土曜日, 10月 20, 2007

愛馬進軍歌と私









http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E9%A6%AC%E9%80%B2%E8%BB%8D%E6%AD%8C
では、愛馬進軍歌には、こんな解説が・・・

『昭和13年(1938年)秋、陸軍省馬政課の栗林忠道課長(当時騎兵大佐。硫黄島の戦いにおける守備隊司令官)の企画により、軍馬への関心を高めるため一般から公募した「愛馬の歌」の当選歌。作詞の久保井信夫は当時四国の電力会社社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。軍馬を戦友として扱うなど馬への愛情のこもった親しみやすい歌詞とテンポの良い曲とで一般にも広く普及し、現在でもよく聴くことができる。同じく応募された詞による「愛馬行」(作詞:山田静、作曲:佐藤長助、歌:児玉好雄・三門順子)とのカップリングで昭和14年に発売され、大ヒットとなった。』

今でも二日に一遍くらいはパソコンで聴いている。さいきん、我が家のペットも一匹、15年ほどして亡くなり、一昨年の犬に続いて二匹とも同じペット用霊廟に入った。そんな関係や秋の季節、また、本人の人生のたそがれ時への接近も加わり、気分がそういったものを求めているのかもしれない。

今日も、家に居てもよかったのだが・・・。ここ数日、雨や納品後の直帰などで、自転車通勤を3日ほどしなかったら、鏡を見てびっくり。たちまち顔が太っている。ガ~ン、自然は正直だ。
それで、散歩をかねて会社へきて、タイムカードを人数分作ったり雑用を済ませ、明日からの仕事の段取りや、いろいろと考えることなどしようと思っている。ところが、北風がつよく、まともにあたりこぐのが苦しい。とくに遮蔽物のない田園地帯にきたら、ギヤを落とさないと
すすまない。これでは、川を渡る橋にちかい傾斜を上るのとおなじくらいの力がいる。会社へ来たら、予想を20分も上まわっていた。これでは、ツーリング先で出会う、プロを目指すような予備軍の候補たちの練習風景に近いではないか?会社へ着いたら、膝が充血してぽかぽかしていて気持ちいい。


昨日は、前日の雨が嘘のようにあがり、好天だったので、現場調査を兼ねて、プチツーリング。往復70キロほど走ったが、風はもう冷たく、カメラで覗いた景色もすっかり秋。日光も紅葉が見ごろだというが、・・・。

愛馬進軍歌の解説を改めて見て、『作詞の久保井信夫は当時四国の電力会社社員、作曲の新城正一は九州の教員だった。』というところに注目した。

四国の電力会社員の息子さんで、青色ダイオードを発明して、当時の勤務会社と億単位の訴訟となった中村教授のことを思い出したからだ。

http://chemstation.livedoor.biz/archives/12146032.html

『 昨年一月の一審・東京地裁判決は、中村教授が受け取る相当対価を約六百四億円と算定し、請求額全額に当たる二百億円の支払いを日亜化学に命令していた。発明の「正当な対価」のあり方をめぐって衝撃を与えた訴訟は、控訴審の判決を待たずに決着する。

 原告側弁護士によると、過去の訴訟の判決や和解で、発明対価として企業が研究者に支払う額としては過去最高。

 昨年一月の地裁判決によると、中村教授は日亜化学在職中の平成二年に青色LEDの製造装置に関する技術を発明。日亜が特許出願し五年、世界初の製品化に成功した。中村教授が当時、会社から受け取った報奨金は二万円だけだった。』

中村教授が当時勤務していた日亜化学と争いになってしまったわけだが、この会社がなかったら、中村教授の業績も生まれていたか疑問、とも思える。ここの会社の先代の社長さんが、兵隊として南方に送られていたとき、接近したジャングルから垣間見える米軍基地の独特の青白い蛍光灯の明かりに魅了されたと、という。

それで、無事復員後、製薬会社の下請けのような会社を、いくら品質のよい薬を作っても買い叩かれて、利が薄いので、戦中に魅了された蛍光管の製造のほうにも手を広げ、ブラウン管部門では名のしれた会社になっていった、という。そんなところへ入社した中村氏は、比較的自由に研究費を使えて最初はよかったらしいが、5年たってもめどがつかず、会社内では孤立して、研究費も先細りとなり、逆境の中でもがんばった、という。爆発事故も一度や二度ではなかったようだ。

ただ、会社もちで、アメリカへ一年留学させてもらい、自分と同じかそれ以下とわかり意を強くして帰国。ただ、論文がないと、評価されない世界を体験して、英語論文の必要性は痛感されたようだった。

それで、学会などへも顔を出すようになり、ある物理の発表を聞いて、難しかった蒸着が、このようにすれば歩留まりがあがって実用化に近づくのでは!?というヒントをえて、さっそく試作、改良を加えて完成できた、らしい。

今では、その製法などは使っていないという主張を日亜化学側は裁判で主張したようだが、できるかできないかわからない中を、おれはこう思う、といって世界に先駆けてやるのが、科学。不完全であれ少々まちがっていても、いったん不可能が可能となれば、改良あるのみ。あとは、それを採算ベース、営業ベースに載せるのは日本おとくいの技術の範疇で、科学とは別物だが、日本人は大部分、区別していない。

日ごろ、科学技術という文字が氾濫。科学・技術とせめて表記してもよさそうだが、そうしない裏には守旧思想が根強くあり、看板を変えたり、掛け声を変えたりで、世の中変化すると安易に思うお役人発想には愛想が尽きる。したがってこうした状態だから、文部省から文科省に変えた当初の意図が泣こうというものだ。文部非科学省だというのなら、よくわかるのだが。

