金曜日, 10月 26, 2007



騎西町の民家の垣根に、こんな看板が出ている。郷土の和算研究家の紹介である。都築源右衛門利治氏(天保5年~明治41年)の業績をたたえている。

http://www15.wind.ne.jp/~kisaihakubutukan/tisiki/4jinbutu/12.htm

また同じ都築姓で、測量の神様として名が残されている話もある。伊能忠敬と同時代だから関連がないかもしれないが、江戸時代の文化というか、和算の系譜のすばらしさは改めて考えてみる必要があるように感じている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/suv-hanashi/jinjya.htm

昨日の新聞では、全国共通テストの結果がでたが、さっそく正論談話室では、左翼の強い県は、成績が最下位で、保守層が厚い県はトップクラスの成績だなどという意見が出てきた。

和算は、生活に余裕がある農民や町人の間ではやった、俳諧などとおなじ「趣味」としての位置づけがされていたようで、数学の先生は、芭蕉のように全国をまわり、半月とかひと月、ある場所にとどまり、同好の人たちに教えて、あるいは地元のトップクラスと他流試合などをしてお互い勉強をしたらしい。

ところで、騎西町では、旧制高校最後のクラスになる年代の方で、東大の数学科講師で、来年はアメリカ留学を控えているというのに、自殺してしまわれた数学家、谷山豊氏がいる。子供の頃から、おばあさんと買い物にいくと、瞬時におつりをいくらいくらと口にしていた、ともいわれる変わった子、と聞いている。

氏の自殺は、私がまだ小学校時代で、新聞にものって、数学者を夢見た父親が大騒ぎしていた記憶があるだけで、当時の記事を読んだ記憶はない。しかし、何年か前、数学の難問の一つといわれた、フェルマーの最終定理が、解かれたというニュースが伝わるや、その突破口をひらいた、谷山・志村予想の芽を若いときに提出していた、ということで、あらためて私の眼前にふたたび現れることになった。

それで、数学者の山下純一氏の記事などを参考に、騎西町の谷山家のお墓参りまでいってしまった。住職は、先日も不動ヶ岡高校(旧制不動ヶ岡中、谷山氏の出身校)の数学の先生がお参りにきたところです、と告げてくれた。

『昭和33年11月17日、東大数学科の講師であり、同年理学博士となった谷山豊氏は遺書を残して下宿で自殺した(31歳)。翌年にはアメリカの大学からの招待で留学する話もあったそうだが、「昨日まで自殺しようという明確な意志があったわけではない。ただ、最近僕がかなり疲れていて、また神経もかなり参っていることに気付いていた人は少なくないと思う。自殺の原因について、明確なことは自分ではよくわからないが、何かある特定の事件ないしは事柄の結果ではない。ただ気分的に言えることは、将来に対する自信を失ったということ、僕の自殺が、ある程度の迷惑や打撃となる人がいるかも知れない。・・・」という書き出しで、講議の状況、貸借関係、私物の処分などについてきちんと書いた遺書を残した。翌12月2日、婚約者も後追い自殺をし、二人の墓は、騎西(きさい)町の寺に一つとなって残されている(理顕明豊居士、美真楓節大姉、26歳:3回忌に遺族が建立)。』(当時の「数学セミナー誌」、日本評論社より、記事は山下純一氏)

谷山・志村予想とは、1955年(日光での国際シンポジウム、この会議には岡博士も出席していた)に谷山豊が粗い形で提出し、谷山の死後友人であるプリンストン大学の志村五郎(東大数学科の1年先輩)が10年程の年月をかけ、厳密な形に完成させた予想である。これは楕円曲線(y^2=ax^3+bx^2+cx+dのような方程式)に関する豪快かつ美しい予想で、当初、専門家たちはこの予想に仰天するばかりであったが、研究がすすむにつれてその成立を疑う者は、一人もいなかった。」(藤原正彦、古風堂々数学者より)

「それから10年近くたった1986年の夏の夕方、フェルマー予想とは何の関係もない楕円曲線の第一線で活躍していたワイルズは友人宅でアイスティーを飲んでいた。「ところで、谷山・志村予想が正しければフェルマー予想も正しい、ということをアメリカのリベットが証明したそうだよ」と友人が何気なく言うのを聞いたワイルズは、思わず身震いした。人生が決まった、と思ったのである。」(藤原正彦、前掲書)

「ワイルズの専門分野の最高峰として聳えていた谷山・志村予想と少年の夢(ワイルズはフェルマー予想をやりたい夢があったが、周囲から止められていた)との間に不意に橋がかけられた。大きな仕事をなすものは幸運である。谷山・志村予想、したがってフェルマー予想の解決に立ち上がったワイルズは、完全な秘密主義をとった。」(同)

「何度もの挫折をイギリス魂でじっと耐え抜いたワイルズは、1993年6月に故郷のケンブリッジで解決を宣言した。・・・9月になって、200ページ近い証明を検討した専門家が1箇所の誤りを見つけた。・・・一年あまりたった9月の朝、天才の閃きで一気に解決した。岩澤理論を用いるアイデアだった。あまりの美しさ30分ほどじっと数式を眺めてから、興奮のあまり廊下を歩き回っては自室にもどり、そこにその数式があることを確かめる、ということを午後中繰り返していたという。」(同)・・・

「かくしてフェルマー予想は、谷山・志村予想とともに陥落した。フェルマー予想は3世紀半の歳月を経て定理となった。幾多の日本人数学者の輝かしい業績の上に築かれた、今世紀を飾るドラマだった。人類の生んだ最も深く最も美しい知見だった。」(藤原正彦、前掲書)

