月曜日, 3月 23, 2009

『歴史通』創刊号は、坂井三郎特集でもある。その一環として、零戦特集にもなっている。零戦特集は、坂井三郎氏が他界しておられるので、他の方が書いていて、坂井氏の言葉は比較的すくない。

『大空のサムライ、最後のロングインタビュー』が組まれて、太平洋戦争は無駄ではなかった、として84歳時の坂井氏の言葉を紹介しているが、いくら太平洋戦争が、通称として通用しているからといって、いきなり大東亜戦争ということばを奪い取ってしまっては、坂井氏の本意ではなかろうと思うのであるが、如何なものか。

零戦は、堀越次郎技師の開発した、剛性低下方式と言う方式を採用した機体で、この方式を使うと、零戦を思ったように操縦できるのだと、坂井氏は言う。低速でも、高速でも思ったように操縦桿を引くと、思ったように飛べるのだという。Aクラスのパイロット、B、Cクラスのパイロットがいるとして本来なら、Aクラスのパイロットでもむずかしい速度に合わせて舵を取らねばならない方式を保持していれば、B、Cクラスのパイロットには、とても自由自在には操縦できないが、剛性低下方式だと可能になるのだ、という。

機首を上げ下げする昇降舵の効き具合と操縦桿の効き具合が、低速でも高速でもパイロットの思う通りに動いてくれるように設計されているんですね、と発言されている。だから宙返りが楽に出来る。敵機の真後ろ、35メートルから40メートルの位置についたら、相手はもう絶対に逃げられません。ガチッとキーロックがかかったようなものです、と体験を語られる。・・・零戦以降は、ジェット戦闘機でも、この剛性低下方式は取り入れられている。堀越先生の功績は大変なものです。しかし、いまはそのことを誰も知りませんね、と答えておられる。

堀越氏は、戦後になってこの方式を考案したことで、工学博士になった、と坂井氏はいう。
”A Research on the Improvement of Flying Quarities of Piloted Airplanes"
先生は肩書きのようなものはまったくかまわない方で、どうでもいいからといって、博士論文もなかなか書かなかったですから、・・・という意外な事実を教わった。

戦後、この方式について先生はいろいろなところで講演をされ、足らないところは、経験者として坂井氏がついていって、補足説明をよくした、という。しかし、その先生でさえも、アルツハイマーで、同じことを何度でも坂井氏に聞き返すことが多くなった、という。しかし、零戦のことは、もう何でも覚えておられましたね、すごいものですね、若いときの執念というものは、と語っておおられる。

零戦は三菱が開発したのだから三菱製ですが、実際は60何パーセントかは中島製だった、と坂井は振り返る。そして、やはり三菱製のほうがいいんですね、とご自分の体験を語られる。
機体とか、翼の張り具合とか三菱製のほうが全体として丸みがあって、まろやかだと述べている。

しかし、先にも述べたように、戦争末期には中島製零戦も、枕頭鋲がきれいに打ってあって、坂井氏の回顧をうらづけるような事実は、必ずしもないようである。坂井氏が活躍された昭和16〜17年当時とは、戦争後半時とは、ずっと同じ零戦であったのだが、細部はずいぶんと違った状態であったのかもしれない。機銃の配置なども、翼だけになっていたり、・・・。

頭の1が戦闘機、2が爆撃機、3が雷撃機を識別する数字だと言う。また、ビデオでは飛行可能機体は3機といっていたが、この歴史通では4機あると書いていある。もっとこれは機体の整備状況で変わりうる数字であるが、・・・。零戦52型は、尾翼に61ー120と書いてあり、零戦22型は、X−133と書いてあったりしている。洗練されたフォルムの中でも、もっとも端正な機体は、零戦22型だと、写真解説にはある。おそらく、三菱製なのではあるまいか。・・・。
また、1994年にガダルカナル島で発見された機体破片の番号がVー103であって、坂井氏のもとの届けられたというが、それは零戦21型で、かって坂井氏が台南海軍航空隊で使用した機体だった、という。

零戦前の96式戦闘機で、150時間、零戦で200時間乗ったら、全部ばらしてしまうという。その後どうしたのかは、坂井氏は廃棄処分にしたのでは、と推察しているだけで、定かではない。

また、零戦とは関係ないが、慰安婦や南京事件は、日本から金をとれるような時代になってから、中韓が言い出したことだと、指摘している。もっと早く言ってくれたら良さそうなものだが、日本人はそういうとき、何もいわないのが、正常であり、普通であるから、宣伝戦では、いつも大敗である。

