず、錬金術的前世紀までの実験も、こうではないか?こうなるはずだという一種の仮説演繹的諸事実の蓄積があってこそのことである。また、それらを整理して、体系化したとはいっても帰納ばかりではなく、天才ラボアジェほぼ一人といってもいい、彼の演繹的推論で、近代化学は誕生したのだということができる。
さらに、『ラボアジェ』を見て行くと、1 アンシャン・レジーム末期、ラボアジェ誕生の章では、
『そして、思想、哲学界ではイギリスのフランシス・ベーコンが帰納法を唱えてイギリス経験論哲学の祖となり、フランスではデカルトが演繹に基づいて理性を導く『方法の序説』を書く。彼らの説く「帰納」と「演繹」は、近代科学の基本原理となって今日にいたるのである。・・・』
『ラボアジェが従来の燃焼論の元となったフロジストン説を論破するせんとする彼の弁証はあくまでも冴え、その気魄は『ソクラテスの弁明』を書いたプラトンを思わせる。・・・・「私がおおきな満足をもって眺めることができるのは、偏見なしに科学を学び始めた若い人々、そして新しい頭脳で化学の真実を追う数学者や物質学者である。彼らはもはやシュタール流のフロジストン説を信じないし、化学というサイエンスを構築するのに、フロジストンの教義は邪魔になる足場だと考えている。」
上記化学を数学者に期待するのは、一見奇妙であるが、哲学者コンディヤックに傾倒していたラボアジェは、常々化学を「数学のような」学問にしたいといっていた。彼が期待した若い物質学者とはラプラスのことであろうか。この論文を書いたとき、ラボアジェは40歳の初め、そして優れた協力者ラプラスは6歳若かった。』
『デカルトは『方法序説』の中で「明確な思想は明確な言葉のなかにある。」と説いたが、同じくコンディヤックも「正しい論証は正しい言葉使いに帰着する。」といった。彼は主著『論理学』(1780)のなかで「怪しい言葉が過ちのもと」ともいった。...記号としての言語は観念の分析に不可欠であるが、さらに進んで科学の体系化を考える場合には、よく整備された明解な言葉は科学の本質ですらある。』
『よい言葉は科学の本質とまで言いきり、「数学のような哲学」を期待したコンディヤックの思想はロックよりも徹底している。18世紀でもっとも進んだ「科学の哲学」ともいえるコンディヤックをラボアジェが如何に高く評価していたか・・・』
そして、コンディヤックはラボアジェに乗り移って「科学革命」を進行させた、と書いている。
化学原論
『自分はいままでコンディヤック神父の著書『論理学』に提起されている諸原理を十分に実現してこなかったと思う。神父によれば、我々は、言葉によって思索している。言葉こそ、分析の真の道具である。神父によれば、最も単純、正確、かつあらゆる表現目的に最もよく適合している代数学こそが一つの言葉であると同時に解析の手段なのである。結局神父によれば、論証の術はよく整備された言葉に帰着する。(l'art de raisonner se réduit une langue bien faite.)』
コンディヤックの最後の著述「論理学」の発行は1780年であり、ラボアジェが化学原論を1789年に
出すまでに10年近く彼の愛読書であった由。
アメリカの研究風土を体験してきた土金氏は、ブルーバックスの中で、こう書かれていた。
研究開発の究極は独創性
1)現象を調べて、
2)仮説を構築し、
3)実験や、
4)観察によって仮説を実証し、
5)結論を出す
つまり、ものごとを客観的にとらえて、論理的に結論を出せる個人が
「PHEOC」人間なのである。この客観性と論理性が、独創力には欠かせないのである。
「自然現象に対して、素直で忠実になることが、創造の基礎である」
ガウスの無類の計算好きが、高木氏もおどろくような種々の計算規則を見いだしていろいろと先へ先へと特殊な計算を検証していたらしい。その結果からある種の帰納で新しい数学の基礎を形成していったから帰納的、と書かれているのであろう(『近世数学史談』、岩波文庫)が、私には、やはり仮説演繹的なある種の好みと勘によって、膨大な数関係の規則を内察していたからこそできた帰納であり、本質は、仮説演繹的ではなかったか。と映るのである。
日曜日, 3月 23, 2008
サン自動車製のエコボックスを取り付けて、試験走行をしてみて、効果があることがわかった。しかし、いちばん肝心な通常の通勤燃費のほうはというと、差があるのかないのか不明な結果に終わった。一週間ほど毎日乗らねばわからないし、そうこうしていると、悪燃費の原因追求すら分からなくなる。要するに、アクセルをつい開けてしまうことが多いと予想より悪燃費ということになる。
エコボックスの特徴は、バイクでいうと低速側にはっきりした効き目が体感される。それは4気筒バイクなのに、まるで2気筒車に乗ったような感覚であった。時速70キロぐらいまでは気分良く、低速トルクを感じながら走れる。しかし、それ以上はとなると、振動も出てきたりして、
効き目は不明。
通勤燃費への影響ははっきりしなかったため、今度はロケットパワーにんじん君ツインGTをもう一度試す。高速道路は未テストだったし、初回は、アクセルを開ければ開けるほど調子がよくなる性格のため、初回燃費は期待を裏切った。しかし、反省してみると、アクセルレスポンスを楽しんでしまったためとも考えられる。そこで、エコボックスと同様のテスト走行を試す。これで駄目ならもう無駄な努力もやめようかと。ついいでながら、にんじん君には、悪燃費追放マニュアルもついてくる。これを読むと、何も燃費向上グッズは必ずしも必要ないんでは!?と思うほどであり、返品前にもういちど冷静に考え直させる効果もありはしないか?と思った。
前回の写真同様に取り付ける。ボディがプロトタイプのため少し大きく、うまく設置しないとシートに当たるが、幸いビッグ1だけあって、干渉しない位置に収まった。下に、通常の点火コントロールボックスがバッテリー上に、ゴムの緩衝帯をつけて収まる。もちろん、車用に使用しても問題なく、説明図では、バッテリー側面や上部に貼り付けた使用例が載っている。
しかし、バッテリーは消耗品で、粘着面が一度はがすと効力が激減するし、バイクではそんなスペースもない。そこで、写真のように設置した。ツインパワーは、設置面の制限は無く、エコボックスとは違う。エコボックスは水平設置を強調している。しかも、4輪専用と但し書き。
サイドカバーを撮ったら、エコボックスの緑色のケーブルも一部映っていた。ツインパワーGTのほうがケーブルが細く、バイク内では取り回しが楽。後は効果だけ。
そこで、同じコースを二度走ってみた。一回目は、会社から自宅への通勤を含む。そこで、平均通勤燃費から、ガソリン量を推定してその分を考慮した燃費は、コールドスタートで15.6キロ。エコボックスと同等だ。帰りはホットスタートで、15.9以上とでた。要するにアクセルワークに依存すると改めて納得。
満タンは、必ずセルフを利用し、最初はメインスタンドを立てて満タンとしていたが、コンクリート面が平らでないところもあり、不正確となりがちなので、またがって水平(垂直)に保ちながら給油。しかし、前回と同じかどうか、なかなか難しいことを痛感。それでも、一般スタンドよりは信頼性は高いだろうと思うが、難しいですよ。
16以上は出したい、と思うのは上述の数値を見れば、人情というものであろう。
今度は、2キロほど満タンから自宅へ帰り翌日、コールドスタート。コースはほぼ同じ。そこで、15.8と出た。二回目は、少し上りになっていることが分かった。昨日、帰りのコースが良かったのはそのせいもあるかもしれない。帰りのコースではCB1300の最終型を国道で抜いたりもした。
にんじん君はエコボックスとも違い、回転に応じてパワーが出るタイプ。それで、低速では効かないと早合点していたのだが、・・・。しかし、ある程度スピードが乗ると思った以上に速度が伸びる。しかも振動もでず、静かである。音も無く近づき、抜くと同行していたCB400が驚いて振り向いた。高速燃費は未計測だが、高速はいいだろうな、と思った。これでは昔いわれた黒い忍者BMWなみか!?
