火曜日, 7月 31, 2007

反安倍ビラと化した某新聞

雑誌WILL9月号を再び取り上げる。最初は屋山太郎氏、もと某通信記者でイタリア特派員だった
方である。かれこれ10年ほど前から、正論などの投稿で視点、視座に共感を覚えた。最初は、物足りない感じの言い方だったが、最近は実にすっきりと言い切るところが、また実にいい。

「安倍政権は発足以来わずか9ヶ月で戦後の内閣で最大量の仕事をした。教育基本法の改正、国民投票法の制定、防衛庁の省昇格、社会保険庁の解体、天下り根絶のための公務員法の改正。”国会相場”でいえば、どれをとっても一内閣一課題といえるほどの大問題ばかりだ。これまでの政府・与党は野党との取引を優先し、とりあえず急ぐものを成立させてもらい、先送りできるものは、野党の顔を立てて継続か廃案にするのが常だった。こうして、教育基本法も、国民投票法も実に半世紀以上も先送りされてきたわけだ。」と。



米下院で可決された従軍慰安婦、これも元はと言えば、某新聞を主とする反日団体の誤報、捏造が導き出したもので、「深刻さを認識すべきは某新聞なのである」と穏やかな言い方。この某新聞は、日本が消えても反日活動を続けるだろうから、こんな生易しい指摘ではもの足りないことおびただしい。とはいえ最後は強力な不買運動を提唱する、と結んではいる。横田夫妻も、祖父母の代からの購読をとうとう止めてしまったそうである。共和党は、慰安婦決議とは別に、日本の肩をもつ決議も行い、相殺する動きもあるようだが。従軍といえば、階級がつく準公務員待遇であり、その筋の人たちには逆立ちしたって付けるべき呼称ではないはずだが、言葉狩りの風潮がまん延して、敏感さがいびつになってしまっている。

「今回の国民投票法の合意は、自民・民主の調整を続けた結果まとまったものだ。それを最後の土壇場で蹴ったのは、小沢代表だ。民主党の窓口だった枝野幸男・元政調会長は、『この党首の下では、憲法改正は出来ない』と憤った。結局、修正して自公で可決となったが、修正点は「公務員の政治活動に制限を設けない」条項を削っただけだ。そもそも政治活動を認める妥協案の方が恐ろしいもので、自民党側の窓口になった船田元氏の不見識は度しがたい。」

金丸の一声で40億ドル

今度は前回書ききれなかった石原氏の小沢一郎観・・・

「1991年の湾岸戦争の時、ブレディというアメリカの財務長官が日本に来た。アメリカには金がないから、日本から金を出せと言いに来た。当時は傀儡政権の海部政権、これは金丸と小沢が作ったんです。・・・金丸は海部のいうことなど全く聞かずに、自分で人事をし、内閣を作った。・・・そのときの4閣僚がブレディを接待したとき、いきなり40億ドルだせと要求したという。4閣僚は断ったが、すごむので、しかたなく親分に電話、相手は幹事長の小沢です、背後に金丸もいたろう。・・・小沢が相談して、金丸がそれじゃあ、出してやれと40億ドル出すことになった。」

だいたい金丸という人は、地主だったが、戦後すべて資産を旧小作層に分けたそうだし、米軍への思いやり予算を始めたのもこの人が防衛庁長官だったからではないか。しかし、最後は金まみれ(北の延べ棒)になって、アメリカに叩かれ潰されてしまった。

「小沢・金丸は何をやったか?アメリカに約束した8年間に430兆円の金を無駄遣いして、日本の経済力を弱めた。430兆ものお金は、熊や鹿しかでないところの道路を作ったり、・・・、国債を発行して日本の財政はガタガタになった。」

Tokyo's dithering on the gulf war clouds relations with Washington and raises questions about Japan's global role

By Barry Hillenbrand/Tokyo--With reporting by William Mader/ London and J.F.O. McAllister/Washington

What a difference a year makes. In March 1990 Prime Minister Toshiki Kaifu came away all aglow from a meeting with President Bush in California. The two leaders claimed to have forged the basis for a new "global partnership," and Japan seemed ready to play a role in world politics corresponding to its ever expanding economic power. Kaifu affirmed his commitment: "I am determined that Japan must be one of the countries to bear the responsibility for maintaining and strengthening international order."

This week Kaifu will travel once again to California for meetings with Bush, but he is no longer glowing. He is all too well aware of American displeasure with Japan's failure to live up to expectations during the gulf war. Not only did Tokyo prove unable to muster even noncombatant participation in the conflict, but its purse also seemed as hard to crack as a Republican Guard bunker. The Japanese felt chastened by Bush's postponement of a spring visit to Tokyo while the President and Secretary of State James Baker undertook a round of meetings with leaders from nations that contributed militarily to the victorious coalition. Worried about U.S. ill-feeling, Tokyo hurriedly arranged this week's Kaifu-Bush meeting to repair the damage.

That will not be easy. Japanese foreign policy, seldom clear and never bold, is now a shambles. In recent years Tokyo has navigated a cautious course that emphasized its commitment to the Western alliance, and to the United Nations as a forum for settling international disputes. But the Japanese began to chafe under Washington's domination as their economic clout seemed to entitle them to a more prominent voice in policymaking. And as American strength waned, the U.S. found itself increasingly resentful that its former enemy had profited so well from the lessons of the West. ・・・

当時のタイム誌 1991年4月8日号

小沢が一番きらいなのは石原

「いまだに670兆という膨大な国債がある。あっという間にイタリアの倍の国債依存率になってしまった。こんな体たらくを作ったのは誰なんですか?・・・私は民主党に期待しているんです。民主党の岡田君、前原君たちがふたたび自民党が考えもつかないようなことを考えてやってくれることを期待しています。しかし、現在上にたっている小沢一郎たちに何を期待するんですか?彼が過去にやってきたことを思い出すと本当に怖い、・・・。一番嫌いな政治家はと聞かれて、小泉純一郎さんは、田中真紀子。これは気持ちわかりますな。小沢一郎は石原慎太郎と答えたそうだ。・・・」









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http://ja.wikipedia.org/wiki/アドルフ・ヒトラー

を見ると、ヒトラー演説の声は、潜水 病ではないが、アルゴンガスを吸ったような声がつぶれた感じがするが、第一次大戦時の毒ガスによる後遺症だとある。子供の頃、ドイツ語は聞いて汚い感じがする、と親たちが話して居た通りだと思ったものだ。そのため、大学では、ドイツ語必修だったが、フランス語も趣味で齧ったことがある。

『緒戦の8割前後の死傷率の中を生き抜き、後に伝令としての技能を発揮、大戦も終わりに近い1918年8月には一級鉄十字章を授与された。ヒトラーは司令部付きの伝令兵であったため、優秀な働きぶりにもかかわらず叙勲が遅れたのである。しかし結局、階級は伍長勤務上等兵(翻訳により上等兵~伍長と日本語表記にバラつきがあり、帝政ドイツ軍のGefreiterは下士官ではなく上級の兵卒であるが、戦前から現在まで語呂の良い『伍長』…ドイツ陸軍ではUnteroffizier…と訳されることが多い)止まりであった。当時のドイツでは優秀な下士官やベテラン兵卒が戦死して不足しており、伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋った事と、勇敢ではあるが、直属の上官に対し戦功を「自画自賛」する態度と「指導力」の欠如が昇進につながらなかった理由として挙げられている。』

『ドイツ帝国敗北の知らせを聞いたとき、ヒトラーは塹壕戦での毒ガスで神経をおかされ一時的に視力を失い病院にいた。毒ガスの特性によって脳神経に一過性の傷害を負い、また精神的にも傷ついたヒトラーはヒステリーと診断され、軍医により催眠術による治療を受けた(このためか、第二次大戦では自軍による前線におけるガスなどの化学兵器の使用を、敵の報復攻撃による損害の大きさも考慮して厳禁している)。『我が闘争』によればこのときヒトラーは祖国の誇りを取り戻すために、建築家を目指すことを放棄し、政治家を目指すようになったという。喉の負傷による声の変化は戻らなかったため、後の演説にみられるような独特の野太い声になった。』とある。

ドイツ帝国敗北の知らせを聞いたとき、とあるが、私が何かで読んだのは、敗色濃厚な第一次大戦末期、ひとりの兵士が毒ガスでやられ目がみえない、と病院には入った。医師は治療をしたが、目が見えない、と訴え続けるのをみて、この男は、祖国ドイツの敗北を見たくないという男のヒステリーが原因であると考え、ある暗示、ドイツ復興を導く指導者イメージを与え、そのトラウマをぬぐい去る「治療」を施し、ようやく心理的にも、眼が見えるように回復したという。この体験が、彼のその後の全てではなかったか。祖国ドイツへの一途の歪んだ愛情が、巨大な賠償金を課せられた事情も手助けし、あそこまで発展したのではないか。恐るべし、普遍的無意識とでもいうべきか?

フランソワーズ・ジルー女史の"Si je mens"では、第5章「いま」をいきる、で、言葉の王子ドゴールという部分があり、ドゴールの言葉使いを称賛している。

たとえば、「一人の男の、こちらが狼狽させられるような祖国への崇高な愛。そのフランスは残忍で移り気で、辛うじて征服されてはいるが不誠実で、辛うじて支配されているが反抗的で、辛うじてその放逸さをモレやビネで慰められている扱い難い国だ。そしてポンピドーがあらわれると、ドゴールの目の前でその愛を裏切って彼にとどめをさしたフランス。彼は、見つめ、それから沈黙し、そして死んだ・・・。猟場番人と寝ているイゾルデを見つけたトリスタンのようだったドゴール。」

「彼の天才的な言葉使いのおかげで、フランスはもはや失った背丈と体重を何年間も補っていた。たった一つの文章を取り上げてみても、彼は称賛に値する。たとえば、ベルダンの50周年記念祭に際してドーモンの死体収容所の前でペタン(元帥)を評した文章だ。『たとえ不幸にも、あの時代に彼の人生の真冬と途方もない事件が重なった時(多分ドイツ軍パリ入城)、年齢の摩滅がペタン元帥を非難すべき過失に導いたとしても、20年前の栄光は、・・・』等々。これ以上的確に表現できる人がいるでしょうか?。」


「たぶん、彼は「寡黙」の息子のメランコリーにとりつかれていたにちがいない。しかし権力とは孤独で常に憂愁がつきまとうものだ。
今日では、みんなのお気に入りの純粋な享楽の選挙がある。その上世論調査、国民投票もあるので痩せる前に自分を照合する方法がいくらでもある。・・・」

「ドゴールは自分を良く知っていた。彼が傲慢だったためとはいえ、われわれは、彼が老いぼれる前に歴史から去っていくとは考えなかった。実に愚かだった。彼と神々との関係・・・・これこそわれわれが知りたかったことだが、永遠に不明のままになってしまった。・・・

ヒトラーはドイツを他人にわたすことよりも殺すことを試みた。この類推にあなたはショックを受けますか?(インタヴューアであるクロード・グレイマンに対して)この類推を考えたのがドゴール将軍で、サリュー(ドゴール将軍の回顧録の一部)にどんな風に書いたか読み返してみましょう。そうする価値は十分にある。」

「無から出発したこの男は、ドイツがこの新しい愛人の欲望を体験したその時からドイツに身を捧げたのである。彼女(ドイツ)が自分を与えたこの見知らぬ通行人は冒険を代表して支配を約束し、そしてその情熱的な声で彼女の秘密の本能をかきたてた・・・・・ヒトラーがもし強い男ならその敏腕をそのまま放っておくことはしない。彼はおびき寄せ愛撫することを知っていた。ドイツは彼女自身の一番深い所で篭絡され、突撃の総督に従ったのである。」と。

これほど明確に一人の男と国家の関係を表現できる人物はいない。権力の探索とは何か。そこにどんな堪能な味を見つけるのか、これほど上手に表現できる人物がいるでしょうか?、とある。




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土曜日, 7月 28, 2007

雑誌「WILL」9月号を買った。あと二冊で売り切れとなる状態で、選挙を前にいつもより、
売れ行き好調のようだ。

この雑誌で安倍政権は、野党はおろか、自民党の大部分や官僚などから、いろいろな嫌がらせを受け、短命に終わるよう画策をもろに受けているような気がし出した。そして、その動きの底には、アメリカの意向も働いて入るのかも知れないと思わされた。

それは、維新政党「新風」のブログを見て、ほぼ確信に近くなった。

http://keyboo.at.webry.info/200707/article_20.html


「そういう観点から最近の自民党の方々のご発言を見てみると、
興味深い共通点が浮かび上がってきます。


【参考】久間防衛相:原爆投下に関し「しょうがない」の発言(毎日)
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070701k0000m010052000c.html
【参考】加藤紘一氏、地震当日の首相訪問を批判(iza)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/69315/
【参考】年金問題は政府に責任 山崎氏、改憲で大連立も(産経)
http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070724/skk070724005.htm
【参考】「アルツハイマーの人でもわかる」麻生外相が講演で発言(朝日)
http://www.asahi.com/politics/update/0719/TKY200707190522.html


その共通点とは、

● いずれも選挙前の微妙な時期の発言であること

● 4人いずれもが安倍さんよりも当選回数が多い「長老」であること

● さらに、4人ともずっと総理大臣になりたいと思っていたこと

ということです。」
などと出ている。

「この4人の発言の「ウラ」には、


「おれはず〜っと総理大臣になりたくて長いこと国会議員やって
苦労してきたのに、何でおれなんかより全然当選回数の少ない若造に
総理の座を奪われなあかんねん!
こいつがこれから6年も総理やるまでとてもやないけど待ってられへん。
こいつには早いことご退場願って次はおれの番や!」


という、極めて「個人的な感情」があったのではないか。
これを一般的には「嫉妬」といいますね。


つまり、自民党内にも敵がしっかり存在したというわけですね。
また、ここにも「批判」を超えた「怨念」を感じました。」






ところで、小沢代表も、河野氏と同様、自民党から別れて、結局新党を作った。そして、河野氏とは違い自民党から離れて行き、民主党党首となって、今回の結果となったが、今まで、
何をどう考えていたのか、あまり解らなかった。細川総理が夜中に記者会見を開いて政権を
投げ出してしまったとき、脇にいたのが小沢氏だったが、クリントン大統領が北に武力行使の
打診があったとき、「逃げた」当事者だといわれた。それいぜん、ギングリッチを尊敬するとか口走って、だれかアメリカ筋から入れ知恵した者がいるらしい、とかいわれていたが、ギングリッチはすぐ、エキセントリックな発言などで、主流から外れた。売り出した時の勢いは、急失速してしまった。

