土曜日, 10月 27, 2007

昨日のブログで、フェルマーの定理の証明への道筋の端緒を開いた数学者としての、谷山豊氏を紹介したつもりで、以下の文章を引用した。

「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」岡博士の言葉であるが、含蓄のある内容である、と常々思っている。

ところで、普通によめば、谷山氏の研究がどうフェルマーの予想問題と関係するのか、私も含めて判然としない。特に、最初から、谷山氏がフェルマー問題を念頭において、楕円関数の研究をしていたのかどうか、不明である。岡博士の、数学者の評価への箴言を谷山氏への評価とつなげて考えることは早計ではないか、という疑問も出てくるだろう。

そこで、当時(定理が証明された直後)の特集として組まれた谷山氏への追悼文や、関連書物から2、3引用したい。

「フルハシ、ハシヅメが世界記録を樹立し、ユガワがノーベル賞を、コダイラがフィールズ賞を貰う。それは劣等感に打ち砕かれた国民精神を感奮興起させる。非常に結構です。自国の高い文化を誇ること、それに愛着し、それを更に高める努力をすること、それは自然でもあり美しくもあります。その文化が真に国民の中に根をおろしているならば。だが、普段は見向きもしない、考えても見ない人々、輸入した問題と取り組み外国で業績をあげた人々を、何か賞をもらったと言うだけで、担ぎ回り誇りとする。なるほど12歳の少年に相応しい無邪気さかも知れません。」

「日本人の持つ非合理性、日本社会における資本主義と前近代性との奇妙な混淆、その上に重なる植民地政策、このジャングルを切り抜けるには、科学的合理精神の涵養以外にない。・・・かって合理主義の担い手であった資本主義は、この国にあっては、合理主義の徹底を恐れ、時には植民地政策に順応することにより、自らを守ろうとしています。しかも勤労大衆も合理主義に救いを求めようとはしない。表立っていないこの合理主義をたたき込むには、人は啓蒙家にならなければなりません。だが、フェルマーの研究をしながら啓蒙家になることはできません。・・・」(谷山氏の投書より)(いずれも山下純一氏が、数学セミナーに書かれた記事の一部)

「当時の日本での大学生活もまた困難なものだった。学生間の競走は熾烈で、よき学歴はよき職につけることを意味していた。純粋数学専攻の博士課程の大学院生については事情はさらにきびしく、大学教員の職の口は安月給にもかかわらずわずかしかなかった。谷山豊はそんな数学科の大学院生のひとりだった。早い時期から谷山はアーベル多様体の虚数乗法論の研究を始めた。この分野はまだまったく未開拓で谷山は非常に困難な時を送った。わるいことに東京大学の年長の教授たちからは実質的に何の益になるアドバイスも得られなかった。どんなに細部の事実でもじぶんで導くしかなく、こうした数学研究の有り様を彼は「悪戦苦闘」と表現していた。若き谷山豊の人生には容易なものは何もなかった。」
(天才数学者たちが挑んだ最大の難問、フェルマーの最終定理が解けるまで、アミール・アクゼル、1999:早川書房)

「谷山は4畳半のアパートに住んでいた。そのアパートには各階にただ一つの便所しかなく、下宿人が共同で使用していた。風呂に入るには少し離れた銭湯へ行かねばならなかった。このみすぼらしいアパートには『静山荘』という名前がつけられていたが、皮肉なことにそれは池袋の繁華街の中にあって、数分ごとに電車が雷のように行き来する線路のわきに建っていた。若き谷山は研究により集中できるように、ほとんど夜中に仕事をし、ときには騒音が始まる朝の6時まで仕事をしてから床についた。あつい夏の期間を除けば、谷山はほとんど毎日、つやのある青緑色の同じスーツを着ていた。よき友、志村五郎に話した谷山の言い訳は以下の如くである。谷山の父親(騎西町の医師)が行商人から非常に安くその布地を買った。しかしそのつやのために、家族の誰もあえてそれを身につけようとはしなかた。豊は外見には無頓着だったので、結局は彼が引き受けることになり、日常の外出着にスーツに仕立てたというのである。」(同上)

「東京ー日光会議から10年が過ぎ、今ではプリンストンに在住する志村五郎は、数論、ゼータ関数、楕円曲線についての研究を続けていた。志村は谷山がどこで躓いていたかを理解した。そして、数学の諸分野の間にある隠れた調和を明らかにしようとする彼自身の研究と探究によって、志村は谷山とはちがった形で、より広くより正確な予想を定式化した。志村の予想は、有理数体上のすべての楕円曲線がモジュラー形式によって一意化されるというものであった。」(アミール・アクゼル、前掲書)

