8月16日の皇居前広場
侍従の入江相政は8月16日の日記にこう記した。
「午後から、〜君と一緒に宮城前に行く。 慎んでお詫びを申し上げる。泣けて泣けて仕様がない。お詫びを申し上げているのは、8〜9割は青少年で頼もしい限りである。・・・」
23日には船員団体の明朗会に属する日比和一ほか12名が広場で自決した。・・・
皇后陛下が皇太子あてにだした手紙には、「二重橋には毎日 大勢の人が お礼やらおわびやら 涙を流しては もうしあげています」としたためられていた、という。
だが、16日の日記に入江はこうも書いていた「大泣きに泣いて帰ってきたら、すっかり気持ちも浄化されたような気がした。」と。
ここには「大泣きに泣く」ことで、一日前に受けた敗戦のショックをいとも簡単に水に流してしまう日本人の一典型がある、と書いている。
敗戦の翌日には早くも人々の心には、天皇とは別の勢力が主役の座を占める「戦後」を受け入れる準備が出来ていた、と書いている。
「菊と刀」を書いたルース・ベネディクトは、一夜にして日本を代表する新聞が、それまでの鬼畜米英、徹底抗戦路線から決別して、平然と今後の平和の指針を堂々と掲げていることを、特書している。ころりとなんのけじめもなく状況次第で生きる態度を変えてしまう、日本人へのおどろきであると理解する。
たとえば、ドイツで戦前、ナチス党員であったとしたなら、戦後も、自ら宣言して決別しないかぎり、まわりも彼をナチス党員として意識するという。状況次第で、どうにでもなるという態度は、論外なのであろう。しかし、大新聞でさえ、状況に巧みに取り入るやり方に、欧米人はやはりカルチャーショック以上のものを感じるのだろう。
麻生氏が、外務大臣を努めた高村氏の事務所に挨拶に行ったら、氏は不在であったが、のこされたものは、現在の状況がこうである以上、福田支持しかありえない、と言ったと言う。丸山真男氏がいう、「永遠の現在」がここにある。
神奈川大学長で、宇宙物理学者の桜井邦朋博士は、NASAでの研究員時代が長く、欧米人のスタイルに理解があり、帰国後「考え方の風土」を講談社現代新書に書いた。当時話題になり、ある高校では副読本あつかいを受けたこともあったらしいが、現在では絶版。私も処分してしまい、古本屋で偶然見つけて手許においている。
虹の色や太陽の色さえも国によって認識に差が出る、と言うあたりからあちらでのカルチャーショックが語られる。英語ができることも大事だが、あちらの頭の中が理解できなければ、また同じ失敗を繰り返すおそれがあり、あちらの常識が基本的にどうであるかが、興味があるわけである。
桜井博士は、インド人の学者が、あちらで科学はひとつといって、べつの学会に聴きにいくというスタイルにもおどろいた、という。また、発明も発見もロジックだということを強調された。ロジックによって緻密に詰めることができるから、発明や発見も可能なのだと、いう。
日本人は意見を否定するとき、おまえの言うことは一面的だといって、否定することを対立的に描いている。これでは、建設的な議論の展開ができないだろうと、・・・。
岡博士は、発見はいのちのよろこびといい、日本的情緒が大切ということを強調された。欧米人の発明、発見方式とちがうやりかたのように思える。
岡氏の論文が、戦後フランスで評価され、それにつれて日本でも評価が高まり、奈良女子大教授になられた。フランスの先生方は、ブルバキのチームのように、幾人もの数学者がOkaというペンネームで共同して論文を発表していると勘違いしていたらしい、それで、講師をやめて浪人中の岡氏が独力で切り開いた境地の結果だと知った時の驚きは大変なものだっという。フランスの数学者達が二度ほど来日し、岡博士のもとを訪れている。フランス語で論文を書いていても、通訳をかねた若手達は、岡先生はフランス語を忘れてしまったのでは、と思うほどの対応もあったらしい。
フランス流の形式の整いというスタイルで記述されて、並の日本の数学者でも理解できるようになった、ともいわれている。しかし、そうしたやり方では、自分を越えない、という意味をこめてコヘランだよ、と弟子筋の九大名誉教授梶原先生に語ったという。 coherentの語感とかけての述懐だったと。
「数学の本質は禅師とおなじであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると、客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を表してくるのである。姿を表してしまえばもはや法界の法ではない。」
「道元禅師はこう言っている。『心身を挙して色を看取し、心身を挙して音を聴取するに、親しく会取すれども、鏡にかげを映すが如くには非ず。一方を明らめれば、一方は暗し。』親しく会取するまでが法界のことであって、鏡の映像をよく見ることは自然界のことである。」
「法が法に関心を集め続けてやめないのは情緒の中心の働きだと思う。そうすれば、終には客体の法が主体の衆生(このときはもはや法ではない)の「心窓の中に入る」のであるが、これは大脳前頭葉の「創造」の働きである。」
「数学の研究の場合は、私の場合を例にとっていうと、大体2年間くらい関心を集めつづけるのであって、そうすると一つの論文が書けるのである。長期にわたって関心を集めつづけると、情緒の中心は大変疲れるらしい。こういうことをした後は少なくとも2ヶ月くらいは休まなければいけないのであって、漱石がはやく死んでしまったのは、これをしなかったためだろうと思われる。」・・・岡先生も、自然界と法界の区別を述べているように思いますが、法界は生前あるいは死後の世界で、その世界にいることを仏(人にあらず)、という意味)だと、永六輔氏がラジオで発言していたことがある。
岡博士は、数学者によっても、人間的評価が異なる部分もあり、たいへん興味の深い方で、一般日本人とはやはりだいぶ異なる、と申し上げてよいのだろう。しかし、基本的には、右翼的な言動もされた方である。
例えば矢野健太郎博士は、こういう故事をのべられている。
先生は奈良の近く、つまり京都や大阪で学会があるというと、たいへん興奮して学会に出席されようとなさるが、余りに興奮されると先生のお体にさわるというので、家族の方は先生に隠していたそうである。(実は長女のすがねさんが奈良女子大の先生でもあった)。
あるとき私(矢野)は、京都か大阪か忘れてしまったが、学会で先生をお見かけしたことが有る。その時先生は大変興奮しておられ、何かブツブツ言っておられた。
その会場は、関数論の会場で、私の専門(微分幾何)とはちがうので中へ入ることは遠慮したが、岡先生が興奮なさるはずである。次の講演の演題は、「岡の定理について」であった。
この講演を行った若い学者は、講演の後で、真ん中に変なおじちゃんが座っていて一人でブツブツ何か言っていたので、とても講演がやり難かった、と言っていたが、後でその人が岡先生であると聞かされてビックリしていた、とある。
大学へいかれる途中、お地蔵さんへ石つぶてをなげて、当たらないと大学へは行かずじまいだったというような逸話も矢野先生の著作にあったような気がする、・・・。
引用した記事写真は、梶原譲治著、「大学院入試問題解説」(理学・工学への数学の応用、現代数学社、1991年)による。
土曜日, 9月 15, 2007
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