今回WILLに載った石原都知事の小沢氏批判は、自民党に小沢氏が、金丸副総理の庇護のもと、好き勝手をほしいままにした行状を挙げて批判した。小沢氏が一番嫌いな政治家が石原
氏だと言っていることを歓迎する口ぶりで語っている。最近の日高氏は米国次期大統領はやはり共和党と言っているものの、副島氏、副島氏との共著を書いた政治評論家の森田氏などからは、次期大統領は民主党できまりだから、日本でも2008年あたりには、政権交代を希望すると、アメリカに追随すべし論を展開しているように見える(特に森田氏)。副島氏は、どっちにしろ戦争に巻き込まれるから、小沢以後の人材不足が深刻で、戦争開始時期が早まるのを危惧するとしている。アメリカにも、諸派入り乱れて日本を利用する勢力があり、今後日本は自身をどう導くべきか大変な時代に突入している、と言わざるをえない。副島氏が心配したように、小沢代表は、選挙のインタビューには、大勝したこともあり、出ないようだ。深謀遠慮の気もするが、健康不安を否定するのもどうか。

石原氏の指摘で気になったのは、過去に金丸、小沢裏執行部は、アメリカの意向に全面譲歩してきたことを挙げている。北問題で、アメリカの怒りを買って、金丸元副総理は、戦時生命をたたれた。金庫からは、金塊には刻印が打ってあるのが通常だが、刻印なしの金塊が見つかったそうだが、これは北から来た証拠だとも言っている。

1991年の時の湾岸戦争で、途方もない拠出金を一挙にOKしてしまい、追加を含めて大金をアメリカに渡した責任は、金丸、小沢両氏にあると石原氏は指摘。アメリカも石原氏が「ノーと言える日本」を書いた当時は、日本脅威論があったので、石原氏の英訳本はアメリカでも50万部以上売れたそうだが、続編は、あちらの出版社から断ってきたらしい。今更驚異ではなくなった(お金をたくさんもらったし・・・)、ということらしい。

小泉政権はブッシュ政権と、ギブアンドテイク的な関係を構築したかに見えたが、完全コントロール下にあったとも言える。小渕元首相は、就任直後の訪米で真っ青になって帰国し、不審船銃撃を海上警備行動発令で実行。小泉内閣では、部落解放同盟系へは、税務署、検察、警察が手をつけられなかったが、実行できたのは稲川会系がブッシュ政権の一部と懇意な関係があり、野中議員を守る山口組系への対向策が組めたことがあるという。

要するに、アメリカはいろいろなことを調べ上げて、硬軟両用の策を用いて日本を属国としてコントロールしているようだ。日高氏が今回指摘する安倍政権への冷たい対応も、アメリカから見て、メリットがあまりない、と踏んだということだろう。小沢の方が、よりメリットがあると思っているかどうかは、不明だが。

今回の選挙結果は、安倍政治ではなく小泉政治が問われた結果だと、立花氏は発言しているが、雑誌WILLは、安倍総理の選挙ポスターのデザインは、ヒトラーのポスターに良く使われた手法で作られており、偶然そうなったというのではなく、ある種の非好意的な意図がどこからかのレベルで働いていると見るべきでは、!?というコラムもある。出る杭はやはり打たれる!?。

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木曜日, 7月 26, 2007

前々回、戦後の「民主教育」ほど民主教育から遠い教育はないということを引用した。


『戦後日本で行われてきた教育は民主主義教育でもなんでもない、途方もないまがいものであった。」

戦 後教育の大方針は昭和22年に起草された教育基本法によっている。年代からわかるとおり、この法律は占領国であるアメリカの方針でつくられた。(安倍内閣 は、真っ先にこの改定に手をつけた!)したがって、教育基本法成立を知った国民はさぞやこの中にデモクラシーの精神がつまっているに違いないと信じて疑わ なかった。

ことに教育基本法を金科玉条と仰いでいるのは他ならぬ日本の学校教師、ことに日教組である。』

今夜、政見放送を聞いていて、たまたま「新風」の二人が喋っていることが耳に飛び込んできた。まさにマスコミがふだん隠し通していることを悉く指摘しているような「事実」ばかり、NHK、朝日が事実をねじ曲げてなどと言っていて、思わずチャンネルがNHKなのが本当かどうか、確認してしまった。東京裁判史観に基づく自虐史観批判や、核武装への真剣なる検討などなど、・・・思わず、故中谷宇吉郎氏がかって指摘した「嘘で固めた國、日本」に住んでいることを、ふたたび発見してしまった。

嘘で固めた國であるからには、教育もまがい物、嘘がまかり通っていると言わねばなるまい。

veritatem cognoscetis et veritas vos liberabit 汝らは真理をしるならん而して真理は汝らを自由にせん。
Tennessee大学の標語、後半は、Johns Hopkins大学の標語でもある。

「アメリカの栄光を強調する歴史教育」(小室博士の解説から)

アメリカ人は勉強は大学から始まり、研究は大学院からはじまる、と思っている。
では高校までは何を教えるのか?それが社会化、つまりアメリカ人になることである、という。
その基礎教育の中で、コミュニケート能力にも増して強調されるのが民族教育である、という。
つまり、アメリカ人としての誇りを与える。アメリカに対する忠誠心を涵養する。そこで重要になってくるのが、歴史教育である。

つまり、ピルグリム・ファーザーズの入植から始まって、独立宣言、独立戦争、南北戦争、・・・。アメリカ民主主義の生い立ちを「これでもか、これでもか」というほどに教える、という。

奴隷制度や、有色人種への迫害などの暗黒面は、決して学校の授業では触れられない、という。触れるにしても、できるかぎり穏やかにして教える。「独立の父、ジェファーソンは、陰で女奴隷に子供を生ませていたと言われています」などとしたり顔に教える教師は、まずいないのである、としている。
(最近、新聞では、DNA鑑定で、ジェファーソンの子孫には、黒人系の遺伝子があることが証明されてしまったので、いわれていますではなくて、産ませました、が正しい)。

「英雄伝が英雄をつくる」

歴史教育と歴史研究は違うということをまず認識する必要がある、という。

つまり、学校で教えるアメリカ史は光の部分だけ教えているので、「真実を歪め、嘘で塗り固めている」と謗る人がいるかもしえない。だが、歴史教育は子供たちに真実を教えることにあるのではない。それよりも重要なことは、愛国心を涵養することにある。大目的の達成のためには、多少、いやかなり真実を歪めても許される。アメリカ人はそう信じて忠実に実行しているのである。もし、そうした歴史を知りたければ、大人になってから学べばいい。

若者の心は栄光に満ちた物語や英雄伝によってのみ鼓舞される、という。

いくら真実といえども、自分たちの先祖の悪行を見せつけられて発奮したという子供は、滅多にいない。これは洋の東西を問わぬ真理である。

「戦後教育くらい非アメリカ的で、非民主主義的な教育はない」

何しろ、この日本で子供たちが教わる歴史と言えば、いかに自分たちの祖先が邪悪で野蛮であったかのオン・パレードである。

しかも、それに加えて行われているのが、恐るべき知識偏重教育である。タダひたすらに知識を、それも意味のない暗記を強制され、受験に通ることだけが「膳」であると教えられる。

これでは、学園崩壊が起こり、家庭内暴力が起こるのも当然ではないか。

何しろ、日本の学校教育には、子供たちを「人間にする」、「日本人にする」ための教育がすっぽり欠落しているのだ。日本の教育は社会化の機能を失って久しい。

その原点は、例の教育基本法である、と指摘している。(戦後60年以上たって、漸く改正されはしたが、・・・)。

「敗戦国の逆襲を阻む最良の方法」

原爆の使用により、アメリカが最も恐れていた本土決戦をすることなく、日本は無条件降伏した。・・・
だが、それでアメリカの心配が消えたわけではない。敗戦国が、戦勝国にリターン・マッチすることが歴史の通例だから。ことに負けた側が強い国であったら、なおさらのことである。

放っておけば、日本人はかならずや経済を復興させ、再軍備に踏み切る。そしてわがアメリカに襲いかかるに違いない。日本と言う国を奴隷化させ、日本国を消滅させるのがいい方法だ、ということの結果が今日の「日本」である、ということだ、と指摘している。

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火曜日, 7月 24, 2007

日本国憲法の問題点 第四章

前回に引き続き、小室博士の憲法談義を、・・・。

「憲法を殺すのは官僚の大罪」となっており、戦後教育の弊害により、点数かせぎだけの学校教育秀才が
官僚となる現行科挙制度のもとでは、だれかが、学歴偏重と、階層原理を覆す原理を見いださない限り、日本の復活はありえない、という。中味は大半が、官僚の弊害ばかり。

外国の大学は、みな私立からスタートしているのがふつうなのに、東京大学だけは、官僚養成学校としてスタートしてしまったので、日本の大学は学問をけんさんするところではなくて、ただの通過点となってしまった、とある。・・・日本は平等社会のようでありながら。学歴による中世的な身分制度が復活したのである、と。

アメリカもそこまでわかって戦後教育を押し付けたのかどうか、その辺の言及はされていない。ただ試験秀才の官僚以外に、政治的に指名された高級官僚がいて、科挙の制の弊害をうまくコントロールしているという指摘はある。

田中角栄を最後に、官僚の暴走を抑え、自らの思いのままに官僚を操れる政治家は滅び去ってしまった、で官僚の弊害のオンパレードの第四章はおわる。

第五章 「日本人がしらない戦争と平和の常識」

戦時国際法のイロハさえ教えられていない日本国民は、まるで虎狼の中に放り出された子ネコのようなもの、いつ食い殺されても不思議はない。これが、戦後半世紀にわたって、「護持」され続けた「平和憲法」のもたらした現実なのである、が結びにある。

しかし、今日の戦争がはたして(50年前に想定された)将来もそのままでありつづけるか誰にもわからない。アメリカでおきた同時多発テロでによって、「戦争」の定義が一瞬にして変わった。それと同じことが今後も起きない保証はないのである、と。そのためには、まず憲法と国際法、とくに戦時国際法が重要であると説く。

東大は、戦後もう戦争はおきないからと、戦時国際法の講座を止めてしまったが、京都大学は、将来を見越して残したので、いまでも若干の研究者はいるが、戦後憲法が幅を利かしているのでメジャーではないのだろう。国家間の紛争が起きたとき、それぞれの国家がどう動くか、しばりをかけるのが国際法、とくに戦時国際法だろうが、日本の常識は、国際問題では、あまりにも非常識。とくにゲリラによるテロを前哨戦として何かが起きたとき、どうしたら国民の安全や国家の安全を確保するかがまったく無視され、現行憲法にさえ規定されている条項を国は無視し続けている、という。これも官僚の大罪の一つだろう。あるいは、日本人によくみられる言霊思想なのかもしれないが、大学の基本が、役人養成であってみれば、外国のようにいかない見本かもしれない。

月曜日, 7月 23, 2007

日本国憲法の問題点 第三章

前回に引き続き、小室博士の憲法談義を、・・・。

この章では、ルソー、シーザー、ワシントン、トルーマンが冒頭に紹介されている。「戦後教育こそ民主主義の敵」である。でてきました、トルーマン。ポツダム会談、国連の創設、広島・長崎への原爆投下、日本の占領、東京裁判など、トルーマン政権下で行われたことは、いずれも戦後日本の運命に深くかかわることばかり・・・と解説が。

日本の憲法は死んでいる、ことを説いてきたが、もうひとつ、死んでいるものがある。それは日本の教育である、と結論を先に述べている。

学校の教師達や、日教組、文部省などは認めたがらないが、日本の教育制度はもはや破綻している。

戦後日本で行われてきた教育は民主主義教育でもなんでもない、途方もないまがいものであった。

戦後教育の大方針は昭和22年に起草された教育基本法によっている。年代からわかるとおり、この法律は占領国であるアメリカの方針でつくられた。(安倍内閣は、真っ先にこの改定に手をつけた!)したがって、教育基本法成立を知った国民はさぞやこの中にデモクラシーの精神がつまっているに違いないと信じて疑わなかった。

ことに教育基本法を金科玉条と仰いでいるのは他ならぬ日本の学校教師、ことに日教組である。

教育基本法ほどデモクラシーと無縁な法律はない。いやむしろ、日本のデモクラシーにとって、これほど有害な法律はない。そういっても、決して過言ではない、と。これでは、憲法が死に、デモクラシーが消滅するのはあまりにも当然のこと、と主張されている。強烈な、占領国アメリカによる、絶対強制マインドコントロールであったわけだ。

(高校の頃、回し読みした野末陳平氏の「変な本」という中に、6・3・3制のことを、アメリカのテキサスあたりの黒人を教育する最低の教育システム、というような注釈がついていた、と記憶する。日本の旧制高校を廃止し、日本を骨抜きにするための教育を押し付けているという声は、その頃まではよく聞かれた。スポーツ、セックス、スクリーンで、日本を骨抜きにするという声も、もうそのころ、三つのSは流行に流行って夏草のごとく、日本に生い茂ってしまっていた。)


ルソーは教育なきところにデモクラシーは生まれない、と当時のフランスをみて絶望したという。

ワシントンを国王に推戴したアメリカ人

独裁社は大衆の歓呼に包まれて登場する ーーーシーザー

教育こそ民主主義の防波堤である(独裁者をうまず、衆愚政治に堕しないために)

イギリス議会政治を支えたヨーマンたち
よき民主主義はよき教育によって支えられる。たとえば、イギリスで初期の民主主義が発展したと言うのも、ジェントリーとかヨーマンとよばれる独立自営の小さな生産者達が社会で大きな比重を占めていたからである。彼らの特徴は何かと言えば、「志があって、教養がある」これに尽きると言う。

入植6年でハーバード大学を作った植民者たち
ジェントリーやヨーマンという層は、イギリスで資本主義が発達すると誰にも頼らず暮らしていた中産的生産者層は急速にイギリスから消えて行った。そのうちの一部は新大陸へ移住したのである、とある。
新大陸で最初に大学が造られたのが、1636年のことである。これが如何にに驚くべきことであるかはマサチューセッツに最初の移民者約1000人が到着したのが1630年だったという事実一つを指摘すれば十分であろうと。それは彼らが、教養の価値を知っていたからである、と。1000人のピューリタンのなかで、ケンブリッジやオックスフォード卒業生が4,50人はいたと言われている。アメリカには建国のずっと前から大学があった。この事実を抜きにしてデモクラシーの歴史は語りえないのである、と。


教育大国アメリカの誕生
ハーバードに続いて1693年にはウイリアム・アンド・メアリー大学が、1701年にはイエール大学が、1746年にはプリンストン大学が作られている。さらに1751年にはペンシルバニア大学、1769年にはダートマス大学が作られている。このように植民地に大学が作られ、そこで高い教育が授けられていたことが、のちのちのアメリカ独立につながっていくのである、と。
(ギリシア・ラテン引用後辞典、田中秀央・落合太郎編、をみると、ハーバード大学の標語は、veritas Christo et ecclesiae、真理はキリストと教会のために、となっている。ペンシルバニア大学の標語は、
litterare sine moribus vanae、で性格のない文学は空虚なり、となっている。以下いくつか拾ってみる。

