火曜日, 6月 09, 2009
Sapioという雑誌、時々購入するが、お一人過去の顔に属する方がおられるように、この春の号(といっても2008年)分である。少し、気になることがあって、ずっと手元にあった。
グローバリぜーションの時代に始まった「国家の逆襲」では、金美齢さんや桜井よしこさん、佐藤優氏などが意見を寄せている。
「新型感染症の跫音」では、福岡伸一教授が、『ウイルスは生物でないから殺せない。だから恐ろしい。』と言わしめ、日本に帰化した元ジャーナリスト、ベンジャミン・フルフォード氏は、『SARS、HIVは米軍の生物兵器』説がいまだに消えないこれだけの根拠』というのもある。
しかし、私が手元に置き続けた理由はただ、ひとつ、漫画家小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』で、『わしはパール判決書を念入りに全部読んだが、「日本の道義的責任を指摘しているところなど一箇所もない!。『遠山の金さんじゃるまいし、裁判官が判決書で道義をふりかざして一体何になるというのか?』といわしめ、つくづく知性をうたがうよ、と目次で憤っているマンガがでている、ことにあった。
この憤りの相手は、中島岳志氏、北大準教授である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/中島岳志
には、『小林よしのりとの論争』の項目で、学者や論壇を巻き込んだその後の論争の経緯がかなりの量にわたって記録されている。ぜひ一読して、それぞれの立場からの判断を試してみてはいかが!?
わたしが注目したのは、『わしはイデオロギーおよび教義で資料を読んではならないと考える。普通の「国語力」で読めばいいのだと考える。そこで、今回はまず国語のテストを一問解いてもらいたい。』とある冒頭部分である。
そして、問いというのは以下のような文章である。
『問 「Aさんはおそらく間違っていたのだろう。過ちを犯したのだろう。
しかし、故意にではない。計画的にしたのではない。
起こった事件を正しく評価するには、そこに至らせた事情すべてを検討しなければならない』とし、この文章の正しい読み方はどちらでしょう?というして、①と②の読み方を示した。
①Aさんは過ちを犯した。計画性は問題ではない。Aさんには道義的責任がある。決してAさんは免罪されない。厳しく非難すべきだ。
②Aさんにも非はあるのだろうが、わざと計画的にしたのではない。そうなった事情を考えなければ、正しい評価はできない。
そして、まさか①が正解だなんていうやつはおらんだろう。義務教育以前の問題、小学的受験の幼児のレベルだ、としたうえで、『中島岳志、そして中島のパール判決書解釈を指示する学者、マスコミらだ。』と指摘している。パール判決書の一文、『日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間違っていただろう。また恐らくみずから過ちを犯したのであろう。しかし彼らは共同謀議者ではなかった。かれらは共同謀議はしなかったのである。
起こったことを正しく評価するためには、各事件を全体中におけるそれ本来の位置にすえてみてはじめて、正しく評価することができる。これらの事件を生ぜしめた政治的、経済的な諸事情の全部を検討することを回避してはならない。』とだけ書かれている、という。
小林氏は、『中島はこの文章の「起こったことを正しく評価するためには」から後の文章をすべて省き、こう解説している』としたうえで、『パールは、この結論部分で日本の為政者を「間違い」や「過ち」、「悪事」というネガティブな価値判断を伴う語を使って批判した。』という中島氏の文例をあげ、単語しか目に入らんかったんかい、と飲みかけのコーヒーを口から吐き出す、噴飯物扱いをしている。
中島氏は、文脈無視でネガティブな語だけをとり出し、あとは全部、勝手に作文すると言う詐欺滴手法を駆使して、パール判決書の文脈をことごとくねじ曲げていく、と紹介している。
こんなものを学者が揃って絶賛したことは、何度でも書き留めておかねばならない、としたうえで、御厨貴(東大教授)、加藤陽子(東大准教授)、赤井俊夫(神戸学院大教授)、原武志(明治学院大教授)、長崎暢子(龍谷大教授)らの、体制翼賛会的コメントが紹介されている。
たしか、原教授は、ここでもたびたび引用させていただいた、皇居前広場の著者で、元朝日新聞記者ではなかったか!?それで、彼のコメントを引用させていただく。(『パール判決書』を、パールに言及する論者がいかにきちんと読んでいないが、あるいは読まなくなったかが明らかにされている)とある。これは、小林氏のマンガに当てはめるべきコメントではないのだろうか!?
