土曜日, 5月 31, 2008

18 世紀後半の観測誤差論

安藤洋美教授の『最小2乗法の歴史』(現代数学者)で、なかなか注意が向かなかった部分が、観測誤差論である。

年代的に、ド・モアブルをつぐ人物としてシンプソンの確立分布論を3章で取り上げている。シンプソンは独学の数学者で、19歳のときに、二人の子持ちの50歳の未亡人と結婚した、とある。1740年にシンプソンは『偶然ゲームの性質と法則』を出し2年後には『年金と死亡時支払金の教程』を出したとあるが、なんと、ド・モアブルの著書を下敷きにしていた、という。そのため、ド・モアブルは快く思っていなかった、という。

ド・モアブルがなくなった1755年に彼は、王立協会で「実用天文学において多数の観測値の平均・・・利点について、王立協会総裁・高貴なるXX伯爵への書簡」を読んだ、という。当時彼は陸軍士官学校教授かつ王立協会会員で、応用数学における多方面の問題に直面していた、という。

安藤教授によれば、シンプソンの偉大さは、生成函数の使用もド・モアブルゆずりとはいいながら、『観測値の平均に注意を払うのではなく誤差の平均に注意を向けた、という疑念的進歩にある」、といい、後年1774年にラグランジュによって再び取り上げられた、という。

外国人ゆえに大革命を生き延びる事ができた、というラグランジュは、1770-73にかけて、シンプソン同様生成函数を用いて、L'UTILITÉ DE LA NÉTHODE DE PRENDRE LE MILIEUを書いたが、実用性よりも理論に重点を置いたので、題名はふさわしくない、との注釈も。

測量分野でも未だに、ラグランジュの未定係数法なる計算法が登場するのを知ったのは、1994年か1995年ごろである。梶原教授の数学教本で、ラグランジュの未定乗数法としても解説されている。15章偏微分の練習問題として、単位球面^2+^2+^2=1上の=6x^2+5y^2+7z^2-4xy+4xzの極値を求めよ、よいう早大院入試問題ではじめて知った。

測量分野では、コンピュータが発達普及したので、実用上はあまり必要がないが、手計算で条件付きの最小二乗法の応用をするときに現れてくる。測量学校の教科書にはきちんと載っていた。私も、コンピュータでも間違うことがあるから、手計算で計算チェックせよ、と嫌がらせを受けたとき、その会社にマックを持ち込み3日ほどかかって計算チェックをしたことがある。また、最適レギュレータ問題や、経済原論などでも現れてくる。変分法とのかかわりにおいて。

ついで、ラプラスの初期の研究として『事象による原因の確率に関する論文』を紹介している。同じ現象に対する3つの観測値間で取らねばならない中数値を決定することを論じている、という。

1805年になって、ルジャンドルの最小2乗法は、彗星軌道の決定に関する本で発表された。
NOUVELLES MÉTHODES  POUR LA DÉTERMINATION DES ORBITES DES COMÈTES
ルジャンドルはMéthode des moindre quarrésと呼んだらしい。

安藤教授は、「ルジャンドルの最小二乗法は、確率的枠組みがなかった。シンプソン以来の観測誤差論の影響は微塵も感じられない。概念の系譜からいうと、ボスコヴィチの補間法の延長線上のものである。また、彼が称した誤差は、今日の残差に当たる。このように、彼の最小二乗法は大いなる欠陥が見られるにも拘わらず、運用のし易さで高く評価された」という。

とはいえ、ルジャンドルの紹介は比較的短く、最後は「ナポレオン軍はアラムとアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で勝利を収めた。そのような高揚期に国威をかけた子午線弧の観測とその結果の処理に、ある程度の成功を収めたルジャンドルは、ナポレオンの没落と歩調を合わせるかのように、学者としての地位を絶えず脅かされるようになった。大陸各国の反ナポレオン感情の発生と、ガウスの執拗なまでの反ルジャンドル・キャンペーンは無関係とは言えないような気がする。」としている。

ガウスはナポレオンから、戦争税を1806年に2000フランを課せられ、ラプラスがパリで立替え、以後ガウスが利子付きで返済していった、ということはすでに引用させていただいたが、誇り高きガウスのナポレオン憎しの憎悪はこうして蓄積され、ナポレオンへの憎悪は、ルジャンドルの上に倍加される、としている。

ところで、ウィキペディアでは、ラプラスは、「天体力学」と「確率論の解析理論」という名著を残した、と紹介。ラプラス変換の発見者、とも書かれている。現在ベイズの定理として知られているものも、ラプラスが体系化したもので、ベイズよりもラプラスに端を発するという見方も強い、とされている。

