水曜日, 10月 31, 2007
ほぼ毎夜の会社どまりの日々がようやく峠を越え、なんとか肩の荷がおりた所。土日もまじめに励んだので、途方に暮れたわりにはあっけなく過ぎ去った。それで、ひさしぶりに自転車で帰って来た。ペダルを踏む足取りも心なしか軽く感じる。
実は、前回の通勤時、朝早めに出発したのだが、前の晩に危惧した通り、初めての走行中パンクに見舞われた。その日に限って、朝途中で思いつくことがありそうで、ポケットに手帳と筆記用具を忍ばせた。ちょうど8キロをすぎたあたりで、川辺の遊歩道を走っていて、その通りが終わりかけた頃、忘れそうだから、と止まってメモした。走り出す段になって、車がこないから、早めに反対側へ渡ろうと、こぎだす力を節約できるよう、ほぼ直角に道を横切ろうと、わりと傾斜のある方へとで出して、後輪が一番下へどすんと着いたとたん、違和感を感じ、急に空気が甘くなるのを感じた。
しばらくして、安全な場所で見てみると、切削屑のような薄い鉄板が折れ曲がったものがタイヤに食い込んでいる。ちょっと持ち上げたら、一気に空気が抜けてしまった。
ちょうど町中で、自転車屋さんもあるかもしれないが、この辺で思い当たる店は知らないし、あったとしても開けている時間帯ではない。それで、4.5キロほどさきのいつも通勤時間帯には開けている店まで、押していくことと相成った。
しばらくすると、タイヤが完全にリムから浮き上がり、チューブがはみ出して来た。チューブをたくし上げた荷台に引っ掻け、押していると、今度は邪魔者がないので、タイヤの一方の縁がすべてリムから外れ、タイヤ内面が半分丸見えの状態に。設置面のタイヤパターンが浮き上がって見えるほど薄い自転車のタイヤであった。何度もはめ直したが、すぐに片側全部が外れてくる。仕方なく、押していく。反対側の丸出しのリムが石などにあたると、金属的な音がする。
対抗からは、女子学生などがたくさん通学で自転車で来たが、みな見てみぬふりで通り過ぎる。同情的な視線は一つもない。今時の子供って、そうなんだと思いながら、ひたすら歩道を汗をかきかき店まで30分以上かけて、よろけながら押していった。
最初はいつ着くか、まるで予想がつかなかったが、半分をすぎるあたりから、覚悟を決めてスピードアップ。幸い、全部外れるということはなかった。
自転車屋さんは、会社からは前回の店より一キロほど遠いので初めてなのだが、店主のことはバイク通勤時から交差点だったせいもあり、よく見知っていたので、安心感があった。代車を貸しますから、夕方きませんか?と言われたが、その日はもう、夜も自転車で帰る気はなくなっていたので、今待ちますからやってもらえませんか、と行ったら、椅子を出してくれて、嫌な顔もせず数分で直してくれた。
心配した、チューブ背面へも貫通していなくて、一カ所のみで助かりました。店主も、新客となるかどうか関心があるらしく、さりげなくいろいろと聞いてくる。ブリジストンタイヤの交換だと、チューブ、工賃込みで3800円だとも。
自転車は、ホームセンターで買ったんだろ!?と聞いてくる。正直に答えると、安いからな!と言っていた。ああいうところの自転車は、みな安い外国産なんだよ、と。てっきり高いほうを買ったので、国産かと思っていた、と言ったら、ほら、ここに小さい字で、中国製と書いてある、と教えてくれた。それで、ひどい状態で、チューブが内部でこすれて最初のパンクが起きたらしい。一部がこすれて、ピカピカしていて、その真ん中あたり、接地面とは反対側にパンク修理の後があった。
それでも会社につくと40分オーバー程度で、遅刻寸前で会社に着いた。店主が、たよりになるいいおじさんにいっそう身近に感じられた。スクーターの中古45000円、メイトの中古で7万円とか教えてくれました。顔まで言ってしまうと、いまの韓国人の国連事務総長さんそっくり、と言って過言ではないおだやかな感じの店主ではありました。
おとといの晩インターネットで頼んでおいたOSXの10.5、通称レパードが翌々日には届いていた。一部の機種で、アップデータ適用後、フリーズするという情報を知ったが、後の祭り。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071029-00000004-cnet-sci
それで、さっそく昨夜インストールして、10.4から10.5へアップしたが、何のトラブルもなく、終了。
ウィンドウズ対応も正式となり、いろいろな対応ドライバをウィンドウズを起動した状態でインストールすればよいらしく、きわめてらくちんに終わった。マックに戻ろうとコントロールパネルを探すと、新しいいくつかのアイコンが増えていても、起動ボリュームを選択するHDのアイコンががなくなっていてどきりとしたが、しかたなく再起動を選んで、立ち上がるとき、optionキーを押していると、ウィン、マック、あるいはDVDのインストールディスクのどれから起動するかアイコンが出て来たので、アップルを選んでもとに戻った。
最初の画像が、スリープ状態から復帰したとき、次の画像が、ドック内のアイコンをクリックしたとき、そこの書類一覧を表示する機能。あまり使っていないのでわずかしかないが、多くなると、正方形の領域にきちんとならんで表示されるようだ。
それで、あれ、こんな書類もあったのか、忘れていた、というものもあり、開いてみた。
5『122] 福井雄三『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社) 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:
http://soejima.to/boards/undefine/110.html
2005/10/08(Sat) 22:44:48
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」から一部貼り付けます。
(貼り付け開始)
福井雄三『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社)
過日、或るシンポジウムで著者の福井教授とご一緒した。 話題はノモンハン事件から近代現代史の誤謬をめぐる企画で、話題が集中したのは従来ソ連が勝った! 勝った! と宣伝されてきた日本軍とソ連軍との軍事衝突の真実である。 評者(宮崎)はノモンハン現場の現状から説明を始めた。ソ連が崩壊し、民主化されたおりに、夥しい機密文書が世に出た。 毛沢東の機密に関してはユン・チャン(『ワイルドスワン』の著者)が、それらの機密文書を詳細に追跡し、十年がかりで『毛沢東、知られざる真実』を書いた(本邦未訳)。』
本邦未訳となっていますが、すでに二冊になって出ています。そこには、日本軍が実行したとされる張作霖爆殺が、実はKGBが日本軍がやったように見せかけたものだということが出ている。
このことを読んだ数学者の藤原教授の日記にも、え〜、そうなのというような驚きが書かれているのが、新聞記事のコラムに載っていた。ついていけない、という意味のフーッで終わっている。しかし、これでまた面白くなった。
『ノモンハンは日本がかろうじて勝っていた事実が判明し、これまでの五味川純平、司馬遼太郎、半藤一利、田原聡一郎などが主張してきた巧妙な左翼の嘘がばれた。』
半藤一利氏は、文芸春秋だから左翼ではないのに、変なことをいうなと思っていたし、今でもその思いは相変わらずで、具体例を書こうとしてしていた矢先。左翼と決めつけられている。やはりそうなんだ、という思い。
左翼は巧妙な嘘をつくことは、今回の沖縄でのデモ11万人説や、軍の命令がないのを知りながら、あたかもあったかのように軍がいたからそうなった、という雰囲気づくりに躍起。最も、これだけいろいろ従来とちがうことが明るみに出て来たら、彼らが生き延びる手だてはないのだから、必死なのだろう。マッカーサーという庇護もとっくにないし。
『とりわけ司馬遼太郎は、デタラメな軍事史観をもとに全てを一方的に判定する癖がある。その売国的歴史観を「乱世史観」と称したことは有名だが、『坂の上の雲』は、軍事データや作戦の齟齬に関する誤謬に満ちている。
乃木大将が愚かであった、と分析すること自体、歴史の嘘を踏襲し、みずからの歴史しらずを晒しているようなものだが、これまで不思議なことに司馬氏への批判がすくなかった理由は、司馬遼太郎の小説がいまも飛ぶように売れるため、出版社、新聞社が司馬遼太郎批判を忌避してきたからである。
そのタブーも破られる日がきた。
福井氏は、何が真実であるかを読者に誠実に木訥に提示し、しかし大胆に歴史を問い直す作業に挑まれてきた。本書は司馬遼太郎批判を、『中央公論』に書いたことが端緒となって編集者が強く単行本化を従容し、その後の考察が加わった力作となった。 ☆ ☆ ☆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://www.melma.com/backnumber_45206_2310112/
(貼り付け終了)』
となっている。ありがとう、ロシアチョコレートさん。私は、自慢ではないが、学生時代友人の下宿で、司馬氏の小説を数ページ読んでから、そのときは、自分で買って読もうかな、と思ったが、その後どうも食欲がわかず、今日まで一冊も買わずにきた。今では、その判断は正しかったんだろうな、と思っている。最初は、だまされていろいろ週刊誌などの記事は読んでいたが、やはりノモンハン批判、昭和の軍部批判の一方的なことに、ついて行けなかった。
それでも産経記者上がりだと言う。文芸春秋の半藤氏と一緒ということか。それとも時代がそうだったから、俺もそうしたと。どっちみち同じなんだろうけど。
科学でも、ある人は新事実を見出すのに、大多数の人はそうではなく、事実関係すら把握できない例が多いとも聞く。科学ならそれですまされようが、国の歴史が、そうであっては、いががなものか。
アングロサクソンも勝者に都合のよい歴史を捏造というか創造するというと、オランダ人は喜んで理解してくれた、という話もある。教科書問題も、まさに立場で大きくちがうのだ、ということくらいは両論併記してもらいたい。
土曜日, 10月 27, 2007
洲之内 治男・四条忠雄共著、昭和59年1月発行の初版本。サイエンス社。洲之内先生は、何年か前に他界された。東大航空学科の後、東北大数学科を出られ、早稲田の理工学部教授を勤められた。 ORのための基礎数学(共著)、マトリックスとその応用(共著)、ルベーグ積分入門、微分積分(共著)、関数論(共著)、関数解析入門、数値計算、基礎微分積分、基礎線形代数などの著作があることが、著者略歴から知れる。
パソコンや、今は死語となった感のあるポケコンが身近な計算手段として登場し、汎用大型計算機から離れて、自宅でも、工夫すればかなりの演算やデータ処理ができ始めた頃、参考書として真っ先に購入した本の一冊。定価2300円は、今よりもっと割高感があったが、それなりの内容だと納得した。
大学で行列計算を学習したとき、計算が慣れないと大変で、ちょっとしたデータでも、最小2乗法計算さえ、手計算では汗だくという時代があって、電卓が出てきても、打った数字を間違えたりしたことに気づかないと、それは恐るべき結果になることもあった。一次の回帰係数
(y=a*x+bでデータを近似したときのaの値)を求めるのは計算嫌いでも何とか耐えられたが、説明変数が複数の回帰式となると、お手上げだった。
今ではエクセルで簡単にデータを入力しさえすれば簡単に求まる。ロータス123というDOS用のソフトでも、単回帰はできることは知っていたが、ある日、説明変数を複数指定してやると重回帰の偏回帰係数も簡単に求められることを知ったときは、大変な世の中になったものだと思った。
私がそうした計算を必要があって少し基礎から統計学や、数値計算の勉強をはじめたときは、
まだ、ロータスなどもなく、BASICでプログラミングして、バグをとって、それからデータを入力して、と手計算よりも手間がかかるような按配であったが、プログラミングさえ通過できれば、それからが楽と、必死になってあれこれ勉強した。何よりも、あちこち頭を下げて大型計算機センターまで行って、計算して帰って来て、また条件がかわればデータをパンチしなおし、また半日とか1日、出かけなくてはという重圧感から開放されたい、という思いもあった。
アップル社が、その基礎を作ったのはマックではなくAplpleIIという、BASICが走るポケコンに毛が生えたような計算機であり、表計算のようなビジカルクとかいうソフトがついていたような記憶がある。人々は、自前の計算機を持てることがわかり、狂気して購入した人たちが多かった、ともいう。
エクセルは、マック用にマイクロソフトが開発したもので、ワードなどはなかった。マックライトなどのワープロで十分だったし。初期のエクセルは、マックでしか動かず、3.5インチのフロッピー一枚にプログラムが納められ、それで十分機能した時代だった。
PC98では、表計算でも一万行に近いデータをいれて、計算処理をすると、画面が亀の動きのようにとろくなり、苛つくうえに、いわゆるシュミレーションなどとても試す気になれない代物とわかった。本体とカラーディスプレイーで50万近くするのに。
それで、次は32ビットのアップル、と決めていたが、何せこれも高い。最初は130万くらいだしてと思っていたが、やはり50万クラスで当分我慢することに。後で、知ったが九大の梶原先生は、ほぼ同一性能のマックを、ドットプリンタ込みで、128万を大蔵大臣にお伺いを立てて自宅に購入された、という。しかも、ご自身が解説する、主に大学院や国家公務員用入試問題を題材とした数学の解説に、マックを使い、結果をフロッピーをご自宅に送れば、コピーして返送してくれるサービスを開始、それで私も参考に、フロッピーをお送りした。すると先生が各大学などで公開された数式処理の結果のコピーを、4枚お送りしたのに7枚もコピーして送り返してくれた。
その頃、マッククラシックが19万8000円で、学生さんもダイナブック並になったので、一級のゲーム機マックを買って、数式処理の結果を毛嫌いせずに楽しんでください、と雑誌などで毎号解説中だった。結果をみるだけならば、フリーのMathReaderで閲覧できたのだった。二次方程式の解法例なども入っていた。それで、どうしてもマックを買い、数学苦手を克服し、数学おたくに変身しようと、密かに決心していた。文字だけの行列計算ができる!というだけで夢のように思えた。ワイルズではないが^^;)、人生が決まった!と思ったのである。
エクセルは当時(91年)8万5千円ほどして高く、5万程度のやすい表計算ソフトFull Impactという表計算を買った。これは、エクセルよりデータの制限がきつく5500行ぐらいまでしかサポートしていなかった。しかも、データ処理関数などついていなかった。
ただ、データを読み上げてくれたり、マクロがわかりやすいなどの特徴があって、一時はそれでも決行あちこちで見かけた。
それで、しかたなくマクロで行列計算などができるように、3日がかりで、州之内先生の著作を教科書として、BASICをフルインパクトのマクロに置き換えて行列計算ができるようにした。
そんなわけで、エクセルを(当然マック版、ウィン版などまだ頭にないどころか、いずれ出るという状態だったような記憶が)いつかは買うことになるわけだが、やはりローン終了を待つことに。その頃、エクセルも値が下がり、やっと5万5千円ほどになり、5万に値切って納入してもらった。バブル期のことである。そのころウィンドウズ95も出たせいもあるかもしれない。
この頃やっとマック専用プリンターも買うことができて、ワープロの印字品質のよさにびっくりした。この品質で、レーザーだったら、高くても企業だったら、何台かは買うわな!と思ったものである。
バブル期のおかげで、高価な数式処理ソフト、Mathematicaなども買うことができた。近くに、個人営業の代理店があり、筑波学園都市などを回って注文をとっていたおかげで、比較的安く
入手できた。今は、同名の別会社しか検索しても出てこない。マックの修理もやってくれるという宣伝だったが、故障はしなかった。
それで、毎日夜が楽しい日々が続いた。難解な数学理論も、自分で大してプログラミングする手間も無く簡単に、入力さえ間違えなければ答えが出て、説明の理解がしやすいことを実感。ただ、この頃の数式処理ソフトは、バグもたまにあり、すぐバージョンアップが行われたりしたが、その結果、以前のバージョンのほうがよかった点も、一緒に改良されてしまって、都合の悪い点もあった。
洲之内先生の本は、ソード社製のパソコンM100ACEシリーズでBASIC LEVEL-IVで作成されている、ということだったが、初めは、シャープのポケコンPC-1500でも動いて計算結果がでた。このポケコンは10桁の精度管理をしており、パソコンの単精度の8桁より若干精度がよかった。
そしてマックを買ったとき、19桁精度というのにびっくりした。DOS系は倍精度でも16桁だったからである。それで、MathematicaなどもPC98でも動くようになったとき、単純な計算をさせると、アップルは19桁、PC98は16桁で出力し、同一桁でも最後のほうはちがっていることもあったが、今はどちらで計算しても同じはずである。
この本にも、「したがって、本書のプログラムの、ほとんどの機種にそのままの形でかかるはずである。・・・ただ、同じ倍精度でも機種により、数値の有効桁数が異なる場合もあるから、計算結果は本書と必ずしも全桁一致するとは限らないことに注意。」とある。
昨日のブログで、フェルマーの定理の証明への道筋の端緒を開いた数学者としての、谷山豊氏を紹介したつもりで、以下の文章を引用した。
「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」岡博士の言葉であるが、含蓄のある内容である、と常々思っている。
ところで、普通によめば、谷山氏の研究がどうフェルマーの予想問題と関係するのか、私も含めて判然としない。特に、最初から、谷山氏がフェルマー問題を念頭において、楕円関数の研究をしていたのかどうか、不明である。岡博士の、数学者の評価への箴言を谷山氏への評価とつなげて考えることは早計ではないか、という疑問も出てくるだろう。
そこで、当時(定理が証明された直後)の特集として組まれた谷山氏への追悼文や、関連書物から2、3引用したい。
「フルハシ、ハシヅメが世界記録を樹立し、ユガワがノーベル賞を、コダイラがフィールズ賞を貰う。それは劣等感に打ち砕かれた国民精神を感奮興起させる。非常に結構です。自国の高い文化を誇ること、それに愛着し、それを更に高める努力をすること、それは自然でもあり美しくもあります。その文化が真に国民の中に根をおろしているならば。だが、普段は見向きもしない、考えても見ない人々、輸入した問題と取り組み外国で業績をあげた人々を、何か賞をもらったと言うだけで、担ぎ回り誇りとする。なるほど12歳の少年に相応しい無邪気さかも知れません。」
「日本人の持つ非合理性、日本社会における資本主義と前近代性との奇妙な混淆、その上に重なる植民地政策、このジャングルを切り抜けるには、科学的合理精神の涵養以外にない。・・・かって合理主義の担い手であった資本主義は、この国にあっては、合理主義の徹底を恐れ、時には植民地政策に順応することにより、自らを守ろうとしています。しかも勤労大衆も合理主義に救いを求めようとはしない。表立っていないこの合理主義をたたき込むには、人は啓蒙家にならなければなりません。だが、フェルマーの研究をしながら啓蒙家になることはできません。・・・」(谷山氏の投書より)(いずれも山下純一氏が、数学セミナーに書かれた記事の一部)
「当時の日本での大学生活もまた困難なものだった。学生間の競走は熾烈で、よき学歴はよき職につけることを意味していた。純粋数学専攻の博士課程の大学院生については事情はさらにきびしく、大学教員の職の口は安月給にもかかわらずわずかしかなかった。谷山豊はそんな数学科の大学院生のひとりだった。早い時期から谷山はアーベル多様体の虚数乗法論の研究を始めた。この分野はまだまったく未開拓で谷山は非常に困難な時を送った。わるいことに東京大学の年長の教授たちからは実質的に何の益になるアドバイスも得られなかった。どんなに細部の事実でもじぶんで導くしかなく、こうした数学研究の有り様を彼は「悪戦苦闘」と表現していた。若き谷山豊の人生には容易なものは何もなかった。」
(天才数学者たちが挑んだ最大の難問、フェルマーの最終定理が解けるまで、アミール・アクゼル、1999:早川書房)
「谷山は4畳半のアパートに住んでいた。そのアパートには各階にただ一つの便所しかなく、下宿人が共同で使用していた。風呂に入るには少し離れた銭湯へ行かねばならなかった。このみすぼらしいアパートには『静山荘』という名前がつけられていたが、皮肉なことにそれは池袋の繁華街の中にあって、数分ごとに電車が雷のように行き来する線路のわきに建っていた。若き谷山は研究により集中できるように、ほとんど夜中に仕事をし、ときには騒音が始まる朝の6時まで仕事をしてから床についた。あつい夏の期間を除けば、谷山はほとんど毎日、つやのある青緑色の同じスーツを着ていた。よき友、志村五郎に話した谷山の言い訳は以下の如くである。谷山の父親(騎西町の医師)が行商人から非常に安くその布地を買った。しかしそのつやのために、家族の誰もあえてそれを身につけようとはしなかた。豊は外見には無頓着だったので、結局は彼が引き受けることになり、日常の外出着にスーツに仕立てたというのである。」(同上)