さて、その若干下り気味の帰り、下りの部分は1/3もないのだが、また満タン法でテスト。走行距離から消費量が確実に読める。そして、若干多めに給油もした感じだが、^^);予想通りホットスタートもあり、16.2を超える値を得た。この辺だったかなと思う位置で止めたら16.4~16.5という値もありえる。!!はっは。
高速も走ったが、どんどん気が付かないうちにスピードが出る。以前はスピードを上げようとアクセルをぐっと開ける、という展開だったが、開けているのかどうかわからなくとも、のぼりで110キロのまま、安定走行。肝心の燃費は降りてすぐ計測しようにも、地方にはセルフが少なく不明。自宅近くのセルフまできたら、途中大渋滞やらで、予想より悪く、がっくり。しかし、以前の最悪よりも0.5ほどは良かった。これが最低なら、全体として燃費はあがっているようだし、これでは返品もできない。もっとも、走行感覚もいいので、その気もなくなったのだが。
ライトの明るさも、エコボックスよりもやはり若干明るいようで、燃費結果はそれを裏付けた感じ。夜のウィンカーのパイロットランプの明るさは、まさに眼を射る感じで、多分交流として流れている余分な電気が抑制され、スパーグプラグへの電流が増えているのだろう。
そうすると、また、プラグコードに通すスパーグ強化グッズ、「ミラクルパワーMC」というのを試したくもなる。株式会社ルートシックス発売で、少し遠いレッドバロン埼玉北店で受け付けているという。
水曜日, 3月 19, 2008
家庭内で、場合によっては二台のウィンドウズパソコンが必要になることが分かった。一台はデスクトップで、有線LAN接続。これを新しく使いたいという場所に移動してもいいのだが、有線の取り回しに難がある。
そこで、以前から試そうとしていた、MacOSX上でウィンドウズを動かす選択肢のどれかを選んでみる事になった。
以前、最初に試したのがパラレルズデスクトップ。このときは、ウィンドウズ2000をインストールしたかったのだが、なぜか途中で止まり、インストールディスクに問題がある、と拒否された。仕方なく、XPをインストールして使っていた。そのうち、ブートキャンプで、ウィンドウズマシンとしての機能も試したくなり、
XPを別個にインストール。起動システムを切り替えてマックとウィンドウズと使いだすと、マック上でなにもXPを動かす必要はなくなり、削除してしまった。その後、マックを修理(アドミニストレーター機能の不具合)に出したとき、リカバリされて、ブートキャンプで組み込んだXPごとすべて消えて戻ってきた。
そんな経過のため、パラレルズよりも、いろいろなOSを組み込める機能が売りのVMware Fusionを使う事にした。どちらも、OSX上でウィンドウズを起動させることができるソフトで、評価はどちらも星4個で互角のようだ。値段も一万円ちょっととこちらも差はあまりない。
すでに、VMware社は、Windows/Linux版の仮想化ソフトとして長い歴史と確かな実績があるという。64ビット版OSもサポートし、ゲストOSで二個のCPUを使用する仮想マルチプロセッサー機能もある、という。
ダウンロード販売が安くて早いので、アクト2のサイトから、ダウンロードした。インターネットエクスプローラーの7.0でないと、通信教育の機能がフル活用できない、というので、当然XPしか今回は念頭になかった。
デスクトップ機にSP2版のXPをインストールしてしまったので、SP1版のXPしか手元にはない。しかたなく、それをインストールすることに。正式対応したマックでは、SP2以降のウィンドウズでないと、インストールできず、はじかれてしまうのでそのままにしてあった。FusionではきわめてイージーにSP1でもインストールできた。その後、SP2にアップグレードを行った。会社でもまだ、SP1のままの人もいるが、IE7はSP2以降でないとダメのようだ。
http://www.macwindows.com/emulator.html
には、いろいろなエミュレーターの簡単な解説がある。
むかしFusionというウィンドウズ上でMacの旧OSをエミュレートするソフトがあり、挑戦したことがあるが、MSDOSベースでいろいろ設定を書いたりしなくてはならず、私のウィンドウズ98では、完全動作させられなかった経緯がある。このソフトでMacから抜き出したROMはいまも健在で、BasiliskIIでも使用している。上のサイトでみたら、VMware Fusionとは、なんらかの関係があるのかと思ったが、直接の関連はないようだった。
ほかに、無料の(個人使用の場合)Virtual Boxというのがあるが、Leopardには未対応で、Tiger版のインテルMac用というので、考慮から除外。しかし、使用例ではVistaが動いていた。
さらに、値段はほぼ同じでCrossOver Macという製品が有り、ウィンドウズなしに、一部のウィンドウズソフトがちゃんと動作するというもの。Photoshopや一太郎、マイクロソフトの製品などは動くとされている。IE7については記載がなかったので、もう少し様子見ということにした。
インストールは、Windows on Mac パーフェクトガイドを参考にした。解説はどれもVista専用になっているので、少し違うが基本的な流れは同じ。この本を買ったのは、いずれVMwareを買うような予感があったのだが、Photoshopのライトもレパードに対応したり、買いたい候補がいろいろあり、先送りしていた。この本の発行は二月下旬となっていたが、二月の半ばには書店にあったような記憶がある。
付録のCDに納められている、ウインドウズおよびMac用の定番オンラインウエアにも釣られたのだが、忙しくてゆっくり見てもいない。
ウィンドウズの窓はいろいろな大きさに設定できる。フルスクリーンにも対応しており、元の窓に戻るにはカーソルを画面上部の縁に置くと、VMwareのメニューバーが表示されるので、プルダウンメニューでいろいろな操作や表示設定の変更ができる。
私が使用したのは、Ver1.1.1の最新版らしいが、メモリーの設定も自動でウィンドウズ領域は20GBでどうですか?というので、そのままOK。その領域のフォーマットをどれにするかで、NTFSとFAT32と選ぶのだが、Macから読み書きできるのは後者に限られるので、後者を選んだ。再起動なく、ウィンドウズが使用できるのは、やはり便利だ。昨年の時期にトライしたパラレルズは、まだ、ちょっと画面の動きが遅く、(当時はインテル版のタイガー)いかにもエミュレーターという感じがしたものだった。
今はLeopardの10.5.2となっていて、VMwareは10.4.9以降対応となっており、とてもエミュレーターとは思えない。重いウィンドウズ用ソフトを使用しないかぎり、ノートパソコンが2台になったような使い勝手が実現したような気がする。ウィンドウズのOSも、一年もたつと、問題なく認証された。昨年は、パラレルズで、失敗したり、結局ブートキャンプで、別モードでインストールしたので、認証は自動で行かず、電話で事情を話して、ようやく手動で認証番号を、言われたとおり入力して認証された。
また、ブートキャンプでウィンドウズを起動すると、AirMacが作動せず、LANが有線でないと機能しない不便さがある。無線用 LAN CARDもあるのだが、MacBookには余分なスロットなどない。ルーターは、無線対応となっており、以前はそのカードで無線でインターネットをしていた。MacBookは、ウィンドウズ用の無線LAN
を自動認識。別売のAirMacも買う必要がない。