また、松岡正剛氏は、http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1009.html
で、『確率の哲学的試論』ピエール・シモン・ラプラス、という記述がある。

『 この、近代国家がひとしなみかかえる問題を、片っ端からその原理原則に戻って検討し、そこにひそむであろう根本ルールに挑んだ数学巨人がピエール・シモン・ラプラスだった。株価・出生率・失業率・金利問題は、すべてラプラスがとりくんだサブジェクトだった。』

『ラプラスが『天体力学』の中核部分を書いたのは1802年である。この19世紀の初頭という年代が重要だ。時計の針はナポレオン時代のフランスをさしている。』

『『天体力学』が何をはたしたかといえば、ニュートン力学から導かれうる諸原理が、これでほぼ全面的に惑星系にあてはめられたのである。それ以前、万有引力の法則が何にもまして正しそうであることは知られていたのだが、ニュートン自身は太陽系が最終的に秩序を保つには「神の覗き穴」が必要だと思っていたのだし(『プリンキピア』第3篇にはそのことが書いてある)、オイラーは月の運動の微妙な変化を説明できる方法がないことに困って、はたしてニュートンの理論だけで惑星と衛星の関係が数学になるのか疑っていた。
 それらの疑問を晴らしたのがラプラスである。惑星や衛星の摂動計算をめぐるラグランジュの協力もあって、大半の誤差の修正もやってのけた。』

『数学によって宇宙や世界のしくみを証明してみせることは、イギリスもドイツもフランスも、国家(王室)の威信をかけての計算合戦だったのだ。いまなら原油を押さえて石油製品技術を競う、より強力な軍事兵器を開発する、ゲノム解読によってバイオ産業の独占を謀る、コンピュータのOSも回線も基本ソフトも牛耳る‥等々の、ようするに国家が他の国家に勝つための根本シナリオなのである。』

『こうしてナポレオンとラプラスは(そしてベートーベンは)、「全体というシステム」を記述したいという理念と野望を、まったく同時期に現実化したわけである。ラプラスは『天体力学』の序文でナポレオンを口をきわめて賛美する。
 しかし、ナポレオンはまもなく失脚してしまった。ラプラスは驚いて(ベートーベンも驚いたが)、新たなエディションの『天体力学』から序文をすっかり削除した。ついで書きあげたのが本書『確率の哲学的試論』なのだが、そこでは献辞はナポレオンではなく、ルイ18世の名になっていた。ラプラスにとって、「事実の体系」を知るべき相手はつねに現実の世界制覇者でなければならなかったからだ。ラプラスを読んでいると、こうした科学と国家の接近にしばしばピンとくるものがある。』

『こうした確率の値にも、連続的な確率変数もあれば離散的な確率変数もある。なんでも確率でわかるというのではなく、どのように確率に対する態度を決めればいいのかというのがラプラスの成果だったのである。ようするに世の中の一部の現象をしかるべき「確率モデル」として眺める方法を提案したのだった。これはのちに行動科学や経営学において「意思決定モデル」にまで発展した。』

なかには、このような解説も。『 ちなみに検定と推定のちがいは、こうなっている。さまざまなデータ(情報)が生じる母集団のすべてをチェック対象にできないとき、そこからサンプルを取り出して母集団の特定の傾向を調査判断するのだが、このばあい、あらかじめインディケータを設定してから確率モデルにあたって統計的な操作するのが「検定」で、これは計算者の仮説を実証したいときにつかう。一方、「推定」というのは、なんらかの計算によって母集団そのものがどういう特徴をもった母数であったのかを見いだすのが目的になる。』

さて、『最小二乗法の歴史』(安藤洋美)の9章は、「ラプラスの最小二乗法」であり、
1 ラプラス瞥見
2 天文学と偶然性
3 特性関数の導入
4 最小二乗法のラプラスによる第四証明
5 ラプラスの最小二乗法
6 「確率の解析的理論」1812年

となっており、さらに10章も「ラプラスの推定論」でやはり6小節にわかれ、ルジャンドルのわずか2小節の記述とは段違いである。そして11章で、「理論と実際の比較」となり、ベッセルと確率誤差、ガウスと確率誤差、ベッセルの正規分布当てはめなどの小節がつづく。12章が「ガウスの貢献」、13章が「正規分布の付加的証明」、14章が「根源誤差の仮定」、最後に補遺として、「ド・モルガンと最小二乗法」と「ベルトランと最小二乗法」が続く。一筋縄では行きそうにない、恐るべし!「最小二乗法」ではある。


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