「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」岡博士の言葉であるが、含蓄のある内容である、と常々思っている。

「数学の本質は禅師とおなじであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると、客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を表してくるのである。姿を表してしまえばもはや法界の法ではない。」
とも。






最近、「数学嫌いな人のための数学」(数学原論、小室直樹著、東洋経済新聞社)を購入、身近にある具体例を知っていたので、興味深く読みました。

『「解」を目的にしなかった鄭和の大航海」

大航海時代の魁は、明の鄭和(1371~1434)であった。ヨーロッパで大航海時代がスタートする80年以上前の1405年、三万名近い水兵を62隻の大船(約8000トン)に乗せ、南京から長江を下ってインドの海岸を回ってアラビアにも至った。そして、前後7回、インド洋を縦横無尽に大航海を行った。・・・

鄭和の大航海はあまりにも巨大であったが、その後、中国人も忘れてしまっていたのだが、後年驚くべき巨船が発掘されたので、人々は思い出したのであった。・・・鄭和という大航海時代の先駆者は、ほどなく忘れ去られてしまって、歴史に何の足跡も残さなかった。歴史がこれによって変わることもなかった。

それに比べて、大航海時代はヨーロッパの歴史を変革し、近代資本主義と近代デモクラシーを生む契機となった。こんな大きな違いは、何によって生じたのか。その理由は、ヨーロッパの大航海時代に限って、その目的は新航路の発見に向けられていたからである。・・・大航海時代の鄭和は、既存の進路(beaten track)を進んだにすぎない。新航路の発見は彼の目指すところではなかった。存在問題は、彼の眼中にはなかった。それであればこそ、彼の空前の大航海も、世界史に何の重要さをもたず、やがて、完全に忘却の闇に紛れてしまったのであった。』

『科学技術の根本が数学であり、労働者も経営者も最新の技術に追いつき使いこなすためには、数学を自由自在にしておく必要があり、最近の企業経営や金融システムでも、数学を身につけておかないことには近寄りがたい。--数学は神の教え(論理)である--が、歴史の神秘を見抜けば理解できるだろう、と著者小室直樹先生はおっしゃる。数学が成長して諸科学の根本になれたのは、ギリシャの形式論理と結合したからであるが、この形式論理の堅苦しさは人々を尻込みさせた。だがしかし、イスラエルの神がこの尻込みを押し切った。この神にとって、一番大切なことは、神が存在することを人に知らしめることであって、神の存在問題がギリシャ数学が解決できなかった解法そのものの存在問題へと収束していくことによって、数学の論理は成立した、と述べている。』



『「解」を目的としたマゼランの大航海

貴重この上ない香辛料を、インド、極東から直接購入するためには、新航路の発見が必要である。スペイン人、ポルトガル人はじめ、ヨーロッパの船乗りたちは、争って新航路の発見に向かった。新航路は存在するかどうか。人類はここに存在問題を意識しなければならなくなった。・・・

アメリカ大陸を横断して、大平洋へ至る海峡はないものか、多くの探検者は、北から南から一所懸命に探した。およそ10年もの間、ものすごく熾烈な海峡探しの競争がおきた。・・・このとき、「私は海峡のあり場所を絶対に見つけてくる」と断言したのがマゼラン(1480~1521)である。スペイン王はマゼランに艦隊を与えて海峡発見に向かわせた。

しかし、行けど探せど海峡は見つからなかった。反抗する船長も出てきた。マゼラン自身、実は死ぬ以上に苦しんだ。そのときの苦労は、大平洋を横断するとき、食料がなくなって死ぬ寸前なったときよりもはるかに苦しかったと告白している。

冬はますます寒くなり、マゼラン海峡を発見する直前、パタゴニアで冬篭りをした。実はもう少し先まで行っていれば、この年のうちにマゼラン海峡は発見できたのである。もし、その年のうちに海峡が本当にあったということになればどうか。乗組院たちの間で、予言者マゼランの威信は天にも昇ったに違いない。パタゴニアで冬篭りなどするものだから、海峡の存在問題はまだ解決されていない。マゼランは反乱を起こした船長を死刑にし、春を待ってパタゴニアを出港した。何たる僥倖!か、間もなく海峡発見!・・・』

ところで、数学者の藤原正彦教授は、ロシアは大国であるが、中国は大国なんかではない、という主張をされている。理由は、ロシアからは、数学史に残る学者が輩出したのに、中国には歴史上見るべき数学者が出なかったから、ということを理由にしている。また、小室直樹先生は、中国の論理は、西洋の論理法と異なり、君主を説得して、自説を政策に採用させ栄華を手中に収める、という面のみに歴史上特化しており、近代のルーツは見出しえないという意味を具体例をいろいろと上げてこの本の中で論じている。ギリシアをルーツとする形式論理から背理法があらわれ、19世紀になって、数学に革命を起こした。

数学も科学も、それまでは、客観的に存在する真理を学者が発見するという立場で研究されてきていた。しかし、ロバチェフスキー(非ユークリッド幾何学の創始者、1792~1856)はこのイデオロギーに真っ向から挑戦し、転覆させた。・・・学者の任務は、真理の発見ではなく、仮定を要請することになった。・・・つまり、ロバチェフスキー革命によって、数学者、科学者は、真理発見者を辞めて、模型構築者(model builder)に変身したのだった。

伝統主義は一気に打倒されて、近代資本主義、近代デモクラシーへの道は開かれた、と指摘している。

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