火曜日, 10月 09, 2007

先日、例によって夜中に目覚め、静かなNHKのほうがましかと、1チャンネルを出しっぱなしにして、パソコンに向かっていたら、城山三郎氏の作家生活の経歴を発掘する番組を流していた。

文官で、東京裁判で刑死することになる広田弘毅取り上げることから始まり「落日燃ゆ」、『指揮官達の特攻』などの生まれた背景を追っていた。



画面で映しだされる表紙を見るまでもなく、「指揮官達の特攻」なら娘や家内の書棚にあったな、と思い出した。全部はよんでおらず、拾い読みをしたていどで、関大尉の項と、軍人として評価の低い富永恭次中将のあたりぐらいだ。

その日かその前日か定かでないが、東京裁判に拘わった連合国から選ばれた、各判事達、中でもインドのパール判事とオランダの判事の、裁判過程における悩みなどを解説した番組も見ていたが、パール判事などは南京大虐殺をまるまる当時の状況だから信じていても、あの結論だ。鹿児島大の某教授が、判事達が悩み苦しんで結論を出そうとした過程を検証すると、とても最初から結論が決まっていたサル芝居だとはいえないと思う、という発言を二度以上も流していたのはいただけない。

裁判の憲章をみれば、平和に対する罪、とか人道に対する罪とかで断罪すると、大上段に書いてあり、パール判事は真っ向からそれに(事後法で裁くことは論外)反対する主張は生涯変わらなかったが、その憲章にそった判決となった。最初から決まっていた方向に沿った判決を無理やりだした形だと、思う。現に裁判を仕切ったイギリス(裁判長は、オーストラリア)系は、ナチス裁判の結果が帳消しになってしまう恐れから、無理やりそういう方向に持って行かざるを得なかった、だから正当だと言わんばかりのコメントが二度以上挿入された。

安倍首相の祖父である岸信介元首相などは、生きてはこの巣鴨の門を出られないだろうと思って潜ったらしいが、七名の死刑執行の翌日くらいには、釈放となっている。後に首相となり、国賓待遇で訪米を果たし、感無量だと言っている映像を見たことがある。

また、雑誌WILLの11月号には、「パール判事」中島岳志著の解説があり、アメリカ憲法で日本の家族制度をばらばらにしてしまって、アメリカは笑いがとまらない、などの文言も挿入されている。

さらに、岸元首相は、戦後マッカーサーから逮捕状が出て、横浜の監獄に向かうとき、山口駅でいきなり
踊る神様、踊る宗教として有名だった教祖の北村サヨが現れて(以前から親交があった、という)「お前ら、何をしおたれているか、岸は三年ぐらいしたら必ず帰ってくる。日本を再建するのに絶対必要な男だから、神様は殺しはしない。」と言い放ったそうだ。これは『岸 信介の回想』(文芸春秋社)で語っていることらしい。『私はいい加減なことをいう婆さんだと思ったけど、実際三年で帰ってこられたぞ』ということらしい。神の国、ニッポン!!!。

さて、城山三郎氏の書いた「指揮官達の特攻」であるが、現地取材してかかれたそうであるが、意外なことを聞いた。表紙に特攻第一号とされた関大尉とならんで、宇垣海軍中将をのせて、玉音放送後とびたった指揮機のパイロット、中津留海軍大尉が出ているが、突入直前に機首を返して、浜辺の岩場に突っ込んだ、というのである。

整備士たちが戦争はおわったようだと言ったらしいが、皆相手にせず、午後4時過ぎに11機が飛び立ち、5機と6機にわかれて南下、うち二機はエンジントラブルで不時着水においこまれている。

攻撃目標が二転三転して、午後八時二十五分に、中津留機ともう一機が、吾奇襲ニ成功セリの打電を最後に連絡が途絶えたが、城山氏もその特攻機が海岸の岩場に急転回して突入した現場を取材におとずれている。

戦争がおわったと灯火管制を解除している米軍基地か、米軍艦船を見て、とっさに目標を変えたというのだ。沖縄本島の本部半島に近い伊平屋島の海岸だという。

二度火柱があがり米軍キャンプはパーティを中止、また暗闇に戻ったという目撃談や現地案内映像も流していた。大尉の一人娘さんも回顧談に登場して、はじめてその事実を知らされ、父親を人間として見直したそうだ。

戦後、生き残った特攻隊員たちとその家族は文字通り、石もておわれた、というところから、関大尉の母、関サカエさんの戦後がはじまる。彼女が住む家には石が投げ込まれるので、大家から退去を求められたりもした。・・・ ・・・ いとこによく似た人がいて、それが誤認され、死んだというのは嘘で、どこかに隠れて生きていたんじゃ、という誤解もあったかもしれない。昭和28年11月、あるつてで働き場所をみいだした石鎚山の奥の半寄宿制の中学と小学校を併設した学校の用務員として、買い出し途中で倒れ、戸板で運ばれたが55歳で持病の悪化により亡くなられた。軍神の母のあまりに悲しい最後であった。取材に訪れた城山氏は、その谷間があまりに深くて、ただ仰ぐぐらいでは空が目に入らない、と書いている。「飛行機乗りとして特攻死した息子のことを思い出させまいとするかのように、あまりにも狭い空。痛ましくて見ていられぬ小さな空であった」と書かれている。