ブートキャンプでは、ウィンドウズでも画面上についているカメラ機能もonとなっていて、うっかり自分の顔が画面に出たりすると一瞬ぎょっとしたりしたが、^^);、VMwareでは、さすがにその機能はoffとなっていた。
あと、幾つかインストールしたいソフトがあるが、テスト用で、もっとはやいデスクトップウィンドウズがあるのでそちらで一応十分だ。
土曜日, 3月 15, 2008
ネットで燃費向上グッズを探し、にんじん君というのがよさそうだと注文した。ところが、もう、にんじん君は、モデルチェンジしてしまい、ロケットパワー にんじん君 ツインGTとなって、目下モニターを募集中とのこと。いつ締め切るかは都合によるとある。いちおう、モニター希望で申し込んだが(自宅から)忙しくて自宅に帰ってメールによる返事を見る暇がなかった。遅れて返事がきたが、たぶん打ち切りかもと思い、近くの量販店で類似品を探したら、ありました。
4輪専用で、水平に設置とある。これは以前のにんじん君と同タイプだと思い、値段も手頃
なので、店員さんに聞いたら、二輪でも使えるとおもうが、気休め程度ぐらいの効果しかないとおもいますよ、それでもいいというのなら、買ってくださいとのこと。他にはアーシング用ケーブルとか、シガーソケットに挿す文字通り4輪専用品しかないので、だめもとを覚悟で購入した。
つけて走行したが、少しパワーがあるかなぐらいの第一印象だった。ところで、予想より遅れて注文品発送案内が来て、発売元に連絡したから、そちらから手続き案内がいくはずとある。それで、こなけりゃこないでと思っていたが、来てしまったので、購入手続きを踏んだ。二ヶ月間の返品保証つきである。それで、悪燃費を追放するマニュアルなどもダウンロードした。
土曜に頼んで、火曜日に手許に。それで、さっそく前の品をはずし、いっそうのパワーアップを果たしたというツインGTを取り付けてみる。けっこう大きな箱が二個、それぞれ、赤と青のケーブルが出ていて、バッテリーと直結するだけという。二つあり、悩んだが、まとめてひとつになるように、プラスティックケースに置いた。粘着テープは付いている。それで、会社で夜に取り付け、30分ほど走ってみると、たしかに、アクセルに敏感に反応してパワーが出る。灯火類も明るい。
車では、ステレオの音が良くなったりするという。電極に流れる直流成分を改良する効果があるようだ。整流しても、交流成分がある程度流れたり、眼にみえない電気だけにいろいろと問題があるようだ。
モニターなので、レポートも提出用紙が同封されており、しかも、メールでどうですか?などと聞いてくる。第一印象は伝えたが、CB400などでも評判いいですよ、とあった。なかなか乗れないので、おいそれとレポートは書けない。普通に乗ってみて、まず一回目の燃費を計算したら、あまり変わらない。そういえば、高速での効きはなどと、セルシオと競争したりもしたから、おとなしく乗ればよいはずだと、かなり努力したが、14キロいかなかった。この前、最初に買った品では15近く行ったはずなのに、といろいろ考えた。
CB400では、常用が3500回転から上ぐらいだから、きっと聞くだろう。CB1000では常用が2000回転前後だから、効き出すかどうかぎりぎりで、効果がでないのでは、と思った。しかも、以前の品、ちょっとしか試していないが、いちおう町乗りで15近くでたのだから、もういちどきちんと試してみようと、また、交換してみた。エコボックスという名で、以前のにんじん君と同タイプの一個型。4輪用ということで、ケーブルの太さも違う。
ツインGTをつけると、エコボックスの時とはちがい、また未燃焼ガスくさい排気出ることは気づいていた。エコボックスでは、何も付けない時よりも、匂いがへり、しかも匂いの質も芳香族っぽいものに変わった記憶がよみがえった。2000回転前後なら、4輪の常用域だから、その回転でも効くようにできているだろうと、前向きに考えた。
それでさっそく、高速を含む走行を100キロほどしてきた。恐る々燃費を計ったたら、ここ半年以上、どうやっても出なかった15キロを軽く越して15.76と出た。やはりこの前の15キロ弱は錯覚ではなかったようだ。それで、安心して、飛ばして帰ってきたら、いきなり13キロ台後半。それでも13キロ台前半の無処置より数パーセントはよい。
飛ばす(アクセルを開ける)と、高速、市街地を問わず、燃費が急激に悪化する。このエコボックスをつけると、2000前後のトルクが少し向上しているようで、運転が車並みに楽で、疲れない。それで、それなりにスピードを制御して走るとアクセル開度を少なめに保てるので、燃費向上につながるようだ。
残念ながら、ツインGTのほうは、CB1000の通常走行に、省エネ効果はないようだ。エコボックスの方は、タイヤ圧を上げる前でも、15キロ近く出たので、トルクアップにより、空気圧の変化に対してロバストな面があるようだ。さらに、今後省エネ走行のコツを掴みとる必要があるようだ。まあ、要するにスピードを出さない、アクセルをむやみに開けない、に尽きるのだが。
店長さんが乗っているCB1100Fでもツーリング燃費は15ほどだという。昔のマシンは、燃費設計が今ほどシビアではなかったような気がしている。
ところで、このエコボックス、保証書もついているが、製造元は、公取委から指摘された例の19社のうちの一社。ただし、該当製品は、シガーソケットに差し込む別の製品。販売員の方が、再三、効果は疑問で気分的なものだと思いますよ、と念をいれたのは、そうした背景をすでにご存知だったためだろう。そのため、このエコボックスについてくわしく知ろうとしても、なかなかいい情報に出くわさない。
改めて包装の効能をみると、HC軽減効果が5分ごとにとりつけ、取り外し試験を数回おこなって、認められたという。私は、鼻で関知した。あまり臭くなく、時にはいいにおい(ごくまれ)も出る。数値自体は書いていないが、効果あったよう。
また、年間ガソリン代10%向上、とまで書いてある。昨日は四捨五入でかろうじて10%。これは、省エネ運転を実施すれば、という前提つきであることはいうまでもない。ただ、体感として、通常に走って、3~4%は改善しているような気はしているが、果たして・・・・。一万円という販売価格もあったようだが、私は約半値の正札で購入したので値段についても不満はない。10という数値の標準偏差はどのくらいなのか!?。
また、快適ドライブとして、カーオーディオなどの音質向上、ヘッドライト照度アップと。にんじん君同様に、真っ先に目に入ったのは、オレンジ色のウィンカーランプがやたら夜間はまぶしいな、ということで、これは両者互角な感じ。それで、いきなり燃費効果がはっきり出た
エコボックスを選択する、というのは自然な流れ。にんじん君は排気の匂いが逆戻り、かつ臭い。高速は、静かで吹けもよくいいのだが、低回転では、明るさ以外は効果はないようだ。エンストもしやすい。エコボックスはエンストしないとはいわないが、意外とトルクがあり、ラフなクラッチ操作でも、一回もプッツンしなかった。
このバイク特有の問題として、1300~1600ぐらいで回転むらというか点火むらがあり、にんじん君のほうが、それが拡大して表れ、ガクガクしたが、エコボックスはそれを和らげるような感じの差があった。エンストはクラッチミスというよりは、エンジンの点火ミスの気配が濃厚なのだが。
もう一方は、返却するかどうか迷っている。
翌日、もう一度エコボックスの効果を確認するために、ほぼ同コース+アルファで走行してみる。エンジンオイルをチェックすると、規定よりかなり多い。300ccほど抜いたがまだ多い。今度は少なめに入れてもらうようにしようと思う。出がけに少し捨てたので、軽く回る気がする。もう1回、同量位抜けばかなり変わりそうな予感がする。