それで、小林氏は、『彼ら全員、全く「パール判決書」を読んでいないか、読んでいるとしたら中島同様の、小学入試不合格の国語力しかない者たち名のであろう』としたうえで、バカデミズム(馬鹿で見ず?)と言う語を献上しているのである。
この本は、小林・中島論争が、1年近くにわたって、何名かの論者を巻き込んで、展開された末期に刊行された。とはいえ、月刊誌Voiceに2007年6月から2008年8月までに掲載された、『パル判決書』と昭和の戦争をまとめたものだそうだが、時宜を得た刊行となった。
渡部教授は、一貫して、東京裁判史観による呪縛を克服するべく、努力されていると思われる。この書の前書きでも、最近の論争にも関心を示されたのであろう、次のような部分がある。
『最近になってパル判事の個人的な宗教や信条などを問題にする人が出てきたが、そんなものは『パル判決書』には無関係である。パル判事は国際法の理論と、その理論に基づく歴史的事件の解釈を述べているのである。パル判事の個人的信条を問題にした人たちの言っていることは、明らかに『パル判決書』をよく読んでいないことを示すものであった。・・・』と。
そして、普通の日本人は東京裁判について知る必要はなく、『パル判決書』のみ徹底的に知るべきである、ということであると述べている。
関心のある方はじっくり普通の日本語で読んで頂くとして、前出のような学者が輩出される背景についても、巻末で述べてあることは、何度強調しても、し過ぎることはないと思うので、引用させていただく。
『法律的にも歴史的にも反駁しがたい『パル判決書』であるが、「パル史観」は、日本で普及せず、「東京裁判史観」が幅を利かせている。』
『では、なぜジャーナリズムや学会は「東京裁判史観」を指示してきたのか。ことの始まり、各界あわせて20万人以上が対象となった昭和21年の公職追放令だったと、私は捉えている。このとき、経済階では、松下幸之助、政界では石橋湛山、鳩山一郎などが追放された、いずれも復帰して活躍したのだから、公職追放がナンセンスな性質を持っていたことがわかる。政治、経済の分野では、後に復帰したケースが少なくなかったが、学界、ジャーナリズムの分野は、追放された人がほとんど復帰しなかった。つまり、公職追放のおかげでポストを得た人間が居座り続けたのである。』
公職追放は、GHQの民政局が行ったものだが、彼ら欧米人にアドバイスした人間がいなければ追放者リストは作れないので、そのアドバイザーが実質的な名簿作成者だろうとして、渡部教授は、ハーバート・ノーマンだと見ている、という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エドガートン・ハーバート・ノーマン
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0014.html
『そのハーバート・ノーマンが、左翼仲間の都留重人、羽仁五郎(ノーマンが日本にいるとき、日本近代史の家庭教師を務めたのが札付きの左翼である羽仁五郎だった)たちを中心として話し合い公職追放者の人選をしたとしか、私には考えられない。』としている。
戦争中、気象庁長官の職にあった、ということで、藤原咲平理学博士(新田次郎氏の親戚)も、公職追放された。
公職追放令で空いた有力大学の主要なポストを、ノーマン、羽仁五郎、都留重人あたりが相談して埋めれば、戦前、反日的行為で帝国大学から入ってくるのは自然のなりゆきであう、としているが、異論はありようがない。
具体例の一人で、吉田茂が、「曲学阿世の徒」とよんだ南原茂総長の後をついだ矢内原忠雄総長を、キリスト教徒としては立派な方だと思うとしたうえで、助教授時代に「神よ、日本を滅ぼしたまえ」というような趣旨の文章を書いていたそうだから、戦前から一部知識人の中には、日本蔑視、欧米重視の左翼的思考が、充満していたのでは、と推察される。
皮肉なことに、都留重人が、アメリカでの証言がきっかけになって、ノーマンのビル屋上からの自殺となった、とも言われている。ところで、都留重人とは!?
鳥居民氏の著作、『近衛文麿「黙」して死す』では、このノーマンの動きがかなり出てきており、興味深い。
『ハーバート・ノーマンは、近衛の死との係わりを問われることはなかったし、回想録を書く時間的余裕もなく没した。・・・1950年代になって、かれ自身がアメリカの捜査機関や議会の調査委員に過去を指摘され、糾弾されるようになって、1957年に死を考えるようになったとき、かれ自身が死に追いやった近衛文麿と広田弘毅のことを思い浮かべて、自分がしてしまった残酷で無情な仕打ちを後悔したにちがいなかった』としたうえで、そこで、都留重人となる、と続いている。
都留はハーバード大学留学中にノーマンと「兄弟のように親しくしていた」と2000年から2001年に月刊誌に自伝を掲載し、その中でいくつかの名前をあげているそうだ。横浜終戦連絡委員会の鈴木九萬(ただかつ)が、ノーマンの作成した最初の戦争犯罪容疑者のリストをマッカーサーの副官から受け取ったのは9月15日で、その時の総司令部は横浜に本拠を置いていた。
ところが、その二日後には、赤坂乃木坂の都留の住まいをノーマンは探しあてているそうである。ノーマンが誰よりも尊敬していたマルクス主義信仰の同志、都留との一日も早い再会をどれだけ望んでいたかをあきらかにするものだ、と指摘している。
ところが、彼の自伝には、そのノーマンと何を話しあったかの記述は1行も無く、ノーマンは8ヶ月前に著わした「日本政治の封建的背景」のコピーを間違いなく都留に渡し、日本をどのように変革しようかと語り合った・・・に違いないのだが、としている。
そして、10月には、2度にわたり、戦略爆撃調査団の団員、トーマス・ビッソン、ポール・バランが訪ねてきたことも記しているが、何を話し合ったか、書いていない。(近衛戦犯指定のためのミニ裁判用の)脚本を作ってやったのだと綴ることなどありえるはずもない、としている。
都留の近衛への記述はそれでも書いていて、近衛公の対ソ特使(ソ連に和平斡旋を求める)計画を立てたのは、近衛自身であるかのような書き方をして、それが失敗に終わったのは、かれの読みの浅さ、愚昧さの当然の帰結であるかのような軽蔑を平然と示す態度だった、という。
ところが、実際は、ソ連に和平斡旋を求めて天皇の親書を携行しての特使派遣案は、都留重人の義理の伯父、木戸幸一元内大臣だったのにである。しかも、近衛は、多くの人々の意見であった、ソ連への和平斡旋に強く反対していたのであったとも、鳥居氏は書いている。
さらに、『木戸が胸中に隠し持っていた近衛に対する「私怨」を、義理の甥が近衛の死から半世紀もたってもなお、分かちもって、さげすんだ口調で近衛の努力を嗤っているのを読んだとき、私は哀しみに沈んだのである』としている。
『彼らが、ノーマンに語り協力して作り上げた木戸免罪のための弁護の中心部分がこの終戦工作だった。』(木戸が最初に降伏受け入れを決定したひとりである)
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