間違えてはいけないのは、「数学的帰納法」と呼ばれる証明法は名前に反して演繹法の一種である。何しろPeanoの公理という、自然数の性質を定めた公理の中に書いてあるのだから。・・・・
そしてもう一つ勘違いしないでいただきたいのは、数学の本に書いてあるのが演繹的方法だからといって、数学そのものが演繹によって構築されているのではないということである。有名な高木貞治の言葉を引用してこのpageを終わる。
『Gaussが進んだ道は則ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於いて必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於いても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし、論理は当たり前なのであるから、演繹のみからは新しいものは何も出てこないのが当たり前であろう。もしも、学問が演繹のみに頼るならば、その学問は、その学問は小さな環の上を周期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論にとらわれないで、帰納の一途に邁進すべきではあるまいか。』
http://www.nn.iij4u.or.jp/~hsat/misc/math/deducinduc.html
近世数学史談、P57、 共立出版 とあるが、私のは、岩波文庫でP68~69に同じ文章が載っている。『書かれなかった楕円関数論』の終章に、付属的に書かれていて、読んでビックリした。帰納、演繹のタームに関する高木氏の理解の姿勢が、私の理解と180度ちがったからである。
ヒルベルト(1887)幾何学理論
で、公理主義についての解説をメモとして私が余白に書いたところでは、
『もっとも普遍的な基礎概念とそれらの相互関係を具体的なものの中から帰納し、それに演繹的推論を駆使して理論体系をつくりあげ、さらにその成果を具体的問題の処理に適用するといった帰納と演繹のみごとな相互関係を実現させた』と10年ほど前に書いたものを再現。
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/deductionANDinduction.htm
では、
『帰納法:帰納法は知識の検証方法の一つ方法だ。
多くの事例を集めて、比較、取捨して、共通本質を求める方法。
フランシスベーコン(1561~1626)が提唱したもの。
歴史的には、宗教的形而上学な独断や検証不可能な概念を打倒し、近代科学の礎と築くことに、非常に貢献した。これは疑う余地もない。
ニュートンの「我は仮説を作らず」とは、「私は帰納法を採用しています。」っといっているのである。
この時代はたしかにこれでよかった。しかし、帰納法には摘要範囲がある。
要素が有限で、その全部の事例を集められれば、まあなんとか使える。
例えばxx島の島民の身長は3mを超えない。
でもこの程度だ。
今の科学では、研究対象は、無限であったり、1個2個と数えられないものであったりする。
ドイッチュ>P59 要挿入「ひよこの話」
帰納法ではいかなる結論も正当化しないことを帰納的に説明している。
帰納法の変形としての、現象論や実証論も同様に過ちをもつ。』
などとある。これが私の帰納法への解釈に近いようである。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=演繹 帰納 小平&btnG=検索&lr=
では、
『小平 邦彦 (編) 『数学の学び方』 (岩波講座 基礎数学)
数学の帰納的な発展 ( 河田 敬義 ) 数学に王道なし ( 小平 邦彦 ) 暗記のすすめ ( 小松 彦三郎 ) ... 数学の学習は演繹的方法によるが、 数学の発見は帰納的方法によるというのは、 一種の二律背反である。 学校の授業にも講義と演習とがある。 ...
www.math.kyushu-u.ac.jp/~taguchi/ nihongo/gakusei/manabikata.html - 7k -』
などとある。・・・。
http://blog.livedoor.jp/calc/archives/cat_687942.htmlでは、岡潔の数学を理解しようと努力されている方のブログが・・・
『岡潔が解いた3大問題といわれている
・Cousin(クザン)の問題
・近似問題
・Levi(レヴィ)の問題
を理解しようと格闘中。
といってもいきなり正確に理解できるわけでもないのですが。あと1年ぐらいすると理解できそうです。
歴史の項目を読むと、時代が、まさに岡潔のために動いたかのように見えてきます。
(新発見とかいうものには、そう感じさせるような何かがある場合が多いようで、桜井邦朋博士は、丁度良いとき、丁度良い場所に、丁度良くその幸運を担うにたる人がいる、というようなことを書かれていた。)
Behnke-Thullen(ベンケ・ツーレン)が1934年にあの本を出版しなかったら、岡潔の偉大なる寄与は少し遅れて発表されたか、もしくはなかったと思う(多分)。』
(それまでの難問の総説らしく、岡潔はこの本がボロボロになるまで手許に置いていた、といわれている。まちがえて、ドイツではなく、フランスに留学してしまい、学位なくして帰国。ために評価は低く、講義にまじめに取り組まないとして、退職勧告まで。浪人生活で研究を続け、戦時中は芋の蔓までたべたという。・・・筆者の理解の一部ですが。)
『岡潔が不定域イデアルの概念を生み出さなかったら、層の概念は生み出されたのだろうか。これについては、Grothendieckが生み出したかもという気はする。
層という概念が生まれたからこそ、Stein多様体が生み出されたのだろう(多分)。
そこで、フォーカスは 層 に移動。そこで、
層 の項目の写経をやります(多変数解析関数 の項目の写経の途中ですが)。
今回は、層 から逃げずに取り組もうと思っています。1年後ぐらいに、
・代数幾何学
・複素多様体論
・代数解析学
を極めるためには、避けて通れない道なので。というわけで、進むべき道が遠くまで見えた日曜の朝なのでした。
本棚を何気なく見ていたら、
層のコホモロジー