通勤40キロ、高速+地方道100キロで燃費を計測すると14.7キロほど。あまり良くない。今度は地方道のみで、
125キロ走行して、15.6〜15.8。昨日と同レベル。通勤は片道17キロ程だから、暖機も含め回数が多いと悪くなる。昨日の好燃費も、通勤は含まれていない値。それで、だいたいアクセルワークをこの位にすると、このレベルの燃費という目安がわかっってきた。
プラグは2万キロ以上無交換。オイルは昨年9月から1万キロを目安にしており、現在7000キロを越えた。マイクロロン処理もしてあるし、1万キロ程度なら、入っていさえいれば問題ないだろうと演繹。2日長距離走行したので、ライトはかなり明るくなった。
低速時のトルクはあるようで、クラッチ操作がラクチン。ミートは1000回転で初めて1200回転で完全に接続完了。問題なく加速する。エコボックスを付けた日、トップ1000回転でも走れることを確認。
今は、アクセルを開けていかなくとも、一定開度にしていると、勝手に回転が上がって行く。火花が強いと
これだけ違うのかと思わせられる。アクセルを煽らないので、燃費が向上したのだろう。逆に言うと、随分前から、アクセルを戻しても混合気は濃いのでは、と思っていたが、どうもそうらしい。キャブ調整も一度見てもらったほうがいいのかもしれない。後はアーシングなども検討して見ようと思っているが、果たして・・・!?。
日曜日, 3月 09, 2008
『私の場合には、青色(ダイオード)の研究開発を進めるにあたって、他人の論文や研究発表、参考文献は一切読まないと決めた。過去10年の経験から、これらが実は、私の研究を阻害する常識そのものだと考えたからだ。』(中村修二、Wild Dream-反逆・闘いーそして語ろう、2002年、ビジネス社)。
『えっ、と思うかもしれない。研究開発にしろ何にしろ、新しい仕事を始めようとするときには、他人のやり方や参考資料にまず眼を通すことからはじめなければならない、と誰もが・・・情報は多ければ多いほどいい、というのは常識だ。・・・』
『しかし、よく考えて見て欲しい、・・・・この場合には失敗の記録にすぎない。そんなものをいくら集めても、そのほうが無意味なのだ。そんなことに時間と労力とを費やすよりは、暗中模索しろ、と私は言っている。』
続いて、中村教授(カリフォルニア工科大サンタバーバラ校材料物性工学教授)は、
『他人のやり方は無視すべし』
で、実は自分はかってはそうだった、と告白されている。しかし、『ここには重大な落とし穴があることに気づいていた。新製品の開発は常に視界をさえぎられているジャングルの中を手探り進んで行くようなものなのだ。だから、他人のやりかたなどまったく当てにならないものだと考えたほうがいい。他人の実験結果をなぞるなどというのは、新製品開発においては自家撞着のことをやっているに過ぎない』と。
要するに私のやり方は下駄履きでエベレストに登るやり方だったのである、と述介されている。
それで、1000度近い基盤に、窒化ガリウムのガスを吹き付けて、薄い結晶を作る実験を、いろいろと条件を変えて連日おこなった、という。しかし、1000度C付近では、熱対流が起きて、ガスが蒸着してくれなかったそうだ。
結果をだせないまま、半年が、一年があっというまに過ぎた、という。そのうち会社も研究費を渋りだした。学会などで、有名大学の教授などから、「窒化ガリウムでは無理だよ」などと自信たっぷりに言われると、情報の少ない田舎研究員としては、やはり駄目かと気落ちすることも、おそらく一度や二度ではなかったろう。
研究の最前線にいれば、ものすごく孤独だといわれる。たいていの人は100人が99人、1000人が999人、この孤独な頑張りに耐えられず、途中で転向したり、あきらめたりして、人生をブラブラしてしまう、とは、幸田露伴の言葉らしいが、当たっていると思われる。シュリーマンや、ベッセル関数で知られる、ベッセルなども皆独学で、成果を掴んだ。帰納法も併用したと思われるが、演繹にいたる道筋の発見に精力を傾けたに違いない。
ベッセルが、ある天文台の助手に推薦されたとき、彼に学位がないことが問題になった、という。ベッセルの初期の研究論文を読んで学位論文に匹敵すると見たガウスは、無審査で彼に学位を与えた、という。じつにいい話だと思うのだが。
中村教授の著作に戻ると、
この後、
他人のやりかたは無視すべし、
どん底を極めるべし、
人の意見をヒントとすべし、
バイタリティをもつべし、
勘を大切にすべし、
根本=単純と理解すべし、
・・・・・・
と続く。人の意見をヒントとすべし、では、気晴らしにある応用物理学会へ行って、他人の講演を聞いていたら、東北大学の坪内先生の研究グループの発表で、ガスを上から押さえつけるようにして結晶を作っている、というところが、単に上から流すではなく、上から押さえつけるように流す、という表現に出会ってしまった、という。それで、今までの一方向からのみのガスの吹き付けを両方から行う、という着想に至ったそうだ。それで、すぐに改良実験をしたら、それまでの世界最高の数値100を倍上回る200という数字が出て、非常に完成度の高い結晶が出来た、という。
『そして、その時点から、青色発光ダイオードの開発まではあと一歩だった。』
『勘を大切にすべし』
では、『残念ながら、日本人は仕事や研究などで、勘や直感に頼るを嫌う傾向があるようだ。理詰めがすきな民族で民族なのかもしれない。・・・日本人は囲碁や将棋といった頭で考えてやるゲームがすきだ。理論好きなのだ。だから、スポーツの観戦もやたらうるさい。・・・
大リーグの野球のようではなく、手をかえ品をかえ、どう相手をごまかすかなどという理屈を述べ立てるのがすきなのである。・・・
私はこの勘を、実験においても重要視した。私には過去10年間で培ってきた溶接屋まがいの職人技があった。そして、職人には職人しかわからない”勘”があるのである。』と。
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全然違ったものの見方ができないと飛躍は望めないわけで、それが突破口になって新しい分野が生まれて、また進歩する。私は、10年以上まえから、以下の米長名人の言葉が大好きで、座右の銘にしてる。
『カンというのは、ひとつの仮説でしょう。あるいは、仮説というのは、カンを基にして生まれるものでしょう。だから、仮説を立てられないようでは、仕事にしろ、何にしろ、新しいことはできないと考えていい。』(米長邦雄「人間における勝負の研究」祥伝社)
演繹は、記号論理学といってもいい、緻密な論理大系を構成するので、勘とは無縁のようだが、この勘が出発点となって、以後の論理展開を決める。
それは阿弥陀くじのようで、どこを出発点とするかで、結果が決まる。阿弥陀くじなら、途中に分かれ道の棒を適当に付け加えたり、消したりして、望みの結果へと導くことが可能だ。くじの網の目を変えないならば、どこを出発点とするかで、結果が決まる。
演繹は、何も新しいものを生み出さないという批判があったが、あたらしい結果をもたらす出発点を見出すのは、非合理的に聞こえる勘やら、なにやら神がかり的あの世的な眼に見えぬものが恵まれた才能に吹き込んでくれる精霊の働きによるものであろう。それが正しければ、演繹によって、次の手立てが順次芋づる式に出てくることになる。
岡潔博士は、純粋直観と言っていたように思う。あるいは無差別智とも。数学とものつくりは同じではないが、根本でどこかに共通性がありはしないか!?