「東京ー日光会議から10年が過ぎ、今ではプリンストンに在住する志村五郎は、数論、ゼータ関数、楕円曲線についての研究を続けていた。志村は谷山がどこで躓いていたかを理解した。そして、数学の諸分野の間にある隠れた調和を明らかにしようとする彼自身の研究と探究によって、志村は谷山とはちがった形で、より広くより正確な予想を定式化した。志村の予想は、有理数体上のすべての楕円曲線がモジュラー形式によって一意化されるというものであった。」(アミール・アクゼル、前掲書)
「ワイルズは目の前の論文に目を向け、約20分間物凄い集中力で考え抜いた。そのとき、彼は何故オイラー系を動かすことができなかったのかを正確に見抜いたのだ。ついに彼はどこが間違っていたかを理解した。「それは私の数学者としての人生の中でもっとも重要な瞬間でした」と言って、後に彼はそのときの感情を次のように述べている。「突然、まったく不意に、私はこの信じがたい天啓を得たのです。あんなことは二度とおこらないでしょう。」その瞬間、涙が溢れだし、ワイルズは激しい感動にとらわれた。その運命の瞬間にワイルズが悟ったことは、オイラー系を働かなくさせている当のものこそ、彼が3年前に放棄した岩澤理論のアプローチを働かせているものだということに、ワイルズは気付いたのだ。」(ちなみに、ワイルズは岩澤理論の研究で博士となっている。ここにも日本人が現れている)(アミール・アクゼル、前掲書)
フェルマーの最終定理といわれた難問は、青色ダイオードの発明を成し遂げた中村教授の例のように、若き天才が解決の端緒を開いたのだ、たとえ不完全であっても、それなくしては以後の日本人たちの貢献もあのように続いたかは疑問であり、私は改めて岡博士の言葉をかみしめている。
「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」
この言葉と関連して、数学は世代を超えて学ぶというか研究するものだというような意味の言葉も書かれている。また、ある数学史を担当する方が、岡博士の研究姿勢は、だれかを師として仰いで、その門下になって研究するというようなものではなく、数学全体を師とせよ、と教えているような気がする、とまで書いている。
群馬大元学長だった秋月氏(数学者で、岡博士の親友)は、あるとき、岡博士が、日本に数学を投げ込むのではなく、日本を数学に投げ込むべきだ、とつぶやいたことを何かに書かれていた。岡潔著作集についていた推薦パンフレットだったと思う。
最近、新田次郎の息子さんでお茶の水大学の数学教授で藤原正彦氏が書いた「古風堂々数学者」(講談社)で、氏は初等教育での国語の重要性を唱えていますが、岡氏の論はさらに徹底して面白い。
「数学だって、国語だけで十分というのではありません。少し付け加えなければならないものもある。しかし、大部分国語ですよ。・・・自分の心を見つめて、描写することのできない者に数学を教えることは出来ません。」
「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」
「私は学生をABCの3級に大別した。上程よいのであるが、Cは数学を記号だと思っているもの、Bは数学を言葉だと思っているものである。寺田寅彦先生は、先生御自身の言うところによると、正にこのクラスである。それからAは数学は姿の見えないxであって、だから口では言えないが、このxが言葉をあやつっているのであると、無自覚裡にでも良いから知っているものである。」
「いまこの国の小学校の先生たちは、数学は知らなくても数学教育はできる、数学の研究はできても、数学教育を知らなければ教えられないといっている。」
「数学教育で一番むずかしいのは小学校の、それも低学年の数学教育である。数学というものを明きらめ尽くしているのでなければ、ここはこうすればよいのだ等と言い切れるものではないからである。」
「数学の実体は法界(正確に言えば事々無礙法界。四法界中最高)であって、数学するとは、主体の法が客体の法に関心を持ち続けて、後者が前者の上に表現せられる直前までやめないことであって、表現は数体系によってするのである。」
「何の木の花とは知らず匂ひかな(芭蕉) 仏教では法界を4つにわけている。下から順に、事法界、理法界、理事無礙法界、事々無礙法界である。・・・匂いと言えば、人が生まれて最初に感じるのは匂いではなかろうか。とすれば、逆のコースをとるとき、この世で最後に感じるものが匂いであるということになる。そのあと胎内に入って法界に出るのである。」
「ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算はどうにかゆびおり数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
「数学は数え年3つまでのところで研究し、4つのところで表現するのだ。5つ以後は決していれてはならない。」
以上は、「春宵夜話」などの岡博士からの引用になるが、高校時代から読んでいてどれがどこからとはいまでははっきりしない。岡潔著作集からのもあると思う。
金曜日, 10月 26, 2007
騎西町の民家の垣根に、こんな看板が出ている。郷土の和算研究家の紹介である。都築源右衛門利治氏(天保5年~明治41年)の業績をたたえている。
http://www15.wind.ne.jp/~kisaihakubutukan/tisiki/4jinbutu/12.htm
また同じ都築姓で、測量の神様として名が残されている話もある。伊能忠敬と同時代だから関連がないかもしれないが、江戸時代の文化というか、和算の系譜のすばらしさは改めて考えてみる必要があるように感じている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/suv-hanashi/jinjya.htm
昨日の新聞では、全国共通テストの結果がでたが、さっそく正論談話室では、左翼の強い県は、成績が最下位で、保守層が厚い県はトップクラスの成績だなどという意見が出てきた。
和算は、生活に余裕がある農民や町人の間ではやった、俳諧などとおなじ「趣味」としての位置づけがされていたようで、数学の先生は、芭蕉のように全国をまわり、半月とかひと月、ある場所にとどまり、同好の人たちに教えて、あるいは地元のトップクラスと他流試合などをしてお互い勉強をしたらしい。
ところで、騎西町では、旧制高校最後のクラスになる年代の方で、東大の数学科講師で、来年はアメリカ留学を控えているというのに、自殺してしまわれた数学家、谷山豊氏がいる。子供の頃から、おばあさんと買い物にいくと、瞬時におつりをいくらいくらと口にしていた、ともいわれる変わった子、と聞いている。
氏の自殺は、私がまだ小学校時代で、新聞にものって、数学者を夢見た父親が大騒ぎしていた記憶があるだけで、当時の記事を読んだ記憶はない。しかし、何年か前、数学の難問の一つといわれた、フェルマーの最終定理が、解かれたというニュースが伝わるや、その突破口をひらいた、谷山・志村予想の芽を若いときに提出していた、ということで、あらためて私の眼前にふたたび現れることになった。
それで、数学者の山下純一氏の記事などを参考に、騎西町の谷山家のお墓参りまでいってしまった。住職は、先日も不動ヶ岡高校(旧制不動ヶ岡中、谷山氏の出身校)の数学の先生がお参りにきたところです、と告げてくれた。
『昭和33年11月17日、東大数学科の講師であり、同年理学博士となった谷山豊氏は遺書を残して下宿で自殺した(31歳)。翌年にはアメリカの大学からの招待で留学する話もあったそうだが、「昨日まで自殺しようという明確な意志があったわけではない。ただ、最近僕がかなり疲れていて、また神経もかなり参っていることに気付いていた人は少なくないと思う。自殺の原因について、明確なことは自分ではよくわからないが、何かある特定の事件ないしは事柄の結果ではない。ただ気分的に言えることは、将来に対する自信を失ったということ、僕の自殺が、ある程度の迷惑や打撃となる人がいるかも知れない。・・・」という書き出しで、講議の状況、貸借関係、私物の処分などについてきちんと書いた遺書を残した。翌12月2日、婚約者も後追い自殺をし、二人の墓は、騎西(きさい)町の寺に一つとなって残されている(理顕明豊居士、美真楓節大姉、26歳:3回忌に遺族が建立)。』(当時の「数学セミナー誌」、日本評論社より、記事は山下純一氏)
谷山・志村予想とは、1955年(日光での国際シンポジウム、この会議には岡博士も出席していた)に谷山豊が粗い形で提出し、谷山の死後友人であるプリンストン大学の志村五郎(東大数学科の1年先輩)が10年程の年月をかけ、厳密な形に完成させた予想である。これは楕円曲線(y^2=ax^3+bx^2+cx+dのような方程式)に関する豪快かつ美しい予想で、当初、専門家たちはこの予想に仰天するばかりであったが、研究がすすむにつれてその成立を疑う者は、一人もいなかった。」(藤原正彦、古風堂々数学者より)
「それから10年近くたった1986年の夏の夕方、フェルマー予想とは何の関係もない楕円曲線の第一線で活躍していたワイルズは友人宅でアイスティーを飲んでいた。「ところで、谷山・志村予想が正しければフェルマー予想も正しい、ということをアメリカのリベットが証明したそうだよ」と友人が何気なく言うのを聞いたワイルズは、思わず身震いした。人生が決まった、と思ったのである。」(藤原正彦、前掲書)
「ワイルズの専門分野の最高峰として聳えていた谷山・志村予想と少年の夢(ワイルズはフェルマー予想をやりたい夢があったが、周囲から止められていた)との間に不意に橋がかけられた。大きな仕事をなすものは幸運である。谷山・志村予想、したがってフェルマー予想の解決に立ち上がったワイルズは、完全な秘密主義をとった。」(同)
「何度もの挫折をイギリス魂でじっと耐え抜いたワイルズは、1993年6月に故郷のケンブリッジで解決を宣言した。・・・9月になって、200ページ近い証明を検討した専門家が1箇所の誤りを見つけた。・・・一年あまりたった9月の朝、天才の閃きで一気に解決した。岩澤理論を用いるアイデアだった。あまりの美しさ30分ほどじっと数式を眺めてから、興奮のあまり廊下を歩き回っては自室にもどり、そこにその数式があることを確かめる、ということを午後中繰り返していたという。」(同)・・・
「かくしてフェルマー予想は、谷山・志村予想とともに陥落した。フェルマー予想は3世紀半の歳月を経て定理となった。幾多の日本人数学者の輝かしい業績の上に築かれた、今世紀を飾るドラマだった。人類の生んだ最も深く最も美しい知見だった。」(藤原正彦、前掲書)
「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」岡博士の言葉であるが、含蓄のある内容である、と常々思っている。
「数学の本質は禅師とおなじであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると、客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を表してくるのである。姿を表してしまえばもはや法界の法ではない。」
とも。
最近、「数学嫌いな人のための数学」(数学原論、小室直樹著、東洋経済新聞社)を購入、身近にある具体例を知っていたので、興味深く読みました。
『「解」を目的にしなかった鄭和の大航海」
大航海時代の魁は、明の鄭和(1371~1434)であった。ヨーロッパで大航海時代がスタートする80年以上前の1405年、三万名近い水兵を62隻の大船(約8000トン)に乗せ、南京から長江を下ってインドの海岸を回ってアラビアにも至った。そして、前後7回、インド洋を縦横無尽に大航海を行った。・・・
鄭和の大航海はあまりにも巨大であったが、その後、中国人も忘れてしまっていたのだが、後年驚くべき巨船が発掘されたので、人々は思い出したのであった。・・・鄭和という大航海時代の先駆者は、ほどなく忘れ去られてしまって、歴史に何の足跡も残さなかった。歴史がこれによって変わることもなかった。
それに比べて、大航海時代はヨーロッパの歴史を変革し、近代資本主義と近代デモクラシーを生む契機となった。こんな大きな違いは、何によって生じたのか。その理由は、ヨーロッパの大航海時代に限って、その目的は新航路の発見に向けられていたからである。・・・大航海時代の鄭和は、既存の進路(beaten track)を進んだにすぎない。新航路の発見は彼の目指すところではなかった。存在問題は、彼の眼中にはなかった。それであればこそ、彼の空前の大航海も、世界史に何の重要さをもたず、やがて、完全に忘却の闇に紛れてしまったのであった。』
『科学技術の根本が数学であり、労働者も経営者も最新の技術に追いつき使いこなすためには、数学を自由自在にしておく必要があり、最近の企業経営や金融システムでも、数学を身につけておかないことには近寄りがたい。--数学は神の教え(論理)である--が、歴史の神秘を見抜けば理解できるだろう、と著者小室直樹先生はおっしゃる。数学が成長して諸科学の根本になれたのは、ギリシャの形式論理と結合したからであるが、この形式論理の堅苦しさは人々を尻込みさせた。だがしかし、イスラエルの神がこの尻込みを押し切った。この神にとって、一番大切なことは、神が存在することを人に知らしめることであって、神の存在問題がギリシャ数学が解決できなかった解法そのものの存在問題へと収束していくことによって、数学の論理は成立した、と述べている。』
『「解」を目的としたマゼランの大航海
貴重この上ない香辛料を、インド、極東から直接購入するためには、新航路の発見が必要である。スペイン人、ポルトガル人はじめ、ヨーロッパの船乗りたちは、争って新航路の発見に向かった。新航路は存在するかどうか。人類はここに存在問題を意識しなければならなくなった。・・・
アメリカ大陸を横断して、大平洋へ至る海峡はないものか、多くの探検者は、北から南から一所懸命に探した。およそ10年もの間、ものすごく熾烈な海峡探しの競争がおきた。・・・このとき、「私は海峡のあり場所を絶対に見つけてくる」と断言したのがマゼラン(1480~1521)である。スペイン王はマゼランに艦隊を与えて海峡発見に向かわせた。
しかし、行けど探せど海峡は見つからなかった。反抗する船長も出てきた。マゼラン自身、実は死ぬ以上に苦しんだ。そのときの苦労は、大平洋を横断するとき、食料がなくなって死ぬ寸前なったときよりもはるかに苦しかったと告白している。
冬はますます寒くなり、マゼラン海峡を発見する直前、パタゴニアで冬篭りをした。実はもう少し先まで行っていれば、この年のうちにマゼラン海峡は発見できたのである。もし、その年のうちに海峡が本当にあったということになればどうか。乗組院たちの間で、予言者マゼランの威信は天にも昇ったに違いない。パタゴニアで冬篭りなどするものだから、海峡の存在問題はまだ解決されていない。マゼランは反乱を起こした船長を死刑にし、春を待ってパタゴニアを出港した。何たる僥倖!か、間もなく海峡発見!・・・』
ところで、数学者の藤原正彦教授は、ロシアは大国であるが、中国は大国なんかではない、という主張をされている。理由は、ロシアからは、数学史に残る学者が輩出したのに、中国には歴史上見るべき数学者が出なかったから、ということを理由にしている。また、小室直樹先生は、中国の論理は、西洋の論理法と異なり、君主を説得して、自説を政策に採用させ栄華を手中に収める、という面のみに歴史上特化しており、近代のルーツは見出しえないという意味を具体例をいろいろと上げてこの本の中で論じている。ギリシアをルーツとする形式論理から背理法があらわれ、19世紀になって、数学に革命を起こした。
数学も科学も、それまでは、客観的に存在する真理を学者が発見するという立場で研究されてきていた。しかし、ロバチェフスキー(非ユークリッド幾何学の創始者、1792~1856)はこのイデオロギーに真っ向から挑戦し、転覆させた。・・・学者の任務は、真理の発見ではなく、仮定を要請することになった。・・・つまり、ロバチェフスキー革命によって、数学者、科学者は、真理発見者を辞めて、模型構築者(model builder)に変身したのだった。
伝統主義は一気に打倒されて、近代資本主義、近代デモクラシーへの道は開かれた、と指摘している。
火曜日, 10月 23, 2007
昨日、本屋で偶然見つけて購入。薄いわりにはちと高い!かなと思ったが、『超勉強法』いらい、この手のめぼしい書籍には出会わなかったので、思い切って中味を吟味せず迷わないでレジへ直行。年配の私と差し出された本を見比べて、店員さんが、ホー!?という表情を一瞬浮かべたようだった。ありがとうございました!の声を背中で聞いたが、いつもより心がこもっているような心地に聞こえました。^^:)汗、汗。
不規則な受注仕事で、本を読みたいな、勉強もしたいなと思っていると、必ずと言っていいくらい、仕事が増える、ようにずっと感じている。
自転車通勤にも慣れてきて、体にガッツが沸きやすくようにもなったと、錯覚かもしれないが、密かに感じてもいる。体力や精神力も、所詮ありのままではだめで鍛えないといけないとも改めて感じ出している。
仕事の処理も、勉強への取り組みも所詮は同じではないか、とこの頃思う。知り合いの先生のご親戚で、最近某国の総理大臣になられた方がおれれる人からも、秋民暁を覚えずで、仕事の疲れを取り、全力で勉強してください、などという趣旨の妙な?励ましもいただいたところである。
たとえば、この本では、一日30分となっている。東北大のある先生は、卒業生たちに、企業に行っても、一日15分は専門の本を読みなさい、といわれたという。聞いた学生たちは、そんなこといつでもできるさ、と思って大して気にも止めなかった、ともいう。しかし、入社して一年以上もたつと、他者との競争モードに明け暮れ、とても先生の言葉の実行ができていないことがわかり、反省している、という話を聞いたことがある。
作家の落合信彦氏は、若いときのヒッチハイクで、トラックなどに拾われると、頼んで、ラジオをFEN(今はAFN)に合わせてもらい、運転手が不興であろうとなかろうと、英語のリスニングにいそしんだ、という。
私も、一時会社で助手席で、専門書などを読み出したり、イヤホンでAFNを聞いたりしたのだが、ヒッチハイクと違いいつも顔を合わせる相手なので、強引我道は貫きとおせなかった。
しかし、自転車と同じで、こぎ続ける努力をしなければ、どんどん時代にから取り残されて
墓場へ行くだけだ、と最近感じるようになった。自転車をこいで頭を空っぽ状態にすると、また違うあたらしいものを取り入れる余裕が出てくるのかもしれない。
今朝は、3時に会社に来て、朝の出発までにしておかなくては間に合わない仕事の処理を済ませた。昨晩は、夜間納品先で、着いたらすぐに車内で二時間ほど仮眠。零時ごろ家で食事をして会社に来て、また車内で3時頃まで寝ざるをえなかった。
それから夜明けまでの時間は、体がなかなか仕事モードに入れず、辛かったが仕事をすませ明るくなると、元気が出てきた。
それで、30分といわず、15分ぐらい読んでみて、この本は使える、と直感した。
この本は、もともとこの本の著者のホームページで、『負け犬にならないための勉強法』として、公開し一部1万円で500部ほど売れた実績がある、という。しかも一年間の完全返金保証をつけたところ、過去三年半の間で、返金してくれのクレームはたった一件だった、と自慢されている。
感謝のフィードバックは大量に届いた、という。
『あなたの会社内で、使えない上司っていませんか?朝定時に出勤してほとんど何も生産的なことをせず、・・・逆にマイナス4万円くらいの損失を出している、会社のお荷物になっているおじさん連中のことです。・・・などと書いてある。
時代が変わりビジネスパーソンに求められるスキルが大きく変わっているのに、ほとんど何も新しいスキルを習得してこなかったからです。・・・などと最初に出てくる。
年収500万の会社員が居たとすると、その1.5倍の750万円を時間で割ると、ほぼ妥当なその人の自給がけいさんされる、とも書いている。一日約3万円ほど。4万円という使えない上司の年収は、約1000万クラスということなのだろう。
また、著者古市幸雄氏のTOEIC(国際コミュニケーション英語能力テスト、1000点満点)で980点と自己紹介されている。800点以上くらいないと、外国の大学で授業を受けても、どこかの民主党員のように、卒業できずに終わる羽目に陥いるのが、オチといわれるテストである。
一時、このテストで900点ぐらいをマークした人の勉強方の本を買ったが、あきれるくらい勉強しておられて、俺でもそのくらいは、そのように勉強すればいくだろう、と思ったものだが、だれでもできる、という方法ではなかったような気がする。今度、折があったら、見直してもみよう、という気がしてきた。私は自己テストで、700点前後だったと思う。しかし、公開の場へいくと、緊張したりして、もっと点数は落ちると思う。平均的な大学生で、600点から650点くらいではないか?
