日曜日, 11月 30, 2008
今日は、今年最後の11月。日曜出勤なれど、若干の自由が、アルバイト雇用で生じてきた。
天気も朝から良い。そこで、この前仕事で秩父の黄葉を見てきたが、多摩の紅葉ほどきれいではないと、同僚と話したことから、好天の今年最後になるかもしれない秩父を回ってみることに。
正午半過ぎ会社を出たが、けっこう風が冷たい。下をずっといくつもりで出たが、紅葉の時間帯は限られている。仕方なく圏央道を使い、飯能へ。空いている。追い越し車線を130ぐらいで
抜いていくバイクが、あの速度だとこの緩いカーブでもあのくらい傾けないとまずいのか?と感心する。
あっと言う間に見えなくなったが、3キロ先のETC出口を出るとき、まだ4輪の列に並んでいた。一般路に合流して最初の交差点で、やはりもっと前、風で80キロ制限の中100キロぐらいで
飛ばしていった軽4輪が、停止線の最前列にいた。
299を一路正丸へ。かなり単独のハーレーが多い。飛ばすハーレーは一台もいなかった。この時間だと、秩父方面からかなりまとまってバイクが降りてくるのに出会う。しかし、コーナーの続く山間部へ入ると雲が太陽をさえぎり、急に足下から冷えてくる。まもなく正丸というあたりで、ようやくう太陽が顔を出してくれた。うれしい眩しさだ。
トンネル入り口の直前を右折して旧道へ分け入る。簡易舗装にちかい林道より少しマシなくらいの急カーブが続く。太陽が傾いて、まぶしいコーナーは危険だ。しかし、おりてくるクルマは数台しかなかった。道が平坦になったところで、黄葉っぽいところでバイクを止めたが、写真をみるとまだ青いぐらいだ。西日があたり、飯能吾野方面の山々がきれいだ。エンジンが暖かいのが、低速で走ると伝わってくる。もう少しで、頂上の茶屋だ。
茶屋の前の展望がきくところでの一枚が、唯一の紅葉らしいカエデがあったので一枚撮った。
茶屋は、少しは客がいたが、先を急ぐので寄らずに先へ。本当は、おでんや甘酒を売っている
バラック然とした店へ寄るつもりだったのだが、どういうわけか道は下って、正丸トンネルの出口(飯能から秩父へ向かった場合)の左側交差点へ出てしまった。年配のおじさん二人が、黒いハーレーを2台とめて、こちらの動きに合わせて、眩しさをこらえて首を回している。かなりの年齢(といっても70前後)のお二人だったようだ。
そのまま横瀬を抜けて秩父市内へ。市役所裏手は、秩父夜祭りの準備がすっかり整い、人出はほとんどなし。先週食べ損ねた珍達ラーメンで体を暖めようと店内に入ったが、客は数名いたものの、ドンブリはみな汁だけで、かたづけものをしているおばさんに、すかさず休憩中なので、と断られてしまった。14:30〜17:00までは休憩とは、ドアの脇に掲げてあるのを出てから知ることになった。10分ほど超過しただけなのに、・・・。
団子坂下は、無電柱区間で、家一件建てるのにも電力供給は地下ケーブルで行う必要があり、夏ごろその関連で調査に来たが、今はその工事もおわり、家も最後の仕上げにかかっていた。軽自動車の下あたりに、ケーブルが入っている。白線を引き直した跡が。祭りに向かっての準備は完全に整っている感じだが、果たして今年も来れるかどうか!?こうして見ると、ヨーロッパの田舎の古い都市部っぽくも見えたりもする。写真は右側通行っぽく左右反転している。あらためてみると電話線は架空のようだ。祭りの夜は日本独特の文化遺産風景が出現するわけだが。
カメラはカシオだが、レンズはSMCタクマーの古いタイプ。今のカシオにはついていない、ファインダーもついていて、液晶は少し小さく暗いが、眩しいときはファインダーを頼りに出来る点は重宝する時がある。
土曜日, 11月 29, 2008
CB1000SFインプレッション
というサイトを見つけた。
http://mc.gentei.org/other/cb_impress.html
最近BIG1の調子が良くなってきて、また、原点を見つめ直してみたいと思って探したら、出会った。ホンダのFACT BOOKも一時見当たらなくなっていたような気がするが、カラー写真を除いて復活したようだ。
さて、そこでは、フロントタイヤが17インチに変更されたものを購入したようで、色はブラック。マフラーは写真から判断すると、ノーマル仕様のようだ。
高速5速で60km/hから80km/hへの加速は3秒などということも印象として出ている。また、無線もやられておられるようで、
ハンドル周りにはいろいろついている。
無線の免許の取り方や、装置のバイクへのとりつけ例なども書かれている。
気になる燃費の項では、こんな記述があった。
『 * 街乗り:10〜12km/L(運輸省届が21km/Lなので実際はこんなもんか。)
* ツーリング:14km/L以上 』
などとある。もっとも通常は、3速3000回転で60キロ走行を多用されているとのこと。ほかでも同様のレポートは見かけたことがある。私も試してみたが、常用するには至っていない。
そうすると、私のもそう悪くはなく標準的か!?などと思ってしまうが、以前にも書いたように、おとなしく走るとリッター18〜20近い報告例もあり、この差は何だろうと改めて思う。
最近、モータロイもどき(要するに、スズ成分の多いハンダ合金の錠剤タイプ)を投入後3000キロを超えて、もうそろそろ燃費改善効果が出てきても良いのに、と思っていたが、エンジンの調子はいいのに、燃費のほうは、却って悪くなっていて、投入後初期の効き出したかな!?と思ったあたりが、いちばんよかったり、という結果であり、何か釈然としない日々を送っていた。
そこで、過去のいろいろな試行のうち、一時的にせよ、改善効果があったと思う事例をあれこれ思い起こし、整理してみた。
最近の大人しく走っても悪い燃費の原因を説明できる事例はないか?とあれこれ考えてみた。
いろいろ試して、結局、シリンダーヘッドアース、ミラクルパワー、ニンジン君のセットで、テフロン系潤滑だと、問題なく17キロ近くまで燃費が伸びた。
その後、モータロイもどきでは、だんだん燃費が悪くなってきている。走行2000キロぐらいまでは、正規のモータロイ(発売中止)でも、燃費は投入前より落ちる、とは注意書きにあったので、気にも止めなかったが、3000キロを超えても、却って落ちたりして、どこかのセットが正しくないと思い点検した。
そこで、考えられることは、シリンダーヘッドアースは、パワーは出るが燃費は落ちる。しかし、これを外しても燃費はかわらないことがわかり、しかもパワー感はやはりおちて、ストレスがたまる。したがって、アースを止めるわけにはいかない。
そこで、以前、ミラクルパワーを4個つけていたのを、2個外したら燃費がのびた事を思い出した。その後、もう一回テフロン処理をすると、4個に戻しても、摩擦を減少させたようで、燃費はまたもとに戻っていた。
今回は、いぜんより効きの良いシリンダーヘッドアースにして快調なのだが、燃費だけが不調。そこで、以前と同じくミラクルパワーをまた真ん中の2個を取り外してみた。もともと、2個外して快調になった理由としては、左側一番のプラグが他の3個に比べて不調で、それがいつから始まっていたか不明だが、長い間そうした状態でエンジンが慣らされていて、正常と思われる4個のミラクルパワーをつけると、加熱して却って燃費が落ちた、と思った結果があった。そこで2個外し、摩擦の熱が出にくい状態で、2ヶ月ほど乗って、慣れて来た頃、再度のテフロン処理で摩擦防止を図ったところ、今度は燃費の落ち込みがなくそのまま使っていた。
今回は、シリンダーヘッドアースを、新規のものに付け直したら、いっそうパワー感が増した。しかし、燃費はおちこんだ。そこで、どうもテフロン系の潤滑による摩擦防止あるいは低下と、モータロイ系(スズ合金)の摩擦防止ないしは低下とは働きが
違うような感じを持っていたので、取るべき新手段は、もう一度、以前調子のよかったミラクルパワー2個を取り外してみるしか、パワフル感と好燃費を両立させる方策は見当たらないことになった。
そこで、さっっそく試してみた。始動性は変化なし。気のせいかランプは明るい。夜に試したから。昼間に試すと、そこまでは
わからない。吹かしてみると、ミラクルパワー4個より若干吹けは悪いものの、パワーロスは起こしていないもよう。前回も感じたかのような気がしたが、ミラクルパワー2個ぐらいのほうが、その効き目は却って良いような気さえする。前照灯も十分明るいし、・・・・。ノーマルの新車状態の電気系とはこんなものだろうか!?ここで初めてにんじん君も健在だったことを確認したような気分となった。
走り出して、以前より少ないアクセル開度で、走ってくれる感じがする。2匹目のドジョウではないが、これは悪くないと思った。2〜3日様子をみて、エンジン特性があまり変化しないことを確認する。昨夜、十分暖まってから、それまで900回転ぐらいだったアイドリングを1000回転ぐらいにもどす。車検で1100回転ぐらいで帰ってきたので、また1000回転にセットしたのだが、いつのまにか900〜950回転まで下って来ていた。マイクロロン時にも、アイドリング回転が1000回転ぐらいだったのが、800回転ぐらいまで下ったが、今回は、もうモータロイもどきが十分に効果を出し始めていると思われる時期に、やはり少し下った、といえるのかもしれない。
今朝、土曜日で、出社のためエンジンをかけてすぐ乗り出して、角を曲がっておや、と思った。アクセルを当てているだけなのに、加速するのだ。絞っていても加速する、というのは私が、このバイクの特性として、好燃費の条件として長い間追い求めていたものだ。
その原因が昨夜わずかにアイドリングを上げておいたので、いつもの開度でも、その分余計にガソリンが供給され加速したのだろうと、気づくのに、少し時間がかかった。それで、満タン後100キロほどだったが、再度満タンにして、大人しく走って燃費を見てみた。感触から、数日前から、今度こそ絶対に良い燃費に戻っているはず、という感じはしていたが、燃費をみて、入力間違いかと!?一瞬数字の意味が飲み込めなかったが、予想もしない17.1515・・・と出た。ワーオ。前回、同様な条件で15はおろか14.7まで落ち込んでいたので、15キロ後半代くらいは出て欲しい、と思っていたのだった。それが、ミラクルパワー2個を外し、摩擦を減らす方向での処理をしたら、なんと14.7から17.15まで2.5キロ近く一気に伸びたのだ。
しかも、エンジンはまだ、この新しい処理に馴染んでいない感じが強く出始めているあたりで、モータロイもどきとの親和作用の効果を期待するのはまだこれからだ、というのに。
モータロイ系の減摩作用と、テフロン系の減摩作用は、どうも性質がちがうようだとは日頃思っていたが、今回の処理でもそのことが顕著に現れたように思う。うまく説明できていないかもしれないが、モータロイ系の方が、シリンダーとピストンのなじみがより率直に現れているように思うのだが、どうだろうか?
モータロイ系では、テフロン系でカバーできたミラクルパワーを4個に戻したときの抵抗増加を吸収しきれないどころか、増幅さえした感があるからだ。となれば、テフロン系の処理の痕跡はもう削り落とされ効果を失っているのかもしれない。走行音は、テフロン系よりもはるかに静かで、丸い音質に感ずるのだが。
もっとも、高速走行では、おとなしい走りの数倍のアクセル開度となり、少々の抵抗があっても気づかず、猛烈に吹けるので深く考えなかったが、やはりアクセルを極限まで絞って定速走行する際には、わずかな抵抗でも燃費に響くのだろう。わずかな抵抗が減っていなかったことは、本質的に慣らし云々ではなく、組み付けの問題なのかも知れない。
ミッションタッチなどはテフロン系で俄然よくなり、モータロイ系でもその感じとは少し違うが、節度あるタッチが却って増したような感じで、ローへ入れたときのタッチも幾分静かになったようなケースが多いように感じている。
今日も、現場でスズキの125ccスクーターに、若い女性がヘルメットとグローブを付けるだけの間の暖機で、さっそうと出かけて行ったのをみたが、エンジン音を聞くと、私のビッグ1も、こんな軽やかでマイルドな音がするな〜と思ったことだった。
というサイトを見つけた。
http://mc.gentei.org/other/cb_impress.html
最近BIG1の調子が良くなってきて、また、原点を見つめ直してみたいと思って探したら、出会った。ホンダのFACT BOOKも一時見当たらなくなっていたような気がするが、カラー写真を除いて復活したようだ。
さて、そこでは、フロントタイヤが17インチに変更されたものを購入したようで、色はブラック。マフラーは写真から判断すると、ノーマル仕様のようだ。
高速5速で60km/hから80km/hへの加速は3秒などということも印象として出ている。また、無線もやられておられるようで、
ハンドル周りにはいろいろついている。
無線の免許の取り方や、装置のバイクへのとりつけ例なども書かれている。
気になる燃費の項では、こんな記述があった。
『 * 街乗り:10〜12km/L(運輸省届が21km/Lなので実際はこんなもんか。)
* ツーリング:14km/L以上 』
などとある。もっとも通常は、3速3000回転で60キロ走行を多用されているとのこと。ほかでも同様のレポートは見かけたことがある。私も試してみたが、常用するには至っていない。
そうすると、私のもそう悪くはなく標準的か!?などと思ってしまうが、以前にも書いたように、おとなしく走るとリッター18〜20近い報告例もあり、この差は何だろうと改めて思う。
最近、モータロイもどき(要するに、スズ成分の多いハンダ合金の錠剤タイプ)を投入後3000キロを超えて、もうそろそろ燃費改善効果が出てきても良いのに、と思っていたが、エンジンの調子はいいのに、燃費のほうは、却って悪くなっていて、投入後初期の効き出したかな!?と思ったあたりが、いちばんよかったり、という結果であり、何か釈然としない日々を送っていた。
そこで、過去のいろいろな試行のうち、一時的にせよ、改善効果があったと思う事例をあれこれ思い起こし、整理してみた。
最近の大人しく走っても悪い燃費の原因を説明できる事例はないか?とあれこれ考えてみた。
いろいろ試して、結局、シリンダーヘッドアース、ミラクルパワー、ニンジン君のセットで、テフロン系潤滑だと、問題なく17キロ近くまで燃費が伸びた。
その後、モータロイもどきでは、だんだん燃費が悪くなってきている。走行2000キロぐらいまでは、正規のモータロイ(発売中止)でも、燃費は投入前より落ちる、とは注意書きにあったので、気にも止めなかったが、3000キロを超えても、却って落ちたりして、どこかのセットが正しくないと思い点検した。
そこで、考えられることは、シリンダーヘッドアースは、パワーは出るが燃費は落ちる。しかし、これを外しても燃費はかわらないことがわかり、しかもパワー感はやはりおちて、ストレスがたまる。したがって、アースを止めるわけにはいかない。
そこで、以前、ミラクルパワーを4個つけていたのを、2個外したら燃費がのびた事を思い出した。その後、もう一回テフロン処理をすると、4個に戻しても、摩擦を減少させたようで、燃費はまたもとに戻っていた。
今回は、いぜんより効きの良いシリンダーヘッドアースにして快調なのだが、燃費だけが不調。そこで、以前と同じくミラクルパワーをまた真ん中の2個を取り外してみた。もともと、2個外して快調になった理由としては、左側一番のプラグが他の3個に比べて不調で、それがいつから始まっていたか不明だが、長い間そうした状態でエンジンが慣らされていて、正常と思われる4個のミラクルパワーをつけると、加熱して却って燃費が落ちた、と思った結果があった。そこで2個外し、摩擦の熱が出にくい状態で、2ヶ月ほど乗って、慣れて来た頃、再度のテフロン処理で摩擦防止を図ったところ、今度は燃費の落ち込みがなくそのまま使っていた。
今回は、シリンダーヘッドアースを、新規のものに付け直したら、いっそうパワー感が増した。しかし、燃費はおちこんだ。そこで、どうもテフロン系の潤滑による摩擦防止あるいは低下と、モータロイ系(スズ合金)の摩擦防止ないしは低下とは働きが
違うような感じを持っていたので、取るべき新手段は、もう一度、以前調子のよかったミラクルパワー2個を取り外してみるしか、パワフル感と好燃費を両立させる方策は見当たらないことになった。
そこで、さっっそく試してみた。始動性は変化なし。気のせいかランプは明るい。夜に試したから。昼間に試すと、そこまでは
わからない。吹かしてみると、ミラクルパワー4個より若干吹けは悪いものの、パワーロスは起こしていないもよう。前回も感じたかのような気がしたが、ミラクルパワー2個ぐらいのほうが、その効き目は却って良いような気さえする。前照灯も十分明るいし、・・・・。ノーマルの新車状態の電気系とはこんなものだろうか!?ここで初めてにんじん君も健在だったことを確認したような気分となった。
走り出して、以前より少ないアクセル開度で、走ってくれる感じがする。2匹目のドジョウではないが、これは悪くないと思った。2〜3日様子をみて、エンジン特性があまり変化しないことを確認する。昨夜、十分暖まってから、それまで900回転ぐらいだったアイドリングを1000回転ぐらいにもどす。車検で1100回転ぐらいで帰ってきたので、また1000回転にセットしたのだが、いつのまにか900〜950回転まで下って来ていた。マイクロロン時にも、アイドリング回転が1000回転ぐらいだったのが、800回転ぐらいまで下ったが、今回は、もうモータロイもどきが十分に効果を出し始めていると思われる時期に、やはり少し下った、といえるのかもしれない。
今朝、土曜日で、出社のためエンジンをかけてすぐ乗り出して、角を曲がっておや、と思った。アクセルを当てているだけなのに、加速するのだ。絞っていても加速する、というのは私が、このバイクの特性として、好燃費の条件として長い間追い求めていたものだ。
その原因が昨夜わずかにアイドリングを上げておいたので、いつもの開度でも、その分余計にガソリンが供給され加速したのだろうと、気づくのに、少し時間がかかった。それで、満タン後100キロほどだったが、再度満タンにして、大人しく走って燃費を見てみた。感触から、数日前から、今度こそ絶対に良い燃費に戻っているはず、という感じはしていたが、燃費をみて、入力間違いかと!?一瞬数字の意味が飲み込めなかったが、予想もしない17.1515・・・と出た。ワーオ。前回、同様な条件で15はおろか14.7まで落ち込んでいたので、15キロ後半代くらいは出て欲しい、と思っていたのだった。それが、ミラクルパワー2個を外し、摩擦を減らす方向での処理をしたら、なんと14.7から17.15まで2.5キロ近く一気に伸びたのだ。
しかも、エンジンはまだ、この新しい処理に馴染んでいない感じが強く出始めているあたりで、モータロイもどきとの親和作用の効果を期待するのはまだこれからだ、というのに。
モータロイ系の減摩作用と、テフロン系の減摩作用は、どうも性質がちがうようだとは日頃思っていたが、今回の処理でもそのことが顕著に現れたように思う。うまく説明できていないかもしれないが、モータロイ系の方が、シリンダーとピストンのなじみがより率直に現れているように思うのだが、どうだろうか?
