ベッセル関数の応用面で、アメリカの結論と違う結果が、日本のデータでは得られていたので、何がどう違うのか、食い違いの原因は何かを知ることから、熱伝導問題としてかかわった。最初に、ベッセルの偏微分方程式を数式変形で解こうとしたが、歯がたたなかった。
昔の人たちはかなりのところまで、数式変形で解かれていたが、問題としている課題については不向きのようだった。
太い円柱体の周囲の温度が周期的に変化する場合、表面と内部とでは温度変化にその物体の熱伝導率に応じた変化が現れ、内部に行くほど温度変化の幅が小さく、温度の上昇、下降に遅れがめだつ。温度変化が正弦波のように理想的に数式で近似される場合には、内部の温度変化も
やはり正弦波で近似でき、振幅の減衰と位相のズレだけで表せる、というところまで分かれば後は比較的簡単。
数式処理ソフトMathematicaでは、内部関数のSin[x]も変数として回帰分析できるので、まず一日24時間の温度データを正弦波で近似する
操作から始めた。この辺は実際の温度と理想化した正弦波とはけっこうずれるが、アメリカのデータでも、これ以上ずれる事例もあって、問題の本質とはいちおう無関係と考えられる。
後は、ベッセルの微分方程式の応用で、数式の展開というか、処理の仕方は、すでに先学の賢人の方々が、いろいろな著作に残されているので、引用文献を提示して、借用する。学ぶということは、真似ることから始まるというが、この問題ほどそれを実感した経験は外にないぐらい、といっても、英文のほうも英借文なのではあるが、・・・。そんなわけで、時間が経ってみると、なぜそうなるのかディテールを忘れているところが結構ある。当時の書類をひっくり返して探し出した次第。なお、数式はTEXで苦労して作成した。
虚数単位iを使うとこんな事が可能なのか、単に二次方程式の解の便宜的な書法ぐらいにしか感じていなかったが、ここで有り難みを実感。
ガウスさんはやはり凄い。アーベルは、貧乏で印刷費を節約し一言言及しなかったため、ガウスに送った論文への対応に不利益を被り、若くして不遇のうちに結核かなにかで亡くなってしまった。ドイツの大学教授招聘の手紙は死後2日後ほどに、ノルウエーの田舎に届いたと言う。せんだって、アーベル生誕200年祭を記念して、彼を偲ぶ著作も出た。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB
上のサイトには『ヤコービやルジャンドルはアーベルの業績を認めていたが、ガウスはアーベルの研究論文に不快感を示し、コーシーは彼の論文をまともに審査しないままに放置するなど、アーベルには正当な評価が与えられなかった。帰国後はクリスティナ大学に臨時講師を勤めたが、病気(結核及び併発した肝機能障害)のために若くして世を去った。
しかし、彼が当時世界最高レベルといわれた数学の総本山パリ科学アカデミーへ提出した「超越関数の中の非常に拡張されたものの一般的な性質に関する論文」こそ、のちに"青銅よりも永続する記念碑"と謳われ、後代の数学者に500年分の仕事を残してくれたとまで言われた不滅の大論文だった。』などとある。
上記の解説には、ガウスが不快感を示した、とあってもその理由が明示されていない。小堀憲氏の『物語数学史』(新潮選書、1984)によれば、代数方程式は必ず解けることをガウスが証明した後で、印刷代を節約するために(私費出版)代数的解法とするべきところの代数的を削ったために、「一般の五次方程式は代数的には(虚数を使わずに!?)解けないことの証明」とするところを単なる「一般の五次方程式は解けない」、では意味をなさなかった、という。
ノルウエー政府のその後の対応には、これほどの天才を見殺しにした、という非難への恐れもあるかのようなことを、「近世数学史談」内で見かけたような気がする。
アーベルは、教師が変わるまで、平凡な少年だったらしいが、その教師が他の生徒への体罰問題(一説には死亡させた!?)で更迭となった。その後任の教師がアーベルの内部にある、ある種の知性に目を向け、数学書に親しむよう指導したという。この教師の着任以来、図書館で借り出される書籍は、数学関連書籍が増加したという。
さて、日米の比較検討結果であるが、ベッセルの方程式はどちらも正しく、アメリカは単一部位で測定したデータのみを対象としたため、対象物内部に、放射方向に温度遮断抵抗がある、という結論だったが、日本では、垂直方向、放射方向ともに、複数部位でのデータをもっていたため、アメリカでの結果とは違う対象物への結論が得られ、決着した。関数が指示するとおりの現象がすなおに認められた。
また、当時東芝におられた斑目氏が書かれた熱伝導の教科書で勉強し、なかなかよい教科書として一時座右に置いていたが、先日の新聞報道では、新潟の原発の地震後の調査団長(東大教授)を勤められておられるとの由。もっとも、東大助手から東芝へという略歴から、今日の職歴は、予想がついていて、それをこの目で確認した、ということに尽きる。
日曜日, 6月 22, 2008
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