月曜日, 7月 16, 2007



7月16日、今日は神田の学士会館で、学生を主体とする日本保守主義研究会の講演会が開催される、という通知を受けていた。参加費は無料、講師の方々は、加瀬英明先生始め、まだ存じ上げない方々が数名おられるので、多様な話しが聞けると思い、一月以上前から参加を申し込んであった。台風の影響も心配されたが、直前に関東地方の直撃は避けられ、少々蒸し暑いが一日中曇りのまずまずの天気となった。

バイクのキャブ不調も、キャブの水抜きで回復したように思えるので、確認をかねてテストランもしたかったし、出がけに迷っていると気持ちの悪い揺れがかなり長く続く地震がきた。昨年も、南極観測船宗谷についての講演演目があったとき、申し込みをしておきながら、キャンセルしたことがあったが、あとで、記録を読んだら、出るべきだったと思う内容だった、ので迷いを捨てて、遅れているだろう電車を乗り継いで行くことにした。まだ、速報段階で、被害の様子はあまり解らないが、刈羽村といえば、たしか原発のあるところ、大丈夫かと思ったら、やはり出がけに火災の連絡が入ってきていた。



南極観測船宗谷については、自衛隊の所轄だとは知っていたが、もともとロシア発注の砕氷船で、他の二隻とともに、行き詰まった缶詰め会社が、会社再建のために挑戦した新造船会社の受注初仕事の船だった、という意外な事実からスタートしたようだった。初仕事なので、完成が遅れに遅れて、クレームがつき、かなりの違約金を払ったり、売り場所がなくなっていき、海軍軍籍としてもらい、戦争中運良く生き長らえた「幸運な」船だったそうだ。船底が浅いため、魚雷は皆船底をかすめて行ってしまい、一発も当たらず、空襲でも運良く沈まずで、戦後本格的に南極観測船として、活躍したのは国民がみな御存知というところ。

かくいう私も、小学生の頃、砕氷能力を超える氷の海に閉じこめられた宗谷が、ソ連(当時)の砕氷船オビ号の援助で脱出したなどということは懐かしい思い出として残っている。

久しぶりにお茶の水駅頭から駿河台あたりを通ってゆっくり歩きながら、昔の学生時代の思い出を反芻しながら、学士会館へ。お茶の水は、むかし、浅野セメントの創業者、浅野総一郎が、故郷の商売で失敗後、夜逃げ同然で東京へ出てきて、この周辺で、清水に砂糖を混ぜ、桶に入れて「水、冷やっこいよ」と言って売り歩き、儲けを出して行った、創業の地だそうだ。学生時代から、そんな明治時代からの歴史観で世の中を見つめて来たのだったなという思いに気がついた。

宣教師の息子として軽井沢で生まれたと言う、共産主義者のハーバート・ノーマンに、日本の歴史は戦前は真っ暗な暗黒時代だと刷り込んだのが羽仁五郎だった、という指摘が鳥居氏の著作に散見されたが、もともと万葉の時代から続く日本の歴史からみれば、そうした偏った主張は永続性がないと思っているし、共産主義に憧れたり、学生運動にのめり込む土壌は最初から無かった。神田の街を歩くと、それぞれの時代の学生達の思いを考えたりして、人の一生の短さを改めて考えたりする。

夏目漱石の世界や国木田独歩など、明治人の書かれた作品を、小学生4年ごろから読み出していたので、その当時の視点で世の中を理解し始めてしまったせいもあるだろうが、戦前と言うとまず明治、というセンスなのであの希望と活気にあふれた(ように感じる)時代が、いろいろ問題があるにせよ、なぜあえて暗黒といわねばならないのか、皆目見当がつかない。


私が岩波と接点を持ったのは、この神田の街角で、戦前は規制されていたという「大いなる幻影」を見たときと、アラビア語のテキストを買ったこと、あと、生物学辞典くらいかな。あとは適当に岩波文庫は読んだが、二十歳すぎれば、昔陸軍、いまは岩波みたいな言われ方をしていて、一歩遠ざかって観察する対象領域に入っていた。紫禁城の黄昏という満州国皇帝の家庭教師だった英国人が書いた本の翻訳も、岩波からでているものは、意図的誤訳がかなりあると、渡部教授は指摘している。最近、全訳が出たが、ちとお高いので購入は躊躇しているが。