『えっ、と思うかもしれない。研究開発にしろ何にしろ、新しい仕事を始めようとするときには、他人のやり方や参考資料にまず眼を通すことからはじめなければならない、と誰もが・・・情報は多ければ多いほどいい、というのは常識だ。・・・』
『しかし、よく考えて見て欲しい、・・・・この場合には失敗の記録にすぎない。そんなものをいくら集めても、そのほうが無意味なのだ。そんなことに時間と労力とを費やすよりは、暗中模索しろ、と私は言っている。』
続いて、中村教授(カリフォルニア工科大サンタバーバラ校材料物性工学教授)は、
『他人のやり方は無視すべし』
で、実は自分はかってはそうだった、と告白されている。しかし、『ここには重大な落とし穴があることに気づいていた。新製品の開発は常に視界をさえぎられているジャングルの中を手探り進んで行くようなものなのだ。だから、他人のやりかたなどまったく当てにならないものだと考えたほうがいい。他人の実験結果をなぞるなどというのは、新製品開発においては自家撞着のことをやっているに過ぎない』と。
要するに私のやり方は下駄履きでエベレストに登るやり方だったのである、と述介されている。
それで、1000度近い基盤に、窒化ガリウムのガスを吹き付けて、薄い結晶を作る実験を、いろいろと条件を変えて連日おこなった、という。しかし、1000度C付近では、熱対流が起きて、ガスが蒸着してくれなかったそうだ。
結果をだせないまま、半年が、一年があっというまに過ぎた、という。そのうち会社も研究費を渋りだした。学会などで、有名大学の教授などから、「窒化ガリウムでは無理だよ」などと自信たっぷりに言われると、情報の少ない田舎研究員としては、やはり駄目かと気落ちすることも、おそらく一度や二度ではなかったろう。
研究の最前線にいれば、ものすごく孤独だといわれる。たいていの人は100人が99人、1000人が999人、この孤独な頑張りに耐えられず、途中で転向したり、あきらめたりして、人生をブラブラしてしまう、とは、幸田露伴の言葉らしいが、当たっていると思われる。シュリーマンや、ベッセル関数で知られる、ベッセルなども皆独学で、成果を掴んだ。帰納法も併用したと思われるが、演繹にいたる道筋の発見に精力を傾けたに違いない。
ベッセルが、ある天文台の助手に推薦されたとき、彼に学位がないことが問題になった、という。ベッセルの初期の研究論文を読んで学位論文に匹敵すると見たガウスは、無審査で彼に学位を与えた、という。じつにいい話だと思うのだが。
中村教授の著作に戻ると、
この後、
他人のやりかたは無視すべし、
どん底を極めるべし、
人の意見をヒントとすべし、
バイタリティをもつべし、
勘を大切にすべし、
根本=単純と理解すべし、
・・・・・・
と続く。人の意見をヒントとすべし、では、気晴らしにある応用物理学会へ行って、他人の講演を聞いていたら、東北大学の坪内先生の研究グループの発表で、ガスを上から押さえつけるようにして結晶を作っている、というところが、単に上から流すではなく、上から押さえつけるように流す、という表現に出会ってしまった、という。それで、今までの一方向からのみのガスの吹き付けを両方から行う、という着想に至ったそうだ。それで、すぐに改良実験をしたら、それまでの世界最高の数値100を倍上回る200という数字が出て、非常に完成度の高い結晶が出来た、という。
『そして、その時点から、青色発光ダイオードの開発まではあと一歩だった。』
『勘を大切にすべし』
では、『残念ながら、日本人は仕事や研究などで、勘や直感に頼るを嫌う傾向があるようだ。理詰めがすきな民族で民族なのかもしれない。・・・日本人は囲碁や将棋といった頭で考えてやるゲームがすきだ。理論好きなのだ。だから、スポーツの観戦もやたらうるさい。・・・
大リーグの野球のようではなく、手をかえ品をかえ、どう相手をごまかすかなどという理屈を述べ立てるのがすきなのである。・・・
私はこの勘を、実験においても重要視した。私には過去10年間で培ってきた溶接屋まがいの職人技があった。そして、職人には職人しかわからない”勘”があるのである。』と。
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全然違ったものの見方ができないと飛躍は望めないわけで、それが突破口になって新しい分野が生まれて、また進歩する。私は、10年以上まえから、以下の米長名人の言葉が大好きで、座右の銘にしてる。
『カンというのは、ひとつの仮説でしょう。あるいは、仮説というのは、カンを基にして生まれるものでしょう。だから、仮説を立てられないようでは、仕事にしろ、何にしろ、新しいことはできないと考えていい。』(米長邦雄「人間における勝負の研究」祥伝社)
演繹は、記号論理学といってもいい、緻密な論理大系を構成するので、勘とは無縁のようだが、この勘が出発点となって、以後の論理展開を決める。
それは阿弥陀くじのようで、どこを出発点とするかで、結果が決まる。阿弥陀くじなら、途中に分かれ道の棒を適当に付け加えたり、消したりして、望みの結果へと導くことが可能だ。くじの網の目を変えないならば、どこを出発点とするかで、結果が決まる。
演繹は、何も新しいものを生み出さないという批判があったが、あたらしい結果をもたらす出発点を見出すのは、非合理的に聞こえる勘やら、なにやら神がかり的あの世的な眼に見えぬものが恵まれた才能に吹き込んでくれる精霊の働きによるものであろう。それが正しければ、演繹によって、次の手立てが順次芋づる式に出てくることになる。
岡潔博士は、純粋直観と言っていたように思う。あるいは無差別智とも。数学とものつくりは同じではないが、根本でどこかに共通性がありはしないか!?
金曜日, 3月 07, 2008
先日久しぶりに大型書店に立ち寄ったら、図鑑の中に、爬虫類のバシリスクのみの写真集があった。なかなかきれいな出来で、水面を蹴るようにして水澄ましのように移動する連続写真などが載っていた。買おうかどうか迷った末に、リナックス関連書籍を買ってしまったのだが、エミュレーターBasiliskIIにかなりお世話になっている関係で、想像上の動物名とされていたので、実在するとなると、また新たな興味が湧く。
Mac付属のOxford American Dictionaryで引くと、挿し絵付きで解説されている。little kingが語源だとされている。それなら、まさに私にとっては、Leopard上での旧OSを管理するlittle Kingといえなくもない、と思う。
ネットでしらべると、ブラウザによっても違うのだが、爬虫類、バシリスクの用語で引くといろいろ紹介されている。
http://contents.kids.yahoo/co.jp/zukan/reptiles/card/0159.html
にはカラー写真とともに、生物的特徴などが出ている。なかなか可愛くも有り、りりしい顔立ちにも見えて
好感がもてる。写真はコピーライトがあるらしく、撮影者をみてみてまた驚いた。(C) Showichi SENGOKU
とある。これが、あのテレビによく出る千石氏なら、かれは私の出た高校の生物クラブの仲間の一人ということになる。いつも押し入れで蛇を飼育している変わり者、と出身中が同じ友人から紹介された。Shouichiかと思ったら、Showichi。英語のshowに引っかけたローマ字表記かとも思う。
「ある大学人のぼやき」にもバシリスクのことが引用されている。NHKテレビでも放映されたという。そういえば、書店で見た図鑑にも、そのことが帯にも書かれていたなあ、と思い出す。しかし、小さなキングの意味でいいんじゃないか、とその姿を見、エミュレーターの使用感から考えて、思う。
日本語のBasiliskIIの紹介欄でも、同様な伝説上の動物説が書かれている。それで、私はなんでまたそんな動物名なんだろう?と不思議に思っていた。小さいくせに信じられない能力を示し、それでいてカワイイ存在と言う実在のイメージのほうが、エミュレーターとしてのBasiliskiiをうまく言い当てている、と言うのは言い過ぎか?
