月曜日, 11月 03, 2008

前回、小室直樹博士の戦史の研究として、ノモンハン事件から手を付けるべきという話を書いたが、それより少し前の昭和12年12月の南京事件も付け加えるべきだと、今日改めて思った。

未だに、副島氏のような人でも、南京大虐殺はあった、秦教授の4万人説を信ずる、などと根拠もなく、繰り返す人を見て、また否定派の方たちの最近までの「研究」成果を読んでみて、また、渡部氏のような、当時の状況を実感されて発言している方たちが今後急速に減少することもふまえて、ここでも書き足すというか、引用しておくべきだと思った。

昨年12月に雑誌「WILL」(ワック・マガジンズ)の臨時増刊号が出た。中国のプロパガンダに終止符!「南京嘘大虐殺」などと表紙にはある。当時はちょっと覗いただけで、詳しくは読んでいなかった。私にとっては、片がついた問題だったかもしれない。

真珠湾攻撃の山本長官も怪しいなと思っていた矢先、スパイだったなどという本を書かれた副島氏だが、南京大虐殺はあった、と直接関係ない(関係なくもないが)話に妙に肩入れしている姿勢も気になる。文藝春秋や新潮社もアメリカの息がかかった出版社などと指摘しながら、自らのソースについては、あまり明らかにしない。ジャパンハンドラーズなどという本を書いて(共著)、アメリカの対日戦略の裏舞台などを解説される以上、これはこれで、アメリカの手先では!?とつい疑いたくもなる。

新潮社の週刊新潮では、帝京大教授の高山正之氏が、南京事件はルーズベルトが蒋介石に南京事件として戦後告発できるようにと褒美をちらつかせて、持ちかけた話で、オーストラリア人ジャーナリストがからんで、戦前から仕組んだもの、という指摘があった。(数ヶ月前の号ではなかったか!?)

『第二次上海上陸作戦で松井岩根(大将)の中支派遣軍(その中の柳川兵団が勇猛を誇った)が侵攻した。そして四ヶ月かけて、その年の年末に、首都・南京をようやく攻略して占領した。この占領直後の1937年(昭和12年)12月13日に、日本軍による南京大虐殺が起こるのである。
 いまだに「南京大虐殺はなかった」論を言い立てている日本の言論人たちがいる。愚かな人々である。日本軍があのときに南京市内で殺した中国人は、最低でも2万人から4万人はいた。私はずっと秦郁彦氏の説を信じ続けている。「虐殺はあった」のである。』

としている。信じているからあった、と言っている。また具体的な言論人にも、名前を出さず(出せず!?)、都合の良い(!?)秦氏の名前だけ出している。ここで、本来なら、英語論争での天敵とでもいうべき、渡部氏の名前でも挙げるならともかく、一緒くたにして、愚かな人々とだけ指摘している。ねつ造したアメリカ側の視点丸出しではないか!?明らかに論争を避ける典型的なスタイルだと思う。

タイム誌に、当時出た書名入り記事では、戦死者2〜3万ほどという伝聞記事がでているが、虐殺数ではない。この数字と妙にクロスする数字の指摘も気になる。

2007年は南京大虐殺70周年とやらで、10本もの反日インチキ映画が。中国系資本を背景にアメリカで作られる、というので、まぼろし派も危機感を強め、特集となったようだ。

上智大名誉教授の渡部氏と亜細亜大教授の東中野氏との対談が、巻頭特別対談となっている。

この中で、前に書いた、東京裁判で証言した、当時南京を自由に歩き回れた立場のマギー神父の証言で、訂正すべきことが一つある。殺人はたくさんあった、というので、直接の実録談を求められたマギー神父は、一人だけと答えている、としたが、実は、彼の日記には、死体はみたが、殺すところは見ていない、と書いてあるそうである。この日記は公表されており、極めて偽証に近い1件だと指摘されている。アメリカ側の証人でさえこのありさま。

渡部氏とおなじく素人の立場で研究された一人に板倉氏がいるが、この板倉氏に秦教授は自著「昭和史の謎をおう」という本の中で、盗人猛々しい言い草で、板倉氏を揶揄している、という。秦教授が、自説の補強にもっとも多用した曽根一夫という人の書いたインチキ本について、板倉氏が、曽根一夫氏という人物は南京突入部隊にはいなかった、ということを明らかにしたからだ、という。東大出といってもこのありさま。『学者の無恥厚顔もここまでくると手のつけようがない。南京大虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件というという表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。・・・秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのだ』と渡部教授は売られたケンカに対して応えている。

その板倉氏が専門外でも熱心にしらべた虐殺数。欧米人は、日本軍による殺人の情報を熱心に集めていた、という。そしてそれを、日本領事館に「市民重大被害報告」として訴えた、という。しかし、その数には、誰が見たか、についてはほとんど書かれていない、という。ドイツ人が一人見て、1件としても、アメリカ人がまた、それを見て1件とすると、計2件の報告としてカウントされる、という。それでも、殺人だけで26件で、板倉氏は以上の理由から、市民殺害数の上限は52人であるとした、という。

目撃された件数は1件のみだというが、それも便衣兵(ゲリラ)か何かで、合法的処刑だった、というわけで、不法殺害を実見した記録というのは、ゼロだそうである。

松井岩根大将は、孫文と非常に親しかったために、南京城の外に中山廟があって、孫文の記念碑があるので、南京攻略の便をあえてさけて、ここからの砲撃を禁ずるなど、気を配って戦争している、という。
南京攻撃に際しても「敵の首都を攻撃するのであるから、世界中が見ている。決して悪事を働くな」という丁寧な命令を下しているそうである。