モータロイ系では、テフロン系でカバーできたミラクルパワーを4個に戻したときの抵抗増加を吸収しきれないどころか、増幅さえした感があるからだ。となれば、テフロン系の処理の痕跡はもう削り落とされ効果を失っているのかもしれない。走行音は、テフロン系よりもはるかに静かで、丸い音質に感ずるのだが。
もっとも、高速走行では、おとなしい走りの数倍のアクセル開度となり、少々の抵抗があっても気づかず、猛烈に吹けるので深く考えなかったが、やはりアクセルを極限まで絞って定速走行する際には、わずかな抵抗でも燃費に響くのだろう。わずかな抵抗が減っていなかったことは、本質的に慣らし云々ではなく、組み付けの問題なのかも知れない。
ミッションタッチなどはテフロン系で俄然よくなり、モータロイ系でもその感じとは少し違うが、節度あるタッチが却って増したような感じで、ローへ入れたときのタッチも幾分静かになったようなケースが多いように感じている。
今日も、現場でスズキの125ccスクーターに、若い女性がヘルメットとグローブを付けるだけの間の暖機で、さっそうと出かけて行ったのをみたが、エンジン音を聞くと、私のビッグ1も、こんな軽やかでマイルドな音がするな〜と思ったことだった。
木曜日, 11月 27, 2008
田母神論文については、いろいろな人がいろいろな立場や史観で、さまざまなことをそれぞれよくまあ、ここまで先回りして解説してくれるわい、とあきれるほど意見百出の感がある。
その中でも、田母神論文の審査委員長が、渡部昇一上智大名誉教授で、論文の解説やコメントを、現代史研究家の秦郁彦教授が批判的に展開していることで、またあのゾクゾクする両教授のバトルがどこかで展開されるはず、と密かに期待していた。
私は、田母神論文を精読したわけではないが、基本的に肯定する考えだし、憲法改正派に属す
るし、できれば核武装(原潜、空母、核武装の順序だという人もいるようだが)派で使わないために持つというのは、非常に武力としては、文字通り理想的だとつい思ってしまう。石破防衛長官(当時)が出てきて、自衛隊を海外に派遣する論議を聞いて、いずれこの人の下で、日本も核武装の方向へ、態勢作りがすすもものと考えていたが、とんでもない大誤解であった。
秦教授についても、誤解していた。一部のブログに、秦教授を右翼と言っているものがあるが、基本的に左翼とまでいわないまでも、東京裁判史観というか戦後の史観派で、どこかの社の半藤氏と近い立場の方であろうと、軌道修正した。中曽根元首相も、最初右傾の政治家と思わされてきたが。靖国問題での対応などをみて、心情左翼と、ここ一年ほどで180度評価が変わってきた。やはり、風見鶏では、狼少年と同じ結果ではないか?ご本人は右系だと思いたいでしょうが。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-782.html
には「つくる会」の右派学者・秦郁彦が田母神俊雄論文を徹底批判と題して、左の立場から徹底的に論文の史観を批判している。だいたい、朝日、毎日系の公式見解というものに属するようだ。
これに対して、「日本核武装講座」では
http://blogs.yahoo.co.jp/kanazawa_sanetoki2004/19536221.html
『田母神論文に対する毎度馬鹿馬鹿しい愚論の数々 秦郁彦編』
とあって、先生をいちおう持ち上げた後、自説を展開されていて、面白かった。
とくに、コメントのトップに
『秦郁彦は、空気を読んで長いものに巻かれようとしているのでしょう。
この人は、空気読んで、計算して、長いものに巻かれるのが得意です』とあって、皆さんそれぞれに多様な見方をしているなあ、と思う。今、右系は、個々にみな見解が違い、多様な意見がたくさんある。これは今、戦後の過渡期で、戦前の思想が少しづつ目覚めてきているからであろう。左翼は、だいたい公式見解でまとまっているが、行く先は見えてきている時代となってきた。
たとえば、正論談話室でも、渡辺龍二氏という、談話室の校長先生と左がかった投稿者の一部から揶揄されたものの、ぶれない方がいて、このように一人一人の個性というか自覚がはっきりしている人がいろいろ出てくるようになった。ちなみにこの方はまだ50歳、もちろんアンチ朝日の立場である。
『悪が盛んなる時は一時的に悪が勝つように見えることがありますが、時間がたてば公平の針は戻ってきます。若い人たちは左翼教育を受けていても自分の頭で考える人が多くなっています。若い世代は毒されていない人が多いですからね。日本の未来のためにも…。』
『○この掲示板で何回も投稿されました、田母神論文ですが、
これは「日本だけが侵略国家といわれる筋合いもない」というものです。
思想は個人の自由ですが、田母神論文は、軍人の思想としてはまっとうなものです。
アメリカの軍人がアメリカは侵略国家ではない、ベトナム戦争は正しい(政策の成否ではなく正義かどうかの善悪の問題で)と言っても問題にはならないし、中国の軍人が中国は侵略国家でないと言っても問題にはなりません。 逆に、ベトナム戦争は米国の侵略だと米国の軍人のトップが言ったり、チベット侵攻は中国の侵略だと中国の軍事のトップが言えば問題になります。そういうものです。
しかし、日本の場合は日本は悪で侵略国家だと言わなければ問題になります。これがすなわち東京裁判史観です。知らず知らず、それににどっぷり浸かっている人がいます。そうでなければ説明がつきにくいですね。』
さて、新年号のWILLに、とうとう渡部教授の見解が載った。審査委員長だったということから、いろいろと面白い『事実』が出ているのでは!?と大いに期待した。
題名は、村山談話は外務省談話だ、と言うもの。
最初は気にも留めずにいたが、読み終わりこれを各段階になって読み返し愕然とした。
昭和60年に、村山談話とほぼ同内容を国会で答弁したのが、ほかでもない雅子妃の父親だと言うこと。う~ん、やはりそうか?。これでは、雅子妃も考え方と環境がマッチしませんね。ご病気の遠因は、親の思想かも知れません。外務省を、中国外交部の出先とまで呼ばれるようにさせたわけは、この人の「信念」にあったのかも。おそらく朝日新聞の、疑問を感じない優良な読者の一人だったのだろう。
やはり、ありました。問題の秦郁彦氏の見解に対するコメントです。
しかし、最初にまず、田母神論文肯定者の学者先生、小堀桂一郎元東大教授の話から入っている。小堀氏は、東京裁判却下未提出弁護側資料を見つけ出し、「東京裁判ー日本の弁明」などを出された先生で、旧かなづかいで、サンケイ新聞には投稿される。どうようの旧かなづかいで、投稿される先生に、埼玉大教授の長谷川先生がいて、思想も近いように感じている。
『ここには(田母神論文)私ども自由な民間の研究者たちが、20世紀の世界史の実相はおおむねこうだったのだと、多年の研究から結論し、信じているとおりの歴史解釈が極く冷静に、条理を尽くして語られている』と。渡部教授は、小堀先生のこの評価だけで十分だと思う、としている。
『秦郁彦氏の問題点』という部分もある。週間新潮(11月13日号)が、秦氏のコメントを中心にまとめた題材などについての反論が中心のようだ。新潮の記者氏が史実として頼ったのは、主として秦郁彦氏のようだ、と書いている。
その直後で、教授は、秦氏に近現代史についてお伺いを立てるのは、極めて危険であると思っている、と書かれている。私のような素人でも???のつく学者先生の秦氏であるから、この記述は当然か!?
『例えば、秦氏は、支那事変の研究についてのある意味での先覚者ではありますが、その後に発見されたいろいろな史料、特に21世紀になってから発見された様々な史料や研究には目をつぶっておられる様に見えます。また、私自身の体験として秦氏は「嘘だとわかっても頑として撤回しない人だ」とわかったこともあります。』・・・『特に中国大陸の事件に関しては北村稔教授や東中野修道教授のような方々が、当時の中国政府の原資料に当たっておられます。こういう研究を秦氏はなさっておりませんでした。ですから、小堀氏も言われるように田母神前空幕長のほうが、新しい研究を丁寧に当たっておれるようように思います。』とある。
この文章の途中に、渡部教授や、他の人たちが繰り返し指摘した、南京戦に参加していなかった兵士が書いた、秦教授が口を極めて褒めて引用した本は偽物ということを10年間以上にわたって変えようとしなかった、という指摘があり、その最後に、(最近はさすがに変えたと聞いています)とあった。
半藤氏も、ベストセラーの部類に入るとされる「ノモンハンの夏」を書いて、ソ連側史料が出てきても、出版前から分かっていても、規定の路線で出版してしまった。
例の副島氏も、最近の著作で、南京大虐殺はあった、私は秦教授の4万人説を信ずる、などと今年になってもまだ言っていることを考えあわせると、意外と当時者たちは、最初の思い込みから自由になっていないな~と思ってしまう。
研究者は、まず既成事実とされるものを疑うことからスタートする、といっても過言ではなく、新事実を発見するのは、自由な心の働きだ、と岡博士も力説されていた。研究は自由な立場で行うものだ。東中野教授も、この前、テレビのインタビューで話されていたが、20年近く前、南京事件の研究をスタートさせたとき、今日のような結論に至るとは考えられないことだった、と述解されていた。
研究の価値は、始めにあるのであって、終わりにあるのではない、と岡博士。一人の研究者の業績を評価するには、少なくとも半世紀以上は要するとも。数学についての経験談であるが、学問全般についていえるものと信ずる。そうすると、左翼史観の、毎日新聞に多くのコメントを寄せた山口大の纐纈厚(こうけつ あつし)教授は、田母神論文のモトは、陰謀史観で、トンデモな歴史認識だというが、東京裁判史観こそでっちあげのトンデモな戦後史認識でしょう。
多くの矛盾と、それを指摘する資料が実在しているのに、・・・。この人たちの論理は、ソ連崩壊の事実も、事実としては、脳裏に刻まれていないような思考回路に属するらしい。最初に結論ありき。以下、別の機会に。
その中でも、田母神論文の審査委員長が、渡部昇一上智大名誉教授で、論文の解説やコメントを、現代史研究家の秦郁彦教授が批判的に展開していることで、またあのゾクゾクする両教授のバトルがどこかで展開されるはず、と密かに期待していた。
私は、田母神論文を精読したわけではないが、基本的に肯定する考えだし、憲法改正派に属す
るし、できれば核武装(原潜、空母、核武装の順序だという人もいるようだが)派で使わないために持つというのは、非常に武力としては、文字通り理想的だとつい思ってしまう。石破防衛長官(当時)が出てきて、自衛隊を海外に派遣する論議を聞いて、いずれこの人の下で、日本も核武装の方向へ、態勢作りがすすもものと考えていたが、とんでもない大誤解であった。
秦教授についても、誤解していた。一部のブログに、秦教授を右翼と言っているものがあるが、基本的に左翼とまでいわないまでも、東京裁判史観というか戦後の史観派で、どこかの社の半藤氏と近い立場の方であろうと、軌道修正した。中曽根元首相も、最初右傾の政治家と思わされてきたが。靖国問題での対応などをみて、心情左翼と、ここ一年ほどで180度評価が変わってきた。やはり、風見鶏では、狼少年と同じ結果ではないか?ご本人は右系だと思いたいでしょうが。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-782.html
には「つくる会」の右派学者・秦郁彦が田母神俊雄論文を徹底批判と題して、左の立場から徹底的に論文の史観を批判している。だいたい、朝日、毎日系の公式見解というものに属するようだ。
これに対して、「日本核武装講座」では
http://blogs.yahoo.co.jp/kanazawa_sanetoki2004/19536221.html
『田母神論文に対する毎度馬鹿馬鹿しい愚論の数々 秦郁彦編』
とあって、先生をいちおう持ち上げた後、自説を展開されていて、面白かった。
とくに、コメントのトップに
『秦郁彦は、空気を読んで長いものに巻かれようとしているのでしょう。
この人は、空気読んで、計算して、長いものに巻かれるのが得意です』とあって、皆さんそれぞれに多様な見方をしているなあ、と思う。今、右系は、個々にみな見解が違い、多様な意見がたくさんある。これは今、戦後の過渡期で、戦前の思想が少しづつ目覚めてきているからであろう。左翼は、だいたい公式見解でまとまっているが、行く先は見えてきている時代となってきた。
たとえば、正論談話室でも、渡辺龍二氏という、談話室の校長先生と左がかった投稿者の一部から揶揄されたものの、ぶれない方がいて、このように一人一人の個性というか自覚がはっきりしている人がいろいろ出てくるようになった。ちなみにこの方はまだ50歳、もちろんアンチ朝日の立場である。
『悪が盛んなる時は一時的に悪が勝つように見えることがありますが、時間がたてば公平の針は戻ってきます。若い人たちは左翼教育を受けていても自分の頭で考える人が多くなっています。若い世代は毒されていない人が多いですからね。日本の未来のためにも…。』
『○この掲示板で何回も投稿されました、田母神論文ですが、
これは「日本だけが侵略国家といわれる筋合いもない」というものです。
思想は個人の自由ですが、田母神論文は、軍人の思想としてはまっとうなものです。
アメリカの軍人がアメリカは侵略国家ではない、ベトナム戦争は正しい(政策の成否ではなく正義かどうかの善悪の問題で)と言っても問題にはならないし、中国の軍人が中国は侵略国家でないと言っても問題にはなりません。 逆に、ベトナム戦争は米国の侵略だと米国の軍人のトップが言ったり、チベット侵攻は中国の侵略だと中国の軍事のトップが言えば問題になります。そういうものです。
しかし、日本の場合は日本は悪で侵略国家だと言わなければ問題になります。これがすなわち東京裁判史観です。知らず知らず、それににどっぷり浸かっている人がいます。そうでなければ説明がつきにくいですね。』
さて、新年号のWILLに、とうとう渡部教授の見解が載った。審査委員長だったということから、いろいろと面白い『事実』が出ているのでは!?と大いに期待した。
題名は、村山談話は外務省談話だ、と言うもの。
最初は気にも留めずにいたが、読み終わりこれを各段階になって読み返し愕然とした。
昭和60年に、村山談話とほぼ同内容を国会で答弁したのが、ほかでもない雅子妃の父親だと言うこと。う~ん、やはりそうか?。これでは、雅子妃も考え方と環境がマッチしませんね。ご病気の遠因は、親の思想かも知れません。外務省を、中国外交部の出先とまで呼ばれるようにさせたわけは、この人の「信念」にあったのかも。おそらく朝日新聞の、疑問を感じない優良な読者の一人だったのだろう。
やはり、ありました。問題の秦郁彦氏の見解に対するコメントです。
しかし、最初にまず、田母神論文肯定者の学者先生、小堀桂一郎元東大教授の話から入っている。小堀氏は、東京裁判却下未提出弁護側資料を見つけ出し、「東京裁判ー日本の弁明」などを出された先生で、旧かなづかいで、サンケイ新聞には投稿される。どうようの旧かなづかいで、投稿される先生に、埼玉大教授の長谷川先生がいて、思想も近いように感じている。
『ここには(田母神論文)私ども自由な民間の研究者たちが、20世紀の世界史の実相はおおむねこうだったのだと、多年の研究から結論し、信じているとおりの歴史解釈が極く冷静に、条理を尽くして語られている』と。渡部教授は、小堀先生のこの評価だけで十分だと思う、としている。
『秦郁彦氏の問題点』という部分もある。週間新潮(11月13日号)が、秦氏のコメントを中心にまとめた題材などについての反論が中心のようだ。新潮の記者氏が史実として頼ったのは、主として秦郁彦氏のようだ、と書いている。
その直後で、教授は、秦氏に近現代史についてお伺いを立てるのは、極めて危険であると思っている、と書かれている。私のような素人でも???のつく学者先生の秦氏であるから、この記述は当然か!?
『例えば、秦氏は、支那事変の研究についてのある意味での先覚者ではありますが、その後に発見されたいろいろな史料、特に21世紀になってから発見された様々な史料や研究には目をつぶっておられる様に見えます。また、私自身の体験として秦氏は「嘘だとわかっても頑として撤回しない人だ」とわかったこともあります。』・・・『特に中国大陸の事件に関しては北村稔教授や東中野修道教授のような方々が、当時の中国政府の原資料に当たっておられます。こういう研究を秦氏はなさっておりませんでした。ですから、小堀氏も言われるように田母神前空幕長のほうが、新しい研究を丁寧に当たっておれるようように思います。』とある。
この文章の途中に、渡部教授や、他の人たちが繰り返し指摘した、南京戦に参加していなかった兵士が書いた、秦教授が口を極めて褒めて引用した本は偽物ということを10年間以上にわたって変えようとしなかった、という指摘があり、その最後に、(最近はさすがに変えたと聞いています)とあった。
半藤氏も、ベストセラーの部類に入るとされる「ノモンハンの夏」を書いて、ソ連側史料が出てきても、出版前から分かっていても、規定の路線で出版してしまった。
例の副島氏も、最近の著作で、南京大虐殺はあった、私は秦教授の4万人説を信ずる、などと今年になってもまだ言っていることを考えあわせると、意外と当時者たちは、最初の思い込みから自由になっていないな~と思ってしまう。
研究者は、まず既成事実とされるものを疑うことからスタートする、といっても過言ではなく、新事実を発見するのは、自由な心の働きだ、と岡博士も力説されていた。研究は自由な立場で行うものだ。東中野教授も、この前、テレビのインタビューで話されていたが、20年近く前、南京事件の研究をスタートさせたとき、今日のような結論に至るとは考えられないことだった、と述解されていた。
研究の価値は、始めにあるのであって、終わりにあるのではない、と岡博士。一人の研究者の業績を評価するには、少なくとも半世紀以上は要するとも。数学についての経験談であるが、学問全般についていえるものと信ずる。そうすると、左翼史観の、毎日新聞に多くのコメントを寄せた山口大の纐纈厚(こうけつ あつし)教授は、田母神論文のモトは、陰謀史観で、トンデモな歴史認識だというが、東京裁判史観こそでっちあげのトンデモな戦後史認識でしょう。
多くの矛盾と、それを指摘する資料が実在しているのに、・・・。この人たちの論理は、ソ連崩壊の事実も、事実としては、脳裏に刻まれていないような思考回路に属するらしい。最初に結論ありき。以下、別の機会に。
日曜日, 11月 23, 2008
卒業旅行でインドを旅した家族のアルバム中にあったバイクのショット。イギリス領だっただけけあって、おそらく英国車の系譜が歴然とした一台。イタリア系らしきスクーターやホンダの二輪もあるにはあるが。インド映画に登場するバイクなどもこの英国系のタイプの出番が多い感じがする。
かって、フランス映画「カトマンズの恋人」では、ルノ・ベルレーが恋人ジェーン・バーキンズを乗せて、爆音高く街中を飛ばすシーンも印相的に思い出すが、それはホンダの125ccのベンリーでフランス映画だけに少々拍子抜けした感じが残っている。ただ、排気音は日本で聞くよりかん高く、いい音に聞こえた。公開年が1969年というから、レイモンド・ラブロックのガラスの部屋と同年だ。ガラスの部屋は、しかし後年テレビ公開かなにかで見たような記憶が。・・・
団塊の世代より数年から10年ほど早く、多くの日本の若者が海外にバイクと共に飛び出していった時代があった。指揮者の小澤征爾氏もその先駆け的存在だったかもしれない。
小澤氏は、国産の125ccスクーターでユーラシア経由でヨーロッパに渡り、たしかパリかどこかのコンテストで優勝したのではなかったか!?。
『小澤は1959年、単身で音楽修行のためヨーロッパに出発。学費捻出のため、知り合いに無心のお願いをして回ったが、ようやく話のついたのが富士重工。同社の新型スクーター、ラビットジュニア125ccを借りて現地へもってゆき宣伝して(乗って)まわることとの取引であった。「日本国籍の明示」「音楽家であることを示す」「事故をおこさない」の3条件を提示されたため、白いヘルメットにギター、日の丸といういでたちになった。右翼ではない。made in Japan をヨーロッパに売り込み、貿易立国の一翼を担ったのだ。』と紹介されている。
http://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200208/topics03/topic03_06.html
その後、バイク雑誌などでも主としてヤマハの250ccバイクを中心に海外を回るレポートも何編か掲載されて、当時熱心によみ、夢を膨らませたりした。ヤマハの250ccでは、フレームが折れたり、13万キロ程走破して、最初の部品で残ったのは、クランクケースぐらいだったとも話にあったような気がする。整流器が故障し、バッテリー液が沸騰し、ランプやウィンカー、ブレーキランプを全部付けて、修理工場まで走ったなんて、トラブルもあったらしい。最初はやはりホンダ車、中でもCB72系だったようだが。ユーラシア大陸を女一人が走っていると、いろいろなバイクがスピード競争を挑んできたが、勝ったバイクはいなかった、とも。新婚旅行に北米をMACH IIIで、タンデムツーリングした大迫氏の体験記も数回掲載され、時代が250からより大きなバイクに移行しつつあることを感じた。
私とほぼ同世代のツーリストとしては加曽利 隆氏だ。
http://archive.mag2.com/0000037317/index.html
