日曜日, 8月 31, 2008
さて、日本文芸社のほうであるが、裏に描かれている涙を流す軍人が、多田駿参謀次官で、米内に押し切られて近衛内閣が、
蒋介石を相手にせずという声明を出す段にまで追い込まれて、これで帝国は崩壊する、と言って涙したシーン。
海軍の古賀峰一軍令部次長も、わたしも多田参謀部次長に賛成です、と発言したのに際し、米内海相は、もういい、と怒鳴る。
そして、政府は広田外務大臣を信頼しているといい、統帥部が外務大臣を信頼していない、という。これは政府不信任と言う意味だな!?であれば、内閣は辞職するほかはあるまい、と脅す。多田らは、この重大時に辞職などとというのは無責任ですというが、米内はさらに、参謀本部が辞めるか、内閣が辞めるかどちらかだよ、と無責任発言だといわれても涼しい顔。近衛側近らは、この米内発言に乗り、声明を出してしまった。
『・・・国民政府は、帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内民人塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし。爾後国民政府を相手とせず。』
近衛首相自身もこの声明を悔やんだという。渡部昇一教授は、近衛公が自殺せず、東京裁判で、どういう勢力に操られてしまったかを詳細に証言してもらえれば良かった、と残念がるのだが、・・・。
これで事変の早期解決はなくなったな、と米内がいえば山本は、みずから交渉の道を閉ざしましたね、と応じる。これで、事変の早期解決はなくなったな山本・・・となっている。こうして、アメリカと内通した者たちによって、日本は戦争の泥沼に引きずり込まれた、とある。
最近の週間新潮でも、ルーズベルトが蒋介石にアメリカ側について、日本に対して徹底抗戦するようサジェストしたことなども書かれている。南京事件の捏造の為の種播きも事前に英語版出版によって用意されたという。タイム誌の署名入り記事では死者は2万と当時の記事には出ているが、昭和19年あたりから、米軍が20万人と宣伝を始めた。
(February 14, 1938)
With Japanese last week still forbidding foreign correspondents to go to captured Nanking, the Chicago Daily News received last week one of the best eyewitness accounts thus far of the "Nanking atrocities" from its Far East Ace Reporter A.T. Steele.
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"This may be war to the Japanese, but it looked like murder to me." Best estimates are that the Japanese executed 20,000 at Nanking, slew 114,000 Chinese soldiers in the Shanghai-Nanking phase of the war, lost 11,200 Japanese in this phase.
タイム誌のCDで、Japan China Nankingの3語で検索すると出てくる。
裏切られた蒋介石
アメリカが秘かに毛沢東側を応援していたため、蒋介石は裏切られ台湾に追い出された。旧日本軍の武器弾薬を毛沢東に供与したのが、「マーシャル・プラン」のジョージ・マーシャル将軍だという。マーシャルは国共を調停するために、 中国滞在が長かったが、毛沢東を武器援助で手なづけるためだった。アジア地域での共産中国の躍進を結果的に大きく後押ししたマーシャル将軍はおかしいと気付いたのが、ジョセフ・マッカーシー上院議員である。後にマーシャル将軍の行動は、「反共の闘士」マッカーシー上院議員によって、徹底的に調査された、という。
さて、井上成美のほうであるが、「昭和陸海軍の失敗」によれば、仙台藩の出で、海軍兵学校での成績も180人中2番の成績。数学が大好きで、戦後も幾何の問題集を解いていた、という。
半藤:一度信じ込んだら絶対に曲げないところがあるから、山本としても部下として横においておけば重宝すると考えたのではないでしょうか?
それが日本文芸社のほうでは、
米内:今日の臨時閣議で言ってきた。もはや猶予する時期ではない。海軍は必要なだけやると。
山本:では、例の計画は実行ですね。
米内:うむ、ひとつ世界を驚かしてやろう。
その結果は?
1937年8月15日海軍は中攻機による渡洋爆撃で戦争拡大の既成事実を作った。
長崎県大村から出発した九六式陸上爆撃機20機が南京を空爆。
台北からの14機も江西省南昌を爆撃した。日本の残虐な無差別爆撃はやがて、世界中に報じられる。
堺三郎の「大空のサムライ」では、すでに日本軍飛行場となった南昌基地が、パイロットとしての二番目の活躍場となっている。
日本海軍機による中国都市への爆撃は、奥地の都市、武漢や重慶にまで及んだ。特に重慶には執拗に戦略爆撃が続けられた。1938年からの6年間で空襲が218回、死者は11809人といわれる。
2006年のサッカーアジア大会でもっとも日本人に対してブーイングをしたのは重慶だったそうだ。
多数の市民殺傷を生んだ重慶爆撃を指揮したのが、支那方面艦隊参謀長で、海軍3羽ガラスの一人、井上成美だった、という。
こいつのどこが平和主義者だ、とある。井上は米内光政の二期下で、米内とともに米国に深く操られていた、とある。
不思議きわまりないことに戦後ものうのうと生き続けた、とある。
これでは、サイレントネービーでなくとも、戦争のことについては口を閉ざさざるを得ないだろうが、半藤氏ももうすこし、つっこんだインタビューをしてもらいたかったが、しょせん無理か?
1940年5月から9月まで続けた百一号作戦は、日露戦争の日本海海戦に匹敵すると井上自身が公言するほどのものだった、という。
この無差別爆撃で、日中戦争の停戦協議のチャンスは失われた。石原莞爾は激怒して、陸軍が強盗なら、海軍は巾着切りだとさけんだという。これ以後、北支事変は支那事変と改称された、という。
アメリカと内通していた者たち
真珠湾攻撃も、米内光政海軍大臣と、井上成美(中将)次官、山本五十六(連合艦隊司令長官、自分の罪を知って、早目に自殺のための視察に出た)らが操られてやらされたことだ、とある。その共同謀議に参加せず、日本国に忠実だった古賀峰一、多田駿、そして潔く闘って勇猛に死んで行った『飛竜』艦長の山口多聞少将たちをいまこそ検証し、顕彰すべきであると。
米内光政海軍大臣の海軍だけでなく、陸軍の情報部の中にも、フィリピンのマニラの師団を中心に、すでに戦争中から、アメリカのスパイになって働いていた軍人たちが、かなりいたと言う。
陸軍情報部にいた、○末○三中将もそのひとりで、アメリカと内通していて、日本とドイツが敗戦した後の、戦後世界体制がどのようになるかを冷酷に教えられていた、という。
戦後体制には邪魔だからとイギリスに指令され、台北から東京へと飛ぶチャンドラ・ボースの飛行機を離陸直後に墜落させて殺したのは、陸軍のスパイ参謀だったのだという。
NHKの記録フィルムで、戦後ジープの貸与など、仲間内からもGHQからの優遇度の高さで不思議がられた人といえば、皆気付くはずの人だ。
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