テキサス大学 disciplina praesidium civitatis   教育は国家の保護なり
デューク大学 Eruditio et Religio         学問と宗教
プリンストン大学 Dei sub numine viget        それは神の御意志のもと栄える
シカゴ大学 crescat scientia, vita excolatur    知識は増すべく、人生は完成さるべし
ミシガン大学      artes, scientia,veritas        芸術、科学、真理       )

国民の育成こそアメリカ式教育のエッセンス

戦後日本の教育ほど、アメリカ式教育からほど遠いものはない。アメリカ式教育の根本は何か。その最大の目的は「国民の育成」にある、と。つまり、アメリカ人としてのほこりをもたせ、アメリカ合衆国への忠誠を誓わせ、アメリカ人としての生活の仕方を教えることである、と。

「アメリカの栄光」を強調する歴史教育
現在の体制は、先人の血と汗によって築かれたものであることを教え、アメリカ民主主義は命をかけても守るべきものだということを児童・生徒の脳髄に焼き付けるのである、と。

なぜ、アメリカは日本の教育を堕落させたか!?
「答え」 戦前の日本がアメリカ式の教育を行って、大成功をおさめたから。

資本主義の精神を教えた戦前日本の教育

二宮金次郎は、日本的資本主義の象徴だった。

教育勅語の目的はけっして反動的なものでもないし、封建的なものでもない。それとは正反対に「近代国家」の国民を作るためのものであった。

憲法よりも重視された教育勅語

かくのごとく戦前の教育においては、教育勅語のほうが、図抜けて重要であった。教育勅語こそ、日本的「アメリカ式教育」の根本経典であったというわけである、と。

アメリカも戦慄した日本兵の強さ

日本の教育から徹底して民族教育の要素を除去する。非アメリカ的な教育をすることによって日本がふたたび強国になる道を塞ごうというのである、と。

民主主義教育、民族教育が行われないから、政治家も官僚もますます堕落した。

憲法を活かすためには、まず現在の教育を考え直すところから始めなければ、今の日本は決して再生することはないのである、で三章はおわる。

日曜日, 7月 22, 2007

日本国憲法の問題点 第二章

前回に引き続き、小室博士の憲法談義を、・・・。

この章では、フランクリン、井上準之助、伊藤博文、ビスマルクが冒頭に紹介されている。「総理大臣なき国家・日本」である。

どんな無理難題であろうと、官僚は大臣のいうことを聞くべし、反逆はゆるされない、とある。
およそ、近代国家である以上、このルールは絶対にまもられなけれなならない。しかし、役人どもは
何かと、抵抗、反抗をつづけ、省利、省益あげくの果ては、私利私欲に精をだすのではないか?

さいきん、といってももう過去になるが、田中外相の時、役人達は、何かと抗弁し反抗した、らしい。
金正男を国外追放するときだけは、皆省外の人々も都合で聞いてしまったらしい。

井上準之助は、戦前官吏の給料を約1割減額すると言う大鉈をふるった。小泉改革ですらあれほどの騒ぎがおきたくらいだから推してしるべし。裁判官までがストをやる、とまで息捲いたくらいだった。ところが若槻内閣は微動だにしなかった。また、商工省の辞職脅迫に対しては、時の大臣桜内はただちに啖呵をきった。「よし、解った。それなら商工省を潰すだけのこと」と。ここまで上の覚悟がかたければ、役人が徒党を組んで抵抗しても負け犬の遠吠えにすぎず、一割カットは実施されてしまった、という。

憲法9条が外務省を堕落させた。

外務省では、次官よりも大使が上位なのだというが、松岡外相が日独伊三国同盟のとき、反対する大使や公使の首を片っ端からきったのに、田中外相は、次官の首どころか、課長の首をとることができなかった。

どこの欧米諸国でも、外務省というのは別格の役所という扱いを受ける。全権大使と言えば、自分の判断で他国に対して最後通牒を発することができる。国家元首に変わり、戦争を起こす権限を持たされている、という。

今の外務省はイギリスのような外交のプロというプライドは影もかたちもなくなった




大臣でもない代議士の使い走りとなり、その御機嫌取りに汲々としているのだから何をかいわんやである。

それもこれも、憲法9条により、平和国家になったつけといえば言い過ぎか!?とある。日清戦争で、最後通牒をつきつけた小村寿太郎特命全権公使のように、重責をおわされることもなく、ちやほやされ、機密費を与えられて、堕落しないわけがない、と。

しかし、今の憲法では、首相は大臣の首をきれないシステムになっており、小泉首相は田中外相の首をなかなか切れなかった、という。また、そもそも内閣総理大臣と言う規定すら、戦前の憲法ではなかった。

(それで、東条内閣が、天皇の意志を配慮して、戦争をやめる(中国から撤兵)としたくても、海軍が対米開戦は、(負けるとおもっていても)勝てますといえば、閣内不一致で、開戦しない理由がなくなってしまうようなことが起きたわけである。近衛内閣では、海軍は、陸軍に負けるわけにはいかず、今開戦すれば勝てると、苦しい胸のうちをあかしているので、天皇の御聖断で、陸軍撤兵をお願いするしか、和平の道をさぐる方策はない、として内大臣の木戸幸一に動いてもらおうとしたが、彼が保護した陸軍一派が、中国にいたので、それをしなかった、それで、東条内閣となったと、鳥井民氏は書いていた。)

戦犯になった広田弘毅氏が首相になったとき、かれは迂闊にも、現役武官制を復活してしまった、という。それで、陸軍による政局支配が復活し、大正デモクラシーの流れはとまった、という。憲法そのものは少しも改正されなくても、普通の法律施行をかえただけで、大改正、大改悪以上の変化が起きてしまった。

法律だけでなく、ちょっとした慣行の変化だけで、憲法の機能に大きな変化を与えると言う。それが陸軍大臣を三長官会議の推薦で決めるという慣行だった。三長官とは、参謀総長、陸軍大臣、教育総監で、この三者が一致した推薦でなければ、次期陸軍大臣はきまらない。決まらなければ、内閣は倒れる。

この制度がなければ、昭和史は変わっていたろうと小室博士は見る。すると、広田弘毅は戦犯となって、絞首刑になったわけだが、これには感情的には異論があろうが、法理的にみれば、いかにも指摘通り迂闊だったわけで、その責任はまぬかれないだろう。

日本の憲法は首相の不在をゆるしている。

戦前の日本には、(憲法上)内閣総理大臣はいなかった。現行憲法ではすこしまともで、規定はあるが、しかし、総理大臣の不在が1ヶ月もあった時期があるように、総理大臣の空位を許している。ということは、現行総理大臣は、戦前の総理大臣と50歩100歩ではないかと指摘する。

維新の嵐をくぐり抜けた元老が消え、高橋、井上が暗殺され、日本の政治家が暗殺の恐怖にすくみ上がったときに、明治憲法もデモクラシーも本当に死んだ、ともいえる。

田中角栄を最後に、本当の政治家らしい政治家は今や一人もいない。その問題もまた、憲法と大いに関係がある、という指摘で二章は終わっている。

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小室博士の著作の魅力は私のような浅学非才のものがど〜の、こ〜のと申し上げることはできないが、先日お亡くなりになった河合隼雄先生とどうよう、京大数学科御出身ということだけで、まずひれ伏してしまう心地がする。いいなあ、と思う。田中角栄裁判時に、彼を有罪と決めつけた検事たちを逆さ吊りにせよ、と広言してはばからない勇気にはいい意味で脱帽。それで、テレビ業界から追われてしまったが、基本的に博士の主張は正しかったのではないか?あれは、アメリカに嫌われた田中首相を追い落とすための策動が発動された、と見るべきではないか!?渡部教授も、この裁判に疑問を呈していた。昔から、東大と京大はアカデミズムの双璧をなすが、通常の意味で、小室博士のような人材は、東大からは生まれづらい気がするのは、私だけではないだろう。

小室博士のソビエト帝国の崩壊は1980年にだされ、まっさきに買って読みました。こうなるはずだと真剣に思いました。マツダのスポーツカーRX7とかなんとかいう車が注目を集めていた頃でした。今では手許になく大変残念。もちろん、それ以前から注目はしていました。長谷川慶太郎氏とならんで。博士も、博学であられるから、当然ソビエト政権が1980年代末には崩壊するとポルトガルの羊飼いの子供たちに向かって聖母マリアがご託宣されたファチマの予言は御存知だったはず。そういう前提で話しを組み立てるのは朝飯まえだったはずと、今から考えると思えなくもないが。

社会学者宮台先生の教師でもあり、東大教授の家庭教師という噂があった。長らく独身で食うや食わずで研究に励み、ときどきゼミの院生達が食糧をもって訪ねていないと、餓死しかねない、などと言われていた。
著作も豊富なうえに内容も和漢洋の学識がちりばめられ、私などは主題よりも傍証の事実などに振り回されました。ノモンハン事件をジューコフがそうとうてこずったとか、ヒトラーの天才への評価とか、戦後精神の濁り水の中で生きていたものにとっては、痛快な指摘があちこちに。しかし、どうして東大に迎えられないのか不思議であったが、今では不思議でもなんでもない。フルブライト留学から帰ってくると、丸山真男などから煙たがれた、と御本人が語っておられた。



第1章は、失われた日本国憲法の精神、とあり、丸山真男、ジェファーソン、ジョン・ロック、ケインズが登場する。これだけでも、視点の広さが並々ではないことがおわかりいただけよう。海外はともかく、東大の有名教授をまな板に載せて、などという芸当が許される識者は、まずほとんどいない。

現代日本は民主主義と資本主義の二大看板を掲げている。この二つこそ日本国憲法の要である。
ところが、その実態はデタラメもいいところである、と。これだけで、ゾクゾクしてくる。

今の日本では、資本主義も民主主義も機能していない!
憲法の精神は踏みにじられ、泥にまみれている!

と。な、なんだって!?と思う出だしである。

日本の病根は憲法にある、憲法が機能していないことこそが日本病の元凶である、と規定された。

かって、丸山眞男教授(政治学者)は、日本の「民主主義」を一瞥して「そこでは民主主義は日々につくられるものではなく、既存の「状態」(丸山眞男『日本の思想』)とされていることに注目している、としている。

民主主義も憲法もそれを日々育てる努力をしなければ、たちまち息絶えてしまう。そこのところがわからないから、日本では憲法も死にかけ、民主主義も死にかけているのである、と。

憲法103条の条文で、一番大事な条文はどれか?という設問もある。かなり難しいから、ヒントを、としてある。(憲法9条ではありません)だって。憲法問題とくれば明けてももくれても9条の話しだけとは、奇妙なことであると、している。後輩にあたる瑞穂さん、どうしますか!?


憲法本来の役割からすれば、第9条の規定など枝葉末節もいいところ。戦争を放棄すれば民主主義の世の中になるわけではないし。その逆もありえない。しかも、日本の「憲法屋」たちが誇る9条の条項は、日本独自でもなければ、世界にさきがけたものではない、と。
また、世界の現行憲法で、何らかの平和条項を持っている憲法は124カ国にもなるという。

では、第9条でないとしたら、(ベートーベンの第9というのも、日本人は大好きなようであるが)ほかに何か?となるのが、戦後の民主主義教育の実態だと言う。大多数はピンと来ない。国民にただしい民主主義教育を行ってこないツケがきて、憲法は瀕死の状態だと、博士はおっしゃる。

これが有効でなくなったなら、憲法の存在意義が胡散霧消してしまう条文は、憲法第13条だという。
ああ、あれか、と思える人は皆無だろう、と博士は予測している。


憲法のいうデモクラシーのエッセンスはアメリカ独立宣言にある、という。だから、冒頭のアメリカ人やロックの名前が出てきたのだ。

中略  そのロックであるが、「私有財産」の発見で民主主義も資本主義も確立した、とあり国家といえども私有財産に介入してはならないと太字で強調されている。ちなみに、副島氏は、アメリカの連邦準備銀行と言うのは、ロックフェラー家の金庫であって、日本の日銀とはことなるという。国家と言えども、私有財産には介入できないのであろう。

因に、アメリカでは「貧しい人は怠け者である」と考える思想が今日でも根強いという。

憲法の主たる目的は国家権力への命令にある、とも大書されている。17条憲法には、国家に対して命令するなんて思想は、かけらもないと。したがって、地価下落を放置するのは憲法違反だという。この10年、日本国首脳も役人も憲法違反をし続けている、と指摘。(発行は2002年4月)。

かって、ケインズは「ジョン・ブル(英国紳士)は大抵のことに我慢できるが、金利が2%では我慢できない」と書いて利子率にはそれ以上下げられない限界がある、と説いたのだと言う。

利子ゼロだったから、ソ連は破綻した。とも解説している。日本のエリート官僚達は、国民の財産権を侵害するような通達をだし、処罰されず、バブル崩壊の引き金をひいた官僚は、天下りした。しかるに今の日本では暴動も起きなければ、右翼も左翼もテロも暗殺もおこなったりしない。これでは官僚や政治家どもにとって怖いものなし、憲法違反のし放題ではないか、という。

拉致疑惑の放置はまぎれもない憲法違反、とも指摘している。瑞穂さんも9条にこだわらず、13条にこだわって拉致問題追及に、安倍首相と共闘されては!?
憲法問題を考えるとは、民主主義とは何か、資本主義とは何かを考えることにほかならないのである、という言葉で第1章は終わる。

土曜日, 7月 21, 2007



7月19日の毎日新聞夕刊び、ロサンゼルス支局記者が観たアメリカシリーズがのっていて、たまたまこの記事だけ、それ以前の経緯はまったく知らずに読んだ。

ノーモア・ヒロシマ・ナガサキに対してリメンバー・パールハーバーの声が返ってくることがある、の書き出しで米国人は核正当化論の強い影響を受けている、としている。

米国は投下前、原爆を用いずに日本に侵攻した場合、米兵24000~46000名が死亡と推計していたという。しかし、投下後に、トルーマン(原爆の公開実験決定者)は20万~25万人といいだしたそうだ。引退後は50万と口にするようになり、92年出版の伝記では100万人という数字すら飛び出した、と国枝すみれ記者は書いている。が、悲しいかな、トルーマンとバーンズが、政界をだましてまで、無理やり事を運んだことをたぶんごぞんじないために、単に時系列的に
戦死予測数がふえた、としか書いていないが、これは、米国が、南京の犠牲者数をタイム誌が2万と伝聞で書いたのを、20万と突然言い出した事とおなじではないか。