私も昔愛用したスズキの250のオフロード仕様車で、もう一人の友人とふたりでアフリカを回ったことから、氏のバイクとのつきあいが始まる。
今、改めてみると、これはこれで大変なつきあいだったんだろうな〜と考え込んでしまう。さすがに同年代ともなると、比較的関心が薄くなっている。日本車が世界で十分に通用する、という事実が当時の私には眩しかった。
今、世界的不興で、国産車の輸出も一時的に陰りを見せているが、また、相変わらず、日本人はいまだにドイツ車信仰があるかのように見られるが、もう事実上の世界一といっても過言ではないだろう。韓国などまだまだ真似できないだろう。トヨタ一社の研究開発費だけで、たしか韓国全体の研究開発費レベル(1兆3000億円、長谷川慶太郎、「米金融危機は日本にとって千載一遇のチャンスだ」WILL 12月号)ではなかったか?。
今日、初めて、ビッグ1の1300と競争する機会を得た。突っ切れば突っ切れる位置であったが急停車した。すると右から右折で来たバイクがしきりにこちらを意識するかのような動作をして先に行った。400かなとおもって、発進していき、次の信号でならぶとフィンなしの1300だった。吹かすと、大きな音がする改造マフラーのようであった。
その気はなかったが、新アースコードをダブルでつけて、静かに走っていたが、マフラーからのノイズに誘われ、こちらもフル加速をしてしまった。以前から、マイクロロンなどで処理しておけば、高回転型の初代ビッグ1は、現行1300といい勝負をするだろうと予測はしていたが、マイクロロンがモータロイもどきに変わっただけだ。
結果は、十分についていけて楽しかった。音もしずかで、こちらはレッド近くまで回すが、緊迫感はない。もちろん相手はせいぜい6000回転ぐらいだったろうと思う。こちらは400であるかのように回せるので、回していればけっこう早い。やはりマイクロロンなどよりよさそうだと感じたが、基本的に、爆発火花特性が主で、潤滑系はその次という印象が現在の正直なところ。今のところ、アイドリングに毛の生えた程度のアクセル開度で、気持ちよくエンジンが吹けている感じで、そこからのつながりもストレス無く気持ちよい。変えたのは、アースコードだけ。それで、これだけフィーリングが変わることにビックリしている。今が、発売当時のままの素直な火花の実力だったのではないか!?という気がしている。
最後に相手が猛烈に加速したが、やがて、スピードを落として左折。だいたい、曲がる前の直前に、透かしっぺよろしくあおって走るタイプが割と多い気がする。その後、マイエンジンも音といい、加速といい、さらに調子がよくなった感じで、アースコードを念入りに作ったものに換えたことは、今回は失敗ではなかったようだ。すると、いままでの取り付けは、いったい何だったのだという思いもあるが、いろいろ試行錯誤した結果の改良結果の満足感もある。
木曜日, 11月 20, 2008
プラグの汚れ具合のチェックの際、シリンダーヘッドアースの取り付け部から、軽くオイルが滲んでいるのに気がついた。それで増締めをしておいたのだが、今日になって、今まであまり見かけないことに気づき、昼休み明るいところで一度外してみた。この前付けた時は夜暗い場所で、一時的テストのつもりで自販機の明かりを頼りに装着したのだった。
今日外してみたら、端子は、シリンダヘッドと直づけづけ位置にあったが、そこは黒く塗られている部分で、その上にゴムクッションのついたワッシャーがのり、ゴム部で端子を押し付けていて、そこが変形していた。ボルトの芯とよく接触しない限り、これでは大してアース効果はなく、シリンダーヘッドからの電流は、しかたなくシリンダヘッドに食い込むヘッドカバー締めつけボルトと直接接触するように締め直した。こうすると、ゴムパッキンのついたワッシャーのゴム部とも触れ合わずゴム部は、オイルシールの役割を、元のように果たすことになる。
ただし、シリンダーヘッドのアルミと直接は触れず、鉄を主成分とするボルトとワッシャーの
金属部分とだけメインに接触するので、電気の流れは、わずかな長さだが、鉄を介して行われる。それでも、シリンダーを固定する長い鉄製ボルトを通してクランクケースへ逃げるだけよりはましだろうと思う。
そのため、もう一本同様な方法で新品のアースを反対側のシリンダーヘッドから取るようにし、もう一本の端は、バッテリーアースと直結させず、そのすぐ脇のセルモーター固定ボルトに直づけした。
自作モータロイをつくったとき、ハンダは大量に残ったので、余ったアース線を新しく適当な長さに切り、新鮮なままの銅線をむき出しにして、カシメる前にアース線の両端を、新品の筆にたっぷり墨を吸わせる容量で、銅線両端にまずハンダをたっぷりしみ込ませ、その後も、端子と銅線をハンダづけし、軽くカシメるといった方法で、会心の作のアースケーブルを日本用意しておいた。未使用品である。
それまでは、ハンダ付けアース線といっても、最初はカシメただけで使用していて、後から、ハンダ付けしなおしたもので、銅線分は雨にぬれたり、オイルがしみ込んだり、とりあえず何とか端子と銅線をハンダづけした(つもり)のものであった。しかも、ハンダ鏝に付属したイトハンダは、量がすくなく、ほかの目的でも使用したりして、すぐに切らしてしまい、今から思うと気休め程度だったかもしれない。
それで、2本ともシリンダーヘッドにつけてから、念のため、始動テスト。軽く始動して問題なさそう。さらに軽くアクセルをあおってみると、拭け上がりの音がまるで違う。それで、すぐさま庭を一周してみたが、新次元の走りとでもいう感じ。力強い。
夕方、帰るのが待ち遠しい。暖機をちょっとして乗り出す前に、まずヘッドライトが以前よりずいぶん明るいことに気づいた。こ、これは!?。シリンダヘッドアースをつけたり外したり、かなり長い間試行錯誤してきたが、こんなに元気になったのは、今回が初めて。
走り出すと、いくぶん力強く感じる。今朝までとは音と走行感覚がかなりちがう。走り出して暖まり出すといっそう違いが感じられる。
一言で言ってしまえば、バイクのエンジンから車のエンジンに載せ換えたような感じ。まるで別物のようだ。これまでのアースでは、爆発波がノコギリ波のようだとしたら、今回は、それが先端が丸く幅が広がった感じで、ショートストロークピストンがロングストロークピストンに変わったかのよう。いわば、強い火花の持続時間が明らかに長くなったような感じである。
したがって、爆発がコンスタントに続いている感じで、振動も当然ながら、低レベル。エンジンが行儀良くきちんと回る感じとでもいったらよいのだろうか。
10キロ以上走った後で、飛ばして抜こうとする4輪と並走したが、慌てずに走れる。静かに差を広げて行く様は小気味よい。とにかくエンジンは別物の感じで、火花特性だけでこんなにも差があるものか!?と、また、ハンダをていねいに付けたアース線の効き目にも、予想した以上の結果がでてビックリ。
それで、ネットでシリンダーヘッドアースを調べてみたが、製品版や自作にしても、ハンダ付けについては記載がないようで、効果があったのは付けた直後だけで、慣れてしまったのかあまり効き目がないというような報告も少なくない。
以下のサイトでは、一応きちんと!?シリンダーヘッドアースをした場合の効能などが述べられている。
http://yoyoyo.s21.xrea.com/a-sinngu.htm
『具体的なアーシングの効果をここに書いておきます。
(1)低速トルクのアップ、燃費の向上、排気ガスのクリーン化
(2)エンジンの始動性の向上、アイドリングの安定化
(3)ヘッドライトの光量アップ
(4)オーディオの音質の向上』
などとなっていて、オーディオはついていないが、ホーン音も少し音色が変化したかなという感じは、あった。また、帰り際の暖機中に、臭いが感じられず、排気口まで鼻を近づけてやっと、少しはあるんだな、と感じた点でも、上の効果に指摘されている状態と一致してくる。
となれば、低速トルクもアップした感じなので、燃費の向上も期待できそうな感じである。
しかし、走り出した最初から、ある種の重さを感じてはいた。翌朝、この秋一番の冷え込みが来て、始動して走り出したら、昨日よりいっそう重い。これでは、以前ミラクルパワーを初めてつけたときのような感じで、燃費は悪そうとは計るまえから想像できた。案の上、満タンにして走ってみたら、過去最悪の13キロ。
その日はそれで、一日考えてみた。頭が混乱する。新しく、ていねいに作ったハンダづけアースコードは確かに、ランプは明るいし、始動性もよく、パワーもある。しかし、燃費は落ちている。それは走ってみてエンジンが重く感じることから、予想もできる。何故、そういう結果なのかがまるきりわからない。しかし、コード一本で調子が劇的に変わったことは確かだ。
残りもう一本のアースコードは古いものをそのまま使っている。これは新しいものを付ける前には調子がよく、最近の臨時燃費は15.7だった。古いコードをもう一本つけて、2本ともバッテリーアースと直結したときは、17.0まで行くにはいったが、途中、ゴツゴツ感が出てきて、2本とも外したが、それではパワー感があまりになさすぎ、一本だけ戻していたものだ。
夕方、運転を頼まれ、走行一万未満の新車にちかい状態の運転をしたら、新車らしいエンジンフィーリングを随所に感じて走れた。こういう、エンジンが固いなりにも、アクセルレスポンスがアクセルに応じて微妙に変わる吹け上がりを感じて、こんな感じにアースコードを組み合わせてフィーリングが変化したら、きっとそれはエンジンのためにもよいだろうと、考えざるをえなかった。
それで、さっそく乗り出す前に、新品のシリンダーアースを、旧品の、バッテリーアース線とつないであったものと換えた。接続は、あと数通りつなぎ換える目的で軽くしめておいた。もう一本の昨日付け替えた新品はそのままクランクケース直結のまま。
それで、仮走行のつもりで始動。かかりはもちろん良い。走り出して、すぐ、意外にもさっき運転した新車のエンジンのような感じで、朝のあの重さは見事に消えている。違いは、一本のアースコードが古いか新しいかだけ。これで、あの古くからのアースコードが原因だとわかる。10キロ以上走ってみて、走行感覚に変化がなく、きもちよい、すなおなアクセルレスポンスを確認する。このままでほかを変えなくともいいじゃないかとさえ思うが、念のため、昨日追加した新品アースを、今日の新品アースとダブルにして、バッテリーアースと直結してみてどう変わるか試したら、ほとんど変わらずに若干力強さがました感じで、やはりダブルにすると、以前同様力強い。しかも、ゴツゴツ感が増加することもなく、フィーリングが変化せず、良好のまま。それでも用心してまた10キロ以上走ってみたが、安定した感じなので、改めて、アース線の仮締めを、きちんとしたトルクで締めつける。
明るさは過去最高。車検場で、照度不足を指摘されたときは、古いアースコードのままだった。それなりに調子がよかったので、信頼して使い続けたのだが、ハンダづけといっても、後から用心のために、端子と銅線の周りを上塗りした程度だったし、かなり時間がたってからのしょりだったので、撚った銅線の束全体に、ハンダがしみ込んだような状態ではなかった。今回の2本は、どちらも端の4端が、ハンダが銅線の束全体が導体となるよう配慮してハンダづけした特注品だ。
これをつけたら、悪電流を整流してくれるという、にんじん君の機能をフルにサポートしだした感じだ。アクセルレスポンスが、フレキシブルで、夕方運転した新車状態のクルマで感じたフィーリング然としていて、気持ちよい。寒いけど、ずっと乗っていたい感じだ。今日のチャレンジはこれでおしまい。あとは、結果は寝て待つだけ、といった気分である。
あの重さのまま、慣らし運転を続けてみるか、という選択肢もあるにはあった。しかし、新しいアースコード一本で劇的に調子が変わったのなら、古いままのコードも、新しいものに換えてみたくなるのも人情。しかも、自作モータロイ投入後、3000キロを過ぎたあたり。本来、慣らし云々の時期でもあるまい。そのままの状態で、気持ちよく回るアースコードの接続方法のアレンジがあるはずだという、演繹的思考は、当たった感じだ。混乱したときは、原則に帰ることがやはり大事なようだ。結果がよければ、説明は適当に後からついてくるものだ。
今日外してみたら、端子は、シリンダヘッドと直づけづけ位置にあったが、そこは黒く塗られている部分で、その上にゴムクッションのついたワッシャーがのり、ゴム部で端子を押し付けていて、そこが変形していた。ボルトの芯とよく接触しない限り、これでは大してアース効果はなく、シリンダーヘッドからの電流は、しかたなくシリンダヘッドに食い込むヘッドカバー締めつけボルトと直接接触するように締め直した。こうすると、ゴムパッキンのついたワッシャーのゴム部とも触れ合わずゴム部は、オイルシールの役割を、元のように果たすことになる。
ただし、シリンダーヘッドのアルミと直接は触れず、鉄を主成分とするボルトとワッシャーの
金属部分とだけメインに接触するので、電気の流れは、わずかな長さだが、鉄を介して行われる。それでも、シリンダーを固定する長い鉄製ボルトを通してクランクケースへ逃げるだけよりはましだろうと思う。
そのため、もう一本同様な方法で新品のアースを反対側のシリンダーヘッドから取るようにし、もう一本の端は、バッテリーアースと直結させず、そのすぐ脇のセルモーター固定ボルトに直づけした。
自作モータロイをつくったとき、ハンダは大量に残ったので、余ったアース線を新しく適当な長さに切り、新鮮なままの銅線をむき出しにして、カシメる前にアース線の両端を、新品の筆にたっぷり墨を吸わせる容量で、銅線両端にまずハンダをたっぷりしみ込ませ、その後も、端子と銅線をハンダづけし、軽くカシメるといった方法で、会心の作のアースケーブルを日本用意しておいた。未使用品である。
それまでは、ハンダ付けアース線といっても、最初はカシメただけで使用していて、後から、ハンダ付けしなおしたもので、銅線分は雨にぬれたり、オイルがしみ込んだり、とりあえず何とか端子と銅線をハンダづけした(つもり)のものであった。しかも、ハンダ鏝に付属したイトハンダは、量がすくなく、ほかの目的でも使用したりして、すぐに切らしてしまい、今から思うと気休め程度だったかもしれない。
それで、2本ともシリンダーヘッドにつけてから、念のため、始動テスト。軽く始動して問題なさそう。さらに軽くアクセルをあおってみると、拭け上がりの音がまるで違う。それで、すぐさま庭を一周してみたが、新次元の走りとでもいう感じ。力強い。
夕方、帰るのが待ち遠しい。暖機をちょっとして乗り出す前に、まずヘッドライトが以前よりずいぶん明るいことに気づいた。こ、これは!?。シリンダヘッドアースをつけたり外したり、かなり長い間試行錯誤してきたが、こんなに元気になったのは、今回が初めて。
走り出すと、いくぶん力強く感じる。今朝までとは音と走行感覚がかなりちがう。走り出して暖まり出すといっそう違いが感じられる。
一言で言ってしまえば、バイクのエンジンから車のエンジンに載せ換えたような感じ。まるで別物のようだ。これまでのアースでは、爆発波がノコギリ波のようだとしたら、今回は、それが先端が丸く幅が広がった感じで、ショートストロークピストンがロングストロークピストンに変わったかのよう。いわば、強い火花の持続時間が明らかに長くなったような感じである。
したがって、爆発がコンスタントに続いている感じで、振動も当然ながら、低レベル。エンジンが行儀良くきちんと回る感じとでもいったらよいのだろうか。
10キロ以上走った後で、飛ばして抜こうとする4輪と並走したが、慌てずに走れる。静かに差を広げて行く様は小気味よい。とにかくエンジンは別物の感じで、火花特性だけでこんなにも差があるものか!?と、また、ハンダをていねいに付けたアース線の効き目にも、予想した以上の結果がでてビックリ。
それで、ネットでシリンダーヘッドアースを調べてみたが、製品版や自作にしても、ハンダ付けについては記載がないようで、効果があったのは付けた直後だけで、慣れてしまったのかあまり効き目がないというような報告も少なくない。
以下のサイトでは、一応きちんと!?シリンダーヘッドアースをした場合の効能などが述べられている。
http://yoyoyo.s21.xrea.com/a-sinngu.htm
『具体的なアーシングの効果をここに書いておきます。
(1)低速トルクのアップ、燃費の向上、排気ガスのクリーン化
(2)エンジンの始動性の向上、アイドリングの安定化
(3)ヘッドライトの光量アップ
(4)オーディオの音質の向上』
などとなっていて、オーディオはついていないが、ホーン音も少し音色が変化したかなという感じは、あった。また、帰り際の暖機中に、臭いが感じられず、排気口まで鼻を近づけてやっと、少しはあるんだな、と感じた点でも、上の効果に指摘されている状態と一致してくる。
となれば、低速トルクもアップした感じなので、燃費の向上も期待できそうな感じである。
しかし、走り出した最初から、ある種の重さを感じてはいた。翌朝、この秋一番の冷え込みが来て、始動して走り出したら、昨日よりいっそう重い。これでは、以前ミラクルパワーを初めてつけたときのような感じで、燃費は悪そうとは計るまえから想像できた。案の上、満タンにして走ってみたら、過去最悪の13キロ。
その日はそれで、一日考えてみた。頭が混乱する。新しく、ていねいに作ったハンダづけアースコードは確かに、ランプは明るいし、始動性もよく、パワーもある。しかし、燃費は落ちている。それは走ってみてエンジンが重く感じることから、予想もできる。何故、そういう結果なのかがまるきりわからない。しかし、コード一本で調子が劇的に変わったことは確かだ。
残りもう一本のアースコードは古いものをそのまま使っている。これは新しいものを付ける前には調子がよく、最近の臨時燃費は15.7だった。古いコードをもう一本つけて、2本ともバッテリーアースと直結したときは、17.0まで行くにはいったが、途中、ゴツゴツ感が出てきて、2本とも外したが、それではパワー感があまりになさすぎ、一本だけ戻していたものだ。
夕方、運転を頼まれ、走行一万未満の新車にちかい状態の運転をしたら、新車らしいエンジンフィーリングを随所に感じて走れた。こういう、エンジンが固いなりにも、アクセルレスポンスがアクセルに応じて微妙に変わる吹け上がりを感じて、こんな感じにアースコードを組み合わせてフィーリングが変化したら、きっとそれはエンジンのためにもよいだろうと、考えざるをえなかった。
それで、さっそく乗り出す前に、新品のシリンダーアースを、旧品の、バッテリーアース線とつないであったものと換えた。接続は、あと数通りつなぎ換える目的で軽くしめておいた。もう一本の昨日付け替えた新品はそのままクランクケース直結のまま。
それで、仮走行のつもりで始動。かかりはもちろん良い。走り出して、すぐ、意外にもさっき運転した新車のエンジンのような感じで、朝のあの重さは見事に消えている。違いは、一本のアースコードが古いか新しいかだけ。これで、あの古くからのアースコードが原因だとわかる。10キロ以上走ってみて、走行感覚に変化がなく、きもちよい、すなおなアクセルレスポンスを確認する。このままでほかを変えなくともいいじゃないかとさえ思うが、念のため、昨日追加した新品アースを、今日の新品アースとダブルにして、バッテリーアースと直結してみてどう変わるか試したら、ほとんど変わらずに若干力強さがました感じで、やはりダブルにすると、以前同様力強い。しかも、ゴツゴツ感が増加することもなく、フィーリングが変化せず、良好のまま。それでも用心してまた10キロ以上走ってみたが、安定した感じなので、改めて、アース線の仮締めを、きちんとしたトルクで締めつける。
明るさは過去最高。車検場で、照度不足を指摘されたときは、古いアースコードのままだった。それなりに調子がよかったので、信頼して使い続けたのだが、ハンダづけといっても、後から用心のために、端子と銅線の周りを上塗りした程度だったし、かなり時間がたってからのしょりだったので、撚った銅線の束全体に、ハンダがしみ込んだような状態ではなかった。今回の2本は、どちらも端の4端が、ハンダが銅線の束全体が導体となるよう配慮してハンダづけした特注品だ。
これをつけたら、悪電流を整流してくれるという、にんじん君の機能をフルにサポートしだした感じだ。アクセルレスポンスが、フレキシブルで、夕方運転した新車状態のクルマで感じたフィーリング然としていて、気持ちよい。寒いけど、ずっと乗っていたい感じだ。今日のチャレンジはこれでおしまい。あとは、結果は寝て待つだけ、といった気分である。
あの重さのまま、慣らし運転を続けてみるか、という選択肢もあるにはあった。しかし、新しいアースコード一本で劇的に調子が変わったのなら、古いままのコードも、新しいものに換えてみたくなるのも人情。しかも、自作モータロイ投入後、3000キロを過ぎたあたり。本来、慣らし云々の時期でもあるまい。そのままの状態で、気持ちよく回るアースコードの接続方法のアレンジがあるはずだという、演繹的思考は、当たった感じだ。混乱したときは、原則に帰ることがやはり大事なようだ。結果がよければ、説明は適当に後からついてくるものだ。
水曜日, 11月 19, 2008
モータロイもどき投入後、2800キロを越えた。だいたい2500キロあたりから、不十分ながら一応エンジン全体に回り、なじみが出てきて、いわば一皮むけた、といった感じ。
しかし、また3000に近づくにつれ、エンジンはさらに変化して行き、今度は3000回転以上回そうとすると、かなりピストンが抵抗する感じで、なじみがでたらでたで、その状態でまたさらなる慣らしの必要性を感じた。一度、高速道で飛ばすと、バックミラーのブレが最初かなり大きかったが、降りる頃には少し落ち着いた。抵抗なく回る感じは(摩擦については)相変わらずよく、高回転域での十分な慣らしが済めば、いったいどんな感じになるのだろう!?と期待する。
