火曜日, 10月 02, 2007
1984年4月30日発行。翻訳者は、桜井邦朋神奈川大学長。
まえがきにあるように、1984年の冬は異常な寒さだった。関東地方の降雪日が25日を越えたり、4月に入って雪がちらついたり、春になっても気温が上がらず、桜の開花が大幅に遅れたりで、冬の長さ、厳しさが身にしみる年だった、とある。
いかという無責任な論説もあったように、記憶している。なんでも、太陽内部で発生する原子核反応が、衰えているのではないか、という疑問もあったようだ。
本書は、約11年の安定した周期を持ち、変わることなくエネルギーを地球に送り込んできたと信じられている太陽の活動が、17世紀から18世紀にかけての70年間が異変をきたした、という古記録のの分析からはじまる。その70年間太陽黒点がほとんどみられなかった、という。
この70年間は、「小氷河期」と呼ばれるほど気温が低かったヨーロッパの寒冷記にほぼ重なっていたことがわかってきた。テムズ川も凍ることがあった、というぐらい。皇太子の英国留学時の論文が、たしか17世紀あたりのテムズ川の水運関係ではなかったか?
西洋で太陽の黒点が観測されだしたのは17世紀以降らしい。ところが東洋では肉眼でとらえられる黒点の観測記録が古くからあった。
スイスの天文学者ルドルフ・ウォルフは、少なくとも1700年以降は、黒点の約11年間の周期をあきらかにしたが、1700年以前の黒点に関しては、記録そのものに、信頼性がないとして、資料からはずしたが、ここに重大な問題が含まれていた、とされる。
ところが、1893年の段階で、王立グリニッジ天文台の太陽部監督官だったウォルター・マウンダーは古い書籍や雑誌の記録から1645年から1715年にかけて、太陽黒点がほとんどみつかっていない、という驚くべき発見をした。
当時は、黒点周期でいえば黒点群の多い極大期で、数百の黒点群が見えた、という。極小期でも、通常2~3個の黒点群が見られ、まったくみられない日が一ヶ月も続くことはなかった。ところが、マウンダーの調べた65年の間にはときに小さな黒点群が一個あらわれたにすぎない。驚くべき異常事態だった、とされる。
彼は二度にわたり、このことを論文に書いたのだが、受け入れられなかった。二度目の論文は彼の死の6年前だったというが、黒点群は彼をあざ笑うがごとく、規則正しい11年周期を繰り返していた、という。結局、彼の主張する無黒点期の根拠が、1700年以前という古い記録であるということに問題があったのかもしれない。
海軍士官から物理の道に入ったエディ氏は、マウンダーの論文を検証することになり、それは探偵のようなものだった、と回顧している。天文学とたぶん地球自体に対する重大な犯罪が遠い昔に起こったと報告されているが、それが果たして実際に起こったといえるのかどうか、と推理することなのだ、と説明している。
図書館などに現存する天文学の記録を再点検することはもちろんであるが、彼がもっとも頼りにしたのは、木の年輪に対する最新の分析結果であった、と述べている。後述するが、木の年輪は、局地的な気候の影響を残すばかりではなく、太陽の活動の変動をも、化学成分によって間接的に記録する性質をもっており、その成分をしらべるやりかたである。
ところで、古い記録をもとに推論する場合は、その古い記録がが信頼するにたるかどうかを吟味する必要がある。
17世紀、ルイ14世のころの話である。マウンダー極小期の始まりはガリレオが最初に小さな望遠鏡を作ってから35年後とされる。だが、このわずかな間に光学は飛躍的にはってんしており、すでに17世紀に焦点距離が60メートルもある懸垂式望遠鏡も整備され、ニュートン式の反射望遠鏡も登場して、結論からいえば、現代のレベルとあまりかわらない方法で太陽を観察することができた、といえるそうである。その証拠に、とうじの黒点群のスケッチは、現代の観測者のものと比較してもまったくひけをとらない、として後ろとびらにその一例の写生図がのっている。
ダンチヒのへべリウスが1647年に発表した「セレノグラフィア」(月面物理学)という本に掲載された黒点の写生図の例だそうだ。1643年5月22日から31日にかけての経過の様子を示している、という。当時の望遠鏡の質が極めて高いことがわかる、という。
当時の雑誌が、新黒点の発見に対して論文を書く機会を与えていたことも、黒点の観測がおろそかにされていなかったことを説明してくれる、と彼は述べている。
彼は、当時は無黒点期のあることが、おそらくかなりの観測者によって共有されており、逆に、太陽黒点11年周期が発表されると、衝撃を受け、やがてすみやかに無黒点期の記憶が色あせていってしまったのでは、とも推測している。
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