しかもトルーマン自身が最初の推計を無視して、投下後10倍に水増しし、さらに最後には5倍も水増ししなければならなかったことは、鳥居民氏の指摘する原爆投下を、何かでかいことをやってやる、という精神に凝り固まったトルーマン、とした見解をうらづけるものの傍証にもなろうし、トルーマンも米兵の戦死を最終的に50倍近く膨らませざるを得ないほど、ある意味で追い詰められた感情にあったのではないかと、推察するに十分な話である。

さて、遅ればせながら、正論7月号を見れば、「アメリカ人は原爆投下についてどうおしえられているか」という投稿が目を引く。(p106〜116)(慰安婦対日非難決議案の前に自らを省みることはないのか)

その中に米議会調査局4月3日に公開した報告書改訂版には、(慰安婦非難)決議案の日本側へのこれ以上の謝罪要求に懐疑を示し、政府間ではすでに対日講和条約や、日韓関係正常化で解決済みであるのに、もし諸外国が日本にいま公式の賠償を求めれば、「日本側は戦争中の東京大空襲の死者八万人屋原爆投下の被害への賠償を求めてくる潜在性もある」とも指摘した。

米議会調査局が懸念を抱いて発言することは、裏がえせば日本は発言する権利を認めているようなものだ、とも。

「筆者がこれまで各種資料を検討して見えてきたものは、米英の傲慢さの基礎が「絶対神」を信じる異教蔑視のの宗教にあり、また近代史を重ねる過程で人種意識が育まれたことが核心であった。」

トルコに対しても90年前のオスマン帝国時代におけるアルメニア人虐殺を非難する決議案が民主党によって米議会下院に出されているのも同じ流れである、という。もっともトルコは安保カードを含めた軍事・外交の手段を行使することも厭わず、初めから「国家」をあげて猛反発しているが、「独立国家」としてはむしろ当たり前の反応である、と書いている。

さらに、もうひとつの重要なことは、米英が示す傲慢さの裏側には日本が報復するのではないかという懸念が横たわっているということである。・・・今でも日本からの報復についてはっきりした考え方の表明がないこと自体、欧米は不気味に思っている、と指摘している。米軍による無差別攻撃であれだけ殺戮されたら、通常の国家は復讐のエネルギーを溜めているだろう、と思うのが自然な感受であり、世界の「常識」でもある。・・・米国政府首脳にとっては、日本による(日本人が考えもしない(無意識下にはあると思うが))核報復への根深い不信感と警戒感とを抱いている記事が産経新聞には出ていた事例が報告されている。


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金曜日, 7月 20, 2007



2002年6月の発行。島田裕巳氏は、もと日本女子大教授。しかし、1953年生まれとお若い。いまから10年以上前日本女子大教授に、助教授(今は准教授?)から昇進されてたしか1,2年で学長命令で、この大学では君はいらない、と言うことだと宣言されてしまった、どちらかといえば不運に見える先生。

このニュースが昼間のテレビで流れたとき、私は病院のベッドで聞いていた。盲腸の手術で、二週間ほど入院していた時だった。その前の、オウム(アーレフ)による地下鉄サリーン事件などの前、女子大生たちをつれてオウム道場へ出入りしたして、どちらかといえば、オウム理解を示しすぎた観のある活動は社会的に話題となっていた。

それは、9月頃で、翌年の学会は、発表枠が予定されていても無断欠席となったと、一部の週刊誌かなにかで読んだ記憶がある。それからかれこれ7,8年経つと再び新聞に、先生の解説記事がでるようになり、その後どうされているか気になっていた先生だった。

本の内容は、排他的な一神教と寛容な多神教というこれまでの一面的な理解が果たしてただしいのかどうか、身内の方がイスラム教徒のアラブ人と結婚されたことを契機に、日本人の宗教観の周辺を一神教の世界と比較して、多様な考察をおこなったもので、一神教、多神教といっても互いにかなりの共通項をもつ、という。

「イスラーム過激派による暴力的事件が起こると、峻厳な一神教の排他性が問題となり、他の信仰に対して寛容な多神教の可能性が主張されたりする。」

「しかし、本当に多神教は寛容な性格をもっているのだろうか?
多神教の代表(?)である日本でオウム真理教の事件は起こった。そのことを忘れてはいけない。」とおっしゃる。(わたしも読んでいてはっ、としました)

「オウムはキリスト教の影響を受けているものの、本質的には、ヨーガをベースにした仏教、その中でも特に密教を信奉する集団なのである。」と。




一神教として挙げられるのが、ユダヤ教であり、キリスト教であり、イスラームである。ではこの三つの一神教においてどのような神が信仰されているのだろうか?と問う。

キリスト教では、教義を簡潔にまとめたものとして、「使徒信条」というものがあり、カトリック、プロテスタント、東方正教会で用語に差はあるものの、全能の父である神となっている。・・・しかし使徒信条は三位一体の教義を説明したものとされるが、門外漢にはきわめて分かりにくい、という。神はただひとつである、とは強調されていないという。

イエスは人間としての性格と、神としての性格がともに備わっているという解釈に、今は議論が落ち着いていると言うが、それがどういう論理的帰結をもつのか、途方もなくわかりづらい。しかし、イスラム教であれ、キリスト教であれ、神は同じで一つであり、双方が異なる神を信奉するのではなく、その神をどのような形で信奉するのかと言う点だけだ、という。

私たちは「エリアーデの『世界宗教史』をひもとくことによって神の問題を考える上で重要な示唆を得ることができよう」としている。

いわく「この世をはるかに超越した絶対的善であることによって、神は根本的な矛盾をはらむ。善なる神が創造したはずの世界になぜ悪が存在するかという疑問を生む。・・・そこから神はかなたへと後退し、「暇な」な神となる。そこで、さまざまな神が登場し、人々の救済の役割を鬼なう。そこでは儀礼が重要な役割を果たし「宇宙の更新」への希望が、民衆の信仰生活を支えることになる・・・。」

私は、こうしたエリアーデの理論を踏まえ、一神教と多神教を対立的にとらえる図式の問題点を指摘し、信仰の具体的な現れの中から、それに変わる新しいモデルを見出していきたいと考えている、というところまでが前半である。

後半は、一神教と多神教との対立図式の再検討をふまえ(第3章)、日本の神(第4章)、最後の章で慈悲の神という構成で終わっている。

多神教の中にも一神教敵要素があるとは、宣教師たちと新井白石との問答などからもある程度は想像されていた。宣教師たちは、新井白石の素朴かつするどい質問に答えられなかったようだから。

天理教と柳田國男が、日本に一神教を確立しようと努力したという指摘は、初耳で、興味深い。

『一神教=多神教モデル』は現実に営まれている信仰の実態を分析によることによって導き出されてきた概念である。だが、それはたんに分析のための概念であるだけではなく、これから神というものをどのように捉えていくかという問題にたいしても、示唆を与えてくれる可能性ももっている、としている。

一見拍子抜けするような単純モデルだが、パラドキシカルな魅力をもっていて、いろいろな側面での説明に
便利な感がある。多神教と一神教とを二元論的に対立的に把握する姿勢は、問題がある、という。

また、日本人は神を信じることができないというような常識がまかり通っている現実をうち破りたいとしている。この場合、靖国の神は、聖者とも呼ぶべき範疇だとしている。

末尾で著者は、わが家に一人のムスリムがやって来なかったとしたら、こうした神の問題を改めて考えることはなかったかもしれない、と記している。オウムに過剰な期待を抱いてしまった先生は、温室での体質から見た虚像に躍らされたのかもしれない。


先日の講演会で、地方新聞の記事が、来場者に配られた。竹島の日(2月22日)を前に、韓国が領有権を主張する竹島の、その領有権主張を覆す古地図が、韓国で見つかった、というもの。

じつは、産経新聞では、2005年の6月に、読者から寄せられた江戸時代の古地図に、竹島がはっきり記載されており、江戸時代から領有を日本側が認めていた証拠では?という問い合わせについて掲載していた。

それによると地図は安永八年(1779)に作成された長久保赤水の「日本輿地路程全図」をもとに書かれたものではないか、ということ。

拓殖大学の国際開発学部の下条正男教授の意見として、「竹島は島根県隠岐の島町に属する日本固有の領土で、歴史的にみても、韓国が同島を実効的に支配していたことを明確に証明するものはありません」という。

しかし、韓国は1952年に「李承晩ライン」を一方的に設定し、竹島をその内側に含め、不法占拠をつづけている、という。最初、人がいないから、気付いたら占拠されたと迂闊にも思っていたら、なんと抵抗した漁民が8名ほど殺害され、数十人の負傷者が出たのだという。私の子供の頃は、テレビがなく、ラジオで毎日のように李ラインのせいで、日本魚船だ捕なそのニュースがながれ、新聞には、子供心にも悪らつな感じがする李承晩の顔が出ていた。

「晋遊社」から出された「嫌韓流」にはかなり具体的に、竹島が日本固有の領土で、韓国の主張には正当性が認められない旨書かれ、世界中で、そろそろ韓国を含めた朝鮮人のおかしな激高性が認識されだし、各地で問題になっていると指摘。






今度の新聞記事は、山陰中央新報らしいが、韓国でもよりによってソウル大学所蔵地図から韓国主張を覆す資料が、ソウルの大学で、英語教師を務める民間研究者のビーバーズ氏が発見したというもの。

ビーバーズ氏は、日本の竹島の日の条例制定で韓国国内で反日感情が高まったことから、竹島問題を研究し出したと言う人で、インターネットで成果を発表されている。

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=345809006

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-699.html

http://www.occidentalism.org/?p445/(英文)

The document was probably written in 1877 or 1878, but it was included in the last volume of a 3-volume set of books entitled “A Study of Historical Evidence of Takeshima” (竹島考証), which was an 1881 compilation of documents related to Takeshima (Ulleungdo). Here is the translation of the document:

Google検索でも「竹島 ビーバーズ 古地図」だけで上記サイトがトップに出てくる。ビーバーズ氏は、米国人のゲーリー・ビーバーズ氏ということも出ている。


外務省のホームページなど覗く気にもなれないが、興味ある方はどうぞ。竹島へ関する真実を世界へ向けて発信するよう、ビーバーズ氏は呼びかけている。韓国国内在住でこれだけできるので、いつも西欧人にこういうことは先を越されることにいつもなぜなんだろうと疑問に思う。外務省は、そういう反省は一切ないらしい。私は、ノモンハン事件も最初、やはり米国人アルビン・クック氏が中学生の頃、日ソ両軍激突のニュースに興味を持ち、日本人を妻とし、来日して聞き取り調査をされて、「ノモンハン」を書かれたことに驚異を感じる。ソ連側資料がうそばかりだったので、日本軍の無謀さを責めるスタンスが濃厚だとしても、・・・。ま。しかし、日本人とちがい、対象へののめり込みみたいな姿勢はないようだ。

宣教師的伝統からは離れられないのかもしれない。しかし、

「(株)宇宙環境利用研究所の加納剛は、詩人大岡信の表現、「日本では古来から自然の事物のひとつひとつに対して相応しい名前を与え、極めて鋭敏な感性的認知の精密さを讃えねばならないが、個々の微妙なニュアンスの差を越えて色環的な認識を形創るための抽象の努力をすることが絶えてなかったことは日本人の認識能力にある種の本性的欠陥があることを示す。」(大岡信、日本の色、朝日新聞社、1976)を引用し、ユニークな日本人についての科学的認識論を展開している(加納剛、KAST Report
Vol.3, No.1, 1991)」

というように、日本人は韓国をたぶん見下している面が多いかも知れないが、白人からみれば、かなり御しやすい民族と日本人が見られているような気がする。

 江崎玲於奈博士は、あるときこういうことを言われた。「日本の国民総生産の全世界に対する割合と、ノーベル賞受賞者の全世界に対する割合とのあいだには二ケタ程度の差があり、日本の研究に独創性が足りないのは、厳然たる事実である。」つまり、日本の基礎研究には、明らかに創造性が足りないということである。


研究はなにも大企業の研究所でなければできないものでもない。

結局、ほんとうに新しいものは、自分自身の地道な努力と、小さなことの積み重ねからしか生まれてこない。誰もやっていない分野だから、データもなければ、測定器もない。測定器すら、自分でつくらなければやれないとなると、イヤでも小さな研究から始めざるをえないのである。

 いずれにしても日本には、ほんとうはガラクタだと考えられて、そういうところから学問を建設していく姿勢が基礎研究をする者には必要だが、その種の学問形態が日本人研究者にはまったくない、という意見がある。
 そのような、なにもないところから学問を建設したり、なにもないところから新しいモノを作り出すということに関してはヨーロッパに伝統がある。その中でもイギリスの貢献度は、ズバ抜けて大きいと思っている。



養老孟司先生は、「現代日本文化論」の編者の時代であったと思われるが、

「 そもそも進化に関する、いちばん典型的な現代風の思考は、「進化なんて、そんな、済んでしまったことを調べて、何になりますか」というものである。これには、とりあえず反論のしようがない。
 こういう思考を、私は「次の一手」主義とよぶ。
・・・ここには、ある種の「進化思想」の欠如がある。歴史の欠如といってもいい。さらには、それを基礎づける、基本的な思想の不在がある。
・・・
 西洋人の紋切り型のひとつに「進化とは、西洋が生みだした最大の思想」だというのがある。こうした歴史的思考が、われわれには苦手であることは、確かである。なにしろ、この国は、丸山真男先生の言われるとおり、そもそものはじめから「永遠の現在」なのである。

 今となっては、歴史や思想が、理科系の学問と無縁であるはずがない。進化とは、結局は人間に至る歴史であり、それをどう見るかは、典型的な思想の問題である。ところがそれが「永遠の現在」にもどりそうなので、編者としては心配をしているところである。」と述べられた。



「わたしは日本のジャーナリズムの一番の欠点は、資料をもっていないことだと思っています。ヨーロッパの古本屋では18世紀や19世紀の本も自由に手に入るし、日本と違って大学の図書館も公開していて、何世紀前の資料も自由に見られる。国立図書館は夜は10時まで開いている。 中略 日本では、とぼしい材料で、平気で大きなジャッジをすることになれてしまった。これは恐ろしいことです。」板坂元

「個人文書館
くりかえしていうことだが、わたしたちの社会の制度化された教育体系では、達成された成果を次代につたえることには、なかなか熱心であったが、その達成までの技術を開発し、発展させようという気もちは、あまりなかったように思われる。技術の開発と発展のためには、成果よりもそれにいたるまでの経過の記録と、その分析がたいせつである。ところが、そのほうは、信じられないくらいおそまつなのである。
 日本人には、自分のしとげた仕事の記録を残すという習慣が、あまり身についていないようである。どんな仕事でも日本人のやったことを、すこししらべてみるとわかるが、たいてい、まことに貧弱な記録しかないものである。中略 そんなのにくらべると、日本人は、記録軽視、成果第一主義で、実質的で、たいへんけっこうなのだが、社会的蓄積がきかないという大欠点がある。やはり、どうしてこうなった、ということをかきのこしておいてくれないと、あとのもののためにならない。
 ヨーロッパには、どの国にも、むかしからアルキーフ(文書館)という施設が発達していて、さまざまな記録を、じつにこくめいに保存しているということである。中略 まえの経験を吟味して、そのうえにたってあたらしい経験をつぎたしていこう、というふうには、なっていないのだ。」梅棹忠夫「知的生産の技術」