ただ、そうはいっても戦争であり、不測の事態が頻出したであろうことは、一般的に想像はできる。この[WILL」の対談では、勇猛を誇った柳川軍団のことは触れていない。捕虜処断に関する記録は、京都16師団の活動がある。二千名の捕虜を、処刑しないというと、捕虜は拍手してよろこんだが、いざ、渡河する際に、対岸から、中国軍が発砲しだすと、処刑されると勘違いした捕虜たちが刃向かい出し、騒然となって、日本軍も敵に対して機関銃を発砲、などという話はあるし、どうやっても、生きた捕虜として追放できないと認めた捕虜は、処刑したというが、正式な捕虜でないので、今で言うテロリスト集団として、処刑対象に選ばれた者も数千名ぐらいはいたようであるが、国際法上、これらは虐殺にカウントされえない。

http://www.asyura2.com/0411/war61/msg/505.html
には、「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」についての、木村愛二氏論考
というのがあり、日本軍法務官である憲兵中佐のまとめでは、「法務部陣中日誌」の方の最 後の部分に収録された「既決一覧表」には、104件、そのほとんどが、殺人、強姦で、強姦を含む犯罪の件数は23、猥褻1、強制猥褻1となっている、とあるそうである。これが日本軍が認めた、欧米側の記録にない、実相に近い数であろう。最初からゼロとか一桁などと信ずる馬鹿はいまいが、混乱のさなかの、いわば犯罪で、軍紀の乱れはまあ、多いか少ないかは分からないが、これを組織的な関与と捉えることは、適当ではないようである。

上記の元憲兵中佐は、この状態を「皇軍が聞いてあきれる状態」「遺憾」と記して いる。この事態が、いわゆる「宣撫工作」の障害となったからこそ、「従軍慰安婦」 の制度化が急がれたのである、という。従軍看護婦とはちがう意味で、従軍移動慰安婦とでも位置づけるもので、こうした組織は、ヨーロッパでもある。ドイツ軍もあったし、ナポレオン時代にもあった。小室直樹博士は、アメリカは、売春婦なら、街中にごろごろいるのに、日本占領では、日本女性を対象としたと抗議めいたことを書かれている。フルブライト留学生ならではの卓見であろう。

再び、四万人説がなぜ危険な数字か!?

『日本軍の師団や旅団に、渡す武器や食料を満載している輜重隊が、たとえば馬群というところで、二日にわたって、攻撃された。隊員たちは白兵戦で中国兵を捉え、救援に駆けつけた京都16師団の機関銃中隊が射殺したという。この件に対しては、秦教授が「捉えた中国兵を射殺するとは」と言うのですが、、この拘束したシナ兵らを逃がせばまた輸送隊が襲われるかもしれないし、捕虜にしても手りゅう弾を投げつけられる可能性があったのでしょう。やむなく処刑しました』

『佐々木旅団長の命令が出て約7時間後の14日正午ごろ、京都16師団は紫禁山の東北の尭化門というところで、7200名もの投降兵にぶつかることになります。もし、例の命令が「処刑せよ」であったとすれば、当然処刑しているはずです。ところが、京都16師団は投稿したシナ兵たちを受け入れて、武装解除し、南京城内に連れて帰っています。
 秦氏は、「7200名の行方が不明なので、これは殺されたのだ」と推測していますが、12月23日に、下関(シャーカン)で働いているのが、京都16師団の小原輜重兵によって目撃されています。ですから、捕虜を処刑したかといえば、処刑していないのです。』などと話が展開し、虐殺肯定派は、良く調べずに東京裁判の打ち出した歴史観にそってそれを疑うことなく補強してきたのだとおもいます。』『まったくその通りです。』などとある。秦教授は、不法戦闘員(便衣兵)ゲリラも処刑した、と言っているそうである。

『1辺が山の手線ほどの広さがある南京城内で、正規兵が逃げるとしたら、南京市民の中にしかない。正規兵は軍服を脱ぎ捨てても依然として正規兵であり、ゲリラではないという。つまり、南京城内では、不法戦闘員となった、シナ兵を処刑した、という。不法戦闘員となった、シナ兵を処刑したことについては、南京の外交官も、国際委員会も、南京市民も漢口の国民党政府も、国際都市上海の外国人特派員も一度たりとも不法といったことがありません。』

『不法戦闘員はいかなる裁判もありませんから、たとえ裁判なしに処刑されても文句は言えないんですね。あの時代の人々は、シナ軍の唐生智が逃げたこと、シナ兵が軍服を脱ぎ捨てて逃げたこと、武器を公然と携帯しなかったことをみんなよく認識していますから、すぐそれは捕虜ではない不法戦闘員とわかって、誰も何も言わなかった。今の人は平和な時代にいますから、これがわからない。』この対談でも、こうして処刑された正規兵は6500人と出ている。軍服のまま捕虜となって、反抗しなければ処刑されない。

北京大虐殺などとという話がないのは、皆オープンシティにしたからだという。パリも二度にわたりオープンシティ。これは、オープンシティにしないで、唐生智が逃げたことが原因で、小室直樹氏も早くから、処刑されても文句はいえない、と指摘していた。

朝日は、この唐生智が、南京城攻防戦の責任を問われて、処刑(銃殺)された、などと報道した(12月20日)そうであるが、ニセ情報であり、生きていていて、戦後は共産党に寝返り、閑職とはいえ、副省長についていたそうである。

事前に南京大虐殺を画策したアメリカの手先がニセ本を書き、蒋介石がアメリカの働きかけにより、部下唐生智を南京をオープンシティにさせずに逃亡を許し(筋書きどおりではなかったかと)、ニセ情報で、処刑したことによって、戦後の裁判の伏線がすべて完成したかのように思える。俄副島史観か!?蒋介石が処刑を発表していて、それは嘘だった、ということをここで強調。

なかのひと

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