小室直樹博士が、折りにふれてノモンハン事件から戦史の勉強をスタートするべきだ、ということをよく提案していた。その頃はまだ、左翼史観というのか東京裁判史観、あるいは自虐史観などとも呼ばれるワンパターン的な戦前、戦中解釈が横行していた。
今日、そうした史観は、だいぶ変容を受け、本日の航空幕僚長の更迭人事にみるように、戦後の朝日新聞的ともいえる史観の命脈がカウントされ始めるようになったような気がしてならない。
アメリカが仕組んだ、太平洋戦争。小室直樹博士が指摘するように、原爆投下と硫黄島の戦いが、戦後日本の発言権を意味あるものにして、アメリカのいいなりだった中国や火事場泥棒になりさがったロシアの発言権を後退させたというが、日本人にはいまだその自覚がない。誤った戦史にもとづく意図的な作り話に躍らされていては、ますます属国化を加速せしめるだけである。
まだ、連合国の側の封印文書はわずかしか公開されず、戦前から日本の中枢にたくさんいたスパイたちの動向も、ほとんどつまびらかにされていない。やはり、敗戦の痛手から抜け出すには、優に1世紀は必要だろう。関ヶ原の戦いの後、文芸関係も60年ほどは空白が生まれていた、とは評論家、江藤淳氏の指摘であったが、戦前でさえ、相当数の外国勢力およびそれに共鳴する派閥によって操作されていたことを推測すると、戦前の自覚に戻ればよい、とは簡単には言えない。副島氏の最新作でも、江戸中期の思想家、富永仲基を評価している。
富永仲基は、神・仏・儒のすべてをきびしく平等に批判し、まじめに働き世の中の人々のためになる物を作って喜んでもらう生き方が、一番すぐれていると書いている。それで、日本の優れた技術で多くの電気製品を作って世界中に売って人々に喜んでもらう思想を実践した松下幸之助氏が一番えらいということに、書いていて行き着いた、という。
中世の禅僧たちなどは、密貿易の立派な文書を作成していた、という。幕末の西南四藩である、薩長土肥は、いずれも密貿易で巨額の利益を出していたそうである。そうでなければ、薩摩における島津の分家の娘である天璋院篤姫が京都の近衛家の養女になり、将軍家定の正室になれるはずがない。このとき、どれほどのお金が動いたか想像してみればよい、としている。
『すべてはお金の話である。お金がなければたくさんの人々をやしなうことはできない。金と軍事の話し抜きで奇麗事の歴史観など持つものではない。大きな資金がなければ何事もできはしないのだ。あんまり奇麗事ばかりのウソの歴史を国民に教えるな、ということだ。』としている。
戦後、我々は軍事常識や旧軍の記憶をほとんど瞬時に忘却してしまった。だから、「従軍慰安婦」などという言葉がまかり通る。従軍看護婦なら、実際に機能していて、靖国に行けば、若くして男勝りの活躍をした彼女たちの行動をたどることができる。婦長さんは将校待遇、看護婦さんは下士官待遇だった。兵隊さんたちは、「あの看護婦さんたちは皆軍曹なのだよ」と教えられて驚いた、という。
さて、ノモンハンの例にもどると、日本軍の大勝利ということに最近なってきたが、戦後はまず第一に文藝春秋から、自虐史観に近い五味川純平氏の本がでて、それがまず定着してしまった。東京裁判史観が幅をきかせていた時代で、時代に迎合した小説を書けるというのも才能だが、あくまでフィクションにすぎない。フィクションとノンフィクションでは、特に戦史の場合、実戦経験者と未経験者とでは理解に大差があるだろうし、経験者であっても、思想的、性格的要素の違いなどでも解釈に雲泥の差があるかもしれない。まことに厄介な対象であり、書くほうの立場からみれば、その人の思想性が著しく、色濃くでるのも病むをえない。
戦史研究でも、やはり逐次近似法でいかねばなるまい。予めの予定調和ののようなフィクションの羅列を読む苦痛と時間と金の無駄となる一種の娯楽小説につきあう気は毛頭ない。しかし、比較研究となれば、その疑問に思う細部ともいやでも付き合う必要が出てくる。
『ノモンハン事件の真相と成果』にも、五味川氏と半藤氏の記述についての疑問があちこちにある。主に半藤氏について拾うと、
『半藤一利氏(「ノモンハンの夏」34頁)は、日満議定書で『これには二つの密約がしかも公然と結ばれていた。一つは満州国駐留日本人の諸権利の確認・尊重であるが、重要なのは第二条である。「日本国および満州国は締約国の他方の安寧および治安に対する一切の脅威は同時に他方の安寧および存立に関する脅威たる事実を確認し、両国共同して国家の防衛に当たるべきと約す。これがため、所要の日本軍は満州国内に駐屯すべきとする。」要するに、満州国を侵すものは、日本帝国を侵すに等しい、であるから関東軍が満州国の防衛を引き受けると謳い上げた密約』であるとし、「二つの密約」として日本と関東軍の陰謀として非難の口調であるが、当時の満州国が十分な戦力を持たなかったのは明らかで、日本が防衛を行うのは建国の状況から当然のなりゆきである。「公然たる密約」とは意味不明で公然では密約にならない。親密の意味にとらえたのであろうか。これは密約どころではなく公然と議定書にも書き、官報で公布し周知せしめて満州国を守ったものである。後の議定書にも記載されており、また、当時の朝日新聞も9/15号に「一切の権益を確認し、共同防衛を約す」と大見出しで報じた。』あたりが最初の指摘だろう。
『また、半藤氏の「侵されても侵さない(同書37頁」などの方針の存在は疑問である。「侵されても侵さない」方針を変更して「満ソ国境処理要項を作った」として同書44頁に「ソ連の不法行為に対しては、周到なる準備のもとに徹底的にこれを膺懲しソ連を慴伏せしめその野望を初動において封殺破摧す」と、引用してあるが、この引用文には「1、軍は侵さず、侵さしめざるを満州防衛の根本基調とす之がため、満ソ国境上におけるソ連軍の不法行為に対しては(以下略)」という、最初の重要な部分を抜かしているのは作為的に誤解へ誘導するものであり、原文改ざんである』
『また、「挑戦的な満ソ国境処理要項」といい、これを「侵されても侵さない、という従来の方針にそむく、断じて侵させない」と、するものだった。と説明しているが、これも問題である。』と。
ノモンハン戦開始以後の6月29日に大陸指第419号で国境外への飛行制限が示達され、この時大陸命第320号で、関東軍は越境したソ連軍を必ずしも撃破、撃退しなくてもよくなったもので、「侵されても侵さない」などの方針が「満ソ国境処理要綱」以前にあったか疑問であるが、一方この要綱を半藤氏は、自ら「昭和8年5月6日付けで配布された『極秘対ソ戦闘要綱』から一歩も外に出ていない」と記し、新たな挑戦的なものではないことを認める矛盾を書いている(45
頁)。またこれは、『侵されても侵さない」の方針の存在を氏自ら否定される意味であり、氏の思考は分裂している。』とある。
『三木秀雄教授は、昭和天皇が「満州国境を厳守せよと大命を下してあった」から「侵入ソ連兵との交戦は理由のあることであった」(昭和天皇独白録ー文藝春秋社)とあり、従って、満ソ国境紛争処理要綱は中央の認めたもので関東軍の独走ではない(「ノモンハン・ハルハ河戦争、シンポジウム」49頁原書房1992)と述べ、「侵されても侵さない」などないことが分かる』と批判している。
土曜日, 11月 01, 2008
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