金曜日, 3月 02, 2007



本日も仕事で60kmほどあちこち移動した。暖かく、下着と胸のすき間に汗をかき、首筋から入り込む「春風」が胸のすき間を通って
脇腹へと流れて行くのが、冷感伝播でわかる。まだ長距離は少しきつい。ちょっと渋滞すると水温計はあっという間に上がるが、走り出すとそこそこのレベルに落ちつく。

もう3月なんだと思い、昔学校の周りを通ると、ピアノ伴奏とともに、男女混声の「仰げば尊し」がよく聞こえたものだと思った。
知り合いの主婦にその思い出を語ったら、この季節は別れの季節でもあり、新たな出会の季節でもありますね。卒業式は泣きむしなのでいつも眼をウルウルさせていたものですよ、との返事。う〜む、世代の共通項はいまだ健在なり、我のみ特殊に非ずと思った。

sho様も職場での人間関係には気を使われているようだが、私の独断で言わせてもらえば、きっとA型の気質ではないか、と考えてゆっくり走った。そういえば、昔、ある教官に先生はおそらくA型ですね!?と申し上げたら、「私がA型意外に見えますか?」との返事だった。



ところで先に、スクーターVespaの件で、若干の補足を。

BMW同様、Vespaも戦時中は戦闘機を作っていた航空機メーカー製だった。ダスカニオ技師は若いときからヘリコプターなどを開発していた。佐貫先生がひと月ほど、ピアッジョ社のプロペラ工場に滞在したとき、工員たちは、彼をシニョール・インジェニェーレと尊敬を込めて呼んでいた。イタリア人には、靴磨きだけではなく、ファシスト党歌にあったように、英雄の国民がいると思った、とはちょっと、踏み込みすぎた表現とは思うが。夏目漱石なども、たぶん同じ立場ならそれに近い表現をしたかもしれないが。最近の言葉狩りの風潮にしらずしらず染まってしまうと、漱石文学もはらはらすることもある。

戦後、Vespaはフランス映画「河は呼んでいる」でヒロインが乗って、宣伝してくれた、とある。

S.A.Iのアムブロジーニ社長にも面会したそうだが、木製軽量戦闘機は、戦後になって、急降下速度時速950キロメートル(高度3000)をだしていたという。ゼロ戦の倍いじょう、弱点を叩くために開発されたグラマンでもたしか、時速700キロメートルほどではなかったか?木製戦闘機は、最大出力750馬力で、最高速時速600キロも達成していたというから、改めて、天才ということばを思う。もっともグラマンの武骨なデザインをイタリア流にデザインしていたら、それを上回ったかもしれないが、英国、アメリカ流の発想から学んだ視点からみれば、ゼロファイターに勝ちさえすればいい、という野心的ではない発想を採るのが、彼らのやり方だ、ということになる。

ドイツは野心的な航空機エンジンを開発することに熱中し、有り合わせのエンジンでという転換がなかったので、イギリスの爆撃機
に先生は下宿を焼かれた、というふうに、風が吹けば桶屋がもうかる式にいえばいえるかもしれない。

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