九大の名誉教授、梶原先生は、教室で数学の点数をつけていて、数学科の学生ですら、勉強しない学生がおり、せめて、受験勉強の一割~二割の予習、復習はやってほしい、とおっしゃられたが、一日予習30分、復習30分くらいに相当するのだろうか?
また、一度にここに書かれていることを実行しようとしないで、一つか二つ習慣的になってから次の方法を試してください、とも親切丁寧である。勉強にまさに王道なし、なのである。
梶原先生は、学問には邪道があるが、王道はない、などと書かれていたが。意味深長ではある。
若にして学べば、壮にしてなすことあり。壮にして学べば、老にしてなすことあり。老にして学べば、死して朽ちず。
月曜日, 10月 22, 2007
自分が生まれてから、半世紀以上をすでに経過し、生まれる前の半世紀と生まれた後の半世紀について考えたり、感じたりできる人生の境遇に到達した。通常ならば、どちらもはぼ同様の意味を人生に持つはずである。若いときは、生まれる前の時代の影響を、幼少期に受け、壮年以降は、幼少期の刷り込みをもとに徐々にその後の体験や勉強を踏まえた、生きている時代の影響を受けるであろうが、最近の若い人たちは、すべて「戦後的な」影響しか持ち得ない。
団塊の世代は、戦地に赴いて九死に一生を得て帰還しえた世代の直接の子弟たちであることは95%以上の確率で言えるかもしれないほど、戦前の時代精神の影響を受けているはずである。
世界的にみても、この世代はみなそうした共通性をもち、その反動ゆえか、学生運動などへ傾注したエネルギーは並大抵ではなかった世代であろう。
その後、半世紀以上、日本は「平和ボケ」とまで称されるほどの軍事とは、日常感覚的に無縁な意識で過ごせる時代を生きてきて、戦争や戦争の危機が常態であった、つい半世紀以上前の
時代について、漠然とは知りつつも、意識的かつ無意識的に、「意識下」へ追いやって生きてこられた。
しかし、いまや、集団的自衛権と憲法の問題や、地球環境の破壊防止など戦後の明るい一時期に比べて格段に多くを学び、多くを考えて、今後の進むべき方向を真剣に模索しなければ、社会人が務まらない時代へと入っているように思われる。
その未来を考える際に、避けて通れないのが、過去における日本人たちの行動様式や、他国との諸関係を、政治、経済、外交、などの各方面から総合的に捉える視点を見出す努力だろう。単に、いい学校を出て、いい企業に就職したり役人になりさえすれば、人生の目的の大部分を達成できる(筈の)の時代はとうに過ぎ去っているにもかかわらず、皆塾通いをして目先の目的に振り回されているように見えて仕方がない。
年金問題にかかわらず、これからの時代の若い人たちは、団塊の世代の意識感覚では計り知れない問題意識をもってことに当たらなければならないはずであるが、皆、それらを漠然と自覚するがゆえに、かえって国意識や共同体意識などは希薄なのでは、と自分の子供を見ても感じるが、これには若い人たちの立場から大いなる反論があるように感じる。対話などそう簡単にできるものではない。
今世紀は始まってまだ間がないが、世の中の環境はますます複雑になり(見え)、高度化していくだろうことは論を待たないだろう。そこで、複雑なものを割り切って眺める視点の構築が
急務であろう。科学では、複雑な現象を揺らぎとかフラクタルで現象を捉えるとかえってシンプルな「構造」が見つかったり、そういう構造でなぞらえることが可能な現象が多々見出されている。
複雑な世の中を捉えて自分なりの解釈と意見を持ち、現象を捉えるためには、過去の現象と結果の解釈を学ぶことが遠回りのようでいて、かえって近道なのではないだろうか?その際、少なくとも3つ以上の視点から考えることが重要だとは、比較文化論の例でもそうであるように、必要なのではないだろうか。対象にほれ込んで埋没することがあっても、判断の際には、それらから離れ、他と冷静に比較検討していかなくてはならないのだろう。
基本になる事実認識すら、格段の差があるうえに、昔Aだと教えられてきた、ほぼ定説と思えたことが、Bだと教えられたり、という多様化の時代となった。英語で日本人は、the Japaneseといい、米国人はAmericansといいtheがつかないが、昔の、戦前の日本人が、特に外国人からは、個々の日本人が存在することは例外的で、いわゆるステレオタイプの「日本人」として一把一からげでくくって済ませることができた時代の名残らしいが、最近はJapaneseとしか言いようのない現象が、当たり前だがあるではないか、という時代になっている。
西欧などでは、町を歩く他人が、実は何語をしゃべるかわからない、という大前提があるというが、日本では、韓国語、中国語を除けば、99%近くは日本語であろうが、考え方は皆違い昔の日常社交儀礼なども様変わりしてしまっているようで、話が通じない現象も多いようだ。我々も戦後、左翼、右翼とノンポリの三類型ぐらいしか区別しなかったが、今はなんとなく左翼みたいな人たちが圧倒的であるらしい。
このブログで、以前5月28日に、特攻の話を載せたが、そのときの雑誌の表題(別冊宝島)には、決して忘れてはいけない歴史の真実!などと出ていた。そのときは、今回のこの雑誌も見ていて、『俺は君のためにこそ死にに行く』という映画完成の特集記事があり、そのことにも触れ、映画への客足が伸びている、とも書いた。半年近くたって、今朝も、近くにあったその雑誌を何気なくめくっていたら、後半に、航空特攻の戦果の特集があり、米軍発表で、特攻の戦果は意図的に半分以下に抑えられて報道されていた、などとあり、具体的な日時を追っての
戦果記録なども紹介されていた。
さらに、特攻戦術の分類や、特攻作戦の経過と概要、そして今朝見ておや?と思ったのは、陸海軍特攻機列伝だった。
前述の映画では、実物大の隼が二機製作され、本物のように飛び交って撮影されたらしいが、特攻に使われたのは、隼だけではないと、各戦闘機とその特攻機としての出撃機数などまで掲載されていて、真っ先に中島(現、富士重工)九七式戦闘機 〔キ27]があったことだ。陸軍機から先に紹介されているので、零戦の紹介は6ページほど後となっている。記録映画などで見かけるのは圧倒的に零戦だし、出撃機数も零戦がトップで、フィリッピン、沖縄戦で使用された機数は640機以上だという。
その九七戦闘機、昭和12年12月にデビューしたもので、中国戦線で投入された海外機(米、仏、ソ)を圧倒して大陸上空の制空権を確保、ノモンハン事件でもソ連機を多数撃墜した名機だとは子供の頃、友達の家にあった「丸」の記事などでも知っていたが、なんと製造は昭和18年まで続けられていたのだという。
しかもその格闘性能があまりにもよくて、後継機隼の性能をゆがめてしまい、その後の陸軍機発達に悪影響を与えた面も否定できない、とも書かれている。こうした日本側の特殊事情は、書かれていないが零戦にも当てはまるのではないか?。特攻には、実用機不足で、180機もこの機体が投入された、という。
通常650馬力だったが、練習機用に低出力の500馬力機も250キロ爆弾一発を懸吊し、使われたとあり、第113振武隊所属の天剣隊の出撃写真が載っている。垂直尾翼に、ヤマトタケル尊の時代の剣を交差させて、その交点に日の丸を配したデザインが描かれている特攻機だ。ちょっと目には、どこかの大学の校章かと思われた、ペンを交差させたデザインに見える。
夜になって、夕食後書斎でテレビをつけていたら、NHKで、「学徒兵、許されざる帰還」というのを放映していた。最近のNHKの番組も、少しは反日色が薄れてきているか?と思いながら、見ているうちに今朝の雑誌記事と内容が重なってきて、思わず引き込まれた。
そこでは、雑誌の記事と重ね合わせてみると、いろいろな側面が浮き彫りにされる。NHKでは、詳しく言わないが、問題として扱っている特攻機数が1800機といっていた。雑誌では、フィリッピン特攻の天号作戦と、沖縄を対象とした菊水作戦で、菊水作戦だけで海軍機800機、陸軍機600機の1400機と書いてある。
最初の天号作戦は、敵同士のように憎みあっていたという話もある陸軍と海軍が合同で特攻を行う話になったところから、名づけられた作戦名という。テレビでは、陸軍が海軍の特攻作戦(すでに神風攻撃などは行われていた)のもちかけを責任者が疑問視していた、と靖国神社に残された軍務日誌などから紹介していた。
また、在学中に引っ張られた士官たちを、中将自ら訪れ、特攻作戦の実施にあたり、希望者を募った、という。最初ほぼ全員が希望せずに丸をつけたが、中将自ら命令伝達をしにきた意味を考えるべきだ、という意見に促され、ほぼ全員が熱望す、とか希望するに丸をつけたらしいが、結果的には全員が特攻に。
海軍との約束の日、まともな機体がなく、4部隊が九州に陸軍部隊として到着するはずが一部隊しか届かず、海軍側から問題視されたが、それでも行かざるをえなかった、という。
飛行場で、空中戦の訓練から、急遽地上の目標に向かって突っ込む訓練に切り替えたらしいが、三機編隊で目標へ向かって飛び、その後、三機は扇を開くように左右に離れて、という訓練で、目標上空で機体同士が接触して、訓練でも死者が出るほどの、錬度だった、という。
これは海軍でも同様であったらしく、生き残った隊長の証言では、編隊飛行も満足にできない部下がたくさんおって、・・・ということらしい。
また、隼でさえ、急降下速度は300キロが限度で、350キロだと空中分解するという。舵自体が効かなくなるので、上から艦艇に突入するのはできなかった、という。しかたなく威力の劣る水平か、やや上空から斜めに飛び込む方法だったらしいが、命中度はよくない。
特に九七機においては、エンジン故障が続出し、出撃したものの、不時着などざらだったらしい。機体を軽くするため、無線機をはずし、武器をはずして丸腰で250キロ爆弾だけを吊って出撃したので、敵戦闘機の迎撃を受けたら、ひとたまりもなかった、という。証言者は、下に逃げて、海に不時着して助かった方。教壇に立ちたいと熱く語っていた仲間の一人は、上の雲の中に逃げたが、雲が真っ赤に染まった、という。
米軍レーダーは当時80キロ先の攻撃機も捉える能力を有し、30キロ近くまで来てから出撃しても十分、無防備な敵機、しかも爆弾を抱えて、機体も操縦技術も飛ぶのがやっと、というような敵相手を容赦なくやっつけた、という米兵の証言は、してやったり、というような表情で回想していた。
天号作戦では、海軍機は敵艦隊を、陸軍機は輸送船団を、というように役割分担していた、という指摘もテレビで初めて知った。
また、特攻兵に、おんぼろ機体をあてがった背景には、特攻は建前上、強制ではなく志願したからだという意外な証言が、テープに残っていた。通常部隊は、天皇の命令で死ぬことが建前なので、いい機体は優先的にそちらに回したのだという。
しかも、特攻で出撃しても、かなりの人数はエンジントラブルや天候などで不時着して死んでいないという。そのため、陸軍の場合、名簿に丸印がついていないものは、九州の福岡に振武寮を作り、ここにまとめて収容し、秘密が外にもれるのを防いだ、という。でないと、特攻で死んだはずの兵隊が、そこかしこで生きていたら、大本営発表そのものに?がついてしまうから、という。
そこで集められた元学生特攻兵たちは再び今度は本土上空で特攻をやれ、と軟弱さを非難されながら、肉体的にも痛めつけられ、再び内地の航空隊へ。しかし、大半がそこで8.15を迎えてしまった、という。
振武寮で、帰還した兵たちに再度、特攻に行けと教育した担当者の記録テープでは、皆大学や専門学校生なので、法律論や幅広い知識から、なぜ自分は死ななければならないのか、疑問に思っている態度がありありだった、と。戦後のことなので、命は地球より思いなどという思想が入ってしまっている、と担当者は言っていた。
生き残りの特攻兵たちは、結局、それでも死ぬ意味を見出そうとするならば、国家のためというより、家族や、恋人を守るために、というような具体的な対象のために、という思いに向かっていった、と証言。
上官から、海軍初の神風特攻隊に指名された関大尉は、数秒の沈黙の後、ぜひやらせてください、と答えたという。しかし、取材記者が心境を聞こうとしても、ピストルを向けて近づけなかった、という。しかし、最後には、新婚間もなかったので、天皇陛下や帝国のために行くんじゃない。最愛の人のために行くんだ、どうだすばらしいだろうと言っていた、という。
しかし、この上官、後で、なんでよりによって関大尉のような新婚間もない、真珠湾攻撃の立役者のような人材を選んだのか、詰問され、上層部の怒りを買ったともいう。
坂井三郎氏は、硫黄島で敵に体当たり命令を出されたのは、自分たちが最初です、と書いていたが、敵機に見つかり、飛び込む相手は見つからず編隊飛行の二機とともに逃げおおせて帰還したら、腕のいいもう一機も帰っていたという。爆撃機などは全機、帰還しなかった。
NHKは、海軍とはじめた陸軍特攻の総元締めの某少将は、おれも後から必ず行くからと杯を交わしていた人は、自決も、特攻もなく95歳で天寿を全うした、と伝えている。同様な事例は、城山三郎氏の小説にも出てくるが別人のようだで、複数はあるいは大半はそういう立場で、そういう役割をせざるをえなかった、ということかもしれない。
映画、『俺は君のためにこそ死にに行く』という題名は、石原都知事が総監督ということだったらしいが、この題名に、特攻の真実が凝縮されているように、初めて意識した。合掌。
来る11月18日は、靖国神社で、恒例の「出陣学徒慰霊際」が行われる予定である。
土曜日, 10月 20, 2007
愛馬進軍歌と私
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E9%A6%AC%E9%80%B2%E8%BB%8D%E6%AD%8C
では、愛馬進軍歌には、こんな解説が・・・
『昭和13年(1938年)秋、陸軍省馬政課の栗林忠道課長(当時騎兵大佐。硫黄島の戦いにおける守備隊司令官)の企画により、軍馬への関心を高めるため一般から公募した「愛馬の歌」の当選歌。作詞の久保井信夫は当時四国の電力会社社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。軍馬を戦友として扱うなど馬への愛情のこもった親しみやすい歌詞とテンポの良い曲とで一般にも広く普及し、現在でもよく聴くことができる。同じく応募された詞による「愛馬行」(作詞:山田静、作曲:佐藤長助、歌:児玉好雄・三門順子)とのカップリングで昭和14年に発売され、大ヒットとなった。』
今でも二日に一遍くらいはパソコンで聴いている。さいきん、我が家のペットも一匹、15年ほどして亡くなり、一昨年の犬に続いて二匹とも同じペット用霊廟に入った。そんな関係や秋の季節、また、本人の人生のたそがれ時への接近も加わり、気分がそういったものを求めているのかもしれない。
今日も、家に居てもよかったのだが・・・。ここ数日、雨や納品後の直帰などで、自転車通勤を3日ほどしなかったら、鏡を見てびっくり。たちまち顔が太っている。ガ~ン、自然は正直だ。
それで、散歩をかねて会社へきて、タイムカードを人数分作ったり雑用を済ませ、明日からの仕事の段取りや、いろいろと考えることなどしようと思っている。ところが、北風がつよく、まともにあたりこぐのが苦しい。とくに遮蔽物のない田園地帯にきたら、ギヤを落とさないと
すすまない。これでは、川を渡る橋にちかい傾斜を上るのとおなじくらいの力がいる。会社へ来たら、予想を20分も上まわっていた。これでは、ツーリング先で出会う、プロを目指すような予備軍の候補たちの練習風景に近いではないか?会社へ着いたら、膝が充血してぽかぽかしていて気持ちいい。
昨日は、前日の雨が嘘のようにあがり、好天だったので、現場調査を兼ねて、プチツーリング。往復70キロほど走ったが、風はもう冷たく、カメラで覗いた景色もすっかり秋。日光も紅葉が見ごろだというが、・・・。
愛馬進軍歌の解説を改めて見て、『作詞の久保井信夫は当時四国の電力会社社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。』というところに注目した。
四国の電力会社員の息子さんで、青色ダイオードを発明して、当時の勤務会社と億単位の訴訟となった中村教授のことを思い出したからだ。
http://chemstation.livedoor.biz/archives/12146032.html
『 昨年一月の一審・東京地裁判決は、中村教授が受け取る相当対価を約六百四億円と算定し、請求額全額に当たる二百億円の支払いを日亜化学に命令していた。発明の「正当な対価」のあり方をめぐって衝撃を与えた訴訟は、控訴審の判決を待たずに決着する。
原告側弁護士によると、過去の訴訟の判決や和解で、発明対価として企業が研究者に支払う額としては過去最高。
昨年一月の地裁判決によると、中村教授は日亜化学在職中の平成二年に青色LEDの製造装置に関する技術を発明。日亜が特許出願し五年、世界初の製品化に成功した。中村教授が当時、会社から受け取った報奨金は二万円だけだった。』
中村教授が当時勤務していた日亜化学と争いになってしまったわけだが、この会社がなかったら、中村教授の業績も生まれていたか疑問、とも思える。ここの会社の先代の社長さんが、兵隊として南方に送られていたとき、接近したジャングルから垣間見える米軍基地の独特の青白い蛍光灯の明かりに魅了されたと、という。
それで、無事復員後、製薬会社の下請けのような会社を、いくら品質のよい薬を作っても買い叩かれて、利が薄いので、戦中に魅了された蛍光管の製造のほうにも手を広げ、ブラウン管部門では名のしれた会社になっていった、という。そんなところへ入社した中村氏は、比較的自由に研究費を使えて最初はよかったらしいが、5年たってもめどがつかず、会社内では孤立して、研究費も先細りとなり、逆境の中でもがんばった、という。爆発事故も一度や二度ではなかったようだ。
ただ、会社もちで、アメリカへ一年留学させてもらい、自分と同じかそれ以下とわかり意を強くして帰国。ただ、論文がないと、評価されない世界を体験して、英語論文の必要性は痛感されたようだった。
それで、学会などへも顔を出すようになり、ある物理の発表を聞いて、難しかった蒸着が、このようにすれば歩留まりがあがって実用化に近づくのでは!?というヒントをえて、さっそく試作、改良を加えて完成できた、らしい。
今では、その製法などは使っていないという主張を日亜化学側は裁判で主張したようだが、できるかできないかわからない中を、おれはこう思う、といって世界に先駆けてやるのが、科学。不完全であれ少々まちがっていても、いったん不可能が可能となれば、改良あるのみ。あとは、それを採算ベース、営業ベースに載せるのは日本おとくいの技術の範疇で、科学とは別物だが、日本人は大部分、区別していない。
日ごろ、科学技術という文字が氾濫。科学・技術とせめて表記してもよさそうだが、そうしない裏には守旧思想が根強くあり、看板を変えたり、掛け声を変えたりで、世の中変化すると安易に思うお役人発想には愛想が尽きる。したがってこうした状態だから、文部省から文科省に変えた当初の意図が泣こうというものだ。文部非科学省だというのなら、よくわかるのだが。
