日曜日, 11月 09, 2008


2005年10月5日発行。 その時はあまり問題意識がなく、ノモンハン戦の参考程度にと思っていて、ほとんど中味を吟味しなかった。積ん読していたものが、整理の過程で出てきた。

後書きを見て、事故米事件での、官僚たちの対応の救いがたさ(社保庁などもしかり、外務省も、害務省で、せめて害無省ぐらいまでにはなってもらいたい。中国や朝鮮の出先機関でしかない、もっとも外交も武力の裏付けがないと、ご用聞き社交になりさがる。それで、田母神論文などが事実なだけに、波紋をよぶ)を改めて感じていただけに、いかに戦後、戦時中の統制経済が続いていたかにおどろかされた。

軍学者ではない、経済学者の別宮氏が書いている。・・・・『戦争で成功するためには、量・兵器(科学技術)・方法(軍事学)がにおいて優れていなければならない。長期戦となれば、量が最優先となるため、GDPが決定的となるが、その成長率を大きく規定するのは民生用科学技術である。

日本は戦前において高度経済成長を遂げた国だった。昭和金融恐慌(1927年)の影響は産業界にはあまり及ばす、アメリカ大恐慌(1929年)の影響も軽微であり、GDPが英仏を抜くのは時間の問題とされていた。

ところが、1936年(昭和11年)を境に日本経済は暗転した。注意せねばならないのは、これは支那事変発生の前である。そして一人あたりGDPが1936年の水準に戻ったのは1956年(昭和31年)であり、なんと回復に20年かかっているのである。(そういえば、戦前に東京でオリンピックが予定されていましたね。また、以前印画紙の消費量が戦前波に回復したのが、昭和27年を過ぎてから、と何かで読んだ記憶もある。)

これについて戦争のせいとするのが一般的であるが、間違っている。この低迷は「統制経済」という名の社会主義経済のためである。統制経済のもと、資本と経営の分離が叫ばれ、役人が天下り、企業トップに座った。そして共同組合が組織され、金融はそこに一元化された。自主性は失われ、需要があっても割当に妨げられ、企業は設備投資=生産拡充ができなかった。この20年間、川鉄千葉まで、日本には一貫製鉄所の建設が1件もないのである。
 その時出現した革新官僚や少壮軍人は五カ年計画が成功したというソ連の宣伝に幻惑され、社会主義を導入すれば「高度国防国家」が実現すると錯覚したのだ』と書いている。

『1936年に「国家総動員法」が施行され、その後「失われた20年」が続いたのだ。自由がなければ科学技術は停滞し、競争は萎縮する。

天下り官僚が経営すれば生産は伸びず、・・・アメリカの小さな政府、民営の軍需工場が最後の勝利を収めた。官僚・軍事官僚が威張り出せば戦争に勝てない』となっている。

小室直樹博士だったと思うが、日本との戦争がはじまると、アメリカの理科系の大学生は全員、助手となって、それぞれの課題の研究をおこなった、という。それで、大学入試も中止だったとか。

また、坂井三郎氏は、GDP比からいって、敵戦闘機はすくなくとこちら1機で17機ぐらいは落とさないと、勝てないと覚悟したという。しかし、昭和17年の段階で、いくら叩いても現れる、敵輸送船団の群れを雲間からみて、この戦いはいずれ負ける、と直感した、という。

『そもそも日本は官僚や彼らの作った政策によって発展した国ではない。民間人の創意・工夫により経済を伸張させ、「最後の一兵まで戦え」という軍事規律に文字通り従った徴兵の献身によって国を守って来たのである。』やはり、そうであったか。そういえば、『兵隊さんのおかげです』という歌もありましたね。聞きようによっては、違和感を覚えもしたが、一面の真実を歌っているのだろう。



なかのひと

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