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木曜日, 7月 19, 2007



坂井三郎氏の「サムライ」の日本語版を数年前から何冊か読み、いろいろ考えた。終戦時、上官から
一切の書類や写真を焼却処分するよう指示されたが、考えがあって保存した、という。

戦後、GHQから呼び出しを受けたとき、「戦犯」として事情を聞かれるのかと覚悟を決めたらしいが、いろいろと聞かれたのは、初の米軍爆撃機撃墜者は誰か?という点に関する関心であって、肩をたたかれ、君が撃墜第一号者だと「認定」されただけであった、という。ライカカメラは、いつも零戦に積んであったという。それで、今我々は、いろいろな写真で、当時を知ったり、いろいろな連想が膨らむわけである。

何かの折、坂井さんの娘さんがアメリカ人と結婚して、男のお孫さんがおられると聞いていた。不思議な縁があるというものだ、と思った。さらにほかの戦記物などもよみ、考えると坂井さんは幸運、強運な方だと
つくづく思った。中国上空で零戦に習熟して、空母でなく地上基地でのパイロットだったこと。目を負傷されて、昭和17年には一線を退いておられることなど。それで、撃墜数が64機と少なめなのだろうと思った。

米国防総省に飾ってあると言う「最強撃墜王」(武田信行著、光人社、2004年8月、2400円)、西澤廣義中尉(戦死後二階級特進)のポートレートは、西郷輝彦に似た好男子、あちらではトップエースとして知られているというが、公式記録で87機、途中で軍が記録をやめてしまったので、もっと多いという。本人は、100のオーダーを軽く超えて、たしか200に近い数字ぐらいと思っていたようだ。




西澤中尉は、あたらしい零戦を受け取るために輸送機に載せられ、目的飛行場の着陸寸前に敵機に襲われ、24歳10ヶ月で戦死された。昭和19年12月26日。一時は、敷島隊の特攻攻撃(関 行男 大尉ら)の直掩機
のパイロットとしても記録に残るエース。

この本はまだ読んでいない。本文だけで600ページ以上ある。それにしても、エース20傑の撃墜機数を積み上げるだけでかなりの数になり驚いた。敵にしてみれば、たまったものではなかったろう。戦後、日本に航空機開発をさせないよう仕組んだのはそれなりの理由があってのことだ。しかし、アメリカ人は零戦やトップエースがお好きなようである。日本の防衛省に、アメリカ軍のトップエースの写真を掲げる器量があるのだろうか?天皇陛下は、B29は敵ながらいい飛行機だとおっしゃったとか。

さて、さいきんいわゆる「従軍」慰安婦問題に積極的にコミットされている秦郁彦教授の余技(?)かと思われる単行本が、このゼロ戦20番勝負。多くの著者の書かれたものを選んで、もちろん御自分で書かれた5編も含まれる。坂井三郎氏の活躍も一編「ガ島上空の長い一日」(柄佐波英一郎)含まれる。栄光の記録ばかりでは無く、特攻や敗北の悲話も含まれる。坂井三郎氏の本とはどちらかといえば対局にある位置づけかもしれない。




この本で私にとって印象的だったのは、第14話「三号爆弾の火球がB24を包んだ」。敵爆撃機が零戦からの攻撃を避けるため、接近してひとかたまりに飛ぶようになって、攻撃しづらく敵からは防御しやすい態勢で爆撃にくるのに対処した戦法。上空で、対航空機むけ焼夷弾のような爆弾を編隊めがけて投下、爆発させると、相手は類焼を避けるためばらばらになる。そこへ零戦が攻撃を仕掛けるという戦法。海兵出(63期)の黒沢大尉(昭和18年)が燃料供給基地、バリクパパンの防空を担当されたとき、編み出した戦法だという。

写真を見ると、編隊の上空から火炎が花火のように編隊を包んでいる。周辺機は離れざるをえないだろう。
これも、敵戦闘機が護衛するようになると、効果はあがっても、味方の損害も増加したと言う。

「381空を精強な防空戦闘機隊に育て上げた黒沢丈夫は、比島や南西方面を転戦し、九州で終戦を迎えた。
これによって、黒沢と空のつながりは切れたかに見えたのだが、運命は数奇な巡り合わせを用意していた。
 これよりはるかのち、黒沢は郷里の群馬県御巣鷹山の上野村村長として日航機事故に直面し、さまざまな決断を強いられることとなるのだ。
 しかし、これはまた別の物語になるであろう・・・・・。」と結んでいる。

それ以前から、どうも上野村村長は、零戦のパイロットではなかったかという思いが、東大教授の書かれた
航法関連の記事から推定はしていた。教授は、名パイロットたちの失速寸前での速度で戦闘機を小回りさせる秘術に、航法研究の立場から、生き残りパイロットたちにいろいろと経験を聞き回ったという。いちばん、親切に疑問に答えてくれたのが坂井三郎さんだったという。群馬県の村長さんの話は、何度聞いても
威勢は滅法よいのだが、失礼だが、参考にならなかったという。作り話の操縦自慢もあるのでは、という
雰囲気がただよう記述ではあった。

坂井三郎氏は、プラモデルを使って、椅子の上にたって、航法の秘密を丁寧に実演してくれたようである。
坂井氏の半紙では、後にから発射された瞬間、機体を左に捩じって、そのとたん外れた銃弾が翼を掠めるというが、そのためには、敵にまっすぐ飛んでいると見えるように斜めに機体を滑らしながら逃げているようで、この秘技のおかげでとうとうグラマン15機に囲まれても逃げおおせたらしい。東大の研究室では、それをコピュータ上にモデル化するのに、優秀な院生でも一年半費やしたという。


私はゲームはやらないが、これを読んだとき、戦闘機のバトルゲームならやってみたいと思った。最近はあまりはやらないようだが。

水曜日, 7月 18, 2007



神田の古本屋街で、グリューネ・シュトラッセだかアベニュというところにライカカメラが並べてあった。
長方形の移動可能の花壇に一面に芝生のみを配している通りである。

数年前とほとんど変わっていなかった。驚いたのは、一眼レフタイプが13万からあったことで、M3クラスが古くても16万以上と健闘していることで、虚栄の虫が命じるままに触手を伸ばすとすれば、やはり戦後の名機のほうへ気持ちが動く。


何年か前、友人がニコン一式を売り払って、ライカの一眼レフを買った、といってみせてくれたが、その時もなんで、一眼レフなんか買うの!?と思ったものだった。だって、中味は国産ではないですか、レンズもボディも(旧ミノルタ)。それがいまや、13万からある。箱入りのライカM2Rは、今でも45万のお値段が誇らしげについていた。・・・ブレッソンの展覧会をぜひ見てみたいと改めて思った。使い手を選ぶカメラだという感じがする。赤瀬川先生みたいに、一、二台所有すると、取材旅行などぜひしてみたくなるカメラであることには違いない。単なるスナップで終わらない奥深さを覗くような気がする。


本日の講演会は、満席に近くかってない盛況であった。選挙戦さなかだし、当然か!?司会は東大文Iの一年生君がしてくれた。

最初に、加瀬英明先生が挨拶をのべられ、慶応大学で福沢諭吉について講演した際、独立自尊精神の大事なことを述べたが、質問にどっちがより大事かと問われ、自尊と応えた話しをされた。自尊精神があれば、国はかならず独立しますと。現在、軍事的隷属が天与であるかのごとく錯覚してしまっている現状では、独立国とはいえないと。

アメリカでの慰安婦問題なども、実体が無い問題は、結局は日本自身が招いたものだと、宮沢氏、河野氏、村山談話などのことに触れた。最後は戦争体験を風化させてはならないと。自らの歴史を尊ばない姿勢から
招いた事態に警鐘を換気した。サンフランシスコ講和時、戦犯あるいは戦犯であることは、なんら「汚名」ではない時代で、人口8000万前後の当時、日弁連が主導して、戦犯への恩赦や遺族への年金支給などの問題に4000万以上の署名を集めたことなども触れられた。戦争体験者が一番多い時代であったにも拘わらず、と言う部分も強調された。

次いで遠藤講師は、昭和27年当時、外務省の条約局長は、この条約は、東京裁判を継承するものではなく、その各個の刑期をかってに日本政府が単独で左右してはならない、ということのみを拘束するものであると、繰り返して答弁した。それを一度も否定していないのに、後藤田氏と当時の条約局長がかってに、東京裁判全体をを受け入れたものだと改めた(後藤田史観)。そういえば、文I御出身の法学部助教授(といっても駒場の)の経歴の参議院議員、舛添先生も、最初数年前は、東京裁判を「受け入れて」しまった以上、何を言っても国際信義に反する、というようなことをテレビで臆面もなく言ってのけ、私は耳を疑った経験がある。



小泉内閣の後に続く阿部内閣では、戦後のこうした問題を整理する課題が与えられていると。戦後のあやまりの第一歩は、占領政策が180°変わりダレスによる日本再軍備提案があったとき、吉田首相が拒絶した振りをしてしまったこと、という。にげたつもりでも、一説に銃剣でおどされ、日米安保の前身文書に、単独署名させられた、という話しもあり、ニクソンもかって、占領政策の初期の誤りを認めた。ある意味で大国といわれ得る国が、国防を全面的に他国に依存するなどということは、あってはならないことと考える、とニクソンは述べている。

つくる会の藤岡講師は、南京事件について話され、0(回)、20(万人)、26(人)、143(葉)、300(回)の五つの数字を上げられ、市民をふくむ大虐殺は無かったとした。

最初は毛沢東は、ただの一度も、南京事件について触れたことがなかった。

安全区からの外人団体(15人)から、日本軍への食糧配給要求人数は、20万人で、12月17日に戦いがおわり、27日までの記録をあげたが、ずっと20万人のまま。

安全区では、記帳をもうけ、一切の苦情を書き留めた。そこで26件の殺人報告があり、目撃事例はマギー神父の一件のみ。後は伝聞。しかもこの時期、停電で、夜間は日本軍兵士は外出禁止令がでていたのに、殺人報告数の2/3は夜間に起きた、としているという。

盗まれたもので、もっとも多いのは壁時計だというから、これも日本軍の一部兵士が、腕時計ならともかく、壁時計を盗みますかね?と笑われた。日本軍は、皇族が司令官におられるので、盗んだものは出来える限り返還するよう兵士に通達を出している。レイプなども見つかれば憲兵隊に処罰される。

南京大虐殺とされる数千枚に及ぶ写真があるが、それを縛りこんでいくと元は143葉の写真にたどりつくという。それを精査すると、すべて、当時の南京(冬、12月)に当てはまるものがないという。

最近わかったことは、台湾で見つかった極秘資料の中に、南京事件をはさんだ一年間に300回の中国政府の記者会見資料があり、ただの一度も南京事件を報告、非難したものはないという。日本軍の誤爆などは大騒ぎしているのにである。伝聞で、外国人が2万ほど殺したと言っている、と言う話しがあるそうで、中国側はそれを問題にしていないという。


それで、虐殺数についての、秦・渡部論争は、しろうとの観に頼った渡部教授の見解が、ほぼ正しいように思ったが、事実は小説よりも奇なり、とはこういうことをいうのではないか?
今でも、テレビで、半藤氏などと秦氏は、虐殺がないわけがない、あったに決まっているなどと発言されているが、批判された体質は変わらないようだ。しかし、秦氏は多方面に活躍され、渡部氏の批判を踏まえて
おられるように思う。

タイム誌に、書名入りで2万人ときろくされているが、ティンパーリなどが、身分を隠して単なる外人記者として英文で欧米向けに捏造データを発信したらしく、この辺の構造は、今でも慰安婦、南京映画などの制作と連なっている。




つくる会の内紛は、慰安婦、南京問題を教科書でちゃんと取り上げるか、そこを避けるかの違いらしく、
どうも靖国神社の記述を書き換えるよう、外務省OBの岡崎氏が動いたり、アメリカの一部の策動も感じられる。

この講演でほぼあきらかになったことは、南京事件はアメリカが裏で策動して、将来の担保として動いていたのではないか、という疑惑が生ずるからである。最初2万(戦死者!?便衣兵!?)としていたものを、日本降伏まえ、20万人としてアメリカが熱心に報道を始めた。原爆への免罪符の意味もあるだろうが、それは付け足しで、麻薬販売で財ををなしたルーズベルトの日本大嫌い、中国は好きと言うスタンスは、彼にかぎられるものではなく、アメリカの一部に今も巣くっている白人のコンプレックスの一部ではないか、とも思える。

ブッシュ大統領などは、流鏑馬見物をされたが、公式記録にはないが、小泉首相と一緒に靖国へ行きたい、として外務省が大慌てで変更させた、という。加藤議員などは、アメリカが靖国問題で、小泉首相がこだわることに不快感を示し始めた、などと言い出したことがあったが、それを言ったという議員は、そうは言っておらず、彼の秘書が韓国人で対日強硬派なので、そういうことに触れた、程度だったらしいが、加藤議員はかなり、その点については鋭敏なお方だったということになる。


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月曜日, 7月 16, 2007



7月16日、今日は神田の学士会館で、学生を主体とする日本保守主義研究会の講演会が開催される、という通知を受けていた。参加費は無料、講師の方々は、加瀬英明先生始め、まだ存じ上げない方々が数名おられるので、多様な話しが聞けると思い、一月以上前から参加を申し込んであった。台風の影響も心配されたが、直前に関東地方の直撃は避けられ、少々蒸し暑いが一日中曇りのまずまずの天気となった。

バイクのキャブ不調も、キャブの水抜きで回復したように思えるので、確認をかねてテストランもしたかったし、出がけに迷っていると気持ちの悪い揺れがかなり長く続く地震がきた。昨年も、南極観測船宗谷についての講演演目があったとき、申し込みをしておきながら、キャンセルしたことがあったが、あとで、記録を読んだら、出るべきだったと思う内容だった、ので迷いを捨てて、遅れているだろう電車を乗り継いで行くことにした。まだ、速報段階で、被害の様子はあまり解らないが、刈羽村といえば、たしか原発のあるところ、大丈夫かと思ったら、やはり出がけに火災の連絡が入ってきていた。



