土曜日, 6月 06, 2009



バイクの修理を頼んでいる間、半日ほど待機する必要があった。近くの書店で、時間潰し用の文庫本でも買って、久しぶりに喫茶店で、自分を日常の自分を忘れる時間を持ちたいと思うようなことは自然なことだと思う。すると、また渡部昇一先生の『知的生活の方法・音楽編』という2009年2月発行の、比較的新刊な部類にはいる書を手にした。どういうわけか、たまたま同姓のプロの演奏家ととの共著スタイルで、なぜ朝食はモーツアルト、夕食はバッハなのか?などという帯がついている。
http://www.amazon.co.jp/知的生活の方法・音楽篇-WAC-BUNKO-渡部-昇一/dp/4898315976

購入して読み出すと、同姓なわけで、玄一氏とは、実の息子さんだとわかる。そこではじめて、学者渡部先生の子供さんは三人とも音楽家であると知り、がく然とするも、それほど意外には感じず、妙に納得させられた気分になった。

氏は、講談社学術新書から『知的生活の方法』を出され、いささか知的生活ということばに抵抗と言うか、一種後ろめたい恥ずかしさを感じつつも、私の、折りに触れての研究的生活の精神的字引たりえた。1976年4月20日が初版で550円であった。表紙の裏には、知的正直とあり、ーーー英語には知的正直(intellectual honesty)ということばがある。わからないのに、わかったふりをしない、ということにつきるのである。・・・などとなっていて、虚をつかれたような感じになったことがある。日本でも、正直の頭(こうべ)に神宿る. Gods dwell in an honest heart.などともいうし、正直は最善の策. Honesty is the best policy. ということばもある。

昔から、寺田寅彦という物理学者(この先生も猫を可愛がった!)も、随筆の中で、似たようなことを既に述べられている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2359_13797.html

『「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。・・・
・・・ 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉(とびら)を開いて見せるからである。・・・』などとなっていて、高校だか、中学時代の副読本で最初に出会ってから、ずっと心の底に住み付いている警句となっている。

渡部先生も、中学校・高校・大学・大学院とたいていの種類の学校の教師をしてきたが、よく分からないのにわかったふりをする子供は、進歩がとまるのである、としている。


10年程前、知り合いに出した私の手紙にもこんな一文があった。『この岡潔氏も、中学への進学希望者が二人のときに入試に一度失敗して、尋常高等小学校に一年通ったというから、ほほえましい。物理学者の寺田寅彦も小学校時代算数ができなくて、特別にある先生の家に日曜日などに通わせられて、特別補習などを実施して何とかできるようになったこととあい通ずるものを感じる。先生の奥さんが出してくれるお菓子に最初は釣られていたというのも面白い。考えてもわからず、頭が痛くなり、はなを垂らして先生の助け船を待つというあんばいだったというから、人生はわからない。外国(結局フランス)で岡の論文は有名となり、あちらの大家が奈良へ訪ねてきたそうです。「K. Okaというのは長い間架空の人物名だと思っていた。おそらくフランスの若い数学者がやっているN. Bourbakiと同じように、20〜30人の数学者が共同研究し、それをK. Okaの名前で発表しているものと長いあいだ信じていた。それは、K. OKaの論文を読んでいると、とても一人の人間の書いたものとは思えなかったからだ。そんなわけで、K. Okaが実在の人間であることを知ったときの驚きは大変なものだった」と案内の日本の数学者たちにジーゲル先生は言ったそうです。もう一人のカルタン先生も、岡のことを褒めちぎることしきりだった、とは矢野健太郎の客員教授時代の思い出の本に書いてありました。・・・』返事はこなかったが、・・・。だいぶ脱線してしまった。

もうひとつ、先著「知的生活の方法」には、こんな指摘も・・・
 『”発想の井戸”(強烈な偏見)として、二つの対照的に異質なものをあげておきたい。一つは、「オカルトの世界」から来るものであり、もう一つは「仕事の世界」から来るものである。
 アイデアそのものが、天の一角からやってくる感じがするものであるが、それはとりもなおさず、アイデアの根源的故郷として、あるいは尽くることなき水源地としてオカルトの世界があることを暗示する。この場面のオカルトは、いわゆるオカルトのほかに、宗教をも含めるものと考えてよい。

 たとえば、ヨ−ロッパを旅行してまわるとする。 ・・・その背後にある発想の根源を考えさせられる。そこにはキリスト教、特にカトリックの信仰−その内容は真正のオカルト、つまり玄義と呼ばれるものである−があることに気づくであろう。』

そして、仕事の世界から来るものが、(つまりズルが出来難い)日々の研鑽が、一番アイディアをえる正道だとおっしゃっておられる。

演奏についてもまったく同様で、息子さんも弦楽器の練習がいやでいやで逃げ回る時代も多く体験されているようだ。

さて、出だしは、先生の故郷である山型県の田舎での戦前までの音楽環境からはじまる。

シナ事変のとき、親戚の青年に招集令状が届き、盛大な壮行会が行われたというが、うわさ話のあと、間がもたなくなり軍歌を歌おう、となっても誰も知らない。それなら、せめて国家である君が代を、となっても結局だれも氏の親戚には、歌える方がいなかった、という事実からスタートしている。

学芸会の出し物で、クラス全体で唱歌を歌う練習で、先生は大声で歌っていたら、先生から、お前は口パクだけしていろと言われたと言う。『おれは音痴で、音楽は駄目なんだ』という刷り込みをされた、という。