以上述べたように、特に自作モータロイについて、気になる点はあまりない。ただ、かなり気長に乗らないと、即効性はないので、期待はずれに終わるかも知れない。一年ぶりに、弟さんの(モータロイ)車をみたら、さらに静かになっていた、などという体験談が示すように、半年とか5000キロ以上とかいったスパンで見ないと、評価しずらいような気がだんだんしてきている。
あと、エンジン内部のカーボンを落とす(特に初期の段階では)といった効能もあったように思い出し、久しぶりにプラグの汚れをチェックしてみた。左側2本が、まだシリンダーアースもなく、にんじん君だけぐらいだったと思う。右は、シリンダーアースつきで、モータロイもどきの4番プラグ。
右の電極は、狐色に焼けている部分が大きく、以前よりは火花は確実に強いことをうかがわせる。左の一本は、特に電極までほとんど真っ黒だ。今回初めて気づいたが、以前プラグ交換の時、シリンダー番号をマジックで書いておいた。ちょっと見には、皆カーボンがついて黒いので、たいした差はないものと思っていたが、外した三本はすくないながら、電極が狐色で、一本だけ電極もかなり黒い。番号を見たら、一番シリンダーだった。
いぜん、ミラクルパワーを一本づつ増設したとき、左端(1番)プラグにつけたとき、一番効いた話をしたが、そのことがこの黒さで裏付けられた格好だ。今回面倒なので、右側の4番プラグしか外さなかったが、一番もきっと、今度は適当に焼けているだろうと思った。
カーボンは、ちょっと触るとぱらぱらと剥げ落ちる感じで、無鉛ガソリンの燃え方としては、若干まだガスが濃い感じだが、以前よりはいいと思う。昔のモータロイ使用時は、2サイクルも含めて、いちおう有鉛か、有鉛っぽいガソリンだったから、電極のまわりに狐色のざらついた粒々が付いていたものだった。燃費は、まだ、同じか少し悪い状態だ。
少し寒くなったし、回しだしたら、かなり静かによく回ってくれる。
日曜日, 11月 16, 2008
Column of the History
82.日本は「中国侵略」等していない!! (2000.11.22)
というコラムを見つけた。日付を見ると前世紀の話である。
『昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦迄、実に8年間の長期にわたって続いた「日中戦争」(支那事変・日華事変)。この「日中戦争」を、支那は日本軍国主義による「中国侵略」だと主張し、日本の歴代政権に対して、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と、「正しい歴史認識」の強要をしてきました。しかし、・・・・』
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/chugoku_shinryaku.html
侵略ということばの定義は、一時小室直樹博士の著作で、侵略したとされる側が、侵略だと思えば侵略、そうでなければ自衛というか、侵攻といったようなコメントを読んだ記憶がある。
ウィキペディアでは、こういう定義っぽい記述があるが、さすがに、具体例は皆無である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/侵略
『侵略(しんりゃく、aggression)は、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、自衛ではなく、一方的にその主権・領土や独立を侵すこと。攻撃して攻め入る侵攻(invasion)と異なり、相手の主権・政治的独立を奪う行為のことである。また、そのために武力を行使して争うことを侵略戦争と言う。1974年12月14日の国連総会決議3314により現代国際法上の侵略の定義が初めて定まった。しかしながら、国連総会で侵略の定義についての一応の合意があったことは事実ではあるが、なお、その解釈や有効性については争いがあり、国際法学者の中でも、侵略の定義について過大な期待は禁物であるとする見解がある。
なお一般的には、たとえ主権・領土・独立を侵したとしても、その国の危険な政策を改めるためになされる場合は、それが一時的であり、相手に発言の機会を与え、目的の達成後に独立させるときに限り侵略とはみなされない。』
宮崎正弘の国際ニュース・早読み
http://www.melma.com/backnumber_45206_4291552/
では、読者の声4で、『侵出の大規模なものは侵攻とすれば、侵出も侵攻も、同じ感じで使えますし、すっきりします」』という前日の読者投稿への反論として、
『挑発された結果、つまり自衛目的の侵出か、自発的な侵攻かの区別は国際法上明確です。より厳密にいえば、「曖昧さの程度」が明確です。
自衛か自衛でないかは、「autointepretation」によるとされています。』と反論し、さらに『外交上、国際法上「autointepretation」の意味は、「自身」(self)が「(条約上定義がはっきりしないことに対して)当該国が自衛か自衛でないかを判断すること」つまり、自衛目的の侵出か、攻撃目的の侵出かは当該国の判断によるというものです。
ただし明らかに事前に準備して、武力を持って境界線を越えて軍事行動を行なった場合、たとえばノモンハン事件におけるモンゴル軍・ソ連軍連合軍が行なったのは侵攻でした・・・』と指摘している。
そのノモンハン事件であるが、最近でも、半藤氏でなくと、氏同様の「誤解」がまかり通っていて、「戦後文化」の洗脳が色濃く残っていると、思わざるを得ない。
右翼人の定義はいろいろあるだろうが、数学の分野で金字塔を達成し、吉川英治氏らと文化勲章を受けた岡潔博士も、一時最古参としてある書には名前があった。二十年近く前の話であるが。戦後、こうした時代を予告するがの如く、敗戦の影響で日本人が自己喪失して「茫然自失」している状況をなんとかしないと、という思いであったのだろう、この茫然自失から抜け出すためには何よりも自覚が大事と説かれていた。あの『自覚』の意味を問うて多くの時間が流れたが、未だにその「自覚」に到達した、という思いはない。そして、日本が再びその覚醒に至るには、一世紀を要しようという予測を中国の賢人がしている、と指摘していた。
ところで、岡潔博士のいう自覚とは、純粋日本人ということらしい。
『パリへ行って、日本にあってここにない何か非常に大切なもののあることを覺り、(それが「情」であることはすぐにわかったが、それが日本人にどう入っているか見ようとして)日本人(原型の)日本人はどんな人か見ようとした。始めはそれを芭蕉翁に求め、ここでいわば鉛筆で素描し、墨を入れるために、十数年道元禅師(村上天皇7代の孫)を「正法眼蔵」(上・中・下、岩波文庫)に追い求め、遂に「生死去来」の四字に追いつめ、これに思いを凝らして彼に会い、日本人の原型を見ると共に自分もそうであることを知った。これが彼の自覚である。「日本の心」(岡潔、講談社、1968)、となっていて、当時思った「自覚」とは微妙にずれて私の理解は限定的かもしれない。
三河島事件での項(「春宵十話」1963、毎日新聞社)で、これは教育問題なのに誰もそれを指摘しないが、教育問題としか思えない、としている。(「三河島惨事と教育」113〜114)
尼崎事故事故最終報告にも、日勤教育などの問題が指摘されていたようだが、岡博士の指摘は学校教育の現場である。
『いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているいうだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答えが合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。こんなのが大きくなったら大事故が起こるのは当たり前だと思う。惨事があればそんな教育であることが連想され、また教育をみればすぐ惨事が連想される。』
『マックアーサーは日本人の精神年齢は12歳だといったが、それは理性の発育だけを見たからで、本当は15歳程度だと思う。人でいえば生涯の動向を決める時期と言える。ところがあのころ、進駐軍によってやらされたかのかどうかは知らないが、アメリカのやり方をまね、今もそのままやっている。あらゆるものが、みな改悪だと言ってよい。・・・』などとある。
この写真は、アメリカ建国史を概説した『We Americans』に載っていた初期の算術書の一例で、当時から多色刷りであり、こうした伝統が引き継がれて戦後教育になったのであろうか?
側頭葉、前頭葉の区別の是非などは、通常かなり分かりにくく、相当選ばれた人でないと理解不能かもしれないが。また、図版の最後、イチゴ9個を3等分する図では、9÷3となるべきと思うが、9-3と印刷されている。
さらに、数学教育について、明確に述べている部分があって、岡博士お得意の、大脳前頭葉問題が出てくる。
『その一つは、水道方式というものについてである。わたしは「算数に強くなる」(毎日新聞社出版)をていねいに通読したが、水道方式は大脳側頭葉しか使わず(この場合は衝動的判断しかできず)、大脳前頭葉を使おうとしても使う余地がない。だから水道方式による数の計算は数学ではない』というもの。
『いま一つは、小学校一年の算数の教科書である。これは一口にいうと、色を使って算数を教えている。しかし、色を識別するためには、大脳側頭葉を使うほかはないのだから、大脳側頭葉で判断する癖をつけてしまう。私の聞いたところによると、アメリカの南部に黒人のみを教えている小学校があるが、これはそこで教科書として使っているものを、進駐軍のすすめで文部省が取り入れたのだということである。・・・そうするとインスピレーション型の発見のみが可能になるが、解析学においてはともかく、代数学でこれのできる人は数が非常に減ってしまう。この一年の教科書は、ぜひ廃止してほしいものである。』とあり、括弧でくくって
さらに『私は、何よりも水道方式を止めたかったのあります。色々えらそうなことを言って大変失礼しましたが、そのためだったのですから、お許しください。』となっている。(日本の心)。
高校時代に読んだ、野末陳平氏の本だと思うが、スエズ運河:ナセルの成せるワザとかあったように思うが、進駐軍によってもたらされた学制改革(!?)の6・3・3制を、テキサスあたりの黒人を教えるシステムの真似というような意味のことが書いてあった。岡博士の提言も私の中学、高校時代とほぼ一致するから、時代の雰囲気というものがあったのだろう。国会決議で、日本にはA級戦犯などいない、という決議もあった時代だが、後年村山談話は、国会で決議しようとして無理とわかり、突然閣議でこういうものを出しますから、と抜き打ちに発表したものだったはず。ならば、国会決議の方が上位にくるべき筋でしょうが、いまはそんなことすら問題にしない、できない時代なのだろう。
小室博士も、教科書で、日本人は悪だ、侵略者だ、殺人者だと教えているから、そのうち、生徒による殺人が、親殺しなどいくらでも出てくるだろうと批判したが、そのとおりの社会状況になっているかの如き感もある。
国会で、田母神論文の質疑があったが、田母神氏の主張の是非を論ずることのできる議員は居らず、ひたすら、ワンパターンに沿っているかいないかだけの堂々巡り的な話題作りで終わってしまった。日本の国会は、 the Dietであって、Parliamentや、Congressではないことをここでも露呈。(ORIGIN late Middle English : from medieval Latin dieta ‘day's work, wages, etc.,’ also ‘meeting of councilors.’)
誰が、いつごろ、日本の国会をDietと認識したのか、興味がつきない。
82.日本は「中国侵略」等していない!! (2000.11.22)
というコラムを見つけた。日付を見ると前世紀の話である。
『昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦迄、実に8年間の長期にわたって続いた「日中戦争」(支那事変・日華事変)。この「日中戦争」を、支那は日本軍国主義による「中国侵略」だと主張し、日本の歴代政権に対して、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と、「正しい歴史認識」の強要をしてきました。しかし、・・・・』
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/chugoku_shinryaku.html
侵略ということばの定義は、一時小室直樹博士の著作で、侵略したとされる側が、侵略だと思えば侵略、そうでなければ自衛というか、侵攻といったようなコメントを読んだ記憶がある。
ウィキペディアでは、こういう定義っぽい記述があるが、さすがに、具体例は皆無である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/侵略
『侵略(しんりゃく、aggression)は、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、自衛ではなく、一方的にその主権・領土や独立を侵すこと。攻撃して攻め入る侵攻(invasion)と異なり、相手の主権・政治的独立を奪う行為のことである。また、そのために武力を行使して争うことを侵略戦争と言う。1974年12月14日の国連総会決議3314により現代国際法上の侵略の定義が初めて定まった。しかしながら、国連総会で侵略の定義についての一応の合意があったことは事実ではあるが、なお、その解釈や有効性については争いがあり、国際法学者の中でも、侵略の定義について過大な期待は禁物であるとする見解がある。
なお一般的には、たとえ主権・領土・独立を侵したとしても、その国の危険な政策を改めるためになされる場合は、それが一時的であり、相手に発言の機会を与え、目的の達成後に独立させるときに限り侵略とはみなされない。』
宮崎正弘の国際ニュース・早読み
http://www.melma.com/backnumber_45206_4291552/
では、読者の声4で、『侵出の大規模なものは侵攻とすれば、侵出も侵攻も、同じ感じで使えますし、すっきりします」』という前日の読者投稿への反論として、
『挑発された結果、つまり自衛目的の侵出か、自発的な侵攻かの区別は国際法上明確です。より厳密にいえば、「曖昧さの程度」が明確です。
自衛か自衛でないかは、「autointepretation」によるとされています。』と反論し、さらに『外交上、国際法上「autointepretation」の意味は、「自身」(self)が「(条約上定義がはっきりしないことに対して)当該国が自衛か自衛でないかを判断すること」つまり、自衛目的の侵出か、攻撃目的の侵出かは当該国の判断によるというものです。
ただし明らかに事前に準備して、武力を持って境界線を越えて軍事行動を行なった場合、たとえばノモンハン事件におけるモンゴル軍・ソ連軍連合軍が行なったのは侵攻でした・・・』と指摘している。
そのノモンハン事件であるが、最近でも、半藤氏でなくと、氏同様の「誤解」がまかり通っていて、「戦後文化」の洗脳が色濃く残っていると、思わざるを得ない。
右翼人の定義はいろいろあるだろうが、数学の分野で金字塔を達成し、吉川英治氏らと文化勲章を受けた岡潔博士も、一時最古参としてある書には名前があった。二十年近く前の話であるが。戦後、こうした時代を予告するがの如く、敗戦の影響で日本人が自己喪失して「茫然自失」している状況をなんとかしないと、という思いであったのだろう、この茫然自失から抜け出すためには何よりも自覚が大事と説かれていた。あの『自覚』の意味を問うて多くの時間が流れたが、未だにその「自覚」に到達した、という思いはない。そして、日本が再びその覚醒に至るには、一世紀を要しようという予測を中国の賢人がしている、と指摘していた。
ところで、岡潔博士のいう自覚とは、純粋日本人ということらしい。
『パリへ行って、日本にあってここにない何か非常に大切なもののあることを覺り、(それが「情」であることはすぐにわかったが、それが日本人にどう入っているか見ようとして)日本人(原型の)日本人はどんな人か見ようとした。始めはそれを芭蕉翁に求め、ここでいわば鉛筆で素描し、墨を入れるために、十数年道元禅師(村上天皇7代の孫)を「正法眼蔵」(上・中・下、岩波文庫)に追い求め、遂に「生死去来」の四字に追いつめ、これに思いを凝らして彼に会い、日本人の原型を見ると共に自分もそうであることを知った。これが彼の自覚である。「日本の心」(岡潔、講談社、1968)、となっていて、当時思った「自覚」とは微妙にずれて私の理解は限定的かもしれない。
三河島事件での項(「春宵十話」1963、毎日新聞社)で、これは教育問題なのに誰もそれを指摘しないが、教育問題としか思えない、としている。(「三河島惨事と教育」113〜114)
尼崎事故事故最終報告にも、日勤教育などの問題が指摘されていたようだが、岡博士の指摘は学校教育の現場である。
『いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているいうだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答えが合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。こんなのが大きくなったら大事故が起こるのは当たり前だと思う。惨事があればそんな教育であることが連想され、また教育をみればすぐ惨事が連想される。』
『マックアーサーは日本人の精神年齢は12歳だといったが、それは理性の発育だけを見たからで、本当は15歳程度だと思う。人でいえば生涯の動向を決める時期と言える。ところがあのころ、進駐軍によってやらされたかのかどうかは知らないが、アメリカのやり方をまね、今もそのままやっている。あらゆるものが、みな改悪だと言ってよい。・・・』などとある。
この写真は、アメリカ建国史を概説した『We Americans』に載っていた初期の算術書の一例で、当時から多色刷りであり、こうした伝統が引き継がれて戦後教育になったのであろうか?
側頭葉、前頭葉の区別の是非などは、通常かなり分かりにくく、相当選ばれた人でないと理解不能かもしれないが。また、図版の最後、イチゴ9個を3等分する図では、9÷3となるべきと思うが、9-3と印刷されている。
さらに、数学教育について、明確に述べている部分があって、岡博士お得意の、大脳前頭葉問題が出てくる。
『その一つは、水道方式というものについてである。わたしは「算数に強くなる」(毎日新聞社出版)をていねいに通読したが、水道方式は大脳側頭葉しか使わず(この場合は衝動的判断しかできず)、大脳前頭葉を使おうとしても使う余地がない。だから水道方式による数の計算は数学ではない』というもの。
『いま一つは、小学校一年の算数の教科書である。これは一口にいうと、色を使って算数を教えている。しかし、色を識別するためには、大脳側頭葉を使うほかはないのだから、大脳側頭葉で判断する癖をつけてしまう。私の聞いたところによると、アメリカの南部に黒人のみを教えている小学校があるが、これはそこで教科書として使っているものを、進駐軍のすすめで文部省が取り入れたのだということである。・・・そうするとインスピレーション型の発見のみが可能になるが、解析学においてはともかく、代数学でこれのできる人は数が非常に減ってしまう。この一年の教科書は、ぜひ廃止してほしいものである。』とあり、括弧でくくって
さらに『私は、何よりも水道方式を止めたかったのあります。色々えらそうなことを言って大変失礼しましたが、そのためだったのですから、お許しください。』となっている。(日本の心)。
高校時代に読んだ、野末陳平氏の本だと思うが、スエズ運河:ナセルの成せるワザとかあったように思うが、進駐軍によってもたらされた学制改革(!?)の6・3・3制を、テキサスあたりの黒人を教えるシステムの真似というような意味のことが書いてあった。岡博士の提言も私の中学、高校時代とほぼ一致するから、時代の雰囲気というものがあったのだろう。国会決議で、日本にはA級戦犯などいない、という決議もあった時代だが、後年村山談話は、国会で決議しようとして無理とわかり、突然閣議でこういうものを出しますから、と抜き打ちに発表したものだったはず。ならば、国会決議の方が上位にくるべき筋でしょうが、いまはそんなことすら問題にしない、できない時代なのだろう。
小室博士も、教科書で、日本人は悪だ、侵略者だ、殺人者だと教えているから、そのうち、生徒による殺人が、親殺しなどいくらでも出てくるだろうと批判したが、そのとおりの社会状況になっているかの如き感もある。
国会で、田母神論文の質疑があったが、田母神氏の主張の是非を論ずることのできる議員は居らず、ひたすら、ワンパターンに沿っているかいないかだけの堂々巡り的な話題作りで終わってしまった。日本の国会は、 the Dietであって、Parliamentや、Congressではないことをここでも露呈。(ORIGIN late Middle English : from medieval Latin dieta ‘day's work, wages, etc.,’ also ‘meeting of councilors.’)