前回、この映画の紹介をちょこっとしたときは、このパンフレットは見つからなかったが、最近ひょっこり出てきた。この映画は数回見て、最後は家内とも行った。今では、DVDが数百円でコンビニで買える。戦争は、今度の第一次大戦でおわる、というフランス士官に対して、ユダヤ人のローゼンタールは、それは幻影だよというところがこのタイトルの由来であろうが、それは私の好みと一致している。何も、副島氏に教えられなくても、何時何が起きるか解らない時代になってきたという認識は基本的に昔からある。

この頃、日航のパイロット氏が、東西ドイツ統一のシナリオを小説仕立てで発表したが、いずれ統一するだろうが、そのようなシナリオでは起きまいと思い、買わなかった。それにしても、ゴルバチョフがギリシア正教でがなく、キリスト教徒で、就任後まっさきにバチカンを訪問し、時間オーバーの面会で何を話しあったのだろう?ソ連が崩壊するということは、ポルトガルの田舎ファチマで、幼い羊飼いの子供3人の前に聖母マリアが現れ(幻視!?)ソ連が崩壊する年代まで、ほぼ正しく告知したというが、皆その事実を知ってそのように行動したのだろうか?それは、第一次世界大戦のまっただ中のことだったのだが。しかも、ポーランド出身(カトリックが大半)の法皇時に起きたのだが、ソリダルノスチ(連帯)を支えたのは、ヴァチカンからの資金援助ではなかったのか?



フランスのレキスプレス誌編集長(当時)をしていたフランソワーズ・ジルー女史がこの映画の制作にかかわった経緯なども含めて、御自分の青春史をインタビュー形式で発表し、どういうわけか、産経新聞の山口女史の(サイマル出版会)翻訳も出た。それで、当時はアシミルのテープでフランス語を習っていたので、歴史と語学と一石二鳥と思って買った。出だしから、最初は歯がたたなかったが、かなり勉強になった。専門だけの記事なら、辞書頼りで何とかなると思っていたが、文化も、歴史もちがう場面では、こういう言い方では、こうなるわけ!?という対応が翻訳のおかげで少しづつ解ってきた。

コンコルド機が羽田にもデモ飛行をしてきた時代である。戦前からのミッテランなどの話しも参考になる、
映画のロケなどの話しも、映画を見ていたので、実感をもって聞くことができた。

欧米でいう共産党は、日本共産党とかなりちがうというのもこの本で学んだ。ノヴァではないが、この本で、書斎留学体験をしたのかもいれない。

「私が絶対に住みたくないのは、市民戦争の世の中です。たとえ潜在的な市民戦争だとしても、密告、死刑、満員の収容所、政府のドクトリンの中で培われる憎悪・・・・・・・。私の愛してやまない進歩や適応能力も、その前でおしまい。ローザ・ルクセンブルグの破廉恥さ。私は、自由とは、別な考えを持てる状態でなかればならない、と思っている。そういう自由こそ、私が支持するものだ。ミッテランも間違いなく、私と同じ考えだ。」

1980年の12月19日に購入している。原著が1976年8月16日の日付がついている。パリのストック社から出て、紀伊国屋書店にたしか平積みされていたのを買った。



「15歳になる頃、いつもよりずっと暗いある日、すべては夢でしかないことを悟りました。母がますます無一文になっていくからには、私にはたった一つのこと、働くことーーーしかのこされていないことがわかったのです。自活、しはらうかわりに稼ぐこと、そしてすぐに実行すること、これが私の少女時代です。」

「私は、父とは一度も会うことは無かったが、父に対する愛情は強烈でした。家ではフランスに身も心も捧げた英雄扱いだった。彼のふるまいは、すぐれた血筋を引いたものとして当然のふるまいだったのに・・・・・。『すぐれた血筋を引いたもの』とはコルネイユの詩句です。

私が4,5歳の頃、母はよくコルネイユの詩句を繰り返し引用したものです。『すぐれた血筋を引くものの価値は、歳月を待たず・・・・・』おかしな躾け・・・・・。ペギーの詩句の引用もあった。『幸いなるかな、実り豊かな穂、刈り取られた麦よ、幸いなるかな、正義の戦争で死んだものよ・・・・・』」

「私がどこにいようが、旧来の敵である独断や聖職者至上主義(クレリカリスム)や、自分たちの夢のために、犯しがたい現実を修正しようとする人々のシメール(伝説獣。獅子の頭、山羊の身、竜の尾)を相手にたたかい続けるでしょう。」

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