月曜日, 11月 03, 2008

秦教授の4万人説が危険な数字である理由(補遺)

南京市内での不法戦闘員処刑が6500名もいた、という指摘は今回の認識で初めて自覚した数字で少々ビックリした。その他城外での処刑もあるから、その倍は行ったろうと思いたい。これが、戦後になって初めて4万人説が一人あるきを始めた、きっかけとなっているはずだ。オープンシティにしなかったために起きた悲劇であるが、当時どこも問題にはしなかった。蒋介石は、部下を放置して逃亡した司令官の唐生智を銃殺刑に処したと発表したが、それは嘘であった。戦後は共産党に入党して、それなりの出世をしたという。蒋介石の副官が、じつは隠れ共産党員で、身分を隠していたので、戦後蒋介石は毛沢東に敗れている。日本軍に反抗させる手段だった蒋介石は、戦後はアメリカにとって、ご用済みだというわけだ。小室博士も折りに触れて、日本叩きを人種戦争と非難されるのを恐れて、ルーズベルトは蒋介石と組んだと早くから指摘。自分の先祖が、中国でのアヘン売買で財をなしたことも、背景にあるだろう。

蒋介石のシナリオ
『唐生智司令官は降伏命令を出さずに逃亡、撤退命令であれば同然シナ軍は撤退中に日本軍と激突することになります。
このように司令官なきシナ軍が撤退する大混乱の中で日本軍と激突して日本軍にダメージを与えるという筋書きを描いていたと思います。』
『敵前逃亡した司令官が処刑されていない(通常、どこでも死刑)ということは、そうとしか考えられないですね。(しかも、処刑したとニセ発表までしている)では、その蒋介石による筋書きによる大混乱の中で、日本軍にとって何が問題となったのか』

『南京は城外と城内に分けられます。まず、南京陥落当時の城外というものに、今の人たちはどういうイメージを持っているでしょうか?』

『陥落したのだから投降兵が出たと思うでしょう。その投降兵は全軍一致して整然と手をあげて日本軍の前に出てきたとイメージするのではないでしょうか?
 この一致的イメージの中で日本軍は投降兵を殺したと聞けば、手を挙げている者に機関銃を乱射したというイメージを思い浮かべるわけです』と東中野教授は語る。

そこには、勇猛を誇る柳川軍団ではなく、京都16師団がいて、投降兵の大群と対峙して苦戦を余儀なくされた。この師団は陥落直前の午前1時から、午後6時までの18時間にわたって猛烈な死闘を繰り返した。紫禁山の東北の仙閣門では、上海以来最大の死傷者を出す部隊すら出た、という。そこで、各隊は指示あるまで、捕虜を受け付けるな、という指示を出した。それは、投稿兵たちが、実際の日本軍が数が少ないとみると、手りゅう弾を投げつけたり、猛攻撃のシナ兵、逃亡しながら輜重隊を襲うシナ兵たちと入り乱れて、統一命令が出せず、各隊は下手に投降を許すなという命令を出した。これが、投降兵を虐殺したと誤解された。

幕府山というところでは15000名ものシナ兵が投降してきた、という。女子供もいたので、非戦闘員の7000名を逃がし、残りを捕虜とした。『秦氏はこれを殺した、と言っている(ここで8000名とカウント)』そうである。捕虜たちは火事を起こしてその混乱に半数の4000名は逃亡、残った4000名のうち、半数は審査のうえ、処刑。その部隊は会津若松の65連隊で、朝日新聞も報じているように、我々はお前たちを殺さないといったら、拍手喝采がおきた、という逸話の話である。取りたくない時期に捕虜をもってしまい、さりとて、殺したくもない。それで、船で12月17日の夜南岸から対岸へ逃がすことになった、という。しかし、対岸からシナ兵が発砲、捕虜たちは、蜂起したが、日本軍も闇夜で機関銃を撃ったが、大半は逃げたという。日本軍にも死傷者が出た、という。

会津若松65連隊の両角(もろずみ)大佐は捕虜を逃がそうとしてやむなく銃撃したことについて山田少将に報告しており、再び銃をとることがあっても、日本軍が逃がそうとしたしたことは肌で知っているので、かっての勇者同様には戻れないであろう、などと記録を残している、という。