誰が、いつごろ、日本の国会をDietと認識したのか、興味がつきない。
水曜日, 11月 12, 2008
『兵力差が圧倒的だった昭和12年』
まさしく前回、『技術戦としての第二次大戦』を紹介し、その後書き部分の一部だけを少し触れた。
ここでは、ノモンハンへ入る前の、日本が、何度も何度も自重して中国大陸への陸軍派遣をためらった揚げ句、蒋介石の攻撃に耐えかねて軍をすすめた昭和12年のあたりから、章だての順番にしたがって見ていきたい。
ちょうど昨日、国会で「日本は侵略国家ではなかった」との骨子の論文を書いた元航空幕僚長の田母神氏の国会での「参考人」質疑があったばかりである。
軍学者の兵頭氏が、第二次世界大戦は1939年のヒットラーによるポーランド侵攻によって始まったのではない、という書き出しで始まっている。
『昭和12年(1937年)8月13日の、蒋介石の「中央軍」による、日本海軍上海陸戦隊(しゃんりく)への総攻撃で始まった。これは1928年に諸国が合意したパリ不戦条約のれっきとした違反であって、支那側の侵略である。』
私はこのことをここ一年ほど前に別の手段で知ったばかりである。もちろん、最近の中国における日本大使館がデモ群衆に取り囲まれ、狼藉を受けて、中国側は窓ガラスの修理もしない、などという類いの範疇ではなく、すでにアメリカと内通していたであろう蒋介石の正規軍が、ドイツ製武器を豊富にそろえ、国際法上問題のない、しゃんりくへ軍事攻撃を仕掛けてきたのである。
ある人は、これを中国軍が先に侵略したから、日本軍による正当な反撃を受けたのである、と書いていたが、ウロコが1枚はがれた思いであった。
『それに対して昭和12年の7月の「盧溝橋事件」は「侵略」でも「開戦」でもなかった。___というのが『軍事史からみた「南京事件の真実」で展開された別宮先生の説得力あるご主張でしたね。』とある。
これを受けて、別宮氏も、ライシャワー元駐日大使(夫人は日本人)もほぼ同様の趣旨の見解を自伝の中ではっきりと示しているという。
『そうなると、支那事変は日本の侵略であるどころか正義の自衛戦争であって、まさしく「暴支」を「膺懲」したものにほかならなかったわけだ。しかるにそれが、あたかも日本の侵略のように戦後の歴史の教科書で教えられてしまっているのですけれども、いったい誰のせいなんですか?』とあって、ここ数日の騒ぎで何も田母神論への正式な反論がなかっただけに、やはりふだん日本人がクサイものにフタ式に避けているように思われる空間の重い存在に突き当たる。
『中国側の米英に対する宣伝上手と、正反対の日本人の宣伝下手のおかげでしょうね。中国軍の侵略を受けて、日本政府がすぐに宣戦布告できなかったのも、事を歴史的に曖昧にしてしまいました。そしてその後の日本の歴史家と文部省(日教組!?)がまた、、事実の究明を怠ってきたのです。』などとなっている。
昭和12年当時、蒋介石は南支を中心に最大で300万もの兵員動員が可能と見積もられ、当時日本はその1/10にしか最大でもならず、相手側に勝算あっての開戦だったろうと、推測している。
レマルクの「西部戦線異状なし、Im Westen nichts Neues」でも知られるように、1914〜1918年の第一次世界大戦が立証したところでは、鉄条網と機関銃で守りを固めた塹壕陣地に正面から接近突撃してくる敵部隊は、いかに精兵の大軍であっても大損害を蒙るだけで、決して勝てないものだそうである。それで、せいぜい数十万の日本軍が来たとしても勝手に自滅してくれるにちがいないと、大胆にも敵は踏んでいたのだろう、とこの本の二人は推測している。
支那軍は、ドイツ製の武器やヨーロッパ製の他国の武器を装備し、(チェッコ軽機、モーゼル大型拳銃など)で、軍事顧問には、第一次大戦の塹壕戦の経験者ののファルケンハウゼンだった、という。ワイマール共和国ドイツの参謀総長で、「現代のモルトケ」とまで言われた男であったという。
対する日本側は、陸士9期の荒木貞夫と同16期の小畑敏四郎(としろう)が、ファルケンハウゼンとおなじ東部戦線に、ロシア側観戦武官として派遣されていて、ロシア側のブルシロフ戦法こそが今後の歩兵戦術の主流になると直感して、すでに報告しているそうだ。
その後、この方法は連合軍の間でも周知となり、下士官のイニシアティブによる分隊(プラトーン)戦法が、先進各国陸軍の主流になっていった、という。
1937年の上海決戦、つまり上海周辺の大規模な塹壕突破戦と、南京に向けた掃討戦は、日露戦争での奉天開戦刺の大規模なものだという。
ドイツの職業軍人が設計した陣地に、国府軍の主力、中央軍をよりすぐった88師、87師などの将兵が配されて、日本陸軍は7個師団半20万人で戦ったという。(後に2個師団、5万を増派)
国府軍は25個師、33万人ぜークト線後方を含めると、75万人を南京から上海の間に集中していた、という。
蒋介石軍は、第一次大戦では通用した陣地構築をしていたが、松井岩根大将の率いる日本陸軍は、浸透戦術という新戦法で、爆弾3勇士の時の一面突破、全面展開ではなく、多面突破を行い、強固な陣地の後ろから攻めることができたという。25万の兵力が25万以上の戦死というという被害を与えたことは、にわかに信じがたいことでしょう、と記述している。
トーチカの中の機関銃に、自ら鎖でつなぐような士気の高いシナ兵たちもいた、というが、トーチカの銃眼を正確に狙える水平砲などの存在も大きかったらしい。
ドイツ人参謀たちは、日本軍が浸透戦術をとれるなどとは予想もしていなかったし、シナ人の「侮日」はポーズでなく本心だったから、負け出すとシナ兵たちは袋のネズミだった、とある。
あと、日本軍の手りゅう弾は、攻撃あいずぐらいにしか使えず、敵の手りゅう弾でそうとう被害を受けたとか、38式歩兵銃は、時代遅れと思われがちだが、500メートル以上の距離では、米軍の7.62ミリ弾より高速であった、などという指摘も。爆竹文化のシナ兵には、なるたけおおきい音の出る兵器でないと、心理的な威力がなかったとか、・・・・。38式歩兵銃は日本の武器の中で最も成功した輸出製品でもあった、という。第一次大戦中にロシアに100万挺以上、イギリスに30万梃以上で、評判もよかった、という。アラビアのロレンスは、灼熱のネジド砂漠で、ボルシェビキは極寒のロシアで使用したが、いずれも敵軍に勝利している、という。
38式歩兵銃は、1600メートルでも頭蓋骨や馬の脚を砕く性能があった、という。
もっとも、この戦いで、舗装路のほとんどないシナの大地を思い砲を引かされた軍馬はあわれで疲労でバタバタ倒れた、といい後は人力で運ぶしかなかった、ともいう。敵の逃げ足が速くて、とあるが、日本兵の進軍も速くはなかったかも。
まさしく前回、『技術戦としての第二次大戦』を紹介し、その後書き部分の一部だけを少し触れた。
ここでは、ノモンハンへ入る前の、日本が、何度も何度も自重して中国大陸への陸軍派遣をためらった揚げ句、蒋介石の攻撃に耐えかねて軍をすすめた昭和12年のあたりから、章だての順番にしたがって見ていきたい。
ちょうど昨日、国会で「日本は侵略国家ではなかった」との骨子の論文を書いた元航空幕僚長の田母神氏の国会での「参考人」質疑があったばかりである。
軍学者の兵頭氏が、第二次世界大戦は1939年のヒットラーによるポーランド侵攻によって始まったのではない、という書き出しで始まっている。
『昭和12年(1937年)8月13日の、蒋介石の「中央軍」による、日本海軍上海陸戦隊(しゃんりく)への総攻撃で始まった。これは1928年に諸国が合意したパリ不戦条約のれっきとした違反であって、支那側の侵略である。』
私はこのことをここ一年ほど前に別の手段で知ったばかりである。もちろん、最近の中国における日本大使館がデモ群衆に取り囲まれ、狼藉を受けて、中国側は窓ガラスの修理もしない、などという類いの範疇ではなく、すでにアメリカと内通していたであろう蒋介石の正規軍が、ドイツ製武器を豊富にそろえ、国際法上問題のない、しゃんりくへ軍事攻撃を仕掛けてきたのである。
ある人は、これを中国軍が先に侵略したから、日本軍による正当な反撃を受けたのである、と書いていたが、ウロコが1枚はがれた思いであった。
『それに対して昭和12年の7月の「盧溝橋事件」は「侵略」でも「開戦」でもなかった。___というのが『軍事史からみた「南京事件の真実」で展開された別宮先生の説得力あるご主張でしたね。』とある。
これを受けて、別宮氏も、ライシャワー元駐日大使(夫人は日本人)もほぼ同様の趣旨の見解を自伝の中ではっきりと示しているという。
『そうなると、支那事変は日本の侵略であるどころか正義の自衛戦争であって、まさしく「暴支」を「膺懲」したものにほかならなかったわけだ。しかるにそれが、あたかも日本の侵略のように戦後の歴史の教科書で教えられてしまっているのですけれども、いったい誰のせいなんですか?』とあって、ここ数日の騒ぎで何も田母神論への正式な反論がなかっただけに、やはりふだん日本人がクサイものにフタ式に避けているように思われる空間の重い存在に突き当たる。
『中国側の米英に対する宣伝上手と、正反対の日本人の宣伝下手のおかげでしょうね。中国軍の侵略を受けて、日本政府がすぐに宣戦布告できなかったのも、事を歴史的に曖昧にしてしまいました。そしてその後の日本の歴史家と文部省(日教組!?)がまた、、事実の究明を怠ってきたのです。』などとなっている。
昭和12年当時、蒋介石は南支を中心に最大で300万もの兵員動員が可能と見積もられ、当時日本はその1/10にしか最大でもならず、相手側に勝算あっての開戦だったろうと、推測している。
レマルクの「西部戦線異状なし、Im Westen nichts Neues」でも知られるように、1914〜1918年の第一次世界大戦が立証したところでは、鉄条網と機関銃で守りを固めた塹壕陣地に正面から接近突撃してくる敵部隊は、いかに精兵の大軍であっても大損害を蒙るだけで、決して勝てないものだそうである。それで、せいぜい数十万の日本軍が来たとしても勝手に自滅してくれるにちがいないと、大胆にも敵は踏んでいたのだろう、とこの本の二人は推測している。
支那軍は、ドイツ製の武器やヨーロッパ製の他国の武器を装備し、(チェッコ軽機、モーゼル大型拳銃など)で、軍事顧問には、第一次大戦の塹壕戦の経験者ののファルケンハウゼンだった、という。ワイマール共和国ドイツの参謀総長で、「現代のモルトケ」とまで言われた男であったという。
対する日本側は、陸士9期の荒木貞夫と同16期の小畑敏四郎(としろう)が、ファルケンハウゼンとおなじ東部戦線に、ロシア側観戦武官として派遣されていて、ロシア側のブルシロフ戦法こそが今後の歩兵戦術の主流になると直感して、すでに報告しているそうだ。
その後、この方法は連合軍の間でも周知となり、下士官のイニシアティブによる分隊(プラトーン)戦法が、先進各国陸軍の主流になっていった、という。
1937年の上海決戦、つまり上海周辺の大規模な塹壕突破戦と、南京に向けた掃討戦は、日露戦争での奉天開戦刺の大規模なものだという。
ドイツの職業軍人が設計した陣地に、国府軍の主力、中央軍をよりすぐった88師、87師などの将兵が配されて、日本陸軍は7個師団半20万人で戦ったという。(後に2個師団、5万を増派)
国府軍は25個師、33万人ぜークト線後方を含めると、75万人を南京から上海の間に集中していた、という。
蒋介石軍は、第一次大戦では通用した陣地構築をしていたが、松井岩根大将の率いる日本陸軍は、浸透戦術という新戦法で、爆弾3勇士の時の一面突破、全面展開ではなく、多面突破を行い、強固な陣地の後ろから攻めることができたという。25万の兵力が25万以上の戦死というという被害を与えたことは、にわかに信じがたいことでしょう、と記述している。
トーチカの中の機関銃に、自ら鎖でつなぐような士気の高いシナ兵たちもいた、というが、トーチカの銃眼を正確に狙える水平砲などの存在も大きかったらしい。
ドイツ人参謀たちは、日本軍が浸透戦術をとれるなどとは予想もしていなかったし、シナ人の「侮日」はポーズでなく本心だったから、負け出すとシナ兵たちは袋のネズミだった、とある。
あと、日本軍の手りゅう弾は、攻撃あいずぐらいにしか使えず、敵の手りゅう弾でそうとう被害を受けたとか、38式歩兵銃は、時代遅れと思われがちだが、500メートル以上の距離では、米軍の7.62ミリ弾より高速であった、などという指摘も。爆竹文化のシナ兵には、なるたけおおきい音の出る兵器でないと、心理的な威力がなかったとか、・・・・。38式歩兵銃は日本の武器の中で最も成功した輸出製品でもあった、という。第一次大戦中にロシアに100万挺以上、イギリスに30万梃以上で、評判もよかった、という。アラビアのロレンスは、灼熱のネジド砂漠で、ボルシェビキは極寒のロシアで使用したが、いずれも敵軍に勝利している、という。
38式歩兵銃は、1600メートルでも頭蓋骨や馬の脚を砕く性能があった、という。
もっとも、この戦いで、舗装路のほとんどないシナの大地を思い砲を引かされた軍馬はあわれで疲労でバタバタ倒れた、といい後は人力で運ぶしかなかった、ともいう。敵の逃げ足が速くて、とあるが、日本兵の進軍も速くはなかったかも。
日曜日, 11月 09, 2008
2005年10月5日発行。 その時はあまり問題意識がなく、ノモンハン戦の参考程度にと思っていて、ほとんど中味を吟味しなかった。積ん読していたものが、整理の過程で出てきた。
後書きを見て、事故米事件での、官僚たちの対応の救いがたさ(社保庁などもしかり、外務省も、害務省で、せめて害無省ぐらいまでにはなってもらいたい。中国や朝鮮の出先機関でしかない、もっとも外交も武力の裏付けがないと、ご用聞き社交になりさがる。それで、田母神論文などが事実なだけに、波紋をよぶ)を改めて感じていただけに、いかに戦後、戦時中の統制経済が続いていたかにおどろかされた。
軍学者ではない、経済学者の別宮氏が書いている。・・・・『戦争で成功するためには、量・兵器(科学技術)・方法(軍事学)がにおいて優れていなければならない。長期戦となれば、量が最優先となるため、GDPが決定的となるが、その成長率を大きく規定するのは民生用科学技術である。
日本は戦前において高度経済成長を遂げた国だった。昭和金融恐慌(1927年)の影響は産業界にはあまり及ばす、アメリカ大恐慌(1929年)の影響も軽微であり、GDPが英仏を抜くのは時間の問題とされていた。
ところが、1936年(昭和11年)を境に日本経済は暗転した。注意せねばならないのは、これは支那事変発生の前である。そして一人あたりGDPが1936年の水準に戻ったのは1956年(昭和31年)であり、なんと回復に20年かかっているのである。(そういえば、戦前に東京でオリンピックが予定されていましたね。また、以前印画紙の消費量が戦前波に回復したのが、昭和27年を過ぎてから、と何かで読んだ記憶もある。)
これについて戦争のせいとするのが一般的であるが、間違っている。この低迷は「統制経済」という名の社会主義経済のためである。統制経済のもと、資本と経営の分離が叫ばれ、役人が天下り、企業トップに座った。そして共同組合が組織され、金融はそこに一元化された。自主性は失われ、需要があっても割当に妨げられ、企業は設備投資=生産拡充ができなかった。この20年間、川鉄千葉まで、日本には一貫製鉄所の建設が1件もないのである。
その時出現した革新官僚や少壮軍人は五カ年計画が成功したというソ連の宣伝に幻惑され、社会主義を導入すれば「高度国防国家」が実現すると錯覚したのだ』と書いている。
『1936年に「国家総動員法」が施行され、その後「失われた20年」が続いたのだ。自由がなければ科学技術は停滞し、競争は萎縮する。
天下り官僚が経営すれば生産は伸びず、・・・アメリカの小さな政府、民営の軍需工場が最後の勝利を収めた。官僚・軍事官僚が威張り出せば戦争に勝てない』となっている。
小室直樹博士だったと思うが、日本との戦争がはじまると、アメリカの理科系の大学生は全員、助手となって、それぞれの課題の研究をおこなった、という。それで、大学入試も中止だったとか。
また、坂井三郎氏は、GDP比からいって、敵戦闘機はすくなくとこちら1機で17機ぐらいは落とさないと、勝てないと覚悟したという。しかし、昭和17年の段階で、いくら叩いても現れる、敵輸送船団の群れを雲間からみて、この戦いはいずれ負ける、と直感した、という。
『そもそも日本は官僚や彼らの作った政策によって発展した国ではない。民間人の創意・工夫により経済を伸張させ、「最後の一兵まで戦え」という軍事規律に文字通り従った徴兵の献身によって国を守って来たのである。』やはり、そうであったか。そういえば、『兵隊さんのおかげです』という歌もありましたね。聞きようによっては、違和感を覚えもしたが、一面の真実を歌っているのだろう。
右折帯に侵入して、ふと気づくと右ウィンカーの点滅速度がやたらに速く、通常の倍以上の速度である。自宅まであとわずかのところであった。いったん細い路地に入って、あらためて点検すると、左側は問題なく、右側だけ早く点滅しており、しかもフロント右のランプが反応していない状態であった。なるほど、ランプ数を減らすと、こんなに早くなるものかと思った。もう一度同じ通り過ぎたスタンドへはもどらず、その先のスタンドへ行って、ランプ交換をしようと、普段は通勤には逆方向のスタンドへ入った。
ランプを見せると、18Wはうちにはなく23Wになりますが、という。それを持ってきてもらって、付けたがランプが反応しない。おや、とおもっていると、店員が明かりにかざしてランプを見て、ドライバーの先で電球を軽く叩いて透かして見て、フィラメントは切れていないようですよ、という。それで、切れていないというもとのランプを再び取り付けたら問題なく点灯し、いつもの点滅速度を繰り返した。いつのまにか、経年変化で接触不良になったようだ。ガソリンを補給しようと思ったが、今はリザーブを過ぎてから入れるようにしているので、また入れにきますから、といって出て、翌日リザーブになるまで走り、そこで満タンにした。いつもはENEOS系であるが、ここはSHELL。
その翌日、時間が少しあったので再び交通の少ないところで軽い燃費テストをしたら、どうももこもこと昨日までのスムーズ感がまるでなく、暖まってもさほどかわらない。それで燃費をみたら、14.1と最近では最悪。自作モータロイを入れて燃費を計ったとき、15キロしかでず、低速での回転にゴツゴツ感がともなっていたが、投入後2000キロ以上走行してもこれでは、と思いアースをすべてはすす。するとそのゴツゴツ感は解消し、スムーズに回るようだ。
また、それで気づいたのだが、リヤの排気ノズルから出るガス、臭いがきつくなっている。以前は、まるでといってよいほどなかったものだ。しかも、中は真っ黒で、墨を塗ったように黒い。パワー感も今一だったので、ガソリン品質にも?がついた。会社に以前バイトに来た子が、今はトラック輸送をしていて、軽油が安いというので、仲間もあそこで入れていますが、改造軽油らしいと言っていますよ、といわれたスタンド。そうした疑惑も、まるっきりウソではないようだとも思ったりしたが、確かめようがない。
それで、アースを外して走って、回転をあげると今度は吹けがわるく、振動も出る。まるで、アースをつけて爆発力がアップした分の影響を修復しようとするかのようだ、ガクガク感が否めない。それでも日ごとに解消していって、数日で感じなくなった。しかし、今回は通勤燃費は、おとなしく走っても最悪となり、またまた驚いた。スムーズにおとなしく走っているつもりでも、吹けないエンジンは、どうしてもアクセルを開け気味だったのだろう。
そしてリザーブまで走り、再度そこら辺で燃費テスト。やはり、最近気温が下がってきて、エンジンもその影響を受けているせいか、暖めてスタートしても、モコモコ感がつきまとい、
もはや昔日のスムーズさはない。それで、途中で外していたアースを取出し、装着した。ただ、急に以前と同じ強力な、バッテリーへの直結はやめて、もう少し穏やかなクランクケースへと電気を逃がす中間派の立場でのアース。始動した瞬間、違いを感じる。走り出した途端、やたらスムーズに加速する。これだよ、これ。この走り。目一杯の爆発力アップのアース方式ではないが、外す前の感じが直ぐに蘇った感じ。半分ほどアース方式をまぜて、15.3キロの燃費でまずまず。寒いので、いつもコースでのテストは省略。だいたい、16.xは行く感じである。
今、日ごとに気温が下がっており、また、ガソリンでも調子が変わる。まだ2000キロちょっとしか走っていないので、まだまだ慣らしが必要な感じである。また、アースをして、走行すると高速ほど静かになる感じであるが、高速ほど静かというのは、やはり気持ちがわるい。そのせいか、高速燃費は、以前より悪いままだ。今日、スタンドから出て、後方を見ると大型トラックが迫っているので、二速で軽く高回転(7000ぐらい?)まで回して、三速までいれたら、何かエンジン内部で一瞬のショックを感じたような気がした。
すぐ先の信号でとまると、回転が1000回転から800回転におちて、止まりそうである。その時はわからず、スタートしてみたが、特に異常はないようであり、次に止まったときには1000回転に戻っていた。マイクロロンだけの時は、調子よく飛ばすと、必ず回転が下ってしまったものだが、今回はそうではなく、後で気になった。・・・・・それで今これを書いている時点で考えられることは、カムチェーンの伸びを調節するダンパーが自動調整方式なので、チェーンが弛みすぎると、ラチェット方式で一刻みごとにダンパーが自動送りで繰り出される方式だというので、それが作動したのではないか!?ということぐらいしか考えられない。
高回転でかなり静かに回ってくれるのだが、慣らしは慎重に行うように、今後も心がけたほうがいいようだ。マイクロロンとなかなり違う作動原理だからだ。マイクロロンは直後から効く感じだが、こちらは、走り込むにつれ、じんわり効いてくるといったところ。
直結式アースのほうが、高速での伸びが良かった感じであるが、ガソリンの品質如何では、低速でガクガク感がでたりと、状況に応じてかなりデリケートであり、マイクロロンでは感じなかった細かな差を感じる。ピストンとシリンダの傷を修復する、という宣伝文句を根っから信じない、そんなことあるわけない、という意見も見かけるが、高速で音が静かになることを考えると、ある程度すき間は狭くなっているように感じてしまう。問題なく走っても一万キロは慣らしに掛かるような気もしている。
月曜日, 11月 03, 2008
秦教授の4万人説が危険な数字である理由(補遺)
南京市内での不法戦闘員処刑が6500名もいた、という指摘は今回の認識で初めて自覚した数字で少々ビックリした。その他城外での処刑もあるから、その倍は行ったろうと思いたい。これが、戦後になって初めて4万人説が一人あるきを始めた、きっかけとなっているはずだ。オープンシティにしなかったために起きた悲劇であるが、当時どこも問題にはしなかった。蒋介石は、部下を放置して逃亡した司令官の唐生智を銃殺刑に処したと発表したが、それは嘘であった。戦後は共産党に入党して、それなりの出世をしたという。蒋介石の副官が、じつは隠れ共産党員で、身分を隠していたので、戦後蒋介石は毛沢東に敗れている。日本軍に反抗させる手段だった蒋介石は、戦後はアメリカにとって、ご用済みだというわけだ。小室博士も折りに触れて、日本叩きを人種戦争と非難されるのを恐れて、ルーズベルトは蒋介石と組んだと早くから指摘。自分の先祖が、中国でのアヘン売買で財をなしたことも、背景にあるだろう。
蒋介石のシナリオ
『唐生智司令官は降伏命令を出さずに逃亡、撤退命令であれば同然シナ軍は撤退中に日本軍と激突することになります。
このように司令官なきシナ軍が撤退する大混乱の中で日本軍と激突して日本軍にダメージを与えるという筋書きを描いていたと思います。』
『敵前逃亡した司令官が処刑されていない(通常、どこでも死刑)ということは、そうとしか考えられないですね。(しかも、処刑したとニセ発表までしている)では、その蒋介石による筋書きによる大混乱の中で、日本軍にとって何が問題となったのか』
『南京は城外と城内に分けられます。まず、南京陥落当時の城外というものに、今の人たちはどういうイメージを持っているでしょうか?』
『陥落したのだから投降兵が出たと思うでしょう。その投降兵は全軍一致して整然と手をあげて日本軍の前に出てきたとイメージするのではないでしょうか?