「ワイルズは目の前の論文に目を向け、約20分間物凄い集中力で考え抜いた。そのとき、彼は何故オイラー系を動かすことができなかったのかを正確に見抜いたのだ。ついに彼はどこが間違っていたかを理解した。「それは私の数学者としての人生の中でもっとも重要な瞬間でした」と言って、後に彼はそのときの感情を次のように述べている。「突然、まったく不意に、私はこの信じがたい天啓を得たのです。あんなことは二度とおこらないでしょう。」その瞬間、涙が溢れだし、ワイルズは激しい感動にとらわれた。その運命の瞬間にワイルズが悟ったことは、オイラー系を働かなくさせている当のものこそ、彼が3年前に放棄した岩澤理論のアプローチを働かせているものだということに、ワイルズは気付いたのだ。」(ちなみに、ワイルズは岩澤理論の研究で博士となっている。ここにも日本人が現れている)(アミール・アクゼル、前掲書)

フェルマーの最終定理といわれた難問は、青色ダイオードの発明を成し遂げた中村教授の例のように、若き天才が解決の端緒を開いたのだ、たとえ不完全であっても、それなくしては以後の日本人たちの貢献もあのように続いたかは疑問であり、私は改めて岡博士の言葉をかみしめている。

「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」

この言葉と関連して、数学は世代を超えて学ぶというか研究するものだというような意味の言葉も書かれている。また、ある数学史を担当する方が、岡博士の研究姿勢は、だれかを師として仰いで、その門下になって研究するというようなものではなく、数学全体を師とせよ、と教えているような気がする、とまで書いている。

群馬大元学長だった秋月氏(数学者で、岡博士の親友)は、あるとき、岡博士が、日本に数学を投げ込むのではなく、日本を数学に投げ込むべきだ、とつぶやいたことを何かに書かれていた。岡潔著作集についていた推薦パンフレットだったと思う。


最近、新田次郎の息子さんでお茶の水大学の数学教授で藤原正彦氏が書いた「古風堂々数学者」(講談社)で、氏は初等教育での国語の重要性を唱えていますが、岡氏の論はさらに徹底して面白い。

「数学だって、国語だけで十分というのではありません。少し付け加えなければならないものもある。しかし、大部分国語ですよ。・・・自分の心を見つめて、描写することのできない者に数学を教えることは出来ません。」

「一人の数学者の仕事を客観的に評価しようとすれば、少なくともその人の死後50年はたたねば無理であろう。客観的な評価は、仕事に取り掛かるはじめにあるのであって、終わりにあるのではない。」

「私は学生をABCの3級に大別した。上程よいのであるが、Cは数学を記号だと思っているもの、Bは数学を言葉だと思っているものである。寺田寅彦先生は、先生御自身の言うところによると、正にこのクラスである。それからAは数学は姿の見えないxであって、だから口では言えないが、このxが言葉をあやつっているのであると、無自覚裡にでも良いから知っているものである。」

「いまこの国の小学校の先生たちは、数学は知らなくても数学教育はできる、数学の研究はできても、数学教育を知らなければ教えられないといっている。」

「数学教育で一番むずかしいのは小学校の、それも低学年の数学教育である。数学というものを明きらめ尽くしているのでなければ、ここはこうすればよいのだ等と言い切れるものではないからである。」

「数学の実体は法界(正確に言えば事々無礙法界。四法界中最高)であって、数学するとは、主体の法が客体の法に関心を持ち続けて、後者が前者の上に表現せられる直前までやめないことであって、表現は数体系によってするのである。」

「何の木の花とは知らず匂ひかな(芭蕉) 仏教では法界を4つにわけている。下から順に、事法界、理法界、理事無礙法界、事々無礙法界である。・・・匂いと言えば、人が生まれて最初に感じるのは匂いではなかろうか。とすれば、逆のコースをとるとき、この世で最後に感じるものが匂いであるということになる。そのあと胎内に入って法界に出るのである。」

「ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算はどうにかゆびおり数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。計算や論理は数学の本体ではないのである。」

「数学は数え年3つまでのところで研究し、4つのところで表現するのだ。5つ以後は決していれてはならない。」

以上は、「春宵夜話」などの岡博士からの引用になるが、高校時代から読んでいてどれがどこからとはいまでははっきりしない。岡潔著作集からのもあると思う。

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