教科書の沖縄戦での、検定問題でも、また昔に戻ろうとしている。
http://www.sankei.co.jp/seiron/danwa.html
『教科書に「軍命令説」が書かれてきたのは、渡嘉敷島と座間味島で日本軍が住民に集団自決を命令したとされてきたからでした。
しかし、それが嘘であることが広く知られて検定も変わった、というのが経緯です。
その検定意見が間違いだというなら、軍命令の具体的な事実を出せばいいのです。
しかし、それを出すことはできていません。それで左翼勢力は、政治力や感情によって変更させようとしているのです。
私たちは、左翼勢力に対しては、事実と真実によって戦わねばなりません。』
などという意見が、一番妥当だと思うが如何。サンケイ新聞には、沖縄では、あそこの爺さんが孫を殺された、というのは嘘で自分で殺しておいて、国から援助金をもらっている、などと近所の人は皆知っている例もある、などと報道していた。福田首相は、11万人参加を丸呑みしたようだが、実際に写真を数えたら、一万ちょっと、で、半分ほど数えただけで、馬鹿らしくて止めたらしい。どう見てもそうはならないのがわかったからだそうだ。警察は4万強、作る会の某教授は2万人説を主張されたようだが、発表は約10倍に水増しされて、政治圧力問題へと発展した。安倍首相だったら、沖縄県知事も参加しなかったろう、という指摘は鋭い。
中村教授は、いまアメリカ西海岸で寿命20年くらいの蛍光灯を作れないか、大学院生10名以上を抱えて研究中だという。一時、ノーベル賞候補とのうわさも流れた方だが、蛍光管製造を決意した、先代社長の情熱があったからこそ、という思いも私は強いのである。
会社がつけてくれたT大卒の助手は、見込みがないと判断すると、上司の中村氏の命令を平気で無視していた、という。裁判で、中村氏の初期の製法なんか、とっくに卒業して、そんな方法を使ってない以上、ど~の、こ~のと抗弁した主役もこの元「助手氏」ではないか、と私は新聞報道を見ては思い出したりしたものだ。
中村教授がノーベル賞候補になれるかどうかは、予断を許さないが、ノーベル賞を受賞して在米の利根川博士は、研究は、寄らば大樹の陰、というのや、言うこととやる事がちがう人間には向かない。そういうことをしてはいけない、とその分野のオーソリティーから指摘されたときに、してやったり!と思うようでないと、ブレークスルーは望めないと指摘している。ゴーイングマイウェイでないと、いい研究(それまでの研究の方向性を変えるような革新的な)は生まれない、と新聞で書かれていた。
セレンディピティなものを捕まえ得た者たちだけが手にできる、格別の世界のようだ。
江崎博士も、研究のモードを大別すると、競争モードと、ゴーイング・マイウェイモードがあるが、いつでも新しい時代を作ってきたのは、ゴーイング・マイウェイモードで突進した若き学徒たちだ、と同様なことをおっしゃる。
その分、挫折も大きい。アメリカでも、新規分野の達成確率は、5%をきるかどうか、これが6%とでもなれば大成功なのだそうだ。改良が主体の研究だと、80%ぐらいまで行く場合もあるようで、周りを良く見渡してやる日本の方法(目の細い日本人が描く漫画の登場人物は目が大きいのもそうした文化的背景があるのかどうか?)は、あきらかに技術偏重型でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3
『インスリンについては四人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年に賞を受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger) が、1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)がそれぞれノーベル賞を受賞している。』
インスリン発見でノーベル賞受賞したカナダの医者、バンティングは、食い詰めて船医にでもなるか、恋人とも別れなくちゃなどと言うときに読んだ医学論文がきっかけで、出身大学に掛け合い、マクラウド教授に何回も実験させてくれ、と泣きつく。仕方なく教授は、夏休みに英国に帰る二ヶ月弱の間に施設を使用することを許可、一名の助手をつけてやる。
そんな実験は、とっくに行われていて失敗済み、というのが教授の当初の見解だった。それが帰ってみたら、何やら、うまく行きそうだ、という二度の犬の実験から光明がひらけ、こんどは教授を含め四人体制。そうなると、大学側の助教授などのほうが、実験改良のアイデアなども的確に出てきて、不可能と思われた壁が取り払われた、という。
それで、新設講座の教授となったバンティング教授、こんどは癌の特効薬の研究に取り組んだらしいが、ことごとく失敗、めぼしい業績は、ヘミングウェイではないが、若いときのものが最良、という結果だったらしい。アメリカでは、ノーベル賞など受賞しても、その後2,3年もすると権威がなくなるらしい。
この話を紹介した、元千葉大学長の丸山先生は、バンティングの息子はタクシー運転手だったが、最初の実験に教授がつけた助手は教授になり、息子さんも教授になった、という話も書かれていた。
神奈川大学長の桜井博士も、ノーベル賞などの研究は、丁度いいとき、丁度いい環境に、丁度いい人物がいて、栄誉に預かるというような結論をだされている。中村教授もその意味で、ちょうどいいときに、ちょうどいい会社で、変人としてがんばった中村研究員がいた、ということに尽きる、ということで、桜井博士の結論と一致するように思う一人だ。(注、この一人は、筆者と、中村氏をかけています)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E9%A6%AC%E9%80%B2%E8%BB%8D%E6%AD%8C
では、愛馬進軍歌には、こんな解説が・・・
『昭和13年(1938年)秋、陸軍省馬政課の栗林忠道課長(当時騎兵大佐。硫黄島の戦いにおける守備隊司令官)の企画により、軍馬への関心を高めるため一般から公募した「愛馬の歌」の当選歌。作詞の久保井信夫は当時四国の電力会社社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。軍馬を戦友として扱うなど馬への愛情のこもった親しみやすい歌詞とテンポの良い曲とで一般にも広く普及し、現在でもよく聴くことができる。同じく応募された詞による「愛馬行」(作詞:山田静、作曲:佐藤長助、歌:児玉好雄・三門順子)とのカップリングで昭和14年に発売され、大ヒットとなった。』
今でも二日に一遍くらいはパソコンで聴いている。さいきん、我が家のペットも一匹、15年ほどして亡くなり、一昨年の犬に続いて二匹とも同じペット用霊廟に入った。そんな関係や秋の季節、また、本人の人生のたそがれ時への接近も加わり、気分がそういったものを求めているのかもしれない。
今日も、家に居てもよかったのだが・・・。ここ数日、雨や納品後の直帰などで、自転車通勤を3日ほどしなかったら、鏡を見てびっくり。たちまち顔が太っている。ガ~ン、自然は正直だ。
それで、散歩をかねて会社へきて、タイムカードを人数分作ったり雑用を済ませ、明日からの仕事の段取りや、いろいろと考えることなどしようと思っている。ところが、北風がつよく、まともにあたりこぐのが苦しい。とくに遮蔽物のない田園地帯にきたら、ギヤを落とさないと
すすまない。これでは、川を渡る橋にちかい傾斜を上るのとおなじくらいの力がいる。会社へ来たら、予想を20分も上まわっていた。これでは、ツーリング先で出会う、プロを目指すような予備軍の候補たちの練習風景に近いではないか?会社へ着いたら、膝が充血してぽかぽかしていて気持ちいい。
昨日は、前日の雨が嘘のようにあがり、好天だったので、現場調査を兼ねて、プチツーリング。往復70キロほど走ったが、風はもう冷たく、カメラで覗いた景色もすっかり秋。日光も紅葉が見ごろだというが、・・・。
愛馬進軍歌の解説を改めて見て、『作詞の久保井信夫は当時四国の電力会社社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。』というところに注目した。
四国の電力会社員の息子さんで、青色ダイオードを発明して、当時の勤務会社と億単位の訴訟となった中村教授のことを思い出したからだ。
http://chemstation.livedoor.biz/archives/12146032.html
『 昨年一月の一審・東京地裁判決は、中村教授が受け取る相当対価を約六百四億円と算定し、請求額全額に当たる二百億円の支払いを日亜化学に命令していた。発明の「正当な対価」のあり方をめぐって衝撃を与えた訴訟は、控訴審の判決を待たずに決着する。
原告側弁護士によると、過去の訴訟の判決や和解で、発明対価として企業が研究者に支払う額としては過去最高。
昨年一月の地裁判決によると、中村教授は日亜化学在職中の平成二年に青色LEDの製造装置に関する技術を発明。日亜が特許出願し五年、世界初の製品化に成功した。中村教授が当時、会社から受け取った報奨金は二万円だけだった。』
中村教授が当時勤務していた日亜化学と争いになってしまったわけだが、この会社がなかったら、中村教授の業績も生まれていたか疑問、とも思える。ここの会社の先代の社長さんが、兵隊として南方に送られていたとき、接近したジャングルから垣間見える米軍基地の独特の青白い蛍光灯の明かりに魅了されたと、という。
それで、無事復員後、製薬会社の下請けのような会社を、いくら品質のよい薬を作っても買い叩かれて、利が薄いので、戦中に魅了された蛍光管の製造のほうにも手を広げ、ブラウン管部門では名のしれた会社になっていった、という。そんなところへ入社した中村氏は、比較的自由に研究費を使えて最初はよかったらしいが、5年たってもめどがつかず、会社内では孤立して、研究費も先細りとなり、逆境の中でもがんばった、という。爆発事故も一度や二度ではなかったようだ。
ただ、会社もちで、アメリカへ一年留学させてもらい、自分と同じかそれ以下とわかり意を強くして帰国。ただ、論文がないと、評価されない世界を体験して、英語論文の必要性は痛感されたようだった。
それで、学会などへも顔を出すようになり、ある物理の発表を聞いて、難しかった蒸着が、このようにすれば歩留まりがあがって実用化に近づくのでは!?というヒントをえて、さっそく試作、改良を加えて完成できた、らしい。
今では、その製法などは使っていないという主張を日亜化学側は裁判で主張したようだが、できるかできないかわからない中を、おれはこう思う、といって世界に先駆けてやるのが、科学。不完全であれ少々まちがっていても、いったん不可能が可能となれば、改良あるのみ。あとは、それを採算ベース、営業ベースに載せるのは日本おとくいの技術の範疇で、科学とは別物だが、日本人は大部分、区別していない。
日ごろ、科学技術という文字が氾濫。科学・技術とせめて表記してもよさそうだが、そうしない裏には守旧思想が根強くあり、看板を変えたり、掛け声を変えたりで、世の中変化すると安易に思うお役人発想には愛想が尽きる。したがってこうした状態だから、文部省から文科省に変えた当初の意図が泣こうというものだ。文部非科学省だというのなら、よくわかるのだが。
教科書の沖縄戦での、検定問題でも、また昔に戻ろうとしている。
http://www.sankei.co.jp/seiron/danwa.html
『教科書に「軍命令説」が書かれてきたのは、渡嘉敷島と座間味島で日本軍が住民に集団自決を命令したとされてきたからでした。
しかし、それが嘘であることが広く知られて検定も変わった、というのが経緯です。
その検定意見が間違いだというなら、軍命令の具体的な事実を出せばいいのです。
しかし、それを出すことはできていません。それで左翼勢力は、政治力や感情によって変更させようとしているのです。
私たちは、左翼勢力に対しては、事実と真実によって戦わねばなりません。』
などという意見が、一番妥当だと思うが如何。サンケイ新聞には、沖縄では、あそこの爺さんが孫を殺された、というのは嘘で自分で殺しておいて、国から援助金をもらっている、などと近所の人は皆知っている例もある、などと報道していた。福田首相は、11万人参加を丸呑みしたようだが、実際に写真を数えたら、一万ちょっと、で、半分ほど数えただけで、馬鹿らしくて止めたらしい。どう見てもそうはならないのがわかったからだそうだ。警察は4万強、作る会の某教授は2万人説を主張されたようだが、発表は約10倍に水増しされて、政治圧力問題へと発展した。安倍首相だったら、沖縄県知事も参加しなかったろう、という指摘は鋭い。
中村教授は、いまアメリカ西海岸で寿命20年くらいの蛍光灯を作れないか、大学院生10名以上を抱えて研究中だという。一時、ノーベル賞候補とのうわさも流れた方だが、蛍光管製造を決意した、先代社長の情熱があったからこそ、という思いも私は強いのである。
会社がつけてくれたT大卒の助手は、見込みがないと判断すると、上司の中村氏の命令を平気で無視していた、という。裁判で、中村氏の初期の製法なんか、とっくに卒業して、そんな方法を使ってない以上、ど~の、こ~のと抗弁した主役もこの元「助手氏」ではないか、と私は新聞報道を見ては思い出したりしたものだ。
中村教授がノーベル賞候補になれるかどうかは、予断を許さないが、ノーベル賞を受賞して在米の利根川博士は、研究は、寄らば大樹の陰、というのや、言うこととやる事がちがう人間には向かない。そういうことをしてはいけない、とその分野のオーソリティーから指摘されたときに、してやったり!と思うようでないと、ブレークスルーは望めないと指摘している。ゴーイングマイウェイでないと、いい研究(それまでの研究の方向性を変えるような革新的な)は生まれない、と新聞で書かれていた。
セレンディピティなものを捕まえ得た者たちだけが手にできる、格別の世界のようだ。
江崎博士も、研究のモードを大別すると、競争モードと、ゴーイング・マイウェイモードがあるが、いつでも新しい時代を作ってきたのは、ゴーイング・マイウェイモードで突進した若き学徒たちだ、と同様なことをおっしゃる。
その分、挫折も大きい。アメリカでも、新規分野の達成確率は、5%をきるかどうか、これが6%とでもなれば大成功なのだそうだ。改良が主体の研究だと、80%ぐらいまで行く場合もあるようで、周りを良く見渡してやる日本の方法(目の細い日本人が描く漫画の登場人物は目が大きいのもそうした文化的背景があるのかどうか?)は、あきらかに技術偏重型でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3
『インスリンについては四人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年に賞を受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger) が、1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)がそれぞれノーベル賞を受賞している。』
インスリン発見でノーベル賞受賞したカナダの医者、バンティングは、食い詰めて船医にでもなるか、恋人とも別れなくちゃなどと言うときに読んだ医学論文がきっかけで、出身大学に掛け合い、マクラウド教授に何回も実験させてくれ、と泣きつく。仕方なく教授は、夏休みに英国に帰る二ヶ月弱の間に施設を使用することを許可、一名の助手をつけてやる。
そんな実験は、とっくに行われていて失敗済み、というのが教授の当初の見解だった。それが帰ってみたら、何やら、うまく行きそうだ、という二度の犬の実験から光明がひらけ、こんどは教授を含め四人体制。そうなると、大学側の助教授などのほうが、実験改良のアイデアなども的確に出てきて、不可能と思われた壁が取り払われた、という。
それで、新設講座の教授となったバンティング教授、こんどは癌の特効薬の研究に取り組んだらしいが、ことごとく失敗、めぼしい業績は、ヘミングウェイではないが、若いときのものが最良、という結果だったらしい。アメリカでは、ノーベル賞など受賞しても、その後2,3年もすると権威がなくなるらしい。
この話を紹介した、元千葉大学長の丸山先生は、バンティングの息子はタクシー運転手だったが、最初の実験に教授がつけた助手は教授になり、息子さんも教授になった、という話も書かれていた。
神奈川大学長の桜井博士も、ノーベル賞などの研究は、丁度いいとき、丁度いい環境に、丁度いい人物がいて、栄誉に預かるというような結論をだされている。中村教授もその意味で、ちょうどいいときに、ちょうどいい会社で、変人としてがんばった中村研究員がいた、ということに尽きる、ということで、桜井博士の結論と一致するように思う一人だ。(注、この一人は、筆者と、中村氏をかけています)。
水曜日, 10月 17, 2007
自転車通勤の距離が、バイクと車で測定すると、16.3~5と17キロの二通りが得られて、バイクでの測定が大きく出た。
そこで、地図上の道路を細かな直線でミリ単位で測定して積み上げると、どうも16.5キロあたりが妥当だろうという結果が得られた。
ところで、フラクタルの話では、この測定用線分をだんだん短くしていき、最後に砂粒ぐらいまで縮小して海岸線などを測定していくと距離がだんどん伸びて行く、という話あたりから始まる場合が多い。
私の通勤距離の場合は17ミリが500メートルの縮尺で、数ミリ単位で距離を測っては足し、足しては測りを繰り返したもので、最初17キロと出たのだが、途中計算間違いで、500メートルで1キロアップとしたところがあり、当初の車で測った値に落ち着いた。するとバイク燃費はさらに悪くなるので、あんまりうれしくないのだが。
また、数学の話であるが、掛谷の問題と呼ばれる話がある。それは平面上である一定の線分の長さ(L)を一回転させるのに必要な最小の面積は何か?、というものである。
数学者掛谷宗一(1886~1941)が1917年(第一次大戦中、東北帝国大学に在職中)に提起したものらしいが、この問題には明確な解が存在する、という予想にもとづくものというが、問題提起からおよそ10年して(昭和のはじめ)予想ははずれ解は存在しない、ということになった。
矢野健太郎『数学100の問題』や『ゆかいな数学者たち』などには、アステロイド(星芒)型の図形を提示し、その内部をどんどん小さくする方法を考える、などとあり数学者の秋山仁さんは「切り返し」を用いる方法なども紹介されていると聞くが、馬脚を現しそうなので、この辺でやめておこう。『理系への数学』p77~80、現代数学社7月号、2007。ここの執筆担当者は岸吉堯(よしたか)氏。
子供の頃から、矢野先生の著作や新聞記事などには親しんできたほうだろうが、数学者たちの日ごろの生態が矢野先生の筆にかかると、ほほえましい世間知らずの、時には眉唾的にも聞こえる、いい意味で「変な」大人たちだと紹介されている。