南極観測船宗谷については、自衛隊の所轄だとは知っていたが、もともとロシア発注の砕氷船で、他の二隻とともに、行き詰まった缶詰め会社が、会社再建のために挑戦した新造船会社の受注初仕事の船だった、という意外な事実からスタートしたようだった。初仕事なので、完成が遅れに遅れて、クレームがつき、かなりの違約金を払ったり、売り場所がなくなっていき、海軍軍籍としてもらい、戦争中運良く生き長らえた「幸運な」船だったそうだ。船底が浅いため、魚雷は皆船底をかすめて行ってしまい、一発も当たらず、空襲でも運良く沈まずで、戦後本格的に南極観測船として、活躍したのは国民がみな御存知というところ。

かくいう私も、小学生の頃、砕氷能力を超える氷の海に閉じこめられた宗谷が、ソ連(当時)の砕氷船オビ号の援助で脱出したなどということは懐かしい思い出として残っている。

久しぶりにお茶の水駅頭から駿河台あたりを通ってゆっくり歩きながら、昔の学生時代の思い出を反芻しながら、学士会館へ。お茶の水は、むかし、浅野セメントの創業者、浅野総一郎が、故郷の商売で失敗後、夜逃げ同然で東京へ出てきて、この周辺で、清水に砂糖を混ぜ、桶に入れて「水、冷やっこいよ」と言って売り歩き、儲けを出して行った、創業の地だそうだ。学生時代から、そんな明治時代からの歴史観で世の中を見つめて来たのだったなという思いに気がついた。

宣教師の息子として軽井沢で生まれたと言う、共産主義者のハーバート・ノーマンに、日本の歴史は戦前は真っ暗な暗黒時代だと刷り込んだのが羽仁五郎だった、という指摘が鳥居氏の著作に散見されたが、もともと万葉の時代から続く日本の歴史からみれば、そうした偏った主張は永続性がないと思っているし、共産主義に憧れたり、学生運動にのめり込む土壌は最初から無かった。神田の街を歩くと、それぞれの時代の学生達の思いを考えたりして、人の一生の短さを改めて考えたりする。

夏目漱石の世界や国木田独歩など、明治人の書かれた作品を、小学生4年ごろから読み出していたので、その当時の視点で世の中を理解し始めてしまったせいもあるだろうが、戦前と言うとまず明治、というセンスなのであの希望と活気にあふれた(ように感じる)時代が、いろいろ問題があるにせよ、なぜあえて暗黒といわねばならないのか、皆目見当がつかない。


私が岩波と接点を持ったのは、この神田の街角で、戦前は規制されていたという「大いなる幻影」を見たときと、アラビア語のテキストを買ったこと、あと、生物学辞典くらいかな。あとは適当に岩波文庫は読んだが、二十歳すぎれば、昔陸軍、いまは岩波みたいな言われ方をしていて、一歩遠ざかって観察する対象領域に入っていた。紫禁城の黄昏という満州国皇帝の家庭教師だった英国人が書いた本の翻訳も、岩波からでているものは、意図的誤訳がかなりあると、渡部教授は指摘している。最近、全訳が出たが、ちとお高いので購入は躊躇しているが。




前回、この映画の紹介をちょこっとしたときは、このパンフレットは見つからなかったが、最近ひょっこり出てきた。この映画は数回見て、最後は家内とも行った。今では、DVDが数百円でコンビニで買える。戦争は、今度の第一次大戦でおわる、というフランス士官に対して、ユダヤ人のローゼンタールは、それは幻影だよというところがこのタイトルの由来であろうが、それは私の好みと一致している。何も、副島氏に教えられなくても、何時何が起きるか解らない時代になってきたという認識は基本的に昔からある。

この頃、日航のパイロット氏が、東西ドイツ統一のシナリオを小説仕立てで発表したが、いずれ統一するだろうが、そのようなシナリオでは起きまいと思い、買わなかった。それにしても、ゴルバチョフがギリシア正教でがなく、キリスト教徒で、就任後まっさきにバチカンを訪問し、時間オーバーの面会で何を話しあったのだろう?ソ連が崩壊するということは、ポルトガルの田舎ファチマで、幼い羊飼いの子供3人の前に聖母マリアが現れ(幻視!?)ソ連が崩壊する年代まで、ほぼ正しく告知したというが、皆その事実を知ってそのように行動したのだろうか?それは、第一次世界大戦のまっただ中のことだったのだが。しかも、ポーランド出身(カトリックが大半)の法皇時に起きたのだが、ソリダルノスチ(連帯)を支えたのは、ヴァチカンからの資金援助ではなかったのか?



フランスのレキスプレス誌編集長(当時)をしていたフランソワーズ・ジルー女史がこの映画の制作にかかわった経緯なども含めて、御自分の青春史をインタビュー形式で発表し、どういうわけか、産経新聞の山口女史の(サイマル出版会)翻訳も出た。それで、当時はアシミルのテープでフランス語を習っていたので、歴史と語学と一石二鳥と思って買った。出だしから、最初は歯がたたなかったが、かなり勉強になった。専門だけの記事なら、辞書頼りで何とかなると思っていたが、文化も、歴史もちがう場面では、こういう言い方では、こうなるわけ!?という対応が翻訳のおかげで少しづつ解ってきた。

コンコルド機が羽田にもデモ飛行をしてきた時代である。戦前からのミッテランなどの話しも参考になる、
映画のロケなどの話しも、映画を見ていたので、実感をもって聞くことができた。

欧米でいう共産党は、日本共産党とかなりちがうというのもこの本で学んだ。ノヴァではないが、この本で、書斎留学体験をしたのかもいれない。

「私が絶対に住みたくないのは、市民戦争の世の中です。たとえ潜在的な市民戦争だとしても、密告、死刑、満員の収容所、政府のドクトリンの中で培われる憎悪・・・・・・・。私の愛してやまない進歩や適応能力も、その前でおしまい。ローザ・ルクセンブルグの破廉恥さ。私は、自由とは、別な考えを持てる状態でなかればならない、と思っている。そういう自由こそ、私が支持するものだ。ミッテランも間違いなく、私と同じ考えだ。」

1980年の12月19日に購入している。原著が1976年8月16日の日付がついている。パリのストック社から出て、紀伊国屋書店にたしか平積みされていたのを買った。



「15歳になる頃、いつもよりずっと暗いある日、すべては夢でしかないことを悟りました。母がますます無一文になっていくからには、私にはたった一つのこと、働くことーーーしかのこされていないことがわかったのです。自活、しはらうかわりに稼ぐこと、そしてすぐに実行すること、これが私の少女時代です。」

「私は、父とは一度も会うことは無かったが、父に対する愛情は強烈でした。家ではフランスに身も心も捧げた英雄扱いだった。彼のふるまいは、すぐれた血筋を引いたものとして当然のふるまいだったのに・・・・・。『すぐれた血筋を引いたもの』とはコルネイユの詩句です。

私が4,5歳の頃、母はよくコルネイユの詩句を繰り返し引用したものです。『すぐれた血筋を引くものの価値は、歳月を待たず・・・・・』おかしな躾け・・・・・。ペギーの詩句の引用もあった。『幸いなるかな、実り豊かな穂、刈り取られた麦よ、幸いなるかな、正義の戦争で死んだものよ・・・・・』」

「私がどこにいようが、旧来の敵である独断や聖職者至上主義(クレリカリスム)や、自分たちの夢のために、犯しがたい現実を修正しようとする人々のシメール(伝説獣。獅子の頭、山羊の身、竜の尾)を相手にたたかい続けるでしょう。」



http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/

「思い出の軍歌」の中に「明治大正の軍歌」という項目もある。

最初から、空の神兵から曲が始まり、インパクトが大きいし、やはり先の大戦への関心がたかいので、
つい「昭和の軍歌」に飛んでしまう。

しかし、あらためて、子供の頃の記憶をたどると、田舎だったせいか、日清、日露戦争の当時の写真も
かなり身近にあったように心の片隅に残っているような記憶がある。ひいおじいさんは、金鵄勲章をもらい、片足を失った帰還兵だと聞いたことがる。その下付金で、戦国時代から続いた家を改造したとの、うろ覚えの話しも・・・。

ところで、このサイトは、一時閉鎖されていましたが、また復活しました。ここで使われる曲が、ウィンではできないのですが、マックでは簡単にコピーできるので、その対策をするため一時閉鎖されたのではないかと思います。

しかし、最近のマックでは通常はできないのですが、QuickTimeをプロ版にするとHDにダウンロードできるようです。私は、以前の曲をダウンロードし、iTunesなどで聴いている。

それで、日清戦争のころと思われる「婦人従軍歌」というのを聞いて、古い大和調をベースに、文明開化した頃の明治の頃の雰囲気が伝わる曲だと思って、時々襟を正して聞いている。

従軍というからには、軍隊の階級に相当する兵の位がちゃんとあった、という。でないと、軍隊はうごけないのだそうだ。日下公人氏の「日本軍の教訓」では、婦長さんは将校待遇、その他の看護師さんは下士官待遇ということだった、という。直りましたから、また戦線にもどります、などと思っても、上官の許可がなければ勝手な判断は、できなかったということになる。一等兵や二等兵たちは、看護婦(当時)さんが、軍曹だと聞いて、皆驚いたとある。




慰問の芸能人たちにも、下士官待遇という軍隊の基準をあてはめておかないとちゃんと組織としてきのうしないのだという。だから、いまはやりの「従軍」慰安婦という言葉は、おかしいのであって、戦後の虚構なのである。宮沢元首相の御遺族が、叙勲を辞退されたという報道があったが、体を張って議論しない、というお公家さん体質が、近隣からの外交問題の突き上げで、屈してしまった、という世評への配慮も働いたのではないか、と正直思っている。

http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/meiji.html

『日清戦争当時、作詞者加藤義清は出征する友人を見送りに新橋駅に行ったところ、同じ列車で赤十字の看護婦たちが凛々しく戦地へ出発していくのを目の当たりにし、感動してこの詞を作り、奥好義に作曲を依頼してこの曲がうまれました。とかく男子の武勇伝が歌われる事の多い軍歌の中で、それも婦人の地位の低かった明治時代に、このような婦人の働きをたたえる歌ができた事は興味深い事です。』となっているが、社会的地位は低かろうと、東アジアでは財布のヒモはだいたい奥さんが昔から握っている。実権は武士階級の一部ならともかく、大方の家庭では、奥さんの方が神代の昔から上なのかもしれないと思っている。

とある知り合いで、珍しく御主人が財布を握っているという噂の家庭があり、お子さんが三人いるが、だいぶ前から、御主人の下着だけは奥さんが洗濯しなくなった、とこぼしていた。下手なアドバイスはできないのだが、日本的原理に反した結果なのではないかと、今まで秘かに思っていた。

「婦人従軍歌」

加藤義清作詞  奥 好義作曲

火筒の響き遠ざかる 後には虫も声たてず

吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色

わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
たおれし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり

やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷い行く
天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人

真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
まくや包帯白妙の 衣の袖はあけにそみ

味方の兵の上のみか 言も通わぬあだまでも
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字

あないさましや文明の 母という名を負いもちて
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字

日曜日, 7月 15, 2007



台風接近のおかげもあり、ようやく「近衛文麿『黙』して死す」をざっと読み終えた。終わりに、補遺として「読者の理解を助けるために」ということで、終戦直前のアメリカの政界での対日強硬派と、戦前の中日大使だったグルー一派との争いなども、鳥居氏一流の歴史の読みで挿入されている。

3月28日発行のこの本を、前防衛大臣、被爆地長崎選出の久間氏が、お読みになっていたのかどうかが、改めてこの補遺における原爆投下の経緯のくだりを読むと考えさせられる。

もっとも、産経新聞には、すでに正論欄に、木戸内大臣が、2.26のときのように、天皇に中国撤兵を(近衛首相が何度も要請したのに)奏上せず、自分の保護した陸軍一派が中国で軍事行動を起こしたことを非難されるのを恐れて、開戦を招いた、とか

原爆投下まで日本を降伏に追い込んではならないという方針でアメリカは和平交渉の行くへを二転、三転させたようなことも書かれているので、要職の大臣ならとうに読んでいなくてはならないはずの書物だと思うが、読んでおられず、ああいう発言が出たとしたら、不勉強もはなはだしい、といわれても仕方ないだろう。もっとも本来リベラルといわれるお方だけに、朝日
新聞しかお読みでないのかもしれないが、先日車中で、顔を隠すようにしていたショットが
週刊誌に載ったが、読売新聞のようだった。

ルーズベルト大統領が、近づく中国との戦争を心配して、早く日本との戦争を終わらせようとしたが、その手を打ちだした後に、愛人宅で急死した。


後を継いだ副大統領のトルーマンが大統領となったが、国務省などは対日強硬派は飛ばされていた。後は、国務長官代理の、グルー元中日大使が日本との和平交渉を担当するはずで、日本側も察知し、期待していた。



しかし、グルー国務次官は、原爆反対論者で、早く日本を降伏させるため、日本側が飲みやすい和平案をと迫った。そのため、原爆実験を日本の都市で行いたい一派と、それに乗ったトルーマンから嫌われ、実質的な動きは封じられた。事情を知らない日本側はあせった。

それで、いわゆるノーマンらが所属していた太平洋問題調査会が日本を占領した後の日本処理案で、「国体を破壊する」などというレポートを出したりすることに、過剰な反応をしていた。

なぜ、トルーマンは、グルー、マックロイ、フォレスタル、スチムソンの主張を採用し、一日も早く対日戦を終わらせようとしなかったのか?