氏は、ドイツ留学をしてなんとかドイツ民謡が少し歌えるぐらいになって、子供の頃から西洋音楽とは無縁の生活を歩んできたがその終着点は、桐朋学園一期生との出会いと結婚であり、氏の祖母が、西洋音楽をさして、『西洋のガチャガチャ』と評していた、その音楽が一日中鳴り響く家庭と、激変したそうである。

まあ、私は、氏の学問以外の著作は、6割方以上は、読んだと思うが、あるとき、ふと印税が気になったが、子供三人に、音楽を学ばせ、しかるべき楽器を買いあたえ、月謝をはらう苦労談もあって、疑問が氷解したことも事実である。先生の紹介された、上智大英文科の必携本とされる戦前の日本人が書いた文法研究書も買い、英作文の参考としている。(複刻本)

そして、ところどころに、チェリストである息子さんの文章が、程よい割合で挿入される。
『西洋音楽と他の音楽を隔てたもの』では、中世になって、各地に出来た神学校や大学で、音楽は大学の重要科目となった点を指摘している。
(中世ヨーロッパ社会に大学が誕生したときも、法学や医学などの専門を学習する以前に、リベラル・アーツとしての自由七科(文法・修辞学・弁証法の三科と、数論・音楽・幾何・天文学の数学的四科)を学習することが義務づけられていた。)

学問として成立すると努力の蓄積が起こる、と指摘されている。このことが、西洋音楽と他の地域の音楽を隔てた最大の理由だと思うと、指摘されている。

一方、父親の昇一氏は、『音楽についても、それは以前にあった、音楽を楽しむ、音楽の技術を向上させる、といったものをさらに深めて「知」の分析の対象にしたというのが、恐らく西洋音楽の特徴ではないか、としている。

また、玄一氏はクラシックコンサートへの誘い、という終わりに近い章で、コンサートの楽しみ方なども述べている

その中で、予備知識でさらに楽しく、とありコンサートに行くのだったら、予習をしたほうが良いなどと勧めている。一番簡単なのは、これから生演奏される曲をCDなどで、数回聴いておく、ということから勧めている。・・・そしてさらに、スコアも読めるようになりたい、などと大胆な提案もある。しかし、私は、そこまで進むつもりはないのだが、ベートーベンの交響曲第六番『田園』という超有名曲について、スコアの秘密を解説されているところに興味があった。
『曲が進み、展開していくと、広々とした何か飛翔感をともなった美しい箇所にさしかかる。よく見ると(譜面)、同じデザインの音型が楽器を変えながら、さざ波のように何度も繰り返される。』と述べ、ベートーベンは、最初に著わされたこの短いテーマにとことんこだわりながら、一つの大きな音楽を作り上げているのである。・・・バッハなどは、譜面をひっくり返したり小節数を黄金分割で割ったりすると、秘密があらわれることもあるのである。』

と述べていて、興味深かった。実は、私はもちろん譜面など読めず、演奏などもおぼつかないのであるが、英語論文を書くコツを模索しているとき、たまたま深夜放送で、クラシックを流していたのを録画して、クーベリック指揮の「我が祖国」や、モーツアルトのK299などを繰り返し聞いていたことがあり、特にモーツアルトのK299で、ハッとしたことがあった。

マックで欧米人の書いた英語論文を打ち込んで、主語と述語とを赤と青で強調表示したりして、英文構成を眺めていると、主語は、毎回殆ど変らないか、言い換え程度であることに気づいていた。対して苦労もなく書かれている、という印象がまず出てくる。

見ていけば、そのまま理解できるように書く、あるいは耳で聞いてすぐ分かるように書くという前提が、徹底しているようである。そうであれば、作曲と同じデザイン構成的な手法で、書いていけねばならないだろう、というのが当時の感想で、モーツアルトを何回か聞いていると、次にこういう具合になるのでは!?と聞き手が予想できるようになっている。それは、楽章がちがっても、基本構成が同じで、曲調が少し章ごとに変るだけだからである。上記の、玄一氏が述べておられることで、そのことを再確認した思いである。

お金持ちを増やして文化振興を、と題する最終章では、「ロシア軍に融資していたメンデルスゾーン一家」というのがある。

ふつうの歴史観からみると、フランス・印象派が彗星のごとく現れた頃のフランスは、一番落ち込んでいたのだ、という。

普仏戦争で負けて、絶対ドイツには勝てない、ということを肝に命じた時代であったそうだ。フランス人は嫌がるかもしれないが、それを氏は「敗戦文化」とよんでいるらしい。

経済や国力が上向きの時繊細な芸術は生まれず国が衰退の道を歩み始めると文化は爛熟してくる、とも。

日露戦争の時、日本は欧米のユダヤ資本から金を借りたらしいが、ロシアも、軍資金をユダヤ人のソサエティーから借りていて、その中心がメンデルスゾーン家だった、という。

ポーツマスの講和会議に前に、ロシアのウイッテは、メンデルスゾーン家に立ち寄り、当主から、負けに負けている状態では、融資を続けるわけにはいかないから、日本と講和しなさい、と言われたそうである。講和成立後、真っ先の一電は、おのメンデルスゾーン家であり、追加融資を依頼したそうである。皇帝への報告は2番目だったとか。

蔵書数が破格の量であるらしい、渡部氏の書物の魅力は、尽きるところがない。


なかのひと

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