この一致的イメージの中で日本軍は投降兵を殺したと聞けば、手を挙げている者に機関銃を乱射したというイメージを思い浮かべるわけです』と東中野教授は語る。
そこには、勇猛を誇る柳川軍団ではなく、京都16師団がいて、投降兵の大群と対峙して苦戦を余儀なくされた。この師団は陥落直前の午前1時から、午後6時までの18時間にわたって猛烈な死闘を繰り返した。紫禁山の東北の仙閣門では、上海以来最大の死傷者を出す部隊すら出た、という。そこで、各隊は指示あるまで、捕虜を受け付けるな、という指示を出した。それは、投稿兵たちが、実際の日本軍が数が少ないとみると、手りゅう弾を投げつけたり、猛攻撃のシナ兵、逃亡しながら輜重隊を襲うシナ兵たちと入り乱れて、統一命令が出せず、各隊は下手に投降を許すなという命令を出した。これが、投降兵を虐殺したと誤解された。
幕府山というところでは15000名ものシナ兵が投降してきた、という。女子供もいたので、非戦闘員の7000名を逃がし、残りを捕虜とした。『秦氏はこれを殺した、と言っている(ここで8000名とカウント)』そうである。捕虜たちは火事を起こしてその混乱に半数の4000名は逃亡、残った4000名のうち、半数は審査のうえ、処刑。その部隊は会津若松の65連隊で、朝日新聞も報じているように、我々はお前たちを殺さないといったら、拍手喝采がおきた、という逸話の話である。取りたくない時期に捕虜をもってしまい、さりとて、殺したくもない。それで、船で12月17日の夜南岸から対岸へ逃がすことになった、という。しかし、対岸からシナ兵が発砲、捕虜たちは、蜂起したが、日本軍も闇夜で機関銃を撃ったが、大半は逃げたという。日本軍にも死傷者が出た、という。
会津若松65連隊の両角(もろずみ)大佐は捕虜を逃がそうとしてやむなく銃撃したことについて山田少将に報告しており、再び銃をとることがあっても、日本軍が逃がそうとしたしたことは肌で知っているので、かっての勇者同様には戻れないであろう、などと記録を残している、という。
秦教授は、便衣兵などのゲリラを殺した、と言っているそうである。そういうカウントをすれば、4万人説に近づくのであろうか?それは完全な間違いだという。南京城内の兵は正規兵で、軍服を脱いでも正規兵でゲリラとは違う扱いだという。それゆえ、城内の逃亡兵は、不法戦闘員で、投降せず見つかれば処刑されても、どこからも文句がでない種類の哀れな存在なのだという。日本軍が不法戦闘員狩りをやっている写真もあるが、これは虐殺ではなく、日本側が発表した写真である。中国側が戦後発表した証拠写真は皆偽物である、という指摘をこの東中野教授は、著作で発表している。
30万人や40万人という数字がでっちあげであることは誰でもわかる話だが、緻密な研究で「一人も殺していない」と最初に書いたのは田中正明氏だという。それで、「まぼろし派」「中間派」「虐殺派」という分類ができた、という。田中氏が書かれたことは大変立派で、すべて東中野教授の研究で裏付けがとれた、というから、田中氏が立派ということはまさに奇跡にちかいのではないだろうか?ただ、台湾に眠るシナ側の文書が未発掘だったこと、外国の資料が使えない時期で、少し迫力不足だった、という。しかし、研究とはこうありたいものの見本であろう。誰よりも先に、おれはこう思う、という主張が科学の発展を促すのである。資料と演繹によって、(一部帰納も使うが)新事実をあぶり出すのである、秦教授の方法は帰納主体で、虐殺数をカウントするときだけ演繹したのかな!?と言ったところか。半藤氏と近いところからも、ネオ東京裁判史観に近い方だと思いたい。
すると洞富男氏(ホラ富む男)などの大虐殺派が一方にある中で、秦教授の4万人説がいちばん冷静で中立的な意見だと思われることが、いちばん危ない。中間の説のように見えますが、4万人といえば大虐殺ですよ、と渡部教授。副島氏も秦説を信じる、というくらいである。
秦教授が一時期高い評価を受けたのは、30万人説が有力なときに、一桁数を落としたからだそうである。ところが、いちばん信用が置けると書いたのが曽根一夫の「私記南京虐殺」であったというが、むろん私記はおろか、南京戦には参加していなかった人物で、渡部教授は彼にもあっている、という。
むしろ、東大教授で宣教師でもあった、マイナー・ベイツ師が書いた数字にたよったのではないか、と教授は今となっては推察しているそうである。それを直接いわずに、別の人物を都合よく、引用文献としたのが、運の尽きだったのでは、と学者の小細工を笑ってしまう。後世、大抵の作為は、多くの詳細な研究で判明してしまうものである。それとも、米ベイツ説を引用売るとまずいことなのだったろうか?
東中野『この対談の冒頭で渡部先生はが「市民の殺害はなかった。シナ兵の処刑は
合法だった。だから実に簡単な話だ」と言われました。まったくその通りです。私は18年間研究してきましたが、「なんだ、そういうことだったのか」(笑い)。日本の兵隊さんたちが虐殺は見たことも聞いたこともない、」と言っていたことと同じではないか。いったい、今まで何を研究してきたのだろうと思いましたね。』などと述懐されている。
シナの情報工作
中国国民党の宣伝部が、マンチェスター・ガーディアン紙の上海特派員であった、ハロルド・ティンパーリに、『戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐』という本を書かせた。という。それには、「南京で何か特別なことがおきている」と思わせるように書かれている、という。戦前のオーストラリアは人種差別がもっとも激しく、白人のレベルまで力をつけてきた日本人が憎くてしかたなかったんでしょう、と渡部教授。ティンパーリは、毎日の英字新聞でみだらな女子高生特集を書きなぐっていた記者と同じオーストラリア人で、東京裁判でも証人に出てこれなかった。
最初は鈴木明氏が指摘し、最近は、英訳本をだした北村教授も指摘している、れっきとしたシナの工作員だった。その中に、シナの宣教師だった、マイナー・ベイツ教授が匿名で執筆したメモランダムが含まれ、そこに「埋葬証拠は非武装の4万人に近い人間が城内や城壁の近くで殺されたことを示しており、そのうちの3割は決して兵士ではなかった」と書かれている、そうである。
イェール大学の南京関係文書を調べているうちに、当時の新聞記事の端くれから、このベイツ教授も国民党中央政府の顧問と判明したという。すべて、最初は、アメリカが仕組み、戦後アメリカによって告発されたわけである。そこが見えないと、盲群、象をなでる現象に向かうわけである。日露戦争直後から、日本を追いつめる研究をしてきたアメリカである。戦後の体制にも十二分に手を打っていたはずであるが、日本に夢中になりすぎて、ほかに手が十分にまわらなかったほどである。
このメモランダムの漢訳文には、肝心の4万人の部分が抜け落ちている、という。面白いでしょう。例の笠原十九司教授がいうように、余白がなかったから、抜け落ちたためではないという。ニセ情報、プロパガンダを載せればシナ通にはウソとわかるから削除したのだと。ベイツ教授は、末尾にサインして、削除を承認したことになっている。ところが、東京裁判では、またその数字を蒸し返した、という。このとき、日本の弁護団が削除の事実を追求していたら、南京事件が中国国民党政府の戦争宣伝であったことが、白日の下に晒されたことであろうと、残念がっている。
そして、1971年になって、本多勝一氏によって、現地取材を許され、「中国の旅」を書き、そこで初めて写真入り南京大虐殺がでてきた、という。と同時に、ナジェール社から、英語版と仏語版の『中国旅行百科』がでたが、そこには南京大虐殺は1行も書かれていない、という。事実でなかったから、日本にだけ、朝日を通して南京大虐殺を輸出したのだという。
日本も昭和16年に日本陸軍報道班は、上海の馬淵逸雄大佐の「報道戦線」が示すようにティンパーリ記者やベイツ教授の動きを把握していたので、どこかで釘を刺しておくべきだった、と振り返っている。
作家の石川達三氏(これも私は読まず嫌い)も『裁かれる残虐』(南京事件)と題してインタビュー記事を書いているが、(特派員として1月5日南京入り)昭和21年五月に、曽根一夫ばりの見てきたようなウソを書いた、という。この裁判を意義あらしめたい、などと結んでいたという。後年の彼の作品の暗さを暗示している。そのくせ、この記事で、国際検事局から呼び出され、尋問を受けると、記事とはちがうことを話した、という。もし、この記事を事実とすると、安全地区が殺戮の現場ということになり、誰かが目撃し、日本大使館に届けていたはずだ。南京大虐殺についてはいろんな人がいろんなことをいうが、そのときそこで関係者がつくった記録はひとつもない、ということが、こうした話のポイントである、という。
石川達三氏の話は、もし事実なら、朝日も毎日も相当数の記者を送り込んでいるし、他の文人たちも多数いたなかで、他にだれもそういうことを書いていないという。渡部教授は非常にこの記事は不愉快とおっしゃる。左傾がかった人たちは「日本が悪い、戦前が悪い」ということに飛びつきたいわけですから、という指摘も当然か!?
東京裁判の判決がでて9年後に日中の会合が毛沢東から指名されて北京や南京で開かれ、南京戦に参加した谷田中将が、雑談の折り、南京占領中におきた数件のレイプについて触れ、わびて「ご迷惑をおかけしましたが、事件を起こしたものは軍法会議にかけました」という趣旨の発言をしたら、中国側は、「日本軍の扱いは公正だった」と応じたという。もし、実際に虐殺などおきていれば、そもそもこうした会話自体がなりたたない。国民党政府が「南京虐殺20万人」というのを戦後だしたが、もし事実なら外国人との記者会見300回の中で、毎日毎日南京虐殺を叫んでいなければならないはずだが、その記録を見ても、皆無で1行も残っていない。
1990年年代でも、南京で日本語を教えていた人が、あちらの学生としたしくなったら、毎年12月になると、どうしてこうも朝日などの記者がくるのか、と逆に聞かれたという。それで、その学生のおじいさんの話では、日本軍はアメもくれたし、虐殺、虐殺って聞くけど、どこであったのと聞かれ、驚いたという。
また、江沢民も1990年代から歴史研究に目覚めたが、すこし研究して見ると、国民党政府は
日本軍と戦い、彼らは、国民党政府は敵だったから、敵の敵は味方ではないか、ということになり、江沢民は困っている、という。毛沢東は、日本軍国主義は恩人といったそうだが、日本軍は、毛を助けるために、アヘンの処理なども手伝ったらしい。
小室直樹博士は、対中問題は、対米問題ということを理解していなかった、と戦後早くから指摘されていた。
南京市内での不法戦闘員処刑が6500名もいた、という指摘は今回の認識で初めて自覚した数字で少々ビックリした。その他城外での処刑もあるから、その倍は行ったろうと思いたい。これが、戦後になって初めて4万人説が一人あるきを始めた、きっかけとなっているはずだ。オープンシティにしなかったために起きた悲劇であるが、当時どこも問題にはしなかった。蒋介石は、部下を放置して逃亡した司令官の唐生智を銃殺刑に処したと発表したが、それは嘘であった。戦後は共産党に入党して、それなりの出世をしたという。蒋介石の副官が、じつは隠れ共産党員で、身分を隠していたので、戦後蒋介石は毛沢東に敗れている。日本軍に反抗させる手段だった蒋介石は、戦後はアメリカにとって、ご用済みだというわけだ。小室博士も折りに触れて、日本叩きを人種戦争と非難されるのを恐れて、ルーズベルトは蒋介石と組んだと早くから指摘。自分の先祖が、中国でのアヘン売買で財をなしたことも、背景にあるだろう。
蒋介石のシナリオ
『唐生智司令官は降伏命令を出さずに逃亡、撤退命令であれば同然シナ軍は撤退中に日本軍と激突することになります。
このように司令官なきシナ軍が撤退する大混乱の中で日本軍と激突して日本軍にダメージを与えるという筋書きを描いていたと思います。』
『敵前逃亡した司令官が処刑されていない(通常、どこでも死刑)ということは、そうとしか考えられないですね。(しかも、処刑したとニセ発表までしている)では、その蒋介石による筋書きによる大混乱の中で、日本軍にとって何が問題となったのか』
『南京は城外と城内に分けられます。まず、南京陥落当時の城外というものに、今の人たちはどういうイメージを持っているでしょうか?』
『陥落したのだから投降兵が出たと思うでしょう。その投降兵は全軍一致して整然と手をあげて日本軍の前に出てきたとイメージするのではないでしょうか?
この一致的イメージの中で日本軍は投降兵を殺したと聞けば、手を挙げている者に機関銃を乱射したというイメージを思い浮かべるわけです』と東中野教授は語る。
そこには、勇猛を誇る柳川軍団ではなく、京都16師団がいて、投降兵の大群と対峙して苦戦を余儀なくされた。この師団は陥落直前の午前1時から、午後6時までの18時間にわたって猛烈な死闘を繰り返した。紫禁山の東北の仙閣門では、上海以来最大の死傷者を出す部隊すら出た、という。そこで、各隊は指示あるまで、捕虜を受け付けるな、という指示を出した。それは、投稿兵たちが、実際の日本軍が数が少ないとみると、手りゅう弾を投げつけたり、猛攻撃のシナ兵、逃亡しながら輜重隊を襲うシナ兵たちと入り乱れて、統一命令が出せず、各隊は下手に投降を許すなという命令を出した。これが、投降兵を虐殺したと誤解された。
幕府山というところでは15000名ものシナ兵が投降してきた、という。女子供もいたので、非戦闘員の7000名を逃がし、残りを捕虜とした。『秦氏はこれを殺した、と言っている(ここで8000名とカウント)』そうである。捕虜たちは火事を起こしてその混乱に半数の4000名は逃亡、残った4000名のうち、半数は審査のうえ、処刑。その部隊は会津若松の65連隊で、朝日新聞も報じているように、我々はお前たちを殺さないといったら、拍手喝采がおきた、という逸話の話である。取りたくない時期に捕虜をもってしまい、さりとて、殺したくもない。それで、船で12月17日の夜南岸から対岸へ逃がすことになった、という。しかし、対岸からシナ兵が発砲、捕虜たちは、蜂起したが、日本軍も闇夜で機関銃を撃ったが、大半は逃げたという。日本軍にも死傷者が出た、という。
会津若松65連隊の両角(もろずみ)大佐は捕虜を逃がそうとしてやむなく銃撃したことについて山田少将に報告しており、再び銃をとることがあっても、日本軍が逃がそうとしたしたことは肌で知っているので、かっての勇者同様には戻れないであろう、などと記録を残している、という。
秦教授は、便衣兵などのゲリラを殺した、と言っているそうである。そういうカウントをすれば、4万人説に近づくのであろうか?それは完全な間違いだという。南京城内の兵は正規兵で、軍服を脱いでも正規兵でゲリラとは違う扱いだという。それゆえ、城内の逃亡兵は、不法戦闘員で、投降せず見つかれば処刑されても、どこからも文句がでない種類の哀れな存在なのだという。日本軍が不法戦闘員狩りをやっている写真もあるが、これは虐殺ではなく、日本側が発表した写真である。中国側が戦後発表した証拠写真は皆偽物である、という指摘をこの東中野教授は、著作で発表している。
30万人や40万人という数字がでっちあげであることは誰でもわかる話だが、緻密な研究で「一人も殺していない」と最初に書いたのは田中正明氏だという。それで、「まぼろし派」「中間派」「虐殺派」という分類ができた、という。田中氏が書かれたことは大変立派で、すべて東中野教授の研究で裏付けがとれた、というから、田中氏が立派ということはまさに奇跡にちかいのではないだろうか?ただ、台湾に眠るシナ側の文書が未発掘だったこと、外国の資料が使えない時期で、少し迫力不足だった、という。しかし、研究とはこうありたいものの見本であろう。誰よりも先に、おれはこう思う、という主張が科学の発展を促すのである。資料と演繹によって、(一部帰納も使うが)新事実をあぶり出すのである、秦教授の方法は帰納主体で、虐殺数をカウントするときだけ演繹したのかな!?と言ったところか。半藤氏と近いところからも、ネオ東京裁判史観に近い方だと思いたい。
すると洞富男氏(ホラ富む男)などの大虐殺派が一方にある中で、秦教授の4万人説がいちばん冷静で中立的な意見だと思われることが、いちばん危ない。中間の説のように見えますが、4万人といえば大虐殺ですよ、と渡部教授。副島氏も秦説を信じる、というくらいである。
秦教授が一時期高い評価を受けたのは、30万人説が有力なときに、一桁数を落としたからだそうである。ところが、いちばん信用が置けると書いたのが曽根一夫の「私記南京虐殺」であったというが、むろん私記はおろか、南京戦には参加していなかった人物で、渡部教授は彼にもあっている、という。
むしろ、東大教授で宣教師でもあった、マイナー・ベイツ師が書いた数字にたよったのではないか、と教授は今となっては推察しているそうである。それを直接いわずに、別の人物を都合よく、引用文献としたのが、運の尽きだったのでは、と学者の小細工を笑ってしまう。後世、大抵の作為は、多くの詳細な研究で判明してしまうものである。それとも、米ベイツ説を引用売るとまずいことなのだったろうか?