昭和の初めの学生時代の思い出では、東大数学科の期末試験で時間制限がないので、試験翌日教室に行くと、まだ何名かが、答案用紙を前に考え込んでいた、などという情景なども紹介されている。大学で数学を学びたかった、という父の思い出と重なる部分ではある。
一時期、東電の社長さんも、研究者になるなら天文学者になっていたろう、という方が紹介されていたような気がする。うろ覚えで申し訳ないが。酔って帰ると、奥さんが怖いので、一つか二つ手前の駅でおり、夜空の星を見ながら帰りつく頃には、酔いが消えていて、奥様のご機嫌もうるわしい、というようなお話であったが。
藤原正彦先生の「若き数学者のアメリカ」では、昼休みキャンパスでであった某教授に数学の問題をお尋ねして、ひとしきり話された後、ところで、私は君に会う前、どっちから来たかときかれ、食堂の方から、などと答えると、じゃあ、昼飯は食ったんだ、と納得されるような話が満載で楽しかった。
ところで、自転車通勤を始めてほぼひと月になる前の、先週土曜日、帰宅途中、自転車にはつきもののパンクがまだないことに気づき、いつかはその日がくるだろうな、と心配になった。
その心配が強かったせいか、翌日曜の朝、起きて新聞を取りに出たついでにタイヤを調べたら、後輪が完全にパンクしていた。あわてて、釘などを調べるが細かな溝に深く詰まった砂粒のような小石が穿り返されるだけで何もそれらしき形跡は見当たらない。
しかし、今日は日曜出勤だからとあわてないで、徒歩10分ほど先の自転車兼ミニバイクショップまで、押していった。到着したら9時ごろだったが、シャッターが下りたままで10時から営業と表示されている。それで、もってきた本を取り出して読みふけっていたら、後ろから奥さんの声がした。中に住んでいるものとばかり思っていたが、どこかから通いで来たようだった。9時50分だった。
原因は、虫ゴムが腐り、秋の朝の比較的低温で、金属が少し収縮したせか何かで、そこからもれたようで、虫ゴムを取り替えて空気注入でおわり。それで、会社だけでもなく家にも空気入れを用意する必要性を思い知った。
日曜の晩は疲れたのでバイクで帰り、月曜の昼間、後輪の空気をチェックしたら、かなり甘い。
それで、空気を入れていると、空気を入れるバルブあたりのタイヤが片側だけずれて盛り上がってきた。しかたなく、もう一度空気を抜こうとして、ねじを緩めているうちに、空気圧で虫ゴムのついた栓が勢い良く飛び散りどこかへ飛んでいってしまった。
仕方なく、買った自転車屋さんまでいき、今度は虫ゴムのいらない栓というのを二個入り200円で買ってきた。それで空気をいれ帰途につく。そのうちこつんこつんと腰が突き上げられる振動に気づく。おりて見ると、ずいぶんタイヤを押し込んだつもりだが、空気を入れるバルブのあたりが片側にタイヤが膨らみ、小鳥を飲み込んだ蛇の腹のように醜く変形している。
しかたなく、途中の最寄の自転車店さんがまだ明かりがついていたので、事情を話し、修理してもらう。最初のパンクのとき、自転車屋さんまで引いて行ったとき、中のチューブがよじれて、そのまま、コンプレッサーであっというまに注入したでいか、タイヤが戻らなくなっていたのを直してもらい、空気をいれてもらった。今度は気持ちよくこいで帰れた。
それで、今朝、また心配になりタイヤを見たらまた空気が抜けている。虫ゴムがつく栓を止めるねじをみたらだいぶゆるいので、それでまた抜けたとそのときは思った。
10時の開店まで待つわけにいかず、そのままバスに飛び乗り、8キロほどはなれた終点でおり、そこで会社の同僚に頼んで車で迎えに来てもらった。しかし、帰りはどうする?。
昼前に、家をはさんで会社と反対側に位置する役所から、電話があり、資料が見つかったので取りに来れば出す、という連絡が。そこで車で出かけ、家で自転車をつみ、買ってきた空気入れで乗れるようにして、役所で資料を受け取り、さらにさいたま市まで行き、納品もすませ帰ってきて、自転車を下ろす段になって、また空気が数時間で半分になっていることを、ようやく発見。そのまま、又乗せて昨日の店に行き、パンク修理を正式に依頼。
帰って30分ほどしたら電話が。やはり非常に小さな穴が開いていたとのこと。徒歩15分ほど歩いて取りにいったら、昨日指摘された後輪の横揺れや、円形から外れたリムをスポーク調整までしてくれていた。空回りさせると、タイヤがぶれない。今は、工場で、素人が機械で組み上げてしまうので、こんなもんですよ、とは言っていましたが、それが思いも寄らぬパンクで、それも直りました。
購入五日目ぐらいから、タイヤ一回転ごとに、変なギュッ、ギュッとかギシ、ギシというような変な音がするようになって消えず、うるさくてしかたなかったが、タイヤをきちんと嵌めてもらってから、ぴたりと止まり、今は静かな走行に戻り、気持ちがよい。どうも、チューブの一部も最初にコンプレッサーであっという間に空気を入れたとき、噛んでいたのではないか?というのが私の推理なのだが、・・・???。
そこで、地図上の道路を細かな直線でミリ単位で測定して積み上げると、どうも16.5キロあたりが妥当だろうという結果が得られた。
ところで、フラクタルの話では、この測定用線分をだんだん短くしていき、最後に砂粒ぐらいまで縮小して海岸線などを測定していくと距離がだんどん伸びて行く、という話あたりから始まる場合が多い。
私の通勤距離の場合は17ミリが500メートルの縮尺で、数ミリ単位で距離を測っては足し、足しては測りを繰り返したもので、最初17キロと出たのだが、途中計算間違いで、500メートルで1キロアップとしたところがあり、当初の車で測った値に落ち着いた。するとバイク燃費はさらに悪くなるので、あんまりうれしくないのだが。
また、数学の話であるが、掛谷の問題と呼ばれる話がある。それは平面上である一定の線分の長さ(L)を一回転させるのに必要な最小の面積は何か?、というものである。
数学者掛谷宗一(1886~1941)が1917年(第一次大戦中、東北帝国大学に在職中)に提起したものらしいが、この問題には明確な解が存在する、という予想にもとづくものというが、問題提起からおよそ10年して(昭和のはじめ)予想ははずれ解は存在しない、ということになった。
矢野健太郎『数学100の問題』や『ゆかいな数学者たち』などには、アステロイド(星芒)型の図形を提示し、その内部をどんどん小さくする方法を考える、などとあり数学者の秋山仁さんは「切り返し」を用いる方法なども紹介されていると聞くが、馬脚を現しそうなので、この辺でやめておこう。『理系への数学』p77~80、現代数学社7月号、2007。ここの執筆担当者は岸吉堯(よしたか)氏。
子供の頃から、矢野先生の著作や新聞記事などには親しんできたほうだろうが、数学者たちの日ごろの生態が矢野先生の筆にかかると、ほほえましい世間知らずの、時には眉唾的にも聞こえる、いい意味で「変な」大人たちだと紹介されている。
昭和の初めの学生時代の思い出では、東大数学科の期末試験で時間制限がないので、試験翌日教室に行くと、まだ何名かが、答案用紙を前に考え込んでいた、などという情景なども紹介されている。大学で数学を学びたかった、という父の思い出と重なる部分ではある。
一時期、東電の社長さんも、研究者になるなら天文学者になっていたろう、という方が紹介されていたような気がする。うろ覚えで申し訳ないが。酔って帰ると、奥さんが怖いので、一つか二つ手前の駅でおり、夜空の星を見ながら帰りつく頃には、酔いが消えていて、奥様のご機嫌もうるわしい、というようなお話であったが。
藤原正彦先生の「若き数学者のアメリカ」では、昼休みキャンパスでであった某教授に数学の問題をお尋ねして、ひとしきり話された後、ところで、私は君に会う前、どっちから来たかときかれ、食堂の方から、などと答えると、じゃあ、昼飯は食ったんだ、と納得されるような話が満載で楽しかった。
ところで、自転車通勤を始めてほぼひと月になる前の、先週土曜日、帰宅途中、自転車にはつきもののパンクがまだないことに気づき、いつかはその日がくるだろうな、と心配になった。
その心配が強かったせいか、翌日曜の朝、起きて新聞を取りに出たついでにタイヤを調べたら、後輪が完全にパンクしていた。あわてて、釘などを調べるが細かな溝に深く詰まった砂粒のような小石が穿り返されるだけで何もそれらしき形跡は見当たらない。
しかし、今日は日曜出勤だからとあわてないで、徒歩10分ほど先の自転車兼ミニバイクショップまで、押していった。到着したら9時ごろだったが、シャッターが下りたままで10時から営業と表示されている。それで、もってきた本を取り出して読みふけっていたら、後ろから奥さんの声がした。中に住んでいるものとばかり思っていたが、どこかから通いで来たようだった。9時50分だった。
原因は、虫ゴムが腐り、秋の朝の比較的低温で、金属が少し収縮したせか何かで、そこからもれたようで、虫ゴムを取り替えて空気注入でおわり。それで、会社だけでもなく家にも空気入れを用意する必要性を思い知った。
日曜の晩は疲れたのでバイクで帰り、月曜の昼間、後輪の空気をチェックしたら、かなり甘い。
それで、空気を入れていると、空気を入れるバルブあたりのタイヤが片側だけずれて盛り上がってきた。しかたなく、もう一度空気を抜こうとして、ねじを緩めているうちに、空気圧で虫ゴムのついた栓が勢い良く飛び散りどこかへ飛んでいってしまった。
仕方なく、買った自転車屋さんまでいき、今度は虫ゴムのいらない栓というのを二個入り200円で買ってきた。それで空気をいれ帰途につく。そのうちこつんこつんと腰が突き上げられる振動に気づく。おりて見ると、ずいぶんタイヤを押し込んだつもりだが、空気を入れるバルブのあたりが片側にタイヤが膨らみ、小鳥を飲み込んだ蛇の腹のように醜く変形している。
しかたなく、途中の最寄の自転車店さんがまだ明かりがついていたので、事情を話し、修理してもらう。最初のパンクのとき、自転車屋さんまで引いて行ったとき、中のチューブがよじれて、そのまま、コンプレッサーであっというまに注入したでいか、タイヤが戻らなくなっていたのを直してもらい、空気をいれてもらった。今度は気持ちよくこいで帰れた。
それで、今朝、また心配になりタイヤを見たらまた空気が抜けている。虫ゴムがつく栓を止めるねじをみたらだいぶゆるいので、それでまた抜けたとそのときは思った。
10時の開店まで待つわけにいかず、そのままバスに飛び乗り、8キロほどはなれた終点でおり、そこで会社の同僚に頼んで車で迎えに来てもらった。しかし、帰りはどうする?。
昼前に、家をはさんで会社と反対側に位置する役所から、電話があり、資料が見つかったので取りに来れば出す、という連絡が。そこで車で出かけ、家で自転車をつみ、買ってきた空気入れで乗れるようにして、役所で資料を受け取り、さらにさいたま市まで行き、納品もすませ帰ってきて、自転車を下ろす段になって、また空気が数時間で半分になっていることを、ようやく発見。そのまま、又乗せて昨日の店に行き、パンク修理を正式に依頼。
帰って30分ほどしたら電話が。やはり非常に小さな穴が開いていたとのこと。徒歩15分ほど歩いて取りにいったら、昨日指摘された後輪の横揺れや、円形から外れたリムをスポーク調整までしてくれていた。空回りさせると、タイヤがぶれない。今は、工場で、素人が機械で組み上げてしまうので、こんなもんですよ、とは言っていましたが、それが思いも寄らぬパンクで、それも直りました。
購入五日目ぐらいから、タイヤ一回転ごとに、変なギュッ、ギュッとかギシ、ギシというような変な音がするようになって消えず、うるさくてしかたなかったが、タイヤをきちんと嵌めてもらってから、ぴたりと止まり、今は静かな走行に戻り、気持ちがよい。どうも、チューブの一部も最初にコンプレッサーであっという間に空気を入れたとき、噛んでいたのではないか?というのが私の推理なのだが、・・・???。
土曜日, 10月 13, 2007
sho様のサイトWORLD OF HONDA CB1300SFから(http://www.geocities.jp/shonaka2001/)、似たアングルの1枚を、拝借して、アングルの似た画像を並べてみた。僅かなデザインの変更で、印象がかなり異なるが、それだけではなくどこかマイナーチェンジSFも施されているような気がしている。今、バイク屋さんで出回っているのは皆最終型で、リヤショックのダンパー調節も従来のものとは少し違う。
タイヤを前後同時に変えたら、操縦性が大きくかわり、最初ちょっとした交差点のカーブでも、ビッグ1だと大げさにいえばかなり熟練を要するような気構えというか身構えを要するなどと言われたクセのようなものがまるできれいに消えてしまった。そのためにわざわざ17インチタイヤに交換するマニア的なライダーもいたほどだが、なんの造作もなく、すっと切れ込んでいく。
そうした場合、メーター表示はどうなるのか気になる。自転車通勤の道を車で計測した場合と、バイクとでは距離がバイクの方が過大に表示される。車を二種変えて計測したが、同様な傾向だった。バイクの加速で、オドメーターが過大に進んでしまうかと錯覚したほどだ。いまのデジタル表示ではどういう方式かしらないが、昔のバイクは、フロントタイヤの軸受け付近から回転するワイヤが延びて、メーターと直結していた。ビッグ1では、もはやそうしたワイヤは出ていないが、どうやって速度を計測しているのだろうか?
BMWなどは昔からシャフトドライブの回転軸付近からだったが、ホンダも最終減速の回転軸付近からとっているのだろうか?自転車通勤にしてから気になり出した。
早速、sho様に掲載の事後了解を求めたところ、許可していただき、感謝もう仕上げる。最初から、このスタイルのビッグ1を求めていたのだが、オークションで来たのは、思いも寄らぬT2のカウリング付きで、程度は好いのだが、カウリング取り付け部が金属クランプでフロントフォーク部分が錆が出ていないか心配になり外してしまった。
カウリングで見えない部分だったので、外して発錆を確認、だいぶ除去したが、あばた面になってしまった。あとはそれ以上広げないよう点検している。ノーマルのランプハウスやステーに戻すのにも、結構予想の倍くらいかかりました。見えない部分と言うので、ステーやランプハウスは、塗装のみで、錆防止程度の塗色のため、変えざるを得なかった。ランプ位置もいまでも少しノーマルより前方に張りださせてあるが、
最初は、乗車位置からはっきりランプハウスが見えるくらい前に出ていた。通常は見えないよう、奥に引っ込んでいる。
高速のハイスピードでは、絶対有ると無いとではちがうからと、販売店からは反対されたが、申し訳ないけど外してしまった。結構金具を含めて重いので、ハンドリングは改良された気が当時はしていた。この前、高速で飛ばす軽を抜いたとき、ヘルメットの風防が顔にどんどん近づいて来て、鼻を押しつぶすように変形
してしまい、風圧の力を実感した。
タイヤを前後同時に変えたら、操縦性が大きくかわり、最初ちょっとした交差点のカーブでも、ビッグ1だと大げさにいえばかなり熟練を要するような気構えというか身構えを要するなどと言われたクセのようなものがまるできれいに消えてしまった。そのためにわざわざ17インチタイヤに交換するマニア的なライダーもいたほどだが、なんの造作もなく、すっと切れ込んでいく。
そうした場合、メーター表示はどうなるのか気になる。自転車通勤の道を車で計測した場合と、バイクとでは距離がバイクの方が過大に表示される。車を二種変えて計測したが、同様な傾向だった。バイクの加速で、オドメーターが過大に進んでしまうかと錯覚したほどだ。いまのデジタル表示ではどういう方式かしらないが、昔のバイクは、フロントタイヤの軸受け付近から回転するワイヤが延びて、メーターと直結していた。ビッグ1では、もはやそうしたワイヤは出ていないが、どうやって速度を計測しているのだろうか?
BMWなどは昔からシャフトドライブの回転軸付近からだったが、ホンダも最終減速の回転軸付近からとっているのだろうか?自転車通勤にしてから気になり出した。
早速、sho様に掲載の事後了解を求めたところ、許可していただき、感謝もう仕上げる。最初から、このスタイルのビッグ1を求めていたのだが、オークションで来たのは、思いも寄らぬT2のカウリング付きで、程度は好いのだが、カウリング取り付け部が金属クランプでフロントフォーク部分が錆が出ていないか心配になり外してしまった。
カウリングで見えない部分だったので、外して発錆を確認、だいぶ除去したが、あばた面になってしまった。あとはそれ以上広げないよう点検している。ノーマルのランプハウスやステーに戻すのにも、結構予想の倍くらいかかりました。見えない部分と言うので、ステーやランプハウスは、塗装のみで、錆防止程度の塗色のため、変えざるを得なかった。ランプ位置もいまでも少しノーマルより前方に張りださせてあるが、
最初は、乗車位置からはっきりランプハウスが見えるくらい前に出ていた。通常は見えないよう、奥に引っ込んでいる。
高速のハイスピードでは、絶対有ると無いとではちがうからと、販売店からは反対されたが、申し訳ないけど外してしまった。結構金具を含めて重いので、ハンドリングは改良された気が当時はしていた。この前、高速で飛ばす軽を抜いたとき、ヘルメットの風防が顔にどんどん近づいて来て、鼻を押しつぶすように変形
してしまい、風圧の力を実感した。
金曜日, 10月 12, 2007
秋晴れの木曜日、県北の田園地帯に仕事に行き、2現場を午前中にこなす。残暑というのか、汗が結構でますね。こちらにも現場ちかくにハーレー店が2軒ほどあり、娘が乗っていた頃とはかなり様変わりした豪華に見える大型ハーレーを結構見かける。
バイクの楽しみは、乗ってよし、見てよし、磨いてよしなどといわれていたが、最近は見せて(魅せて)よしが加わったかの感がある。その点、ハーレーは、持ってよしかどうかは、その人によるが、見せてよしは昔から変わらないような気がしている。
仕事がすんで、次の地点(県東部)に移動中に正午を回る。暑いので、ドリンクバーつきの食事ができる店を探すが、こちらの国道4号沿いには、スカイラークがあるので、自然とそちらにハンドルを切る。もう一時だが、相変わらず、駐車場はおばさん達の車で混雑している。
その駐車場で、最初コンパクトな250があるなと思っていたのだがナンバーを見たら、青枠だったので、近寄ってみた。パイプをうまく組んだダイヤモンドフレームというのか、あまり私が好きでないフレームだが、ちょっとみて、単気筒か?と思ったら、フレームに隠れるようにして後に倒れたもう1気筒に気がついた。
80年代にV4が大型バイクがはやり(ヤマハはV2が主流)ホンダは250でも水冷のVT250などがあり、所有慾をくすぐられた。昔から、4気筒はヤマハファンなので好きでなく、VツインやLツインなどに魅力を感じてきた。直立2気筒は、80キロを越えると振動が大きくなるといわれ、二の足を踏んでいたが、最近のカワサキ650(670cc)などは、一度所有したい1台だが、果たして!?