トルーマンの相談相手になったのが、ルーズベルト政権の下で力を振るったことのあるジェームズ・バーンスだった。トルーマンを助け7月には事実上の国務長官となった。

二人は以後しばらくの間、会議、演説、そして日記であれ、私信であれ、回想録であれインタビューであれ、浜の真砂ほどの嘘をつき、懸命に原爆投下の意図を隠す秘密をつくった。

二人が早々と決めてしまった秘密は、原子爆弾の世界「公開」実験は日本の都市でおこなう、その「公開」が終わるまで、絶対に日本を降伏させてはならないということだった。

その理由を鳥居氏は、こう書いている。

トルーマンは、棚ぼた式に大統領になり陰で悪口(ミズーリの雑貨屋)を言われていることを承知し、ルーズベルトが、考えた事でもなく、し残したことでもない、何かどでかいことを自分の決断でしなければ、と思いつめていた。

バーンズは、ルーズベルトの心変わりさえなければ、副大統領に指名され、大統領になることが出来たにもかかわらず、自分が馬鹿にしていた男が大統領になってしまった、という運命の皮肉に苦しめられ、これまた、どでかいことをやってやろうと思っていた、とある。

原爆を投下し終わるまで日本を降伏させないと決めたふたりが、陸軍長官スティムソンの降伏勧告案からその第12条、天皇の地位保全の条項を、スティムソンの不在のおり、ポツダムに向かう航海中に削除、バーンズは原爆のことを知らない、日本嫌いのハルに電話し、本土爆撃を強化し、ソ連の参戦を待つようにという言質をとり、爆撃強化の免罪符まで取り付けた。

ところが、トルーマンとバーンズが原爆公開実験を終えた後、ただちに天皇条項を復活させねばならなかったが、そのまま復活させると、二人が何年か先には、部下たちの反対を無視して行った原爆実験が、第12条を削除してまで行った秘密がばれると考え、元の12条とは似ても似つかない表現にしなければならなかった。その仕事は、今度は疎遠にされていたグルーの最後の仕事となった。

トルーマンとバーンズがグルーを排除したのは、彼が日本への原爆反対を繰り返したからだ、という。それでグルー勢力を追放してしまえば、必然的にその後の起用はグルーの反対勢力の対日強硬派となる。

http://critic3.exblog.jp/5383751


では、ノーマン、よくやった。近衛文麿も昭和天皇に続いて・・・と書き褒め称えているかに見えるが、木戸幸一が自分を守るため、開戦の責任を近衛へ押し付け、その仲介を甥である都留重人が果たした、と書いている。木戸が召集令状がきた都留を軍務から開放してやり、東京にいたのでそれが可能であり、近衛の息子は満州にいた。逆であればノーマンであっても、そこまではできなかった、と。

ノーマンがアメリカの捜査機関や議会の調査委員に過去を指摘され、糾弾されるようになって、1957年に死を考えるようになったとき、かれは自分が死においやった近衛文麿と広田弘毅のことを思い浮かべて、自分がしてしまった残酷で無常な仕打ちを後悔したにちがいなかった、と鳥居氏は書いている。
都留重人のことは、ここで記す気にはなれない。

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金曜日, 7月 13, 2007



2005年5月発行だが、ラジオで取り上げられたのを契機に注文して購入、一年くらい前だと思うが、はっきり覚えていない。スポットライトで検索したら、昨年7月5日に注文した記録があった。

山で長年遭難者救出活動を続けているある人は、登山者を見ると、だいたい遭難するか
どうかわかるという。どういう違いでわかるかというと、後ろに仏像の光背のように何
かしらもやもやしたものが見えるという。現にそういう登山者に、この辺でおや
めになって下山したらとアドバイスしたことがあったが、俺は初心者ではなく、
何度も来て経験を積んでいるからと、無視されたが、案の定、遭難死したとい
う。死体の状況も事前にその人にはわかるという。この世とあの世とは、不思議
な縁でつながっている、と書き込んであった。

今はなくなったラジオ番組、吉田輝美氏のやる気満々でゲストインタビューで取り上げられていた。

さらに、遭難場所や、どういう格好で死体が雪などに埋まっているかもだいたい解ると言う。不思議な話し
で、多少の誇張もなくはないだろうが、遭難者の遺体が発見されて回収されるのには、こういう能力が発揮されているらしい。

もっと驚くのは、山菜取りで、奥さんがガードレールのすき間からかなり深い谷に転落して死亡した。夫は麓に連絡をとり、救出を請うた。捜索隊が到着したが、深い谷で、二重遭難が心配。それで、投光器をセットしたり、万全の体制をとって、たき火をして体を暖めたり、・・・。すると夫は、何をぐずぐずしてるんですか、家内が「呼んでいる」じゃないですか、とせかす。

それで、漸く救出作業に取り掛かろうとすると、夫が、家内が「呼んでいる」と言って、あっという間に、止めるまもなくガードレールを飛び越えて、奥さんの待つ、谷に自ら投身してしまったという。途中の岩にぶつかる音のあと、谷底に着地する厭な音まで皆聞いてしまった、という。

青森県白神山地での話しと言う。「何てこった」といいながら、サーチライトで谷底を照らすと、不思議に妻の脇に夫が倒れていた、という。まるで迎えに来たぞとでもいうかのようだった、とある。

それだけかと思っているとさらに先があった。「うちの親が落ちたって聞いてきたんですが、本当ですか」と一台の車で、今度は息子が駆けつけてきた。
「今、引き上げようとしているところだ、見ないほうがいい」

「そういったて、今、父さんと母さんが呼んでいる」とガードレールのそばに走り寄ろうとした。

「止めろ、そいつを止めろ、止めないとそいつまで呼ばれるぞ」皆であわてて息子を取り押さえる。
「何をするんですか、父さんと母さんが呼んでいる、あなた達には聞こえないのですか」・・・
興奮した息子はパトカーの後部座席に座らされ、飛び出さないように両側から警官がはさんだが、時折、逃げようとする犯罪者のように、外に出ようと繰り返した。とある。

その間、呼んでいると叫び続けたらしい。数時間後、両親の遺体が引き上げられ、それを見た息子は、今度は憑き物が落ちたように大人しくなり、遺体に取りすがって号泣した、という。これは13話の「呼ばれる」というタイトルの話。

あと、遺族や親族が、捜索隊が絶対に探さないようなところを、いくらそっちは可能性はないですよ、と諭しても、ちょっとまって、どうも何だかこっちのような気がすると言って聞かないので放っておくと、気になる場所で見つけるということも時々あるらしい。これは14話の「血が引く」という話。





私も若いとき、見学を兼ねて、山小屋で寝泊まりして仕事をしている友人の手伝いで、山小屋に数日泊り、そのときも、彼から、遭難者の話しなどをよく聞いたもので、そういう話しを受け入れる素地はあったのかもしれない。夏のことで、他の宿泊者も数組いて、半分キャンプ気分でいたのだが、冷静に考えると、山は
怖いところがあると昔から思っている。

昔から、山などを歩くと、どこかで死体に遭遇することがあるだろうな、という予感を心の底に持っている。幸い、まだ一度もそういう経験はないのだが。前回の川でのアユ調査では、水死体が堰に流れ着き、死後数日ということで大騒ぎだったという経験者は、コンビニ強盗の件で警官がバイクでパトロールに来たり、パトカーが橋の袂に来ただけで、すわ水死体か、と興奮ぎみだった。

この本は1500円プラス税で、55話からなり、中味は大きくわけて、

山の幽霊話 9話

人智を超えるもの 16話

自然の不思議 17話

ひとの不思議 13話 となっている。 先ほどの13話、14話は番号から言って、「人智を超えるもの」に入る。

幽霊話よりも「人智を超えるもの」の方が再読した記憶がある。

山のサークルで奥さん方を案内してくる男が、あるとき狙った人妻だけに連絡し、他の人たちは来ないようにして、二人だけでいつもの山小屋に来た、などという話しは「ひとの不思議」にある。

そうとは知らずに、この中高年登山ブームの陰で、というタイトルを最初に読んでしまった。

「ひどいわ、誤解されたら困るわ」と言っていた女性、夕食になり、ビールが入ると緊張感もほぐれ、男に注いだり、注がれたりして、時々笑い声も聞こえた、などとある。

夕食が終わると、星を見ようと男が誘った。「酔いざましにいいわね」女性も一緒に外に出た。

「すごい星、夜空がきれい」という声が聞こえる。男が星の説明をしているようだ。
「いろんな星を知っているのね、感心したわ。最初はどうなるかと思ってきたけど、きてよかったわ」

それから、しばらく声がしなくなった。やがて男が寒いと言って、女性の肩を抱くようにして山小屋へ入ってきた。女性はうっとりしたような顔をしていた。9時を過ぎていた。男は「もう寝ます」と隣の部屋の戸を開けた。「どこでも勝手に寝てください、今日は他の泊まり客はいませんから」




翌朝、用意していた朝食の前に二人が座った。女性は男のために箸をとってやったり、醤油をかけてやったり甲斐甲斐しくしていた。・・・食後のコーヒーも女性が男に砂糖をいれてかき混ぜて出してやっていた。

・・・「それから二人は山小屋を後にしたけど、恋人のように笑いながら歩いていったよ、・・・たった一晩で女性の態度ががらりと変わるというのが不思議でならないな。きっと家で御主人からやさしい言葉をかけてもらっていないんだ。・・・・」主人は首をかしげながら、「幽霊より何より、男と女のことが一番ミステリアスだよ」と、ため息まじりに呟いた、とあり、今読み返して、構成の妙味を改めて感じる。

水曜日, 7月 11, 2007

雑誌「WILL」8月号のある欄を見て驚いた。「期待」と題する19ページに載せられたコラムである。経済白書の第一回目は経済実相報告と題されていて、その総論で強調されているのは「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」と畳みかける前途真っ暗の嘆き節であった。日本経済の発展を予言した下村治の総論原稿を相談なくあっさりボツにして、赤字強調の総論を執筆したのが、都留重人である、と。・・・

この疑問を解く鍵を提示したのが鳥井民『近衛文麿「黙」して死す』である。
『木戸幸一の「暗躍」を隠して近衛文麿を日米開戦の責任者に仕立てたのは、日本通(軽井沢生まれ)とて占領軍に発言力を持つハーバート・ノーマンであり、その共謀者が都留重人であった。

都留の夫人正子の父、和田小六の実兄が木戸幸一である。ノーマンと都留は根っからの共産主義者としてハーバード時代から密接に親交を重ねた盟友であった。
都留は共産主義の御本山ソ連の日本占領を密かに期待し、我が国に戦後復興は無いと判断したかったのだろう。』と。


児島襄「東京裁判」(中央公論社)では、近衛公は、最初占領軍からマッカーサー元帥の激励を得て、憲法改正案の作成にたずさわることになるが、最初からその意図で訪問したのではなく、元帥の対日態度や自分自身の措置について知りたい意図もあったとみられる、とある。

それがある時点から、憲法改正を頼んだ事実はないとされ、最後になって戦犯リストに加えられた。

「「黙」して死す」では、「東京裁判」の書中でも書かれている、芝浦岸壁に停泊している砲艦上で、米戦略爆撃調査団の質問を受け、きびしい尋問を三時間あまりされるところあたりから始まる。

児島氏は、秘書官の牛場友彦氏の記述を引用して「実にみじめな耐えられない空気の3時間であった。文字通り近衛は打ちのめされた感じだった。・・・」と引用しながら、なお、戦犯にはなるまいとの望みを持ち続けた、とある。



http://critic3.exblog.jp/5383751

「世に倦む日日」というブログでは、E・H・ノーマンを想うー近衛文麿を告発したのはノーマンだった」
とあり、「ハーバート・ノーマン 人と業績」(加藤周一編、岩波書院)の巻末資料として、「11月5日戦争犯罪容疑者画定の資料として、近衛文麿に関する覚書をGHQ政治顧問ジョージ・アチソンに提出」の記事をみつけた(P.306)。近衛文麿を告発したのはノーマンだった。ノーマンよくやった。近衛文麿も昭和天皇に続いて平和主義者の仮面を被って戦争責任から逃げおおせようとしていた。・・・」などとある。



「このノーマンの告発とアチソンの説得がなかったら、近衛文麿の自殺はなく、さらには広田弘毅の判決と死刑もなかった。東条英機は昭和天皇の身代わりだが、広田弘毅は近衛文麿の身代わりなのである。・・・」などとある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エドガートン・ハーバート・ノーマン

では、ノーマンの自殺の項では以下のように出ている。

『同年に起きたスエズ動乱勃発では、現地の平和維持と監視のための国際緊急軍導入に功績を残し高い評価を得たものの、都留重人を取り調べたFBI調査官によるアメリカ上院における証言によって共産主義者との疑いを再度かけられ、1957年4月4日にカイロで飛び降り自殺を遂げる。』

私の7月4日投稿の中には、副島隆彦氏の「冷酷な事実にたちむかうために知っておきたいこと」で、
太平洋問題調査会をもっと研究しなければならない。・・・岩波書店系進歩主義の元祖でマッカーシーに追いつめられて自殺した日本史研究家のハーバート・ノーマンもここのメンバーでした。・・・と引用した関係で大変興味のある内容である。

鳥居民氏の研究ではどうか?

「本書で論じるのは、木戸・ノーマン史観である。」で始まる。前述の砲艦上での3時間にわたる尋問こそは、ミニ戦争裁判であった、とされている。

「この二人は、アメリカ占領軍首脳とアメリカ政府に、事実を大きく歪曲して自分たちがつくった1941年、昭和16年の歴史を信じ込ませた。そのあと、木戸とノーマンが隠そうとしたこと、誤魔化したことに多くの人びとは疑問を持つことなく、それらを率直に受け入れてしまったために、やがてひとつの定説的な史観ができあがっと、と続く。

「定説おじさん」の事例をみるまでもなく、「定説」とされるものは、たいがい誤魔化しや単純化のプロセスが潜んでいるものである。

近衛が東京湾でアンコン号と言う上陸作戦時の指揮艦上で、屈辱的な取り調べ(ミニ戦争裁判)を受けたのは、ノーマンが告発したわずか4日後、11月9日である。牛場友彦も同席している。

このとき、すでに近衛は、尋問相手側が、戦前の日米交渉史に無知で、しかも昭和16年9月6日の午前会議を取り上げ、(日米)交渉に期待をかけているように見せかけて、開戦のための準備を進めるためだった、と主張するのを聞いて、近衛公はすべてを悟った。牛場は近衛の態度をみて、公爵、公爵(どうなされましたか?)と二度も声をかけたという。その御前会議では、10月半ばまでアメリカと外交交渉を行い、交渉に見込みがなければ、開戦のための準備をおこなう、という決定だった、という。微妙ではある。

無知なはずの人が、日本でも50人ていどしかしらないはずの御前会議の内容を、近衛公を戦犯へと追い込む手はずの尋問を厳しく、かつ強引になされた周辺事情や裏事情がくわしく書かれている。もちろん、ノーマンも知りえないことだ。だれがあの御前会議の重要点を大きく歪めてアメリカの諜報機関に売り込んだのか?