秦教授は、便衣兵などのゲリラを殺した、と言っているそうである。そういうカウントをすれば、4万人説に近づくのであろうか?それは完全な間違いだという。南京城内の兵は正規兵で、軍服を脱いでも正規兵でゲリラとは違う扱いだという。それゆえ、城内の逃亡兵は、不法戦闘員で、投降せず見つかれば処刑されても、どこからも文句がでない種類の哀れな存在なのだという。日本軍が不法戦闘員狩りをやっている写真もあるが、これは虐殺ではなく、日本側が発表した写真である。中国側が戦後発表した証拠写真は皆偽物である、という指摘をこの東中野教授は、著作で発表している。

30万人や40万人という数字がでっちあげであることは誰でもわかる話だが、緻密な研究で「一人も殺していない」と最初に書いたのは田中正明氏だという。それで、「まぼろし派」「中間派」「虐殺派」という分類ができた、という。田中氏が書かれたことは大変立派で、すべて東中野教授の研究で裏付けがとれた、というから、田中氏が立派ということはまさに奇跡にちかいのではないだろうか?ただ、台湾に眠るシナ側の文書が未発掘だったこと、外国の資料が使えない時期で、少し迫力不足だった、という。しかし、研究とはこうありたいものの見本であろう。誰よりも先に、おれはこう思う、という主張が科学の発展を促すのである。資料と演繹によって、(一部帰納も使うが)新事実をあぶり出すのである、秦教授の方法は帰納主体で、虐殺数をカウントするときだけ演繹したのかな!?と言ったところか。半藤氏と近いところからも、ネオ東京裁判史観に近い方だと思いたい。

すると洞富男氏(ホラ富む男)などの大虐殺派が一方にある中で、秦教授の4万人説がいちばん冷静で中立的な意見だと思われることが、いちばん危ない。中間の説のように見えますが、4万人といえば大虐殺ですよ、と渡部教授。副島氏も秦説を信じる、というくらいである。

秦教授が一時期高い評価を受けたのは、30万人説が有力なときに、一桁数を落としたからだそうである。ところが、いちばん信用が置けると書いたのが曽根一夫の「私記南京虐殺」であったというが、むろん私記はおろか、南京戦には参加していなかった人物で、渡部教授は彼にもあっている、という。

むしろ、東大教授で宣教師でもあった、マイナー・ベイツ師が書いた数字にたよったのではないか、と教授は今となっては推察しているそうである。それを直接いわずに、別の人物を都合よく、引用文献としたのが、運の尽きだったのでは、と学者の小細工を笑ってしまう。後世、大抵の作為は、多くの詳細な研究で判明してしまうものである。それとも、米ベイツ説を引用売るとまずいことなのだったろうか?

東中野『この対談の冒頭で渡部先生はが「市民の殺害はなかった。シナ兵の処刑は
合法だった。だから実に簡単な話だ」と言われました。まったくその通りです。私は18年間研究してきましたが、「なんだ、そういうことだったのか」(笑い)。日本の兵隊さんたちが虐殺は見たことも聞いたこともない、」と言っていたことと同じではないか。いったい、今まで何を研究してきたのだろうと思いましたね。』などと述懐されている。

シナの情報工作

中国国民党の宣伝部が、マンチェスター・ガーディアン紙の上海特派員であった、ハロルド・ティンパーリに、『戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐』という本を書かせた。という。それには、「南京で何か特別なことがおきている」と思わせるように書かれている、という。戦前のオーストラリアは人種差別がもっとも激しく、白人のレベルまで力をつけてきた日本人が憎くてしかたなかったんでしょう、と渡部教授。ティンパーリは、毎日の英字新聞でみだらな女子高生特集を書きなぐっていた記者と同じオーストラリア人で、東京裁判でも証人に出てこれなかった。

最初は鈴木明氏が指摘し、最近は、英訳本をだした北村教授も指摘している、れっきとしたシナの工作員だった。その中に、シナの宣教師だった、マイナー・ベイツ教授が匿名で執筆したメモランダムが含まれ、そこに「埋葬証拠は非武装の4万人に近い人間が城内や城壁の近くで殺されたことを示しており、そのうちの3割は決して兵士ではなかった」と書かれている、そうである。

