『田母神氏の「問題」 私はこう思う』
というタイトルで、産経新聞が正論談話室で意見を募集しているが、もとよりプロの文筆家たちが投稿する場所ではないので、(と信じているので)、意見は玉石混交で、すべて読もうとすると、かなり疲れ頭が混乱するのが常である。
しかし、中には、大いにうなずくまともと思われる意見が何編かはかならずあるので、自説との照合などが出来る。
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/top_display.cgi
プロの方は、一文にもならぬところで、意見など述べるはずはないので、実際述べるとしたらどういうことをいうだろうか、と前回引用した小室直樹氏の著作をさらに見渡すと、・・・・。
『彼は有能で仕事はできるが、どうも会社に対する忠誠心が欠けるようだ』・・・・これがサラリーマンの左遷の理由になるのは日常茶飯事といえるだろう、としたうえで『心の中で何を考えていても、そんなことはどうでもよい。他人の関与するところであらず。外面的行動においてだけ、やるべきことをやっていればそれで充分。
この考え方は、今の日本では完全に成立していない。だが、この考え方こそ、まさに良心の自由なのである。』と説く。
なぜならば、「この良心の自由を根本にして、近代リベラルズム、近代デモクラシーは発育していく」と書かれており、精神の波長がたいへん合う方の意見としてここに書きとめたい。
日本に、日本人として生きていて、仕事上やその他の理由で欧米と接触するとき、日本のある種の特殊性というか、すべて劣っているとはおもわないし、優れた点も多々あるにもかかわらず何か異質性を折りにふれて感ずる人は、意外と多いのではないかと思う。それは何に起因する日本人の特殊性というか思考様式なのか、といつも疑問に思うのであるが、・・・・。
「良心の自由こそ、近代デモクラシーの最終的判断条件」という小節がある。欧米においては常識以前であるが、今の日本で、これに気づいている人は鮮い(少ない)と結んでいる。
「良心の自由の正反対は”洗脳”」だと続く。
例として紅衛兵があげられているが、人間の内面の思想、感覚の責任を問うことはありえない。これほどの人権無視、人道に対する罪もない。人民中国はこのことを理解していない。と続くのだが、昨今の日中の事例をみるたびに、日本の民度の高いことを思っていたものの、この指摘を聞くと、どうも中国と変わらないような感じになりがちな気分に襲われる。
そのとおり、続く行には、現代の日本人も、ほとんどこれを理解していないとある。たまたまこの本は、江藤議員の発言で辞任した後なので、その例があげられている。
江沢民氏と金大統領のことであろうが、江・金両氏は会見して言った。「日本人は誤った歴史観を持っているから改めさせる」と。
「近代デモクラシーを全く理解していない日本のマスコミ」
ひとの歴史観が間違っているから改めろと要求する。このことは何を意味するのか、と書き出している。
歴史観は内面における良心(conscience)の問題である。内面における意識(consciousness)の問題である。他人が責任を問う筋合いのことではない、とある。
このことをマスコミを含めて日本人は、少しもあるいはほとんど理解していなかったようである、とあり、この事情は10年以上たっても不変であるようなので、このセンスは日本人に特有なものであろう。欧米の流行には敏感すぎるくらい忠実なところがあるのに、この時代錯誤な万古不変ともいえる精神性は何に由来するのか、!?!?。秀吉がキリシタンを禁制にしたとかいうが、当時から異質な精神と気づいて危険視したのだろうか?もちろん、当時の宣教師は植民政策の尖兵でもあったから、当時としては、合理的理由があった面もあるのだろうが。生きている化石的な精神性が、日本人の心の奥深くに眠っていはしなだろうか?それで、キリスト教徒が圧倒的に少ない理由なのだろうか?
かって、小室氏だったと思うが、外面の規範に忠実なのがイスラム教(ブタ肉を食さないとか)で、外面は問わず内面の規範を問題にするのがキリスト教であると説かれていたような記憶がある。
さて、この中韓首脳の発言に朝日新聞は(平成7年11月16日付)は『日本の政治家たちのゆがんだ歴史認識を示す発言が・・・』と述べ、ある人が朝日をアサヒといわずチョウニチと読むと言ったような、韓国紙さながらの意見を述べたという。産経新聞だけが、『歴史認識は多様であり、日本は全体主義国家ではない』という意味の主張(同日)を社説で出した、という。といっても近代デモクラシーに敵対するものだという認識はない、としている。
「日本人を奴隷あつかいする中国と韓国の権力者」「日本は韓国でよいこともした」は正しい、という小節が続く。そして、最後に戦後50年、日本は中国と韓国の植民地になった。それだけではない、「謝罪外交」には重大な落とし穴が隠されているのである、としている。
というのもドイツもフランスも、戦争犯罪には時効がないこと、事後法でも裁くことができることを明確にしてきたので、村山前首相(当時)が、首相をやめてせいせいしたなどとうららかに散歩していると突然拉致され、気がついてみると、戦犯法廷、判決は絞首刑。すぐさま執行されてブーランコ、てなことだってありえるのですぞ、と筆者は警告している。
『日本も自身の犯罪を認めれば同じことだ。いや、もっと悪い。日本はナチスだけでなく、国全体の犯罪を認めてしまったからである。どの日本人も戦犯として処刑されてもおかしくなない。時効がなく、事後法も正しいのだから』としている。補償となるというもさらなり。なんでも平謝りして金を出したがる国なんだから、と思われている、と。謝罪外交の重大な落とし穴、かくのごとし。と怪気炎をあげて居られる。まあ、ナチスでも裁かれたのは、80、90という老齢の元隊員ばかりだったようであり、小室氏が心配するような(実は心配はしていない、と思うが)論理的トレーニングをして見せて、日本の後進性なのか先進性なのか知らないが、
固有の精神性をあげつらってみたかっただけの最後の絞めのような気がするのだが。書名が何しろ「それでも国家と呼べるのか』ですから。しかし、村山談話に対するあてこすりでも十分あるようだとは、だれでも思うだろう。
日曜日, 12月 14, 2008
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