「世界はここまで騙された」コンノケンイチ著、徳間書店 後書きより
アメリカは、戦争のきっかけを敵の先制攻撃に求める手口を常用する、ということが遅まきながらよくわかる。真珠湾もしかり、イラク戦争のきっかけテロもしかり。むかし、メキシコ湾で米軍の戦艦が突然爆発、沈没したことをきっかえに戦争をしたのも、自作自演だったという。駐在武官だった、日露戦争時の参謀、秋山真之は当時米国にいたが、そこまでは気付かなかったらしい。味方もだます、原爆投下もそうだったし、東京裁判も世界を騙して、原爆がおとされて当然のような環境を、精いっぱい構築したわけだ。
以上は、後書きの要約を紹介するにあたり、書いてない箇所であるが、後書きの意味を考えると、そうした思いに捕われる。
1 群れたがる
2 官能的
3 情緒的
4 縮思考
5 権威に弱い
6 方円を解しない
6は地平線が丸いことを理解しない、巨視的な見方ができない、ということだそうだが、女性の特質とも言えるこれらの特性を色濃くもつのが日本人だという。
拉致問題も、一部を拡大して全体を見失うという愚をおかしかねない、とコンノ氏は指摘している。
しかし、アメリカが自作自演かはさておき、イラク戦争をはじめるとき、日本でうまくいった占領政策を例にあげ、イラク国民を民主化する、と楽天的にネオコンたちが発言していたときは、さすがに耳を疑った。
日本国民を洗脳し、二度とアメリカに復讐戦をしかけられないように、あれほど周到に綿密に占領政策を何年もやった先祖の努力をころりと忘れ、楽天的な予定調和的能天気には心底びっくりした。なぜ、憲法9条を押し付けたかもりかいしていないかのようだった。もっとも、今のようなイラクの現状の泥沼を、有る意味、計画していての演技だとしたら、恐れ入る。
一日平均100人近くが自殺しているのに、何十年かで100名近くが拉致されたことを今ごろになって騒ぐのも「にほんじん」らしい、と言う。
「末梢的なことを拡大視し、感情的になって全体を誤ると言う愚を避けなければ大変なことになる。日本の太平洋戦争への突入も米英による石油の禁輸にあった。北朝鮮が暴発する危険性がないと、だれがいえるだろう。」とおっしゃるが、この議論は幼稚すぎる。だれも北を暴発させようとはしていない現状では、心配無用。暴発しかかれば、ほぼ自壊してしまうだろう。将軍様がひとりで全責任を持つ体制で、そんな愚はしないだろう。現に、アメリカに友好国宣言をしだしたという。それで、手柄にありつけないと焦っていた野心家ヒル次官補の出番がでてきているわけだ。
しかし、コンノ氏に求めるのは、そんな一昔前の床屋談義的な話しではなく、どこでどう調べたかしらないが、氏独自の見方、意見である。
このままずっと米国の一極支配が続けばよいが、超国家勢力の本拠はヨーロッパで(指令塔は英王室といわれている、パソコンはMac使用だってさ。米軍もMacだってさ。)ブッシュもネオコンも使い捨て、おそらく来年からアメリカは急激に没落するだろう、と言っている。
アメリカにさんざん働かされたあげくすべて絞り取られているのだ。日本は。ドルと米国債の保有高は日本が世界一で、理由をつけて常に搾取されている。かって橋本首相が「米国債を売りたい誘惑に駈られる」と発言したとたん、米国の株式が急落したのを見てもわかるだろうとしている。
(評論家の森田実氏は、田中首相はエネルギー問題は、日本独自で、と言ったとたん、米国に刺され、橋本首相は国債を売りたい誘惑に駆られるといったとたん、失脚したと指摘。金丸氏は、北と独自の取引をしようとして、政界を追放された。特措法を拒否する小沢党首は、果たして・・・・・・!?)アメリカは依然として、本当は英国中枢部からみれば、植民地なのである、と中丸薫女史(明治天皇の外孫、国際ジャーナリスト)は指摘されている。
さて、日本人の特質は、女性的で欠点も多いがそれに倍する長所があると、氏は指摘している。女性体質の長所を一言で表せば「無条件の愛」であると。弘法大師「空海」は母性とは「みなを一緒の情緒で包み込む性で、乱れた世を救う鍵こそ母性愛である」と語っておられる、という。「真白き富士の嶺(ね)」の歌詞ではないが、特攻隊の若者も、かえりみて、かえりみて、最後に「かえりみはせじ」と言っても、「還れ!はやく母の胸に」ではなかったのか!?。
戦場で息絶える若者の多くが「天皇陛下万歳」ではなく、「おっかさん!」であったと、軍歴の経験のある父は私が幼少の頃語っていた。その時はあまり気にしなかったが、・・・。
実はキリスト教のルーツは仏教で厳密に言うと「密教」なのである、という指摘はこの後書きで指摘されている。
イエスキリストという人類最大のメシアを育てたのは、なんとユダヤ教ではなく仏教(密教)だったのである、と。このことは今では聖書研究家の間では常識となっているという。キリスト教で問題にされないのは、「旧約と新約のゴッドが異種」という認識が欠落しているからだという。