イェール大学の南京関係文書を調べているうちに、当時の新聞記事の端くれから、このベイツ教授も国民党中央政府の顧問と判明したという。すべて、最初は、アメリカが仕組み、戦後アメリカによって告発されたわけである。そこが見えないと、盲群、象をなでる現象に向かうわけである。日露戦争直後から、日本を追いつめる研究をしてきたアメリカである。戦後の体制にも十二分に手を打っていたはずであるが、日本に夢中になりすぎて、ほかに手が十分にまわらなかったほどである。

このメモランダムの漢訳文には、肝心の4万人の部分が抜け落ちている、という。面白いでしょう。例の笠原十九司教授がいうように、余白がなかったから、抜け落ちたためではないという。ニセ情報、プロパガンダを載せればシナ通にはウソとわかるから削除したのだと。ベイツ教授は、末尾にサインして、削除を承認したことになっている。ところが、東京裁判では、またその数字を蒸し返した、という。このとき、日本の弁護団が削除の事実を追求していたら、南京事件が中国国民党政府の戦争宣伝であったことが、白日の下に晒されたことであろうと、残念がっている。

そして、1971年になって、本多勝一氏によって、現地取材を許され、「中国の旅」を書き、そこで初めて写真入り南京大虐殺がでてきた、という。と同時に、ナジェール社から、英語版と仏語版の『中国旅行百科』がでたが、そこには南京大虐殺は1行も書かれていない、という。事実でなかったから、日本にだけ、朝日を通して南京大虐殺を輸出したのだという。

日本も昭和16年に日本陸軍報道班は、上海の馬淵逸雄大佐の「報道戦線」が示すようにティンパーリ記者やベイツ教授の動きを把握していたので、どこかで釘を刺しておくべきだった、と振り返っている。

作家の石川達三氏(これも私は読まず嫌い)も『裁かれる残虐』(南京事件)と題してインタビュー記事を書いているが、(特派員として1月5日南京入り)昭和21年五月に、曽根一夫ばりの見てきたようなウソを書いた、という。この裁判を意義あらしめたい、などと結んでいたという。後年の彼の作品の暗さを暗示している。そのくせ、この記事で、国際検事局から呼び出され、尋問を受けると、記事とはちがうことを話した、という。もし、この記事を事実とすると、安全地区が殺戮の現場ということになり、誰かが目撃し、日本大使館に届けていたはずだ。南京大虐殺についてはいろんな人がいろんなことをいうが、そのときそこで関係者がつくった記録はひとつもない、ということが、こうした話のポイントである、という。

石川達三氏の話は、もし事実なら、朝日も毎日も相当数の記者を送り込んでいるし、他の文人たちも多数いたなかで、他にだれもそういうことを書いていないという。渡部教授は非常にこの記事は不愉快とおっしゃる。左傾がかった人たちは「日本が悪い、戦前が悪い」ということに飛びつきたいわけですから、という指摘も当然か!?

東京裁判の判決がでて9年後に日中の会合が毛沢東から指名されて北京や南京で開かれ、南京戦に参加した谷田中将が、雑談の折り、南京占領中におきた数件のレイプについて触れ、わびて「ご迷惑をおかけしましたが、事件を起こしたものは軍法会議にかけました」という趣旨の発言をしたら、中国側は、「日本軍の扱いは公正だった」と応じたという。もし、実際に虐殺などおきていれば、そもそもこうした会話自体がなりたたない。国民党政府が「南京虐殺20万人」というのを戦後だしたが、もし事実なら外国人との記者会見300回の中で、毎日毎日南京虐殺を叫んでいなければならないはずだが、その記録を見ても、皆無で1行も残っていない。

1990年年代でも、南京で日本語を教えていた人が、あちらの学生としたしくなったら、毎年12月になると、どうしてこうも朝日などの記者がくるのか、と逆に聞かれたという。それで、その学生のおじいさんの話では、日本軍はアメもくれたし、虐殺、虐殺って聞くけど、どこであったのと聞かれ、驚いたという。

また、江沢民も1990年代から歴史研究に目覚めたが、すこし研究して見ると、国民党政府は
日本軍と戦い、彼らは、国民党政府は敵だったから、敵の敵は味方ではないか、ということになり、江沢民は困っている、という。毛沢東は、日本軍国主義は恩人といったそうだが、日本軍は、毛を助けるために、アヘンの処理なども手伝ったらしい。

小室直樹博士は、対中問題は、対米問題ということを理解していなかった、と戦後早くから指摘されていた。


なかのひと

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