日曜日, 5月 05, 2013

今回のカワサキW650は、販売店でETC装置を新規に取り行けてもらったが、シートを開けてみると、点火装置ユニットと積載工具と、ETCの本体が仲よくギリギリに配置されていて、以前のようにシガーソケットを置いたり、あるいはにんじん君の装置を2個いれたりできるスペースは全然なかった。
その点、CB1000やCB1300の時の時とは大きく違う。車体がそれだけコンパクトになったためだろう。ただし現行W800ではシートの下に専用のETCスペースが確保されているそうである。

これまでiPhoneのNavicoというアプリで十分と思っていたし、BIKE人の雑誌でもNavicoの評価は最新号でも高いので、そのままいけると考えていたが、取り付けの安定性や防水性などに難があることは承知していた。そこで、バイク用の専用ナビならば、配線類がダラダラとハンドルパイプ周りを這うような事もなかろうと思い、急に思いついてNAPSに行き、相談したら、想定とは違うタイプの製品を勧められた。
http://www.yupiteru.co.jp/products/atlas/mcn45si/

これでも防水性もあるし、比較的安価ということ、しかも即日取り付けが可能だということで(取り付け料、6400円)即決で依頼した。ただ、下で完成時間を聞いたら午後8時頃ということだったが、置いていくわけには行かないしお願いした。唯一の希望は何かの都合で夕方くらいまでに終わるといいなあということで、11時過ぎから長期戦を覚悟して籠城状態だった。
午前中は大型バイクばかりだった店内駐車場も午後になったらみなれた仲間が現れた。やはり、同型につい目が向いてしまう。これはキックが付いていない800のほうで、ホイールカラーがタンクカラーと共通。


トイレに行くたびに嫌でも目に付く。こちらは同型で、こういうのを見ているとランプハウスの上に申し訳程度に付いているミニスクリーンが、却って本来の美点をスポイルしているような気になり、そのうち取り去ってしまおうという気になった。RBに頼むか、自分で取り去るかの結論は出なかったが。

店内備え付けの雑誌コーナーでもカワサキWシリーズ関連の内容の記事はけっこうあって、いまはめったに見かけない旧型シリーズも改造ドレスアップ例として複数冊あったが、雑誌名は記憶にない。別の雑誌でも624ccしかなかった旧型でもポート磨きを施した
後は、時速180キロオーバーを記録したとか。私は、振動の少ないSRシリーズという捉え方で乗っている。

午後2時をまわると周りの車の修理・改修状況の変化が気になり見て回ると、いつの間にか私のW650がいつの間にか消えて、仲を覗くとタンクが外された状態で置いてあったので、これで少しは早く終わりそうだと喜んだ。それで、またバイク雑誌などをみていると、BIKE人かなにかで房総ツーリング特集が出ていて、ぱらりとめくったところにおやという文字が。実は一昨日茂原の知人を遺産相続でお世話になったお礼をかねて訪問、墓や菩提寺の案内の後、国道128号沿いの海鮮食堂で昼食(大原町)。
駐車場のナンバーは連休ということもあり、県外からも来ていると一同おどろいたが、大原では有名店だそうだ。
そこで、一組あたり一食というきまりだそうで、8人で行ってもこのメニューは一人前しかでて来ない。で結局私が代表していただいた。
店を出るとき、出口にある案内メニューをみたら、波の伊八丼というのか?とおもった。他の人達は、全員2000円の握り寿司だったが、あとで茂原の専門店のほうが美味しいといわれた。
その後、晴れてあかるくなったので、いすみ市の太東岬へ登って、九十九里浜を一望する
点で休憩したが、ここでもさっき初めて見た「波の伊八」の名を発見。案内板に出ている
飯縄寺や行元寺の名前が記憶に残った。

見た雑誌では、銚子から勝浦までカワサキ Ninjia 400でのツーリング記録の一部だったが、たまたま開いたページが波の伊八が彫った欄間の波の彫刻で彼の名があったので、腰を据えてメモをとった。

これにより、BIKE雑誌がカワサキバイクマガジンだと判明した。
また、この案内図で寺の位置なども大体わかった。いすみ市の寺は天台宗の飯綱寺(いづな寺)というそうで伊八の彫った浪をを参考にしたのでは?といわれている。そういえば、「神奈川沖 浪裏」という北斎画はMacのスクリーン画像としてThe Great Waveというファイル名でデフォルトで収録されている。当時の伊八はここの海が海岸線からかなり沖合まで浅いので、馬に乗って海に乗り入れ、横から波頭の変化の様を観察し、彫刻に生かしたそうでそれがフラクタルな波形ともいわれる北斎の絵にも反映されたのかにしれない。戦争中は海軍の電波発信施設があり、米軍機がこの電波をたよりに飛んで来たので、ここにも、機関砲銃座跡が残されたいたが、今は波の浸食で半分は海中に没しているという。なお、銚子方面から侵入した敵機は総武線の鉄道に沿って、東京方面へ侵入し、佐倉市内で銃撃し山が迫る所で反転して行ったといい、当時のレンガづくりの建物には銃撃跡がはっきりと残っていたという。

この雑誌には、銚子の灯台のあたりを犬吠埼と呼ばれるが800年ほど前に頼朝の追っ手たちから義経が銚子から船で奥州に逃れる際に飼っていた愛犬「若丸」をここに置いて別れた後、若丸が7日7晩主を慕い鳴き通した故事からついた地名とかで、近それらしい岩もあるという。

千葉県の銚子の部分の拡大図にも外川駅の近くにある犬若食堂が載っていて故事を思い起こさせる。
https://plus.google.com/102810598509356890399/about?gl=jp&hl=ja
名前のせいかも知れないが,写真で見る限り、おおきな犬屋敷然とした質素な建物であるようだ。

そんなこんなで呼ばれたのは17時30分を回っていた。

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