そんなこんなで、新発見をしたかのような感に囚われていったのであるが、産経新聞社のウエブ版正論談話室を昨日覗いたら、投稿から、私と感性が似ておられると感じているS氏の二編の投稿をみて、また話しがつながる事実を知った。

http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/top_display.cgi

時の流れのままに、から

『今夏、ほぼ同時に出版された若い女性著者による特攻隊の本を読んだ。『8月15日の特攻隊員』(吉田紗知)と『知覧からの手紙』(水口文乃)の2冊です(いずれも新潮社)。両書とも、昭和20年4月から終戦の日の夕方特攻出撃し散華した勇者二人の若すぎた人生を追ったものです。

この両書を読んで感じたことは、人の一生は時代の大きな流れに左右されるものであり、この流れに逆らうことは出来ないということです。この二人の若人に象徴されるように、昭和19年秋にフィリッピンで始まり終戦の日の夕方に終わった特攻作戦では、敗色濃厚な日本国を救うために、およそ4500名もの未来ある若者たちが、時代の流れに翻弄されながら散華しました。

左傾勢力にのっとられた小沢民主党は、参院選挙で上手く国民を騙し勝ったことをいいことに、国民の半数以上が賛成している「テロ特措法継続」に、アーだコーだと戯言を並べて反対しています。日本は憲法9条により血を流す人的貢献が出来ない以上、情けないことながら、次善の策としてインド洋の“ガソリンスタンド屋”になるのは、止むを得ないことであり、国民の多くもそう見ています』
・・・   ・・・   ・・・
『『8月15日の特攻隊員』は東京の女子大で国際関係論を専攻していた著者が、田舎の法事で曽祖父の末弟であった大木正夫上飛曹(海軍 享年21才)が、終戦の昭和20年8月15日夕方、宇垣中将率いる彗星艦爆特攻隊員の一員として沖縄で戦死したことを知ります。そこから、“予科練”の意味すら知らなかった彼女による、大木上飛曹の最後を突き止める懸命の旅が始まった。

生き残りの特攻隊員の話を聞き、防衛研究所で旧軍関係文書を紐解きながら、インターネットを活用して、米国在住元米兵から大木上飛曹と同じ特攻隊員の一員として戦死した後藤上飛曹が、沖縄本島沖の伊平屋島の砂地に突入したことを示す救命胴衣や飛行機のジュラルミン破片の写真を入手します。また、旧軍関係者から、笑顔を見せながらトラックに乗り最後の特攻出撃のため飛行場に向う四人の特攻隊員の写真を見せてもらい、そこに大木上飛曹の顔を発見するのです(四人とも当日数時間後に戦死)。この写真は同書の表紙を飾っていますが、涙なしに見ることは出来ません。

同じ題材の『指揮官たちの特攻』(城山三郎 平成13年 新潮社)によれば、伊平屋島に突入した特攻機2機のうち、一機は「左の岩礁へ、一機は(中略)米軍キャンプを避けて水田へ」突っ込んだとあります。一方、吉田さんの調査では、後藤上飛曹機の突入場所は写真を撮った元米兵から、「a sandy hill just outside of an Army Camp」(米軍キャンプ外側の砂の丘)と回答がありましたが、田んぼに馴染みのない米軍兵士が「田んぼと砂丘」を間違えた可能性もあります。いずれにしても残る一機(宇垣中将、中津留大尉、遠藤飛曹長)は、大きな岩礁近くの海中に突入したことは今回の吉田さんの調査でも確認されました。』

『次に、『知覧からの手紙』はフリー記者の水口さんが、昭和20年4月に知覧特攻基地から出撃し沖縄海域で戦死した穴沢利夫少尉(陸軍 享年 23歳)の婚約者だった伊達智恵子さんの生き様を、智恵子さんの一人語り口調で書いたものです。穴沢少尉と言えば、ご存知の方もいるでしょう。数年前に扶桑社から出版された中学生用歴史教科書(「新しい歴史教科書をつくる会」編集)に載っていた、知覧高女の女学生達が振る桜花に見送られながら、敬礼しつつ離陸中の一式戦闘機の搭乗員が穴沢少尉、その人でした。』

・・・    ・・・    ・・・

『その後二人は婚約し、彼女は特攻基地を転々とする穴沢少尉の後を追い面会に行くのですが、結局会えずに終戦を迎えます。戦後結婚し、ご主人に先立たれた彼女は今でも穴沢少尉の吸ったタバコの吸殻と写真を持っていて「利夫さんの存在を近くに感じている」という。なんという残酷な人生であったのか。時代が違うと言えばそれ迄ですが、安逸な世の中と生活に慣れてしまった小生は、深い哀悼と同情の念を禁じえないのであります。』

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