ホンダのブロスというのは、ホンダでは珍しく水冷V2の縦置き(500の横置き水冷もあったが)で400と650があり、これもいいなあと思っていた。家内の従弟が、4輪にあきて二輪を始めるとき、大型免許練習用に400を買いますが、何がいいでしょうかと電話できかれたが、何と答えたか覚えていないが、400のブロスに乗っていたようだ。今では、世界に数台しかないようなものまで所有しているとか。
ただし、ハーレーは性に逢わないと、録に乗らずに1台で打ち止め。BMWは4輪とそろって所有している。
http://www.suzuki.co.jp/release/b/b021030a.htm
スズキ株式会社は、400ccVツイン(V型2気筒)エンジンを搭載した軽快な外観のネイキッドスポーツバイク「SV400」を11月12日より発売する。
「SV400」は現行モデルの「SV400S」からカウリング(風防)を除いたネイキッドと呼ばれるタイプとして設定し、価格を9万7千円安い55万9千円とした。
SV400の主な特長
・ カウリングをもたないネイキッドタイプのスポーツバイクで、軽快に回るVツインエンジン、4気筒モデルよりも軽くスリムな車体、低い重心によって街中では扱いやすく、ツーリング等遠乗りでは高い安定感・軽快な運動性能の走りが楽しめる。
・ 低速からの力強さと、高回転までの爽快な加速を両立させたVツインエンジンを搭載。同クラスの4気筒モデルと同等のパワーとクラストップのトルクを発揮する。
・ 前輪ブレーキにダブルディスクブレーキを採用。
・ 車体色はブルーのみ。
● 販売目標台数(年間) 1,000台
● メーカー希望小売価格 559,000円
(但し、沖縄は9千円高/消費税を含まず)
さいきん、自転車通勤を始めて、車検のないバイクがまた魅力になってきて、バイク便の人たちがよく使用しているVT250など、かなり有力候補に上がったりする。通勤とちょい乗りなどにはうってつけだろう。しかい、若干慾をだすと、パワー不足なので、このタイプの400はスタイルは好きではないが、使い勝手はいいだろうなと、未体験の二気筒感覚をおぼろげに想像したりする。メーターはタコメーターが小型で、左右アンバランスなメーターだが、気にならない。スクーター的発進力を期待したりするが、どうなのだろうか?
バイク履歴は、昔から、小に始まり、小に終わる、といわれていたが、最後の小は何に決まるか、悩みは多いものだ。
この日は早く終わったが、バイク写真を撮った折、画像確認中に、県北の現場で、1枚取り残しがあるのに気付き夕方一人バイクで撮り直しに出かけたが、フラッシュも出ずじまいの時間帯に到着できた。このときの渋滞では、冷却ファンが回るぐらいのレンジに水温計の針が位置していたが、抜けるとゆっくり常温に戻って行った。
火曜日, 10月 09, 2007
先日、例によって夜中に目覚め、静かなNHKのほうがましかと、1チャンネルを出しっぱなしにして、パソコンに向かっていたら、城山三郎氏の作家生活の経歴を発掘する番組を流していた。
文官で、東京裁判で刑死することになる広田弘毅取り上げることから始まり「落日燃ゆ」、『指揮官達の特攻』などの生まれた背景を追っていた。
画面で映しだされる表紙を見るまでもなく、「指揮官達の特攻」なら娘や家内の書棚にあったな、と思い出した。全部はよんでおらず、拾い読みをしたていどで、関大尉の項と、軍人として評価の低い富永恭次中将のあたりぐらいだ。
その日かその前日か定かでないが、東京裁判に拘わった連合国から選ばれた、各判事達、中でもインドのパール判事とオランダの判事の、裁判過程における悩みなどを解説した番組も見ていたが、パール判事などは南京大虐殺をまるまる当時の状況だから信じていても、あの結論だ。鹿児島大の某教授が、判事達が悩み苦しんで結論を出そうとした過程を検証すると、とても最初から結論が決まっていたサル芝居だとはいえないと思う、という発言を二度以上も流していたのはいただけない。
裁判の憲章をみれば、平和に対する罪、とか人道に対する罪とかで断罪すると、大上段に書いてあり、パール判事は真っ向からそれに(事後法で裁くことは論外)反対する主張は生涯変わらなかったが、その憲章にそった判決となった。最初から決まっていた方向に沿った判決を無理やりだした形だと、思う。現に裁判を仕切ったイギリス(裁判長は、オーストラリア)系は、ナチス裁判の結果が帳消しになってしまう恐れから、無理やりそういう方向に持って行かざるを得なかった、だから正当だと言わんばかりのコメントが二度以上挿入された。
安倍首相の祖父である岸信介元首相などは、生きてはこの巣鴨の門を出られないだろうと思って潜ったらしいが、七名の死刑執行の翌日くらいには、釈放となっている。後に首相となり、国賓待遇で訪米を果たし、感無量だと言っている映像を見たことがある。
また、雑誌WILLの11月号には、「パール判事」中島岳志著の解説があり、アメリカ憲法で日本の家族制度をばらばらにしてしまって、アメリカは笑いがとまらない、などの文言も挿入されている。
さらに、岸元首相は、戦後マッカーサーから逮捕状が出て、横浜の監獄に向かうとき、山口駅でいきなり
踊る神様、踊る宗教として有名だった教祖の北村サヨが現れて(以前から親交があった、という)「お前ら、何をしおたれているか、岸は三年ぐらいしたら必ず帰ってくる。日本を再建するのに絶対必要な男だから、神様は殺しはしない。」と言い放ったそうだ。これは『岸 信介の回想』(文芸春秋社)で語っていることらしい。『私はいい加減なことをいう婆さんだと思ったけど、実際三年で帰ってこられたぞ』ということらしい。神の国、ニッポン!!!。
さて、城山三郎氏の書いた「指揮官達の特攻」であるが、現地取材してかかれたそうであるが、意外なことを聞いた。表紙に特攻第一号とされた関大尉とならんで、宇垣海軍中将をのせて、玉音放送後とびたった指揮機のパイロット、中津留海軍大尉が出ているが、突入直前に機首を返して、浜辺の岩場に突っ込んだ、というのである。
整備士たちが戦争はおわったようだと言ったらしいが、皆相手にせず、午後4時過ぎに11機が飛び立ち、5機と6機にわかれて南下、うち二機はエンジントラブルで不時着水においこまれている。
攻撃目標が二転三転して、午後八時二十五分に、中津留機ともう一機が、吾奇襲ニ成功セリの打電を最後に連絡が途絶えたが、城山氏もその特攻機が海岸の岩場に急転回して突入した現場を取材におとずれている。
戦争がおわったと灯火管制を解除している米軍基地か、米軍艦船を見て、とっさに目標を変えたというのだ。沖縄本島の本部半島に近い伊平屋島の海岸だという。
二度火柱があがり米軍キャンプはパーティを中止、また暗闇に戻ったという目撃談や現地案内映像も流していた。大尉の一人娘さんも回顧談に登場して、はじめてその事実を知らされ、父親を人間として見直したそうだ。
戦後、生き残った特攻隊員たちとその家族は文字通り、石もておわれた、というところから、関大尉の母、関サカエさんの戦後がはじまる。彼女が住む家には石が投げ込まれるので、大家から退去を求められたりもした。・・・ ・・・ いとこによく似た人がいて、それが誤認され、死んだというのは嘘で、どこかに隠れて生きていたんじゃ、という誤解もあったかもしれない。昭和28年11月、あるつてで働き場所をみいだした石鎚山の奥の半寄宿制の中学と小学校を併設した学校の用務員として、買い出し途中で倒れ、戸板で運ばれたが55歳で持病の悪化により亡くなられた。軍神の母のあまりに悲しい最後であった。取材に訪れた城山氏は、その谷間があまりに深くて、ただ仰ぐぐらいでは空が目に入らない、と書いている。「飛行機乗りとして特攻死した息子のことを思い出させまいとするかのように、あまりにも狭い空。痛ましくて見ていられぬ小さな空であった」と書かれている。
そんなこんなで、新発見をしたかのような感に囚われていったのであるが、産経新聞社のウエブ版正論談話室を昨日覗いたら、投稿から、私と感性が似ておられると感じているS氏の二編の投稿をみて、また話しがつながる事実を知った。
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/top_display.cgi
時の流れのままに、から
『今夏、ほぼ同時に出版された若い女性著者による特攻隊の本を読んだ。『8月15日の特攻隊員』(吉田紗知)と『知覧からの手紙』(水口文乃)の2冊です(いずれも新潮社)。両書とも、昭和20年4月から終戦の日の夕方特攻出撃し散華した勇者二人の若すぎた人生を追ったものです。
この両書を読んで感じたことは、人の一生は時代の大きな流れに左右されるものであり、この流れに逆らうことは出来ないということです。この二人の若人に象徴されるように、昭和19年秋にフィリッピンで始まり終戦の日の夕方に終わった特攻作戦では、敗色濃厚な日本国を救うために、およそ4500名もの未来ある若者たちが、時代の流れに翻弄されながら散華しました。
左傾勢力にのっとられた小沢民主党は、参院選挙で上手く国民を騙し勝ったことをいいことに、国民の半数以上が賛成している「テロ特措法継続」に、アーだコーだと戯言を並べて反対しています。日本は憲法9条により血を流す人的貢献が出来ない以上、情けないことながら、次善の策としてインド洋の“ガソリンスタンド屋”になるのは、止むを得ないことであり、国民の多くもそう見ています』
・・・ ・・・ ・・・
『『8月15日の特攻隊員』は東京の女子大で国際関係論を専攻していた著者が、田舎の法事で曽祖父の末弟であった大木正夫上飛曹(海軍 享年21才)が、終戦の昭和20年8月15日夕方、宇垣中将率いる彗星艦爆特攻隊員の一員として沖縄で戦死したことを知ります。そこから、“予科練”の意味すら知らなかった彼女による、大木上飛曹の最後を突き止める懸命の旅が始まった。
生き残りの特攻隊員の話を聞き、防衛研究所で旧軍関係文書を紐解きながら、インターネットを活用して、米国在住元米兵から大木上飛曹と同じ特攻隊員の一員として戦死した後藤上飛曹が、沖縄本島沖の伊平屋島の砂地に突入したことを示す救命胴衣や飛行機のジュラルミン破片の写真を入手します。また、旧軍関係者から、笑顔を見せながらトラックに乗り最後の特攻出撃のため飛行場に向う四人の特攻隊員の写真を見せてもらい、そこに大木上飛曹の顔を発見するのです(四人とも当日数時間後に戦死)。この写真は同書の表紙を飾っていますが、涙なしに見ることは出来ません。
同じ題材の『指揮官たちの特攻』(城山三郎 平成13年 新潮社)によれば、伊平屋島に突入した特攻機2機のうち、一機は「左の岩礁へ、一機は(中略)米軍キャンプを避けて水田へ」突っ込んだとあります。一方、吉田さんの調査では、後藤上飛曹機の突入場所は写真を撮った元米兵から、「a sandy hill just outside of an Army Camp」(米軍キャンプ外側の砂の丘)と回答がありましたが、田んぼに馴染みのない米軍兵士が「田んぼと砂丘」を間違えた可能性もあります。いずれにしても残る一機(宇垣中将、中津留大尉、遠藤飛曹長)は、大きな岩礁近くの海中に突入したことは今回の吉田さんの調査でも確認されました。』
『次に、『知覧からの手紙』はフリー記者の水口さんが、昭和20年4月に知覧特攻基地から出撃し沖縄海域で戦死した穴沢利夫少尉(陸軍 享年 23歳)の婚約者だった伊達智恵子さんの生き様を、智恵子さんの一人語り口調で書いたものです。穴沢少尉と言えば、ご存知の方もいるでしょう。数年前に扶桑社から出版された中学生用歴史教科書(「新しい歴史教科書をつくる会」編集)に載っていた、知覧高女の女学生達が振る桜花に見送られながら、敬礼しつつ離陸中の一式戦闘機の搭乗員が穴沢少尉、その人でした。』
・・・ ・・・ ・・・
『その後二人は婚約し、彼女は特攻基地を転々とする穴沢少尉の後を追い面会に行くのですが、結局会えずに終戦を迎えます。戦後結婚し、ご主人に先立たれた彼女は今でも穴沢少尉の吸ったタバコの吸殻と写真を持っていて「利夫さんの存在を近くに感じている」という。なんという残酷な人生であったのか。時代が違うと言えばそれ迄ですが、安逸な世の中と生活に慣れてしまった小生は、深い哀悼と同情の念を禁じえないのであります。』
文官で、東京裁判で刑死することになる広田弘毅取り上げることから始まり「落日燃ゆ」、『指揮官達の特攻』などの生まれた背景を追っていた。
画面で映しだされる表紙を見るまでもなく、「指揮官達の特攻」なら娘や家内の書棚にあったな、と思い出した。全部はよんでおらず、拾い読みをしたていどで、関大尉の項と、軍人として評価の低い富永恭次中将のあたりぐらいだ。
その日かその前日か定かでないが、東京裁判に拘わった連合国から選ばれた、各判事達、中でもインドのパール判事とオランダの判事の、裁判過程における悩みなどを解説した番組も見ていたが、パール判事などは南京大虐殺をまるまる当時の状況だから信じていても、あの結論だ。鹿児島大の某教授が、判事達が悩み苦しんで結論を出そうとした過程を検証すると、とても最初から結論が決まっていたサル芝居だとはいえないと思う、という発言を二度以上も流していたのはいただけない。
裁判の憲章をみれば、平和に対する罪、とか人道に対する罪とかで断罪すると、大上段に書いてあり、パール判事は真っ向からそれに(事後法で裁くことは論外)反対する主張は生涯変わらなかったが、その憲章にそった判決となった。最初から決まっていた方向に沿った判決を無理やりだした形だと、思う。現に裁判を仕切ったイギリス(裁判長は、オーストラリア)系は、ナチス裁判の結果が帳消しになってしまう恐れから、無理やりそういう方向に持って行かざるを得なかった、だから正当だと言わんばかりのコメントが二度以上挿入された。
安倍首相の祖父である岸信介元首相などは、生きてはこの巣鴨の門を出られないだろうと思って潜ったらしいが、七名の死刑執行の翌日くらいには、釈放となっている。後に首相となり、国賓待遇で訪米を果たし、感無量だと言っている映像を見たことがある。
また、雑誌WILLの11月号には、「パール判事」中島岳志著の解説があり、アメリカ憲法で日本の家族制度をばらばらにしてしまって、アメリカは笑いがとまらない、などの文言も挿入されている。
さらに、岸元首相は、戦後マッカーサーから逮捕状が出て、横浜の監獄に向かうとき、山口駅でいきなり
踊る神様、踊る宗教として有名だった教祖の北村サヨが現れて(以前から親交があった、という)「お前ら、何をしおたれているか、岸は三年ぐらいしたら必ず帰ってくる。日本を再建するのに絶対必要な男だから、神様は殺しはしない。」と言い放ったそうだ。これは『岸 信介の回想』(文芸春秋社)で語っていることらしい。『私はいい加減なことをいう婆さんだと思ったけど、実際三年で帰ってこられたぞ』ということらしい。神の国、ニッポン!!!。
さて、城山三郎氏の書いた「指揮官達の特攻」であるが、現地取材してかかれたそうであるが、意外なことを聞いた。表紙に特攻第一号とされた関大尉とならんで、宇垣海軍中将をのせて、玉音放送後とびたった指揮機のパイロット、中津留海軍大尉が出ているが、突入直前に機首を返して、浜辺の岩場に突っ込んだ、というのである。
整備士たちが戦争はおわったようだと言ったらしいが、皆相手にせず、午後4時過ぎに11機が飛び立ち、5機と6機にわかれて南下、うち二機はエンジントラブルで不時着水においこまれている。
攻撃目標が二転三転して、午後八時二十五分に、中津留機ともう一機が、吾奇襲ニ成功セリの打電を最後に連絡が途絶えたが、城山氏もその特攻機が海岸の岩場に急転回して突入した現場を取材におとずれている。
戦争がおわったと灯火管制を解除している米軍基地か、米軍艦船を見て、とっさに目標を変えたというのだ。沖縄本島の本部半島に近い伊平屋島の海岸だという。
二度火柱があがり米軍キャンプはパーティを中止、また暗闇に戻ったという目撃談や現地案内映像も流していた。大尉の一人娘さんも回顧談に登場して、はじめてその事実を知らされ、父親を人間として見直したそうだ。
戦後、生き残った特攻隊員たちとその家族は文字通り、石もておわれた、というところから、関大尉の母、関サカエさんの戦後がはじまる。彼女が住む家には石が投げ込まれるので、大家から退去を求められたりもした。・・・ ・・・ いとこによく似た人がいて、それが誤認され、死んだというのは嘘で、どこかに隠れて生きていたんじゃ、という誤解もあったかもしれない。昭和28年11月、あるつてで働き場所をみいだした石鎚山の奥の半寄宿制の中学と小学校を併設した学校の用務員として、買い出し途中で倒れ、戸板で運ばれたが55歳で持病の悪化により亡くなられた。軍神の母のあまりに悲しい最後であった。取材に訪れた城山氏は、その谷間があまりに深くて、ただ仰ぐぐらいでは空が目に入らない、と書いている。「飛行機乗りとして特攻死した息子のことを思い出させまいとするかのように、あまりにも狭い空。痛ましくて見ていられぬ小さな空であった」と書かれている。
そんなこんなで、新発見をしたかのような感に囚われていったのであるが、産経新聞社のウエブ版正論談話室を昨日覗いたら、投稿から、私と感性が似ておられると感じているS氏の二編の投稿をみて、また話しがつながる事実を知った。
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/top_display.cgi
時の流れのままに、から
『今夏、ほぼ同時に出版された若い女性著者による特攻隊の本を読んだ。『8月15日の特攻隊員』(吉田紗知)と『知覧からの手紙』(水口文乃)の2冊です(いずれも新潮社)。両書とも、昭和20年4月から終戦の日の夕方特攻出撃し散華した勇者二人の若すぎた人生を追ったものです。
この両書を読んで感じたことは、人の一生は時代の大きな流れに左右されるものであり、この流れに逆らうことは出来ないということです。この二人の若人に象徴されるように、昭和19年秋にフィリッピンで始まり終戦の日の夕方に終わった特攻作戦では、敗色濃厚な日本国を救うために、およそ4500名もの未来ある若者たちが、時代の流れに翻弄されながら散華しました。
左傾勢力にのっとられた小沢民主党は、参院選挙で上手く国民を騙し勝ったことをいいことに、国民の半数以上が賛成している「テロ特措法継続」に、アーだコーだと戯言を並べて反対しています。日本は憲法9条により血を流す人的貢献が出来ない以上、情けないことながら、次善の策としてインド洋の“ガソリンスタンド屋”になるのは、止むを得ないことであり、国民の多くもそう見ています』
・・・ ・・・ ・・・