キリスト教とインド密教は同体であり、インド密教を日本に伝えた空海は今も多くの日本人に「お大師さま」として慕われている。キリスト教とインド密教は同体であり、つまり日本人はキリストの直系、ということになるのだ、と宗教学者島田元教授も仰天するだろう、指摘をされている。
アーレフ(旧オウム)もキリスト教を参考にした密教であると島田教授は解説している。のめり込み過ぎて
教授職を解任されてしまったが、専門家がのめり込む要素があったのだろう。
キリシタン弾圧で信長以降のキリスト教徒は300年間地下に潜伏したが、この時代のキリシタンといえば、特に聖母マリアへの信心が篤かった。弾圧によって、公然とマリア像を拝むことはできなかったので、彼らは観音像で代用した。今もキリシタンの遺物として各地に多くのマリア像が残っている、と指摘している。
私は、芥川竜之介の南蛮小説「奉教人の死」を高校時代の教科書副読本で読んで、驚嘆した経験がある。たとえば、白隠禅師が、無実の罪で、お前の子だと押し付けられても釈明せず、暑い日も雪の日も、乳をもらうために村々をまわり、育児をつづけた姿をみて、いたずらしてその子を産んだ娘は、泣いて周囲にわびたという。布教はおのずから近隣に広まったという。今熊本で話題になっている赤ちゃんポストの原点は、昔から日本にあったのだと思う。芥川は、それに南蛮風味をつけて、小説にしたのだと思う。「無償の愛」をキリスト教的色彩を施して書いたわけだが、原点は昔から日本にも同質のものがあったわけで、根は一つということになる。身よりの無い奉教人「ろおれんぞ」も、赤ん坊の父ということにされてしまうが、一言も弁解せず、最後に火事で死にかけたその赤ん坊を救うために、身は犠牲になるが焼けただれた衣服の端から豊かな乳房が現れることによって、周囲からどよめきがおこる。「ろおれんぞは女だ!」。娘の父親にも衝撃が走る!。まるちり(殉教)じゃ、というどよめきが広がる。
『・・・されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、 「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか』、が結びの文章となっていて、民主党の河村議員も愛読書にあげておられるという。氏も靖国参拝肯定派のお一人だと、先日知ったばかり。
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/hikaku/houkyouninn.html
青空文庫からの転載が載っていて、改めて天才芥川の神髄を見る思いがしている。合掌。
「旧約聖書の時代は歴然とした男尊女卑の時代で、女は人間のうちにはいらなかった。しかし、旧約のゴッドから新約のゴッドに移るにつれて、神は徐々に女性への尊厳を顕わしていった。その極限に聖母マリアがいるのである。
聖母マリアはイエス・キリストの母であり、イエスは人間であると同時に「神の子」でもある。となればマリアは「神の母」なのである。聖母マリアは神のつくった人間の中では最高の地位を占めるとされ、神を除いた最高の存在である。・・・しかも母であることによって日本人の特別な使命がしめされているのである。」としている。
新約聖書には救世主は東から来ると言う記述は多いが、バチカン上層部には「太陽が出る方」「東の国」という記述は、日本を象徴としていると言う解釈が定着しているという。おそらくはバチカンはファチマ第3の予言で、すでにキリスト教のパラドックスも知っている。暗示的なことは今年の8月に急きょなぜか日本人2名をバチカンの枢機卿に任命したことである。としている。
最も聖書にほど遠いと思われてきた民族が日本人であるが、ザビエルから見た当時の日本人は「イエス・キリストの福音を受けるのに適した最良の国民」なのであるとして、1549年にザビエルが母国に送った手紙を引用している。
最後にコンノ氏は、日本が聖母マリアの庇護下にあることとして、以下の日付をあげている。
1948年12月8日(米国では12月7日)は、ニイタカヤマノボレの開戦日だが、聖母マリアの「無原罪のやどり」の記念日である、という。今年もダ・ビンチ展で「受胎告知」が公開されたが。
マリアは神の手によって昇天したので「被昇天」という。終戦記念日8月15日は聖母マリアが亡くなった「被昇天の大祝日」だった。
サンフランシスコ講和条約の調印式は1951年9月8日、この日は聖母マリアの誕生日だった。
長崎の浦上天主堂の真上で炸裂したユダヤの原爆も、聖母マリアが我が身を盾に、サタンとけもの達を諭したと思えてならない、と述べておられる。
数学者野崎昭弘教授の「数学的センス」日本評論社、1987年
の「第3話 分析のセンス」のとびらにこんな文章が・・・。
おねしょ しょうの ゆりな(3歳) またこんなに あせかいちゃった
アベ・マリア あべ かおこ(5歳)
マリアさまのみょうじも あべ なのね :^^)
亀村五郎編『こどもひろば』(福音館書店、1983)より
水曜日, 8月 22, 2007
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