近衛公の頭の中に、彼を売った顔が浮かんだ。その顔は彼に向かって、おれが死んでたまるか、死ぬのはお前だと言ったのである、とまで書かれている。

帰りの車中で、近衛公はやられた、やられたと言った。・・・尋問官にではない。牛場にもその顔ははっきり浮かんだのである。表紙の写真は、時と場所はちがうのだろうけれど、この時の情景を連想させる意図で選ばれたと想った。

「車中の近衛はなるほどそういうことかと思ったはずだ。牛場が外務省を訪ねても吉田(茂)は会うのを避けるようになり、私にも連絡を取ってこない理由がはっきりわかった。かれは私の運命の行き先を嗅ぎ取ったのだ。」

対して、木戸幸一へのアメリカ側の尋問は軍艦内などではなく、かなり丁寧な言葉遣いで、ありきたりの形式的な尋問で終わっているそうだ。

児島著「東京裁判」では、12月6日に近衛、木戸ら貴族院関係者にも逮捕命令が出た、とある。外務省からの連絡を受けた近衛は「猛烈に相手に電話口で怒鳴った」そうである。この相手はだれだったのか!?。


渡部昇一教授は、近衛公が服毒自殺を遂げず、東京裁判で彼の周囲で開戦を煽った人物名を挙げてほしかった、と指摘している。しかし、近衛公は、帰りの車中ですでに、牛場秘書官に対して、「黙」を貫くと告げたのではないか、と鳥居氏は書いている。渡部教授は、東京裁判否定派なのだが、・・・。

また、晩年近衛公は、自分は天皇制の下での共産主義者たちに操られていた、と告白さえしていると、渡部氏は指摘している。最近の雑誌などでの断片を総合すると、日米開戦を切望したのは、米ソ両国、蒋介石、毛沢東だとはっきりわかる。小室直樹氏は、日本政府が低能だから、とよく指摘されている。近衛公は、黙して死ぬ以外にはなかったのかもしれない、伝統的美学の世界にあっては。

http://www.melma.com/backnumber_45206_3602099/

中国ウオッチャーで著名な宮崎正弘氏もこの鳥居氏の著作をとりあげ、感想を述べておられる。

『・・・・スターリンがカナダ経由で送り込んだ第二のゾルゲが、ひょっとしてノーマンであったかも知れない。
 だから戦後、カナダ外務省から特派され、強運なことにマニラで日本上陸を準備していたGHQ幹部らと知り合った。そのノーマンの生半可で出鱈目な日本史の知識さえ、GHQには新鮮に見えた。GHQは、ノーマンが日本語に堪能なことにも注目し重宝するという最悪の誤断をしてしまった。
 ところがノーマンは大東亜戦争の責任に内田良平や頭山満らを加えていた。かれらが戦時中、すでに死去している事実さえ知らなかった。
このころノーマンはソ連の諜報機関とコンタクトがあった、とされる。
やがてマッカーシーの赤狩りで、共産主義者=ノーマンの正体が暴露され、1956年に赴任先のエジプトで飛び降り自殺。都留のFBIへの供述が遠因となったらしい。
 都留重人はこのあたりのことを自叙伝にそらとぼけた書き方をしている、と鳥居氏は言う。
しかしノーマンは、そのメチャクチャな論文のすべてが邦訳され全集が日本ででている。カナダでは殆ど誰も知らない外交官が、日本では戦後の平和ボケの時代に希有の人物となって戦後史の一部をいまなお飾っている。
嗚呼、“不思議のくに、ニッポン”(ポール・ボネ)
 カナダの外務省は、いまだにこのエドガートン・ハーバード・ノーマンに関する多くの機密文書を封印したままである。』






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火曜日, 7月 10, 2007



久しぶりに昼休みが大型書店の近くでとれることになり、時間の余裕も単独だったのですこし余裕があり、
しばらく振りに新刊書を中心に覗いてみることに。

すると、以前見かけた速配便バイクが、ほぼおなじ場所に止っていた。前回は、3月8日で、今回はほぼ四ヶ月ぶりということになる。この種の業界のバイクの走行距離をチェックするべく、メーターを拝見。四ヶ月でおよそ15000キロ以上、月平均4000キロ近く走っていることになる。

私は9ヶ月でほぼ同数の距離を走行したが、四ヶ月とはすごい。日に換算して、月25日程度とすると150キロほど。そうすると、私が仕事の調査で動くときの走行キロが一日で150〜200キロほどであるからある種の距離感覚は掴めるが、毎日となるとかなりハードな部類、しかも二輪。若くなくては勤まらないかもしれない。







昔、私にGX750を譲ってくれたツーリングクラブ「風」の菅原氏は、かって、プレス関係の原稿やフィルム配送の仕事をしており、今どきのナイターシーズンなど、球場での35ミリフィルムなど、2~3本ごとに社まで届けて則現像へ廻すという段取りで、球場と社との間を一晩で数往復することが多いと言っていた。

成田航空へ、都内から忘れたパスポートを50分以内で届け、相手に大変感謝されたことが、かなり嬉しかったらしく、自慢していたが、バイクはCB550だったと聞いた記憶がある。



ホンダには650が無かったように思うが、カワサキ、スズキにはナナハンのミニスケールダウン版のような650cc4気筒がしばらくあったが、やはり消えてしまった。若年齢層人口がどんどん減っていったのだから
仕方がない。最近は、団塊の世代が、若いときの憧れだったビックバイクに熱い視線を向ける傾向があって、いい爺〜ライダーなどと週刊誌で紹介されたりしていたが、同感である。

日曜日, 7月 08, 2007



最近産経新聞(朝刊しかない)で、「やばいぞ、日本」(序章 没落がはじまった)という特集記事を一面に(後半は、二面ないし三面)掲載するようになった。日本の多方面での地盤低下がいろいろな事例をもって語られる昨今、タイムリーな話題提供かと思って目を通すと、目を疑いたくなるような記事が連日続いている。

たとえば、掲載した記事のコピーは第3回目で、第2回目は「鈍さが工作員を取り逃がした」とあり、辛光洙(シングァンス)を、韓国から「なぜあれだけ喋っているのに、捜査をすすめないのか」と連絡を受けてから、日本の捜査員が飛び、事情聴取したが、韓国側には詳細に、拉致の事実をしゃべったのに、日本側には認めなかった、という。それで、あちらの捜査資料を段ボール箱一杯につめて持ち帰り、日本側でも捜査を進めようとしたところ、検察と警察が協議して、立件を見送った、とある。検察側は、この(韓国での)調書は、日本の刑事訴訟法にはなじまない」と主張した、とされる。それで、逮捕状が出ずじまい、身柄引き渡し要求もできずじまいに終わった。韓国からの、その後の連絡に、警察関係者は、言葉に窮したそうである。

役所のどこかに、その段ボール箱は、事なかれ主義を象徴するかのように、22年間置かれていたことになる。死刑判決を受けた辛容疑者を、金大中大統領が、恩赦で、北朝鮮に送り返す決断をした際に、横田夫妻らは、政府に北への送還反対を要請したのだが、森首相や、複数の与野党をふくむ政治家に反対されて、実現しなかった。米援助で国費1100億円を、河野洋平外相が、「私の責任をもって行う」と大見えをきって実行したのに、何の成果も生まなかった、と指摘している。

国会で、辛容疑者へ警察が結局何もしなかったことを、質問したのは、97年5月の衆院外務委員会での、安倍議員からの質問だった、と指摘。その場はなんとかお茶を濁した答弁をしたが、公安当局は、再び韓国に今度は此方側から接触しようとしたが、今度は韓国側に、拒否されたという。

「辛を北朝鮮に取り逃がすことさえなかったなら、拉致事件はもっと解決に進んでいたはず」と温厚な横田夫妻が、怒りと無念さを口にされる、という。国民を守ると言う国家の最大の責務が顧みられなかったことが、日本の國としての弱点が現れている、と結んでいる。

米下院で、慰安婦決議は結局採択されたが、拘束力をもたないからといって、無視するわけにはいかないようだ。三面に続くこの項目では、「日本の外堀が埋められた」という見出しがついている。(7月5日号)

簡単に印象的なところだけを拾うと、その丸顔のアジア系という男は、ホンダ議員について、『単純な男です、(慰安婦問題の追及を私が)止めろといえばやめるでしょう。』という。本当に動かしているのがだれだか解らないのか、と言いたげだった。

『今、アジア系はカネをもっている。100万ドル、200万ドルをぽんとだせるアジア人がいくらでもいる。』

男は駐米中国大使を知っているともいう。しかし、同時に、チベットの精神的指導者、ダライ・ラマとも親しいらしい。・・・最後にふと思いついたように「ところで日本の諜報部隊は何をしているんだ。ここには来たことはないな。」と冷ややかに言い放った、で終わっている。



裏情報がとれないと、政治家も官僚も、遠隔操作で、他国や他集団からの真意を隠した問題提起に対応を誤る、という事例を戦後も幾度となく繰り返してきたはずだが、スパイ防止法も、諜報機関とよべるまともな組織も実体がないような属国日本のくさった土台が露になってきた、ということだろうか!?

土曜日, 7月 07, 2007



今日も長期予報は外れ、前日の予報のみほぼ的中のルーリング日和。車で移動中、先日紹介した、ヤマハのBT1100ブルドッグらしいバイクともすれちがい、多くのツーリストたちと出会った。ハーレーなどもすっかり当たり前のバイクシーンの一つとなり、特に目立つバイクではなくなりつつある。高速道路での二人乗りシーンは、残念ながらまだお目にかかったことはない。また、確認はできなかったが、BMWの前傾直立2気筒
の800ccらしいバイクもすれ違った。

とある駅前通りで、打ち合わせのため時間調整していたら、見慣れない形のサイドバッグを左右に張り出させてとめてあるバイクを発見。ちかよったら、良く見返るDUCATIだった。かなり走り込んでいるようで、排気管は焼けている。



フロントフォークの耐久性が良さそう。しかし、まだポピュラーにはなっていない。オフロード車にはよく見られるようになってきたが。メーターは240キロあたりまであるが、上級車との共用なのだろうか。繰る歓びが溢れているようなバイクだと思った。多分、雨天でも乗っていると思われるエンジン、排気管の状態だと思った。あいにく、素行キロ数は、デジタル式らしく不明だが。



http://www.geocities.jp/shonaka2001/

ではsho様が、あたらしいShoeiのヘルメットに変えたと最近掲載されるようになったジオログで書かれていた。そういえば、以前似たヘルメットがBIG1の画像にあったなあと思い探していたらありました。

http://www.bikepics.com/members/cb1000sf/94cb1000/

に投稿されたシリーズだったと思うが、ニュージーランドからの二枚組投稿の一枚。bikepics-733756-800.jpgという画像でした。かなり、似たデザイン、こちらはArai製でした。

あそらく彼女とふたりで湖畔まで来たのだろうが、なんか景色は良いのだが、人気のないさびしい感じが
する。中禅寺湖畔あたりと同じなのだろうが、観光施設などはあるのだろうか。

御雇外国人や欧米各国の大使たちが、蒸し暑い日本の夏から逃れるために、軽井沢や日光などは、ヨーロッパの林に似ているとして、古くから好まれたそうだが、このまえも、イタリア大使(館)別邸公開中とかなんとか看板が出ていた。

中禅寺湖もかなり水深があり、潜水艇かなにかで調査したら、大型爬虫類らしきものの姿が捉えられた、というような記事が、以前少年画報のような雑誌にイラスト入りで載ったが、このニュージーランドの湖も、ネス湖のネッシーもどきみたいな生物がいても不思議がないような気になった。





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木曜日, 7月 05, 2007



第二次大戦中、英国はドイツのUボートなる潜水艦の活躍に悩まされたが、ドイツ軍の暗号解読のため組織を立ち上げ、数学者たちをあつめて解析した、という。毎日、傍受された暗号電報の記録を届けるバイクが200台ほど、研究所と各種軍組織との間をひっきりなしに行き来していたという。

異変に気付いたドイツ軍は、さすがに暗号を変えてしまったというが、それも数ヶ月もすると解読され、再び行動半径が探索され、大西洋の藻屑として消えて行く潜水艦が増加したという。この話しは、藤原先生のNHKテキストで読んだが、細かなことは覚えていない。そういえば、昔学んだ統計学のテキストの例題に、
米軍が撃沈したと報告した潜水艦数と、実際の損害数の月別データ(16ケ月分)があって、回帰式を求めるというのが巻末にあった。今エクセルで求めてみたら、y=0.76+1.04xとなった。xは報告数、yは実際の数である。月別最小は2隻、最高は19隻である。(実際の数、19隻のときの報告は13隻)


先日、西尾幹二氏が防衛省の高官に、情報戦略を質したら、アメリカ情報は、米軍筋の垂れ流しを何の疑問もなく頂戴して疑うことをしていない、ということを聞き出し、大変に驚いたことを雑誌かなにかに書かれていたが、平和時に戦争をデザインすることに思いが至らない体質なんだから、いまさら度しがたい体質なんだろうと思った。平和もある条件で誕生し、成長し、やがてある条件が整うと、死に至ることは明々白々、治にいて乱を忘れず、ということばはよく子供の頃聞かされたものだが、最近は、日本がアメリカと4年近くも戦ったことなど御存知ない若者が、けっこうな数いるらしいから、どっちがより深刻か考えてしまう。アメリカにおんぶにだっこで来た弊害だろう。

昨日紹介した、「アメリカの日本改造計画」では、元外務省の佐藤優氏が、日本の占領後、対応した陸軍の
情報参謀の能力を恐れ、対共産主義対策のみに振り向けることに努め、伝統や力をそぐことに努めたと言う。加えて、膨大な図書や資料が失われ、それまで築いてきた資産と人材が失われた損失は極めて大きいと
指摘。国家の独立に不可欠なインテリジェンスをすべて放棄してしまったのは大変な損失と書かれている。

命のビザ伝説の杉原千畝氏は、白系ロシア人の娘を一時妻とし、その家族からかなりシベリア鉄道沿線情報を仕入れていたらしいことは、書物にも、また再現ドラマでも描かれていた。一時妻どころではなく、晩年も文通したり、着物やその他の物を密かに送ったりしていたと、ユダヤ人学者が書いた伝記にはある。左翼の一部はその部分は作り話だろうというのがあったが、私は信じたい。未亡人の方には迷惑なはなしだろうが、・・・。手を尽くして、オーストラリアの養老院に存命という情報を見つけ出し、彼女の許に出向き、インタビューをするところは感動的。彼女の方から、離婚を申し出たこと、夫に内緒で子供を始末していたことなど、夫はとても優しかったことなどが明るみに。その学者の訪問後程なく彼女は幸福な顔で息を引き取ったという。

1930年代にスターリン体制が確立して本格的な内務人民委員部(政治警察、刑事警察、国境警察、諜報機関を統括する機関)が作られ、ソ連国民全員を登録して相互監視するシステムを構築したため、日本の特務機関は浸透できなくなり、情報がとれなくなった、という。


これでは、その後の戦争では負けてしまうと、秋草俊は大変な危機感を持ち、国際標準の諜報員養成所を作らなければと研究を始めたという。(秋草 俊:陸軍中野学校の生みの親で、関東軍情報部長、ソ連抑留中昭和24年死去、陸士26期卒)





佐藤氏は、秘密情報の98%は公開情報からとれる、という。外務省は、新聞の切り抜き如きは、研修生にさせてはならん、などと言っているらしいが、佐藤氏によれば、名刺をデータベース化することは不毛でも、新聞を切り抜きすることは、非常に重要な基礎作業だと言う。これは、「知的生産の技術」に通じる話しだと思う。最初は不毛だと思うが、時折見返していると、大変なことに気付くことがあるものだ。


長年担当されたロシアの場合、新聞・雑誌から95%、学術書から3%の情報がとれたという。