を見つけました。やはり、層 と真剣に取り組む時期に来たのです(と覚悟を決めてみる)。』
こいいうことが勉強のきっかけになることも大いにありそうな気がしますね。
http://www.abysshr.com/mdklg010.html
には、
『1.4.演繹法と帰納法の欠点
それぞれの方法にはそれぞれの欠点があります。
演繹法の欠点は、正しくない、あるいは使用するのが適切ではない前提を用いてしまうことがあることです。
先入観や偏見に基づいた間違った前提を適用してしまう場合や、ある限定された範囲でのみ正しい前提を全体に適用してしまうような場合などがそれにあたります。
帰納法の欠点は、全事例を網羅するか、それと同等の論理証明をしない限り、帰納した結論(帰結)は必ずしも確実な真理ではなく、ある程度の確率を持ったものに過ぎないことです。(故に帰納法は帰納的推理ともいいます)
事例の集合が不完全である限り、いくら事例をあげても、それは正しい確率が高いものにしかなりません。
全知全能ではない人間の認識の限界が帰納法の欠点となります。
このような欠点をしっかり認識しておかないと間違った証明をしてしまう可能性が高くなります。』
と言っている。
またある人は、こうも述べている。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/6352/sub6/induction.html
『既(ママ)納的証明の場合、その証明が文字通り100%絶対的に真であることを保証しない。但しこのことは演繹的証明が公理系に既に含まれている以上の情報を引き出すことができないことを反対面から表現した、同値な内容であることに留意されたい。
このように帰納的証明は100%真であることを放棄する代わりに、当初の公理系にはなかった情報を導出できるという意味で遙かに創造的である。かような証明法を従来の純粋数学に持ち込めば、その内容と含蓄は遙かに豊かになるであろう。そしてその新論理を築く土台が弦集合論である。・・・』
宇宙物理学者の桜井邦朋博士は、
『科学の成立過程は、常に主観的』
科学の研究は、いかにどれだけ演繹できるか、できまる。
日本人のよくいう、何かいろいろたくさんのデ−タを並べ、それを見ていたら何かができるということは、こと物理学に関しては、真っ赤なウソなのである。
結局、何をみていようが、見る側に強烈な偏見がなければ、何も出てこない。要するに、偏見によってでてきた結果を、いかに客観化するかという努力をするわけである。それまでは、演繹による思考をものすごくするが、その末に、一つの仮説を自説の出発点とする。そして、この仮説自身、ものすごく偏見に富んだ存在なのである。
と発言されている。
またこうも述べておられる。
事実をみる目
私たちの思考は感覚的に流れやすく、科学の研究にとって大事な役割を果たす論理的な思考に弱いところがあります。そのため、研究の対象をとことんまでつきつめて、いくつかの事実を明かにし、それら事実間の因果的な関係を疑問の余地がないまでに完全にあばきだすことを、疎かにしがちです。
科学の研究に偏見や思いこみがあっては、正しい科学的な研究はできないと、わが国では考えられているようにみえます。...作業仮説から出発した論理的演繹から、私たちは事実をみつけられるのだし、新しい解釈や理論を発見できていくのです。いろいろな現象や物事を観察しただけでは、そうしたデータをいくら集めてみても、何も生まれてはきません。こちら側に、こうではないかとか、こうなるはずだといった仮説や偏見がなければならないのです。観察しただけでは、論文となる事実は決してみえてはこないのです。
数学分野と他の諸科学とでは、違う部分も多いかもしれないが、共通の部分も、他の諸科学が、数学を使う以上あるにちがいない。帰納を強調された方も、そうした帰納材料として、当初演繹的に調べられた数々の知的断片から、帰納されたということを強調せんがため、と解釈しているのだが。
浪人中の岡潔氏が、ベンケ・ツーレンの纏めたその方面の総説をぼろぼろになるまで手許から離さなかったとしても、結果からみれば、事前の諸知識から帰納されえたと言えたとしても、果たして、帰納法だけで研究できた・の・か・な!?
日曜日, 3月 02, 2008
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2 件のコメント:
こんばんは~♪
今回の「帰納と演繹」のコメント、興味深く拝読いたしました。
読み進むにつれ、とても嬉しくなってしまいました。
というのは、私も帰納と演繹を誤解していたようにも思うのですが、私は自分のやり方はいつも発生した事象から問題を解決していく「帰納法的」なやり方であって、それは難しい論理はよく分らないけれども、経験の中から見つけ出していった「ノウハウ」のようなものだと自負しているわけです。
別の言い方をすると、教科書的な一般的な論理を駆使して問題を解決しようとする「演繹法的」なやり方が非常にスマートに見えて、少し嫉妬というかそういう思いを抱いていたのが正直なところです。
「演繹のみからは新しいものは何も出てこない」「我々は空虚なる一般論にとらわれないで、帰納の一途に邁進すべきではあるまいか」~これにはビックリでした。
学者というものは、演繹こそ命と思っているような人ばかりと誤解していました!
私が未だに帰納と演繹の正しい意味を理解しているかどうか怪しいと自身で思いつつ、これからも帰納的にやっていこう!と確信させられ勇気をいただいたブログでした(^^)
おはようございます。
まだ途中で、1時中断中のところでコメント(感謝)をいただいたようで、おそれいります。
人によって、立場(分野)によって、帰納法、演繹法に対する姿勢が違うように思えるんですが、結局は両方をうまく使用したほうが、問題解決を高める、両者は相互に対立するものではなく、依存しあうということではないでしょうか?
未知なる壁に遭遇したとき、人はそれまでの知識や経験だけでは、適切な対処ができそうにもないとき、どうしても仮説演繹的な方法を試さざるをえないのではないか?と日頃思っているところです。
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