『『8月15日の特攻隊員』は東京の女子大で国際関係論を専攻していた著者が、田舎の法事で曽祖父の末弟であった大木正夫上飛曹(海軍 享年21才)が、終戦の昭和20年8月15日夕方、宇垣中将率いる彗星艦爆特攻隊員の一員として沖縄で戦死したことを知ります。そこから、“予科練”の意味すら知らなかった彼女による、大木上飛曹の最後を突き止める懸命の旅が始まった。
生き残りの特攻隊員の話を聞き、防衛研究所で旧軍関係文書を紐解きながら、インターネットを活用して、米国在住元米兵から大木上飛曹と同じ特攻隊員の一員として戦死した後藤上飛曹が、沖縄本島沖の伊平屋島の砂地に突入したことを示す救命胴衣や飛行機のジュラルミン破片の写真を入手します。また、旧軍関係者から、笑顔を見せながらトラックに乗り最後の特攻出撃のため飛行場に向う四人の特攻隊員の写真を見せてもらい、そこに大木上飛曹の顔を発見するのです(四人とも当日数時間後に戦死)。この写真は同書の表紙を飾っていますが、涙なしに見ることは出来ません。
同じ題材の『指揮官たちの特攻』(城山三郎 平成13年 新潮社)によれば、伊平屋島に突入した特攻機2機のうち、一機は「左の岩礁へ、一機は(中略)米軍キャンプを避けて水田へ」突っ込んだとあります。一方、吉田さんの調査では、後藤上飛曹機の突入場所は写真を撮った元米兵から、「a sandy hill just outside of an Army Camp」(米軍キャンプ外側の砂の丘)と回答がありましたが、田んぼに馴染みのない米軍兵士が「田んぼと砂丘」を間違えた可能性もあります。いずれにしても残る一機(宇垣中将、中津留大尉、遠藤飛曹長)は、大きな岩礁近くの海中に突入したことは今回の吉田さんの調査でも確認されました。』
『次に、『知覧からの手紙』はフリー記者の水口さんが、昭和20年4月に知覧特攻基地から出撃し沖縄海域で戦死した穴沢利夫少尉(陸軍 享年 23歳)の婚約者だった伊達智恵子さんの生き様を、智恵子さんの一人語り口調で書いたものです。穴沢少尉と言えば、ご存知の方もいるでしょう。数年前に扶桑社から出版された中学生用歴史教科書(「新しい歴史教科書をつくる会」編集)に載っていた、知覧高女の女学生達が振る桜花に見送られながら、敬礼しつつ離陸中の一式戦闘機の搭乗員が穴沢少尉、その人でした。』
・・・ ・・・ ・・・
『その後二人は婚約し、彼女は特攻基地を転々とする穴沢少尉の後を追い面会に行くのですが、結局会えずに終戦を迎えます。戦後結婚し、ご主人に先立たれた彼女は今でも穴沢少尉の吸ったタバコの吸殻と写真を持っていて「利夫さんの存在を近くに感じている」という。なんという残酷な人生であったのか。時代が違うと言えばそれ迄ですが、安逸な世の中と生活に慣れてしまった小生は、深い哀悼と同情の念を禁じえないのであります。』
月曜日, 10月 08, 2007
自転車通勤にも、半月ほど経過したのでだいぶ慣れてきた。体はまだまだ慣れが必要だと感じているが。
1週間ほどして、ハンドルのグリップ位置が少し高いことに気付いた。ためしに、その下のブレーキレバーを軽く持って走ると、ずいぶん姿勢やペダルをこぐ力が楽に感じる。それで、この連休、バイクの車載工具をしらべたら、丁度あう差し込み式の6角レンチが出てきたので、ハンドル位置を最初のブレーキレバー位置あたりまで下げてみた。
すると、手首が自然で、ハンドルを90度くらい切るときに、膝にあたりそうになる以外は問題はなさそうであった。まだ2日だが、肘が脇腹に近くなり、重心がまとまると言うかこぐ際に力が自然にへそ下あたりからわき出る感じで、スピードもあげやすいことがわかった。今まではハンドルのグリップ部が水平で少し高いので手首を曲げていて、不自然で、強くグリップを握りがちで、バランスも肘が左右に張りだしぎみでとりづらい面もあったようだ。
ただ、スピードが出る分、とうぜんそれは疲れがでやすく、夜良く眠れるというか睡眠時間が少し長くなるようであった。
社内では、どうせ数日で根をあげるだろうとの見方がもっぱらだった、との噂も一時あったようだが、sho様のページでも触れていただいたように(http://www.geocities.jp/shonaka2001/touring85.html)続けていきたい、とおもっている。
まだ、体重のほうも2〜3キロ減っただけで、当面の目標10キロ減量とはほど遠い。あと半月でどうなるか。2〜3キロの減量はだれでもできるのだろうが、そこから先がどういう方法をとるにしろ問題のように感じている。
年を重ねてきたので、朝は早く眼が醒めることがおおく、そういう時間帯は、通信販売の紹介番組が多く、痩せるための室内トレーニング道具の紹介も少なくない。乗馬のシュミレーションとか、何度も何気なく見ていて、刷り込まれたことも、一念発起の遠因だったのかもしれない、と最近思っている。
バイクや車は交通の流れを強く意識して走っているので、路傍のちょっとした異変というか変化など全然気がつかなくて走っていて、それはなんど同じ道を通っても変わらない。自転車のスピードだと、水路の川水の匂いや看板、歩道の植え込みの奥にさらに蛇行した遊歩道があったりなどと周囲の状況が自然と解ってくる。店や会社の名前などもいつの間にか覚えてしまう。
今朝は早朝テレビで「輪行」ということを取り上げ、2日間の輪行をレポートしていた。
字はたぶんこうだろうと思って検索したらすぐ出てきた。http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=輪行&btnG=検索&lr=
『輪行(自転車を分解して持っていく)列車、飛行機、バス、タクシー 自転車ツーリングでは列車や飛行機に自転車を乗せて一緒に出かけることができます。自転車を分解して袋に入れて列車や飛行機に乗せることができます。』
『輪行作業をする場所 分解した自転車は10kg以上あります。荷物と合わせて15kgぐらいになることもあるでしょう。この荷物を担いで改札からホームまで歩くのは慣れないと結構大変です。ですから自転車は軽く、荷物は少なく、自転車の分解は駅のなるべく近く・・・』
などといろいろでておりました。
老人たちの平均年齢は70以上、それに紅一点で若い女性がまじり五名で、上野から佐原まで電車で自転車を運び、そこから、茨城県をとおって、1泊2日で銚子の犬吠埼灯台をめざすルートのレポートだ。
クロスバイクとして、女性が使用した組み立て自転車が紹介されていた。スポーツサイクルの入門車として人気があり、通勤、通学の手段として選ぶ人も多い、と字幕で紹介されていた。泥よけはついていない。
私の知る限りでも、会社関係で、スポーツサイクルにこっておられる方がおり、朝日グラフだかそうした雑誌にも登場された方が居る。10台くらいのスポーツサイクルを所有され、当時で1300万以上つぎ込んでいる、ということだった。コースにより、車体を選び、剛性が高いものや、しなりやすいものなどを使いわけるのだという。日帰りがメインらしいが、その夜のビールの味が格別だとはお決まりの締めの文句であった。私がMac貧乏で、昼飯抜きという時代、この先輩も昼飯抜きだったが、まさかそこまでして節約していたわけではあるまい。奥さんは某協会勤務で、御主人より高級取りという噂もあった方だ。
さて、輪行のメンバーたち、一日平均30キロ以上走るので、やはり御尻が痛くなりますよ、と出発前のミーティングで、女性の参加者に説明している老人がいた。また、若いときからスピード狂できたが、自転車だとまわりがすべてわかるんだ、という話しもあり、共感が持てた。
私の尻の痛みは、当初からはだいぶ後退したが、先日車で帰るときも、痛かった二ヶ所がズキン、ズキンと血流が盛んに起こっていることに気付いたので、風呂場の鏡で、おそるおそる普段はぜったい見ない自分の臀部をみたら、そこだけ赤くなり、凸レンズを押し付けたように凹んでおりました。早く痩せたい思い(重い)がずしりと心の奥底によどむ。
茨城県内の旅館に1泊した一行は翌日8時に出発。そうそう、就寝は10時でした。途中、銚子近くの『犬若食堂』さんで大きなアジフライが数尾ついてくる定食をぱくついておりました。ご老人たちも食欲旺盛。元気のもとですからとうぜんとしても、グループで行くといっそうおいしいだろうな、とよだれが滲んできました。私も仕事で、この辺の旅館に泊まったら、食事がよくてびっくりした経験がありますが、一般論ではないですから、・・・。
佐原から犬吠埼まで全行程60キロ、利根川を二度もこえ、途中船旅で(100円)川を渡るシーンもありました。堤防沿いの道を堤防下からカメラで追うシーンが印象的。黒皮の手袋やウエアから、最新映像かと思いましたが、画像を後で確認したら、路傍に菜の花が数本うつっていたり、田んぼの状態から春先だとわかりました。一行の一人も、早春というには、少し遅くなりましたが、と発言されるのをみて、三月末あたりかと、・・・。今ごろこの時間帯に放映しているのは、再放送なのかもしれない、と後できづいた次第。
エコロジカルかもしれないが、自転車のお値段や旅費などを考慮すると、エコノミーな趣味とはいいがたい面もありそうな、単純だが奥深いご趣味のように感じました。
その点、バイクのほうが、エコノミーな面もあり、車よりエコロジー的に優れているが、最近軽自動車も無視できない。縮み志向の日本人といわれる面もあずかっているかもしれない。
私も一日30キロ以上走るわけだが、ほかに差しさわりがない限度のような気がしている。休みの日に遠出しようなどとは、まず思いもよらない。ビッグ1に申し訳ない。BMWの単車など、きちんと整備すれば孫の代まで持つという。もち続ける情熱が萎えないよう、自転車通勤で頑張りたい。
金曜日, 10月 05, 2007
放射性同位元素C14によって存在が証明された極小期
マウンダーの指摘した謎の70年間は、記録の欠如というようなものではなく、確かに何かの異変を示している。そこで、古記録の示す太陽黒点の変化が、この地球上にどのような影響を与えたかに関心が集まることになるであろう。
炭素の放射性同位元素は、おもに地球の上層で、銀河系を飛び交う宇宙線の作用によって、窒素原子から作られるという。その宇宙線の流れは、太陽活動によって影響をうけ、たとえば活動が活発なときには、磁場の作用によって宇宙線が地球から遮蔽され、生成される炭素14の量がへり、反対に活発なときは増加することになる、とされている。
過去にどれくらいの炭素14が大気中にあったかを測定できれば、太陽活動の程度が予測できることになる。生物の体内に、通常の炭素12とともに取り込まれた炭素14は、生物体内で半減期(だいたい、5570年といわれる)にしたがい崩壊してゆき、もとの窒素に戻って行く。その通常の炭素12と崩壊してゆく炭素14の比率から年代の推定が可能となるわけだが、逆に年代のわかっている物質を分析できれば、その時代の放射性同位元素割合がわかる。
この関係から太陽活動の変化を読み取ることが可能となる、と解説されている。
樹木の年輪は、樹齢を知るだけでなく、いろいろな過去の気象の影響を蓄積している。炭素14による年代測定は1940年代後半に始まったというから、その歴史は人間で言えば還暦に相当する年数の経過を経ている。1958年にオランダのヘッセル・ド・フリースが、17世紀鋼板から18世紀前半にかけて年輪中の炭素14の存在比に著しい異常のあることを最初に発表した、という。この異常は、炭素14の存在比がマウンダー極小期に急激に増加しているといい、それはすなわち、太陽活動のこの間、きわめて静かであることを意味する、とエディ氏は説明している。
どういうわけか、当時このデータはあまり歓迎されなかった、という。しかし、今では世界中の樹木の年輪でそのことが確認されている、という。炭素14はいわば世界中の木々に太陽の活動記録を残していることになる。
学名をピヌス・アリスタータというマツは、世界中でもっとも古い現世生物で、このマツの年輪を分析することによって、少なくとも紀元前5000年までの炭素14の記録をさかのぼることができるという。
わたしたちは、マウンダー極小期を謎解きに用いて、ルイ14世やガリレオの時代よりはるかに古い約7000年も昔の青銅器時代以前にまで、太陽の長い隠された歴史を解読できることになった、とエディ氏は誇らしげに書いている。よく犯罪捜査では、ひとつの事件の解決が、より大きな問題を白日下にさらすことが起きるが、このマウンダーの論文の検討は、まさにそういうケースとなったわけである。
結果から原因をさぐる問題を、一般に逆問題といい、たとえばボケ画像から、もとの画像を復元したりすることができる。この例は、アメリカ映画でも使用され、コンピュータで一週間近くかけて、死体のわきに残されていたポラロイド画像から、写された人物(ケビン・コスナー主演)の画像を復元していた。
また、医学では心臓の電位変化などから、心臓病の特性をすいていしたりと、コンピュータと関連していろいろ利用されているが、火事場での出火原因の特定や、犯罪捜査なども典型的な逆問題のひとつと
いわれる。演繹の推論と帰納の推論とを組み合わせて、原因を突き止めて行く。歴史学も、基本的にそうした性格をもつが、人々はあまりそうした側面に注意を払わず、主観に偏った解釈を広めようとしたりする。
従軍慰安婦決議とか、集団自決問題への解釈なども、結果から原因を主観的に決めようと、特に主張する陣営にとって有利な解釈を結論付けようとする運動から起こる、といっても過言ではないような気がする。変な方向にまたまた脱線してしまったが、逆問題は大変に面白い側面をもつ。
過去5000年の間、マウンダー極小期のような太陽活動の異常期が、少なくとも12回は生じている、という。それらは50年から数百年におよんでいる、という。マウンダー極小期と比較されるもう一例がシュペーター極商機で、これは1400年から1510にかけて続いた、という。この期間にはオーロラや肉眼による黒点の報告はほとんどなく、また皆既日食時の観測に構造を示すコロナ報告もまったくなかった、という。
いっぽう、異常に活発な太陽活動の存在も明らかになった。数千年を尺度とすれば、現在の太陽はかなり活発なほうに分類されるが、これをはるかに上回る期間も中世にはあった。およそ1100年から1300年にかけての極大期である。歴史学でも、12世紀は荘園がどんどん開墾されたり、人類活動の活発期にも当たっている。
エディ氏の考察では、現代は活発なほうの変動期にあたり、1959年に史上最大の黒点が観測されたが、これがピークなのかどうかは、まだわからない、という。
また炭素14も、近代以降の石炭や石油の燃焼により、現代の炭素14の生成が不自然になっている、という。ちなみに、寒い時期と暖かい時期の炭素14の存在比のグラフでは、寒いときで約20%近く増加し、暖かいときには15%程度の減少を示している。
話のついでにいえば、大気中の酸素は大部分が原子量16の酸素16だが、ごく微量の重酸素18がある、という。酸素16と酸素18の比は、大気の温度によって変化し、気温が高いと酸素18は増加するという。それで、やはり各年輪に含まれているその存在比をしらべれば、対応する特定年度の気温が推測できる、という指摘もある(「年輪の証明」、高橋宏明著、1979年、地産出版)。
アメリカのリビー夫人がやはり戦後創始した方法で、彼女は屋久島の千年スギについてそれをやりとげ、9~17世紀にわたる気温変化のグラフを発表した。2.5度Cくらいの幅での変化であるが、・・・。
この高橋氏の著書にも、最近やかましい『地球は冷えて行くか』、『温まりつつあるか』についても有力な示唆がえられるのではないか、とあるようにその頃から、地球の温暖化説と、氷河期にむかっている、という説とが対立していた。最近は、いわゆる温室化ガスの増加と思える温暖化が進行しているように見えるのだが、果たして、予測どおりに行くのかどうか、これは逆問題でも解けない未来予測ではある。
マウンダーの指摘した謎の70年間は、記録の欠如というようなものではなく、確かに何かの異変を示している。そこで、古記録の示す太陽黒点の変化が、この地球上にどのような影響を与えたかに関心が集まることになるであろう。
炭素の放射性同位元素は、おもに地球の上層で、銀河系を飛び交う宇宙線の作用によって、窒素原子から作られるという。その宇宙線の流れは、太陽活動によって影響をうけ、たとえば活動が活発なときには、磁場の作用によって宇宙線が地球から遮蔽され、生成される炭素14の量がへり、反対に活発なときは増加することになる、とされている。
過去にどれくらいの炭素14が大気中にあったかを測定できれば、太陽活動の程度が予測できることになる。生物の体内に、通常の炭素12とともに取り込まれた炭素14は、生物体内で半減期(だいたい、5570年といわれる)にしたがい崩壊してゆき、もとの窒素に戻って行く。その通常の炭素12と崩壊してゆく炭素14の比率から年代の推定が可能となるわけだが、逆に年代のわかっている物質を分析できれば、その時代の放射性同位元素割合がわかる。
この関係から太陽活動の変化を読み取ることが可能となる、と解説されている。
樹木の年輪は、樹齢を知るだけでなく、いろいろな過去の気象の影響を蓄積している。炭素14による年代測定は1940年代後半に始まったというから、その歴史は人間で言えば還暦に相当する年数の経過を経ている。1958年にオランダのヘッセル・ド・フリースが、17世紀鋼板から18世紀前半にかけて年輪中の炭素14の存在比に著しい異常のあることを最初に発表した、という。この異常は、炭素14の存在比がマウンダー極小期に急激に増加しているといい、それはすなわち、太陽活動のこの間、きわめて静かであることを意味する、とエディ氏は説明している。
どういうわけか、当時このデータはあまり歓迎されなかった、という。しかし、今では世界中の樹木の年輪でそのことが確認されている、という。炭素14はいわば世界中の木々に太陽の活動記録を残していることになる。
学名をピヌス・アリスタータというマツは、世界中でもっとも古い現世生物で、このマツの年輪を分析することによって、少なくとも紀元前5000年までの炭素14の記録をさかのぼることができるという。
わたしたちは、マウンダー極小期を謎解きに用いて、ルイ14世やガリレオの時代よりはるかに古い約7000年も昔の青銅器時代以前にまで、太陽の長い隠された歴史を解読できることになった、とエディ氏は誇らしげに書いている。よく犯罪捜査では、ひとつの事件の解決が、より大きな問題を白日下にさらすことが起きるが、このマウンダーの論文の検討は、まさにそういうケースとなったわけである。
