水曜日, 11月 12, 2008

『兵力差が圧倒的だった昭和12年』

まさしく前回、『技術戦としての第二次大戦』を紹介し、その後書き部分の一部だけを少し触れた。

ここでは、ノモンハンへ入る前の、日本が、何度も何度も自重して中国大陸への陸軍派遣をためらった揚げ句、蒋介石の攻撃に耐えかねて軍をすすめた昭和12年のあたりから、章だての順番にしたがって見ていきたい。

ちょうど昨日、国会で「日本は侵略国家ではなかった」との骨子の論文を書いた元航空幕僚長の田母神氏の国会での「参考人」質疑があったばかりである。

軍学者の兵頭氏が、第二次世界大戦は1939年のヒットラーによるポーランド侵攻によって始まったのではない、という書き出しで始まっている。
『昭和12年(1937年)8月13日の、蒋介石の「中央軍」による、日本海軍上海陸戦隊(しゃんりく)への総攻撃で始まった。これは1928年に諸国が合意したパリ不戦条約のれっきとした違反であって、支那側の侵略である。』

私はこのことをここ一年ほど前に別の手段で知ったばかりである。もちろん、最近の中国における日本大使館がデモ群衆に取り囲まれ、狼藉を受けて、中国側は窓ガラスの修理もしない、などという類いの範疇ではなく、すでにアメリカと内通していたであろう蒋介石の正規軍が、ドイツ製武器を豊富にそろえ、国際法上問題のない、しゃんりくへ軍事攻撃を仕掛けてきたのである。

ある人は、これを中国軍が先に侵略したから、日本軍による正当な反撃を受けたのである、と書いていたが、ウロコが1枚はがれた思いであった。

『それに対して昭和12年の7月の「盧溝橋事件」は「侵略」でも「開戦」でもなかった。___というのが『軍事史からみた「南京事件の真実」で展開された別宮先生の説得力あるご主張でしたね。』とある。

これを受けて、別宮氏も、ライシャワー元駐日大使(夫人は日本人)もほぼ同様の趣旨の見解を自伝の中ではっきりと示しているという。

『そうなると、支那事変は日本の侵略であるどころか正義の自衛戦争であって、まさしく「暴支」を「膺懲」したものにほかならなかったわけだ。しかるにそれが、あたかも日本の侵略のように戦後の歴史の教科書で教えられてしまっているのですけれども、いったい誰のせいなんですか?』とあって、ここ数日の騒ぎで何も田母神論への正式な反論がなかっただけに、やはりふだん日本人がクサイものにフタ式に避けているように思われる空間の重い存在に突き当たる。

『中国側の米英に対する宣伝上手と、正反対の日本人の宣伝下手のおかげでしょうね。中国軍の侵略を受けて、日本政府がすぐに宣戦布告できなかったのも、事を歴史的に曖昧にしてしまいました。そしてその後の日本の歴史家と文部省(日教組!?)がまた、、事実の究明を怠ってきたのです。』などとなっている。

昭和12年当時、蒋介石は南支を中心に最大で300万もの兵員動員が可能と見積もられ、当時日本はその1/10にしか最大でもならず、相手側に勝算あっての開戦だったろうと、推測している。

レマルクの「西部戦線異状なし、Im Westen nichts Neues」でも知られるように、1914〜1918年の第一次世界大戦が立証したところでは、鉄条網と機関銃で守りを固めた塹壕陣地に正面から接近突撃してくる敵部隊は、いかに精兵の大軍であっても大損害を蒙るだけで、決して勝てないものだそうである。それで、せいぜい数十万の日本軍が来たとしても勝手に自滅してくれるにちがいないと、大胆にも敵は踏んでいたのだろう、とこの本の二人は推測している。

支那軍は、ドイツ製の武器やヨーロッパ製の他国の武器を装備し、(チェッコ軽機、モーゼル大型拳銃など)で、軍事顧問には、第一次大戦の塹壕戦の経験者ののファルケンハウゼンだった、という。ワイマール共和国ドイツの参謀総長で、「現代のモルトケ」とまで言われた男であったという。

対する日本側は、陸士9期の荒木貞夫と同16期の小畑敏四郎(としろう)が、ファルケンハウゼンとおなじ東部戦線に、ロシア側観戦武官として派遣されていて、ロシア側のブルシロフ戦法こそが今後の歩兵戦術の主流になると直感して、すでに報告しているそうだ。

その後、この方法は連合軍の間でも周知となり、下士官のイニシアティブによる分隊(プラトーン)戦法が、先進各国陸軍の主流になっていった、という。

1937年の上海決戦、つまり上海周辺の大規模な塹壕突破戦と、南京に向けた掃討戦は、日露戦争での奉天開戦刺の大規模なものだという。

ドイツの職業軍人が設計した陣地に、国府軍の主力、中央軍をよりすぐった88師、87師などの将兵が配されて、日本陸軍は7個師団半20万人で戦ったという。(後に2個師団、5万を増派)

国府軍は25個師、33万人ぜークト線後方を含めると、75万人を南京から上海の間に集中していた、という。

蒋介石軍は、第一次大戦では通用した陣地構築をしていたが、松井岩根大将の率いる日本陸軍は、浸透戦術という新戦法で、爆弾3勇士の時の一面突破、全面展開ではなく、多面突破を行い、強固な陣地の後ろから攻めることができたという。25万の兵力が25万以上の戦死というという被害を与えたことは、にわかに信じがたいことでしょう、と記述している。

トーチカの中の機関銃に、自ら鎖でつなぐような士気の高いシナ兵たちもいた、というが、トーチカの銃眼を正確に狙える水平砲などの存在も大きかったらしい。

ドイツ人参謀たちは、日本軍が浸透戦術をとれるなどとは予想もしていなかったし、シナ人の「侮日」はポーズでなく本心だったから、負け出すとシナ兵たちは袋のネズミだった、とある。

あと、日本軍の手りゅう弾は、攻撃あいずぐらいにしか使えず、敵の手りゅう弾でそうとう被害を受けたとか、38式歩兵銃は、時代遅れと思われがちだが、500メートル以上の距離では、米軍の7.62ミリ弾より高速であった、などという指摘も。爆竹文化のシナ兵には、なるたけおおきい音の出る兵器でないと、心理的な威力がなかったとか、・・・・。38式歩兵銃は日本の武器の中で最も成功した輸出製品でもあった、という。第一次大戦中にロシアに100万挺以上、イギリスに30万梃以上で、評判もよかった、という。アラビアのロレンスは、灼熱のネジド砂漠で、ボルシェビキは極寒のロシアで使用したが、いずれも敵軍に勝利している、という。

38式歩兵銃は、1600メートルでも頭蓋骨や馬の脚を砕く性能があった、という。
もっとも、この戦いで、舗装路のほとんどないシナの大地を思い砲を引かされた軍馬はあわれで疲労でバタバタ倒れた、といい後は人力で運ぶしかなかった、ともいう。敵の逃げ足が速くて、とあるが、日本兵の進軍も速くはなかったかも。


なかのひと

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