東中野『この対談の冒頭で渡部先生はが「市民の殺害はなかった。シナ兵の処刑は
合法だった。だから実に簡単な話だ」と言われました。まったくその通りです。私は18年間研究してきましたが、「なんだ、そういうことだったのか」(笑い)。日本の兵隊さんたちが虐殺は見たことも聞いたこともない、」と言っていたことと同じではないか。いったい、今まで何を研究してきたのだろうと思いましたね。』などと述懐されている。
シナの情報工作
中国国民党の宣伝部が、マンチェスター・ガーディアン紙の上海特派員であった、ハロルド・ティンパーリに、『戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐』という本を書かせた。という。それには、「南京で何か特別なことがおきている」と思わせるように書かれている、という。戦前のオーストラリアは人種差別がもっとも激しく、白人のレベルまで力をつけてきた日本人が憎くてしかたなかったんでしょう、と渡部教授。ティンパーリは、毎日の英字新聞でみだらな女子高生特集を書きなぐっていた記者と同じオーストラリア人で、東京裁判でも証人に出てこれなかった。
最初は鈴木明氏が指摘し、最近は、英訳本をだした北村教授も指摘している、れっきとしたシナの工作員だった。その中に、シナの宣教師だった、マイナー・ベイツ教授が匿名で執筆したメモランダムが含まれ、そこに「埋葬証拠は非武装の4万人に近い人間が城内や城壁の近くで殺されたことを示しており、そのうちの3割は決して兵士ではなかった」と書かれている、そうである。
イェール大学の南京関係文書を調べているうちに、当時の新聞記事の端くれから、このベイツ教授も国民党中央政府の顧問と判明したという。すべて、最初は、アメリカが仕組み、戦後アメリカによって告発されたわけである。そこが見えないと、盲群、象をなでる現象に向かうわけである。日露戦争直後から、日本を追いつめる研究をしてきたアメリカである。戦後の体制にも十二分に手を打っていたはずであるが、日本に夢中になりすぎて、ほかに手が十分にまわらなかったほどである。
このメモランダムの漢訳文には、肝心の4万人の部分が抜け落ちている、という。面白いでしょう。例の笠原十九司教授がいうように、余白がなかったから、抜け落ちたためではないという。ニセ情報、プロパガンダを載せればシナ通にはウソとわかるから削除したのだと。ベイツ教授は、末尾にサインして、削除を承認したことになっている。ところが、東京裁判では、またその数字を蒸し返した、という。このとき、日本の弁護団が削除の事実を追求していたら、南京事件が中国国民党政府の戦争宣伝であったことが、白日の下に晒されたことであろうと、残念がっている。
そして、1971年になって、本多勝一氏によって、現地取材を許され、「中国の旅」を書き、そこで初めて写真入り南京大虐殺がでてきた、という。と同時に、ナジェール社から、英語版と仏語版の『中国旅行百科』がでたが、そこには南京大虐殺は1行も書かれていない、という。事実でなかったから、日本にだけ、朝日を通して南京大虐殺を輸出したのだという。
日本も昭和16年に日本陸軍報道班は、上海の馬淵逸雄大佐の「報道戦線」が示すようにティンパーリ記者やベイツ教授の動きを把握していたので、どこかで釘を刺しておくべきだった、と振り返っている。
作家の石川達三氏(これも私は読まず嫌い)も『裁かれる残虐』(南京事件)と題してインタビュー記事を書いているが、(特派員として1月5日南京入り)昭和21年五月に、曽根一夫ばりの見てきたようなウソを書いた、という。この裁判を意義あらしめたい、などと結んでいたという。後年の彼の作品の暗さを暗示している。そのくせ、この記事で、国際検事局から呼び出され、尋問を受けると、記事とはちがうことを話した、という。もし、この記事を事実とすると、安全地区が殺戮の現場ということになり、誰かが目撃し、日本大使館に届けていたはずだ。南京大虐殺についてはいろんな人がいろんなことをいうが、そのときそこで関係者がつくった記録はひとつもない、ということが、こうした話のポイントである、という。
石川達三氏の話は、もし事実なら、朝日も毎日も相当数の記者を送り込んでいるし、他の文人たちも多数いたなかで、他にだれもそういうことを書いていないという。渡部教授は非常にこの記事は不愉快とおっしゃる。左傾がかった人たちは「日本が悪い、戦前が悪い」ということに飛びつきたいわけですから、という指摘も当然か!?
東京裁判の判決がでて9年後に日中の会合が毛沢東から指名されて北京や南京で開かれ、南京戦に参加した谷田中将が、雑談の折り、南京占領中におきた数件のレイプについて触れ、わびて「ご迷惑をおかけしましたが、事件を起こしたものは軍法会議にかけました」という趣旨の発言をしたら、中国側は、「日本軍の扱いは公正だった」と応じたという。もし、実際に虐殺などおきていれば、そもそもこうした会話自体がなりたたない。国民党政府が「南京虐殺20万人」というのを戦後だしたが、もし事実なら外国人との記者会見300回の中で、毎日毎日南京虐殺を叫んでいなければならないはずだが、その記録を見ても、皆無で1行も残っていない。
1990年年代でも、南京で日本語を教えていた人が、あちらの学生としたしくなったら、毎年12月になると、どうしてこうも朝日などの記者がくるのか、と逆に聞かれたという。それで、その学生のおじいさんの話では、日本軍はアメもくれたし、虐殺、虐殺って聞くけど、どこであったのと聞かれ、驚いたという。
また、江沢民も1990年代から歴史研究に目覚めたが、すこし研究して見ると、国民党政府は
日本軍と戦い、彼らは、国民党政府は敵だったから、敵の敵は味方ではないか、ということになり、江沢民は困っている、という。毛沢東は、日本軍国主義は恩人といったそうだが、日本軍は、毛を助けるために、アヘンの処理なども手伝ったらしい。
小室直樹博士は、対中問題は、対米問題ということを理解していなかった、と戦後早くから指摘されていた。
前回、小室直樹博士の戦史の研究として、ノモンハン事件から手を付けるべきという話を書いたが、それより少し前の昭和12年12月の南京事件も付け加えるべきだと、今日改めて思った。
未だに、副島氏のような人でも、南京大虐殺はあった、秦教授の4万人説を信ずる、などと根拠もなく、繰り返す人を見て、また否定派の方たちの最近までの「研究」成果を読んでみて、また、渡部氏のような、当時の状況を実感されて発言している方たちが今後急速に減少することもふまえて、ここでも書き足すというか、引用しておくべきだと思った。
昨年12月に雑誌「WILL」(ワック・マガジンズ)の臨時増刊号が出た。中国のプロパガンダに終止符!「南京嘘大虐殺」などと表紙にはある。当時はちょっと覗いただけで、詳しくは読んでいなかった。私にとっては、片がついた問題だったかもしれない。
真珠湾攻撃の山本長官も怪しいなと思っていた矢先、スパイだったなどという本を書かれた副島氏だが、南京大虐殺はあった、と直接関係ない(関係なくもないが)話に妙に肩入れしている姿勢も気になる。文藝春秋や新潮社もアメリカの息がかかった出版社などと指摘しながら、自らのソースについては、あまり明らかにしない。ジャパンハンドラーズなどという本を書いて(共著)、アメリカの対日戦略の裏舞台などを解説される以上、これはこれで、アメリカの手先では!?とつい疑いたくもなる。
新潮社の週刊新潮では、帝京大教授の高山正之氏が、南京事件はルーズベルトが蒋介石に南京事件として戦後告発できるようにと褒美をちらつかせて、持ちかけた話で、オーストラリア人ジャーナリストがからんで、戦前から仕組んだもの、という指摘があった。(数ヶ月前の号ではなかったか!?)
『第二次上海上陸作戦で松井岩根(大将)の中支派遣軍(その中の柳川兵団が勇猛を誇った)が侵攻した。そして四ヶ月かけて、その年の年末に、首都・南京をようやく攻略して占領した。この占領直後の1937年(昭和12年)12月13日に、日本軍による南京大虐殺が起こるのである。
いまだに「南京大虐殺はなかった」論を言い立てている日本の言論人たちがいる。愚かな人々である。日本軍があのときに南京市内で殺した中国人は、最低でも2万人から4万人はいた。私はずっと秦郁彦氏の説を信じ続けている。「虐殺はあった」のである。』
としている。信じているからあった、と言っている。また具体的な言論人にも、名前を出さず(出せず!?)、都合の良い(!?)秦氏の名前だけ出している。ここで、本来なら、英語論争での天敵とでもいうべき、渡部氏の名前でも挙げるならともかく、一緒くたにして、愚かな人々とだけ指摘している。ねつ造したアメリカ側の視点丸出しではないか!?明らかに論争を避ける典型的なスタイルだと思う。
タイム誌に、当時出た書名入り記事では、戦死者2〜3万ほどという伝聞記事がでているが、虐殺数ではない。この数字と妙にクロスする数字の指摘も気になる。
2007年は南京大虐殺70周年とやらで、10本もの反日インチキ映画が。中国系資本を背景にアメリカで作られる、というので、まぼろし派も危機感を強め、特集となったようだ。
上智大名誉教授の渡部氏と亜細亜大教授の東中野氏との対談が、巻頭特別対談となっている。
この中で、前に書いた、東京裁判で証言した、当時南京を自由に歩き回れた立場のマギー神父の証言で、訂正すべきことが一つある。殺人はたくさんあった、というので、直接の実録談を求められたマギー神父は、一人だけと答えている、としたが、実は、彼の日記には、死体はみたが、殺すところは見ていない、と書いてあるそうである。この日記は公表されており、極めて偽証に近い1件だと指摘されている。アメリカ側の証人でさえこのありさま。
渡部氏とおなじく素人の立場で研究された一人に板倉氏がいるが、この板倉氏に秦教授は自著「昭和史の謎をおう」という本の中で、盗人猛々しい言い草で、板倉氏を揶揄している、という。秦教授が、自説の補強にもっとも多用した曽根一夫という人の書いたインチキ本について、板倉氏が、曽根一夫氏という人物は南京突入部隊にはいなかった、ということを明らかにしたからだ、という。東大出といってもこのありさま。『学者の無恥厚顔もここまでくると手のつけようがない。南京大虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件というという表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。・・・秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのだ』と渡部教授は売られたケンカに対して応えている。
その板倉氏が専門外でも熱心にしらべた虐殺数。欧米人は、日本軍による殺人の情報を熱心に集めていた、という。そしてそれを、日本領事館に「市民重大被害報告」として訴えた、という。しかし、その数には、誰が見たか、についてはほとんど書かれていない、という。ドイツ人が一人見て、1件としても、アメリカ人がまた、それを見て1件とすると、計2件の報告としてカウントされる、という。それでも、殺人だけで26件で、板倉氏は以上の理由から、市民殺害数の上限は52人であるとした、という。
目撃された件数は1件のみだというが、それも便衣兵(ゲリラ)か何かで、合法的処刑だった、というわけで、不法殺害を実見した記録というのは、ゼロだそうである。
松井岩根大将は、孫文と非常に親しかったために、南京城の外に中山廟があって、孫文の記念碑があるので、南京攻略の便をあえてさけて、ここからの砲撃を禁ずるなど、気を配って戦争している、という。
南京攻撃に際しても「敵の首都を攻撃するのであるから、世界中が見ている。決して悪事を働くな」という丁寧な命令を下しているそうである。
ただ、そうはいっても戦争であり、不測の事態が頻出したであろうことは、一般的に想像はできる。この[WILL」の対談では、勇猛を誇った柳川軍団のことは触れていない。捕虜処断に関する記録は、京都16師団の活動がある。二千名の捕虜を、処刑しないというと、捕虜は拍手してよろこんだが、いざ、渡河する際に、対岸から、中国軍が発砲しだすと、処刑されると勘違いした捕虜たちが刃向かい出し、騒然となって、日本軍も敵に対して機関銃を発砲、などという話はあるし、どうやっても、生きた捕虜として追放できないと認めた捕虜は、処刑したというが、正式な捕虜でないので、今で言うテロリスト集団として、処刑対象に選ばれた者も数千名ぐらいはいたようであるが、国際法上、これらは虐殺にカウントされえない。
http://www.asyura2.com/0411/war61/msg/505.html
には、「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」についての、木村愛二氏論考
というのがあり、日本軍法務官である憲兵中佐のまとめでは、「法務部陣中日誌」の方の最 後の部分に収録された「既決一覧表」には、104件、そのほとんどが、殺人、強姦で、強姦を含む犯罪の件数は23、猥褻1、強制猥褻1となっている、とあるそうである。これが日本軍が認めた、欧米側の記録にない、実相に近い数であろう。最初からゼロとか一桁などと信ずる馬鹿はいまいが、混乱のさなかの、いわば犯罪で、軍紀の乱れはまあ、多いか少ないかは分からないが、これを組織的な関与と捉えることは、適当ではないようである。
上記の元憲兵中佐は、この状態を「皇軍が聞いてあきれる状態」「遺憾」と記して いる。この事態が、いわゆる「宣撫工作」の障害となったからこそ、「従軍慰安婦」 の制度化が急がれたのである、という。従軍看護婦とはちがう意味で、従軍移動慰安婦とでも位置づけるもので、こうした組織は、ヨーロッパでもある。ドイツ軍もあったし、ナポレオン時代にもあった。小室直樹博士は、アメリカは、売春婦なら、街中にごろごろいるのに、日本占領では、日本女性を対象としたと抗議めいたことを書かれている。フルブライト留学生ならではの卓見であろう。
再び、四万人説がなぜ危険な数字か!?
『日本軍の師団や旅団に、渡す武器や食料を満載している輜重隊が、たとえば馬群というところで、二日にわたって、攻撃された。隊員たちは白兵戦で中国兵を捉え、救援に駆けつけた京都16師団の機関銃中隊が射殺したという。この件に対しては、秦教授が「捉えた中国兵を射殺するとは」と言うのですが、、この拘束したシナ兵らを逃がせばまた輸送隊が襲われるかもしれないし、捕虜にしても手りゅう弾を投げつけられる可能性があったのでしょう。やむなく処刑しました』
『佐々木旅団長の命令が出て約7時間後の14日正午ごろ、京都16師団は紫禁山の東北の尭化門というところで、7200名もの投降兵にぶつかることになります。もし、例の命令が「処刑せよ」であったとすれば、当然処刑しているはずです。ところが、京都16師団は投稿したシナ兵たちを受け入れて、武装解除し、南京城内に連れて帰っています。
秦氏は、「7200名の行方が不明なので、これは殺されたのだ」と推測していますが、12月23日に、下関(シャーカン)で働いているのが、京都16師団の小原輜重兵によって目撃されています。ですから、捕虜を処刑したかといえば、処刑していないのです。』などと話が展開し、虐殺肯定派は、良く調べずに東京裁判の打ち出した歴史観にそってそれを疑うことなく補強してきたのだとおもいます。』『まったくその通りです。』などとある。秦教授は、不法戦闘員(便衣兵)ゲリラも処刑した、と言っているそうである。
『1辺が山の手線ほどの広さがある南京城内で、正規兵が逃げるとしたら、南京市民の中にしかない。正規兵は軍服を脱ぎ捨てても依然として正規兵であり、ゲリラではないという。つまり、南京城内では、不法戦闘員となった、シナ兵を処刑した、という。不法戦闘員となった、シナ兵を処刑したことについては、南京の外交官も、国際委員会も、南京市民も漢口の国民党政府も、国際都市上海の外国人特派員も一度たりとも不法といったことがありません。』
『不法戦闘員はいかなる裁判もありませんから、たとえ裁判なしに処刑されても文句は言えないんですね。あの時代の人々は、シナ軍の唐生智が逃げたこと、シナ兵が軍服を脱ぎ捨てて逃げたこと、武器を公然と携帯しなかったことをみんなよく認識していますから、すぐそれは捕虜ではない不法戦闘員とわかって、誰も何も言わなかった。今の人は平和な時代にいますから、これがわからない。』この対談でも、こうして処刑された正規兵は6500人と出ている。軍服のまま捕虜となって、反抗しなければ処刑されない。
北京大虐殺などとという話がないのは、皆オープンシティにしたからだという。パリも二度にわたりオープンシティ。これは、オープンシティにしないで、唐生智が逃げたことが原因で、小室直樹氏も早くから、処刑されても文句はいえない、と指摘していた。
朝日は、この唐生智が、南京城攻防戦の責任を問われて、処刑(銃殺)された、などと報道した(12月20日)そうであるが、ニセ情報であり、生きていていて、戦後は共産党に寝返り、閑職とはいえ、副省長についていたそうである。
事前に南京大虐殺を画策したアメリカの手先がニセ本を書き、蒋介石がアメリカの働きかけにより、部下唐生智を南京をオープンシティにさせずに逃亡を許し(筋書きどおりではなかったかと)、ニセ情報で、処刑したことによって、戦後の裁判の伏線がすべて完成したかのように思える。俄副島史観か!?蒋介石が処刑を発表していて、それは嘘だった、ということをここで強調。
未だに、副島氏のような人でも、南京大虐殺はあった、秦教授の4万人説を信ずる、などと根拠もなく、繰り返す人を見て、また否定派の方たちの最近までの「研究」成果を読んでみて、また、渡部氏のような、当時の状況を実感されて発言している方たちが今後急速に減少することもふまえて、ここでも書き足すというか、引用しておくべきだと思った。
昨年12月に雑誌「WILL」(ワック・マガジンズ)の臨時増刊号が出た。中国のプロパガンダに終止符!「南京嘘大虐殺」などと表紙にはある。当時はちょっと覗いただけで、詳しくは読んでいなかった。私にとっては、片がついた問題だったかもしれない。
真珠湾攻撃の山本長官も怪しいなと思っていた矢先、スパイだったなどという本を書かれた副島氏だが、南京大虐殺はあった、と直接関係ない(関係なくもないが)話に妙に肩入れしている姿勢も気になる。文藝春秋や新潮社もアメリカの息がかかった出版社などと指摘しながら、自らのソースについては、あまり明らかにしない。ジャパンハンドラーズなどという本を書いて(共著)、アメリカの対日戦略の裏舞台などを解説される以上、これはこれで、アメリカの手先では!?とつい疑いたくもなる。
新潮社の週刊新潮では、帝京大教授の高山正之氏が、南京事件はルーズベルトが蒋介石に南京事件として戦後告発できるようにと褒美をちらつかせて、持ちかけた話で、オーストラリア人ジャーナリストがからんで、戦前から仕組んだもの、という指摘があった。(数ヶ月前の号ではなかったか!?)
『第二次上海上陸作戦で松井岩根(大将)の中支派遣軍(その中の柳川兵団が勇猛を誇った)が侵攻した。そして四ヶ月かけて、その年の年末に、首都・南京をようやく攻略して占領した。この占領直後の1937年(昭和12年)12月13日に、日本軍による南京大虐殺が起こるのである。
いまだに「南京大虐殺はなかった」論を言い立てている日本の言論人たちがいる。愚かな人々である。日本軍があのときに南京市内で殺した中国人は、最低でも2万人から4万人はいた。私はずっと秦郁彦氏の説を信じ続けている。「虐殺はあった」のである。』
としている。信じているからあった、と言っている。また具体的な言論人にも、名前を出さず(出せず!?)、都合の良い(!?)秦氏の名前だけ出している。ここで、本来なら、英語論争での天敵とでもいうべき、渡部氏の名前でも挙げるならともかく、一緒くたにして、愚かな人々とだけ指摘している。ねつ造したアメリカ側の視点丸出しではないか!?明らかに論争を避ける典型的なスタイルだと思う。
タイム誌に、当時出た書名入り記事では、戦死者2〜3万ほどという伝聞記事がでているが、虐殺数ではない。この数字と妙にクロスする数字の指摘も気になる。
2007年は南京大虐殺70周年とやらで、10本もの反日インチキ映画が。中国系資本を背景にアメリカで作られる、というので、まぼろし派も危機感を強め、特集となったようだ。
上智大名誉教授の渡部氏と亜細亜大教授の東中野氏との対談が、巻頭特別対談となっている。
この中で、前に書いた、東京裁判で証言した、当時南京を自由に歩き回れた立場のマギー神父の証言で、訂正すべきことが一つある。殺人はたくさんあった、というので、直接の実録談を求められたマギー神父は、一人だけと答えている、としたが、実は、彼の日記には、死体はみたが、殺すところは見ていない、と書いてあるそうである。この日記は公表されており、極めて偽証に近い1件だと指摘されている。アメリカ側の証人でさえこのありさま。
渡部氏とおなじく素人の立場で研究された一人に板倉氏がいるが、この板倉氏に秦教授は自著「昭和史の謎をおう」という本の中で、盗人猛々しい言い草で、板倉氏を揶揄している、という。秦教授が、自説の補強にもっとも多用した曽根一夫という人の書いたインチキ本について、板倉氏が、曽根一夫氏という人物は南京突入部隊にはいなかった、ということを明らかにしたからだ、という。東大出といってもこのありさま。『学者の無恥厚顔もここまでくると手のつけようがない。南京大虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件というという表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。・・・秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのだ』と渡部教授は売られたケンカに対して応えている。
その板倉氏が専門外でも熱心にしらべた虐殺数。欧米人は、日本軍による殺人の情報を熱心に集めていた、という。そしてそれを、日本領事館に「市民重大被害報告」として訴えた、という。しかし、その数には、誰が見たか、についてはほとんど書かれていない、という。ドイツ人が一人見て、1件としても、アメリカ人がまた、それを見て1件とすると、計2件の報告としてカウントされる、という。それでも、殺人だけで26件で、板倉氏は以上の理由から、市民殺害数の上限は52人であるとした、という。
目撃された件数は1件のみだというが、それも便衣兵(ゲリラ)か何かで、合法的処刑だった、というわけで、不法殺害を実見した記録というのは、ゼロだそうである。
松井岩根大将は、孫文と非常に親しかったために、南京城の外に中山廟があって、孫文の記念碑があるので、南京攻略の便をあえてさけて、ここからの砲撃を禁ずるなど、気を配って戦争している、という。
南京攻撃に際しても「敵の首都を攻撃するのであるから、世界中が見ている。決して悪事を働くな」という丁寧な命令を下しているそうである。
ただ、そうはいっても戦争であり、不測の事態が頻出したであろうことは、一般的に想像はできる。この[WILL」の対談では、勇猛を誇った柳川軍団のことは触れていない。捕虜処断に関する記録は、京都16師団の活動がある。二千名の捕虜を、処刑しないというと、捕虜は拍手してよろこんだが、いざ、渡河する際に、対岸から、中国軍が発砲しだすと、処刑されると勘違いした捕虜たちが刃向かい出し、騒然となって、日本軍も敵に対して機関銃を発砲、などという話はあるし、どうやっても、生きた捕虜として追放できないと認めた捕虜は、処刑したというが、正式な捕虜でないので、今で言うテロリスト集団として、処刑対象に選ばれた者も数千名ぐらいはいたようであるが、国際法上、これらは虐殺にカウントされえない。
http://www.asyura2.com/0411/war61/msg/505.html
には、「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」についての、木村愛二氏論考
というのがあり、日本軍法務官である憲兵中佐のまとめでは、「法務部陣中日誌」の方の最 後の部分に収録された「既決一覧表」には、104件、そのほとんどが、殺人、強姦で、強姦を含む犯罪の件数は23、猥褻1、強制猥褻1となっている、とあるそうである。これが日本軍が認めた、欧米側の記録にない、実相に近い数であろう。最初からゼロとか一桁などと信ずる馬鹿はいまいが、混乱のさなかの、いわば犯罪で、軍紀の乱れはまあ、多いか少ないかは分からないが、これを組織的な関与と捉えることは、適当ではないようである。
上記の元憲兵中佐は、この状態を「皇軍が聞いてあきれる状態」「遺憾」と記して いる。この事態が、いわゆる「宣撫工作」の障害となったからこそ、「従軍慰安婦」 の制度化が急がれたのである、という。従軍看護婦とはちがう意味で、従軍移動慰安婦とでも位置づけるもので、こうした組織は、ヨーロッパでもある。ドイツ軍もあったし、ナポレオン時代にもあった。小室直樹博士は、アメリカは、売春婦なら、街中にごろごろいるのに、日本占領では、日本女性を対象としたと抗議めいたことを書かれている。フルブライト留学生ならではの卓見であろう。
再び、四万人説がなぜ危険な数字か!?