『Basilisk IIは、Christian Bauer氏によるオープンソースの68k Macintoshエミュレータです。
BeOS、Unix、AmigaOS上で動作します。』
で、当初は、Win上でも、Mac上でも動作しなかったわけだ。
BeOSは、一時Macの次期OSのひな形になるのでは、と一部では噂された時期があり、その頃マイクロソフトは、WindowsNT をひな形にすれば、と考えていたことは、以前触れた。アップル社は悩みぬいた。BeOSのライセンス料が、かなり高くそこがネックだったとも。NTは失礼ながらアメリオ元CEOも触れていないが、魅力的な選択肢にはならなかったのだろう。そこへ、スカリーCEOに追放された現CEOのジョブス氏が、ジーンズにズックで乗り込みNextStepを母体にして新MacOSへと生まれ変えさせる方向へ決着した。この頃は本当にどうなるか心配な時期だった。『アップル薄氷の2000日』とかいう本も出た。
ウィンドウズNT以降のOSが、アプリの一個がハングしてもシステム全体に及ばない、という特徴を持つOSとして先行したので、アップルもそうしたOSの基本設計を新規に構築する必要に迫られていて、現行のOSにそれを求める努力は、結局中止となった。 Rhapsodyというコードネームは何やら新しい、素晴らしいMacが生まれる予感を与える印象を持ったものだが、
http://www.nowden.co.jp/info/tips/infobox024.html
には、
『Appleは社内での次世代OS開発をあきらめ買収した他社製のマイクロカーネル及び周辺技術を利用してスパゲッティになってしまったMacOSを再生させようと言うわけ。Microsoft社の初期MS-DOSと同じようなもの。
Yellow Boxの載るコアOSは、「Power PC」は、もちろんIntel製チップにも対応する。「Windows95/NT」版も登場予定。 「Wintel」陣営も取り込むApple再生のカギを握る戦略技術といわれている。』
などとあり、『上記はギルバート・アメリオ前アップルCEOの描いたシナリオです。その後アメリオ氏の退任/マイクロソフトとの提携やスティーブ・ジョブス氏の発言力拡大によって「またもや」方向転換となった。
その内容は・・・
今後の戦略を開発中の次世代OS「Rhapsody」(開発コード)から現行のMac OS中心に移し、結果としてアップルは「Rhapsody を中心に新しいMac環境を作り独力で再建する」シナリオから一転、「Mac OSに回帰しマイクロソフトの支援を受けて再建を目指す」という予想もしなかった方向に向かうことになった。』
とある。とにかく、マイクロソフトとちがって、CPUも二度変わり、3度目にインテル製となったり、試行錯誤と言っていいかどうか、可能な選択肢をいろいろ試し、その中でMacらしさを追求したのだろうが、システムとしては、独自でありながら、あらゆるOSとの親和性を持つようになり、昔を知る者にとっては、それほど
驚きではないものの、一部の人たちにとっては抵抗があるのかも知れない。
インテルMacとなっても68Kのアプリが動いてくれるBasiliskIIには、本当に感謝している。ソフトの断絶が救われたし、さらに高速になって、旧々Macが鮮やかに蘇ったのだから。その点だけは予想を越えていた、というしかない。
日曜日, 3月 02, 2008
間違えてはいけないのは、「数学的帰納法」と呼ばれる証明法は名前に反して演繹法の一種である。何しろPeanoの公理という、自然数の性質を定めた公理の中に書いてあるのだから。・・・・
そしてもう一つ勘違いしないでいただきたいのは、数学の本に書いてあるのが演繹的方法だからといって、数学そのものが演繹によって構築されているのではないということである。有名な高木貞治の言葉を引用してこのpageを終わる。
『Gaussが進んだ道は則ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於いて必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於いても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし、論理は当たり前なのであるから、演繹のみからは新しいものは何も出てこないのが当たり前であろう。もしも、学問が演繹のみに頼るならば、その学問は、その学問は小さな環の上を周期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論にとらわれないで、帰納の一途に邁進すべきではあるまいか。』
http://www.nn.iij4u.or.jp/~hsat/misc/math/deducinduc.html
近世数学史談、P57、 共立出版 とあるが、私のは、岩波文庫でP68~69に同じ文章が載っている。『書かれなかった楕円関数論』の終章に、付属的に書かれていて、読んでビックリした。帰納、演繹のタームに関する高木氏の理解の姿勢が、私の理解と180度ちがったからである。
ヒルベルト(1887)幾何学理論
で、公理主義についての解説をメモとして私が余白に書いたところでは、
『もっとも普遍的な基礎概念とそれらの相互関係を具体的なものの中から帰納し、それに演繹的推論を駆使して理論体系をつくりあげ、さらにその成果を具体的問題の処理に適用するといった帰納と演繹のみごとな相互関係を実現させた』と10年ほど前に書いたものを再現。
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/deductionANDinduction.htm
では、
『帰納法:帰納法は知識の検証方法の一つ方法だ。
多くの事例を集めて、比較、取捨して、共通本質を求める方法。
フランシスベーコン(1561~1626)が提唱したもの。
歴史的には、宗教的形而上学な独断や検証不可能な概念を打倒し、近代科学の礎と築くことに、非常に貢献した。これは疑う余地もない。
ニュートンの「我は仮説を作らず」とは、「私は帰納法を採用しています。」っといっているのである。
この時代はたしかにこれでよかった。しかし、帰納法には摘要範囲がある。
要素が有限で、その全部の事例を集められれば、まあなんとか使える。
例えばxx島の島民の身長は3mを超えない。
でもこの程度だ。
今の科学では、研究対象は、無限であったり、1個2個と数えられないものであったりする。
ドイッチュ>P59 要挿入「ひよこの話」
帰納法ではいかなる結論も正当化しないことを帰納的に説明している。
帰納法の変形としての、現象論や実証論も同様に過ちをもつ。』
などとある。これが私の帰納法への解釈に近いようである。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=演繹 帰納 小平&btnG=検索&lr=
では、
『小平 邦彦 (編) 『数学の学び方』 (岩波講座 基礎数学)
数学の帰納的な発展 ( 河田 敬義 ) 数学に王道なし ( 小平 邦彦 ) 暗記のすすめ ( 小松 彦三郎 ) ... 数学の学習は演繹的方法によるが、 数学の発見は帰納的方法によるというのは、 一種の二律背反である。 学校の授業にも講義と演習とがある。 ...