学校で本当のことを教えればいいんです、とおっしゃるが、学校こそは左翼の温床であるから、そう簡単ではない。作る会の教科書採択率の、無に近い値を見ればそれも明らかであろう。仰げば尊し、を卒業式で斉唱しなくなってから、久しい。先日銀座に行ったら、ある通りだけ日の丸国旗がたくさん掲げてあったが、それは例外的な光景であり、通りを一本ずれると、探しても見つからなかった。60年安保の頃までは、各家庭が、折り目のくっきりした大小さまざまの国旗を玄関先に掲げていたものだ。

坂井氏も、従軍慰安婦なんてことばは当時はなかった、という。それも当然だ。従軍と言う以上は、看護婦の場合、軍隊の階級が厳然として存在する、というのだから。

第一、戦地に女なんていませんよ、ともいう。また、一日行軍しただけで、もう女どころではなくなる、という。38式歩兵銃を担いで、背嚢を背負って前に40発、後ろに80発の弾丸を下げて、手りゅう弾をもって、行軍を終えて荷物を下ろすと、腰はこすれて、もう血だらけだという。私も数年前、草津のダム湖周辺の仕事で出かけた際、疲れてくると、腰の山鉈さえも、置いていきたくなったことがあった。

たしかに戦闘の行われていない後方基地には慰安婦はいた、という。ただ、これはどこでもそうでしたけど、司令官の給料の何倍ももらっていた。という。バラバラにならないように、軍票を束ねて、ちょうどレンガ一個分ぐらになるとひとまとめにしたものを何個も下げていた、という。自由もあって、(従軍だとありませんね)、きょうは接客したくないと思ったら、ぶらぶらしていれば良かったそうである。

南京大虐殺でもそうです。南京が陥落したら、陸軍の大部分はすぐ出ていった。残ったのは1500人くらいです。1500人で、どうやって、20万、30万を殺せるんですか!?と言っている。穴を掘るだけでも大変で、河へ流せば上海までプカリ、プカリと流れていって、世界中の報道班がきているんですよ。大虐殺があったら、気づかない筈がない。東京裁判までそんな話は全く出てきませんでした、というのが坂井氏の見解である。

週間新潮でも、当時朝日の記者だけで80名近くいた、とも読んだ記憶がある。電柱一本折れただけでも、気づくほどの密度であって、だれも書くどころか、記憶にもない様である。だいたい、張作霖暗殺の実行犯とされてきた河本大佐も、裁判に呼ばれなかったり、南京大虐殺を英文で報道した記者も、呼ばれなかった裁判で、アメリカが主導する20万人説を強制されたようである。呼んだら、おそらく裁判自体がなりたたなかったろう。


東京裁判で、日本兵が、呼び止めても、無視して逃げた市民を日本兵が後ろから撃ち殺したのを一件だけ目撃した、という検察側証人の南京在住のマギー神父という人は、日記に、その証言は創作だった、と記録を残していたそうである。

アメリカは昭和19年になってから、海外放送で、南京事件を報道し始めた、という。そして20万と言う数字を出してきた。しかし、いつも言うように、当時のタイム誌の書名入り記事でも、戦争で死んだ人たちは2〜3万にんという数字しかでていない。何処から20万というアメリカの数字が出てくるのかは、ひとえに裁判のためだけだった、という疑いが浮上せざるをえない。

また、坂井氏も、ドキュメンタリーフィルムで日本軍の大虐殺とされているものを見ると、あれは日本軍ではない、共産軍(毛沢東軍?)です、と言い切っている。当時の人がみれば、脚半の巻き方で、蒋介石軍、共産軍などの区別はすぐにわかった、という。たしかに、軍帽、軍服は日本軍の物でしたが、脚半の巻き方が、坂井氏が見たものはすべて共産軍のものだという。どんなに欺いたとしても、ちょっとしたところで、すぐに馬脚を現していた、という。

謝罪、謝罪と言って払ってはならないところに金を払うくせに、ラバウルだけでも、韓国人3000名、高砂族でも2000名の私設部隊がいたという。彼らには、退職金がわりに恩給を払うべきなのに、負けて国籍が変わったからと言って払わないのは、日本人としての道義に反するではないか、と久々の坂井節が顔を出していた。

そして、誰に責任があるんかという話に、行き着くのである。

なかのひと

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