『日本軍の師団や旅団に、渡す武器や食料を満載している輜重隊が、たとえば馬群というところで、二日にわたって、攻撃された。隊員たちは白兵戦で中国兵を捉え、救援に駆けつけた京都16師団の機関銃中隊が射殺したという。この件に対しては、秦教授が「捉えた中国兵を射殺するとは」と言うのですが、、この拘束したシナ兵らを逃がせばまた輸送隊が襲われるかもしれないし、捕虜にしても手りゅう弾を投げつけられる可能性があったのでしょう。やむなく処刑しました』
『佐々木旅団長の命令が出て約7時間後の14日正午ごろ、京都16師団は紫禁山の東北の尭化門というところで、7200名もの投降兵にぶつかることになります。もし、例の命令が「処刑せよ」であったとすれば、当然処刑しているはずです。ところが、京都16師団は投稿したシナ兵たちを受け入れて、武装解除し、南京城内に連れて帰っています。
秦氏は、「7200名の行方が不明なので、これは殺されたのだ」と推測していますが、12月23日に、下関(シャーカン)で働いているのが、京都16師団の小原輜重兵によって目撃されています。ですから、捕虜を処刑したかといえば、処刑していないのです。』などと話が展開し、虐殺肯定派は、良く調べずに東京裁判の打ち出した歴史観にそってそれを疑うことなく補強してきたのだとおもいます。』『まったくその通りです。』などとある。秦教授は、不法戦闘員(便衣兵)ゲリラも処刑した、と言っているそうである。
『1辺が山の手線ほどの広さがある南京城内で、正規兵が逃げるとしたら、南京市民の中にしかない。正規兵は軍服を脱ぎ捨てても依然として正規兵であり、ゲリラではないという。つまり、南京城内では、不法戦闘員となった、シナ兵を処刑した、という。不法戦闘員となった、シナ兵を処刑したことについては、南京の外交官も、国際委員会も、南京市民も漢口の国民党政府も、国際都市上海の外国人特派員も一度たりとも不法といったことがありません。』
『不法戦闘員はいかなる裁判もありませんから、たとえ裁判なしに処刑されても文句は言えないんですね。あの時代の人々は、シナ軍の唐生智が逃げたこと、シナ兵が軍服を脱ぎ捨てて逃げたこと、武器を公然と携帯しなかったことをみんなよく認識していますから、すぐそれは捕虜ではない不法戦闘員とわかって、誰も何も言わなかった。今の人は平和な時代にいますから、これがわからない。』この対談でも、こうして処刑された正規兵は6500人と出ている。軍服のまま捕虜となって、反抗しなければ処刑されない。
北京大虐殺などとという話がないのは、皆オープンシティにしたからだという。パリも二度にわたりオープンシティ。これは、オープンシティにしないで、唐生智が逃げたことが原因で、小室直樹氏も早くから、処刑されても文句はいえない、と指摘していた。
朝日は、この唐生智が、南京城攻防戦の責任を問われて、処刑(銃殺)された、などと報道した(12月20日)そうであるが、ニセ情報であり、生きていていて、戦後は共産党に寝返り、閑職とはいえ、副省長についていたそうである。
事前に南京大虐殺を画策したアメリカの手先がニセ本を書き、蒋介石がアメリカの働きかけにより、部下唐生智を南京をオープンシティにさせずに逃亡を許し(筋書きどおりではなかったかと)、ニセ情報で、処刑したことによって、戦後の裁判の伏線がすべて完成したかのように思える。俄副島史観か!?蒋介石が処刑を発表していて、それは嘘だった、ということをここで強調。
土曜日, 11月 01, 2008
小室直樹博士が、折りにふれてノモンハン事件から戦史の勉強をスタートするべきだ、ということをよく提案していた。その頃はまだ、左翼史観というのか東京裁判史観、あるいは自虐史観などとも呼ばれるワンパターン的な戦前、戦中解釈が横行していた。
今日、そうした史観は、だいぶ変容を受け、本日の航空幕僚長の更迭人事にみるように、戦後の朝日新聞的ともいえる史観の命脈がカウントされ始めるようになったような気がしてならない。
アメリカが仕組んだ、太平洋戦争。小室直樹博士が指摘するように、原爆投下と硫黄島の戦いが、戦後日本の発言権を意味あるものにして、アメリカのいいなりだった中国や火事場泥棒になりさがったロシアの発言権を後退させたというが、日本人にはいまだその自覚がない。誤った戦史にもとづく意図的な作り話に躍らされていては、ますます属国化を加速せしめるだけである。
まだ、連合国の側の封印文書はわずかしか公開されず、戦前から日本の中枢にたくさんいたスパイたちの動向も、ほとんどつまびらかにされていない。やはり、敗戦の痛手から抜け出すには、優に1世紀は必要だろう。関ヶ原の戦いの後、文芸関係も60年ほどは空白が生まれていた、とは評論家、江藤淳氏の指摘であったが、戦前でさえ、相当数の外国勢力およびそれに共鳴する派閥によって操作されていたことを推測すると、戦前の自覚に戻ればよい、とは簡単には言えない。副島氏の最新作でも、江戸中期の思想家、富永仲基を評価している。
富永仲基は、神・仏・儒のすべてをきびしく平等に批判し、まじめに働き世の中の人々のためになる物を作って喜んでもらう生き方が、一番すぐれていると書いている。それで、日本の優れた技術で多くの電気製品を作って世界中に売って人々に喜んでもらう思想を実践した松下幸之助氏が一番えらいということに、書いていて行き着いた、という。
中世の禅僧たちなどは、密貿易の立派な文書を作成していた、という。幕末の西南四藩である、薩長土肥は、いずれも密貿易で巨額の利益を出していたそうである。そうでなければ、薩摩における島津の分家の娘である天璋院篤姫が京都の近衛家の養女になり、将軍家定の正室になれるはずがない。このとき、どれほどのお金が動いたか想像してみればよい、としている。
『すべてはお金の話である。お金がなければたくさんの人々をやしなうことはできない。金と軍事の話し抜きで奇麗事の歴史観など持つものではない。大きな資金がなければ何事もできはしないのだ。あんまり奇麗事ばかりのウソの歴史を国民に教えるな、ということだ。』としている。
戦後、我々は軍事常識や旧軍の記憶をほとんど瞬時に忘却してしまった。だから、「従軍慰安婦」などという言葉がまかり通る。従軍看護婦なら、実際に機能していて、靖国に行けば、若くして男勝りの活躍をした彼女たちの行動をたどることができる。婦長さんは将校待遇、看護婦さんは下士官待遇だった。兵隊さんたちは、「あの看護婦さんたちは皆軍曹なのだよ」と教えられて驚いた、という。
さて、ノモンハンの例にもどると、日本軍の大勝利ということに最近なってきたが、戦後はまず第一に文藝春秋から、自虐史観に近い五味川純平氏の本がでて、それがまず定着してしまった。東京裁判史観が幅をきかせていた時代で、時代に迎合した小説を書けるというのも才能だが、あくまでフィクションにすぎない。フィクションとノンフィクションでは、特に戦史の場合、実戦経験者と未経験者とでは理解に大差があるだろうし、経験者であっても、思想的、性格的要素の違いなどでも解釈に雲泥の差があるかもしれない。まことに厄介な対象であり、書くほうの立場からみれば、その人の思想性が著しく、色濃くでるのも病むをえない。
戦史研究でも、やはり逐次近似法でいかねばなるまい。予めの予定調和ののようなフィクションの羅列を読む苦痛と時間と金の無駄となる一種の娯楽小説につきあう気は毛頭ない。しかし、比較研究となれば、その疑問に思う細部ともいやでも付き合う必要が出てくる。
『ノモンハン事件の真相と成果』にも、五味川氏と半藤氏の記述についての疑問があちこちにある。主に半藤氏について拾うと、
『半藤一利氏(「ノモンハンの夏」34頁)は、日満議定書で『これには二つの密約がしかも公然と結ばれていた。一つは満州国駐留日本人の諸権利の確認・尊重であるが、重要なのは第二条である。「日本国および満州国は締約国の他方の安寧および治安に対する一切の脅威は同時に他方の安寧および存立に関する脅威たる事実を確認し、両国共同して国家の防衛に当たるべきと約す。これがため、所要の日本軍は満州国内に駐屯すべきとする。」要するに、満州国を侵すものは、日本帝国を侵すに等しい、であるから関東軍が満州国の防衛を引き受けると謳い上げた密約』であるとし、「二つの密約」として日本と関東軍の陰謀として非難の口調であるが、当時の満州国が十分な戦力を持たなかったのは明らかで、日本が防衛を行うのは建国の状況から当然のなりゆきである。「公然たる密約」とは意味不明で公然では密約にならない。親密の意味にとらえたのであろうか。これは密約どころではなく公然と議定書にも書き、官報で公布し周知せしめて満州国を守ったものである。後の議定書にも記載されており、また、当時の朝日新聞も9/15号に「一切の権益を確認し、共同防衛を約す」と大見出しで報じた。』あたりが最初の指摘だろう。
『また、半藤氏の「侵されても侵さない(同書37頁」などの方針の存在は疑問である。「侵されても侵さない」方針を変更して「満ソ国境処理要項を作った」として同書44頁に「ソ連の不法行為に対しては、周到なる準備のもとに徹底的にこれを膺懲しソ連を慴伏せしめその野望を初動において封殺破摧す」と、引用してあるが、この引用文には「1、軍は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の根本基調とす之がため、満ソ国境上におけるソ連軍の不法行為に対しては(以下略)」という、最初の重要な部分を抜かしているのは作為的に誤解へ誘導するものであり、原文改ざんである』
『また、「挑戦的な満ソ国境処理要項」といい、これを「侵されても侵さない、という従来の方針にそむく、断じて侵させない」と、するものだった。と説明しているが、これも問題である。』と。
ノモンハン戦開始以後の6月29日に大陸指第419号で国境外への飛行制限が示達され、この時大陸命第320号で、関東軍は越境したソ連軍を必ずしも撃破、撃退しなくてもよくなったもので、「侵されても侵さない」などの方針が「満ソ国境処理要綱」以前にあったか疑問であるが、一方この要綱を半藤氏は、自ら「昭和8年5月6日付けで配布された『極秘対ソ戦闘要綱』から一歩も外に出ていない」と記し、新たな挑戦的なものではないことを認める矛盾を書いている(45
頁)。またこれは、『侵されても侵さない」の方針の存在を氏自ら否定される意味であり、氏の思考は分裂している。』とある。
『三木秀雄教授は、昭和天皇が「満州国境を厳守せよと大命を下してあった」から「侵入ソ連兵との交戦は理由のあることであった」(昭和天皇独白録ー文藝春秋社)とあり、従って、満ソ国境紛争処理要綱は中央の認めたもので関東軍の独走ではない(「ノモンハン・ハルハ河戦争、シンポジウム」49頁原書房1992)と述べ、「侵されても侵さない」などないことが分かる』と批判している。
今日、そうした史観は、だいぶ変容を受け、本日の航空幕僚長の更迭人事にみるように、戦後の朝日新聞的ともいえる史観の命脈がカウントされ始めるようになったような気がしてならない。
アメリカが仕組んだ、太平洋戦争。小室直樹博士が指摘するように、原爆投下と硫黄島の戦いが、戦後日本の発言権を意味あるものにして、アメリカのいいなりだった中国や火事場泥棒になりさがったロシアの発言権を後退させたというが、日本人にはいまだその自覚がない。誤った戦史にもとづく意図的な作り話に躍らされていては、ますます属国化を加速せしめるだけである。
まだ、連合国の側の封印文書はわずかしか公開されず、戦前から日本の中枢にたくさんいたスパイたちの動向も、ほとんどつまびらかにされていない。やはり、敗戦の痛手から抜け出すには、優に1世紀は必要だろう。関ヶ原の戦いの後、文芸関係も60年ほどは空白が生まれていた、とは評論家、江藤淳氏の指摘であったが、戦前でさえ、相当数の外国勢力およびそれに共鳴する派閥によって操作されていたことを推測すると、戦前の自覚に戻ればよい、とは簡単には言えない。副島氏の最新作でも、江戸中期の思想家、富永仲基を評価している。
富永仲基は、神・仏・儒のすべてをきびしく平等に批判し、まじめに働き世の中の人々のためになる物を作って喜んでもらう生き方が、一番すぐれていると書いている。それで、日本の優れた技術で多くの電気製品を作って世界中に売って人々に喜んでもらう思想を実践した松下幸之助氏が一番えらいということに、書いていて行き着いた、という。
中世の禅僧たちなどは、密貿易の立派な文書を作成していた、という。幕末の西南四藩である、薩長土肥は、いずれも密貿易で巨額の利益を出していたそうである。そうでなければ、薩摩における島津の分家の娘である天璋院篤姫が京都の近衛家の養女になり、将軍家定の正室になれるはずがない。このとき、どれほどのお金が動いたか想像してみればよい、としている。
『すべてはお金の話である。お金がなければたくさんの人々をやしなうことはできない。金と軍事の話し抜きで奇麗事の歴史観など持つものではない。大きな資金がなければ何事もできはしないのだ。あんまり奇麗事ばかりのウソの歴史を国民に教えるな、ということだ。』としている。
戦後、我々は軍事常識や旧軍の記憶をほとんど瞬時に忘却してしまった。だから、「従軍慰安婦」などという言葉がまかり通る。従軍看護婦なら、実際に機能していて、靖国に行けば、若くして男勝りの活躍をした彼女たちの行動をたどることができる。婦長さんは将校待遇、看護婦さんは下士官待遇だった。兵隊さんたちは、「あの看護婦さんたちは皆軍曹なのだよ」と教えられて驚いた、という。
さて、ノモンハンの例にもどると、日本軍の大勝利ということに最近なってきたが、戦後はまず第一に文藝春秋から、自虐史観に近い五味川純平氏の本がでて、それがまず定着してしまった。東京裁判史観が幅をきかせていた時代で、時代に迎合した小説を書けるというのも才能だが、あくまでフィクションにすぎない。フィクションとノンフィクションでは、特に戦史の場合、実戦経験者と未経験者とでは理解に大差があるだろうし、経験者であっても、思想的、性格的要素の違いなどでも解釈に雲泥の差があるかもしれない。まことに厄介な対象であり、書くほうの立場からみれば、その人の思想性が著しく、色濃くでるのも病むをえない。
戦史研究でも、やはり逐次近似法でいかねばなるまい。予めの予定調和ののようなフィクションの羅列を読む苦痛と時間と金の無駄となる一種の娯楽小説につきあう気は毛頭ない。しかし、比較研究となれば、その疑問に思う細部ともいやでも付き合う必要が出てくる。
『ノモンハン事件の真相と成果』にも、五味川氏と半藤氏の記述についての疑問があちこちにある。主に半藤氏について拾うと、
『半藤一利氏(「ノモンハンの夏」34頁)は、日満議定書で『これには二つの密約がしかも公然と結ばれていた。一つは満州国駐留日本人の諸権利の確認・尊重であるが、重要なのは第二条である。「日本国および満州国は締約国の他方の安寧および治安に対する一切の脅威は同時に他方の安寧および存立に関する脅威たる事実を確認し、両国共同して国家の防衛に当たるべきと約す。これがため、所要の日本軍は満州国内に駐屯すべきとする。」要するに、満州国を侵すものは、日本帝国を侵すに等しい、であるから関東軍が満州国の防衛を引き受けると謳い上げた密約』であるとし、「二つの密約」として日本と関東軍の陰謀として非難の口調であるが、当時の満州国が十分な戦力を持たなかったのは明らかで、日本が防衛を行うのは建国の状況から当然のなりゆきである。「公然たる密約」とは意味不明で公然では密約にならない。親密の意味にとらえたのであろうか。これは密約どころではなく公然と議定書にも書き、官報で公布し周知せしめて満州国を守ったものである。後の議定書にも記載されており、また、当時の朝日新聞も9/15号に「一切の権益を確認し、共同防衛を約す」と大見出しで報じた。』あたりが最初の指摘だろう。
『また、半藤氏の「侵されても侵さない(同書37頁」などの方針の存在は疑問である。「侵されても侵さない」方針を変更して「満ソ国境処理要項を作った」として同書44頁に「ソ連の不法行為に対しては、周到なる準備のもとに徹底的にこれを膺懲しソ連を慴伏せしめその野望を初動において封殺破摧す」と、引用してあるが、この引用文には「1、軍は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の根本基調とす之がため、満ソ国境上におけるソ連軍の不法行為に対しては(以下略)」という、最初の重要な部分を抜かしているのは作為的に誤解へ誘導するものであり、原文改ざんである』
『また、「挑戦的な満ソ国境処理要項」といい、これを「侵されても侵さない、という従来の方針にそむく、断じて侵させない」と、するものだった。と説明しているが、これも問題である。』と。
ノモンハン戦開始以後の6月29日に大陸指第419号で国境外への飛行制限が示達され、この時大陸命第320号で、関東軍は越境したソ連軍を必ずしも撃破、撃退しなくてもよくなったもので、「侵されても侵さない」などの方針が「満ソ国境処理要綱」以前にあったか疑問であるが、一方この要綱を半藤氏は、自ら「昭和8年5月6日付けで配布された『極秘対ソ戦闘要綱』から一歩も外に出ていない」と記し、新たな挑戦的なものではないことを認める矛盾を書いている(45
頁)。またこれは、『侵されても侵さない」の方針の存在を氏自ら否定される意味であり、氏の思考は分裂している。』とある。
『三木秀雄教授は、昭和天皇が「満州国境を厳守せよと大命を下してあった」から「侵入ソ連兵との交戦は理由のあることであった」(昭和天皇独白録ー文藝春秋社)とあり、従って、満ソ国境紛争処理要綱は中央の認めたもので関東軍の独走ではない(「ノモンハン・ハルハ河戦争、シンポジウム」49頁原書房1992)と述べ、「侵されても侵さない」などないことが分かる』と批判している。
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