www.math.kyushu-u.ac.jp/~taguchi/ nihongo/gakusei/manabikata.html - 7k -』
などとある。・・・。
http://blog.livedoor.jp/calc/archives/cat_687942.htmlでは、岡潔の数学を理解しようと努力されている方のブログが・・・
『岡潔が解いた3大問題といわれている
・Cousin(クザン)の問題
・近似問題
・Levi(レヴィ)の問題
を理解しようと格闘中。
といってもいきなり正確に理解できるわけでもないのですが。あと1年ぐらいすると理解できそうです。
歴史の項目を読むと、時代が、まさに岡潔のために動いたかのように見えてきます。
(新発見とかいうものには、そう感じさせるような何かがある場合が多いようで、桜井邦朋博士は、丁度良いとき、丁度良い場所に、丁度良くその幸運を担うにたる人がいる、というようなことを書かれていた。)
Behnke-Thullen(ベンケ・ツーレン)が1934年にあの本を出版しなかったら、岡潔の偉大なる寄与は少し遅れて発表されたか、もしくはなかったと思う(多分)。』
(それまでの難問の総説らしく、岡潔はこの本がボロボロになるまで手許に置いていた、といわれている。まちがえて、ドイツではなく、フランスに留学してしまい、学位なくして帰国。ために評価は低く、講義にまじめに取り組まないとして、退職勧告まで。浪人生活で研究を続け、戦時中は芋の蔓までたべたという。・・・筆者の理解の一部ですが。)
『岡潔が不定域イデアルの概念を生み出さなかったら、層の概念は生み出されたのだろうか。これについては、Grothendieckが生み出したかもという気はする。
層という概念が生まれたからこそ、Stein多様体が生み出されたのだろう(多分)。
そこで、フォーカスは 層 に移動。そこで、
層 の項目の写経をやります(多変数解析関数 の項目の写経の途中ですが)。
今回は、層 から逃げずに取り組もうと思っています。1年後ぐらいに、
・代数幾何学
・複素多様体論
・代数解析学
を極めるためには、避けて通れない道なので。というわけで、進むべき道が遠くまで見えた日曜の朝なのでした。
本棚を何気なく見ていたら、
層のコホモロジー
を見つけました。やはり、層 と真剣に取り組む時期に来たのです(と覚悟を決めてみる)。』
こいいうことが勉強のきっかけになることも大いにありそうな気がしますね。
http://www.abysshr.com/mdklg010.html
には、
『1.4.演繹法と帰納法の欠点
それぞれの方法にはそれぞれの欠点があります。
演繹法の欠点は、正しくない、あるいは使用するのが適切ではない前提を用いてしまうことがあることです。
先入観や偏見に基づいた間違った前提を適用してしまう場合や、ある限定された範囲でのみ正しい前提を全体に適用してしまうような場合などがそれにあたります。
帰納法の欠点は、全事例を網羅するか、それと同等の論理証明をしない限り、帰納した結論(帰結)は必ずしも確実な真理ではなく、ある程度の確率を持ったものに過ぎないことです。(故に帰納法は帰納的推理ともいいます)
事例の集合が不完全である限り、いくら事例をあげても、それは正しい確率が高いものにしかなりません。
全知全能ではない人間の認識の限界が帰納法の欠点となります。
このような欠点をしっかり認識しておかないと間違った証明をしてしまう可能性が高くなります。』
と言っている。
またある人は、こうも述べている。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/6352/sub6/induction.html
『既(ママ)納的証明の場合、その証明が文字通り100%絶対的に真であることを保証しない。但しこのことは演繹的証明が公理系に既に含まれている以上の情報を引き出すことができないことを反対面から表現した、同値な内容であることに留意されたい。
このように帰納的証明は100%真であることを放棄する代わりに、当初の公理系にはなかった情報を導出できるという意味で遙かに創造的である。かような証明法を従来の純粋数学に持ち込めば、その内容と含蓄は遙かに豊かになるであろう。そしてその新論理を築く土台が弦集合論である。・・・』
宇宙物理学者の桜井邦朋博士は、
『科学の成立過程は、常に主観的』
科学の研究は、いかにどれだけ演繹できるか、できまる。
日本人のよくいう、何かいろいろたくさんのデ−タを並べ、それを見ていたら何かができるということは、こと物理学に関しては、真っ赤なウソなのである。
結局、何をみていようが、見る側に強烈な偏見がなければ、何も出てこない。要するに、偏見によってでてきた結果を、いかに客観化するかという努力をするわけである。それまでは、演繹による思考をものすごくするが、その末に、一つの仮説を自説の出発点とする。そして、この仮説自身、ものすごく偏見に富んだ存在なのである。
と発言されている。
またこうも述べておられる。
事実をみる目
私たちの思考は感覚的に流れやすく、科学の研究にとって大事な役割を果たす論理的な思考に弱いところがあります。そのため、研究の対象をとことんまでつきつめて、いくつかの事実を明かにし、それら事実間の因果的な関係を疑問の余地がないまでに完全にあばきだすことを、疎かにしがちです。
科学の研究に偏見や思いこみがあっては、正しい科学的な研究はできないと、わが国では考えられているようにみえます。...作業仮説から出発した論理的演繹から、私たちは事実をみつけられるのだし、新しい解釈や理論を発見できていくのです。いろいろな現象や物事を観察しただけでは、そうしたデータをいくら集めてみても、何も生まれてはきません。こちら側に、こうではないかとか、こうなるはずだといった仮説や偏見がなければならないのです。観察しただけでは、論文となる事実は決してみえてはこないのです。
数学分野と他の諸科学とでは、違う部分も多いかもしれないが、共通の部分も、他の諸科学が、数学を使う以上あるにちがいない。帰納を強調された方も、そうした帰納材料として、当初演繹的に調べられた数々の知的断片から、帰納されたということを強調せんがため、と解釈しているのだが。
浪人中の岡潔氏が、ベンケ・ツーレンの纏めたその方面の総説をぼろぼろになるまで手許から離さなかったとしても、結果からみれば、事前の諸知識から帰納されえたと言えたとしても、果たして、帰納法だけで研究できた・の・か・な!?
そしてもう一つ勘違いしないでいただきたいのは、数学の本に書いてあるのが演繹的方法だからといって、数学そのものが演繹によって構築されているのではないということである。有名な高木貞治の言葉を引用してこのpageを終わる。
『Gaussが進んだ道は則ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於いて必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於いても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし、論理は当たり前なのであるから、演繹のみからは新しいものは何も出てこないのが当たり前であろう。もしも、学問が演繹のみに頼るならば、その学問は、その学問は小さな環の上を周期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論にとらわれないで、帰納の一途に邁進すべきではあるまいか。』
http://www.nn.iij4u.or.jp/~hsat/misc/math/deducinduc.html
近世数学史談、P57、 共立出版 とあるが、私のは、岩波文庫でP68~69に同じ文章が載っている。『書かれなかった楕円関数論』の終章に、付属的に書かれていて、読んでビックリした。帰納、演繹のタームに関する高木氏の理解の姿勢が、私の理解と180度ちがったからである。
ヒルベルト(1887)幾何学理論
で、公理主義についての解説をメモとして私が余白に書いたところでは、
『もっとも普遍的な基礎概念とそれらの相互関係を具体的なものの中から帰納し、それに演繹的推論を駆使して理論体系をつくりあげ、さらにその成果を具体的問題の処理に適用するといった帰納と演繹のみごとな相互関係を実現させた』と10年ほど前に書いたものを再現。
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/deductionANDinduction.htm
では、
『帰納法:帰納法は知識の検証方法の一つ方法だ。
多くの事例を集めて、比較、取捨して、共通本質を求める方法。
フランシスベーコン(1561~1626)が提唱したもの。
歴史的には、宗教的形而上学な独断や検証不可能な概念を打倒し、近代科学の礎と築くことに、非常に貢献した。これは疑う余地もない。
ニュートンの「我は仮説を作らず」とは、「私は帰納法を採用しています。」っといっているのである。
この時代はたしかにこれでよかった。しかし、帰納法には摘要範囲がある。
要素が有限で、その全部の事例を集められれば、まあなんとか使える。
例えばxx島の島民の身長は3mを超えない。
でもこの程度だ。
今の科学では、研究対象は、無限であったり、1個2個と数えられないものであったりする。
ドイッチュ>P59 要挿入「ひよこの話」
帰納法ではいかなる結論も正当化しないことを帰納的に説明している。
帰納法の変形としての、現象論や実証論も同様に過ちをもつ。』
などとある。これが私の帰納法への解釈に近いようである。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=演繹 帰納 小平&btnG=検索&lr=
では、
『小平 邦彦 (編) 『数学の学び方』 (岩波講座 基礎数学)
数学の帰納的な発展 ( 河田 敬義 ) 数学に王道なし ( 小平 邦彦 ) 暗記のすすめ ( 小松 彦三郎 ) ... 数学の学習は演繹的方法によるが、 数学の発見は帰納的方法によるというのは、 一種の二律背反である。 学校の授業にも講義と演習とがある。 ...
