3.占領軍、左翼勢力、天皇などの激突期 1945から1952(昭和27年)まで
占領軍は宮城前広場を単にプライベートな空間として利用しただけではない。日本人が「無抵抗」なことがはっきりした46年になると、彼らの存在を誇示するための空間としてこの広場が積極的にりようされるようになった、という。
最初のパレードは、第一騎兵師団に属する第七騎兵連帯のパレードが行われた、という。騎兵も来ていたとは、しらなかった。国内紙には掲載されなかったが、米軍紙には、こう書かれた、という。
戦勝国の力が東京の宮城外苑で誇示されるのは、第七騎兵連帯の戦車や装甲車が観閲台の前を通り過ぎるときである。・・・米軍による最初の整列行進は、連隊長の交代によるもの云々、とあるらしい。(3月3日)
3月8日にはさらに第七騎兵連隊による大規模なパレードがあり、このときは航空機も低空で飛行した、という。
この年、天皇は2月19日に、後に有名な戦後巡幸をはじめられた。これ以降、天皇は宮城前広場を空けたまま巡幸に全国各地を回られる。宮城前広場はもはや天皇のための広場ではなかった。そこは米軍によって占拠されたかに見えた。
GHQは「民主化」の一環として、労働政策を積極的に進めた。45年12月に制定された労働組合法で労働者の団結権を保障し、翌年から労働組合が続々誕生となった。
5月1日に第17回メーデーが11年ぶりに開催されることが決まると、606もの組合が参加を予定し、4月26日には、内務省警保局が、メーデー不干渉方針を発表。当日は30万名という予想を20万もしのぐ人出だったという。
関東大震災のときの30万名をも超える人出となった。
基本的に無言だった天皇にくらべて徳田球一は、「主食配給の不足、金持ちや投機師の隠匿米、労働者の困窮などをとりあげて演説し、「天皇を打倒しろ」とどなったときが、一番群集の長い歓呼が起こった、という。
天皇制を支える最大の政治的空間だったはずの広場が、反対に天皇制打倒を叫ぶ最大の政治的空間となりはてた。天皇制を温存し利用しようとしていた占領軍と、天皇制に敵対していた左翼が、同じ空間を利用していた。
天皇と皇后が戦後初めて宮城前広場に現れたのは、1946年11月3日日本国憲法が公布された日であった、という。
陛下は背広、中折れの姿でゆるゆると歩を運ばれる。楽隊が君が世(ママ)を演奏すると会者一同が唱和する。なぜか涙がこぼれて声が出ない。周囲の人々は皆そうらしい。吉田首相の発声で万歳三唱すると周囲は沸き立った。陛下が演壇から降りられると群集は波打って二重橋のほうに流れる。熱狂だ。涙を拭き拭き見送っている。・・・・何という感激であろう。私は生まれて初めてこんな様相を見た。(芦田均日記、1986、岩波書店)
しかし、この日集まったおよそ10万人は、メーデーなどの参加者よりはるかに少なく、万歳を三唱した10万人は誰一人、憲法のケンの字も口にだしていなかった、という。彼らは憲法の公布を祝うために広場にきたのではなく、天皇や皇后を見に来て泣いていたことがわかる。
逆にいえば左翼が集まらなかったことが、メーデーなどの人出を下回った、と記している。「天皇制を残存させ、資本主義を擁護する新憲法は、共産党にとって容認できないものだった」という。
この広場は、左翼が多く集会を行い、米軍も独立記念日に壮大なパレードを行い、マッカーサーが日本の支配者であることを見せ付けたりしたという。通常の昼間、サラリーマンたちは白球を追いかけ、日曜日には凧揚げ大会や模型飛行機コンテストなども行われた、という。しかし、夜になると、日本人男女による愛の空間ともなったようで、朝日の記事にも指摘されたし、漫画家横山泰三は「雑誌ホープ」50年9月号で、広場で性行為にふける男女のイラストを載せた為、この雑誌は摘発を受けた、という。
逆コースの始まり
48年10月、芦田内閣から吉田内閣に代わり、翌年一月、民主自由党が総選挙で絶対多数を獲得したことでマッカーサーと吉田の提携体制が成立して行く。
中国共産党による大陸席巻の動きもあって、政治的反動化現象が次々とあらわれるようになった、とされる。
50年になると、GHQによる赤狩り「レッドパージ」が本格化する。49年暮れから50年6月25日の朝鮮戦争勃発までに11000名の労組の活動家が、公共部門から解雇されている、という。この年、メーデーには最高の60万人がさんかしたとされる。迫り来る赤狩りへの対抗の意味もあったらしいが、すでに皇居前広場での警察パレードも復活させた警視庁推定では40万という数字だった。という。5月3日、憲法施行三周年記念が平からたが、陛下のもとに広場に集まったのは一万五千名ほどだった、という。しかし、同日、マッカーサーは、日本共産党に対して断固たる措置をとることを発表している。
5月30日には、米軍が第八軍戦死者追悼式典を開いたが、「共産党防衛・平和擁護祖国統一戦線人民決起大会」も開かれ、200団体、一万五千人が参加、追悼式典は、共産党のデモによって、中断された。参加者の一部は、占領軍に暴行を働いた、という。それは46年以来、占領軍と共産党が棲み分けて利用してきた広場で、真っ向から対立した日で、朝鮮人も混じっていた、という。
朝鮮戦争が勃発し、米軍が国連軍となると、皇居前広場では、国連軍のパレードも行われたが、共産党系などに広場を使用させない方針は政府内では揺るがなかった、という。51年12月24日の国連軍パレードを最後に、広場は再びなにもない空間へ戻っていった、という。
52年、独立後初のメーデーが、神宮外苑で行われ、皇居前広場をメーデーに使用させない方針への反対決議が、満場一致で採択され、人民広場へ行こうという叫びがあちこちで聞こえるようになったという。占領軍がいなくなった以上、皇居前広場は人民広場になった、という思いが広範囲に共有されていた、という。
それで、午後の各方面への行進で、6000人が日比谷公園を経て使用禁止になっていた皇居前広場へ結集し、デモ隊と、警戒に当たっていた警官隊約5000名が衝突した、という。永六輔は、このとき、自衛隊(警察予備隊)の戦車も偽装して隠されていた、ともラジオで指摘していた。それで、自衛隊関係者に尋ねたら、それは本当のことだった、と答えた。
デモ隊は死者二名、負傷者1200名、警官隊は負傷者800名を出す血のメーデー事件(皇居前広場事件)がおきた。
警官隊は、一部においては拳銃使用のやむなきにいたった、という。100発はくだらない音を聞いたとも。モ隊は8000名とも資料にある、という。群集に紛れ込んでいたものがやく千名、脇をついたからともいう。
この事件に、主催した総評は強く批判声明を出したが、皇居前広場での左翼勢力の完全な自滅を意味した、と記されている。
木曜日, 9月 20, 2007
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