月曜日, 7月 16, 2007
http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/
「思い出の軍歌」の中に「明治大正の軍歌」という項目もある。
最初から、空の神兵から曲が始まり、インパクトが大きいし、やはり先の大戦への関心がたかいので、
つい「昭和の軍歌」に飛んでしまう。
しかし、あらためて、子供の頃の記憶をたどると、田舎だったせいか、日清、日露戦争の当時の写真も
かなり身近にあったように心の片隅に残っているような記憶がある。ひいおじいさんは、金鵄勲章をもらい、片足を失った帰還兵だと聞いたことがる。その下付金で、戦国時代から続いた家を改造したとの、うろ覚えの話しも・・・。
ところで、このサイトは、一時閉鎖されていましたが、また復活しました。ここで使われる曲が、ウィンではできないのですが、マックでは簡単にコピーできるので、その対策をするため一時閉鎖されたのではないかと思います。
しかし、最近のマックでは通常はできないのですが、QuickTimeをプロ版にするとHDにダウンロードできるようです。私は、以前の曲をダウンロードし、iTunesなどで聴いている。
それで、日清戦争のころと思われる「婦人従軍歌」というのを聞いて、古い大和調をベースに、文明開化した頃の明治の頃の雰囲気が伝わる曲だと思って、時々襟を正して聞いている。
従軍というからには、軍隊の階級に相当する兵の位がちゃんとあった、という。でないと、軍隊はうごけないのだそうだ。日下公人氏の「日本軍の教訓」では、婦長さんは将校待遇、その他の看護師さんは下士官待遇ということだった、という。直りましたから、また戦線にもどります、などと思っても、上官の許可がなければ勝手な判断は、できなかったということになる。一等兵や二等兵たちは、看護婦(当時)さんが、軍曹だと聞いて、皆驚いたとある。
慰問の芸能人たちにも、下士官待遇という軍隊の基準をあてはめておかないとちゃんと組織としてきのうしないのだという。だから、いまはやりの「従軍」慰安婦という言葉は、おかしいのであって、戦後の虚構なのである。宮沢元首相の御遺族が、叙勲を辞退されたという報道があったが、体を張って議論しない、というお公家さん体質が、近隣からの外交問題の突き上げで、屈してしまった、という世評への配慮も働いたのではないか、と正直思っている。
http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/meiji.html
『日清戦争当時、作詞者加藤義清は出征する友人を見送りに新橋駅に行ったところ、同じ列車で赤十字の看護婦たちが凛々しく戦地へ出発していくのを目の当たりにし、感動してこの詞を作り、奥好義に作曲を依頼してこの曲がうまれました。とかく男子の武勇伝が歌われる事の多い軍歌の中で、それも婦人の地位の低かった明治時代に、このような婦人の働きをたたえる歌ができた事は興味深い事です。』となっているが、社会的地位は低かろうと、東アジアでは財布のヒモはだいたい奥さんが昔から握っている。実権は武士階級の一部ならともかく、大方の家庭では、奥さんの方が神代の昔から上なのかもしれないと思っている。
とある知り合いで、珍しく御主人が財布を握っているという噂の家庭があり、お子さんが三人いるが、だいぶ前から、御主人の下着だけは奥さんが洗濯しなくなった、とこぼしていた。下手なアドバイスはできないのだが、日本的原理に反した結果なのではないかと、今まで秘かに思っていた。
「婦人従軍歌」
加藤義清作詞 奥 好義作曲
火筒の響き遠ざかる 後には虫も声たてず
吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色
わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
たおれし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり
やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷い行く
天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人
真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
まくや包帯白妙の 衣の袖はあけにそみ
味方の兵の上のみか 言も通わぬあだまでも
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字
あないさましや文明の 母という名を負いもちて
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