www.math.kyushu-u.ac.jp/~taguchi/ nihongo/gakusei/manabikata.html - 7k -』
などとある。・・・。
http://blog.livedoor.jp/calc/archives/cat_687942.htmlでは、岡潔の数学を理解しようと努力されている方のブログが・・・
『岡潔が解いた3大問題といわれている
・Cousin(クザン)の問題
・近似問題
・Levi(レヴィ)の問題
を理解しようと格闘中。
といってもいきなり正確に理解できるわけでもないのですが。あと1年ぐらいすると理解できそうです。
歴史の項目を読むと、時代が、まさに岡潔のために動いたかのように見えてきます。
(新発見とかいうものには、そう感じさせるような何かがある場合が多いようで、桜井邦朋博士は、丁度良いとき、丁度良い場所に、丁度良くその幸運を担うにたる人がいる、というようなことを書かれていた。)
Behnke-Thullen(ベンケ・ツーレン)が1934年にあの本を出版しなかったら、岡潔の偉大なる寄与は少し遅れて発表されたか、もしくはなかったと思う(多分)。』
(それまでの難問の総説らしく、岡潔はこの本がボロボロになるまで手許に置いていた、といわれている。まちがえて、ドイツではなく、フランスに留学してしまい、学位なくして帰国。ために評価は低く、講義にまじめに取り組まないとして、退職勧告まで。浪人生活で研究を続け、戦時中は芋の蔓までたべたという。・・・筆者の理解の一部ですが。)
『岡潔が不定域イデアルの概念を生み出さなかったら、層の概念は生み出されたのだろうか。これについては、Grothendieckが生み出したかもという気はする。
層という概念が生まれたからこそ、Stein多様体が生み出されたのだろう(多分)。
そこで、フォーカスは 層 に移動。そこで、
層 の項目の写経をやります(多変数解析関数 の項目の写経の途中ですが)。
今回は、層 から逃げずに取り組もうと思っています。1年後ぐらいに、
・代数幾何学
・複素多様体論
・代数解析学
を極めるためには、避けて通れない道なので。というわけで、進むべき道が遠くまで見えた日曜の朝なのでした。
本棚を何気なく見ていたら、
層のコホモロジー
を見つけました。やはり、層 と真剣に取り組む時期に来たのです(と覚悟を決めてみる)。』
こいいうことが勉強のきっかけになることも大いにありそうな気がしますね。
http://www.abysshr.com/mdklg010.html
には、
『1.4.演繹法と帰納法の欠点
それぞれの方法にはそれぞれの欠点があります。
演繹法の欠点は、正しくない、あるいは使用するのが適切ではない前提を用いてしまうことがあることです。
先入観や偏見に基づいた間違った前提を適用してしまう場合や、ある限定された範囲でのみ正しい前提を全体に適用してしまうような場合などがそれにあたります。
帰納法の欠点は、全事例を網羅するか、それと同等の論理証明をしない限り、帰納した結論(帰結)は必ずしも確実な真理ではなく、ある程度の確率を持ったものに過ぎないことです。(故に帰納法は帰納的推理ともいいます)
事例の集合が不完全である限り、いくら事例をあげても、それは正しい確率が高いものにしかなりません。
全知全能ではない人間の認識の限界が帰納法の欠点となります。
このような欠点をしっかり認識しておかないと間違った証明をしてしまう可能性が高くなります。』
と言っている。
またある人は、こうも述べている。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/6352/sub6/induction.html
『既(ママ)納的証明の場合、その証明が文字通り100%絶対的に真であることを保証しない。但しこのことは演繹的証明が公理系に既に含まれている以上の情報を引き出すことができないことを反対面から表現した、同値な内容であることに留意されたい。
このように帰納的証明は100%真であることを放棄する代わりに、当初の公理系にはなかった情報を導出できるという意味で遙かに創造的である。かような証明法を従来の純粋数学に持ち込めば、その内容と含蓄は遙かに豊かになるであろう。そしてその新論理を築く土台が弦集合論である。・・・』
宇宙物理学者の桜井邦朋博士は、
『科学の成立過程は、常に主観的』
科学の研究は、いかにどれだけ演繹できるか、できまる。
日本人のよくいう、何かいろいろたくさんのデ−タを並べ、それを見ていたら何かができるということは、こと物理学に関しては、真っ赤なウソなのである。
結局、何をみていようが、見る側に強烈な偏見がなければ、何も出てこない。要するに、偏見によってでてきた結果を、いかに客観化するかという努力をするわけである。それまでは、演繹による思考をものすごくするが、その末に、一つの仮説を自説の出発点とする。そして、この仮説自身、ものすごく偏見に富んだ存在なのである。
と発言されている。
またこうも述べておられる。
事実をみる目
私たちの思考は感覚的に流れやすく、科学の研究にとって大事な役割を果たす論理的な思考に弱いところがあります。そのため、研究の対象をとことんまでつきつめて、いくつかの事実を明かにし、それら事実間の因果的な関係を疑問の余地がないまでに完全にあばきだすことを、疎かにしがちです。
科学の研究に偏見や思いこみがあっては、正しい科学的な研究はできないと、わが国では考えられているようにみえます。...作業仮説から出発した論理的演繹から、私たちは事実をみつけられるのだし、新しい解釈や理論を発見できていくのです。いろいろな現象や物事を観察しただけでは、そうしたデータをいくら集めてみても、何も生まれてはきません。こちら側に、こうではないかとか、こうなるはずだといった仮説や偏見がなければならないのです。観察しただけでは、論文となる事実は決してみえてはこないのです。
数学分野と他の諸科学とでは、違う部分も多いかもしれないが、共通の部分も、他の諸科学が、数学を使う以上あるにちがいない。帰納を強調された方も、そうした帰納材料として、当初演繹的に調べられた数々の知的断片から、帰納されたということを強調せんがため、と解釈しているのだが。
浪人中の岡潔氏が、ベンケ・ツーレンの纏めたその方面の総説をぼろぼろになるまで手許から離さなかったとしても、結果からみれば、事前の諸知識から帰納されえたと言えたとしても、果たして、帰納法だけで研究できた・の・か・な!?
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