日曜日, 6月 15, 2008

最小二乗法の歴史(安藤洋美著、現代数学社刊)

では、理論と実際の比較が第11章で取り上げられている。その1はベッセルの生涯となっていて、彼の生い立ちが述べられている。手短にいえば、独学で、シュリーマンと似通っている、という。

1784.7.23ー1846.3.17で、ギムナジウムではラテン語が苦手で登校拒否症にまでなったが、計算は得意であって、商人になろうとした、という。市役所吏員の父は残念がったらしいが、教師が就職先を見つけてきた。

ブレーメンのクーレンカンプ商館で、丁稚奉公をはじめた。無給だったが、一年もたつと社長は彼に無給の契約ながら些少ながらも給与を出したそうで、この点もシュリーマンと全く同じと言う。貿易会社だったので、外国語もまなび、天文学の知識も必要だった。1799年から7年契約で奉公を始めている。

給与から『月例通信』とか『ベルリン天文年鑑』などを買って独学で勉強し、『彗星の軌道決定に関する最も簡単な方法』(1800)を読み、自分でハレー彗星の軌道を決定しようと思い立った。1804年に計算結果を書いたノートを持って、前記論文を書いたオルバースを訪れている。彼はこの論文を添削して、『月例通信』に送ってくれた、という。

その論文がベッセルの処女論文となったが、博士論文の域に達している、と評価された、という。後年、奉公が終わったとき、商館に勤務すれば得られるはずの給与の1/7の給与で、私設天文台の助手を選んでいて、後にケーニヒスべルグに天文台長に就任するさい、学位が問題となり、1807年以降交際のあったガウスがそのことを聞き、無審査でベッセルに博士号を出した、という話しはこの本で一番忘れられない部分である。

というのも、学生時代、ベッセル関数の変形に出あって悩み、独学で私もベッセル関数の一部と格闘した経緯があったからである。

計算機も充分利用できない時代、NASAの計算文書の数値を見ておどろいた。一体全体どんな数式からこんな数値が出てくるのか、皆目見当がつかなかった。逃げてしまえば、苦労せずにすんだのだが、自分で取り組む事にした、あるいは取り組まざるを得ない事情があったのかもしれない。


ここでの安藤とは、安藤四郎教授のほうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベッセル関数
に出ている数式をみると、今でも眩暈が起こる。

当時、東京中の理工系書店をほとんど覗いても
参考書らしき書籍に出会わなかった。

ベッセル関数入門(平野鉄太郎訳、日新出版)を手にしてようやく少し分かりかけたが、その頃にはすでにMathematicaTheoristを手にしていた。ベッセル関数への関心が、結局数式処理ソフトを紹介していただいた梶原教授との出会いでもあった。



最初は、3次元の熱伝導方程式が、円柱座標系に変わると、微分方程式も変わる、その変わり方が手計算では到底手に負えず、その解法を探るため必然的に数学書を紐説くことに。急がば回れ!である。ネットでは、ベッセル関数を理解したいが、時間がない、勉強法やら参考書など手引が欲しい、という大学生のヘルプが出ていたが、さもありなんと思う。

計算機のない時代にこういう計算を必要とする関数の概念を明確にして、組織化したのが独学の天才であることに注意してほしい。





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