結果から原因をさぐる問題を、一般に逆問題といい、たとえばボケ画像から、もとの画像を復元したりすることができる。この例は、アメリカ映画でも使用され、コンピュータで一週間近くかけて、死体のわきに残されていたポラロイド画像から、写された人物(ケビン・コスナー主演)の画像を復元していた。
また、医学では心臓の電位変化などから、心臓病の特性をすいていしたりと、コンピュータと関連していろいろ利用されているが、火事場での出火原因の特定や、犯罪捜査なども典型的な逆問題のひとつと
いわれる。演繹の推論と帰納の推論とを組み合わせて、原因を突き止めて行く。歴史学も、基本的にそうした性格をもつが、人々はあまりそうした側面に注意を払わず、主観に偏った解釈を広めようとしたりする。
従軍慰安婦決議とか、集団自決問題への解釈なども、結果から原因を主観的に決めようと、特に主張する陣営にとって有利な解釈を結論付けようとする運動から起こる、といっても過言ではないような気がする。変な方向にまたまた脱線してしまったが、逆問題は大変に面白い側面をもつ。
過去5000年の間、マウンダー極小期のような太陽活動の異常期が、少なくとも12回は生じている、という。それらは50年から数百年におよんでいる、という。マウンダー極小期と比較されるもう一例がシュペーター極商機で、これは1400年から1510にかけて続いた、という。この期間にはオーロラや肉眼による黒点の報告はほとんどなく、また皆既日食時の観測に構造を示すコロナ報告もまったくなかった、という。
いっぽう、異常に活発な太陽活動の存在も明らかになった。数千年を尺度とすれば、現在の太陽はかなり活発なほうに分類されるが、これをはるかに上回る期間も中世にはあった。およそ1100年から1300年にかけての極大期である。歴史学でも、12世紀は荘園がどんどん開墾されたり、人類活動の活発期にも当たっている。
エディ氏の考察では、現代は活発なほうの変動期にあたり、1959年に史上最大の黒点が観測されたが、これがピークなのかどうかは、まだわからない、という。
また炭素14も、近代以降の石炭や石油の燃焼により、現代の炭素14の生成が不自然になっている、という。ちなみに、寒い時期と暖かい時期の炭素14の存在比のグラフでは、寒いときで約20%近く増加し、暖かいときには15%程度の減少を示している。
話のついでにいえば、大気中の酸素は大部分が原子量16の酸素16だが、ごく微量の重酸素18がある、という。酸素16と酸素18の比は、大気の温度によって変化し、気温が高いと酸素18は増加するという。それで、やはり各年輪に含まれているその存在比をしらべれば、対応する特定年度の気温が推測できる、という指摘もある(「年輪の証明」、高橋宏明著、1979年、地産出版)。
アメリカのリビー夫人がやはり戦後創始した方法で、彼女は屋久島の千年スギについてそれをやりとげ、9~17世紀にわたる気温変化のグラフを発表した。2.5度Cくらいの幅での変化であるが、・・・。
この高橋氏の著書にも、最近やかましい『地球は冷えて行くか』、『温まりつつあるか』についても有力な示唆がえられるのではないか、とあるようにその頃から、地球の温暖化説と、氷河期にむかっている、という説とが対立していた。最近は、いわゆる温室化ガスの増加と思える温暖化が進行しているように見えるのだが、果たして、予測どおりに行くのかどうか、これは逆問題でも解けない未来予測ではある。
ようやく秋らしくなってきた。平日に休みをとったらしくツーリングしていると思われるバイクもよく見かけるようになってきた。関東地方は、先週の日曜日は終日大雨でとてもでかけるどころではなかった。そうでなくとも、ツーリングの季節を実感するライダーが多いのはじじつのような気がする昨今だ。
たまたま後からCB1300と思われるバイクが走って来るのがわかった。あっというまに抜かれると思ったが、そうでもないらしい。もしかしたら、携帯で撮れるかもしれないと思い、用意する。抜かれやすいように左を開けて走ると案の定、抜いて前へ出てくれた。しかも信号が赤となり、何とか一枚撮ることができた。最近は、このタイプの水冷1300がやはり一番よく見かける。
撮ったときは気がつかなかったが、17インチタイヤでも、足がやっと着く状態のようだ。撮影は川越市内だが、ナンバーは都内のCナンバーだったから、さいたま市を経由して来たのだろう。慎重な操縦の理由がわかるような気がした。
自転車通勤を始めて、ビッグ1で通勤することが何かこっけいなことのような気がしてきた。自転車で、舗装の程度の悪い狭い歩道を、バランスをとりながらよいしょ、よいしょと走っていると当然のことながら、原付でさえいとも軽々と抜いて行く。後にから近づいてくる爆音は、この体格の私でさえ、片道20キロ以下なら原付でじゅうぶんではないか、と思える。80ccあたりならまさに理想のような気さえしてくる。スクーターよりもカブタイプがいいなあ、と思えた。近所でも、ヤマハの黄色ナンバーとホンダの250と所有しておられる方が、ゴミだしにもカブでいく音を聞いていると、いい排気音だといつも思っているので、なおさらだ。
それにしても、最初1時間20分はたっぷりかかった通勤も最近は時には1時間前後で済むことも。通常は1時間10分プラス・マイナス5分というあたり。それで、ビッグ1も毎日止められたままで、一週間に一度くらいしか動かすことはなくなった。それで、自転車通勤のルートに忠実に距離を測ったら16キロちょっとしかなかった。自転車の速度は、時速15キロ程度だとわかる。ビッグ1でも30分ほどだから、自転車も、その半分の速度だということになる。通勤で使用していると、朝はどんなに寒くても暖機もしないで走り出し、渋滞に出会い、バイクらしくない使い方に終始していたことに疑問をもった。このバイク本来の使い方はそうではないだろうと思うようになってきた。毎日利用するなら、カブで十分な気がする。以前、スズキの750で、片道50キロほどを毎日、雪の日でも走り、あっというまに10万キロほどを走ってしまった方の記録が、バイク雑誌に連載されたことがあったが、片道50キロなら原付では、手が振動で白蝋病になってしまうかもしれない。
今日はこのごろではめずらしく天気がよく、ビッグ1を動かすには最適と思い、午前中車でいくところをバイクで行った。渋滞はとっくに終わっているので、思うがままに走れる。平日の遠出は、やってしまうと病みつきになりそう。信号で止っても、背後のトラックからの視線を強く感じる。少し吹かしてみて改めていままでいかに回さないで使っていたか痛感する。これからは、まとめて走るツーリングタイプの使用法に活路を見いだすしかないな、と改めて再発見した。
午後は車で仕事に。カーラジオでバイク王のCMキャラクターに女性から男性の藤井フミヤさんとその弟さんに決まったと発表があった。今ならバイク王にも売れるかな、という思いが頭をよぎる。しかし、それで、カブに変えようとまでは、今は思わない。単身赴任の家内が帰ってきて、バイク売ってしまったのと?と聞く眼は、まさか嘘でしょ!?とでも言っているようにも思えた。
http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/music/story/20071003hochi160/
『ライダー歴20年ほどで、今でもツーリングを楽しんでいるというフミヤは「やんちゃな気持ちになれる。体を使って乗りこなすので一体感があるし、孤独にもなれるし」と満喫。「ヘルメットをかぶると誰にもばれないですから、アイドル時代には助けられましたね」と思い出話で笑わせた。』
やんちゃな気持ちとは、今までの通勤では思いもしなかった気持ちで、しかもそれが私の場合も、そうした使用法が正しいビッグ1の使い方なのかなあとも思い始めている。藤井氏が跨がったバイクはトライアンフの改造車のようにも見えたが。
水曜日, 10月 03, 2007
ハレー彗星に名を残した17世紀の天文学者、エドモンド•ハリーは、その生涯のほとんどを、太陽黒点の極端に少ない、マウンダー極小期に送っている。オーロラは、太陽黒点と関係が深く、マウンダー極小期にはほとんど見られず人々は不思議がった、という。
ハリーはオーロラの記録のない37年の後、やっと1716年3月にイギリスでオーロラが見られたとき、ちょうど王室天文学者の職務にあった。そこで、彼はオーロラ現象を説明する論文を書くことになった。
当時、ハリーは60歳、論文の中で、彼の長い経験の中で、それまで一度もオーロラは見たことがなかったことを告白している、という。76年周期の彗星といい、彼はその点で幸運な学者であったのかもしれない。
エディ氏は、オーロラの記録を統計処理してみると、70年にわたるマウンダー極小期、すなわち太陽活動極小期の存在がはっきりする、と述べている。また、望遠鏡観測が始まる前の黒点観測は、東洋で古くから肉眼観測されて記録に残っていたので、早い時代のオーロラ観測と東洋での黒点観測の記録を照合してみると、両者とも共通する増減が浮き彫りにされた、という。
その結果、エディ氏は次のような確信を持った、という。すなわち、まず第一に、長い目で見て、現在の黒点やオーロラの発生頻度はたぶん異常なものであること、第二に、17世紀以来太陽の活動の度合いは着実に非常に高いレベル、つまり過去千年の歴史において、おそらく他に比肩されるもののない高いレベルまで、上昇し続けて来たのではないか、ということだと言う。
彼が研究に用いた東洋の黒点の肉眼観測というのは、古いものでは紀元前5世紀には記録が現れ、その後規則的に報告されているという。
大きな黒点や黒点群は、日の出や日没時、あるいは煙などでかすんで見えるとき、肉眼でもかなり見ることができる、という。石油文明など無縁な時代のことであるから、その気になればさぞかしよく観察されたであろうことも、疑い得ない。
このような肉眼による観測記録を、1933年に日本人の神田茂氏が一つのリストにまとめている、という。日本、中国、朝鮮における黒点観測の記録が整理されている、という。そこからも、1584年から1770年におよぶはっきりした傾向が見て取れ、これはマウンダー極小期を含む結果となる、と書いている。
肉眼による観察は、不正確という弱みもあるが、観測が続けられた過程での、黒点数の増減を知る上では、たいへん貴重な意味がある、と指摘している。
いっぽう望遠鏡観測以後の黒点の移動の日変化の記録を詳細に調べると、黒点が少ない時期のほうが、太陽の赤道付近の自転率が高いことが判明した、という。現在の太陽理論によれば、太陽表面の複雑な回転が内部に存在している磁気と相互に作用し合って電流を生じさせそれが太陽面に磁場をつくり黒点を生じさせるとされている。
1620年代の自転率は、現在とほぼ同じだったが、1640年頃になると、極地方にくらべて赤道での自転率がかなり増大している、という。
また、マウンダーの指摘したような時期は、過去にも何回か存在したようで、シュペーラー極小期という名前をつけたマウンダー期のような時期もあり、この時期、太陽面の活動レベルが非常に低かったことがわかる、という。
ハリーはオーロラの記録のない37年の後、やっと1716年3月にイギリスでオーロラが見られたとき、ちょうど王室天文学者の職務にあった。そこで、彼はオーロラ現象を説明する論文を書くことになった。
当時、ハリーは60歳、論文の中で、彼の長い経験の中で、それまで一度もオーロラは見たことがなかったことを告白している、という。76年周期の彗星といい、彼はその点で幸運な学者であったのかもしれない。
エディ氏は、オーロラの記録を統計処理してみると、70年にわたるマウンダー極小期、すなわち太陽活動極小期の存在がはっきりする、と述べている。また、望遠鏡観測が始まる前の黒点観測は、東洋で古くから肉眼観測されて記録に残っていたので、早い時代のオーロラ観測と東洋での黒点観測の記録を照合してみると、両者とも共通する増減が浮き彫りにされた、という。
その結果、エディ氏は次のような確信を持った、という。すなわち、まず第一に、長い目で見て、現在の黒点やオーロラの発生頻度はたぶん異常なものであること、第二に、17世紀以来太陽の活動の度合いは着実に非常に高いレベル、つまり過去千年の歴史において、おそらく他に比肩されるもののない高いレベルまで、上昇し続けて来たのではないか、ということだと言う。
彼が研究に用いた東洋の黒点の肉眼観測というのは、古いものでは紀元前5世紀には記録が現れ、その後規則的に報告されているという。
大きな黒点や黒点群は、日の出や日没時、あるいは煙などでかすんで見えるとき、肉眼でもかなり見ることができる、という。石油文明など無縁な時代のことであるから、その気になればさぞかしよく観察されたであろうことも、疑い得ない。
このような肉眼による観測記録を、1933年に日本人の神田茂氏が一つのリストにまとめている、という。日本、中国、朝鮮における黒点観測の記録が整理されている、という。そこからも、1584年から1770年におよぶはっきりした傾向が見て取れ、これはマウンダー極小期を含む結果となる、と書いている。
肉眼による観察は、不正確という弱みもあるが、観測が続けられた過程での、黒点数の増減を知る上では、たいへん貴重な意味がある、と指摘している。
いっぽう望遠鏡観測以後の黒点の移動の日変化の記録を詳細に調べると、黒点が少ない時期のほうが、太陽の赤道付近の自転率が高いことが判明した、という。現在の太陽理論によれば、太陽表面の複雑な回転が内部に存在している磁気と相互に作用し合って電流を生じさせそれが太陽面に磁場をつくり黒点を生じさせるとされている。
1620年代の自転率は、現在とほぼ同じだったが、1640年頃になると、極地方にくらべて赤道での自転率がかなり増大している、という。
また、マウンダーの指摘したような時期は、過去にも何回か存在したようで、シュペーラー極小期という名前をつけたマウンダー期のような時期もあり、この時期、太陽面の活動レベルが非常に低かったことがわかる、という。
火曜日, 10月 02, 2007
1984年4月30日発行。翻訳者は、桜井邦朋神奈川大学長。
まえがきにあるように、1984年の冬は異常な寒さだった。関東地方の降雪日が25日を越えたり、4月に入って雪がちらついたり、春になっても気温が上がらず、桜の開花が大幅に遅れたりで、冬の長さ、厳しさが身にしみる年だった、とある。
いかという無責任な論説もあったように、記憶している。なんでも、太陽内部で発生する原子核反応が、衰えているのではないか、という疑問もあったようだ。
本書は、約11年の安定した周期を持ち、変わることなくエネルギーを地球に送り込んできたと信じられている太陽の活動が、17世紀から18世紀にかけての70年間が異変をきたした、という古記録のの分析からはじまる。その70年間太陽黒点がほとんどみられなかった、という。
この70年間は、「小氷河期」と呼ばれるほど気温が低かったヨーロッパの寒冷記にほぼ重なっていたことがわかってきた。テムズ川も凍ることがあった、というぐらい。皇太子の英国留学時の論文が、たしか17世紀あたりのテムズ川の水運関係ではなかったか?
西洋で太陽の黒点が観測されだしたのは17世紀以降らしい。ところが東洋では肉眼でとらえられる黒点の観測記録が古くからあった。
スイスの天文学者ルドルフ・ウォルフは、少なくとも1700年以降は、黒点の約11年間の周期をあきらかにしたが、1700年以前の黒点に関しては、記録そのものに、信頼性がないとして、資料からはずしたが、ここに重大な問題が含まれていた、とされる。
ところが、1893年の段階で、王立グリニッジ天文台の太陽部監督官だったウォルター・マウンダーは古い書籍や雑誌の記録から1645年から1715年にかけて、太陽黒点がほとんどみつかっていない、という驚くべき発見をした。
当時は、黒点周期でいえば黒点群の多い極大期で、数百の黒点群が見えた、という。極小期でも、通常2~3個の黒点群が見られ、まったくみられない日が一ヶ月も続くことはなかった。ところが、マウンダーの調べた65年の間にはときに小さな黒点群が一個あらわれたにすぎない。驚くべき異常事態だった、とされる。
彼は二度にわたり、このことを論文に書いたのだが、受け入れられなかった。二度目の論文は彼の死の6年前だったというが、黒点群は彼をあざ笑うがごとく、規則正しい11年周期を繰り返していた、という。結局、彼の主張する無黒点期の根拠が、1700年以前という古い記録であるということに問題があったのかもしれない。
海軍士官から物理の道に入ったエディ氏は、マウンダーの論文を検証することになり、それは探偵のようなものだった、と回顧している。天文学とたぶん地球自体に対する重大な犯罪が遠い昔に起こったと報告されているが、それが果たして実際に起こったといえるのかどうか、と推理することなのだ、と説明している。
図書館などに現存する天文学の記録を再点検することはもちろんであるが、彼がもっとも頼りにしたのは、木の年輪に対する最新の分析結果であった、と述べている。後述するが、木の年輪は、局地的な気候の影響を残すばかりではなく、太陽の活動の変動をも、化学成分によって間接的に記録する性質をもっており、その成分をしらべるやりかたである。
ところで、古い記録をもとに推論する場合は、その古い記録がが信頼するにたるかどうかを吟味する必要がある。
17世紀、ルイ14世のころの話である。マウンダー極小期の始まりはガリレオが最初に小さな望遠鏡を作ってから35年後とされる。だが、このわずかな間に光学は飛躍的にはってんしており、すでに17世紀に焦点距離が60メートルもある懸垂式望遠鏡も整備され、ニュートン式の反射望遠鏡も登場して、結論からいえば、現代のレベルとあまりかわらない方法で太陽を観察することができた、といえるそうである。その証拠に、とうじの黒点群のスケッチは、現代の観測者のものと比較してもまったくひけをとらない、として後ろとびらにその一例の写生図がのっている。
ダンチヒのへべリウスが1647年に発表した「セレノグラフィア」(月面物理学)という本に掲載された黒点の写生図の例だそうだ。1643年5月22日から31日にかけての経過の様子を示している、という。当時の望遠鏡の質が極めて高いことがわかる、という。
当時の雑誌が、新黒点の発見に対して論文を書く機会を与えていたことも、黒点の観測がおろそかにされていなかったことを説明してくれる、と彼は述べている。
彼は、当時は無黒点期のあることが、おそらくかなりの観測者によって共有されており、逆に、太陽黒点11年周期が発表されると、衝撃を受け、やがてすみやかに無黒点期の記憶が色あせていってしまったのでは、とも推測している。
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