金曜日, 7月 20, 2007



2002年6月の発行。島田裕巳氏は、もと日本女子大教授。しかし、1953年生まれとお若い。いまから10年以上前日本女子大教授に、助教授(今は准教授?)から昇進されてたしか1,2年で学長命令で、この大学では君はいらない、と言うことだと宣言されてしまった、どちらかといえば不運に見える先生。

このニュースが昼間のテレビで流れたとき、私は病院のベッドで聞いていた。盲腸の手術で、二週間ほど入院していた時だった。その前の、オウム(アーレフ)による地下鉄サリーン事件などの前、女子大生たちをつれてオウム道場へ出入りしたして、どちらかといえば、オウム理解を示しすぎた観のある活動は社会的に話題となっていた。

それは、9月頃で、翌年の学会は、発表枠が予定されていても無断欠席となったと、一部の週刊誌かなにかで読んだ記憶がある。それからかれこれ7,8年経つと再び新聞に、先生の解説記事がでるようになり、その後どうされているか気になっていた先生だった。

本の内容は、排他的な一神教と寛容な多神教というこれまでの一面的な理解が果たしてただしいのかどうか、身内の方がイスラム教徒のアラブ人と結婚されたことを契機に、日本人の宗教観の周辺を一神教の世界と比較して、多様な考察をおこなったもので、一神教、多神教といっても互いにかなりの共通項をもつ、という。

「イスラーム過激派による暴力的事件が起こると、峻厳な一神教の排他性が問題となり、他の信仰に対して寛容な多神教の可能性が主張されたりする。」

「しかし、本当に多神教は寛容な性格をもっているのだろうか?
多神教の代表(?)である日本でオウム真理教の事件は起こった。そのことを忘れてはいけない。」とおっしゃる。(わたしも読んでいてはっ、としました)

「オウムはキリスト教の影響を受けているものの、本質的には、ヨーガをベースにした仏教、その中でも特に密教を信奉する集団なのである。」と。




一神教として挙げられるのが、ユダヤ教であり、キリスト教であり、イスラームである。ではこの三つの一神教においてどのような神が信仰されているのだろうか?と問う。

キリスト教では、教義を簡潔にまとめたものとして、「使徒信条」というものがあり、カトリック、プロテスタント、東方正教会で用語に差はあるものの、全能の父である神となっている。・・・しかし使徒信条は三位一体の教義を説明したものとされるが、門外漢にはきわめて分かりにくい、という。神はただひとつである、とは強調されていないという。

イエスは人間としての性格と、神としての性格がともに備わっているという解釈に、今は議論が落ち着いていると言うが、それがどういう論理的帰結をもつのか、途方もなくわかりづらい。しかし、イスラム教であれ、キリスト教であれ、神は同じで一つであり、双方が異なる神を信奉するのではなく、その神をどのような形で信奉するのかと言う点だけだ、という。

私たちは「エリアーデの『世界宗教史』をひもとくことによって神の問題を考える上で重要な示唆を得ることができよう」としている。

いわく「この世をはるかに超越した絶対的善であることによって、神は根本的な矛盾をはらむ。善なる神が創造したはずの世界になぜ悪が存在するかという疑問を生む。・・・そこから神はかなたへと後退し、「暇な」な神となる。そこで、さまざまな神が登場し、人々の救済の役割を鬼なう。そこでは儀礼が重要な役割を果たし「宇宙の更新」への希望が、民衆の信仰生活を支えることになる・・・。」

私は、こうしたエリアーデの理論を踏まえ、一神教と多神教を対立的にとらえる図式の問題点を指摘し、信仰の具体的な現れの中から、それに変わる新しいモデルを見出していきたいと考えている、というところまでが前半である。

後半は、一神教と多神教との対立図式の再検討をふまえ(第3章)、日本の神(第4章)、最後の章で慈悲の神という構成で終わっている。

多神教の中にも一神教敵要素があるとは、宣教師たちと新井白石との問答などからもある程度は想像されていた。宣教師たちは、新井白石の素朴かつするどい質問に答えられなかったようだから。

天理教と柳田國男が、日本に一神教を確立しようと努力したという指摘は、初耳で、興味深い。

『一神教=多神教モデル』は現実に営まれている信仰の実態を分析によることによって導き出されてきた概念である。だが、それはたんに分析のための概念であるだけではなく、これから神というものをどのように捉えていくかという問題にたいしても、示唆を与えてくれる可能性ももっている、としている。

一見拍子抜けするような単純モデルだが、パラドキシカルな魅力をもっていて、いろいろな側面での説明に
便利な感がある。多神教と一神教とを二元論的に対立的に把握する姿勢は、問題がある、という。

また、日本人は神を信じることができないというような常識がまかり通っている現実をうち破りたいとしている。この場合、靖国の神は、聖者とも呼ぶべき範疇だとしている。

末尾で著者は、わが家に一人のムスリムがやって来なかったとしたら、こうした神の問題を改めて考えることはなかったかもしれない、と記している。オウムに過剰な期待を抱いてしまった先生は、温室での体質から見た虚像に躍らされたのかもしれない。

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