教科書の沖縄戦での、検定問題でも、また昔に戻ろうとしている。

http://www.sankei.co.jp/seiron/danwa.html

『教科書に「軍命令説」が書かれてきたのは、渡嘉敷島と座間味島で日本軍が住民に集団自決を命令したとされてきたからでした。
しかし、それが嘘であることが広く知られて検定も変わった、というのが経緯です。

その検定意見が間違いだというなら、軍命令の具体的な事実を出せばいいのです。
しかし、それを出すことはできていません。それで左翼勢力は、政治力や感情によって変更させようとしているのです。
私たちは、左翼勢力に対しては、事実と真実によって戦わねばなりません。』

などという意見が、一番妥当だと思うが如何。サンケイ新聞には、沖縄では、あそこの爺さんが孫を殺された、というのは嘘で自分で殺しておいて、国から援助金をもらっている、などと近所の人は皆知っている例もある、などと報道していた。福田首相は、11万人参加を丸呑みしたようだが、実際に写真を数えたら、一万ちょっと、で、半分ほど数えただけで、馬鹿らしくて止めたらしい。どう見てもそうはならないのがわかったからだそうだ。警察は4万強、作る会の某教授は2万人説を主張されたようだが、発表は約10倍に水増しされて、政治圧力問題へと発展した。安倍首相だったら、沖縄県知事も参加しなかったろう、という指摘は鋭い。




中村教授は、いまアメリカ西海岸で寿命20年くらいの蛍光灯を作れないか、大学院生10名以上を抱えて研究中だという。一時、ノーベル賞候補とのうわさも流れた方だが、蛍光管製造を決意した、先代社長の情熱があったからこそ、という思いも私は強いのである。

会社がつけてくれたT大卒の助手は、見込みがないと判断すると、上司の中村氏の命令を平気で無視していた、という。裁判で、中村氏の初期の製法なんか、とっくに卒業して、そんな方法を使ってない以上、ど~の、こ~のと抗弁した主役もこの元「助手氏」ではないか、と私は新聞報道を見ては思い出したりしたものだ。

中村教授がノーベル賞候補になれるかどうかは、予断を許さないが、ノーベル賞を受賞して在米の利根川博士は、研究は、寄らば大樹の陰、というのや、言うこととやる事がちがう人間には向かない。そういうことをしてはいけない、とその分野のオーソリティーから指摘されたときに、してやったり!と思うようでないと、ブレークスルーは望めないと指摘している。ゴーイングマイウェイでないと、いい研究(それまでの研究の方向性を変えるような革新的な)は生まれない、と新聞で書かれていた。

セレンディピティなものを捕まえ得た者たちだけが手にできる、格別の世界のようだ。

江崎博士も、研究のモードを大別すると、競争モードと、ゴーイング・マイウェイモードがあるが、いつでも新しい時代を作ってきたのは、ゴーイング・マイウェイモードで突進した若き学徒たちだ、と同様なことをおっしゃる。

その分、挫折も大きい。アメリカでも、新規分野の達成確率は、5%をきるかどうか、これが6%とでもなれば大成功なのだそうだ。改良が主体の研究だと、80%ぐらいまで行く場合もあるようで、周りを良く見渡してやる日本の方法(目の細い日本人が描く漫画の登場人物は目が大きいのもそうした文化的背景があるのかどうか?)は、あきらかに技術偏重型でしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3
『インスリンについては四人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年に賞を受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger) が、1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)がそれぞれノーベル賞を受賞している。』

インスリン発見でノーベル賞受賞したカナダの医者、バンティングは、食い詰めて船医にでもなるか、恋人とも別れなくちゃなどと言うときに読んだ医学論文がきっかけで、出身大学に掛け合い、マクラウド教授に何回も実験させてくれ、と泣きつく。仕方なく教授は、夏休みに英国に帰る二ヶ月弱の間に施設を使用することを許可、一名の助手をつけてやる。

そんな実験は、とっくに行われていて失敗済み、というのが教授の当初の見解だった。それが帰ってみたら、何やら、うまく行きそうだ、という二度の犬の実験から光明がひらけ、こんどは教授を含め四人体制。そうなると、大学側の助教授などのほうが、実験改良のアイデアなども的確に出てきて、不可能と思われた壁が取り払われた、という。

それで、新設講座の教授となったバンティング教授、こんどは癌の特効薬の研究に取り組んだらしいが、ことごとく失敗、めぼしい業績は、ヘミングウェイではないが、若いときのものが最良、という結果だったらしい。アメリカでは、ノーベル賞など受賞しても、その後2,3年もすると権威がなくなるらしい。

この話を紹介した、元千葉大学長の丸山先生は、バンティングの息子はタクシー運転手だったが、最初の実験に教授がつけた助手は教授になり、息子さんも教授になった、という話も書かれていた。

神奈川大学長の桜井博士も、ノーベル賞などの研究は、丁度いいとき、丁度いい環境に、丁度いい人物がいて、栄誉に預かるというような結論をだされている。中村教授もその意味で、ちょうどいいときに、ちょうどいい会社で、変人としてがんばった中村研究員がいた、ということに尽きる、ということで、桜井博士の結論と一致するように思う一人だ。(注、この一人は、筆者と、中村氏をかけています)。


なかのひと

0 件のコメント: