日曜日, 3月 09, 2008

『私の場合には、青色(ダイオード)の研究開発を進めるにあたって、他人の論文や研究発表、参考文献は一切読まないと決めた。過去10年の経験から、これらが実は、私の研究を阻害する常識そのものだと考えたからだ。』(中村修二、Wild Dream-反逆・闘いーそして語ろう、2002年、ビジネス社)。

『えっ、と思うかもしれない。研究開発にしろ何にしろ、新しい仕事を始めようとするときには、他人のやり方や参考資料にまず眼を通すことからはじめなければならない、と誰もが・・・情報は多ければ多いほどいい、というのは常識だ。・・・』

『しかし、よく考えて見て欲しい、・・・・この場合には失敗の記録にすぎない。そんなものをいくら集めても、そのほうが無意味なのだ。そんなことに時間と労力とを費やすよりは、暗中模索しろ、と私は言っている。』

続いて、中村教授(カリフォルニア工科大サンタバーバラ校材料物性工学教授)は、

『他人のやり方は無視すべし』

で、実は自分はかってはそうだった、と告白されている。しかし、『ここには重大な落とし穴があることに気づいていた。新製品の開発は常に視界をさえぎられているジャングルの中を手探り進んで行くようなものなのだ。だから、他人のやりかたなどまったく当てにならないものだと考えたほうがいい。他人の実験結果をなぞるなどというのは、新製品開発においては自家撞着のことをやっているに過ぎない』と。

要するに私のやり方は下駄履きでエベレストに登るやり方だったのである、と述介されている。

それで、1000度近い基盤に、窒化ガリウムのガスを吹き付けて、薄い結晶を作る実験を、いろいろと条件を変えて連日おこなった、という。しかし、1000度C付近では、熱対流が起きて、ガスが蒸着してくれなかったそうだ。

結果をだせないまま、半年が、一年があっというまに過ぎた、という。そのうち会社も研究費を渋りだした。学会などで、有名大学の教授などから、「窒化ガリウムでは無理だよ」などと自信たっぷりに言われると、情報の少ない田舎研究員としては、やはり駄目かと気落ちすることも、おそらく一度や二度ではなかったろう。



研究の最前線にいれば、ものすごく孤独だといわれる。たいていの人は100人が99人、1000人が999人、この孤独な頑張りに耐えられず、途中で転向したり、あきらめたりして、人生をブラブラしてしまう、とは、幸田露伴の言葉らしいが、当たっていると思われる。シュリーマンや、ベッセル関数で知られる、ベッセルなども皆独学で、成果を掴んだ。帰納法も併用したと思われるが、演繹にいたる道筋の発見に精力を傾けたに違いない。

ベッセルが、ある天文台の助手に推薦されたとき、彼に学位がないことが問題になった、という。ベッセルの初期の研究論文を読んで学位論文に匹敵すると見たガウスは、無審査で彼に学位を与えた、という。じつにいい話だと思うのだが。

中村教授の著作に戻ると、
この後、

他人のやりかたは無視すべし、
どん底を極めるべし、
人の意見をヒントとすべし、
バイタリティをもつべし、
勘を大切にすべし、
根本=単純と理解すべし、
・・・・・・
と続く。人の意見をヒントとすべし、では、気晴らしにある応用物理学会へ行って、他人の講演を聞いていたら、東北大学の坪内先生の研究グループの発表で、ガスを上から押さえつけるようにして結晶を作っている、というところが、単に上から流すではなく、上から押さえつけるように流す、という表現に出会ってしまった、という。それで、今までの一方向からのみのガスの吹き付けを両方から行う、という着想に至ったそうだ。それで、すぐに改良実験をしたら、それまでの世界最高の数値100を倍上回る200という数字が出て、非常に完成度の高い結晶が出来た、という。

『そして、その時点から、青色発光ダイオードの開発まではあと一歩だった。』

『勘を大切にすべし』
では、『残念ながら、日本人は仕事や研究などで、勘や直感に頼るを嫌う傾向があるようだ。理詰めがすきな民族で民族なのかもしれない。・・・日本人は囲碁や将棋といった頭で考えてやるゲームがすきだ。理論好きなのだ。だから、スポーツの観戦もやたらうるさい。・・・

大リーグの野球のようではなく、手をかえ品をかえ、どう相手をごまかすかなどという理屈を述べ立てるのがすきなのである。・・・

私はこの勘を、実験においても重要視した。私には過去10年間で培ってきた溶接屋まがいの職人技があった。そして、職人には職人しかわからない”勘”があるのである。』と。
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全然違ったものの見方ができないと飛躍は望めないわけで、それが突破口になって新しい分野が生まれて、また進歩する。私は、10年以上まえから、以下の米長名人の言葉が大好きで、座右の銘にしてる。

 『カンというのは、ひとつの仮説でしょう。あるいは、仮説というのは、カンを基にして生まれるものでしょう。だから、仮説を立てられないようでは、仕事にしろ、何にしろ、新しいことはできないと考えていい。』(米長邦雄「人間における勝負の研究」祥伝社)

演繹は、記号論理学といってもいい、緻密な論理大系を構成するので、勘とは無縁のようだが、この勘が出発点となって、以後の論理展開を決める。

それは阿弥陀くじのようで、どこを出発点とするかで、結果が決まる。阿弥陀くじなら、途中に分かれ道の棒を適当に付け加えたり、消したりして、望みの結果へと導くことが可能だ。くじの網の目を変えないならば、どこを出発点とするかで、結果が決まる。

演繹は、何も新しいものを生み出さないという批判があったが、あたらしい結果をもたらす出発点を見出すのは、非合理的に聞こえる勘やら、なにやら神がかり的あの世的な眼に見えぬものが恵まれた才能に吹き込んでくれる精霊の働きによるものであろう。それが正しければ、演繹によって、次の手立てが順次芋づる式に出てくることになる。

岡潔博士は、純粋直観と言っていたように思う。あるいは無差別智とも。数学とものつくりは同じではないが、根本でどこかに共通性がありはしないか!?



なかのひと

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